廃  校

八猛馬

1

 立ち昇る陽炎の向こう側、厳重にフェンスで囲まれた廃校脇を通るひび割れた舗装路は、蛇のように山腹を這って木々の中へ消えていた。

 八月としても異例の熱気だった。日本の東海上からせり出した高気圧はなれなれしく関東上空に覆い被さり、しばらくは梃子でも動かない構えだった。

 作業員を満載したバンが廃校前で停車すると一斉に男たちが外に降り立った。

 こんなことなら海へ行くべきだったな。

 最後尾で降車する時、脳天気な力強さで湧き上がる入道雲と、お節介に照りつける太陽を見上げて、的場豊は顔をしかめた。

 大学三年の夏季休暇を江ノ島で過ごしているはずの友人たちの姿が目に浮かんだ。

 だが海へ行かずに夏季休暇を群馬の山奥でのアルバイトに費やすと決めたのは豊自身だったし、今更その決定を嘆いても意味がなかった。それにこのアルバイトを順調にこなせば日給一万円を二十日分手にすることができるはずだった。二十万円というのは学生にとっては決して少ない額ではない。特に豊にとってそれは絶対に必要な金だった。

 大学二年から付き合い始めた真智の妊娠がわかったのが夏休みの直前だった。

 子どもを堕ろそうという話も出た。

 妊娠がわかった時には豊は慌てたし、真智は怯えてさえいた。

 二人で住んでいる2Kのマンションの部屋で、真智は心持ち蒼ざめた顔で言った。

 怖いの。自分が女であることもまだよく理解できていないのに、母親になることなんてできそうにない。

 豊には言葉もなかった。

 ねえ、堕ろそうと言ったら豊は怒る?

 いや、仕方ないよ。

 この時、真智が一体どういう答えを求めていたのか、どう答えればよかったのか、豊には全くわからなかった。豊がしたことといえば、うなずくことだけだった。

 第一、学生の身分には子どもは重過ぎる荷物のように思えた。豊と真智の二人の話し合いでは子どもを堕胎しようという結論に決まった。その費用は豊の塾講師のアルバイトと貯金でどうにかまかなえるはずだった。

 けれどそうはならなかった。二人の話し合いの後、真智は実家の両親に事情を打ち明けた。豊は前期最後のテスト期間に真智の実家がある広島まで呼び出された。そして子どもを産んで育てるように、その責任を取るようにと言い渡された。

 真智を責めるつもりは豊にはなかった。避妊には十分注意していたはずだったが、結局それがいい加減な程度に過ぎなかったということを結果が証明していた。真智の妊娠は豊の不注意が招いたことだった。

 就職が決まったら大学卒業と同時に真智に結婚を申し込むつもりだった。それは、彼女の両親に命令されたからではなかった。子どもができた責任を取るためでさえなかった。ただ真智を愛していたからだった。

 真智の父親は親切にも出産費用と豊がフルタイムで稼げるようになるまでの生活費を援助しようと申し出た。申し出た、というのは正確な表現ではない。それは強制であり、選択肢の中に拒絶の二文字はなかった。

 それでも豊は一点だけは譲らなかった。健診費を合わせた出産費用だけは自分が出すと主張した。もちろん生活費を稼ぐ力はないから、最終的には真智の両親の援助に頼るしかないのだが、最低でも子どもの誕生に必要な金だけは自分で用意したかった。そうでもしなければ、真智と生まれてくる子どもに申し訳が立たないように思えたのだ。

 ひと夏をここで頑張れば必要な金額の半分近くには達する計算だった。後は授業後のアルバイトと貯金でどうにかなる。

 豊がバンから降りると、校門の前で先に到着していたトラックの男たちが作業の準備に取りかかっていた。

「おい、学生さん!」

 野太い声が豊を呼んだ。

 豊がそちらを向くと、現場主任の伊藤が細い目で彼を睨みつけていた。

「お宅はいつになったら仕事にかかるつもりなんだ?」

 豊は言葉を返さずにトラックの荷台から道具を下ろす男たちの列に加わった。伊藤の視線がしつこく食い下がってくるのを感じたが、努めて無視した。

 長野との県境にほど近い群馬県喜多野庄町安威鞍にあるこの廃校が作業現場だった。

 荷台に立った中年の男に半ば投げるように渡された重い袋を校門の前まで運びながら、豊は錆びついたフェンスの向こう側にそびえる校舎に目をやった。

 一体何時代に建てられたのかというくらい古い建物だった。瓦葺きの屋根の二階建て木造校舎だ。中央に昇降口とおぼしき扉があり、そこから左右対称に建物の両翼が伸びている。窓という窓が木の板で塞がれ、昇降口にも鉄の蓋が被せられているのが見る者にどこか不気味な印象を与えていた。

 あまり近寄りたい種類の建物じゃないなと豊は思った。一面に草が生い茂るだだっ広い校庭を間に挟んでいても、ちょっと勘弁してほしくなるようなたたずまいだ。

 だがもちろんそんな甘ったれた感想は馬鹿げていた。これから校庭の中にありったけの機材を運び込み、あの校舎の補修作業をしなければならないのだ。

 近寄りたくないだって。いつまで餓鬼のつもりなんだ。

 合計二十人の男たちがこの作業に当たることになっていた。その内のほとんどが日雇いの作業員で、豊のような学生や若いフリーターの姿は他にはなかった。作業員たちの年齢は三十代の後半から四十代の前半に集中している。主任の伊藤だけが三十歳で、補修工事の発注を請けた建設会社の正社員だった。

 もし二十日の作業期間に問題があるとすればそれはあの主任だろうなと豊は思う。どこか昔の西部劇に出てくるジョン・ウェインを連想させる伊藤主任。ポストモダンの資本主義社会にのし上がろうとする体育会系ジョン・ウェイン。ジョン・ウェインよりはずっと背が低いし見てくれももっさりしているが腕っ節は互角以上だろう。信念は、意欲、努力、根性、大声。おおいに結構。現代の日本社会では非常に歓迎される要素ばかりだ。それこそ元気茶屋から倒産寸前の企業まで。やる気と残業と我慢とやかましい挨拶で不況は克服できる。それは理論ではなくもはや宗教として信仰されている。過労死と脳天気で構成されるポストモダンの崇高な歴史!

 背後で伊藤が作業員の内の誰かを怒鳴りつけるのが聞こえた。

 やれやれ、あれがここの隊長か。

 足場を組むための部品を運びながら、豊は内心溜息をついた。こっちのジョン・ウェインは本物ほど鷹揚じゃないし貫禄もない。

 頭上では相変わらず太陽が照りつけている。雲の影もその苛烈さを和らげる役を果たしていない。

 豊は額から流れる汗を腕で拭った。作業着は支給されていたが、どうせ経験のない学生の仕事など使い走り程度だろうからと、豊はブルーのパイプドステムのジーンズに白いTシャツという普段着のままだった。ベテランの作業員の中にもつなぎを着ていない者がちらほら見受けられた。

「大丈夫かい、学生さん」

 呼ばれてそちらを向くと、四十がらみの大男と視線が合った。

「こいつはちょっとタフだ。そうじゃないか」

 大男の口調に揶揄する調子がなかったので、豊はほっとしてうなずいた。

「なかなかね」

「天気もそうだが、あいつもかなりのもんだ」

 大男は顎をしゃくって校舎を指した。

「あいつはタフだ。信じられないほどタフだ。そんな感じがするんだ。どう思うよ、学生さん」

「俺には豊って名前があります。学生さんは勘弁してください」

 言った豊を大男はしばらく面白いものでも見るような視線で眺めた。それから微妙に口の端を曲げた。微笑みのつもりらしかった。

「いや、悪かった。伊藤の奴がそう呼んでたんでね。俺だって初日から初対面の奴ら全員の名前を覚えてるわけじゃないからな。気を悪くしないでくれ、豊」

「いえ、こちらもいきなり生意気なことを言いました。すみません」

「はっきりものを言う奴は好きだ。言い方によるがね。俺の名前は国虎だ。よろしくな」

 国虎という奇妙な名を名乗った大男は角刈りの頭を掻いた。

 豊は国虎に好感を持った。まあまあ上手くやっていけそうだった。

「俺の感想ですが、あそこで勉強したいと思える校舎ではないですね」

 豊の言葉に国虎はうなずいた。

「そして補修工事を喜んでやりたいとも思えないな。気色の悪い建物だぜ、あれは」

「ここで二十日間きっちり働かなければならないと思うといい気持ちはしないですね」

「確かにな。それに加えてあの現場監督とくればなおさらだ」

 国虎は積み上げた機材を確認するふりをしながら背後の伊藤を指した。その仕草がおどけていたので豊はにやりと笑った。面白いおっさんだった。かなり上手くやっていけそうだ。

 国虎が彼自身の仕事に取りかかったので、豊は汗を拭いながらトラックまで一人で戻った。国虎の仕事は様々な計測機器や重機の操作と管理のようだった。見かけによらず繊細な技術を持ったおっさんだった。

「日が暮れるぞ。いつまでちんたらやってんだよ」

 現場監督の辛辣な声に、思わず豊はそちらを見たが、伊藤が矛先を向けているのは別の作業員だった。

 なあ、それならあんたも手伝ったらどうだい。

 よっぽどそう言ってやろうかと思ったが、言ったところでどうなるものでもなかった。豊は黙って荷台から受け渡された金属板を担いだ。

 少なくとも過去最高の夏休みにはなりそうもなかった。ウーピー・ゴールドバーグがメモを読み上げる。ダダダ、第八九二回アカデミー最優秀夏休み賞は、伊藤主任と過ごした夏休みに決定しました。おめでとう。

 それにしても、と豊は思った。これはどういう工事なんだろう。

 豊が担いでいる金属板はかなり分厚い頑丈な物だ。一体これが旧時代の木造校舎のどこに必要な部品なのか全く想像もつかない。トラックの荷台にはこれと同じか、あるいはもと大きな金属板がまだ十数枚は載っている。こんな物を使って何を補修しようというのだろう。大体、こんな廃校を補修する必要があるのだろうか。

 豊の目からすれば、校舎はただ古いだけで何の価値もないように見える。どことなく漂ってくる不気味さという点ではずば抜けているが。

 群馬県の人っ子一人いないような山奥の工事が東京の建築会社に発注されたというのも奇妙な話だった。あるいは地元の企業はどこも請けようとしなかったのかもしれない。発注元の自治体の評判が群馬県内では芳しくないのかもしれない。伊藤の所属している会社は不況下でも業績を伸ばしている稀有な中堅企業であり、例え悪評のある仕事でもえり好みをせずに飛びついたのかもしれない。

 だが本当にそうだろうか。

 豊は金属板をフェンスに立てかけ、もう一度校舎を眺めた。

 どう見ても価値のある建築物ではない。こんな建物の補修に二十人の作業員を使い、彼らに日給一万円か、作業内容によってはそれ以上を保証するだけの金を払う人間の気が知れなかった。どんなに会計のずさんな自治体でもさすがにここまでくると馬鹿げている。

 あるいは、誰にもわからない補助金決算のからくりのようなものがあるのかもしれない。年度末の道路工事のような。その工事をすることによってどこかの窓口から金が吐き出され、その金がまた別の窓口へ向けて回される。同じ金が違う金になり、もっと違う金になり、ずっと違う金になり、そしてまた同じ金に戻る。総体としては無意味だが、とにかくそれで社会は動くのだ。社会それ自体は目には見えない。だから社会を構成し動かしている金の流れも目には見えない。目には見えないというのに誰も社会の存在を疑わない。同様に金の流れをも疑わない。その点で社会と金は神に似ている。人類を啓蒙する神ではなく人間を雇用する神だ。

 そう考えれば無意味な場所での無価値な工事も何となく納得できるような気がする。豊は金属板から手を離してトラックの荷台に戻った。

 八月としても異例の熱気だ。

 数年後もここに存在しているかどうか疑わしいようなか細い舗装路から盛んに陽炎が立ち昇っている。

2

 異変が起きた。校舎の壁面の一部に足場を組み終わった時だった。屋根に登っていた数人の作業員が突然悲鳴を上げた。

 豊は手にしていた機材を思わず取り落とした。それくらい大きな悲鳴だった。次の瞬間には誰もが校舎に向かって駆け出していた。豊も走った。

 悲鳴は長く続かなかった。

 絶叫に近い短い叫びと、その後に続く静寂の異様な対照が、ただならぬことが起きたことを知らせているようだった。

「何が起きたんだ!」

 現場の作業に全責任を負う立場の伊藤が足場の下で怒鳴った。

 上からの返事はなかった。

「直接見た方が早い」

 誰かが言った。国虎だった。彼は長い手足を使ってさっさと足場を登っていくところだった。

 伊藤もその後に続いた。人里から車で一時間も離れたところにあるこの場所で、もし重い怪我人でも出れば事態は厄介になる。例え日雇いの作業員といえども、一人の人間の怪我には保証やら保険やら裁判やらがついて回る時代だ。一切が面倒な時代なのだ。その面倒をひょっとしたら一手に引き受けなければならないかもしれない伊藤が焦るのも無理はなかった。

 豊は伊藤の後ろについて足場を登った。高いところはあまり得意ではなかったが、好奇心が恐怖に勝った。

 多くの場合好奇心は恐怖に対して勝利をおさめる。板と金属管で組まれた軋む回廊を歩きながら、豊はぼんやりと考えた。B級のホラー映画で、ヒロインは行ってはいけない屋敷へ必ず出かけ、開けてはいけない扉を必ず開き、見てはいけない部屋を必ず覗く。全て好奇心のなせるわざだ。好奇心がそれをやらせるのだ。好奇心は恐怖を打ち負かす。朽ちかけた屋敷の十三番目の部屋の前で数百年分の錆が浮いているようなドアノブに手をかけ、ゆっくりそれを回す時、ヒロインの身体は恐怖に震えるが、その邪悪な雰囲気の漂う樫の扉の先に何があるのかを見たいという好奇心のために、ついに扉を押し開いてしまう。だがその扉の向こうにある恐怖が現実のものとなった時、好奇心はヒロインを助けてはくれない。それはどこかに行ったきり、二度と戻ってきてはくれない。

