ボルジア帝国に正統な帝系を廃して皇帝を僭称した梟雄ファーダの死から、幾年かを経た。この重篤な内紛状態にある帝国で急速に力を伸ばした第三位皇位継承権者ギレディアは、帝都ネアルコ入城の足掛りにすべくロベルト地方征討に乗り出し、その勢威をもって血を流すことなく太守デザルマクを屈服させた。
ロベルト市に入城したギレディアはわずかな警護と腹心を残して軍を解散し、近衛の騎士百名も市内ではなくロベルト市を囲う城壁の外に駐留させた。しかしこれはデザルマクの周到な陰謀によるものであり、彼は亡弟の未亡人で美女の名高いサルナータを用いてギレディアの警戒心を解き、その警護を一枚一枚剥がしていったのである。
ギレディアのロベルト逗留が一日、また一日と延び、そろそろ半年になろうかという初夏の日の午後、遂にデザルマクはその牙を剥いた。デザルマクの手勢およそ三百名がロベルト市内のギレディア邸及びその配下の屋敷を強襲したのである。突然の暴虐に抗う術もなく、ギレディアの重臣が次々にその骸を晒した。名を知られた魔術師で風読みの異名を取ったエレゲルト、ギレディアの本拠地ドナテロの騎士総領である大リングナル、弓術並ぶ者なき銀嶺のサナルー等、帝国中に知れ渡った術士武将がわずか一日の内に殺されたのである。
更にデザルマクと共謀した帝都ネアルコの将ヘルベルが、一千の騎士を率いてロベルト外郭に駐屯するギレディア近衛軍を奇襲、これを殲滅した。
叛乱はごく短時間でデザルマク側の勝利に終わったかに見えたが、肝心のギレディアの姿はどこにも見えなかった。
デザルマクが八方手を尽くして探してみても、その若き君主の行方は杳として知れなかったのである。
デザルマクは瞑目していた。さながら大地に屹立する一本の大木のように、その巨躯は微動だにしない。
夜が、近い。
都市ロベルトの郊外に陽光は遠退き、闇が濃さを増してゆく。
一日が終わる。永い一日が終わる。
デザルマクは動かない。しかしその地面に突き立てた大剣を握る両の掌の微かな震えが彼の焦燥を表している。
遠くにロベルトの市壁が連なっている。夜が着実に迫る中そこかしこにぽつりぽつりと明りが灯り始めるのが、目を閉じていながらデザルマクにはわかった。
永く暮らした街である。デザルマクの生涯と共にあった街だ。デザルマクだけではない。その父も、祖父も、百代に及ぶデザルマクの家系を抱いてきた街だ。
ロベルトの街に憩いの明りが灯る。
デザルマクは目を見開いた。
守らねばならない。ロベルトにこそ我が存在はある。
空に星が見えた。瞬間、デザルマクは星天を憎悪した。地に這う人間を一顧だにせず悠久の運行を刻む星々を憎悪した。
「まだ、見つからぬのかっ」
怒号が背後で弾けた。
声の主へ、デザルマクは深い溜息と共に答えた。
「見つからぬ」
「見つからぬで済むと思うのかっ」
声の主は癇癪を募らせて怒鳴る。だがデザルマクは一瞥も与えない。
ロベルトの平野に夜が来る。光が急速に薄れてゆく。
「デザルマクっ」
痺れを切らして怒鳴り声が背後から回り込んでくるのを、デザルマクは鬱陶しさを隠そうともせずに見やった。
「静かにせよヘルベル。将の動転は士気に関わる」
「何を呑気なっ」
摂政公ヘルベルは肥えた顔面を真っ赤に染めて詰め寄った。摂政公の盛名を戴いてはいても通り名は井蛙の、小物のと嘲られる男である。元は僭称帝ファーダの部隊長に過ぎなかったものがここ数年来一連の動乱に紛れて成り上り、帝都を押さえて専横を欲しいままにしているのである。
所詮、貴様もいつかはファーダと同じネアルコの城門送りよ。
腹の中に吐き棄てて、デザルマクは密かに嘲った。僭称帝は叛徒に討たれた後、臍に蝋燭を突き立てられて帝都の城門に晒された。ファーダとヘルベルでは人物の器が違う。ファーダは帝都ばかりか帝国の屋台骨まで踏み躙ったが、ヘルベルは後数ヶ月帝都を保持しておくことさえできないだろう。
デザルマクは蔑みと憐憫の入り混じった視線でヘルベルを見下ろした。
「何ぞデザルマク、その眼はっ」
違う。器が違い過ぎる。デザルマクは、僭称帝の丸々肥った髭面と眼前の男の顔を引き比べ、思った。
こ奴は、天下を語らうべき相手ではない。
不意に落胆と疲労が大波となって押し寄せ、デザルマクはヘルベルから目を離した。
快晴の空である。一点の曇りもない空である。満天の星が輝いている。
風が吹きゆく。草原の風だ。ロベルトの沃土の匂いを孕んで吹き抜ける風だ。
全てが美しい。全てが愛しい。
デザルマクは右手を大剣の柄に添えたまま、左手で髭をしごいた。
故郷を守るための戦いである。後悔はロベルトの城中に置いてきたつもりだった。
だが、とデザルマクは微苦笑を浮かべた。こうして戦塵に身を晒し沃野を渡る風を浴びているとどうしても思ってしまう。心を馳せてしまう。
天下へ。天下を目指してディクタス太守ファーダの戦列に加わったその日へと。
ファーダに賭けた夢は半ばで終わった。皇位を僭称したファーダが討たれた時、デザルマクは一軍を率いて反ファーダ連合軍と対峙していた。戦は惨敗に終わり、主なき漂白の軍隊を苦心惨憺まとめあげ、デザルマクは出生地ロベルトに身を寄せた。落ちぶれた名家の次男坊はその日からロベルトの太守になった。
思えば俺は天下を諦めたわけじゃない。ただ枯れていこうとしていただけだ。
天下。その二文字を胸に浮かべてデザルマクは瞑目した。今となっては夢物語だ。
目の前にいるのが井蛙のヘルベルでなければ。ヘルベルではなく、ファーダを超えるほどの男であれば、その傍らにあって己の夢を、天下人への夢を、託すこともあるいは可能だったかもしれない。
ファーダを超える、天下人の器たる男……。
背徳のギレディア。
青白い幽鬼のような横顔が瞼に浮かんでデザルマクはぎくとした。燃え落ちる館を後に馬で去り行く青年の横顔が、鮮明に思い出されたのだ。
敵でなく、味方として会い遭うておれば。
人生とは、何とままならぬものであることか。
その思いは壮年を既に過ぎ、鬢髪に白いものが混じり始めたデザルマクをして深く苦く笑わしめるものであった。
「愚かよな」
デザルマクは呟いて思索を打ち切った。
周囲には直参の部下が集まりつつある。
夜になった。戦いは終わったのだ。
相変わらず巨木の構えを崩さないデザルマクに伝令が跪いて言った。
「ヘルベル将軍は陣を退かれてございます」
「そうか」
言われて初めてデザルマクは小男の消えたことに気付いた。
「奴には元から何の期待もしておらぬ。速やかに帝都へ引き揚げせしめよ」
暗殺失敗と見るや撤退か。小物は小物らしく嗅覚だけは衰えぬ。
デザルマクは表情を引き締めると言った。
「我らも一晩城外で待ち惚けというわけにはゆかぬ。ギレディア追撃部隊のみを残して帰還せよ」
「はっ」
伝令がデザルマクの命を触れ回ると即座に撤収が始まった。戦とはいえ騙し討ち同然の戦闘だ。軍の規模は大きくないし被害も微少、士卒全体に高揚が浸透している。
平原に展開するデザルマク軍三百の内の誰かが凱歌を歌い出した。
ファーダ動乱期に作られたその歌に、デザルマクは立ち尽くして聴き入った。
「注進っ注進っ」
ただならぬ叫びを上げながら単騎駆け来る影がある。
目の早い側近の一人が騎馬の掲げる旗を認めて言った。
「あれはアリエーニレンの隊旗ではないか」
群臣にどよめきが起こる。
デザルマクの顔色が変わった。
「アリエーニレンはまだ戻っておらなんだのかッ」
「出撃以来音信がございません」
「馬鹿者が、何故儂に知らせん!」
つい先程まで泰然自若の構えを崩そうとしなかったデザルマクが、血相を変えて走り出す。馬を待とうともせず徒歩で伝令を迎えに行く君主の後を、半ば呆気に取られて群臣が追う。
「おおデザルマク様っ」
