戦争


第1章

「全員に、逆転のチャンスがあるわけです」
           ――― 児玉 清 <アタック25>

 太陽が沈もうとしていた。縊死死体の膨張した顔面のように不気味な紫色に染まった空に幾筋もの煙がたなびいている。

 通電が停止して光を失った街灯が墓標の列をなして細い道の両脇に並んでいる。

 戦闘は終わった。八木山は掃蕩され炎上している。

 城太郎は木々の下に息を潜めて破壊された谷間の町を見ていた。緑地帯から見下ろす限り、弥生町と青山は完全に制圧されたようだった。既に陽光は世界から退こうとしており視認するのは困難だったが、帝国の物とおぼしき装甲車がそこここに見て取れた。

 密集する住宅のいずれにも灯りはなく、時折響く銃声も町の重い静寂を破ることはない。

 巨大な夜を迎え入れようとする家並みの間ににょきりと突き出たセヴン=イレヴンの看板だけが煌々と輝きを放っている。店舗は燃えていた。脇を流れるどぶ川に頭を突っ込んだ死体が幾つか見えた。店員か、店長か、緑の上着が血でまだらになっているのが遠目にもわかった。

 また銃声が轟き、今度のはかなり近かった。

 城太郎は緊張して落ち葉に伏せ、息を殺して待った。緑地帯からの切り落としの下にあるアパートから人間が引きずり出され、信じられないことにその彼か彼女はまだ生きていて、大声で喚き泣き叫んでいた。

 腐った枯葉の匂いが死の臭いに感じられた。

 アパートは目と鼻の先にあって、彼か彼女が泣き喚く言葉は切れ切れに理解できた。

 殺さないで、彼か彼女は繰り返しそう言った。こ、殺さないで、殺さないで。

 帝国軍の制服を着てヘルメットを被った兵士は右手に握った短い棒のような物を獲物の頭にあてがった。もちろんあれは拳銃だろうと城太郎はぼんやり考えた。そしてぱぁん!!銃口からは万国旗が飛び出して、兵士が叫ぶ。「びっくりした?」

 ぽん。軽い音と共に彼か彼女の頭が弾けた。

 アパートの夕景に水風船が割れるように脳漿が飛び散った。

 帝国軍の兵士は念入りにもう一発引鉄を引いた。死んだはずの彼か彼女の身体が大きく跳ねあがり、どさりと落ちて二度と動かなかった。

 城太郎は嘔吐した。落ち葉の上に昼食のハンバーガーが薄茶の液状の残骸となって広がった。

 胃が激しく痙攣して痛み、鼻水が滝のように流れた。つんとくる胃液の臭いに涙が出た。

 狂ってる。狂ってやがる。

 胃の内容物をすっかり吐き出してしまっても、食道の蠕動は止まらなかった。

 人殺し。人殺し人殺し。

 胃が絶え間なく収縮を繰り返し、痛みは耐え難いほどに大きくなっている。

 アパートから更に数人の帝国軍兵士が出てきた。

 前庭に集まった兵士達は何事か囁き合うと早足で道路へ消えた。

 狂ってやがる。くそ、何が起きたってんだ?

 途端に背後でぐおおおという音がして城太郎はその場に凍りついた。

 雑木林をかすめる露路を半装軌車が通りかかったのだ。

 見つかったのか?おい俺も殺されるのか?

 しかし発見された気配はなかった。装甲車はみしみしと車体を軋ませながら着実に遠ざかって行く。城太郎はふっと息を吐いて緊張を解いた。雑木林を放置していた株式会社ラルクと不景気に感謝した。

 逃げる必要がありそうだった。奴らが林に目をつけるのはまだ先のことだろうが、全ての道が制圧されれば緑地帯から出られなくなる。

 今の内ならまだ、林伝いに行けばかなり自由に行動できるだろう。

 だが、どこに行くんだ?