 足場が軋んだ。

 豊の後ろからも多くの作業員たちが足場を登っていた。国虎より先に駆けつけて登り始めていた者もいる。好奇心が彼らを引き寄せたのだ。

 だけどこれはジョージ・A・ロメロのホラー映画じゃない。ただの事故だ。ここには開かずの扉も、その奥にある暗い部屋もない。豊は揺れる足場を渡りながら思った。作業員が何かの原因で倒れた。日射病か、それとも熱射病か。あるいは手に釘を打ち込んだとか。そんなありふれた事故だろう。

 足場の階段を登って屋根に出た。

 だがそうではなかった。屋根の上には誰もいなかった。人っ子一人いなかったのだ。

 日射病もなし。熱射病もなし。手に釘を打ち込んだ作業員もなし。

 雪下ろしのために緩い傾斜がつけられた屋根のどこにも、悲鳴を上げたはずの人間の姿はなかった。夏の強い陽射しにじりじり焼かれている赤い瓦だけが、校舎の頭頂部を覆っていた。

「どこに行きやがった」

 伊藤が呟いた。

 全くだ、あんた本当に正しいよ。豊は腕で額の汗を拭った。ここは屋根の上だ。落ちたに決まってるだろう。

「落ちたのかもしれない。見てみよう」

 豊の思いを国虎が代弁した。捜索が始まった。

 すぐに真相は明らかになった。それはあまり歓迎したい類いのものではなかった。

 落ちたのは四人だった。といっても、屋根から校庭に向かって落ちたのではない。屋根から校舎内に向かって落ちたのだ。

 捜索が始まって間もなく、作業員たちが登ってきた足場のすぐ近くの屋根に人が一人やっと通り抜けられるほどの大きさの穴が開いているのがわかった。そこから中に四人が落ちたと考えるしかなかった。校舎の外側に落ちた形跡は全くなかったからだ。

「さて」

 穴のかたわらで国虎が言った。

「こいつはちょっとばっかり厄介だな」

「厄介だと。何が厄介なんだ」

 噛みつくように伊藤が言った。

 国虎は穴を顎でしゃくった。

「中に落ちたなら助けを求める声が聞こえてもいいはずです。だがさっきから聴いてるが何も聞こえない。校舎の中からは物音一つしない。だから厄介だと言ったんですよ」

「中で何が起こってると言いたいんだ」

「全員昏倒してるんでしょう。楽観すれば四人とも脳震盪程度ですんでいるかもしれない。だがその可能性は低いだろうな。外見からしかわからないが、屋根から二階の床までは結構な高さがあるようですから。二、三ヶ所の骨折や打撲くらいですんでいればいいですがね」

 伊藤は唸って額に手を当てた。それきり何も言わない。

「すぐに地元の消防に連絡した方がいい。四人を見つけてからでは間に合わないかもしれません」

 黙り込んだ伊藤に業を煮やした国虎が他の作業員に合図した。作業員は足場を降りるために走り出そうしたが、伊藤がその腕を掴んで押し止めた。

「待て。だめだ。少なくとも今はだめだ。大げさな騒ぎにしたくない」

 その伊藤へ国虎が一歩近寄った。

「救急を呼ばなければ。四人の命に関わるんです」

「まだそうと決まったわけじゃない」

 伊藤は頑なに言った。

 国虎は信じられないという表情を作った。

「わかってるのか。あんたは今、とてつもなく馬鹿げたことを言ってるんだぞ」

「どこが馬鹿げてるんだ。まず四人の間抜けを発見して様子を確認したい。それだけの話じゃないか。今から救急車を呼んだって到着まで一時間以上はかかる。一番近い病院まで運ぶには更にその倍だ。もし、それだけの手間をかけて四人が無事だったらどうなる。補修しなければならない建物の屋根を踏み抜く間抜けな作業員と、よく事情を確認もせずに騒ぎ立てた現場監督か。いいお笑い種だよ。こんな群馬の山奥にまでやってきて、わざわざ田舎の救急隊員に晩酌のつまみの笑い話を提供しようってのか」

 それにもちろんあんたの査定にも響くしな。

 豊は炎天下に汗を流して腕組みしながら腹の中に吐き捨てた。

 田舎の消防だけじゃない。本社でも笑い者になる。あんたみたいなタイプがボロを出すと喜ばれる。とても喜ばれる。いつも笑う側にいる人間が笑われる側に回るってのは、普段笑われている奴らにしてみれば痛快この上ない話だからな。上司以外は全員あんたをネタにして踊り始める。そうだろ。あんたはそれが怖いんだろう。

 だがそんなことを口に出すことはできなかった。できるはずもなかった。二十万をぱあにするわけにはいかなかった。それは、未来の家族と豊の意地がかかった金なのだ。

「話にならん。おい、行ってくれ」

 国虎は伊藤に腕をつかまれている作業員をうながした。

 三十代後半の作業員は鈍そうな顔に幾分打算の色を浮かべて、伊藤の顔と国虎のそれを交互に見比べた。

「そんなに電話したければお前が行ったらどうだ」

 伊藤が嫌味たっぷりに言った。

 国虎は黒い頬をむっと引きつらせて歩き出しかけた。

「その代わりわかってるんだろうな」

 伊藤はにやりと唇を歪めた。

 国虎は立ち止まって伊藤を見た。そう、勝負の行方は最初から明らかだった。

「俺をクビにするのか」

「クビですめばまだいいよな」

「どういう意味だ」

「こんな人里離れた山の奥だ、もともと四人だった怪我人が五人に増えるってこともあるかもしれんと思ってさ。しかもその事故のお陰で他の奴らには特別ボーナスが出たりする。世の中ってのは不思議なもんだよなあ」

「脅しかよ」

「脅しじゃないって。忠告だ、ただの忠告。わかる?」

 国虎は他の作業員たちに訴えるような視線を投げたが、誰もそれには答えなかった。当然の話だった。ひと夏ウン十万の儲け話がおじゃんになってはたまらない。全員がそれぞれの理由で切実に金を求めているのだ。豊にとってもそれは他人のために捨てられるような金ではない。そしてその金を出すも出さないも決定する権力は伊藤にしかないとなれば、答えは自ずと出てくる。

 甲羅の中に大人しく首を引っ込めていろってことだ。

 国虎の視線が自分に向けられた時、豊は肩をすくめた。

 仕方ないですよ国虎さん。

 だが国虎はなおも頑張った。

 作業員たちは彼の視線から逃れるように顔を背けた。伊藤さえもあえて視線を国虎に合わせようとはしなかった。

 それでも長い間国虎は粘った。

 多くの汗が流れ、沈黙が積み重ねられた。

 最後に国虎が折れたのは、脅迫に屈したというよりも太陽の暑さに参ったといった方が正しいように見えた。

「わかったよ。これ以上時間をかけても無駄だ。ただし四人を確認して異常があればすぐに消防に連絡する。誰にも邪魔はさせない。いいな」

「ふん、まあ好きにしろよ」

 伊藤の勝ち誇った口調の中には明白な安堵の響きがあった。

「よし、それじゃあ中に降りて四人のマヌケを確認することにしよう」

 伊藤は作業員に命じてロープと懐中電灯を持ってこさせた。

 昼を過ぎた太陽がゆっくりと中天から滑り落ちようとしていた。それでも暑さはいや増すばかりで、屋上に立ち尽くす人間たちをうんざりさせている。

 じっとりと四肢に絡みつくような陽気に、豊もいい加減苛立ち始めていた。伊藤に対する反感も、増す一方の暑さと募りくる苛立ちに比例するように高まってきた。

 作業員たちがロープを運び、懐中電灯を探してトラックの中を引っ掻き回している間、伊藤はのんびりと煙草をふかしていた。

 煙草を吸っているだけならそれでよかった。豊の怒りは冷酷な現場監督に対する義憤にとどまっていただろう。それは豊が無鉄砲な行動に出ないように、自分でどうにか抑制できる程度の怒りだったはずだ。

 だが伊藤の二本の指の間でマルボロが小刻みに震えるのを豊は見た。

 平静を装いながら、伊藤の内心が不安と焦りで満たされているのが豊にはわかった。

 怒りが沸点を越えた。

 伊藤は臆病者だった。

 ただ臆病であるだけではなかった。

 伊藤が国虎に向けて言った台詞が思い出された。脅しじゃないって。忠告だ、ただの忠告。わかる?

 わかるとも、あんたの薄汚い了見が。あんたの臆病ぶりが。

 臆病であること自体は罪ではない。けれどその臆病を虚勢で隠そうとする奴が豊は嫌いだった。そしてその虚勢を金と権力で作り上げている奴はもっと嫌いだった。

 例えば、そう、あいつだ。

 一瞬、伊藤の顔に真智の父親の尊大なそれが二重写しになり、豊は拳を握り締めた。

 真智の父親は言った。

 豊くん私は世の中の父親としては理解も我慢もある方だと思うよ。君が世の中の男としちゃ理性も忍耐も足りない部類に入ることを考えればね。だから悪いことは言わない金を取りなさいそれ以外に君が責任を取れる方法はないだろう。

 金か。

 真智の妊娠についての話し合いのために広島の真智の実家の洋室の大きなソファに座っていたあの時に感じた無力感と憤りが、再び襲ってきた。

 生きるためには余計な金なんかいらないと信じていた、大学入学当時の自分の無邪気さが思い出された。親からの仕送りの五万円と、塾の講師のアルバイトで稼ぎ出す八万円で毎月十分満足な生活ができた頃の話だ。

 大学には、今でも生きるために余計な金なんかいらないと信じている友人が結構いる。二十歳を過ぎて。いい気なものだと豊は思う。彼らは週に十時間程度のアルバイトしかせずに親からの盛大な仕送りで暮らしている。中には全く働いていないのに豊なんかよりずっと贅沢な部屋に住み、贅沢な物を食い、贅沢な服を着ている奴さえいる。彼らは金の使い方は知っているがその重要さを理解してはいない。金が足りないと口にはするが自分で稼ごうとはしない連中だ。

 金は必要なものなのだ。何よりもまず必要なものなのだ。とても切実に必要なものなのだ。ここでいう金とはもちろん、豊が毎月塾で出来の悪い中学生と高校生相手に英語と地歴公民を教えて稼ぎ出す九万円―――大学一年の頃より時給は増えている―――のことでもある。それは生活費なのだから、なくてはならない収入だ。だがそれだけではない。必要な金がそれだけということはない。絶対にない。

 金はあればあるほどあらねばならない。よくいわれるように、あればあるほどいい、というのではない。あらねばならないのだ。それは義務であり必然なのだ。人間は、機会があれば獲得できるだけの金を全て獲得しなければならない。必要だから。どうしても必要だから。

 何に必要なのか。

 人間であるために必要なのだ。誇りを持った人間であるために。そして力を持った人間であるために。

 真智の父親から援助の話を切り出されたときの屈辱感を豊は忘れられなかった。地べたに這いつくばりその頭を札束で叩かれるあのやり切れなさが忘れられなかった。

 金が力に直結していた。金がない自分の無力さがどうしようもなく腹立たしく、恥ずかしく、悲しかった。

 あんな自分ではいたくなかった。あんな自分のまま、産まれてくる子どもの父親になりたくなかった。

 大学を辞めて働きたかった。だがそれさえできなかった。真智の父親が認めなかったからだ。彼は豊を働かせて責任を取らせるより、自分の金の中にがんじがらめに閉じ込めて苦しめることを選んだのだ。

 金は削り取る。金を持つ者に対しても、持たない者に対しても、同様に削り取る。力と引き換えに、大切なものを削り取る。それは化け物そのものだ。

 かつて感じた苦しみが、やり切れなさが、憤りが、恥辱が、悲しみが、一度に豊の胸中に蘇ってきた。

 廃校の屋上では穴もぐりのための準備が整った。

 伊藤はマルボロを足で踏み消すと作業員の顔を一通り眺めた。

「さて誰が降りる」

 懐中電灯は六つあった。だが志願者は六人に達しそうもなかった。それどころか一人だって名乗り出る者はいそうになかった。

「誰かいないか」

 誰も名乗り出ない。

 全ての窓をふさがれたこの校舎の異様な雰囲気を忘れている人間がいるはずもなかった。

「誰かいないのか!」

 伊藤が怒鳴った。

 その目が豊の上で止まった。

 伊藤はちょっとの間信じられないという表情をした。

 豊の手が不敵な感じで挙げられていた。

 豊は自分がにやにや笑っているのを感じた。

「お前がやるってのか学生さん」

「やりますよ」

 意外なほど素っ気ない豊の声の響きに、伊藤はどことなく不安げな面持ちになった。

 豊はタイミングを逃さずに攻撃に出た。

「ただしあんたも一緒に降りてください」

「何だと」

「あんたも一緒に来るんですよ、伊藤さん。あんたはこの現場の責任者なんでしょう」

 豊は有頂天だった。

 伊藤はほとんど狼狽に近い表情を浮かべている。

 伊藤に断る術はなかった。ここで断れば、この騒ぎが落ち着いた後で作業員たちから見くびられることになるからだ。そして作業員たちの嘲りや陰口に耐えながらこの後の長い工事期間を過ごさなければならなくなる。それは伊藤にとっては耐えがたいことに違いない。

「いいだろう」

 伊藤が言った。

 その口調は豊の得意な気分に水をさした。どことなく不吉な影がそこに感じられたのだ。

 伊藤の表情は腹をくくった男のそれだった。単にボロ家の中に落ちた作業員たちを連れ戻すにしては深刻過ぎた。その表情を見て、豊は自分の行動を少し後悔した。

 伊藤はこの不気味な廃校について何か嫌な情報を知っているのかもしれない。それはひょっとしたらとんでもなく嫌なものなのかもしれない、そう、怖いといってもいいくらいに嫌なものなのかも。

