明治41年 栃木市に彫刻家田中爾吉(号稲村)の六人兄弟の長男として生まれる 本名孝
大正元年 東京都麹町に移る
大正10年 芝中学校に入学 南画の制作・研究を行う
大正12年 関東大震災で家を焼き 一時南画か小室翠雲の家に身をよせる。
大正15年 東京美術学校に入学 同期には 東山魁夷・橋本明治・加藤栄三らがいた 6月同校を退学
昭和 6年 「蕗の薹とメダカの図」で将来の進むべき画風を示すが賛同が得られなかった。
昭和13年 千葉市千葉寺に姉・妹・祖母とともに移る この頃から花弁 花鳥 風景などの作品が多くなる
昭和22年 青龍展に「白い花」を出品し入選する 画号を米邨から一村に変更する
昭和23年 青龍展に「秋晴れ」と「波」の二点を出品 「秋晴れ」が落選したことに納得出来ず「波」の入選を辞退する
昭和28年 襖絵「花と軍鶏」を描く
昭和33年 奄美大島行きを決意する資金準備のため家を売る
昭和35年 千葉の知人の依頼による襖絵作成の為一時千葉に帰る
昭和36年 奄美に戻る 名瀬市有屋の一戸建ての借家に移り住む
昭和37年 紬工場で染色工として働き始める 「五年働いて三年描き二年働いて個展の費用をつくり、
千葉で個展を開く」という画業十年計画をたてる。
昭和40年 姉喜美子危篤の報が入り千葉に帰る。
昭和42年 五年働いた紬工場を辞め 絵画制作に専念する
以降三年間に奄美時代の主要な傑作作品が作成されたと思われる。
昭和45年 再び、紬工場で働き始める
昭和47年 工場を辞め再び絵に専念するが腰痛・めまいなど体調を崩す
昭和51年 畑仕事中に軽い脳溢血で倒れ入院 千葉の肉親に奄美での作品を託す
昭和52年 宮崎鉄太郎氏 ホテルのロビーでの個展を提案
食事の準備中に心不全で倒れ69歳の生涯を終える。
短冊 絹本 32万
「独楽園図」 共箱 紙本
40,5×151p 120万
「野菜図」
色紙 27×24p 額装
大正15年 38万
梅 図
田中一村
「玉 蘭」帯どめにサイン有り 21歳作
34×141p 紙本 98万
「天下第一春」
21×18p 金地小色紙 額装
大正8年 売約済み