疲労の色濃い伝令は狼が描かれた隊旗と共に馬上から転げ落ちると巨漢の君主の前に膝をついた。
「申し上げますっ」
満身創痍の伝令は言ったが、荒い息が整うのを少し待たねばならない。
ロベルト平原の夜に満天の星が輝いている。
市中に眠りが近づく時、平原には急を告げる新たな風が吹き始めていた。
豪腕のデッケルハルトは闇に向かって目を細めるとのっそり立ち上がった。
細い山道である。身の丈ならデザルマクをも凌駕するこの巨漢が仁王立ちになれば、おいそれと通行できるものではない。
夜の帳が下りた山道で独り何を思うものか、デッケルハルトは長鉾を手に厳しい表情で立ち尽くす。
ほどなく、潅木に囲まれた山肌が小刻みに揺れ始めた。
「11、12、13……16。ほう、豪儀じゃの」
蹄音である。
デッケルハルトは短い哄笑を漏らした。
がっきと長鉾の石突を地面に突き立て、鋭い眼光を闇の向こうへ向ける。
蹄音は更に近づき、星明りにもその軍装と勢いとが見て取れるまでになった。
「止まれ!」
豪腕デッケルハルトは咆哮した。馬の蹄の音さえ静かに思える大音声である。
有り得ぬことだが騎乗の一隊の疾駆が止まった。デッケルハルトと五馬身もない距離で対峙する。
「貴様は何者だ」
明らかに戸惑いの風を見せて騎馬武者の一人が言った。若干声が震えている。普通なら臆病者と仲間からなじられようが、この時ばかりは突如闇の中に現れた巨人を前に騎馬の一団全体がたじろいでいた。
「儂かッ。儂はギレディア卿の身辺をお預かりするデッケルハルトじゃ」
「何っ」
その名を聞いて動揺が広がるのを、デッケルハルトは小気味良さげに眺めた。
「この道はロベルト市とギレディア卿の居城ドナテロを結ぶ天下の公道である。貴様等のような下賎の者が汚して許される道ではないッ。失せよ叛賊共ッ!!」
龍の声もかくやと思われるデッケルハルトの吠え声に、馬上の一団はますますたじろぎ、言葉を失って立ち往生した。
デッケルハルトと言えば帝国で三指に入る剛勇を誇る武将である。数々の逸話に彩られたその強さはもはや伝説となっている。
そのデッケルハルトが眼前に立ち塞がっているのである。兵達の戸惑いや恐れも無理のないことだった。
睨み合いが続く中で、しかしふとデッケルハルトの表情が曇った。新たな蹄声が地を伝って聞こえてきたのだ。
新手か。デッケルハルトは軽い失望を覚えた。
謀叛軍の手にかかるのが悔しいのではない。命はとうに捨てている。
惜しむのは、敵の姦計を見抜きながらも主君を諌められなかった己が身の不明。慮るのは落ち延び行く主君の身上。
「もう少し、時間が欲しいところであったが……やむを得ぬ」
呟いて、鉾を構える。
「引き返さぬのであれば、よかろう、命を捨てたい奴から掛かってこいッ!」
「お……」
馬上の兵士達はようやく我に返ってどよめく。
後続の部隊が追いついたことが彼等を勇気づかせた。
「応っ」
得物をかざし、鐙を蹴り、気勢を上げて次々にデッケルハルトへ向かって行く。
星闇に火花が散った。
一揉みに踏み潰さんと迫り来る騎兵達を、デッケルハルトは仁王立ちのまま迎え撃った。
「まず一人ッ」
大人の身の丈の二倍はあろうかという大鉾が振られ、先頭の兵士を馬上から叩き落とす。
後ろから来る馬に踏み砕かれ絶命するその様を確認せず、デッケルハルトは二の太刀を振るっている。
「二人ッ」
白刃が馬の首もろとも乗り手を真っ二つに切り落とす。
敵の数は多く、しかもその全てが馬上からの攻撃である。だがデッケルハルトの長鉾はそれさえ超越した速度と力で振るわれる。
「三人ッ」
鉾先を引き戻すのが間に合わないと見るや石突で乗り手の胸を貫き通し、瞬時に絶命する兵士の骸を突き刺したまま鉾先を返して四人目へ斬りつけている。
たちまちデッケルハルトの周囲は死体で埋まり、むせ返るような血の匂いが立ち込める。
「どうしたッ、所詮が野盗の親玉に従うなまくら揃いか!」
疲れも見せず長鉾を振るい続けながら嘲笑する。
「貴様等三下では相手にならん、首領を出せッ、デザルマクを呼んでこいッ」
鬼神である。黒金の鎧を濃厚な赤に染めながら吼えるその姿は人間には見えない。
二十程も死体を積み重ねて、騎兵隊の足が止まった。
「糞っ、近付いては敵わぬ、弓で射殺せっ!!」
「かかッ、そのへなちょこの腕で引ける弓があるのかッ!?」
後続の兵士が続々と追いついて膨れ上がる追撃部隊を前に、デッケルハルトは大笑した。
「うぬ、はやくせいっ!」
指揮官の命令で騎兵達の前に弓隊がのろのろと進み出たがほとんど及び腰である。矢を番えようともせずただ目を見張って目の前の惨状に見入っている。
デッケルハルトは全身から濛々と湯気を立ち昇らせて立つ。返り血で身体中が濡れている。
しかし帝国中に豪腕の通り名で鳴り響いた男の眼はもう敵を見てはいなかった。
首を巡らせて星空を仰ぎ、一息ついた。
大地を飲み込まんとするような天球の口腔一杯に、蒼白い星の輝きが満ちている。
デッケルハルトの堅い頬を、柔らかな影が覆った。
「おう、明るいのう」
微笑であった。
その時、もう彼にとっては遠くなった世界のどこかで怒声が響いた。慄く弓兵に業を煮やした隊長が、剣を抜いて配下を叱咤する声である。
闇に白刃が振るわれ、雑兵の首が一つ跳ね飛んだ。
憐れなことよ、視界の隅にその光景を捉え、デッケルハルトは思った。戦とは酷いものだ。
仲間の首が指揮官に飛ばされて初めて射手達はその任務を思い出したらしい。ばらばらと矢が弓に番えられ、引き絞られた。
満天の星がずらりと並ぶ矢尻を不気味に青白く光らせた。
「撃てぇ」
上ずった号令に放たれた矢は十数本の弧を描いて翔んだ。
追撃隊の将兵は固唾を呑んでその様子を見守った。
一本の矢が夜目にもはっきり鬼神の眉間を射抜き、それを端緒に全ての矢がデッケルハルトの全身へ次々突き刺さった。
「おおおっ……」
歓声が上がった。
だが、それはすぐに尻すぼみになった。
デッケルハルトが動かなかった。動かないのである。
全身針鼠になってなお、悠然と長鉾を構えそこに立っているのだ。
その場に居合わせた兵士全員の背筋を冷たいものが流れ落ちた。
あちこちで、唾を無理矢理飲み下すごく、ごくりという音が聞こえた。
血に染まるデッケルハルトの容貌には微笑すら浮かんでいる。
誰も近寄って確かめようとしなかった。殺すと脅されてもそんな真似をしようとする者はいなかっただろう。
「ええい、何をしておる、もっと矢を射掛けよっ!」
悲鳴のようなその命令に、再びわらわらと弓が番えられ、放たれた。
だがデッケルハルトは倒れない。矢の雨を浴びてなお悠々と立ち尽くしている。
その姿を前に恐慌が半ば兵士達を満たし、ありったけの矢が滅茶苦茶に撃ちまくられて宙を飛んだ。。
全ての矢が撃ち終えられる頃には、デッケルハルトは針鼠というより矢で作った筆のようになっていたが、それでもやはり立っていた。
恐ろしい沈黙の下でかなりの時間が経過して後、兵士が一人恐る恐る彼に歩み寄り、震える槍の穂先でその体を突ついた。
それを見守る追撃隊の脳裏を、デッケルハルトが何事もなかったように動き出す光景がよぎった。
だが、槍先でデッケルハルトの体を突つくという信じられない無礼を働いた兵士が唐竹割りに切り倒されることはなかった。
兵士は二度、三度と確かめるように突ついた後、振り返って叫んだ。その声はやはり憐れなほどに震えていたが。
「し、死んでるぞぉっ」
道は急勾配から緩やかな登りの傾斜へ変わった。
左手には切り立った崖が遥か下に轟き流れる急流へ向けて落ち込んでいる。道の右側を鬱蒼と続く森の影は道を登るに連れ更に深くなったようだ。
つまり、待ち受けるには絶好の地形ということだ。
ギレディアは舌打ちして馬を止めた。
雲一つ無い星の夜だ。暗がりに慣れた目は遠くまでよく見通した。