 伊藤は傲慢な態度でもう一度作業員たちの顔を睨め回した。それはやはりジョン・ウェイン風の仕草だった。

 豊の反撃を面白そうに眺めていた作業員が、あるいは軽率にも面白そうだという表情をしてしまった作業員が、三人いた。

「島根、福井、秋田、お前たちも来い」

 その口調は間違いなく不吉だった。

 豊は今では自分の行動を猛烈に後悔していた。

 名指しされた三人は程度の差こそあれ屈強と呼べそうな男たちだったが、彼らもまた、一様に不安な表情を浮かべた。

「さて、これで五人そろったわけだ。懐中電灯は六個あるが」

 最後の一人を指名しようと伊藤は首を巡らせた。

 だが最後の決定をするのは伊藤の仕事ではなかった。

「俺も行く」

 国虎が前に進み出た。

「好きにしろ」

 伊藤が言った。

 豊は国虎が物問いたげな視線を送ってよこすのを感じた。

 やれやれ、お前はどうしてこんな酔狂な真似をしようってんだ。

 言葉を交わさなくても豊には国虎の言いたいことがよくわかった。なぜなら豊自身が過去の自分に言ってやりたいことだったからだ。

 六人が穴の縁に立った。

 豊は大人の胴体ほどの大きさのその穴から下を覗いてみた。

 闇だけがあった。燦々と降り注ぐ日光も、それどころか蒸し暑い真夏の陽気さえ遮断して、そこに闇だけがあった。

 冗談じゃねえぞ。

 誰かが呟くのが聞こえた。

 豊はそいつに拍手したい気分だった。全くだ、全くこいつは冗談じゃない。俺たちは今からこの中に降りて行こうってんだぜ。ヒャッホー。

「誰から降りる」

 伊藤がもっさりと言った。口から死臭と一緒に漏れてくるような言葉だった。

「俺からだ」

 国虎が言った。

 十分後、腰の安全ベルトにロープを固定して、六人の男たちが次々に穴の中に飲まれていった。


3

 まず初めに感じたのはある種の懐かしさだった。

 木材と鋼鉄で密閉された校舎内には学校独特の匂いが色濃く残っていた。人間の汗が染みついた木の匂い、チョーク、それも古い時代の漂白剤や着色料を使っているチョークの匂い。それらの匂いは学校にしかない。豊が学校教育を受けたのはこのような木造校舎ではなく鉄筋コンクリートの校舎だったが、それでもそこに漂う匂いは両者とも共通しているように思われた。

 なぜだか空気がやけに冷たく、豊は全身の汗がすうっと引いていくのを心地よく感じた。

「暗いな」

 ロープに吊られてぎごちない調子で降りてきた豊の腕を掴んで立たせながら、国虎が言った。

「そうですね、それにちょっと寒いですし」

 豊も国虎にならって懐中電灯のスイッチを点けたが、視界は思ったほど開けなかった。

 闇がまるで微粒子で構成されているように豊の周りを取り囲み、視界を塞ごうとしているようだった。

「理科室だとよ」

「はあ」

「そこの教室さ」

 国虎が懐中電灯を揺らして示したのは、おぼろげにそれと判別できる程度のプレートだった。なるほど、そこには理科室と書いてあった。

「おっと、気をつけろよ」

 次に降りてきた福井だか福島だかの身体を支えて国虎が言うのが聞こえた。

 誰に向かって言ってるんだろうな、と思いながら豊はふらふらと理科室と書かれたプレートの下に歩み寄った。

 理科室の扉はありふれた感じの木製で、上半分に磨り硝子の窓が取りつけられていた。

 豊は扉に手をかけて開けようとしたが、左右どちらに押しても扉はびくともしなかった。鍵がかけられているというのでもなさそうだった。鍵ならば一ミリ程度の遊びがあるはずだが、この扉はがっちりと固定されている感じなのだ。

 それに、匂いがした。奇妙な匂いが。

 古い建材やチョークの匂いだけじゃない。この匂いはもっと、何かこう。

 肩に手が置かれた。

 豊が後ろを振り返ると国虎が立っていた。

「来い」

 国虎の表情は濃厚な闇の中でもはっきりそれとわかるほど深刻だった。

 降りてきた穴の下に戻ると、伊藤、島根、福井、秋田の四人がどこか落ち着かない様子で周囲をきょろきょろ見回しながら立っていた。

「問題点は明確だ」

 国虎が口を開いた。

「落ちたはずの奴らがいない。四人ともだ」

「助けが来る前に昇降口まで下りていったんだろう」

 秋田だか秋山だかが言った。四十歳前後のがっちりした背の低い男だ。

 国虎は首を振った。

「苦しい理屈をこねるのはやめよう。俺たちは昇降口が鉄板で封鎖されているのを知っている。窓もそうだ。全て塞がれている。もちろんそれは落ちたはずの奴らだって知っていたことだ。だから外へ出るにはここで待っているしかない。彼らが落ちたはずのこの穴の下でだ」

 六人が持った懐中電灯の六本の光条が不規則に六人の足下を照らしている。

 秋田が馬鹿馬鹿しいというような笑みを口元に浮かべた。

「落ちたはず落ちたはずって、お前は何が言いたいんだよ」

「そのままだ。俺は彼らが落ちたとは考えていない。しかし、それならどうしたんだと訊かれても困る。俺にわかるのは、大人一人やっと通れる大きさの穴に、どんなにマヌケでも四人が立て続けに落ちるというのは理屈に合わないってことだけだ」

 秋田は首を振った。

「奴らは落ちたんだ。今ごろ下で窓を破って外に出ようとしているんだろうさ」

「そうかもしれないな。だが気づかなかったのか」

「何にだよ」

「窓には木の蓋がしてあるだけのように見えるが、その下はやっぱり鉄板で覆われてる。足場を組んでいた奴らはみんなそれに気づいた。それで何となく嫌な気分になったもんさ。そして落ちたはずの奴らは足場を組んでいた内の四人だ。それが窓を破りに行くとは考えにくい」

 秋田は黙った。

 痩せぎすの福井も、出っ歯でどこかウサギを連想させる島根も、ジョン・ウェイン伊藤も黙った。

 国虎は真っ暗な廊下の先に懐中電灯の光を投げた。

 音もなく暗黒の粒子が集まり、その光を遮ったように見えた。

 それでも廊下がやけに長いようだということだけは察しがついた。

「さあどうする」

 国虎が言った。

 何か言おうと伊藤が口を開いた。開きかけた。伊藤の顔のすぐ隣で、長いロープが揺れている。

 考えるより先に豊の舌が動いていた。

「まさか逃げるとは言わないでしょうね、伊藤さん」

 伊藤の表情が強張るのが見えた。他の作業員たちの顔にも緊張が走った。

 おいくそ、俺は何を言ってるんだ。

 豊は己の言葉が広げた波紋とその影響に自分でも呆然として考えた。

 豊の言葉がなければ伊藤が撤収を決断したのは間違いないように思われた。だが伊藤のその退路を豊が絶ったのだ。

 国虎さえ目を見張って自分を眺めているのが豊には痛いほどわかった。

「逃げるだと」

 伊藤が低く歌うような調子で言った。

 お前を呪ってやるというような台詞の方がその調子にはぴったりだった。

「おい学生さんあんまり俺を舐めない方がいいぞ」

「俺には豊って名前がありますけど」

「ほうそうかい、学生さん」

 伊藤が一歩踏み出した。

 豊の言葉が産んだのとはまた違う緊張が六人の間に走った。

「やってやろうじゃねえか。奴らを見つけてぶん殴ってやりゃいいんだろう。やってやるよ。ぶん殴ってやるよ。思い切りぶん殴ってやる」

 伊藤はずかずかと廊下を進みだした。

 豊の肩と伊藤の肩が強くぶつかった。豊は思わず体勢を崩したが、伊藤はそれには頓着せずに目の前の闇に向かって歩いていった。

 前面を懐中電灯で照らすことさえしていなかった。

 完全に頭にきた様子だった。

「おい!」

 国虎がその背中に向けて叫んだが、伊藤は振り返らず、そのまま闇の中に消えてしまった。

「参ったな」

 国虎が頭を掻いた。

「二手に分かれよう。福井さんたち三人は伊藤を追いかけてくれ。俺と豊は校舎のこちら側の棟を見回ってくる。五分経ったらこの場所に集合しよう」

「わかった」

 福井がうなずき、伊藤が消えた昇降口の方向へ歩き出した。秋田と島根もおっかなびっくりそれに従った。

 つかの間それを見送って国虎が言った。

「さて俺たちも行くか」

 校舎は中央部が直方体の塔型で一階部分に昇降口が設けられ、そこから左右に、方角でいえば北西から南東に、細長い両翼が伸びている。伊藤が向かったのは昇降口のある中央部で、国虎と豊はそれとは逆の、南東側の棟の先端部へ向かって歩き始めた。

 歩きながら豊は半歩先で揺れる国虎のいかつい肩を見上げた。

「すみません、俺、さっきからどうかしてます」

「そうだな」

 国虎は歩く速度を落として豊を見た。

「伊藤が憎いか」

 豊は返事を返さないことで答えた。

「だろうな。俺だって伊藤のような奴が好きにはなれない」

 国虎はそこで言葉を選ぶように間を空けた。

 暗がりの中を進む二つの足音だけが響いた。

「だが俺たちがしなければならないのはな、豊、まず第一に姿を消してしまった四人を見つけることだ。そうだろう」

 豊はうなずいた。

「それじゃあ、その次に俺たちが考えなければならないことは何だろうな」

 国虎が問い、豊は黙った。

「金を持って帰ることだ。クビにならずにしっかり働いてその分け前を持って帰ることだ」

「それはわかってますけど」

「わかってないさ」

 反論しようとする豊に国虎は諭すような口調で言った。

「豊、お前はどうしてこの現場に来たんだ。給料は何のために使うつもりだったんだ」

「彼女が妊娠したんで、その出産費用が必要だったからです」

「伊藤に食ってかかった時、そのことは頭にあったか」

「いえ」

「だろうな。そこまで考えが回ればああいうことはしない。絶対にできない」

 国虎は言った。

「豊、あの時のお前は軽率だった。そして、これは覚えておいてほしいんだが、一緒に仕事をする上で軽率な奴ってのは歓迎されない。どんな職場だろうとな。そういう奴はミスをする。とても大きなミスをする。もちろんたいていの人間はミスをする。ミスをしない奴なんかいない。だが軽率な奴が犯すミスというのは、それ自体がどんなに些細なものだったとしても危険なものになる。命にも関わる。自分の命だけじゃなく、仲間の命にも関わるんだ」

「次回からは気をつけます」

「そうだな。だが次があればいいが」

 豊は国虎の横顔を見た。黒い微粒子の幕を透して見ても、そこに冗談の影はなかった。懸念だけがそこにあった。

「国虎さん、俺たちの仕事は四人を見つけて連れ帰るだけですよね」

 国虎はちらりと豊に視線を送ったきり、答えなかった。

 廊下の行く手に壁が見えた。

 行き止まりだった。校舎の南東側の端まで来たのだ。

 豊を空中に漂う匂いを嗅いだ。木とチョークの匂い。

 凄まじい絶叫が上がった。

 どたどたというたくさんの靴音が聞こえた。そして、水を一杯に吸った布団を無茶苦茶に振り回すような重い物音がそれに続いた。

 豊と国虎は顔を見合わせ、それから天井を見上げた。物音は屋上から聞こえてきた。

 次に再び絶叫が上がった。今度の叫び声は長く、甲高く、野太く、そして全て長かった。間違いなく断末魔のそれだった。

「何が起こった!」

 言うより先に二人とも駆け出していた。

 豊の口の中に金属的な味が広がった。恐怖の味だった。

 廊下は耐えがたいほど長かった。

 闇が見えない壁のように立ちはだかり、豊の脚を遅めようとしているかのように、歩みは遅々として進まなかった。

 長く尾を引いていた断末魔が止んだ。

「畜生!」

 国虎が叫んだ。

 その意味はすぐにわかった。

 理科室のプレートが見えた。

 穴の下まで来ていた。だが垂れ下がっているはずのロープはなかった。

 国虎が穴を見上げていた。

「誰か!」

 その呼びかけに答える者はいないだろうということは容易に想像がついた。

 豊は闇を透して黄色く濁った卵白のように無気力な陽光を仰いだ。

 穴は少し広がっていた。大人が二人は通れるくらいの大きさだ。穴の真下には破壊の跡が無惨に残る木片や瓦のかけらがでたらめに散乱している。

「いないのか誰か!」

「無駄ですよ」

「おい返事しやがれ!」

「無駄ですって国虎さん」

「わかってる!」

 国虎は廊下の壁を思い切り蹴った。

 豊は寒気を感じて腕をさすった。鳥肌が一面に浮かんでいた。

「くそ、ここで何が起こってるってんだ。十一人だぞ!」

 そうだ。

 暗澹たる思いで豊は国虎の言葉にうなずいた。

 屋上には十一人がいたはずだ。ところが今では誰一人屋上に残ってはいない。

 まず四人が消えた。そして次には十一人。

 残っているのは何人だ。

「とりあえずここを出ないと」

 穴を見上げたまま豊は言ったが、国虎が首を横に振るのがはっきりとわかった。

「無理だな。三人いればどうにかなるかもしれないが、二人では肩車しても天井には届かない」

 もちろんその通り。

 何だって校舎の天井をこんな馬鹿みたいな高さにしなくてはならなかったのだろう。大の男が二人縦に並んだって届きそうにない。

「ひょっとしたらまだ校庭やプレハブに残っている作業員がいるかもしれませんよね」

「そうだといいがな」

 言った豊を国虎はちらりと眺めたが、すぐに視線を穴へ戻した。

 溜息をつくつもりで息を吸った豊はその微妙な変化に気がついた。

「国虎さん」

「どうした」

「空気」

「何を喰う気だ」

「空気の匂いですよ。何か感じませんか」

 木の匂い、チョークの匂い。だがこの建物にあるのはそれだけではない。先ほど理科室の前で感じた異質な匂いの正体に、豊はようやく思い当たった。

 国虎の表情を見ると、判別しにくい明りの下でも、彼が同じ結論に至ったことがわかった。

「血ですよね」

 国虎は豊の確認にすぐにはうなずかなかった。

「もうちょっと詩的で絶望的な表現が適切だな」

「何ですか」

「死臭だよ」

 国虎は懐中電灯を探索した南東側とは反対の方向へ向けた。数分前、伊藤とそれを追って三人の作業員が消えた闇の方向だ。

「俺たちは南東側から来たが誰ともすれ違わなかったし何も見なかった。この校舎は相当暗いが、廊下は狭いし一本道だから俺たちがよっぽどマヌケじゃない限り、結論は出てくる」