 立ち上がって制服に付いた落ち葉を払いかけ、城太郎は呻いた。

 家に帰ろうとは思わなかった。弥生町は死の床にある。安全を心配するような家族もいなかった。母親は死に、兄弟もいない。親父は、とそこまで考えて城太郎は考えるのをやめた。

 高校まで戻るか、城太郎は崖沿いに密集する木々を不安に満ちた眼差しで眺めた。

 この株式会社ラルクの管理地である雑木林は50mも行かない内に住宅地にぶつかる。その50年代製の木造住宅地の向こう側に市が管理する緑地帯が広がっている。緑地帯も仙台愛宕高校までは続いていないが、道路1本隔てて自然の森に接している所までは行ける。そこから自然の森(愛宕小学校に通ったことのある人間はそう呼ぶ)に入れば森の中を歩いて愛宕小学校と愛宕高校に辿り着くことができるだろう。

 もしも高校がまだ安全であるのならの話だが。

 不吉な考えに冷たい汗がみぞおちを流れるのを感じた。

 その可能性は十分にあった。愛宕高校が既に安全ではなくなった―――帝国に制圧されている可能性のことだ。

 なるようになるだろうさくそっ。

 城太郎はよろめくように立ち上がり、背中をかがめて雑木林を歩き出した。

 安全か安全でないかは城太郎の中で大きな問題ではなかった。考えることを放棄していた。重要なのは炎上する八木山でも高校を占拠しているであろう帝国の陸戦部隊でもなく、ただ動くことだった。高校へ向かって歩くこと、別に目標が高校でなくても良かったのだが、何かへ向かって動いていることが大切だった。

 濃紺で上塗りされた夕焼けに砲声が轟き渡りセヴン=イレヴンの看板付近で派手な炎が上がったが、城太郎は振り返ることなく木々の間をつまずきつつ急いだ。


第2章

「岡村さん!どうしたんですか岡村さん!!」
     ――― 矢部 浩之 <ナイナイナ>
 

 5月、仙台の空は青く晴れ渡り、流れる風は心地良く緑の梢を揺らしていた。

 昼過ぎのどこかけだるい空気の中で、風に泳ぐ鳶の鳴き声が物悲しくも脳天気に聞こえていた。

 教室では世界史の教鞭を取る飯田の甲高い声が高くなり低くなりし、殷墟についての偉大な発見を褒め称えている。

 城太郎はロッカーを開くとそこに教科書を放り込んだ。

 平たく潰れた鞄を手に取ってロッカーの蓋を閉める。飯田の声はまるで歌か何かを口にするように朗々と殷の滅亡を語っている。

 城太郎は世界史の授業を後に昇降口へ向かった。

 午後の授業は世界史とリーディングだけだ。そして、リーディングの大橋の授業はケツが割れるくらい面白い。

 がらんとした昇降口の下駄箱から靴を取って中庭へ向かった。中庭を抜けて清掃業者用の舗装路を下りて行くのがグラウンドへの近道だった。週末の午後、体育のクラスもない校庭はがらんとして気持ちが良かった。

 少し急な傾斜になっている小道を下りきると、校舎から離れた場所に半ば崩れつつもけなげにたたずむコンクリートの掘っ建て小屋が見えた。仙台愛宕高校の誇る体育会系部室棟だった。