「待ちかねたぞギレディア」
蒼い光を浴びて行く手を塞いだ男が、言った。その後ろには二十騎程の兵士がずらりと槍を並べている。
「俺としたことが二度までも裏をかかれるとはな」
ギレディアは憎悪を込めて吐き棄てた。
「貴様を見くびり過ぎたぞアリエーニレン。貴様がどれだけ汚い男なのかということをな」
「ギレディア卿から卑怯者呼ばわりされるのはかえって光栄」
狼を模した紋章を胸甲に光らせる男アリエーニレンは笑った。若い。ギレディアも三十歳を越えて間もないが、アリエーニレンはそれと同じ位に若い。
だが若くしてその名は既に隠れなき賢者として世に知られている。
そのアリエーニレンを前にギレディアは歯を剥いて唸った。
「貴様のせいで俺は多くの家臣を失った。この恨みは忘れぬ、生涯忘れんぞ」
「ふん、女に溺れたそなたの不徳がこの敗北を呼んだのだ。憐れむべきは貴様のような腑抜けに従った家臣達よ」
アリエーニレンの嘲笑はギレディアの臓腑をえぐった。
「デッケルハルトにエレゲルト、大リングナルそしてサナルー。古参の家臣がほとんど討ち死にか、主君の色惚けのツケが配下に周るとは天も非情なものだなギレディア」
「うぬぬぬッ」
ギレディアの白面にサッと朱が上った。
その右手が剣柄に走る。
「ほう掛かって来るか良い度胸だ」
アリエーニレンも馬上に剣を抜き放つ。孤狼の別称を冠する男である。頭脳一途の単なる文士ではない。
しかし剣を抜くかと思われたギレディアはとっさに馬首を巡らせた。素早く馬体を反転させると元来た道を一気に駆け下って行く。
兵士達は一瞬呆けたようにその後姿を見送った。
見る間にギレディアとその栗毛の馬は遠ざかって行く。
一人アリエーニレンだけが的確に事態を把握していた。
「馬鹿者共ッ、下から来る連中に手柄を奪われたいのかッ?」
叱咤が兵士に届く頃には早駆けに駆け出している。
だがその表情に焦りの色はない。この道を幾ら逃げた所で所詮挟み撃ちになるだけだからだ。下からの追撃隊がデッケルハルトを突破していればの話だが……。
その目がちらりと右手に続く崖に走り、アリエーニレンの余裕が微かに曇る。
まさか、な。
一方逃げるギレディアは狂ったように馬を駆けさせながら血走った目を左右に向けていた。
右手の崖は論外だ。しかし左手の森に逃げ込むこともできない。アリエーニレンが山兵を待ち伏せさせていることは確実に思えた。といって前に進めば追撃隊に近付くだけだ。デッケルハルトの捨身の忠誠が無駄になる。
心に芽生えた弱気が馬の脚を遅くした。
その時手前の茂みがガサガサと揺れた。
伏兵かッ。
ギレディアの心臓が跳ね上がった。
何かが暗がりからのっそりと這い出してくるのが見えた。
馬が悲鳴を上げた。
急な下り坂、そして決して広いとはいえない山道である。
驚いた馬が両前脚を跳ね上げる。それは急激な停止とそれによる過酷な反動を馬体に強いた。
馬が立ちあがった瞬間ぼきりと不吉な音が響いた。
ギレディアはその音を聴いたが気にする暇はなかった。
反動を殺しきれなかった馬体はその騎り手を半ば宙吊りにしたまま右手に跳んだ。
ギレディアは叫んだ。目の前に崖が、次には何もない空間が、そして遥か眼下にどす黒く流れる急流が、最後にはゆっくり遠ざかる星空が視界一杯に見えた。
こうしてギレディアは断崖を跳んだのである。
そのギレディアがあっという間に掻き消えた山道に、一人取り残された人間がいた。
「ふむ……」
ギレディアの騎馬を驚かせ崖底へ叩き込む原因となったその男はぼりぼりと頬を掻いて唸った。
黒い僧服の巨漢である。巨漢、といっても縦より横に、であるが。
物憂わしげな蔭がその強い髭の密集した口元に這っている。
「やれやれ、一仕事になりそうだのゥ」
崖下を覗きこんで男は呟いた。折りしも追撃隊の蹄音が地面を揺らし始めている。
どことなく郷愁を誘う弦楽の音が静かで心地良い旋律を奏でている。
背徳のギレディアは心に浮かんだその郷愁という感傷に少し笑った。
「何が可笑しいのです?」
三弦楽器を抱くようにして爪弾いていたサルナータが微笑んで言った。
「いや、この俺が故郷を懐かしむとはと思うと笑えてな」
ギレディアは硝子細工の酒盃を干した。
「別におかしなことではありませんわ。誰でも自分が生まれ育った場所は愛しいものでしょう」
無邪気に言うサルナータにギレディアは微笑を返した。
「そうかな……そうかも知れんな、例えこの俺であってさえ」
ギレディアは椅子から立ちあがると開け放した扉から庭園へ出た。
初夏の昼下がりである。吹き抜ける風は爽やかに、揺れる木々の梢は新鮮に、暖かい太陽の匂いを運んでいる。
「覚えているか、俺がこの庭を通ってお前の元を訪ねた夜のことを」
ギレディアは目を細めて青い空を見上げ、室内のサルナータへ訊いた。
弦楽が止み、サルナータが立ち上がる衣擦れが聞こえた。
「覚えております、だってあまりに突然でしたもの」
サルナータは楽しそうに笑った。
「退屈な夜に楽器を弾いておりましたら突然庭からお越しになって、驚く私には何の挨拶もなさらずに『音に惹かれて参った、続けてくれ』とおっしゃったのでしたっけ」
「さぞかし無礼な男と思ったであろうな」
「いいえ、でも驚きましたわ。吟遊詩人の歌に聞くギレディア様が現実に私の前に立っておられたのですから」
サルナータはギレディアの傍らに立った。陽光が二人の上に注ぎ、短い影を石畳に落とした。
「俺が憎くはないのか」
ギレディアは不意に言った。
その問いは間違いなくサルナータの心を刺したように見えた。彼女の美しく黒い瞳に光が揺らぎ、微笑は翳った。
沈黙が下りた。
風が渡るさわさわという音の他は何も聞こえない。鳥も木々の葉も水の流れも束の間の静寂にその動きを止めているかのようだった。
サルナータはやがてゆっくりギレディアの前に歩み出た。
「憎くない、と言えば嘘になりますわね」
その赤い口唇には微笑があったがそれは優しくも哀しい微笑だった。
「私は夫を愛しておりましたもの。そして今でもその気持ちは変わりません。赦せるとお思いですか、愛する夫を殺した男を」
緑なす黒髪をそっとかき上げ、サルナータはギレディアを見た。
中天に達しようとする太陽の投げる光の矢がサルナータの長い髪を透してギレディアに注いでいる。
「お怒りになりまして?」
「そこまで傲慢に見えるのかな俺は」
ギレディアは鷹揚に笑おうとしたが失敗した。女に対して支配者の仮面を被るにはまだまだ若くもあり、目の前の女を愛し過ぎてもいた。
「私の故郷がどこにあるのかご存知ですか」
サルナータは問い、ギレディアはその真意を図りかねて沈黙した。
「このロベルトの街ですわ。生まれ育った帝都ネアルコではなく、夫との想い出が眠るこの街が今では私の故郷なのです」
「果報者だな、ザルマトは」
ギレディアはデザルマクの実弟の顔を思い浮かべて言った。兄とは違い文人肌の男だった。箸にも棒にも掛からぬ男と記憶している。ロベルト市の官吏だったが、デザルマクの一党がロベルトへ落ち延びて行く際、救援に来たところをギレディア率いる軍勢に討たれた。
「俺よりも愛していたのか、あの男を」
ギレディアは訊いた。
サルナータは哀しく笑った。
「私は夫を愛しています。でも」
首を振って言う。
「でも私は、ザルマトを愛するのと同じ位に、ギレディア様を愛しています。信じて頂けないかもしれません、私自身自分の感情を理解できていないのですから。けれど確かに私はギレディア様を愛しています。ギレディア様に殺された夫と同じ様に」
ギレディアは言葉を失って目の前の女の瞳を見つめた。戸惑いと、哀しみとが正面からぶつかり、絡み合った。
初夏の午後である。
商区から遠いザルマト邸はひっそりと静まり返っている。