「どんな結論ですか」

「これから俺たちが向こう側へ見に行くのさ」

「ここで助けを待った方がいいんじゃないですかね」

「構わないがこの穴の側にいた奴はみんな消えてる。自分だけが例外だとは思わない方がいいな」

 言いながら国虎は歩き出している。

 豊もその後に従った。

 理科室の扉の前を通り過ぎた。

 死臭か。

 匂いはほのかながらも明らかに理科室の中から漂ってきていた。

 豊の脳裏を不吉な想像がよぎった。理科室の標本棚にきちんと並べられた人間の生首。各班ごとの机の上に配られた、手足を切り落として解剖の目的を明確化させた人間の胴体。椅子にはそれぞれ身体の部位が欠損した生徒が座り、黒板の前には内臓の露出した先生が立つ。では始めましょう。今日も人間の解剖です。

 豊は前を通り過ぎてから肩越しに理科室を振り返ってみた。

 だがわずか二三歩の距離のはずなのに、もうその扉とプレートは暗黒の中に溶け込んでいた。

 どうかしてる。

 豊は思った。暗過ぎるのだ。

 この校舎の窓は全て塞がれてある。光から完全に遮断された建物の中に豊と国虎はいる。だがそれにしても暗い。それは、夜中に目覚めて明りを点けないまま入ってしまったトイレを満たしているような単純な暗さではない。いつまでたっても目が慣れない闇というのを、豊は経験したことがなかった。そして今それを体験していることをあまり嬉しいとは感じなかった。

 目が痛くなるほどの闇だ。

 幾つかの陰気な教室の前を通り過ぎた。どの教室の扉も一様に固く閉ざされ、そこに設けられた濁った色の硝子は懐中電灯の灯火を寄せつけなかった。

 全ての教室が理科室とほとんど変わらなかった。変化があるとすればそれは各入り口の上に掲げられた教室名のプレートくらいのものだった。

 昇降口のある校舎の中央部へ向かう内に、周囲に明らかな変調が現れ始めた。

 最初にそれに気づいたのは国虎だった。

 国虎が急にぴたりと立ち止まったので、その一歩斜め後方を歩いていた豊は危うくその背中にぶつかるところだった。

「風だ」

 国虎が指を舐めて立てた。

「気に入らないな」

 国虎は来た方向と先に伸びている廊下とを見比べて言った。

「風が校舎の中から吹いている」

「天井に穴が空いたからでしょう」

「内外の気温差を考えても、開いた穴から外気が入ってくるなら風上は向こうでなければならないはずだ。ところがこいつは反対方向の校舎のど真ん中から吹きつけてきている。それに」

「それに、血の匂いだ。でしょう」

「そうだ」

 国虎は唸った。

 空気の流れは微妙で、豊は歩いている間は何も感じなかったのだが、国虎に言われてみると、確かにそれは風だった。大地の奥底、生者の声の届かない遥かな墓所からやんわりと送られてくる冷気を乗せた風。微かに土臭く、微かに湿っぽく、そして微かに血生臭い風。

 理科室前で嗅いだあの奇妙な匂いとは少し違うなと豊は思った。国虎が死臭と表現したあの匂いだ。あれは、死臭は死臭でも、例えるなら十日間日なたに放置してあった精液のように乾き切り、毒気を失った匂いだった。

 今、風に乗ってくる匂いは違う。それは現在進行形の死の乱暴な表現だった。リアルタイムで切り刻まれ、苦悶し、どうしようもなく死んでいこうとしている、あるいは既に死にながら、なお苦痛にのたうち回る生の匂いだった。それはもはや不可逆的な過程をたどって死へと向かっていた。

 蒼い顔で豊は国虎を見た。国虎もまた、色のない世界で血の気を失っているように見えた。それはほっとできる光景ではなかった。豊にとっては極めてありがたくない光景だった。

 豊は無駄と知りながら廊下の先へ懐中電灯の光を走らせた。

 黒い粒子がまるでシベリアの荒野を吹き抜ける嵐のような濃密さでそこを覆っているのだけがわかった。

 どこかの偉い心理学者だったかペーパーバックの作家の引用だったかが言っていた言葉が思い出された。非常な速度で光を当てることができれば、君は暗黒を見ることができる。

「どうします」

 豊の問いかけに、国虎は自分の中で反問を繰り返しているようにしばらく答えなかった。

 選択肢は二つしかなかった。引き返すか、進むかだ。

 結論は既に出されていた。

 それを知りながらも、なお逡巡せざるをえないのだ。豊と国虎の行く手から吹き寄せる風はそれだけ不吉だった。

 国虎がちらりと視線を送ってよこした。

 豊はうなずいた。うなずきながら自分も相当ビビってるように見えるだろうと思った。事実ビビってるんだからしょうがない。

 二人が足を踏み出すのは同時だった。

 二つの懐中電灯の光が、真夜中の海岸に揺れる夜光虫の輝きのように頼りなく、暗黒の中に踊った。

 前に進むにつれて空気の流れがよりはっきりと強くなった。同様に湿気も、それからもちろん血の匂いも。

 廊下の壁はもはや乾燥してはいなかった。歩くにつれて徐々に結露の染みが増え、やがて苔が現れ始め、更に進むと壁一面を地衣類が覆い尽くした。

 板張りの廊下も所々腐食していた。時折足に伝わるぐにゃりとした感触が水分を含んだ材木のものであることを、豊は天に祈った。

 廊下は唐突に開けた場所に出た。

 左右に迫っていた壁が急に遠ざかったのが空気の感触でわかった。目はなおも闇に慣れてはいなかった。

 どうやらこれが昇降口のある校舎中央の建物らしいと豊は思った。やれやれ、ここまで一体どれだけ歩いたんだろう。

 豊と国虎が立っているのは校舎の二階部分だ。ここから道は二手に分かれることになる。即ち、直進して北西に伸びる校舎の右翼部分へ進むか、ここで一階へ降りるかの二つだ。

 天井へ光を当てると、そこに傘を被った旧式の電灯が垂れ下がっているのが見えた。

 旧式っていってもな、と豊は暗い気分で考えた。あれは一体全体どれくらい昔の産物なんだろうか。松下とか日立とか、三菱さえ影も形もなかった時代の所産に見える。エジソンの電球を見てもこれほど旧時代的な印象は受けないだろうと思える。

「下だな」

 国虎が言った。

 階段があるとおぼしき場所に立って一階を見下ろしている。

「風は下から吹いている」

「問題は、その風がこの校舎の外から吹いてくるのかどうかってことですよね。それなら俺たちはどこかの破れ目から校庭に出られるってことになる」

 国虎はじっと豊を見つめた。

「豊、もしそうじゃないならこの風はどこから吹いてくると思うんだ」

「もっと暗い場所から、ですよ。光の届かない場所からです」

 豊は国虎の横に並んで立った。冷たく湿った血生臭い風が頬を撫でた。

「道はもう一つありますけど」

 豊は右手の親指を上げて北西に伸びる校舎の右翼の廊下を指した。

「それはないな」

 国虎は首を振った。

「俺はこの風に背中を向けては歩けない。こんな闇の中でそれをしたら数歩と行かずに気が狂うだろう。この風の先には何かがいる。この闇よりも暗い何かだ。そいつに背中を向けることは絶対にできない。絶対にだ」

「そいつはまず四人を飲み込み、次に十一人を飲み込んだ」

「十五人が十七人に増えるってことはありうる。ほぼ確実にありうる」

 豊は階下を覗いた。

 幅広の階段のスロープはやはり途中で闇の中にふっつりと消えている。

「俺は行く。だが強制はできない。豊、お前はどうする」

 国虎が聞いた。

 豊は少し黙ってから、言った。

「目的をはっきりさせましょう。俺たちが何をしに行くのか」

 豊は懐中電灯で自分の顔を照らした。国虎もそうした。二つの血の気のない顔が、濃密な黒色の中に、後期印象派のシトゥックが描いた暗鬱な絵のようにぼうっと浮かび上がった。

「国虎さん、俺はこの校舎から出たい。つまり生きて帰りたいんです。俺は一階に降りるとしても、生きるために降ります。国虎さんは何のために降りるんですか」

 国虎は面食らったような表情を浮かべた。その彫りの深い顔に生気のない光が陰影を刻んだ。

「もちろん俺だって生きて帰りたいからさ。何だと思ったんだ?」

「いえ、ただはっきりさせておきたかっただけです」

 だが豊は国虎の表情の中に死ににゆく者の影を見たのだ。殺されに行く者の顔を。

 それは単なる幻覚だったかもしれなかった。か弱い光が起こした錯覚だったのかもしれなかった。こうして国虎と顔を突き合わせていると、果たしてあれが自分が現実に見たものだったかどうか怪しく思えてきた。

 あるいは国虎の表情に見たと豊が思ったものは、豊自身の内面の投影であったのかもしれなかった。真智の顔が頭に浮かんだ。俺は本当に帰りたいのだろうかという疑念がちらりとそこをかすめた。

 国虎は量りがたい色を浮かべた目で豊を眺めていたが、やがて首を巡らせて階段へ向かった。

 階段は湿気のために傷みが激しく、あちこちに穴が口を開けていた。

 国虎は中程まで降りた時、そこにしゃがみ込んだ。

「どうしたんですか」

「やっぱりだ。靴跡がある。まだ新しい。伊藤とあの三人のものだろう。だがそれだけじゃないな。もっとたくさんの人間が通った跡もある。こっちはだいぶ古い。この校舎よりも古いってことはないだろうが、それでも古いな」

「どういうことでしょう」

「決まってるさ。俺たちの前に秋田と福井と島根が通った。その前には伊藤が通り、伊藤の前にはもっとたくさんの人間が通った」

 国虎の緊張してはいるが冗談めかした口調の真意を量りかねて豊は黙った。

 それを下から見上げて国虎は言った。

「だが彼らは降りていっただけだ。下に降りていった足跡は、その後二度と階段を登らなかった」

 豊はもう一度一階の方向へ懐中電灯を向けた。畜生、なんだってこんなことになっちまったんだ。

 国虎は立ち上がり、また階段を降り始めた。

「まあそいつらが後ろ向きに階段を登ったって可能性は残る。明るい見通しじゃないか」

「景気概況よりはましですね」

「豊、お前には冗談の才能があるよ」

「国虎さんほどじゃないですよ」

「もちろんさ。いい気になるなってんだ」

 階段もまた、我慢ならないくらいに長かった。

 板を踏み抜かないように用心しながら一階の床に降り立った時、豊はほっと安堵の息を漏らした。

 だがそれもつかの間のことだった。

 突然物凄い力で肩を掴まれ、豊は背後に倒れ込んだ。

 衝撃と痛みが背筋を襲った。床を這っていた水の流れが飛沫を飛ばし、跳ね飛ばされた苔が豊の頬に張りついた。

「どうした!」

 国虎が叫ぶのが聞こえ、続いて彼が倒れ込む音が聞こえた。

 豊は抵抗しようとしたが、もがく手と足はぬるぬるする床を滑るばかりで役に立たなかった。

 豊はそのまま引きずられていった。

 シャツ越しに苔と水の感触が伝わってきた。水は驚くほど冷たかった。

 それほどの距離をいかない間に床の感触が変わった。タイル張りの床だった。

 トイレだと気づくのにそれほど時間はかからなかった。便所の匂いがした。アンモニアの匂い。何十年使われていないのかは知らないが、それでも匂いははっきりと残っていた。

 豊を襲い、ここまで引きずってきた相手はそこで手を離した。

 相手が何か言おうとしたのがわかったが、豊は態勢を変えて立ち上がりざま、思い切り殴りつけた。

 闇の中でも右の拳は相手の顎をとらえた。

「馬鹿野郎!」

 誰かが怒鳴るのが聞こえた。国虎の声ではなかった。

 豊が殴った相手は倒れた。昏倒したに違いない。知ったことかと豊は思った。いきなりこんなことをする奴が悪いのだ。

「何てことをしやがる!」

 また誰かが怒鳴った。

「知ったことか!」

 今度は国虎が怒鳴った。

 また誰かが倒れる音が聞こえた。

「死にたいのか!」

 光が閃き、豊を、次に豊の隣に立ち上がった国虎を照らした。

 見れば国虎の前にも一人、豊がしたのと同じような姿勢で寝ている人間がいる。

「死にたいのかとはどういうことだ」

 向けられた光に目を細めながら国虎が言った。

 懐中電灯の主はくぐもった声を上げた。

 笑っているらしいと気づいて、豊は背筋が寒くなるのを感じた。

「伊藤だろ」

 国虎が訊いた。

 闇に潜む男は更に笑った。腹部の潰れた蛙のような笑い声だった。

「何がおかしいんだ」

「何が?全部だよ。国虎。お前のその間抜けた面や、お前の隣に立ちんぼうの学生さんのアホ面を見てると思い切り笑えてくるぜ」

 伊藤はぐえぐえと笑った。笑い続けた。

 豊と国虎は顔を見合わせた。

 その背後で扉が閉まる音が聞こえた。

 思わず振り返った二人の前に、男が一人立っていた。

「ほら、お前らの懐中電灯だ」

 秋田だった。

 秋田はこのタイル張りの部屋の入り口を閉めると、モップの柄のような物でつっかい棒をした。そして豊と国虎に歩み寄り、襲撃された際に落とした二人の懐中電灯を手渡した。

「あああ、ひでえな」

 秋田は床にのびている島根と福井の上にかがんでその頬を叩いた。

「助けてやったのにお返しがこれじゃあ浮かばれないぜ」

「助けた?冗談じゃない、こっちは暗闇の中でいきなり背中から襲われたんですよ」

 豊が言うと、秋田は疲れ切った表情を見せた。

「そうするしかなかったんだ。大声を出させないためにはな。だがもう遅い。あの騒ぎは奴にも聞こえただろう。じき、ここにもやってくる」

「奴?奴って何だ」

「奴は奴さ」

 聞き返した国虎に秋田は首を振って見せた。

 それからおもむろに懐中電灯のスイッチを入れ、部屋の奥に向けた。

 長期間使用する者がいなかった便所の片隅に、小さな黒い影がわだかまっているのが照らし出された。

「伊藤」

 国虎が言うのが聞こえた。

 豊はそこにある光景を見て嘔吐した。

「面白いか国虎」

 伊藤の声は潰れていた。

 豊は更に吐いた。

 秋田が照らした先には伊藤が座っていた。いや、あるいは立っていたのかもしれない。それはどちらともいえない。伊藤には足がなかったからだ。正確には腰から下が、きっぱりとなくなっていた。図工の得意な小学生がやるような決然とした仕事だった。

