水の祝祭


 高い、高い空。どこまでも青く澄み渡り、どこか遠くで海とつながっている空。

 その空目指して登って行くような坂道を五月の太陽が照らしている。

 振り返れば白い街並みが眼下に広がり、昼前の家々はのどかな静けさに包まれている。

 一息ついて自転車を押す。心地良い重さが腕にかかる。

 吹き抜ける爽やかな風に葉桜が揺れる。

 その下の塀で、けだるげにのびた白猫がのんびりとあくびして片目でこちらをじろりと睨む。

 坂の上まで延々続く煉瓦造りの家並みは、まるで空中庭園の神殿のように見える。

 口笛を吹くと、白猫がまたあくびをして立ちあがった。

 ぷいと塀を飛び降りて向こう側の庭へ消えてしまう。

 坂の下からやって来た緑の小型車が速度を緩めると、窓が開いて茶色い顔が首を出した。

「水の祝祭おめでとうアンテルネラ」

「水の祝祭おめでとうペリミエラ」

 アンテルネラは車の窓から顔を出した少年に言い返した。

「もうみんな集まってるよ。乗っていかないかいアンテルネラ」

 ペリミエラはそう言ってアンテルネラを誘ったが、アンテルネラは首を振って断った。

「寄って行くところがあるんだペリミエラ。だから少し遅れるかもしれないけれど必ず行くよ」

「こんにちはアンテルネラ。エタシリスは元気?」

「こんにちはカルラおばさん」

 運転席で優しく微笑むペリミエラの母親に、はにかみながらうなずいてアンテルネラは言った。

「元気だと思います。一度帰るって電報がありました」

「そう。楽しみね」

 緑の小型車は軽快な音を立てて坂を登って行く。

 アンテルネラはしばらく子犬に似たその後姿を見送り、また、坂を青空目指して歩き始める。

 ひばりがついと天球の片隅を横切り、とんびが昼の食事時をか細い声で知らせる頃には、アンテルネラはもう坂を登りきって崖沿いの緩やかな曲がり道を自転車で走っている。

 子供の笑い声がして、手に手にジェッセの若枝を振りかざした子供たちが、はしゃぎながら駆けて行く。

 切り立った崖を幾重にも重なり包む道が、はるか眼下に海蛇のように見下ろせる。

 風を切って走るアンテルネラは、対向してくる自転車を見つけて速度を緩めた。

「水の祝祭おめでとうアンテルネラ」

「水の祝祭おめでとうロシニス」

 栗色の髪のロシニスは自転車をターンさせるとアンテルネラの隣りに並んだ。

「ジェッセ樹には行かないのアンテルネラ」

「いいや、でも寄るところがあるんだ」

「せっかくのお祭りなのに」

「せっかくのお祭りなのにね」

 からかうようなアンテルネラの口調にロシニスはくすくす笑う。

「じゃあ待ってるからねアンテルネラ。若枝の女王が決まる前には隣にいてね」

「うん、必ず行くよロシニス」

 手を振ってロシニスと別れると、自転車は小さな森の小道に入って行く。

 木洩れ陽が射す木々の間を二匹の蝶が舞っている。

 昼食を終えた栗鼠が自転車を追ってよちよちと枝から枝へ飛び移る。

 舗装されていない乾いた土の上をかたことと車輪が滑る。

 思いきりペダルをこぎながらアンテルネラは森の道を蒼穹柱の原へ急ぐ。

 深い緑色のカーテンのような木々の下を走り抜けると、突然光が渦を巻いて身体全体を包み込む。陽光の驟雨を浴びるような錯覚に目眩しながらアンテルネラはたんぽぽの咲き誇る野原の道をひた走る。