ギレディアとサルナータは暖かな陽光の下で向き合い、互いの心中を推し量るように見つめ合っていた。
だがその白昼の静寂は突然の人馬のざわめきによって破られた。
庭園に植えられた木々の向こう、土塀をはさんだ通りに馬のいななきが響き、武装した兵達の甲冑の触れ合う金属的な音が聞こえてくる。
サルナータは憂いを含んだその黒い瞳を音のする方へ向けた。
その様子を怯えと見たギレディアは安心させるように言った。
「あれはデザルマクが奴の軍の逃亡兵を取り締まる警邏の音だ」
一歩進み出て、サルナータを軍兵の靴音から遮るように立つ。
「最近デザルマクの軍から逃亡兵が増え続けているそうだ。一戦も交えず俺に降伏した奴を不甲斐無い主君と見限ったのだろうな」
「……忘れないで下さいませ」
「安心せよ、お前の義兄のデザルマクはこれからは俺の重要な支柱の一つだ。奴が己の軍勢を動かす権限は与えたし、このロベルトの執政も奴に返した。だから」
「私は、ギレディア様を愛しています」
「地に塗れたデザルマクの名も権勢を取り戻すだろう……ん、何と言ったサルナータ?」
「私はギレディア様を愛しております」
ギレディアは振り返ってサルナータの顔を見た。
それから通りの喧騒へ素早く視線を戻す。
警邏の隊ならもう通りを抜けて消えて行ってもいいはずだ。だが騒ぎはますます大きくなるばかりだ。
ギレディアは再び、愛人の方へ向いた。
サルナータの瞳から光る涙が一筋、頬を伝った。
煙が空に昇った。焚き火ではない。家屋の焼ける独特の埃っぽい臭いがした。屋敷に、火が放たれていた。
「謀ったのか?」
ギレディアは?とした口調で訊いた。
「憎めると思った、でもそれは無理でした。あの時私はこんな結末になるとは思っていなかった」
「謀ったのか?」
光の消えた目を女に向けてギレディアは言った。
「全て嘘だったのか?」
「この屋敷の裏手の井戸に抜け穴があります。そこから逃げて下さい」
「俺は騙されていただけなのかッ」
頬を張る乾いた音が響いた。
ギレディアの横面を打ってサルナータは叫んだ。
「逃げなさいッ。馬鹿者のまま死にたいのですかッ」
その苛烈な言葉に背徳のギレディアの眼が光った。
屋敷には既にデザルマクの手の者が侵入したらしい。ギレディアの僅かな警護兵が必死の防戦を挑む激しい剣戟が響いてくる。
ギレディアはぎりっと奥歯を噛んでサルナータを睨んだ。
サルナータもまたギレディアを睨み返した。
束の間の沈黙の後、ギレディアは駆け出した。
サルナータの傍らを、一陣の風が走り抜けた。
故ザルマト邸に放たれた炎は勢いを増して燃え盛る。
ギレディアは一声叫んで跳ね起きた。
息が荒い。全身がべっとりとした汗で濡れている。
悪夢を見ていたようだ。今ではもう思い出せないが。
右手で額の脂汗を拭おうとしてギレディアは全身を走り抜ける激痛に呻いた。灼けた火箸を脳天から貫き通されたような痛みにしばらく息さえままならない。
胸骨をやっているようだ。ギレディアは汗と涎と鼻水を滝のように流しながら考えた。肋骨を二、三本。左脚は膝下で折れている。後は左腕が、折れてはいないが罅位は入っているのだろう、相当痛む。恐らくこれからの生活はしばらく難儀なものになるだろう。
そこでギレディアはにたりと笑った。
だがまだ生きている。俺は生きている。
哄笑しようとして息を吸い込み、再び全身粉砕するかのような痛みに見舞われたがギレディアはそれでも声に出して笑った。
情けないほど小さな笑いだった。
だがそれでも俺は生きているのだ。
天佑我を見捨てず、か。
生きるということがかくも偉大なことだったか。
様々な思いがギレディアの中で渦巻き、白い牙のごとき波涛を起てた。混沌が彼の中心に存在した。その逆巻く精神の波の一つ一つを彼は理解しきれず把握しきれず、ただ茫漠としながら狂おしく燃え盛る病的な喜悦にその芯を焼かせていた。
ごとりという音がして、ギレディアは弾かれたように顔を上げた。自分を取り巻く状況の新展開に彼が気付いたのはようやくこの時だった。内面に遁走する思考を全く現実へと向けることができない程に彼の精神は憔悴していたのだ。
赤々と燃える炎に照らされた小屋の外界へ通じるただ一つの扉が開こうとしていた。惨めな程貧しい小屋だった。たった一間にかまどと暖炉、そしてギレディアが半身を起こす寝台があるだけの小屋。窓と呼べる代物はなく、申し訳程度の小さな通風孔が、がたごとと揺れている扉の面以外の三方の壁に付いている。
薪を拾うか魚を獲って生計を立てているのだろう、背負い籠や釣竿、小さいけれどよく手入れしてある投網等の雑具が壁に掛けられている。
ふと己の体を見てみれば、怪我をした部分には丁寧に包帯や当て板がされている。名医の仕事と思えた。
ギレディアは不審げに眉をひそめた。助けて手当てした理由は理解できる。デザルマクに高く売ろうというわけだ。仮にも背徳のギレディアの首に掛かる懸賞金だ、こんな底辺に生きる民には信じられない大金だろう。
しかし手当ての手際が良すぎた。一賤民が医術に通じるなどということが有り得ようか。
訝しがるギレディアの視線の先でまだ扉は開かない。余程建付けが悪いと見えた。
そこに現れるのが果たしてどんな怪物か、ギレディアは上体を起こしたまま静かに身構えた。重傷を負ったこの身体で何かできるとは思えなかったが。
扉はなおも頑強に抵抗を続けた。それがやっと開いたのは更に四、五回ごとごとと揺れてからだった。
ギレディアは緊張して息を詰めた。
開いた木戸から朝靄の白く湿った冷たい湿気が流れ込む。微かに黴臭い土の匂いと流れる水音が小屋を満たした。
そこに立っていたのは少年だった。
粗末な麻の衣服を纏ったその少年はギレディアが起きているのに気付き、この剣呑な客人にはにかむような微笑を見せた。
「目、覚めたか、良かった」
少年は水桶を抱えて小屋に入った。不思議な少年だった。歳はまだ10を数えていないだろう。しかしギレディアはそのぼろを纏った年端もいかない男児に対して、ある種の風格を感じたのだ。魅力といっても良いかもしれない。齢や性を超えて人間それ自体を惹き付けずにはおかない魅力だ。それは英傑と呼ばれる人種の特質でもある。
草の根にもこのような子供がいる。帝国とは、広いな。
ギレディアは驚きの内に、少年の、その生活の辛苦の垢に汚れた顔を眺めた。土民とは思えない整った顔立ちをしているのが汚れの上からも見て取れた。
「お前が助けてくれたのか」
言葉を出すと肋骨が悲鳴を上げた。歪むギレディアの表情に、少年は心配そうに言った。
「大丈夫か、痛いのか」
「いや、これしきのことは何でもない。それよりもこの手当ては誰が致した?」
すぐに平静を取り戻したギレディアに、少年は安堵の笑顔を見せた。
「大丈夫、そうだな、待ってろ、今、飯にする」
「待て、問いに答えよ」
「腹、減ったか、腹、減るのは、良いことだ」
ギレディアは一端緩めた全身を再び緊張させた。故意に答えをはぐらかせている、と思われた。ということは親父か家の者が戻って来るのを待っているのか。デザルマクの手兵を連れて来るのを。
だが小屋の中を見回しても少年以外の誰かがここで暮らしている様子はなかった。
ギレディアは少しためらった後、言った。
「俺は実は幽霊だ」
「麦粥だ、これが、一番、弱った、体に、効く」
謎が解けた。
「お前は、耳が聞こえないのか」
嬉々として竃に向かっている少年の背中へギレディアは言った。
言ったところでどうなるというものでもなかったが、それでも言わずにはおれなかったのだ。
曙光が惨めな木戸の隙間から差し込む頃、少年の手元で鍋がぐつぐつと音を立て始めた。少年は熱心に鍋に取り組んだままギレディアに一顧だに与えない。
ギレディアは再び横になったまま眠る気にもなれず、考えを縦横に巡らせていた。