 建物の前に一台の原付が停まっていた。塗装が剥げ落ち掛けた車体はあろうことかガムテープで補強され、乗り手の暴虐に耐え忍ぶようにじっと暖かな陽光を浴びている。

 城太郎は野球部部室の扉前で微笑してホンダのデュオを蹴り飛ばした。ロックされていないハンドルが抗議するようにのんびりと回った。

「泰彦!!」

 城太郎は醤油で煮付けた筍にクランベリージャムを塗りたくったような扉の向こうへ叫んだ。

 春の昼下がりの静けさの後に答えた声は気候に相応しく眠たげだった。

「放っとけ、俺は俺のケツだけで充分だ」

「ところが俺は自分のケツじゃ満足しないときてる」

 黴と得体の知れない染みに覆われた板の奥で短い罵りが聞こえた。

「神様は授業の時間さえ俺を寝かせてくれねえ」

「授業の時間は起きてる時間だ寝るための時間じゃない悔い改めろよ泰彦」

 さらに数発の罵りを爆発させて栄光ある仙台愛宕野球部の扉は開いた。

「何の用だ糞ガキ」

 不機嫌な声に城太郎はにやっと笑った。

「鍵を貸してくれ」

「鍵?」

 泰彦は寝惚けた目をしばたかせた。

「部活はどうするんだ?」

「休みに決まってるだろ」

 城太郎は鼻で笑って答えた。

「輝かしい球遊び部のお宅と違ってうちはどうせ部員1名ですからね」

 仙台愛宕高校自転車部部長蓬莱城太郎は、仙台愛宕高校野球部部長安田泰彦の胸を拳で軽く突いた。

「俺様はこんな天気の良い日には誰にも気兼ねせず昼寝を楽しもうと思し召したわけだ。で、わざわざ野球部の部室くんだりまでおまえの部屋の鍵を借りにお越しになったんだよ」

 城太郎は上機嫌で言ったが、泰彦の苦い表情に途中で口をつぐんだ。

「どうした泰彦」

「ああごめんな城太郎」

 不精髭を人差し指で掻いて泰彦は言った。

「あの部屋今日駄目なんだ」

「どうして」

「友達が来てる」

 泰彦は言ったが城太郎と目を合わせようとしない。

「だから今日はちっとまずいんだ」

「泰彦」

 言い訳がましい言葉を遮って城太郎は言った。

「女か」

 沈黙が、頭上にそよぐ新緑と燦々と降り注ぐ陽光を際立たせ、過ぎ去り行く春と訪れようとする初夏を感じさせた。

 若葉を揺らす風は快く、輝く光は眩しい。

 泰彦はそっと後退すると絵の具をごちゃ混ぜにして叩きつけたような色の扉を閉めた。

「ばいばい、城太郎」

「ナニ腐らせて死にやがれ」

 城太郎は思い切り扉を蹴りとばすと大声で笑った。

 それが、昼間の出来事だった。

 
第3章

「おーい山田君楽さんの全部持ってってくれ……そんなこと言っちゃいけないよ師匠のことを何だと……はい歌丸さん……おーい山田君歌さんのも全部持ってっとくれ」
     ――― 三遊亭円楽 <笑点>
 

 空が燃えている。

 絶望ってものを知ってるか?俺は知らない。知らなかった、今までは。けど今なら教えることができる。熟知しちまったからなくそっ。

 城太郎は錯乱した頭で思った。

 絶望、それはあるべき場所にあるべきものがないのを知ることだ。3年間通い慣れた高校が瓦礫の山に変わってしまったのを見ることだ。

 空が燃えている。しかし燃えているのは空だけではなかった。

 町全体が死のうとしていた。八木山弥生町、香澄町、青山、長嶺、向山、萩が丘、見渡す限りの町並みが、今や破壊され、炎を噴き上げ、血を流し、苦悶の絶叫を吐きながらのたうっている。

 放たれた火は木造住宅を飲み尽くし、黒煙を上げて更に延焼してゆく。時折起こる爆発は住宅地のいたる所で火の粉を撒き散らし、その度に空の色を黒から鮮やかな赤色に変える。

