窓が震えている。トイレのドアにはめ込まれた、曇りガラスの窓だ。さして大きくはない。一辺は三十センチくらいだろうか。
その窓ガラスが、正確に三拍子のリズムを刻んでいる。静まりかえった校舎の廊下に、ガラス板が木枠とぶつかって生じる耳障りな音が響いている。
廊下は薄暗い。昼までまだ二時間ばかり余裕がある。電灯は天井で惰眠を貪っている。教室側の壁には、鉤に引っかけられた子どもたちのコートや手提げ袋が、ずらりと並んでいる。のしかかる薄闇と沈黙が、リノリウムの床を不気味に光らせている。
窓が震えている。三拍子のリズムで、あたかもトイレの中で誰かがワルツを踊っているかのように。ズンチャッチャ、ズンチャッチャ、全てはシャンパンの悪戯でございます!
曇りガラスの奥は見えない。朝の光がトイレの中に差し込んでいるのが、ぼんやりと感じられるだけだ。その光は黒い。コウモリの翼膜を透かして見る光のように。あるいは、沼地の瘴気に汚された光のように。
窓が震えている。三拍子のリズムを刻んでいる。窓の奥には、黒い光で満たされた空間が広がっている。その闇の中で、何ものかが忌まわしい拍動を続けている。正確な三拍子で。
廊下は静まり返っている。電灯は消え、床はぬめぬめと光っている。無人の世界がそこにある。動く者なく、しゃべる者なく、笑う者なく、歌う者なく、息する者なく。
いや、一人いる。
少女が。
窓の前に、赤い服を着て、赤い靴を履いた女の子が立っている。
少女の髪は黒い。それは、太陽を隠された世界を覆う黒だ。そうでなければ、新月の夜の黒、もしくは墓土の下に蠢く闇の黒といってもいい。
少女の腕はだらりと下に垂れている。短く詰まった爪は薄紫色をし、服の袖から覗く肌には黒い斑点が浮いている。
垂れた腕の先、死んだ魚のような色の爪から、ぽたぽたと何かが床に滴っている。よく見れば、少女の全身が濡れている。濡らしているものは水ではない。血ではない。液体ではない。しかし確かに少女の全身は何かに濡れている。それは少女の内側から染み出し、黒い髪と赤い服に浸透して、ゆっくりと冷たいリノリウムの床へ流れ出している。
少女の足もとには闇が、影というには少々大きすぎる闇が、張りつめた沈黙を守ってわだかまっている。
廊下の薄暗さは増してゆく。窓から差し込む光は、ますます弱々しくなっていく。
少女の身体から暗いものがぽたぽたと滴る。そしてその少女の前で、トイレの窓は震え続ける。滴るリズムと震えるリズムは一致している。三拍子。それも正確な。
少女から滲み出した闇が、廊下をすっぽりと覆ってゆく。そこにはもはや日は差さず、生き物の気配もない。沈黙だけが空間を満たしている。黒く染められた静寂だけが。
少女は立ちつくしている。
その肩に手が伸びる。
少女は窓を凝視している。その背後から手が伸びる。
窓は震え続けている。
白い掌が少女の赤い肩をつかんだ。
窓の振動がぴたりと止まる。
少女は虚を突かれて振り返る。
チャイムが鳴っている。それは晩鐘の響きに似ている。
教室の扉が次々に開き、たくさんの声が廊下へ溢れ出てくる。沈黙は破られ、闇は退く。光が廊下を満たしてゆく。
少女は肩をつかむ掌に、前髪の間から鋭い視線を走らせる。切りそろえられた爪、血管の浮いた白くしなやかな指、華奢な手の甲。清潔で柔らかなブラウスの袖口。
少女の視線の強さに臆したように、掌は少女の肩を放した。
少女は手の主を見上げる。厚い前髪がばらけ、真っ黒な瞳があらわになる。
村田先生は少々どきりとして、目の前の生徒の顔を見下ろした。
きれいな目だわ、と息を呑む。血色のいい薔薇色の頬の上で、二つの目が星のように輝いている。
でも、と村田先生は考える。
立ちつくす先生と生徒の周囲を、喧騒の波が流れていく。二時間目の休み時間を光の降り注ぐ校庭で過ごすため、子どもたちが素晴らしい勢いで昇降口に殺到してゆく。
でも、と村田先生は一生懸命考える。
彼女の右手は、少女の肩口からやや浮いた位置に凍りついている。唇は微笑を刻もうとするものの、何か冷たいものにさえぎられて、うまくいかない。
でもこの子、どの学年の子どもだったかしら。
自分のクラスでないことは確かだ。受け持ちの三十二人の子どもの顔は、全て頭の中に叩き込んである。様々なラベルをはって。例えば、浅木洋輔なら口の減らない黒ウサギ、滝川麻奈なら小学三年生版スターリンといった風に。通信簿に書くわけにはいかないが、個性を把握するには大いに役立つ。そのお陰で、村田先生は教員になってからの四年間で担任したクラスの子ども全員の顔と名前を、今でも覚えている。
この子は私のクラスにはいない。かといって、同じ学年に二つある他のクラスのどこでも見かけた記憶はない。
この階には他に四年生の教室がある。ということは、この子も四年生かしら。
何か言葉をかけなければ。村田先生は焦った。
子どもたちの波は廊下を去った。二人だけが取り残されている。
言葉もなく。
真っ黒な瞳が二つ、村田先生を見上げている。
少女の服は赤い。ほとんど真っ赤だ。
真っ黒と真っ赤。その取り合わせは何となく不吉な感じがした。
村田先生は口を開いた。そして何か言う代わりに、ごくりと唾を飲み込んだ。
次の時間は何だったっけ、と村田先生は考える。そろそろ準備にかからなくちゃ。
その準備というのは、業者が作ったプリントを包みから取り出すだけのものだったが、今はこの場を離れたくてたまらなかった。