現在帝国は動乱の最中にある。一時の盛名儚く消えたファーダの後、中央に帝国の版図をまとめ上げ得る人材はなかった。傀儡の幼帝が三代続き、宮廷は既に求心力を失っていたのである。有力な諸侯は宮廷を見限り各地の封土へ散って天下を奪う隙を窺っている。上に立つ者達が己の野心にかまけているからそこかしこで反乱、一揆、野盗の類が横行し、民心は乱れ国土は荒廃の一途を辿っている。群雄割拠といいながら、結局は乱れた世をまとめ天下に号令するだけの能力のない凡俗共が政治を牛耳っているのである。その中で、自分こそが帝国の頂点に一番近い位置にいるという思いがギレディアにはある。いや、あった、というべきか。デザルマクの謀叛によって全てが水泡に帰しかけているのは間違いないのだから。
ギレディアは帝国皇位継承第三位権者である。皇位継承権からいえば、第一位権者である帝弟レグナルト、第二位権者のスウェイン家アスコットリルの方が遥かに上位にあり、五代前の皇帝の末妹が遺した私生児ギレディアなど足元にも及ばない。だがそれでもギレディアの強烈な自負を支えていたのは自己の才覚に対する底無しの自信だったのだ。
ギレディアは木組みが露出する小屋の天井を見上げながら奥歯をぎりぎりと噛み合わせていた。その自信を揺るがせた男がいる。多くの部下の死を前にして痛烈に面罵された恨みを思うと身体が焼けるように熱くなる。
孤狼のアリエーニレン。ギレディアは大河ミエスク以北に隠れなき賢者として知れ渡る策士の名を、どす黒い怒りと共に呟いた。その怒りの大半は、ギレディア自身にも向けられている。敵を侮りそのために危地を招いた己への怒りだ。
この怒りと恥は必ず雪がねばならぬ。だが、それには己の過ちを正し失地を回復しなければならない。果たしてそれが可能かどうか、そう考えると心が曇る。
第三位皇位継承権者を名乗って旗揚げした当時からの古参の部将の多くが今回の謀叛で討ち死にしたはずだった。本拠ドナテロに残してきたのはほとんどが新参の配下たちであり、真に信頼の置ける者は腹違いの弟であるギュルタールのみだったが、この戦乱の時代を思うと血の繋がりさえ危ぶまれ、疑念が心を覆う。よしんば無事に帰還できたとして、以前と変わらぬ忠誠を見せてくれる者がいるだろうか。最悪、不甲斐なさに愛想を尽かせて謀殺されるも決して有り得ぬことではない。
ギレディアはいつしかまどろみ、疑心暗鬼の昏い闇へと落ちていった。
一体どれ位眠ったのか。
浅い眠りの中で悪夢が次々に襲い来たり、その余りの目まぐるしさに詳細までは思い出せないけれど、恐怖と苦悶に寝汗で全身を濡らしてギレディアは目覚めた。
「おう起きたか」
焦点が定まらず輪郭のぼやける視界の中で、黒い装束を着けた髭面の男が言った。
「あまり五月蝿く唸るのでそろそろその役立たずの頭をしばいてやろうかと考え始めておったところよ、背徳のギレディア殿」
言って男は大声で笑った。笑ってから手にした木の椀をずずずと啜り込む。
こいつ、俺の名を知っているのか。
たちまち身構えてギレディアは問うた。
「貴様、何者だ」
「おう、儂の名か」
見れば胴回りが灰汁酒の樽ほどもある巨漢である。その巨躯に虎髭を生やした頭が乗っている様はさながら人外の獣のようだ。
「儂はマンノウォーのベナストルよ。人は漂泊の名を冠して呼ぶがの」
「捨教者だな」
「ふん、目ざといのう」
漂泊のベナストルはその漆黒の僧服の裾を摘んで鼻を鳴らした。黒の僧服はシオルの家、即ちシオル教会を追放された者が着る服である。
「聖堂に在れ山野に在れ、信仰の強さに変わりはないさ。儂はただ毎日たらふく旨い物を喰う生活に飽きただけよ」
「俺をどうする気だ」
ベナストルは髭に半ば埋もれた黒い小さな目でじろりとギレディアを睨んだ。
「自惚れるな若造が。儂にはお主なんぞ鼻糞ほどの価値もないわ」
ベナストルはまたずるずると木の椀から湯気の立つ麦粥を啜り込んだ。
それを見ていたギレディアの腹が不覚にもぐぅと唸った。
ベナストルは豪快に笑った。
「腹が減ったか。だが残念じゃのう、ここの主人は外出中よ。儂とてお主と同じ一宿一飯の恩義にあずかる者なれば、勝手にこの家の鍋から食物をよそってやるわけにはゆかぬでな」
そうしてまた、粥を啜る。
ギレディアは恥と怒りで頬を赤く染めたが、懸命に自制して尋ねた。
「あの少年は何処へ行ったのだ」
「さあなァ。ロベルトまで滅多にない獲物を売りに行ったかのゥ」
「貴様、真剣に答えよッ」
「黙れうつけ者ッ!!」
ベナストルは大喝した。飯粒が口腔から飛んで辺り一面に散らばる。
「一体お主の命が今あるのは誰のお蔭だッ。あの子が必死に介抱したためではないかッ。否、それだけではない、お主のために一命を投げ打って退路を拓かんとした多くの臣下のお蔭ではないかッ。それをお主はまるで意に介さず己の野心の将来ばかりを案じておる。あまつさえ怪我人として、しかも客人として他人の家の世話になりながら、あたかも万軍の主であるかのように振舞うその言動が、如何に無礼かつお主の分を外れておるか頭を冷やして考えてみよッ」
虎髭をばりばり震わせ、頭髪を槍の穂のように逆立ててベナストルは怒鳴った。
ギレディアは憤怒のために顔面を蒼白にして黒衣の僧侶をねめつけた。
「と、まァ、偉大なるシオルはおっしゃるであろうよ」
しばらくの睨み合いの後、ベナストルはニヤリと笑った。
名残惜しげに麦粥の残滓を掻き込むと、腹を揺らせて立ち上がる。
その時、扉が今度はすんなりと開いて小屋の主人である少年を迎え入れた。
「朝餉をご馳走になった。お礼に少々薪を拾って来よう」
ベナストルは少年に頭を下げて言った。少年がそれにうなずく。不思議なことに、耳が聞こえなくても少年と捨教の僧侶の間には意思の疎通が可能なようだった。
「起きてたか、すまない、お前、寝てる間にと、思って、魚を、獲って来た」
ベナストルが背負子を負って出て行くと、少年はギレディアに笑いかけた。
ギレディアは無言である。ベナストルの叱咤を無視することは彼の自尊心が許さなかった。
少年はそんなギレディアの不機嫌には構わず、火から遠ざけてあった鍋を竈にかけて温め始めた。
「ベナストルと、話、したか」
柄杓で鍋をゆっくり混ぜながら少年は言った。
「あの人は、偉い、人だ。お前、助けたの、あの人だ」
「何?」
ギレディアは思わず問い返した。なるほど、そうであれば行き届いた手当ても納得できる。僧侶は秘蹟として医術を扱うからだ。それにあの巨漢であれば谷川の流れから大人一人助けることも容易いだろう。
もちろん、そうであったとして一片の感謝の念さえ湧かなかったが。
「俺に、言葉を、教えて、くれたのもあの人だ」
大方、どこぞの女に孕ませた子供を捨てるに捨てられず世の中から隠して育てているのだろう。腹立ち紛れの嘲笑を込めてギレディアは思った。
「よし、できたぞ、待たせて、悪、かったな」
少年は麦粥を木の椀にたっぷり注ぐと、足早にギレディアの寝台へ運んだ。
ギレディアは椀を黙って受け取った。
素朴な麦の香が白く立ち上るそれを、木匙で掬って口に入れる。
逞しい土の味が口腔に広がった。山奥にひっそりと暮らす賤民の生活の味だった。
美味かった。何の調味もされていない麦粥が、驚くほど美味かった。
ギレディアは、一口一口、目を閉じて粥を喰った。
少年は笑みを浮かべてその食事を見守っていた。
「こんな、物しか、作れなくて、申し訳、ない」
少年が言った。
ギレディアは理由もなく己を恥じた。恥じながら、黙々と粥を啜った。
椀が空になるのにさほど時間はかからなかった。
少年は食器や土器等の洗い物を抱えてまた小屋を出て行った。その際、炉の火が消えないよう気を配ることも忘れなかった。
ギレディアは寝台に身体を投げ出したままその後姿を見送った。