 帝国軍の巨大な万力は町全体を締め上げ、完全な焦土に変えようとしていた。

 城太郎は目眩を感じて下生えの上に座り込んだ。

 俺は完璧にわかってる、城太郎は鈍痛に疼く頭で思った。俺は完璧にこの状況を理解している。全ては明白だ。

 俺の逃げ場がなくなった。たったそれだけのことだ。凄い。何て合理的な状況把握。自転車競技なんか目指さずに軍人になればよかったな。

 全身を抗い難い脱力感が襲い、城太郎は木の幹に背中を預けた。

 まだ市の緑地帯の中にいる。高校に行くにはこの森を500m程下に降らなければならないが、愛すべき仙台愛宕高校は石と鉄筋と火の塊に変わってしまっている。

 城太郎の座っている場所からは仙台の中心街へ向けて降ってゆく八木山の町がほぼ一望できた。

 夜は確実にやって来たが地上の炎は町から彼らを締め出していた。空を見上げれば星はなく、そこにはただ炎と煙の巨大で不気味なコントラストがあるだけだ。

 ふと、世界はこのまま終わるのだろうかという疑問が頭をよぎった。

 ある日突然世界の終わりがやって来る。心地良い5月の昼寝から目覚めてみると自分の町が断末魔に身悶えしているというような方法で。

 それはそうなのだろうと城太郎は思った。トイレに水を流すように、汚い言葉を吐き捨てるように、世界の終わりがやって来る。始まった時と同じように、世界というゲームは不公平なまま終わるのだろう。

 これは全てのマスに相手のホテルが建ったモノポリーで、俺がいるのはパーキングなんだ、次のロールで12の目を出さなければゲームは終わる。

 久しく絶えていた銃声が響いた。城太郎が気づいていなかっただけかもしれないが。

 ぽんぽんぽんという、人の命を奪うにはあまりにも軽すぎる自動小銃の響き。

 絶命の叫びは聞こえなかった。代わりに銃撃が続く。

 逃げようとしているのなら、奴はおりたくないわけだ。城太郎はだらしなく座り込んだまま考えた。

 ダイスを振って、いち、に、さん……。奴が出すのは12か?それともボードウォークかカリフォルニアか、電力会社にでも止まるのか?

 絶叫。腹の底に響く半装軌車の駆動音。

 絶叫は、高くなり低くなりしてなかなか消えなかった。くそ、何故黙らないんだ?そんなにお前にとってこのゲームのルールは不公平だったか?

 気がつくと、城太郎は両手で頬の肉を掴み捻り上げていた。離そうとしても、硬直した指の筋肉は、それが元々不随意筋だったと主張するかのようになかなか動こうとしなかった。

 叫びが耳に残って離れない。心を真っ黒な恐怖が覆ってゆくのを感じた。城太郎は身体を2つに折ると額を膝にこすり付けた。全身ががくがくと震えていた。大声で喚き、泣き叫びたい衝動が突然湧き起こった。

 激しく震えながら自分の口が開き、声帯が声を絞り出そうとするのを必死でこらえた。死にたくないと思った。我ながら、素直でアホな感想だった。

 死にたくない。少なくとも、今はまだ。

 飲まれたら負けだ。息を止め、思い切り力んだ。全身の腱が攣りそうになって悲鳴をあげたが、城太郎は力を緩めなかった。呼吸と一緒に閉じ込められた絶叫が、ゆっくりとしぼんでいく。

 心を満たした恐怖の影が一時的に支配を諦め、精神の覇権を渋々放棄してからも、城太郎は息を止め続けた。

 48,49,50,51,52……。

 できる限り冷静に数を数え、思考を整理する。俺はまだ降りちゃいない。相手はダイスを振り終えて、俺の手番が回ってきたのかもしれないけれど、俺はまだゲームに残ってるんだ。分は悪いがとにかくまだ負けたわけではない。

 そっと力を緩め、息を吐く。

 とりあえず逃げなければならない。緑地帯はサバイバルゲームをやるには十分に広いが現実の軍隊から匿い続けてくれるほどには広くない。

 だが、どこへ?