 伊藤の下半身があったはずの場所からは幾本もの赤い筋が垂れ下がり、床に投げ出されていた。道路工事で穴に溜まった水を吸い出すポンプのように、それらは伊藤が笑うたびに茶色がかった赤い液体をタイルの床に垂れ流した。

「これをやったのが奴だ」

 秋田が低い声で言った。

「何者だ」

「じきわかる」

 秋田は島根と福井の看護に没頭した。それは彼なりの逃避なのだ。決して愛情の表現ではなかった。現実から逃げるには何かに没頭するしかなかった。

「奴は太いんだ」

 伊藤が言った。それは夢みるような口調だった。

「太く、そして固い。俺のナニみたいにな。そして柔らかい」

「もういい、伊藤、やめろ」

 国虎が呟いた。豊も全く同感だった。伊藤の瀕死の容態を思いやってではなく、彼が余りに恐ろしげだったからだ。

「ぶわりと来るんだ。階段をもう一度登ろうとした時だった。横からぶわりときた。俺は逃げたよ。だが転んだ。それでぶわりと来た。ぶわりがぶうひゃーがぶりぶつりぎゃー。ぐえ」

「俺たちが降りてきた時、伊藤さんは階段下の床に転がっていたんだ」

 秋田がぼそりと言った。

「趣味が悪いんだ。奴は。伊藤さんをそのまま飲み込むこともできた。本当にそうしてくれていたらと心から思うよ。だけど奴はそうはしなかった。わざと伊藤さんの上半身だけ残したんだ。なぜだと思う。伊藤さんの他にも俺たちが残っているのを知っているからだ。そして俺たちが逃げられないことも知っている。だからこうしてもてあそんでる。俺たちが心底震え上がるのを待ってる」

「奴はでかいぜ国虎。物凄くでかい。廊下一杯に迫ってくるんだ。そしてぶわりがぶうひゃーがぶりぶつりぎゃー。でかくて強い」

 豊も国虎も言葉はなかった。

 秋田が懐中電灯の光を走らせ、壁際を照らした。

 そこにも人影があった。

 見知らぬ人間で、見知らぬ服装をしていた。作業員ではなかった。

「おいあんた」

 小便器にもたれかかって眠っているようなその人影に国虎は呼びかけたが、返事はなかった。

 伊藤が笑うのが聞こえた。

 便器の人物の顔色は青白かったが、皮膚の質感は滑らかで、本当に生きているように見えた。

「死んでるんだ。大分前に死んでる。それが腐敗していないだけだ」

 国虎はふらふらとした足取りで死体に近づいていった。

 より近い光源の下ではそれが死体であることは明らかだった。なぜ死体がこんなに状態よく保存されているか豊にはわからなかった。奴、と呼ばれている存在が保存液でも分泌して注入したのかもしれない。フシダカバチか何かの虫がやるように。だがそんなことは知りたくもなかった。

「そんな死体がいたるところにあるんだぜ」

 古い死体に手を触れた国虎に、伊藤が言った。

「おい、国虎よ、どこでもいい、教室の中を覗いてみたか」

「いいや、みていない」

「死体だぜ。死体だらけだぜ。ヒャッホー!そこら中の教室に死体が溢れてるんだ。俺は見た。扉を破って四年三組を覗いてみた。死体だ!国虎、死体だ、そこら中死体だらけだ。俺は死体を見たんだ!」

 伊藤は気のふれた哄笑を放った。

 国虎はその笑い声を前にして小さく首を振った。伊藤は駄目だ。完全にイカれてる。

 もちろんイカれていなければそっちの方がよっぽどどうかしていた。全身の血をシャワーのように垂れ流しながら、上半身だけでしゃべり、笑っているのだ。

「死体、死体、死体、死体、死体、死体だぜ!」

 伊藤が言った。豊は耳を塞ぎたかった。

「俺も見た。伊藤さんの言ってることは本当だ」

 秋田が言った。

「ほとんどは子供のものだ。一クラス分丸まるの子供たちが、そいつみたいな薄気味悪いミイラになって転がっていやがった。ああくそ、こんなことは正気の沙汰じゃない」

 銀行に置いてあるATMのように無気力で無機質な口調で秋田は言い、機械的に吐いた。

 豊は理科室の前で嗅いだように思った匂いのことを考えていた。

 正気の沙汰じゃない。

「あんたはこのことを知っていたんだな」

 国虎が言った。笑おうにも血液と共に力を失って嗚咽のような音しか出せなくなった伊藤は、その咽喉鳴りを止めた。

「知ってたら入らなかったよ。アホか」

 伊藤は毒づいた。破片だけになったその身体に力が戻ってきたらしかった。何らかの超自然的な要因によって。とはいえ、それは神の奇跡といった類いの力ではなかった。ポストモダンの時代に生きるサラリーマンに神様は要らない。ルソーもマルクスもいらない。普遍の真理や崇高な理念といったものがとうの昔に棺桶に叩き込まれた世界に彼らは生きているのだ。

 他人を貶め嘲る時に彼らは最も力を得る。

「ヤバい現場だってことは聞いてた。なるべく作業期間中に問題を起こすなとも言われた。だが会社ってのはそんなもんだ。問題を嫌がる。徹底的に嫌がる。そのくせどんなにヤバい仕事でも抱え込む。特にこんな廃校を補修するだけでかなりの金が動いたらしいボロい仕事だ。俺は上司たちが神経質になっているんだと思ってた。だが実際は?見ての通りだ」

「発注元はどこだ。喜多野庄町か」

「安威鞍村だ」

「そんな自治体はないはずだ」

 国虎は眉をひそめた。

「てめえに何がわかる。掛け算もできねえ労務者風情が偉そうな口をきくな」

 苦しそうに息をしながら伊藤が言った。

 国虎は少し凄みのある笑みを浮かべた。

「今の時代、掛け算もできねえ労務者風情でいるってのは、なかなかどうして勇気のいるもんなんだぜ」

「二級市民は冗談もつまらねえ」

 伊藤は咽喉を引きつらせながらせせら笑った。

 国虎は考えに沈むように額に手を当てた。

 豊の首筋に天井から水滴が滴り落ちた。豊はさっと天井を仰いだが、そこには何も見えなかった。

 豊は再び国虎に視線を戻した。

 いきなり床が揺れた。

 豊はバランスを崩し、中腰になった。

 地底から突き上げてくるような振動は恐ろしく強烈だった。

 校舎の屋台骨が悲鳴を上げた。

 豊は姿勢を支えるために両手で壁を探ったが、あいにく彼が立っているのは左右の壁の間の中間点だった。

「うあああ!」

 秋田が叫んだ。

 床にのびていた二人も今の衝撃で目が醒めたらしく、立て続けに悲鳴が上がった。

 可哀想に。

 豊は反射的に思った。

 そのまま寝ていれば恐怖することもなかったのに。

 心配することもなかったのに。

 ひょっとしたら、痛みも感じなくてすんだかもしれないのに。

 痛みって、何の痛みだよ。

 豊は自分に問い返したが、彼の心は陰鬱な沈黙の中に漂うだけだった。

 床がもう一度揺れた。

「来るぞ!奴が来る!」

 秋田が叫んだ。

 来る。

 豊は便所の扉を見た。

 来る。腐りかけた木の向こう側から、とてつもない何かがやってくる。

 再び、立っていられないほどの縦揺れが豊を襲った。

「奴はでかいぜ国虎!固くて太くて長い!最高のデカブツだ!ホホホー!ぶわりがぶうひゃーがぶりぶつりぎゃー!」

 伊藤がわめき散らすのが聞こえた。

 次の瞬間、秋田が挟んだつっかい棒がたわみ、爆発的な勢いで扉が弾け飛んだ。


4

 闇が周囲を覆った。

 阿鼻叫喚の闇だった。

 伊藤の絶叫の中で国虎が何か言うのが聞こえ、秋田の罵声が続いた。

 揺れの衝撃で豊は陰気くさい鉱泉が流れるタイル張りの床に倒れ、したたかに右頬を打ちつけた。

 何か巨大で長いものが横倒しになった頭上を通り過ぎるのがわかった。

 ぶわりがぶり。

 こいつか。

 口の中に鉄臭い血の味が溢れた。

 頬の内側を相当深く切ったようだと感じたが、痛みに喘ぐ暇もなく、寝転んだまま身体を回転させて頭上の物体から逃れた。逃れられるわけがなかったのだが。なぜならその巨大な何かはほぼ便所一杯分の大きさがあったからだ。もしかしたら、それ以上。

 便所内にいたそれぞれの人間の手から転がり落ちた懐中電灯が、激しい振動に合わせてでたらめに光をあちこちに踊らせていた。

 部屋の隅に逃れるしかないと考えるのに時間はかからなかった。

 懐中電灯の光が跳ね上がり、不健康に光るぬめぬめした蒼白いもののごく一部を映し出すのが見えた。

「神様!」

 どこかで誰かが叫んだ。

 神様か。

 豊は右手を下にしてもどかしく身体を転がしながら思った。

 どの神様が助けてくれるってんだろうな。個人的にはトヨタかパナソニックあたりが一番見込みがありそうな気がするよ。

 頭上の空間を独占したその何か、は、腐臭を放つ粘着質の液体をそこら中に撒き散らしながら便所の中で渦を巻き、壁を打ち、天井を叩いた。

 その何か、は満足する獲物を見つけたようだった。

 文字通りぶわりという音が聞こえた。ぶわりがぶうひゃー。

「喰えよ!腹いっぱい喰えよ!」

 ヒステリックな笑い声が響いた。

 あれは多分伊藤だろうと考えて豊は慄然とした。

 奴は確かに狂ってる。だが一般的な人間があそこまで狂うことができるのか豊にはわからなかった。普通の人間ならあの段階に達する前に死を選ぶだろうと信じたかった。自分が怪物に下半身を食いちぎられてなお笑い転げているところを想像するとたまらなく恐ろしかった。

 誰かが絶叫した。

 耳を塞ぎたくなるような絶叫だった。全く、ここには耳を塞ぎたくなるようなことしかない。

「やめてやめてやめてやめて!」

 がぶりぐわりむぐにゅぐるぶつぶつぐしゃ。

 その音に豊の全身が総毛立った。

 喰ってやがる。人間を。

 身体が壁にぶつかった。豊は慌てて半身を起こし、現在便所で行われている惨劇に向き合おうとした。

 懐中電灯の光はどれも遠く、しかも今は揺れも収まっているために何の役にも立ちそうにない。

「やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてああああああああああああ」

 あの声は島根だったか鳥取だったか。

 恐ろしく濃密な闇の帳の向こう側で、間違いなく確実に死が進行していた。

 そして、現在進行している死と全く同じくらい確実なことには、いつかは自分の順番もやってくるのだ。しかもそのいつか、が社交辞令的ないつか、でないこともまた確実だった。

 豊は闇からなるべく身を遠ざけるように身体をタイルの壁に強く押しつけた。

「カーニバルだぜチクショー!」

 伊藤の声。

「ああ神様!」

 また誰かが祈る声。

「神様なんていねえんだ!」

 伊藤がそいつを罵った。

 豊は首だけを動かして入り口の方を見た。化け物は素晴らしく巨大な上、ご機嫌に長いらしかった。便所の入り口は陰気な化け物の胴体の一部らしき塊で一杯に塞がれている。

 化け物が便所の中のどっちの料理ショーに熱中している間にそこから出ていくという選択肢は望みが薄そうだった。

 一本の懐中電灯が照らし出した便所の扉、正確にはかつて扉があった穴は、歪み、軋んでいる。便所の容積の限界に達するまで、化け物はその胴体を無理矢理押し込もうとしていた。

 ホットな匂いが漂ってきた。化け物は、誰かの腹の中からホカホカの腸を引きずりだそうと奮闘しているらしかった。

 これぞ死の匂いだった。

 にわか雨のように、豊の顔へ何かが降りかかった。掌で拭ってみてそれが誰かの肉の組織の破片らしいとわかった。

 もう駄目だ。これ以上耐えられそうにない。

 限界だった。

 豊は意識的に無意識を操作して気を失おうとした。視界が、より正確には思考が、簡潔な色で塗り込められた暗黒に染まってゆくのがわかった。

 豊はそれを心地いいと感じた。外界に満ちている闇よりも、自分の内側に満ちている闇は遥かに甘美だった。

 際限なく続いた狂気の鬼ごっこの果てに、不意に中立地帯に迷い込んだようなものだった。

 豊が落ちてゆこうとする闇の色は均質で、目の前に展開されているそれよりも理解しやすく、同調もより容易であるように思えた。

 これは眠りじゃない。終わりだ。

 自分の内側の闇に堕ちていこうとしながら豊は考えた。全部おしまい。

 絶叫が上がった。秋田のものだったようなきがするし、福井のものだったようなきもする。島根はどうだったっけ。

 島根はもう喰われちゃっただろ。

 ああ、そうだっけ。

 春の日の午後に干したての布団の上で味わうまどろみにも似た感覚の中で、豊の頭の中を多様な幻像が踊り狂った。

 そこでは怪物の姿はより鮮明だった。長く、太く、巨大で、人間の顔をしている。その顔に豊は心当たりがあった。真智の親父だった。

 白一色の空間の中で、真智の親父である怪物がとぐろを巻くその下に、真智の裸身が浮いていた。真智は笑っていた。不気味な怪物である父親が放つ強烈な臭気と粘着質の物質を全身に浴びながら笑っていた。とはいっても、真智の身体には腰から下がなかった。カーニバルだぜ、チクショー。