一杯の粥が身体中に力を行き渡らせているのを感じた。今や全ての感情が前に増して強烈かつ鮮烈に燃え立っていた。
必ず生きてみせる。そう心に誓う。つまらぬ一個人としてではなく、将として、英傑として、大君として。そう、正しく紛れなき、皇帝として。
全身が熱くたぎっているのをギレディアは感じた。未だかつてこんな感覚を味わったことはない。俺は生まれ変わったのかも知れぬ、そんな考えが頭を過ぎる。この途方もない危地が俺を生まれ変わらせたのかも知れぬ。
史家は云う。人が歴史を創るのではない。歴史が人を創るのだと。歴史は神に直接する。だとするなら歴史に創られた人物は即ち神の手になる被造物である。
偉大なシオルは俺を選んだのだ。過去一度その庭を汚し、ために背徳の冠号を架せられることになったドナテロのギレディアを。
ギレディアは微笑んだ。俺は神の子か。
そうしてギレディアの微笑が恐ろしい哄笑へと変わろうとした時、再び小屋の扉は開かれた。
どうせあの少年か不愉快な生臭坊主のどちらかであろうよとたかをくくって視線を向けたギレディアの表情は、しかしすぐに厳しく硬直した。
「巡検であるっ。神妙にせよっ」
扉の向こう、谷間に差し込む湿った朝日に黒い武具を光らせて、屈強な兵士がずらりと並んでいたのである。
瞬間しまったとの思いがギレディアの脳裏に走った。やはり俺は売られたのか。
かくなる上は自害するしか道はない、そう腹を決めかけてギレディアはふと相手方の様子がおかしいことに気付いた。
見れば六人程の兵士の一隊は確かに病床に半身を起こした人物をギレディアその人と認めたようではあるが、仲間内で低く何事か囁き合うその様はまるでこの山中のあばら家に賞金首が潜んでいることを今初めて知った風である。
まァ前もって知ろうが今初めて知ろうが俺の行く末に大した変りはあるまい。
そうは思ってもいささか気勢をそがれて、ギレディアはいずまいを改めた。だがあえて自ら声を挙げることはしない構えである。
兵士達の間から隊長と思しき男が進み出て、そこに膝を折った。
「私はデザルマク公麾下に軍兵小隊を預かるラケトーと申します。主君の命に従いこの付近を探索中、こうして御尊顔を拝し奉ることに相成りました」
「その物言いでは、正体を隠すこともできまいな」
ギレディアは溜息をついた。
ラケトーと名乗った男は膝を屈したまま小屋の中へ踏み込もうとせず、更に言った。
「皇位第三位継承権者、ドナテロのギレディア卿とお見受けいたします」
「いかにも」
「我が主君の命に従い、貴方を捕らえねばなりません」
「好きにせよ」
しかしラケトーは動く気配を見せない。
「見れば尋常ならぬ怪我をされておる御様子」
「どうせ明日明後日には首と離れるこの身体、そう思えばさして痛みもせぬものさ」
ギレディアは自嘲気味に笑って続けた。
「さあ、早く捕らえるが良い。ここの家人にはこれ以上迷惑をかけるわけにいかぬからな」
腕を広げて促す素振りのギレディアに、軍兵隊長ラケトーは首を横に振った。
「そのお怪我では我が主君デザルマクの居城までの道程難儀致されましょう。今すぐ使いの者を遣って何か乗り物を用意致しますゆえ、しばらくお待ち頂きたく存じます」
この物言いにさすがに呆れて、ギレディアはラケトーの顔をまじまじと見つめた。
ラケトーは礼を守りつつその視線を真っ向から受けて見せた。
腹中に一物あり、とはとても思えないような真摯な眼である。だとすれば単なるお人好しだが、そう単純にとれる類の男でもなさそうだ。
ギレディアが何か言おうにも言えずにいると、ラケトーは部下の兵士を振り返って遠ざかるように命じた。
そして自らは立ち上がると小屋に入り、扉をぴたりと閉めてそこにひざまずいた。
ギレディアは興深げにその様を眺め、
「一体貴様は何者だ?」
と短く問うた。
ラケトーは前に増して丁重に、貴人に対する礼を取って言う。
「我が振る舞い、善からぬ腹意あってのことと怪しんでおられるかと存じます。しかし部下の手前、私の素性を明かし真意をお伝えすることも適いませなんだゆえ、お許し下さい。こうして人払いをいたしましたので、今は他人の耳を気にする必要はございません」
ギレディアは寝台の上に半臥したままラケトーの話を聞いている。
「私はかつては帝都ネアルコにて皇帝陛下の寝殿を警護する役人でした。戦乱による零落の末、今でこそこうしてデザルマク公の下に禄を食む身ですが、帝国を思う気持ちは衰えてはおりません。今、永い戦の世に帝国の国土は荒れ果て、民心は乱れ、中央では井蛙のヘルベルごときが政治を私しております。私はかねて国の行く末を憂い、天下に正道を示してくれる英雄が現れればその手助けをしたいものだと願って参りました」
そこでラケトーは姿勢を正して言う。
「無礼を承知で申し上げます。帝国に大帝の正統を示し人民に平和と幸福の世を与えられる者はギレディア卿をおいて他にございません。私がこうしてこの様な時にご尊顔を拝するに至ったのも、閣下をお助けするようにとの天命に相違ありますまい」
「俺を助けるというのか?」
ギレディアは半分笑って言った。
「俺は貴様に何の見返りも与えてやれぬのだぞ」
「お見くびり下さいますな」
ラケトーは表情を厳しくして言う。
「私は私心なくただ世を憂うのみ。見返りを求めるとすればそれはただ帝国の中興のみにしかございません」
「面白いことを言う」
ギレディアは笑った。
「可笑しゅうございますか」
「これが可笑しくなくてなんだ。そんな言を俺に信じろというのか」
ギレディアはすっとその笑いを消した。
「この乱世、誰もが貴様のようなことを言う。あのファーダでさえ初めは王佐を唱えて帝都に入ったのだ。行うより先に綺麗事を口走る人間の言葉ほど危うい物はない」
「私が己の立身のため、デザルマクに卿を売るとお疑いですか」
「ラケトーとか申したな。所詮は貴様もファーダ没落と共に落ちぶれた野党盗賊の類であろう。真の憂国の士が何故野盗の頭目デザルマクに仕える必要がある」
「幻獣であるところの龍は」
痛烈なギレディアの面罵にも平然としてラケトーは言った。
「龍は、幼年期を淵の底に深く身を横たえて過ごします。それもひとえに、長じて後に天へと昇らんがため。私がデザルマク公の下にこうして恥辱を耐え忍んでいるのも、時機を見て帝国のために立ち上がらんがためにございます」
ラケトーの眼に炎が燃えた。
この男も、また。
背徳卿の首筋を一筋の冷たい風が撫でた。
ギレディアはこれまでにも眼中に火を宿す人間を幾人か眺めてきた。稀代の姦賊にして一世の豪傑、僭称帝ファーダがそうであったし、今思えば孤狼アリエーニレンの揺るがぬ瞳の中にも昏い焔が燃えていた。鏡を覗いた己の眼にそれを見出したこともある。
だがラケトーの眼に燃える炎と、今までギレディアが世に謳われる英雄達の眼中に見出してきたそれとは、全く別の性質であるように思われた。だからこそそれと対峙するギレディアをして悪寒を感ぜしめたのである。
世に生きる漢には二つの種類があるという。即ち覇道を往く者と王道を歩む者である。覇道とは己の運命を全うする道であり、王道とは運命に抗ってまで信に生き義に殉ずる道に他ならぬ。
人は大望を抱くが故に覇道を往く。何事か成さんと欲するなら既にそれは覇道に踏み出す第一歩なのだ。信に背き義を捨ててまでも己の夢を掴まんとするそれは、王道とは決して相容れることはない。二つの道は決して交わることなく互いに厳しく敵対しながら続いてゆくのである。
古より英雄と呼ばれた者達は皆覇道に在った。ギレディアはそう信じてきた。
だがここに王道を歩む者がいる。ギレディアは出遭っていくばくもない眼前の男を少なからぬ驚きと共に眺めた。