 顔を上げれば蒼穹柱がまるで落ちてきた青空のかけらのようにずっと遠くに突き立っている。

 淡いとも、深いともつかない蒼穹柱の青色は、近づくにつれて虹色に輝き、りんと音にならない音を発してそよ風の中に立っている。

 小道は一面のたんぽぽの間を縫ってその蒼穹柱の根元までのびている。小道の終点には、蒼穹柱と比べるとまるでお菓子の箱に見える白い建物が置かれている。

 アンテルネラは白い建物の前に自転車を止めると、外国語で書かれた看板のある大きな硝子の扉からは入らずに、鞄を肩に掛けて裏手に回った。

「こんにちは」

 木製の扉を開けて中に入ったアンテルネラは小さな声で言った。

「こんばんは。この晩は特に冷えるね」

 大きな棚から青白く明滅するクリスタルの小壜を出し入れしていた丸眼鏡の老人が、無愛想につぶやいた。

 アンテルネラは少し考えるように立ち止まって、薄暗い通路の先を眺めている。

 赤熱灯で照らされた建物の中は板張りで暖房がなく、行き来する白衣の男たちが吐く息が時々白く凍っている。

「おいおいこれはどういうことだ」

 小太りの陽気そうな男が、棚からクリスタルのフラスコらしいものを取り出して青白く震える中身を手に持った壜に注ぎ込むと、立ちつくすアンテルネラに言った。

「君のようなのがこんなところにいちゃいかん。はやく戻りたまえ」

「あのうセラトスリウムさんはおられますか」

「なにセラトスリウムに用事なのかね」

 丸い顔を寒さで赤くした男はちょっと驚いたようにアンテルネラを眺めた。

「セラトスリウムなら水晶の心臓の棚だ。君、君が思う以上にここは昏い。気をつけて行きたまえ」

「ありがとう」

 アンテルネラは男の指した方へ赤暗い通路を進んだ。板張りの床がぎしぎしきしみ、赤熱灯が頭の上でゆらゆら揺れた。

 そっと歩く間にも、アンテルネラは横目で通路沿いに並んだ棚の硝子戸を盗み見た。

 その内側には実に多くの器具や機械が置かれている。それらの九割方は半透明の不思議な構造をした試験管で、青白くひき込まれそうな光をたたえている。

 棚の切れ目には小部屋があって、白衣を着た男たちが星を熔かしたように輝く液体を固めてみたり流してみたり、思い思いの実験に打ち込んでいる。青く光る液体は、そうして形を変えられるたびにりいん、とも、きいんともつかない音を発してさらに輝くのだった。

 アンテルネラは通路の行き詰まりにある一際暗い小部屋の前で立ち止まった。けれどその中をのぞくのを怖れるように固まってしまう。

「こんにちはセラトスリウムさん」

 ありたけの勇気を振り絞ったその声は情けないくらいに小さかった。

「こんばんは、わたしの名前を呼ぶ子供」

 恐る恐るのアンテルネラの呼びかけに、ひどく背中の曲がった白髪の老人は机から顔をあげた。

 赤い電燈と青い燐光にふちどりされた老セラトスリウムの顔には表情がない。陰になっているのか、それとも顔に暗黒を飼っているのか、セラトスリウムの顔にはただ真っ黒な影だけが漂っている。

「この夜は特に暗いね。風が騒いでしかたない」

 闇を持つセラトスリウムはアンテルネラの方へ顔を向けて言った。

 地底より遥かに深い世界の深淵から響いてくるようなセラトスリウムの声を前に、アンテルネラは言葉を失って立っていた。

 しかしアンテルネラが一度まばたきをして目を開くと、

「こんばんはアンテルネラ。エタシリスは元気だろうね」

 そう微笑みかけるセラトスリウムの顔からは、もう一片の影さえ打ち払われ、そこには物静かなひとりの年老いた研究者がいるばかりだった。

「さあ入りなさいアンテルネラ」

 セラトスリウムはそう言って椅子を立ち、棚と棚の間の狭い小部屋を奥へ歩いて行く。

 臆したように立ち尽くしていたアンテルネラだったが、暗がりに消えようとするセラトスリウムの後を追って大股に歩き出した。

 しかし歩いても歩いても差は縮まらない。それどころか何時の間にか老人の姿は見えなくなり、ついには電燈の明りさえ届かない通路を歩いているのだった。

 その通路は狭いのか広いのかさえ判然としない。棚はなくなったのにあの青白い燐光はますます強まり、まるで星の海を漂っているように感じられる。手を伸ばせば柔らかい感触があり、けれどそれは壁ではなく、腕を暖かく包み込んで押し戻してくる。

