闘争


 10:27ゼーレンボイム発の列車は混雑していた。

 私の乗る一等客車も人々の大波からまぬがれてはいなかった。通廊に溢れ出した人の波はどんよりよどんでそこに溜まっていた。

 私は客室の扉越しに通廊の混乱を眺めるでもなく見やっていた。

 ぐったりと壁に寄りかかり、疲れきった顔で宙を睨んでいる人々。大荷物を抱え、意味もなく廊下を右往左往する人々。栄養不足と不眠からしわがれた声で泣き叫ぶ子供たち。

 彼らは本当なら三等客車の乗客だった。しかし彼らにはそこにさえ居場所はない。既に満杯なのだ。悪夢の<収容所特急>に詰め込まれた憐れな囚人たちの貨車がそうだったように。

 時折通りかかる車掌も、廊下に溢れ出た人々の切符を確かめようとはしていなかった。検札するには人数が多過ぎたし、第一そうしたところで三等客車に戻すことはできないのだから。

 私はそのことを別に不快には思わない。彼らが座り込んでいるのは扉の外なのだし、この快適な客室に侵入さえしてこなければ、私には関係のないことなのだ。

 それゆえに、客室の扉が静かに開けられたとき、私は多少傲慢な目つきでそちらを睨んだ。一等客室という選ばれた者の空間を侵されたくはなかったのだ。

 しかし遠慮がちにそこにたたずんでいたのは品の良い老夫婦だった。

 凡庸な顔をした車掌が後から入ってきて、私に二枚の一等切符を見せると相席しても構わないかとたずねた。

 私は返事をしなかったのだが、車掌はお構いなしに夫婦の荷物を置いて出て行ってしまった。

 客室の中には私と老夫婦だけが残され、二人は所在なげに立ち尽くしていた。

 私は、見るからに優しそうな老人二人を睨みつけたことと、その二人の顔に浮かぶ済まなさそうな表情に気まずい思いをしながら、席を勧めた。

 老夫婦はほっとしたように私と向かい合って座り、私が相席を認めたことに対して礼を述べた。

 それがあまりに丁寧だったから、かえって緊張が和んで私も笑いながら挨拶できた。

 一通りの挨拶が済むと、老夫婦はくつろいで座りなおした。

「それにしても、偉い騒ぎですな!」

 夫がもうたくさんだというように首を振って言った。

「戦争は終わったと言うのに!」

「戦争直後はどこもこんな感じなのでしょう。特に、その戦争に負けたとあってはね」

 私はにこやかに夫へ向けて言った。

 白髪の、がっしりした体格の彼はうなずいて言った。

「まったくです。いやはや、片田舎の汽車でさえこの騒ぎですからな」

「わたくしどもはアイムテルンからノイレンレイスに行く途中なのです」

 夫とは対照的に小柄で控えめな印象の妻は、夫の愚痴を上手に封じ込めて微笑んだ。

 私はたちまちこの老婦人に好感をおぼえた。頭の良い女性にはそれだけである種の魅力があるものだ。

「よろしいですね、それは。田舎の空気は穏やかに流れますから。都会にいて戦後のくだらないどさくさに忙殺されるよりは、ずっと有意義な時間を送れるでしょう」

「ノイレンレイスには別荘があるのですよ。アイムテルンの家には比べ物になりませんが、まあ、おっしゃるとおりあそこはのんびりしていましてな」

「そうでしょうとも」

 今度は延々と別荘自慢を始めた夫の声を右から左に流して、私は窓外の風景をぼんやりと眺めていた。

 列車はザイゲベルンの牧草地帯をゆったりと走っている。

 新緑から徐々に濃密な色に変わりつつある草原がどこまでも広がっている。

 時々、その緑の絨毯の中に思い出したように巨大なサイロが突き立っていて、何となく巨人の積み木を思わせた。

 巨人は積み木を積みました、三角屋根から煙がもくもく、こぶたは眠りにつきました……。

「まあ、まるで童話の風景のようですわね」

 突然脈絡のない思考を破られた私は、訳もなくぎくりとして顔をあげた。

「あんなことがあった後でも、こんな風景が残されていると思うとほっといたしますわ」

「そう、ここは昔からずっと変わっていませんからね」

「ほう、この辺りのご出身で?」

 その悪意のない問いかけに、私は注意深く夫の顔を見つめた。

 その赤ら顔には実に朗らかな、中産階級特有の無邪気な笑みしか浮かんでいなかった。

「いえ、仕事の関係で、この近くにしばらく勤めていたもので」

 私が答えると、彼はわけしり顔でうなずいた。

「苦労人なのですな」