じゃあ、先生は職員室に戻るからね。
村田先生はそう言おうとした。しかし声は出なかった。
戻るだって。疑問がちらりと頭をよぎった。職員室に行く、じゃなくて、職員室に戻る。私の担任は三年一組であって、職員室じゃないのに。どうしてこんな言葉を使う気になったんだろう。私の居場所は教室なのだ、生徒の居場所が教室であるように。以前から戻ると言っていたのだろうか、教師になってからずっと。
トイレの前の流しに、蛇口から一滴の水が滴る音が聞こえた。
ぎくりとして村田先生はそちらを見た。
たった一滴の水音が、まるでドラムを引っぱたいたように聞こえたのだ。
村田先生は、そこで初めて廊下が静まり返っていることに気づいた。
ただ静かなのではない。この静寂には何かがある。何か、恐ろしくなるようなものが。
あの蛇口のところまで行きたい。村田先生はそう思った。よく締まっていなかったのね、とか何とか、意味のない台詞を呟きながら、流しの前まで歩いていきたい。
そうすれば、この女の子の前から離れられる。
解放までの道程はたった数歩の距離だ。一歩を踏み出すことができれば、流しまでの数歩なんてあっという間だろう。職員室までだって、それどころかシカゴまでだって歩いていけるだろう。
もう女の子にかける言葉なんてどうでもよかった。いや、どうでもいいなんてものじゃない。私はこの子に言葉をかけたくないのだ。
オーケー、認めよう。村田先生の脳裏で、手術着をつけたエリク・ラ・サルが言った。正確には、大塚明夫が吹き替えた声なのだが。
あんたは怖いんだ。
村田先生は反論しなかった。勇気を振り絞って、一歩を踏み出そうとした。
女の子が左腕を上げた。
村田先生の心臓が跳ね上がった。彼女が愛してやまないピーター・ベントンなら言ったかもしれない。専門医にこいつを見せた方がいい、完全に震え上がってる。
「何?何なの?」
村田先生はかすれた声を絞り出した。
少女は相変わらず村田先生の顔を見上げている。何てこと、この子はまばたきしていない、村田先生は心の中で叫んだ。この子はまばたきしていない。神様、生きているものにそんなことが可能なのですか。
先生の脳内評議会がこの深遠なる問題について下した決定は、簡潔かつ合理的なものだった。いわく、これ以上取り乱したくなければ、目の前の女の子について考えるのはもう止めること。ダンダン、本日の会議はこれにて閉会!
村田先生は必死の思いで少女の目から視線をそらした。
少女の左腕が視界に入る。それは水平に持ち上げられて、ある方向を差している。
村田先生はそちらを見る。見なければいいのにと思いつつ、見る。
少女の腕の先にトイレのドアがある。
曇りガラスを透かして、午前中の淡い陽射しがトイレの中に差し込んでいるのが見える。
村田先生はどこかほっとして、少女の顔に視線を戻す。
少女のつぶらな黒い瞳が、大きくまばたきをしてその視線を受け止める。
トイレ。
自分のひどいかすれ声に、村田先生は苦笑する。どうしてこんなに怯えていたのかしら。ただの可愛い女の子じゃないの。ほら、その、まばたきだってちゃんとしてるし。
「トイレに行きたかったのね」
村田先生は微笑む。微笑むことに何の抵抗も感じない。ちょっと前、馬鹿みたいにびくついていた自分に対する笑みも、その微笑の中には含まれている。
この笑顔にはね、と声には出さずに言う。学生の時からそれなりの値段がついたのよ。もちろん、子ども向けの笑顔とは違って、ちょっとした努力もする必要があったけれど。費用対効果を考えればそんな努力は安いもの。あなたも少し笑顔の練習をするといいのかも。
黙ったままの少女の前を通って、村田先生はトイレのドアのところまで歩いた。
そして、曇りガラスをはめ込んだドアの取っ手に手をかける。
少女が何か言った。
村田先生は取っ手に手を当てて振り返る。
「え?」
ドアを押す。
少女が何か言っている。
ドアがトイレの中へ滑っていく。
村田先生は少女の方を見ている。
でも先生の目には少女の姿はもうあまりよく見えない。薄い霧のようなものが、急速に廊下を覆いつつあるのだ。薄暗く、どこか死肉の臭気の漂う霧が。
「何か言った、ねえ」
村田先生はトイレのドアが震えているのを感じる。
地震かしら、でも地震ってこんな風に揺れたっけ。ズンチャッチャ、ズンチャッチャ、これ、三拍子でしょ。
村田先生は首を廊下の方へ曲げたまま、少女の姿を探そうと努める。廊下は薄暗く、静まり返っている。少女の姿はどこにも見えない。そればかりか、幅二メートルほどの空間を隔ててトイレと向かいあっているはずの、教室の扉さえ全く見えない。
不可解に思いながら、先生の足は自然にトイレの中に踏み込んでいる。首は廊下を向いたままだ。
「入り口なの」
少女の声はトイレの中から飛んできた。
弾かれたように村田先生の頭がトイレ内部に向き直る。
そしてその手からドアの取っ手が離れる。ドアはあっという間に閉まっていく。
村田先生は赤いものに直面する。
少女の声。
入り口なの。
ドアが音を立てて閉まる。
もはや廊下には物音一つない。霧のような薄闇が、もうもうと立ち込めているばかりだ。それと、耐えがたい死臭が。
蛇口から水が一滴こぼれ落ちる。ぽたん、というその音。
ドアが閉まる寸前、壁とドアの隙間からのぞいたのは、赤い唇。
にたりと微笑む、赤い唇。