 それが問題だった。森の周囲は帝国軍が制圧している。まだその森の中まで狩の手は及んでいないが、油断のない目が監視しているに違いない。

 その時一枚の光景が電光のように脳裏に閃いた。アパートから引きずり出された人影に撃ち込まれる銃弾と、整然と立ち去る兵士達。

 まさか。

 浮かびかけた思いつきを城太郎は否定しようとした。

 まさか、そんなことはできっこない。

 まさか。

 城太郎は闇の中で考え続ける。

 再び散発的な抵抗が始まったらしく、止みかけていた銃声が砲撃に混じってまた盛んになりつつあった。


第4章

「自己評価額はお幾らですか?」
     ――― 島田 紳介 <開運!お宝なんでも鑑定団>
 

 再びアパートが見えた時、城太郎は、俺は果たしてマヌケなのだろうかと考えていた。これからしようとしていることを考えるとどうもその可能性は高いようだった。

 自分のゲロをわざわざ踏みに戻って来たわけだ。極度の緊張と恐怖で分離した思考がそれぞれ勝手に仕事をしている。城太郎にはその二重世界が奇妙に気持ち良かった。雲の上を歩けるのならこんな感覚を覚えるのだろう。

 痩せて萎びたクヌギの枝に手をかけて、慎重に外の世界をうかがう。

 俺がマヌケなだけなのか、帝国が俺に輪をかけてマヌケなのか。薄赤い照明を浴びるアパートの敷地に動く影はなかった。

 株式会社ラルク管理の雑木林からアパートまでは直線にして40mの距離がある。しかしおそらく見つからずにたどり着けるだろうと城太郎は思った。街灯は死んでいるし、火災も遠い。この区画にだけは夜が忠実に進入している。

 行けそうだ。口の中にアドレナリンの味が広がった。

 とりあえずアパートまでたどり着ければ第1関門は突破したことになる。もっとも、問題はその後なのだが。

 城太郎は深く息を吸い込むと、もう一度アパートまでの距離を測りなおした。40m、これは間違いない。だが、何分かかるだろう?平地なら6秒強を出す自信はある。4月の体力測定で城太郎は50mを6秒66で走った。

 しかしこのコースは平地ではない。アパートに向かって緩やかに落ち込んでゆく林は丁度両者の中間地点で途切れ、急な崖となって7m下まで切れ込んでいる。崖を何分、いや何秒で下り切れるか。

 崖は昭和50年代の石垣で覆われている。手掛り足掛りには困らない。随分下りやすいに違いない。

 それでも、林を飛び出してアパートの陰に滑り込むまでの間、城太郎の身を隠してくれるものが何一つないことに変わりはない。あるとすれば夜の闇だけだが、それさえも1本の懐中電灯で切り裂かれる。

 まぁ、見つかればそれまでだろうさ。諦めというより思考停止に近い心境で城太郎は吐き捨てた。子供の頃夢中になったドラえもんの台詞が頭に浮かんだ。目は何のために前に付いていると思う?決まってる、後ろに付いてたら髪の毛が邪魔だからだ。