 急に同情的な口調になった夫に、私は柔らかく苦笑して見せた。

「そうでもありませんよ。実は、郵便局を一つ任されていましてね」

 そう言って、私はスーツケースの上に被せていた帽子を荷物の中にしまった。

 古めかしい、くたびれたその黒い帽子をちらりと見て、夫はしばらく呆気に取られたように何も言わなかったが、やがて笑い出した。

「これは……いや、こいつはどうも!!ははあ、儂はまた、牧夫か何かをしておられたものと勘違いを。いや、局長さんを相手にとんだ口をきいて!」

「いいえ、今はもう引退しましたから」

 私は穏やかに微笑した。

「あら、引退なさるには早すぎるお年ではありませんこと?」

 夫人がおっとりと言った。

 私は彼女に首を左右に振って見せた。

「政府がこんなことになりましたからね。引退というよりも首切りですよ。まあ、良い機会なので田舎に帰ってじっくり再起を期そうかと」

「ははあ、するとあなたもご実家はこちらの方なので?」

「ええ、ミルヘンという小さな田舎町がありましてね」

 それからしばらくはとりとめもない話に花が咲いた。夫婦は天気の良い日はたまに揃って野山を散策するのが趣味だということ。戦争中でも月に一、二度は郊外へ出かけていたということ。けれども戦後のこの騒ぎではそのささやかな楽しみも諦めなければならないだろうということ。

 問われるままに私も釣りが趣味だということと、かつての釣りにまつわる笑い話などを話して聞かせた。

 やがて列車は古い小さな駅に停車し、私は手洗いに席を立った。

 客車の洗面所に行く気にはなれなかった。幼い子供を抱えた女、疲れきった老人、力を失ってへたり込んだ復員兵。彼らのどんよりと濁って光を失った不気味な視線にさらされるのはたまらなかったのだ。

 戦争は確かに全てを変えてしまっていた。

 この駅で降りて行く乗客たちのくたびれた後姿を横目で見ながら、私は用を済ませて客室に戻った。

 扉を開けて中へ入った私は、客室の空気が何となく重く沈んでいるのに気づいた。

 夫は顔をそむけて窓の外のさびれた駅舎を見つめていたし、夫人の方はうつむいてハンカチに視線を落としていた。

 私は気まずい思いをしながら席に腰を下ろした。

 とはいえ、沈黙には慣れていたし、話すことがないならないで、独りで考えるべきことが山のようにあった。

 そうして私が思索に耽ろうとした時、夫人が口を開いた。

「今、死に別れた子供たちのことを話しておりましたの。それで、また悲しくなってしまいまして。ご好意で相席させていただいているのに、気詰まりな思いをさせて申し訳ないことですわ」

「とんでもありません奥様。さぞかしご心痛でしょう、親にとって子供ほどの宝は他にありませんからね」

「まったくです。またくですとも」

 顔をそむけたまま夫が言った。懸命に感情を押し殺そうとしている、そんな声だった。

 私はあえて会話をつなごうとは思わなかった。夫婦の感傷の時間をそっとしておいてあげたかったし、やはり、私にも考えなければならないことが山のようにあったのだ。

 だが夫婦の方ではそうは考えてくれないようだった。

「儂らの二人息子はどちらも強制収容所で死んだのですよ」

 走り出した列車の車窓に、のどかな午後の牧場の風景が映し出されていた。

 私は、ゆっくりと反芻するように眉をひそめて、老夫婦に向き直った。

「―――強制収容所、ですって?」

「反政府活動とやらでね。連行されて七日後にはもう死亡通知が届いとりました」

 膝上で握り締められた夫の拳は白く震えていた。

 私は何も言わずに彼を見つめていた。

「儂らは国に息子を殺されたのです。イェルゲンの官邸で自殺した、あのたった一握りの狂人どものために。あるいは、この愚かな戦争のために!」

 私はおそらく悲痛な表情をしていたのだろうと思う。

 けれどこの時、私は正直自分が何を考えているのか分からなかった。

「60万人だそうですわね」

 夫人がぽつりと言った。

 私は何のことかよく理解できずに首をかしげた。

「強制収容所で殺された人の数です。息子たちの他に60万人が同じ方法で殺されたそうです。アイムテルンの駅で、占領軍が配っていた新聞にそうありましたわ」

「60万人とは!」

 私は驚きと、憤慨をこめて叫んでいた。

 60万人!それはあまりに酷すぎるではないか!!