 アンテルネラは自分がゆっくり歩いているのか速く歩いているのかも判らず、浮遊する海藻のように先へ進んだ。

 すると突然青白い光が奔流となって溢れ、周囲の何もかもを流し去ってアンテルネラ一人が取り残された。

 気が付けば駅だった。

 異様なほど閑散とした駅舎にアンテルネラはぽつねんと立ち尽くしていた。

 大時計が銅鑼を打つ。重く厚いその音は七回響いて消える。白亜の大広間には、ぽつりぽつりとまばらに人影があるのみ。

 古い紋章付きの上着を着けた騎士のような男が大時計の下に立っている。

 アンテルネラはポケットから古びた茶色の紙切れを取り出すと、白い大理石の床を横切って男の方へ歩いた。

「汽車は出ないよ坊や。エンデルクランで戦争が始まったからね。私もここで足止めなんだ」

 すれ違った鳥打帽の男がアンテルネラにそう声を掛けたがアンテルネラは歩き続ける。茶色の紙切れを握り締めた指が白くなるほど力をこめて。

「今度の戦争は何年続くだろうな」

 ベンチに座った二人の軍服の男が低い声で話している。

 アンテルネラは閑散とした白い大広間を歩き続ける。

「切符を拝見」

 厳めしい顔つきの駅員に、アンテルネラは無言でしわくちゃになった紙切れを突き出した。

 駅員は一瞬眉をひそめて紙切れを受け取り、ああ、とうなずいて道を開けた。

 そこはサルヘナ神殿の彫刻が施された大理石の分厚い壁だったが、駅員が横にどくのと同時に大きな扉に変わった。

 音もなく開いたその扉を通って、アンテルネラは暗く長い階段を降りた。

 駅名の標識さえないプラットホームにはガス燈の寒々とした明りが灯るだけだ。

 黒い塊のように闇がわだかまる線路の上を吹き抜ける風は冷たく、アンテルネラは身体を縮めてベンチに座った。

 季節の匂いも、夜の薫りもない硬質の風を浴びながら、アンテルネラの中で時間は過ぎ去ってゆく。

「隣りは空いているかな」

 顔を上げるとそこには一人の老人が静かにたたずんでいる。

「セラトスリウムさん」

「やはり風が騒ぐのう」

 唸るように言って闇を持つセラトスリウムは腰を下ろす。

「食べるかね。君はあまりにも小さく、疲れ切っている」

 差し出された紙袋に入っていたサンドイッチを、アンテルネラは黙って食べた。

「なぜ風が騒ぐのか判ったよアンテルネラ」

 静かなセラトスリウムの声は誰もいないプラットホームの隅々に染み透っていく。

「なあアンテルネラよ」

 セラトスリウムは闇を秘めた声で語る。

「人は出逢わなければ良いものなのかねえ。出逢いがあれば別れがある。そのために辛く悲しい思いをするぐらいなら。だがしかしなあ」

 年老いた賢者はその言葉を噛み締めるように息をついた。

 卵のサンドイッチをアンテルネラは飲み込み、ごくんと咽喉を鳴らした。

「過去がなければ人は人たり得ないのだから。出逢いも別れも持たない人間は生ける死者と変わらない。ならば出逢うことにはとても大切な意味がある……例えそれが照らすものとてない夜の闇より昏いとしても」

「隣りはよろしいかしら?」

 上品なその問いかけに、驚いてアンテルネラは声の主を見上げた。

 そこには小柄な老婦人がいて、アンテルネラの隣にはもう闇もて語るセラトスリウムの姿はなかった。

「あなたも人を待っているのね?」

 座りながら白髪の婦人はアンテルネラに微笑みかけた。

「ええ妹を。お婆さんは誰を?」

「さあ。実はわからないのよ」

 謎めかして老婦人は膝に乗せたポーチを開いた。

「ずっとずっと昔、私がまだあなたよりもずっと小さかった頃、逢ったことがあるかもしれない人。でも私はその人の名前も知らないし、顔も知らない。もし再会しても私はその人に気づかないかもしれない」

「でも待つんですね」

「ええ、その人を待つのはこの世には私しかいないかもしれないから」

 老婦人はポーチから年代物の懐中時計を取り出すと、大切そうにガス燈の冷めた光にかざした。

「ママはもう逢えたのかしらね……」

 震える指で文字盤をなぞり、絞り出すようにつぶやいた老婦人は、そっとアンテルネラの肩に手を置いた。

「再会が良い想い出でありますように、坊や」

「お婆さんも」

「ありがとう」

 アンテルネラは婦人の手をそっと握り、老婦人は優しく笑って立ち上がった。

 気がつけばプラットホームにはたくさんの人が並び、警笛を鳴らして滑りこんで来る機関車の明りを見つめている。

 汽車の煙突から噴き上がる蒸気が静寂を破り、人々は口々に思い思いの名前を叫びつつ、プラットホームへ黒鉄の車体を迎え入れる。

 脈動する蒸気機関の昂ぶりが徐々に静まると、張り裂けんばかりの思いを胸に満たした人々が車窓に駆け寄った。

 アンテルネラは唇をじっと噛んだままベンチに座って石張りの床を睨んでいる。

 ゆったりとアンテルネラの世界から喧騒が退いてゆき、全人物が視界から消えてゆく。

 石の床に投げ出された汽車の室内燈の明りに、影が一つ差す。

 アンテルネラはぎごちない機械人形のような動きで首を上げる。

 ひとには、誰もがその生命に輝きを宿せる瞬間がある。

 一瞬が永遠となり、希望の無限を信じることができる、そんな瞬間がある。

 それは誰もが経験し、与え、与えられて、やがて時の風化の中に忘れ去ってゆく、大切な何か。

 アンテルネラの頬を熱い滴が伝う。

 伸ばされた腕は届かない想いの切なさ。

「エタシリス―――」

 たったその一言に込められたものの重さ。

 その時アンテルネラは確かに抱きしめていた。永遠を。もはや永遠ではありえなくなってしまった、そして再び巡り逢うためには永い永い時間を待たねばならない、永遠という名の愛を。

 大時計が八つの銅鑼を打った。

 大理石の広間にはもう誰一人残っていない。

 アンテルネラは駅を出ると、夜の街を思いきり走り出した。

 星降る夜、新緑の風そよぐ神樹の丘、そこで待つ人々のもとへ。

 青く輝く夜道を急ぐアンテルネラの背中は心なしか大きく見える。


                       END





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