 進むしかない。

 城太郎は林の端にそっと寄って行くと下を覗き込んだ。7mというのは案外高かった。背中をねっとりした汗が流れ落ちる。

 手近な石組みを掴み、足を慎重に下ろす。

 上手くいく。だが手に汗が滲んでいる。くそっ。

 割れた石垣の間から草が伸びている。草を掴むな、掴んだら滑る、絶対に。

 1歩1歩、気が狂いそうになる位慎重に、城太郎は石組みを下っていった。

 どこまで下りた?まだ1cmも下りていないような気がする。

 実際には半分以上下っていた。あと少し。

 不意に周囲が白けた光で照らし出された。

 装甲車だ。思う間もなく指が滑っていた。コマ送りのアニメのように城太郎の上体がのけぞり、石垣から離れてゆく。く、そ。

 目が眩み、意味をなさない情報が大量に頭脳の回線に溢れ出る。

 藤子不二雄。激河大介。寺田ヒロオ。足塚茂道。墓の上で踊るバーコヴィッチ……。

 初めての車の運転。親父の車を無断で借りて行ったドライヴ。助手席で済ませた初体験……あれは……。

 背中から地面に落ちた。全く痛みを感じなかった。落下の衝撃は別世界の出来事のように遠かった。

 城太郎は受身の姿勢から跳ね起きて走った。多少ふらついたがとにかく走った。アパートはすぐそこにあった。

 道路からは死角になるアパートの裏手に滑り込むと、壁面に張りついて息を殺した。

 装甲車のライトはもう見えなかった。ぐぅぅぅうーという半装軌車のそれとは違う唸りを上げて、ディーゼルエンジンが遠ざかって行く。

 思わず息が洩れた。全身が汗の脂でねとついている。

 濡れた身体に染み込む夜の風は冷たかった。

 幸運だった。信じられないくらいに幸運だった。

 全身の関節が震えだし、それを抑えるのに膝を抱えてしゃがみこまなければならなかった。

 第1関門は突破した。城太郎のターンでサイコロの目は2つとも6だった。例え、あと何百回ロールしなければならないのだとしても。

 突如として背中が痛み、そのあまりの激しさに城太郎は呻いた。

 骨は折れていない。罅が入ったわけでもない。なら好きなだけ痛がりな。

 城太郎は悲鳴をあげる身体を無理やり立ち上がらせるとゆっくり歩き出した。

 確かに幸運だったが俺の読みも正しかったわけだ。その証拠に装甲車は何の注意も払わずにこのアパートを素通りして行った。

 城太郎は野獣めいた笑いを唇に浮かべると手近な一室の扉を開き、中に入った。帝国の兵士が紳士じゃなくて助かった、お蔭で俺が他人の家を拝借できるのだから。

 1つ目のハードルはクリアできたが、城太郎は安堵を感じなかった。サイコロはすぐに回って来そうだった。それまでにしなければならないことがたくさんあった。

 たくさんありすぎた。


第5章

「チャレンジに成功すればあなたは百万円を手にすることができます。ただし、忘れないで下さい、失敗すればあなたが獲得した賞金は全てゼロになります」
     ――― 古館 伊知郎 <クイズ!悪魔の囁き>

 安い合金の扉を後ろ手に閉めると外の世界が随分遠く感じられた。

 砲声と銃声は不思議の国のアリスに出てくるティー・パーティーのように虚ろで、何の意味も持っていない。

 ルイス・キャロルはロリコンだった。アリスはそれに相応しい罰を受けたのだったか?

 現実が遠退く代わりに鈍重でしぶとい眠気が襲ってきて、城太郎はよろめいた。

 駄目だ、休息を取る時じゃない、今はまだ休めない。

 目眩を振り払って玄関から上がる。土足で板張りの床に上がることに後ろめたさを感じた。帝国の兵士はここで靴を脱いだのだろうか。

 明りのない部屋は真っ暗で、閉めきったカーテンがわずかに赤く染まっていた。戦火は八木山弥生町を離れたようだ。

 闇に慣れた目は探していた物を簡単に見つけ出した。

 CDラジカセ。近寄って確かめるとaiwaの製品だった。大手の量販店で八千円程度で売っているやつだ。震える手でスイッチをONの位置に滑らせる。

 電源が入らない。瞬間パニックを起こしかけたが、この地区への送電が停止しているのはわかっていたことなのだと自分に言い聞かせた。

 そう、だからもう一つ、探さなければならない。ラジオ付きCDラジカセよりはぐっと確率は下がるが、これからの計画の成功率に比べれば、お遊びのようなものだ。

 血走った目で部屋を見渡す。24インチのカラーテレビ、ビデオデッキ、CDの山、ガラス張りのミニテーブル、ジャンプやSAPIO等、散乱する雑多な雑誌……。

 あった。

 城太郎は壁掛けのアナログ時計と床に投げ出してあったデジタルの目覚し時計を掴むと、電池をほじくりだした。これで2つ。テーブルの上に無造作に置かれた携帯用ゲーム機から、さらに2つ。NEOGEOPOCKETとは泣かせてくれる。