 大学に入った日のことが思い出された。第一志望の大学ではなかったが、それは大きな問題ではなかった。希望する専門分野には学界の第一線にいる教官がいた。大学に入って最初の一年間は忙しく、暴風のように過ぎ去ったが、楽しかった。何の責任もなく、何の束縛もなく、何の気がかりもない、高校生活の延長のような一年間。サークルでサッカーをし、酒を飲み、時々は授業に出て、また時々はどうでもいい相手とどうでもよくないセックスをした。彼女を四人作ったがどれも長続きはしなかった。長続きする必要はなかった。意味のない恋愛をすることは楽しかった。恋なんていう感情はうわべだけのみせかけだと信じていた。セックスだけが深かった。女の子の剥き出しの首に腕を回し、その内奥を穿っている時に感じたあの愉悦だけはみせかけではなかった。

「何てこった、ああ、何てこった」

 誰かが泣いている。

 激痛に声が割れている。

 全く世の中ってのは酷い。

 いつだろう、変わってしまったのは。もちろん、真智と出会ったその日からだ。歌の文句ではないけれど。

 真智は豊が学部で二年に上がった年に新入生として入ってきた。新入生の歓迎コンパで彼女の隣に座った時のことを、豊はいまだに忘れられない。

 席に座るまでは真智はどうということもないごく普通の女の子に見えた。大学生というよりは、広島の高校三年生といった方がずっとしっくりするように思えた。

 だが席に座り、ほとんど同じ視線の高さで向き合った途端、豊は打ちのめされたのだ。その穏やかな目に、その肉感的な頬に、その優美な鼻筋に。同じ高さから放射される彼女の強烈な人間性に。

 真智は美人だと豊は思う。だがただ美人であるだけだったら、ここまで真智に惹かれることはなかっただろう。真智には顔の造作以外に何かがあった。それは彼女と同じ高さで視線を交えたことのある人間なら、優しさと表現するだろう。また別の人間は愛らしさと表現するかもしれない。あるいはもう少し頭の固い人間なら包容力とでも。実際、彼女のゼミの担当教授はそう表現した。それを後で真智から聞いた豊はその年の後期の履修登録から彼の経済学原論Aの講義を消した。

 ごくたまに、いや、もしかしたら非常にしばしばかもしれないが、真智のような人間はいる。意図的にかあるいは無意識的にか、自身が持つ本来の輝きを巧みに隠すことができるタイプの人間が。街中ですれ違ったり、講義中に見かけたり、立ち話をしている時には、それを感じることはできない。そのことは真智のような人間の周囲にいる者を安心させ、無防備にする。そうしておいてから不意に奇襲をしかけてくる。気づいたときにはその魅力は獲物をしっかりと掴んで放さない。

 豊がまさにそうだった。

「喰ってるよ。こいつは人間を喰ってるんだそれもこの俺をだぞ!ああこの俺をあああ痛い痛い痛いあああ何てこった助けてくれ誰か助けてくれ!」

 俺は喰われたのだろうか。

 いや喰われてはいない。少なくとも、今はまだ。

 ああ、何を考えてるんだ俺は。お前は喰われたじゃないか、真智に。お陰で逃げることも隠れることもできない場所に追い込まれてしまったじゃないか。

 豊が出会った時の真智は高校を出たてのごく普通の女の子だった。浜崎あゆみを真面目に聴き、村山由香を真剣に読み、サンフレッチェ広島の試合を本気で応援していた。

 だが明らかに真智はごく普通の女の子ではなかった。

 豊は自分でも疑問に思うくらい激しく彼女に惹かれた。そして真智はそれを拒まなかった。豊は真智と知り合った翌日に彼女をデートに誘った。映画を観、街をぶらつき、食事をし、まるで童貞の高校生がするようなデートをしながら、豊はやっぱり童貞の高校生のように緊張していた。

 真智はどうでもいい相手ではなかった。

 デートの間中、真智の隣を歩きながら、豊は一歩ごとに自分の間抜けさを呪い、馬鹿さ加減を罵り、不格好さから死を願い続ける羽目になった。自分が何を言っても下らない台詞に思え、どう振る舞っても道化に思えた。何をやっても上手くいく気がしなかった。そんな思いを味わったのは、中学三年次、サッカー部で最後の中総体を怪我のために諦めなければならなかった時以来だった。

 二人で初めて観た映画はハリウッド史上稀にみるろくでもない代物で、街は憂鬱な霧雨で湿っぽく、食事をした多国籍料理は火星の上から集めてきた国々の料理じゃないかと思えるほど、あけっぴろげに不味かった。

 だが一日の終わり、その頃真智が住んでいた早稲田のアパートまで送っていった豊に、真智はその素晴らしい微笑を向けたのだ。

 楽しかった。絶対にまた誘ってね。

 豊は社交辞令だと思った。だがそうではなかった。

 真智と初めてセックスしたのは知り合ってから六ヶ月ほど経った頃だった。

 そこまで豊は待った。まだ二人の間の準備ができていないこと程度なら、見抜く力は豊にもあった。真智はどうでもいい相手ではなかったのだ。

 六ヶ月というのは狂おしい月日だった。一方で真智の身体を抱くことを激しく欲望しながら、一方で怯えていた。真智はどうしようもなく魅力的であり、それゆえに恐ろしかった。六ヶ月は欲望と怯えのせめぎ合いの内に過ぎた。結局は欲望が勝った。

 我慢に我慢を重ね、限界点を超えたのがその日だった。

 真智を抱く前、豊は自分の部屋だというのにシャワーの温度を間違え、冷蔵庫の隅に足をぶつけ、照明のスイッチを間違えた。

 真智はそれを笑って見ていた。豊は、ひょっとしたら行為の間中ずっと笑われたままなのではないかという怖れに囚われていた。

 初めてのデートの日と同じように、真智の中に初めて入っていく時、豊は童貞のように慌て、興奮し、焦り、失敗しそうになった。ゴムを着ける時、豊はそれを三度手の中から取り落とした。。

 真智とのセックスは他のそれと同様に深かった。だが真智との時間それ自体が深かった。セックスは依然として豊の中で重要な要素であり、また真智の中でもそれは同様の位置を占めつつあったが、もはや第一の要素ではなかった。

 豊はそれまで聴かなかった音楽を聴くようになった。ごく普通の音楽を。そしてそれまで読まなかった本を読み、観なかった映画を観た。真智は豊を変えつつあった。それは豊にとって好ましい変化であり、またそれが続くことを望んでいた。

 そこに、子どもができた。

 それは予想外の要素だった。

 真智は怯え、実家に助けを求めた。

 そのことに不満はないはずだった。

 不思議なことに、真智とは喧嘩らしいものをしたことがない。たった一ヶ月そこらで別れた女の子との間にさえ喧嘩はあった。付き合った女の子との間に喧嘩がなかったことは一度もなかった。だが真智とはそれがなかった。

 豊は思う。

 だが、あんな風に突然実家に泣きつかれるくらいなら、喧嘩をした方がまだましだった。真智が彼女の中にある不安や不満を全部自分にぶつけてくれればよかったのにと思う。

 まあ、結果は結果だ。

 そして今、自分は群馬のこの山奥の廃校の中でパニック映画さながらの状況に身を置いている。

 もしかしたら、このアルバイトは真智と生まれてくる子どものためのものなどではないのかもしれない。

 俺はただ真智から逃げ、自由になりたかっただけなのかもしれない。

 そうでなければ、真智が多分切実に豊の存在をそのかたわらに必要としているであろう今この時期に、彼女から遠く離れた場所にいるだろうか。そのことに我慢できるだろうか。

 俺はそうしようと望んだ。そして実際にそうした。

 もしかしたら、俺は真智を。

「それ以上ふざけるんじゃねえぞっ!」

 怒号が炸裂した。

 その声に含まれた怒りの大きさと深さによって、豊は春の午睡のまどろみの中から、冷気が染み渡る廃校の便所に一気に引き戻された。

 闇の中に激しく輝くオレンジ色の光があった。

 あれは火だと気づくのに数秒かかった。それほど光とは無縁の場所に長くとどまり過ぎていた。

「これでも喰らいやがれこの化け物!」

 燃え盛るまばゆい焔が闇を切り裂き、豊やその他の人間たちの頭上にうねる巨大で長太い物体に押し当てられるのが見えた。

 ダンテが描いた地獄の奥底で百五十歳の山伏が吹く法螺貝のような音が轟いた。

 凄まじい縦揺れが便所を襲った。

 豊はなす術もなく頭を両腕で抱えてうずくまっていた。

 ねばねばした汚物が所構わず降り注いだ。

 何か、の咆哮は長く続いた。

「まだ足りねえならてめえのその薄汚ねえ口に突っ込んでやるぞ!」

 声の主は強く燃え盛る棒のようなものを掲げて前に踏み出した。

 周囲の闇がはっとたじろぐのが豊にもわかった。

 何か、は口惜しげに天井を打ち、長大な胴をくねらせて怒り狂った。その都度、その身体からは粘液と腐臭が撒き散らされた。

「とっとと失せやがれ!」

 一際高い怒声が放たれ、闇が唸った。

 便所の入り口がめりめりと音を立て、便所一杯に詰め込まれた化け物は慌てた様子で肉体を逆流させて後退した。

 焔を持った人物は逃げようとする化け物に向かって再度腕を高く掲げた。見せつけるように焔をかざし、化け物に迫った。

 化け物は焔を向けられる度に巨大な胴を震わせ、咆哮し、校舎を揺らした。

 そしてついに凄まじい勢いで逃げ去った。

 一転して静寂がタイル張りの部屋を覆った。

 豊は粘液まみれになった腕を恐る恐るどかせ、頭上を見上げた。

 そこにぬっと顔が一つ突き出された。

「よう、大丈夫か」

 国虎だった。

 豊は全身の力が抜けていくのを感じた。


5

 島根と福井、それに秋田の三人の身体は影も形も残っていなかった。

 あの絶叫と怒号の嵐。

 豊は思った。

 あそこで聞こえた無数の泣き叫ぶ声の内、どれが島根で、どれが福井で、どれが秋田のものだったか、もうわからなかった。

 生臭い血の匂いが鼻を突いた。血と肉体の赤黒い残滓ならばそこら中に溢れていた。

「怪我はないか、豊」

「多分ね」

 豊は国虎の手を借りて立ち上がりながら顔をしかめた。

 極度の緊張と恐怖のせいで、脚の筋肉が硬直したままほぐれてくれないのだ。

「酷えもんだ。そうじゃないか」

 国虎がぽつりと言った。

 怪物は大量の分泌物と血と恐慌だけを残して去った。

 豊は壁にもたれかかって溜息をついた。今後何十年かかってもこれだけの溜息をつくことはないだろうと思われるような長い溜息だった。

「国虎さん」

「ああ」

「それは何です」

 豊は国虎が右手に持っている燃え盛る短い棒を指した。

 国虎は無造作に、便所の隅に打ち捨てられていた死体を顎でしゃくった。

 死体は左肩から先がなくなっていた。

「あんな風にして長い年月経った死体ってのは蝋燭と同じだって聞いたことがあってな」

「誰から聞いたんですか、そんな話」

「忘れた。インディ・ジョーンズあたりじゃねえのか」

 国虎は笑った。

 豊も壁に後頭部をつけて笑った。下腹に力が入らず、空気を引っ掻くような笑い声しか出なかったが、それでも笑い声は笑い声だった。

「火はどうしたんですか」

「禁煙してたんだが、俺は意志が弱くてな」

 国虎がポケットから出してみせたのは銀色のジッポーだった。The Derbyという刻印が見えた。

「とっさのことだった。こうして思い返してみても何が何だったのやらわからない」

 国虎は悪戯っぽく目を輝かせて豊を見た。

 豊は感嘆の形に口をすぼめた。

「国虎さん、あんた凄いですよ」

 国虎は肩をすくめた。その頬を寂しげな影がかすめた。

「助けられなかったんだ。ずっと昔にな」

 国虎はジッポーの蓋をもてあそびながら、物思いに耽るような口調で言った。

「俺が前に何をやってたかは教えたっけかな」

 豊は首を横に振ってそれに答えた。言葉は不要だった。

「教師をしていた。二十二歳の時から区立の中学で社会科を教えてた。まずまず上手くやってたと自分では思う。知ってるか、東京の周辺で特に教師の採用枠が多いんだ。どうしてだと思う」

 豊は沈黙をもって国虎に言葉の続きをうながした。

「教師の離職率が高いんだ。少なくない数の教師が四十の声を聞く前に辞めていく。理由は色々ある。生徒たちから目をつけられて仕事ができなくなる奴、教育の重圧に耐え切れなくなる奴。授業が下手な奴。同僚の教師たちと上手くやっていけない奴。俺はどれも結構上手にこなしてた。三十を過ぎても、四十を越えて自分が教師を続けていられる見通しはあった。結婚もした。教え子とじゃないぜ。かみさんとはテニスをやっていて知り合ったんだ。何だ、おかしいか」

「いいえ」

 豊は微笑を噛み殺した。国虎とテニスという取り合わせは、教壇で卑弥呼の魏への遣使について話す国虎の姿以上にユニークだった。

 国虎は気を悪くした素振りを見せず、歯を剥き出して笑った。

「これでも学生の頃は国体に出るかって腕前だったんだぞ。今それを見せろって言われても困るけどな」

「言いませんよ」

 二人は笑った。静かな笑いだった。

 二人の背後では水が天井から絶え間なく滴り落ちていた。

 どこかで何かが崩れる音がした。

「かみさんとの間に娘ができた。双子だった。かみさんに似てきれいだった。姉貴の方は十六で並の男ならまともに目も見れないような美人になるのがわかった。妹の方は姉貴と違って三十過ぎていい女になるタイプだった。びっくりするほどいい女にな」

 豊は目を閉じた。国虎の奥さんと娘たちの姿が目蓋の裏に浮かんだ。

 確かに綺麗な奥さんだった。そして娘は二人とも美人だった。

 だが、国虎の記憶の中でその成長は既に止まっていた。

 そういうことなのだろう、多分。

 豊は胸の中に涙を流した。国虎とその奥さんと娘たちのためだけにではない。真智のために、生まれてくる息子か娘、あるいはその両方のために、更には真智の父親のためにすら、涙を流した。

 誰かが先刻叫んだ言葉が思い出された。

 ああ神様!