この男がかつて英雄と称された人物達に比肩する器かどうかはわからない。しかしその眼には限られた人間にしかない炎が燃え、それは彼が歩む道を照らす灯りなのだ。
遠くない将来このラケトーと敵として再会することがあるかもしれぬ、いや、必ずそうなるだろうとギレディアは信じた。覇道を共に往くにはラケトーの炎は明る過ぎ、強過ぎた。そしてその将来において、今この時この場所で、助け、あるいは助けられたことを後悔するのは果たしてどちらであるのだろうか。
「貴様のような男が生きていようとはな」
ギレディアは呟いた。
それを聞いてラケトーは頭を垂れた。
「帝国は広く、憂国の士は多くございます。閣下が真に救国の英雄として振舞われるのであれば今後千の勇者が閣下を慕って集まりましょう」
ギレディアが抱いた昏い予感はラケトーにも通じたらしい。このデザルマクの軍兵隊長の言葉は手厳しい牽制としてギレディアに届いた。
「この俺を脅すのか、貴様ごとき名もなき者が」
「人は力を得ては奢りやすく、名を成しては敬虔を忘れるものにございます。君主たる者の倨傲は往々にして世を乱します。私はそれを危ぶむのです」
ラケトーはそこで言葉を切った。それは逡巡のための沈黙と思われた。
次の語を聞いてはならない。
ギレディアの脳裏を警告がかすめた。
ラケトーは次なる問いで未来を知ろうとするだろう。ドナテロのギレディアが遠くない未来に創り出す帝国の姿を。
それはラケトーが望むような平和と幸福からはかけ離れた世界だ。そのことを知った時、ラケトーは背徳卿をこの場で殺そうとするだろう。
「ラケトーよ」
ギレディアの呼びかけを聞いて微かにラケトーの肩が震えた。
だがその顔を上げない。上げることができないのだ。
間違いない、こいつはもう俺に救国の英雄の理想を重ねていない。
ギレディアのみぞおちを冷たい汗が流れ落ちた。
「ロベルトに、戻れ」
ラケトーは答えない。
ラケトーの右掌。いつの間にか腰に帯びた剣柄に添えられた掌が、白く震えている。
ギレディアは血走った眼をその右手から動かさない。
「貴様に助けてもらう必要はない。貴様は何も見ず、何も聞かず、何も語らず、ただロベルトへ戻ればそれでよい」
ラケトーは答えない。
伏せられた顔に闇が蠢く。
とんだ扉を開けたものだなラケトー。
腹の中でギレディアは強張った笑いを吐く。汗が一筋、背徳卿の額を落ちる。
貴様が開けた扉はお互いのために開けるべきでなかったのさ。
「ラケトー」
貴様はこの短い邂逅の間に俺の本性をよく見破ったよ。
「ラケトー、ロベルトへ戻れ」
さあ顔を上げるのだ。
ギレディアの眼は血を含んで更に大きく膨れ上がる。
ラケトーは、答えない。その右掌は相変わらず震えている。
その様子を木戸越しに聞いている者があった。
薪を拾いに出かけて行った黒僧衣の男だ。短い時間によくもこれだけ拾えた物だと思われるほど大量の薪を背負子に高く積み上げている。
マンノウォーのベナストル、時には破門者の名をもって呼ばれる捨教の僧侶は強い髭をしごきながら小屋の中で続く二人の傑物の対峙の様子に聞き入っている。
要は立ち聞きである。しかしその熊のごとき容貌からは己の行いを恥じる気持ちは感じられない。
もっともこの捨教僧でなくとも引き付けずにはおかない対話の内容ではあったのだが。
そして小屋の中でラケトーの右手が正にその剣を抜き放とうとした時、ベナストルの巨躯は俊敏に動いた。
が、古びて歪みを生じた小屋の扉は黒衣の僧の意思に反して開かない。怒りを発したベナストルは全身の力でこれを引っ張ったため、星霜を経た扉はついに粉々に砕け散ってその寿命を終えることとなった。
驚いたのは小屋の中に対峙していた二人である。
闖入者の余りに突然かつ乱暴な登場にラケトーは声もなくベナストルを見上げた。
ベナストルは委細構わず散乱する扉の名残の木片をばりばり踏みつけ、軍兵隊長と背徳卿の間に割って入った。
二人の間に仁王立ちになったベナストルはそのぎょろりとした黒い眼でラケトーとギレディアを交互に見回した。
「おう、二人して物騒な面をしておるのゥ」
「あなたは誰ですか。見た所、捨教者のようだが」
明らかに戸惑いながらラケトーが言った。その手はまだ剣の柄にかけられたままだが、力は抜けている。
「名乗るほどの名もないよ。今は野辺から祈りを捧げる身だからな」
ラケトーはベナストルの卑下に眉をひそめた。記憶を探る様子を見せ、次にはっと目を見開いた。
「ひょっとしてベナストル司教猊下ではございませんか」
「司教だと!?」
驚きの声を発したのはギレディアだった。神の家を追われた生臭坊主と侮っていた男が聖職位階の称号をもって呼ばれたのである。その驚きは大きかった。
「聖地マンノウォーに三つある司教座の一つを預かっておられたベナストル猊下と記憶しておりますが……」
ラケトーは膝を折った低い姿勢のまま、困惑気味に巨漢僧の熊面を仰いだ。
「何故、あの司教猊下がこのような場所で、しかも捨教者の黒衣などを着ておられるのですか」
軍兵隊長の問いにベナストルは剛毛の生え揃った頬を掻いて、
「己の行いの無為を悟って野に下る、まあそんなものよ」
「は……」
納得のいかぬ表情ながらもラケトーは一応うなずいた。
「はて、お前とはどこかで面識があったかな?」
思い当たらぬ様子でベナストル。
「は、私がまだ皇宮警護の官職にありました頃、幼帝陛下の御前にしばしばおいでになりました」
「おう、セフト陛下の宮廷か。思えば帝国の正統はあれ以来絶えて久しいのゥ」
偉大なるシオルに三つの聖地あり。即ち聖人廟を戴くエクリプス、シオルの仔らの家々を統べる法王庁を置く帝都ネアルコ、そして初源の地と呼ばれるマンノウォーである。帝国内のみならず大陸全土に広がるシオル教会に並み居る司教達の中でも、それら聖地に教区を領する司教は別格であり、聖職位階においては枢機卿にすら比肩するとされる。それらの司教達は帝国史の中でしばしば皇帝の教育係として絶大な権勢を振るってきた。
このベナストルにしてさえかつては宮廷に出向したことがあったのである。その彼が今は黒衣に身を包み、野辺を流離って生きている。ラケトーの驚きも、ギレディアのそれも、人の一生の奇妙さに向けられた物という点では同一であった。
ちなみに皇帝セフトは当時ディクタス公であったファーダ・ハストグレンデによって処刑されている。
「歴史というのはまこと人の手に余る、そう思わぬかラケトーよ」
「……は」
「歴史の中で人の命は存外軽い。大義や正義、そんな理由のために人が死ぬ。殺し、殺される。それが正しいことだと信じてな。ところが後になって振り返ってみて、それが誤りだったと気付くことがある。そんな時、人は自分の行いの虚しさを初めて知るのだ」
「……」
ラケトーは黙ってベナストルの話を聞いている。
「お前はこの男を殺そうと考えているようだが」
そこでベナストルの黒く小さい目がギレディアを見る。ラケトーの息を呑む音。ギレディアは眉尻を上げただけである。
「猊下、それは」
「まァ人の話は最後まで聞け」
ベナストルは右手を上げてラケトーをなだめた。
「一匹の蝦蟇蛙とて蛞蝓を喰らい麦の苗を守る道理。ましてそれが人においてであってみれば、その本質の害なるか益なるかなどと量り知ろうとすることが果たして可能であろうかのゥ」
ラケトーは怪しく光る眼でベナストルを仰ぎ、話の続きを待つ。
ベナストルはその実直な顔へニヤリと笑んで問うた。
「お前は死人を生き返らせる術を知っておるか?」
「死、人を、でございますか」
余りの問いにラケトーは言葉に詰まる。
「はっはっ、できぬであろうの。うむ、儂にもできぬ。こうしてみると我らの何と無為無力なことよ。つくづくこの世で力持つ者とはただ神にしかずということを思い知るわ。ならば、我ら力なき者は、安易に殺さぬことじゃ。例え毒虫のような輩でも、神の御意志に従えば、後に思いもかけぬ大きな働きを世のためになすかも知れぬからの」