 まずい。城太郎は唇を噛んだ。

 後が思い浮かばない。何か、あるはずだ。何かが。何だ。

 動いた拍子に足が固い物を踏みつけて大きな音を立て、城太郎は飛び上がった。靴の下でNINTENDO64が恨めしげに基盤を覗かせていた。

 苛立ちが燃えあがる炎のように湧き起こり、城太郎はコントローラーを床に叩きつけた。何かが外れる音がして、コントローラーの振動パックが転がった。

 思い切りパックを蹴り飛ばした。振動パックは壁に当たると呆気なくばらばらになった。

 微かな赤い光にちらりと光る物があった。俺はバカだが幸運だ。

 振動パックには2本の電池が差し込まれていた。単三電池がこれで6本。

 CDラジカセを逆さにして電池をぶちこむ。

 餌をもらったラジカセは3度パワーランプを点滅させ、動き出した。

 城太郎はラジカセを置くと同調ダイヤルを回した。

 指が激しく震えていた。


第6章

「倍率ドン!さらに倍!」
     ――― 大橋 巨泉 <クイズダービー>

 ラジオは1260kHzで同調した。東北放送の周波数だ。しかし放送しているのはTBCではなかった。

 部屋が暗い。城太郎は思った。暗すぎる。誰かぼくのチョコレートを食べなかった?今日食べようと思ってとっておいたのに。

―――投降して下さい。あなたが住んでいる地域は制圧されました。投降する際は右腕に白い布を結び両手を耳より高い位置に掲げておいて下さい。それらの条件を満たしていない人間はその場で射殺します。こちらは帝国軍民生局です。繰り返します。投降して下さい。あなたが住んでいる地域は制圧されました。投降する際は右腕に白い布を結び……

 強烈なパンチを浴びたように目眩がした。

 機械的な女の声は特上のショートケーキにナイフを立てるように城太郎の脳髄に突き刺さった。

 キヲツケロ マトリックス ガ ミテイル。

 バカな。

 明らかに放送はあらゆる地域に向けられたもので、しかも録音再生だった。一体、照らすものもない夜の闇の中で、腕に結ばれた白布に誰が気づくというのだろう。

 女の声をした機械音(城太郎は心から合成であることを祈ったこんな原稿をこんな調子で読み続ける女がいたら男は全てインポになるだろう)から電源を切って逃れたかったがそうするわけにはいかなかった。

 情報を集めなければならない。

 城太郎は震える指先を滑らせて1000kHz前後の周波数を探した。時折入る国営放送でもTBCと全く同じ声が全く同じ原稿を読んでいた。

―――投降して下さい。あなたが住んでいる地域は制圧されました。

 俺が投降する時はケツに首を突っ込む時だくそったれ。

 朝鮮放送が辛うじて入った。語学でハングルを選択していれば良かった。中学で城太郎が選択したのは英語で、高校での第二外国語はドイツ語だった。文部科学省が高校語学を第三語学まで増やしていれば今頃は。

 突然ABCが入った。城太郎は天国にいた。

―――こちらは大阪朝日放送です。

 確かにアナウンサーはそう言った。帝国の大いなるダッチワイフとは比べ物にならない色香に城太郎の耳は痺れた。

―――……臨時放送をお伝えしています。

 大いに結構、城太郎は固唾を呑んで聞き入った。

―――東北地方で……全戦線に渡って攻勢が……帝国指導評議会は焦土作戦を……ソヴィエト連邦はじめ17カ国が非難決議……ワシントンでは……を歓迎……帝国評議会副主席……英仏外相と会談……………………沈黙。

 電池が切れた。

 引っ繰り返して電池の位置を交換しても赤いパワーランプは点かなかった。

 いいだろう、上等だ。知りたいことは全部わかった。ケツからひねりだしたものが一杯詰まった俺の頭脳に乾杯だ。

 城太郎は身に沁みる夜の暗さを感じていた。

 自分の顔が青ざめているのがわかった。

 無情なモノポリーは2個のダイスを城太郎の手元に置いた。城太郎の手番だった。


第7章

「それでは桂南光相談員のご意見を」
     ――― 笑福亭仁鶴 <生活笑百科>

 世界が自分の物になった時、何をしたいと思うだろう?