「夏の蒸し暑い午後でな。教員用の宿舎の3DKで、娘二人はベビーベッドですやすや眠ってた。かみさんは音楽を聴きながら本を読んでた。音楽はマイ・フェイヴァリット・シングズだった。だが何の本を読んでいたのかはわからずじまいだった。かみさんを、娘たちを殺した奴が、戦利品代わりに持っていったんだ」

 豊は閉じていた目を開いて国虎を見た。

 相手の言葉に耳を傾けなくてはならない時がある。例えそれがどんなに陰鬱で、耳を塞いでしまいたくなるような話でも、相手の昏い目を、昏い顔を、真っ向から受け止めなければならない時があるのだ。

「扉が開いていたんだ。ちょうど上の娘が冷房で体調を崩していた時期でな。かみさんは扇風機を回して、部屋中の窓を開け放していた。廊下に面した入り口の扉も」

 国虎は淡々と語る。

「そこから男が入ってきた。正確には男かどうかもわからない。あるいはもっと別の、この世のものではない邪悪な生物だったのかもしれない。それは誰にもわからない。まだ捕まっていないんだ。そいつは紀子を、かみさんをレイプして殺し、その後で娘も殺した。なぜだ。まだ、二歳だぞ。二人とも、まだ二歳だったんだぞ。なぜ、殺す必要があったんだ。どうして殺さなければならなかったんだ。あれ以来、俺は何万回何億回と自問を繰り返した」

 国虎の口元には微笑が浮かぶ。それは自分の無力さへの嘲笑だ。

「男は娘二人の頭を互いに叩きつけて潰した。紀子の顔面にはナイフが突き刺さっていた。それらを、俺は、止められなかった。俺が、その日の朝、娘の頬にキスをして出勤した俺が、その日もう一度娘たちに会った時には、二人とももう冷たくなっていたんだ」

「娘さんたちの名前は」

「香織と澄香だ。紀子がつけた。生まれる時は難産でな。分娩室に入れられてから出てくるまでに何時間もかかった。それでもあいつは頑張った。あいつはやり通した。男の俺には想像もできない戦いをあいつは戦ったんだ。せめて、腹を痛めた子どもの成長を見守る幸せな数十年間の生活くらいの御褒美はあってしかるべきだった。だが結局紀子に与えられたのは一匹の殺人鬼でしかなかった」

 国虎はもてあそんでいたジッポーの蓋をぱちりと閉じた。

「もう教師を続けることはできなかった。全ての希望が消えてしまった。生きていく気力もなかった。半年間、家族が殺された部屋にこもって、家族が殺された時に鳴り響いていたコルトレーンを聴き続けた。マイ・フェイヴァリット・シングズ。聴いたことがあるか。あれは狂気の曲だ。旋律のあらゆる部分に狂気が潜んでる。狂気がリズムを刻み、狂気が奏者を動かしてるんだ。その狂熱の音楽の下で紀子は殺された。娘たちの前で。俺は自問した。なぜ。どうして。半年間はあっという間に過ぎた」

 国虎はジッポーを宙に放り、掴み、また宙に放って掴んだ。

「なあ豊、俺はもう死んでいるんだ」

 国虎は言った。

「半年経って、初めて外に出た。外に出たら怒りが湧いてきた。犯人はまだ捕まっていない。紀子は死んだ。香織も死んだ。澄香も死んだ。この上俺が死んだら誰が落とし前をつけるってんだ。俺は生きてやることに決めた。けれど俺の大切な部分は、紀子と香織と澄香が殺された時に死んでしまった。俺は死んだまま生きてやることに決めた」

 国虎の口調は冷たく透徹していて理知的だった。そんな口調でこんな話をされるのはたまらなかった。だがもちろん目をそらすわけにはいかなかった。

「それ以来俺は生き続けてる。死んだままな。それが俺だ。だからどうしたといわれてもどうしようもないが。俺は俺だ」

 豊はうなずいた。

 国虎は照れたように頭を掻いたが、その仕草にも今でははっきりと彼が背負っている悲しみが見て取れるようだった。

「あの時な、あの化け物が秋田か福井を漁っている時にな、どうしようもなくムカついてきた。あらゆるものにムカついてきた。理不尽な暴力だ。あんまり理不尽な暴力だ。あんなのが許されていいはずがない。他の誰が許そうと、例え天国の石段の頂上でこっそりオナってる最中の神様がそれを許しても、俺が許さない。俺があんな真似をしたのは、とどのつまり、そういうことさ。みっともない理由だろ」

 国虎は言った。

 豊は首を横に振った。

 相変わらず二人の背後では天井から水が滴り落ちていた。何かが崩落するような音が徐々に大きくなりつつある。

「豊。飲み込まれるなよ」

 国虎の言葉に、豊はぎくりとした。

 国虎の思慮深い双眸の奥に暖かい光が宿ってこちらを見つめている。

「化け物の造った闇の中で、俺は自分自身の闇を見た。闇は俺の中にあった。化け物は俺の中にいた。俺はその化け物が造る闇の中で随分長いこと生き続けてきたんだ。俺はそれに気づかされた。悔いる気持ちはない。だが、豊、そいつは不毛なことだ。生きることに敵対しながら生きるのはとてつもなく不毛なことだ」

 国虎は微笑んで豊の頬を二度三度、優しく叩いた。

「この世界はうわべだけのもので構成されてはいない。うわべを覆っているだけじゃなく、結構深いものもある。それどころか、中には遥か奥にまで達しているものだってある。そういうのはそう多くはないが、それでもそのために生きてみるのも悪くないと思わせてくれるものは必ずある。世界は虚無じゃない。掌をつねってみろ。痛みが走り、血が滲む。その血のために生きる価値はある。血を流すものを掴め。そして二度と放すな」

 豊は面食らって国虎の顔を仰いだ。

 国虎は笑っていた。

 秋晴れの空に放たれた、長い弧を描く白球のような笑みだった。

「暗黒は暗黒によって消すことはできず、それができるのはただ光だけである」

 国虎は言った。

「ある牧師の言葉さ。好きな女の顔を思い浮かべて呟けば、結構さまになる。いい言葉だろ?」

「なるほど国虎さんは教師ですよ」

「あ?」

 思わず問い返す国虎に、豊は言った。

「牧師と教師に共通な資質は、説教が得意ってことですから」

「上手いこと言ったつもりかよ」

 国虎は大笑した。

 豊もつられて笑いながら、心の中に真智の声、真智の言葉、真智の目、真智の髪、真智の唇、真智の鼻、真智の首筋、真智の乳房、真智の全てが一度に蘇えってくるのを感じた。

 たまらなく真智に会いたかった。

「吸うか」

 国虎がポケットからくしゃくしゃになった煙草の箱を差し出した。マイルドセブンだった。

 豊はそれを断った。

「吸わないんです」

 国虎は箱から折れ曲がった一本を取り出すと、大切そうに火をつけた。

「それがいい。何も肺を汚してまで国に金を貢ぐことはない」

 国虎は眉をしかめて最初の一息を吸い込んだ。

「俺にも一本くれないか」

 その声に、豊はぎょっとした。国虎も動きを止めた。

 それは地獄の底から聞こえてくる声だった。ふとしたはずみで現実世界にぽっかり口を開けてしまった地獄の蓋の隙間から漏れてくる声だった。

「頼むからそのクソったれな棒を俺に一本よこせ。ああ、畜生、景色が白い。多分これが俺の最後の頼みになるだろうさ。俺の死体に小便をかけようが糞をひねり出そうが好きにしやがれ。だから最後の頼みくらいは聞いてくれてもいいだろう」

「伊藤」

 国虎の口調は、信じられないという響きを声に込める見本だった。

 伊藤は白茶けたタイルの上に相変わらず存在していた。化け物は秋田と島根と福井を平らげても伊藤は残したままだった。それが伊藤にとって幸いだったのかどうか、豊は非常に疑問に思った。

 伊藤は茶色の小さな塊をごぼりと唇の間から吐き出した。

「吸えよ」

 国虎は自分がくわえていた煙草を、伊藤のぞっとするほど白い唇に差し込んだ。

 伊藤はそれを二枚の肉片の間に挟んだが、もはや煙を吸い込む力もないようだった。

 それでも伊藤は満足そうだった。

 くぐもった響きが咽喉の奥から聞こえた。

 美味い、とそう聞こえた。ともかく豊はそう信じた。

「奴は」

 そう言って伊藤は少し咳き込んだ。

 煙草がぽとりと落ちた。それは本来あるべきはずの伊藤の下半身の上に落ちた。つまり床の上に落ちた。血と汚物の混ざり合った水の上で、それはじゅっと音を立てて消えた。

「奴はもう行っちまったのか」

「ああ、行ったよ、伊藤。行っちまった」

 国虎は言った。

 伊藤は力なく笑った。

「畜生め。お前が追い払ったのか、国虎」

「わからない。そもそも奴が逃げたのかどうかさえわからないんだ」

「お前、凄えよ」

 伊藤は言った。

「煙草、消しちまった。悪いな」

「気にするな」

「学生さんもいるのか」

 伊藤が視線を投げてよこした。豊は影から出てその前に立った。

「よく生き残ったな」

 伊藤は疲れ果てた声で言った。

「さぞ俺が嫌な奴だったと思っているだろう」

「そんなことはないですよ」

「いや、いいんだ。実際そうだった。まともじゃなかった。今になってそれがわかる」

 伊藤は豊の目を見上げた。

 豊はどういう表情を浮かべればいいのかわからずにそこに立ち尽くした。

「便所掃除みたいな仕事だったのさ」

 伊藤はそう言ってゆっくりと首を振った。

「国虎、お前が言った通りだ。安威鞍村なんて自治体は存在しない。実体のない自治体からの発注で請け負った仕事だ。俺ははなからそれを知ってた。知っていてこの現場に来た。どうしてだと思う」

「わからないな」

「そんな仕事は時々あるからさ。自治体レベルになるとさすがに聞いたことはないが、実体のない会社や存在しない個人名義で発注される仕事は時々あるんだ。どれも、右にあるものを左に動かすだけでウン千万の金が動くようなボロい仕事だ。どの会社にもそんな仕事を専門にやる人間がいる。会社のケツを拭う仕事だ。会社ってのは何でも喰う生き物でな、それこそ一月に降る雪みたいに真っ白なものから肥溜めに溜まってるような臭いものまで何でも喰うんだ。そして糞をひねり出す。それを掃除してやる人間が必要なんだ。でないと会社ってのはやがて糞の中で身動きができなくなっちまう」

 伊藤は自分の来し方を顧みるように両の掌を見つめた。

「うちの会社ではそれをやるのが俺だった。入社したその日から十年以上俺は会社の糞を拭ってきた。会社はどんどんでかくなった。何でも喰ってでかくなった。最初の頃の糞は可愛いもんだった。ペンダントにでもして持ち歩きたいくらいにな。だがでかくなるにつれて、奴はどんどん臭い糞を垂れるようになった。俺でもたじろぐような糞を垂れるようになった。それでも俺は糞を拭い続けた。拭い続けた挙句にここに来た。会社の糞を拭い続けた挙句にこのざまだ」

 伊藤の声には怒りも、悲しみも、怯えもなかった。そこにあるのは疲労感だけだった。

「来る前に、安威鞍の歴史は少し調べた。群馬の名もない郷土史家が書いた五百ページの本の中の一ページだけが安威鞍のために割かれていた。明治中期に銅の鉱脈が見つかったところから話は始まっていた。第一次大戦が始まる前には銅採掘の最盛期を迎え、人口も数千人にのぼったそうだ。だがその辺りで安威鞍の歴史はぷつりと途絶える。一時数千人の人口があって学校も建てられたほどの町が、ある日を境に突然消えてしまったんだ。そう、突然にな。当時はこの辺りじゃ結構話題になったそうだが、国の公式な発表では銅が枯渇したために鉱夫たちが土地を離れたという見解だったらしい。らしいというのは、当時の公文書が全部空襲で焼けたかどうかして現在では存在していないからだ。その本を書いた郷土史家は大きな謎だと書いて安威鞍の記録を締めくくっていたよ。ああ、実際たいした謎だったぜ」

 伊藤は唇を歪めると、口の中に溜まったどす黒い内容液を吐き出した。

「トールキンのバルログみたいな話ですね」

 豊が言うと、伊藤は力を失った目をもの問いたげに彼に向けた。

「ドワーフたちが洞窟を掘るんです。想像できないくらい深く深く掘るんです。すると大地の奥底にとんでもない化け物を掘り出してしまう。それがバルログです。眠りから醒まされたバルログはドワーフの王国を飲み込んで滅ぼしてしまう。そして彼がその洞窟の支配者になるんです」

「鉱山を掘っているつもりがあんな化け物を掘り出しちまったってのか」

 伊藤は言った。

 モリアが鉱山だったかどうかうろ覚えだったが、豊はとりあえずうなずいた。

「なるほどな」

 伊藤は床に視線を落とした。かつては彼の一部であった生命の貴重な一滴一滴がそこに流れ出している。

「俺にはわかるような気がするんだ。あの化け物を生み出したものが何なのか。あの化け物を育てたのが何なのか」

 伊藤は指を動かして床に流れる水をすくった。

「あいつは異形だ。正真正銘の怪物だ。だが、根本的にはそうじゃない。もっとでかい化け物を俺は知ってる。会社という名前でな。国虎、お前も知ってるはずだ。もっと別な、お前なりの名前で。学生さん、あんただって知ってるはずだ。俺が知っているのとも国虎が知っているのとも違う名前でだ」

 伊藤は指についた水滴をしげしげと眺めた。ほの暗い闇の中でそれはふるふると震えていた。

「化け物はこの学校を飲み込み、鉱山町として栄えていた安威鞍の町も飲み込んだ。そのまま奴は山を降りてもっとでかい町を襲うこともできたはずだ。だが奴はそうしなかった。この学校に居を定め、棲みついた。その気になればいつでも吹き飛ばせるちゃちな鉄板に囲まれたこの場所に」