「息子たちを喪って、もう三年になります。けれど悲しみは年ごとに新たに、さらに深くなっていくように感じますわ」

 そう言う夫人の声は理知的で、静かだった。しかし私はそこに圧倒的な苦しみと怒りを感じずにはいなかった。

 私はうなだれ、両手を組んで黙祷した。

「あなた方に魂の安らぎがありますように」

「ありがとう、本当に優しい方」

 夫人は私の掌を押さえ、微笑んで言った。

「あなたのような人と出会えたのは、老い先短い儂らにとって、最高の幸福ですよ」

 目頭を少し光らせながら、夫も微笑んでいた。

 窓の外は既に暗く、列車は減速して次の駅に滑り込みつつあった。

 イーレンゴルド、という車掌の案内があり、私は棚から手荷物を下ろした。

「乗り換えですか」

 夫の問いかけに、私はうなずいて見せた。

「汽車から徒歩に、ですがね。私のミルヘンは中世のような辺境の町でして」

「名残惜しいですな」

 夫はさびしそうに言って手を差し出した。

「手紙を書きますよ。なあに、ノイレンレイスからもそれほど遠くはないのだし。ごたごたが収まってから、押しかけて行きますとも」

「約束ですよ」

 彼と固い握手を交わしてから、私は夫人に一礼した。

「良い時間を過ごされますように、奥さん。あなたが思いもよらないほどに、きっと神様はあなたを愛しておいでですよ。私がそうであるようにね」

「まあ」

 夫人は上品に微笑うと、いたずらっぽく目を輝かせた。

「わたくしはこう言えば良いのかしら?"どこへ行ったの、ジョー・ディマジオ?国中が寂しげな視線をあんなに投げかけているというのに―――"」

「はは、"なんとおっしゃいましたロビンソン夫人?<強力パンチのジョー>なんてもうどこにもいないんですよ"」

 私たちはひとしきり笑い合った。

 笑った後で、私は荷物を持って客室を出た。静かに、何かを―――それが何かはわからないが―――断ち切るように、扉を閉める。

 私の前には暗い廊下が広がっていた。

 そこには敗戦があった。

 絶望と徒労と怨嗟の暗淵に沈む、打ちひしがれた人々がいた。

 私は通廊に溢れ出した彼らの身体を踏み越えて降車口へ向かった。

 彼らの戦争は確かに終わった。最も惨めな形で敗戦はやってきた。

 彼らにとっての戦争とは、尊厳を踏みにじり、困苦をもたらすものでしかなかった。

 そしてすべてが明るみに出たとき、彼らは言うに違いない。

 『我々は知らなかったのだ』と。まさに、あの老夫婦が憎しみをこめて『イェルゲンの狂人ども』を罵ったのと同じ態度で。

 その時彼らはこう付け加えるのだ。

「なんと、1000万人も!!」

 1000万人だ。断じて60万人などという数字ではない。まあ、豚の総数を数え終わるにはそれなりの時間が必要になるだろう。埋め立てた谷を掘り返し、焼却炉の中を覗きこみ、書類の断片をつなぎ合わせ、膨大な証言を集め……。

 せいぜいやるがいい。

 そして神妙な顔で祈りでも唱えるがいい。

 一体それが何になる?

 私はスーツケースから帽子を取り出してくちづけした。

 <郵便局長>の帽子だ。本物のそれと同じように古く、厳めしい。ただ一つ異なるのは、この帽子の<郵便局>は、どこにも手紙を配達しないしどこからもそれを集めない、という点だ。

 私が<局長>を勤めていた<郵便局>の名はザイネス=ザイゲベルン。ミルヘンと呼ばれる場所にある。

 そしてその業務は最終絶滅。主に劣等人種を取り扱ったが、まあ、中には退廃思想の同朋も混ざっていたかもしれない。それも豚には変わりないということだ。

 イーレンゴルド駅のホームは案外小さく、人気も少なかった。

 私は軍の専用車での快適な旅を懐かしんだ。つい最近まで、私は専用車輌でイェルゲンと収容所の間を往復していたのだ。それが、今ではうんざりするほど長い山道を、徒歩で行かねばならないとは!

 しかし、これから私を待ち受ける幾多の困難を思えば、歩きで一日半の道のりなど優しいものだ。

 私はいかなる苦しみにも、挫折にも耐える。それが私の誇りである。

 私はこの国にあふれ返る豚どもとは違う。

 豚は負けていればいい。だが私はそうではない。

 そうだ。

 戦争はまだ終わってはいない。


END







戻る