 おそらく俺の思考は現実から乖離し始めていると城太郎は思った。頭の芯が鉛を含んだように重い。

 時間の感覚がない。この世界で時計など誰が信用するだろう。

 城太郎は薄赤く光る夜の闇を透して、ぐにゃりと曲がった時計が木々の枝に布団を干すように掛けられているのを見たように思った。いや見た。もし現実と思考がかけ離れつつあるとするなら、それは現実の方が俺を見捨てようとしているってことなんだろう。

 何をしたいと思うだろう、世界が自分の物になった時?

 あながち馬鹿な問じゃないな。城太郎は思った。

 世界をモノにした人間が最初にやるのはトイレに入ってクソをたれ、ウォシュレットの動きに合わせてケツを振ることだろう。そしてその後冷蔵庫を開け、上等のバナナ・ケーキを取り出して胃袋に押し込む。

 結局、世界をモノにするということは平凡な日常に生きるということなのだ。それ以上でも以下でもない。5時間以上の睡眠、2000kcal以上の食事、快便、そこそこの会話、まずまずのセックス。

 誰もがそこにあると信じて疑わない、そしてそうあることが既に義務であるもの。

 それが現実だ。現実世界とは日常なのだ。

 世界征服とはちょび髭を生やしてスターリングラードに突撃して行くことで達成されるものではない。世界の王になるためにはただ一つ、日常を自分の足の下に抑えつけておくだけで良い。日常が―――多くの人間がその頭に「退屈な」とか「平凡な」を付けて呼ぶ日常が、おとなしく彼らに屈従している間彼らは王様でいられる。そして自らの足を奴隷のようにうやうやしく支えているその家畜へ向かって唾を吐くことさえできる。日常という名の家畜は馬鹿で愚鈍で横柄で、我慢できない代物だから。だがひとたびそいつが、侮蔑の対象である家畜が、主人に対して牙を剥いたら、もうそれでおしまい。

 哲学上最大の問題。「最高の芸術形式を答えよ」。

 注意した方がいい。あんたの飼ってる家畜は獰猛だ。簡単にあんたに噛みつくだろう。そうしないのは奴にそうする気がないだけさ。眠りから醒める時、音楽が終わる時、一人で夜道を歩く時、十二分に注意することだ。一発の銃声、燃えあがる家並み、投下される爆弾、そんなものであんたの世界は簡単に終わる。知らなかったのか?

 風が吹いた。

 微かに血と硝煙と火災の匂いが漂ってきた。

 城太郎はにやりと笑った。何故そうしたのか理解らなかった。でもどうでもいいと思った。

 城太郎は小窓を閉じてアパートの部屋に戻った。

 ガラステーブルの上に小さなディパックが置かれている。この部屋で見つけた物だ。中には水筒に詰めた1リットルの水と冷蔵庫から失敬した少量の食物、役に立ちそうな幾つかの小道具が入っている。懐中電灯、ナイフ、そんな物だ。

 そろそろ時間だ。

 俺はもう一度サイコロを振る。どの目が出るかは―――知ったことか。そうだろ?

 城太郎はディパックを肩に掛けると玄関に向かった。

 どこかで砲声が轟き、安物を張った部屋の内装がびりびり震えた。

 城太郎は立ち止まり、虚空を睨んだ。唇が動き何か音を刻んだ。不敵な笑みは消えない。

 狂気、とも見えた。

 だが誰がその内実を知ろう。

 城太郎は合金の扉の把手に手を伸ばし掛け、その手を一度宙に留めた。そうさせたのはためらいであったかもしれない。

 城太郎の掌が把手をゆっくりと握った。

 扉が開く。その軋み、油の臭い、流れ込む風の音。

 赤い夜へ城太郎は音もなく滑り出る。

 夜の闇は深い。



――― 終 ―――







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