 伊藤は濡れた指を唇まで運んだ。

「俺にはわかる。その理由が。学校という場所が奴を引き寄せたんだということが。学校は子どもたちを喰う。喰って糞としてひねり出す。学校そのものが化け物なんだ。奴はその学校に恋をしたのさ。グロテスクな恋をだ。どうしてそこら中に妙に保存のいい死体が転がっているかわかるか」

 伊藤は指で唇を湿らせた。

 死に水を自ら取るようなその仕草に、豊はやりきれない思いを感じた。

「奴はこの校舎のためにそれを取っておいたのさ。いつか校舎がそれを喰うだろうと思っているんだ。ははっ、間抜けな奴だ。思い切り笑ってやりたいところだぜ、てめえの恋はかないっこないってな。寝床で寝てやがれブサイク!」

「教育に携わっていた者としては耳に痛い意見だな」

 国虎が静かに言った。

 伊藤は驚いたような表情を作った。もう上を見上げることは彼の体力には無理だった。

「先生だった?国虎、お前がか。こいつは驚きだ」

「一人の人間と友達になれば、必ず驚きが一つは見つかるものさ」

「友達だって?もしかして、それは俺とお前のことかよ国虎。本気で言ってんのか」

「ああ。本気だ」

 伊藤の顔から、傲慢の最後の一かけらが取りさらわれた。

「そうか」

 その頬を血の混ざった筋が流れ落ちた。

「俺は怖い。闇が見えるんだ。どこまでも落ちていくような深い闇だ。俺は嫌だ。あんなところに落ちていきたくない。独りぼっちであんなところにいくのは嫌だ」

「伊藤、それはお前が育ててきた闇なんだ。お前の中にも化け物はいるんだ」

 国虎はしゃがみ込んで伊藤の掌を握った。

「だけどお前は独りじゃないぜ」

 思わず豊もしゃがみ込んだ。そして伊藤の手を取った。それはびっくりするほど冷たかった。その冷たさが死という虚無を、あるいは死という存在を明示しているようだった。

「本当か。ああ、畜生。もう目がよく見えないんだ。俺だって独りぼっちは嫌だ。わかってくれるよな、俺は独りぼっちで死ぬんじゃないよな」

「そうさ。お前は独りじゃない。闇を見るな。光を探せ」

 伊藤は白濁した目を閉じた。

「見える」

 震える白い唇が最後の音を刻む。

「あれは光か。あああれは」

 その首が落ちた。

 国虎はそれを支え、そっとタイルの床の上に横たえた。

 豊は最後まで伊藤の手を握っていた。

 伊藤が最後に見たものが光であるように祈った。ポストモダンの時代に生きた偉大な尻拭い男に去来した光が果たしてどんな種類のものかは想像もできなかったが、それでもそれが光に属するものであることを祈った。

 国虎が立ち上がり、豊も立ち上がった。

 一際大きな水滴が、豊の首筋に落ちた。

 そして崩壊が始まった。


6

 校舎は左翼から崩れ始めた。

 崩壊は容赦なく進行し、破壊の波となって校舎の中央に向かって押し寄せた。

 細かい横揺れと大きな縦揺れが交互に二人の足元を襲った。

 国虎は伊藤の亡骸から背後の便所の入り口へ視線を移した。

「さて」

 国虎はかつて安威鞍が銅山町だった頃からそこに横たわってきた死体から、二本の脚をもぎ取った。

「行くとするか」

「ちょ、ちょっと国虎さん」

 短く呟き、決然とした足取りで歩み去る国虎の背中へ、豊は慌てて声をかけた。

 国虎は歩みを止めなかった。

「国虎さん!」

 その大きな背中が崩壊する暗黒の中に消えてゆこうとする間際、豊は思い切り怒鳴った。

 国虎は立ち止まり、ゆっくりと振り返った。

 その顔には微笑があった。

「俺の台詞を覚えてるか、豊」

「何ですか!」

 周囲を圧する破壊音の中、豊は大声で訊き返した。

 国虎は肩をすくめて見せた。

「やれやれ、一発で決めさせてくれよ。一世一代の名場面だぜ」

「だから聞こえないんですってば!」

 豊は国虎に走り寄ろうとした。

 だがその時、タイルの破片と共に天井から大きな梁が二人の間に落ちてきた。

「国虎さん!」

 豊は叫んだ。

 国虎の微笑が遠かった。

「豊、忘れるなよ!」

 国虎の声は野太く、破壊と闇に負けないだけの力があった。

「暗黒は暗黒によって消すことはできず、それができるのはただ光だけである!」

「国虎さん!」

「好きな女の顔を思い浮かべて呟けば、結構さまになる。いい言葉だ」

「国虎さん、駄目だ、行くな!」

「行くな、ってもよ」

 国虎は両腕に抱えた物体に、器用な手つきで火を点けた。

 俺にもいつかあんな手つきでライターを使える日が来るだろうか。

 豊の思いとはよそに、国虎の腕の中で焔の柱が燃え上がった。

 それは崩れゆく校舎になおとどまろうと抵抗する最後の闇の粒子を焼き尽くした。

「言っただろう。俺は死にながら生き続けてきた。そろそろ終わりにしてもいい頃だ。神様にファック・ユーを言い続けるのにもそろそろ疲れた」

 燃え盛る清浄な輝きの下で、国虎は言った。

「あの化け物なら最後の道連れにしても満足な相手だと思う。果たしてどんな姿であの世に行かされることになるかはわからないけどな。あの化け物を道連れに死ぬのであれば、かみさんも娘たちも褒めてくれそうな気がするんだ。もっとも」

 国虎は焔の柱を左手に、銀色のジッポーを右手に握った。

「これまでの生き方を考えると俺は天国には入れてもらえそうもないけどな。かみさんと娘たちは多分天国にいるだろう。俺は地獄であいつらは天国で、別々の場所で死後の時間を過ごすってことになるが、まあそれも構わないさ。一週間に一度は地獄にだって面会日はあると思うから。せいぜい地獄中の鬼や悪魔たちが嫉妬するほど濃厚なキスをやってやるつもりだ」

 国虎が右手を動かしてジッポーを放った。見事なアンダースローだった。

 これがテニス部だったなんて信じられないよな。

 豊は思った。

 まるきり松沼博久だ。

 豊は両手で銀の塊を受け止めた。

 The Derbyの文字が光る。

 そこに照り映える、オレンジ色の輝きが徐々に薄れてゆく。

「国虎さん!」

 国虎は瓦礫の雨の中を悠然と歩きながら左手に持った炎を掲げた。

「豊、女を大事にしろよ」

 国虎は見えなくなった。

 国虎の背中が降り注ぐ校舎の残骸の中に消える瞬間、その向こうに大口を開ける化け物の姿が見えたように思えた。

 錯綜した時間が訪れた。

 大咆哮が聞こえた。凄まじい衝撃が走った。校舎の崩壊が一段と早くなった。

 それらの中でどれが先に起こったのか、どれがそれに付随する現象だったのか、豊にはわからなかった。

 だが最後に聞こえたものだけは、しっかりと記憶に残った。しっかりと耳に焼きついた。豊はそれをしっかり掴んだ。

「光だ!」

 雄叫び。

 豊は瞑目した。

 便所の天井がついに完全に崩壊した。


7

 死んだのだ。

 豊は目覚めた時にそう考えた。

 光が見えた。

 それは闇に慣れた目には強烈だった。

 光は明滅を繰り返し、それが豊には死者を天国の階段へと誘う死者の輝きだと思われた。

 無限に広がる紫紺の深まりを背景に、数えきれない光が明滅を繰り返していた。

 豊はその瞬間、この広い世界に生きとし生けるものの数と、死に、そしてまさに死に逝かんとするものの数とを思った。

 己の生きていることが明確かつ簡潔に感得されたのはその時だった。

 風が夜の山を渡り、木々を揺らし、草の上を駆け抜けて、豊の頬を撫でた。

 周囲一面に虫の声が満ちていた。

 コオロギの求愛の声、鈴虫の喧嘩の音、マツムシのまどろみ。どこか遠くでは時刻を間違えたアブラゼミの歌が聴こえていた。

 ポストモダンに相応しい。

 豊は一人微笑んだ。

 アブラゼミさえもが残業をする時代。

 半身を起こすとその上から毛布が落ちた。

「目が醒めたかね」

 訛りの強い言葉がそう語りかけてきた。

 豊はその声の方を見た。

 校舎の瓦礫の上に、国虎が座っていた。

 無数の星の青白い光が、その武骨な頬骨から口元にかけてを柔らかな影で覆っている。

「国虎さん、生きてたんですか!」

 強い衝動に襲われて立ち上がりかけ、強烈な痛みに豊は喘いだ。

「これこれ、そんな身体で起き上がんのは無理だよ」

 豊は脱力して毛布の上に倒れた。

 そう、もちろんそれは国虎ではなかった。

 瓦礫の一つに腰をかけて豊の様子を見守っていた、喜多野庄町から呼び出された医師は頭を振った。

「あんたよっぽど運が良かったんだわ。他の人たちは誰も出てこねえ。どこにいっちまったのかもわからねえありさまだ」

 豊は医師が見つめる方角へ目をやった。

 豊が寝かされているのは校舎を囲むフェンスの外で、崩れ落ちた校舎はずっと遠くに見えた。

 医師は椅子代わりに担いできた瓦礫を手でさすった。

「しかしこんな学校がまだ残ってたとはな。地元じゃ連絡を受けて大騒ぎだったんだぞ。なぜって、誰もこの場所を知らなかったんだ」

「そうでしょうね」

 豊はそれだけ答えた。

 校舎の周囲で多くの人間が歩き回る靴音が聞こえる。

 大騒ぎだ。

 二十人の人間が消えた。歴史から消えた学校で。

 目を閉じれば国虎の顔が浮かんできた。

 誰かが叫んでいる。

 死体だ!それもおっそろしく古い子どもたちの死体だ!ごろごろ出てくるぞ!

「なぬー」

 医師は一声唸ると、立ち上がって校舎の方に駆け出した。

 阿鼻叫喚の地獄の中で聞こえた言葉が耳に残って離れない。

 ああ、神様!

 あれは国虎のものだったのだろうか。それとも島根の。福井の。秋田の。

 豊はジーンズのポケットを探った。

 固い手触りがあり、豊は安堵の溜息を漏らした。

 暗黒は暗黒によって消すことはできず、それができるのはただ光だけである。

 ジッポーを取り出して、星明りに照らした。

 The Derbyの文字。よく見ると、そこには懸命に走る馬の姿が彫り込んである。馬の背中には、懸命に鞭を振るう騎手の姿。

 Generousと1991という銘がその裏に入れてある。

 ジェネラスね。

 豊は笑った。国虎らしいといえば国虎らしいというしかなかった。

 それから頬を草に覆われた地面につけた。

 素朴で力強い土の匂いが鼻腔をくすぐった。生命の匂いだった。

 カヤツリグサやツユクサ、アキノノゲシの葉が豊の頬をくすぐった。

 こうして大地に寝転んでみると、虫たちの声も一層強まって聴こえた。

 ここには光が溢れていた。

 光によって生きるものたちの存在が、夜の帳の下であっても、ここが光の領域であることを教えてくれていた。夜は光の中断としてではなく、光の不可欠な延長線上に存在していた。

 国虎さん。

 豊は心の中で呼びかけた。

 あんたやっぱり凄いよ。

 豊は瓦礫に手をかけて身を起こした。

 風が絶え間なく頬を撫でている。

 山岳部の夜に夏の逃げ足は速く、既に秋がそのたおやかな両腕を山々の峰に投げかけている。

 頼りないひび割れた舗装路の上を、遠くから数台の車がやってくるのが見えた。

 そういえば今は何日なんだろうと豊は思った。

 そして誰がこの忘れ去られた廃校への救助隊を要請したのだろう。

 とてつもなく頑丈な、ジャン=クロード・ヴァン・ダム率いるコマンドが、上空からこの惨状を発見したのだろうか。

 あるいは一匹狼のシルヴェスター・スタローン。

 織田裕二だけは勘弁してくれよ。

 豊は先ほど医師が腰かけていた瓦礫の上に座り込んだ。

 身体中が痛んだ。重力が無情にも全身になれなれしくのしかかってくるのがわかった。

 それでも豊はその痛みさえ喜ばしいと感じた。

 真智の妊娠が発覚してからずっと心を覆っていた不可解な重しが取り払われていた。

 そう、真智だ。

 真智に会わなければ。

「おうーい」

 医師が小走りに戻って来た。

「おうーい」

 豊は首を巡らせたが、医師は豊に呼びかけているのではなかった。

「おうーい、こっちだあ」

 医師は両手を振って、走ってくる車のヘッドライトを誘導した。

 車は一台のナディアに二台のコロナだった。

 なるほど、現代の一番手っ取り早い神様はトヨタに違いない。

 車は豊と医師の手前五メートルほどの場所に止まった。

「電話があったんだよ」

 医師が豊に向けて言った。

「ここで働いているはずの男から連絡がないから調べてくれって電話がね。初めは誰も相手にしなかったが、あんまりしつこいし、自分で来るって言い出すし、まさかと思って調べに来てみたんだわ。そしたらな」

 医師の声は豊の耳に届いていたが、豊はそれを咀嚼せずに聞き流した。

 目の前のナディアの扉が開いた。

 星の明り、夜渡る風の声、虫の合唱。

 豊は立ち上がった。

 全身の骨格と筋肉が悲鳴を上げたが、この時の豊は自分の肉体に対して恐怖政治を敷くことを厭わなかった。

 華奢な人影が群馬県喜多野庄町安威蔵の野に降り立つのがおぼろげに見えた。

 俺は泣いてるんだろうか。

 豊はぼんやりと思った。

 構うもんか。

 車のヘッドライトの逆光に腕をかざし、豊はナディアにふらふらと歩み寄った。

 真智。ああ、真智。

 豊は自分が泣いているのを感じた。

 光の向こうから一つの影が駆け寄ってくる。

 豊は両腕を差し出した。

 そして、次の瞬間この胸に飛び込んでくるものを、もう二度と離すまいと心に誓った。







戻る