「私に、ギレディア卿を殺すなとの仰せですか」
「そうとも取れよう。それはお前が決めることだ、ラケトー」
ラケトーはギレディアを直視した。ギレディアも視線を返した。
だがもはや相互の間に殺意は消失していた。それがベナストルの説教にのみ拠るのではないことは両者が意識していた。
神の碾き臼はギレディアにしばしの猶予を与え、ためにより大きな次なる運命の歯車がギレディアのみならずラケトーを引き込んで回り始めたのである。ギレディアとラケトーは対決の時が先へ延ばされたのを知り、しかしそれが自分にとって善い事なのかそれとも悪しき事なのかは知らない。
「猊下の、否、偉大なるシオルの仲裁を受けましょう。私は剣を収めます。しかし、ギレディア卿にこれだけはお尋ねしたい」
「何だ」
ギレディアは不機嫌に言った。自分抜きにベナストルがラケトーと話を進めたのが気に食わない。生来が典型的な独断専行肌の男である。
「あなたは、帝国を治めるのに何をもってなされるおつもりですか。信仰ですか、徳ですか、それとも、力をもってなされるつもりですか」
ギレディアはその問いを嗤った。ラケトーが、思わずたじろぐような微笑だった。
「そのいずれでもないな」
「では、何をもって」
「恐怖だよ」
ギレディアの唇が耳まで裂けているかのように、見えた。
ラケトーは短く喘いだ。
「恐怖だ。俺の統治時代は後世、恐怖の時代と呼ばれるのさ」
ギレディアの眼が濡れている。碧い眼が金色の光に濡れている。端正な鼻筋に影が揺らめき、赤い唇が妖しい微笑に裂けるその様は、さながら悪魔のごとくであった。
ラケトーは単発的な吐息を漏らしながらそのギレディアの容貌を見つめている。妖しくも魅惑的な容貌だった。多くの人間を魅入らせる力を持った微笑である。その眼前に人目をはばからずひざまずき、思うがままに支配されたいと願わせるような。
ラケトーは既に魅了されていた。もし、ベナストルの武骨な手がその肩にかからなければ、なりふり構わず臣従を願い出ていたであろう。
ラケトーは甘い夢から醒まされたような恨めしい気持ちでベナストルを見上げた。
「命運は分かたれた。お前はお前の道へ戻るが良い」
瞬時に呪縛が解けた。
ラケトーは畏れに汗を噴出しながらギレディアをもう一度見た。
「私は」
背徳卿と仇名される男の魔力に背筋が凍っている。一語一語が全力で走るに等しい力を要した。
「私は、この日のことを一生悔い続けるでしょう」
言うと同時にもう立ち上がっている。
だが、何を悔いるのだ?この場で奴を殺せなかったことをか、それとも奴の軍門に下り奴のために働く道を選ばなかったことをか?
礼もそこそこに背を向ける。
ベナストルの視線が自分に注がれているのが分かった。
そういえば、何故ベナストルはギレディアを助けたのだろう。
ちらりと疑問が頭をかすめた。
ギレディアはかつて聖職者虐殺を指揮し、ために背徳卿の名を冠せられたが、そのギレディアを、何故。
だがその問いの機会は既に去っている。
ラケトーはその先に広がる新たな道に踏み出すために小屋の扉を開いた。
外界は明るい。初夏の陽射しは爽やかに、清流流れる谷間の小屋へ芳しい温もりを伝えている。ラケトーは静かに、頭を高く上げて陽光の中へ歩み出た。
徐々に小さくなって行くその後姿を、ギレディアはいつまでも眺めていた。軍兵隊長の背中が完全に見えなくなっても、しばらくギレディアは動かなかった。
先に口を開いたのはベナストルだった。
「さて、我らも行かねばならん」
ギレディアは疑念に満ちた眼を僧侶に向けた。
「質問が、ありそうだの」
「山ほどな」
「だが後回しだ。命が大事よ」
ベナストルは言って気遣わしげに小屋の外を見やった。
「あの子はどうした?随分遅いではないか」
木造の祭壇に赤い灯明が揺れていた。八方を締め切り風と光を排した部屋の中、太く狂気じみた蝋燭に灯された炎はゆらゆら揺れる。蠢く炎はあらゆる影を漆黒の絵画として冷厳な岩壁に映し出す。
その炎の前に立つ男がある。世人は彼を孤狼と呼ぶ。怜悧な謀策の士として、また非情の将として、男は世に怖れられている。彼ほどに将才に恵まれた者が何故デザルマクのごときに従っているのかを疑う声もある。いつか主の寝首を掻いて自分がロベルト太守たらんとするだろうとさえ噂されている。
その心の内は本人しか知らない。そして神ならぬ身にして己が運命をこれほど知悉しているだろう人間は他にはいない。
孤狼アリエーニレンはゆったりとした素振りで祭壇の炎を扇ぎ消した。
占いの終わりである。祭壇に立つ一本の獣脂蝋燭とそこから放射状に部屋の四隅へ引かれた骨粉の線分が、アリエーニレンの求めた秘蹟が神聖に背反する力に源を置く物であると示している。偉大にして唯一なるシオルは信者に暗黒との交わりを禁じたが、今この部屋で行われていた儀式はその制約に明白に背くものだった。
アリエーニレンは祭壇の上から分厚い獣皮表紙本を取り上げ、骨粉を静かに払った。神秘古語のアカテナン語を読める者が見たなら、その金打ち題字をボルフガンゲン、即ち『光の書』と訳したであろう。偉大なるシオルにしてさえその力が人々に及ばぬ旧い時代がこの大陸にもあった、その名残の書物である。
シオル教会で禁忌書中の禁忌書として扱われているその書物を清め終えると、アリエーニレンは振り返ることなく背後へ言葉を投げた。
「終わりました」
「そうか」
封印されていた樫の扉が開き、巨将がのっそりと部屋に入って来た。
「結果を知れば失望なさるでしょう」
「と、言うと、やはりか」
「はい。ギレディアが天命、未だ尽きず」
「ふむ」
ロベルト太守デザルマクは考え深げに髭を撫でた。
「ギレディアめ!あれ程悪運の強い漢を儂は他に知らぬ」
人に天命あり。生命は自然の支配する所であって、この天命とは天の支配に属する。天とは神と同義ではなく万物の源泉、創世の彼岸にある不可侵不可触の存在である。天命の終着は死ではない。天命は人がその価値を失った所に終焉する。有為な者のみが天の愛する者である。その持ち前の能力を喪えば人は生きる意味を喪う。その点では天命の終わりは生命の終わりでもあると言えるかも知れない。
神ならぬ身が人の寿命を計ることを許されないのと同様、天命を計ることは禁忌とされる。シオルを信仰せず未だ暗黒に属する人々の間にしてさえそれは絶対である。だがアリエーニレンは暗黒の民草さえ避ける禁忌を冒しながら平生と変わらぬ口振りで話す。デザルマクにしてもアリエーニレンの所業を咎めようとはしない。
「そうお嘆きめさいますな」
アリエーニレンは祭壇を浄めながら主君に言った。
「この危地を仮に逃れたとて、それはギレディアが無傷だということではありませぬ。彼は、内においては子飼いの将を喪い、ロベルトへの支配を失い、将兵の信頼を失いました。加えて外からは帝弟レグナルト、修道卿アスコットリル、その他の利に敏な大小の領主豪族がこれまで以上に目を光らせてつけ入る隙を狙っていることでしょう。もし万が一、ギレディアがドナテロに生還するようなことがあっても、今後奴は家臣の不信と外圧という内憂外患に苦しむことになりましょう」
アリエーニレンはそこで手を止めてデザルマクの顔を見やった。
一生の盛期を過ぎてなお炯々と光る男の眼が、じっと孤狼に据えられている。
「……隠し事は通じませんか」
アリエーニレンは苦笑した。
「先程、ドナテロに放っておいた間者が戻って参りました」
「仕上げは、さほどかんばしくなかったようだな」
「ドナテロに動きなし、との注進でした」
「奴の軍団の結束は鉄か」
デザルマクは嘆息する。
「早晩大戦さになろうのう。風読みのエレゲルトに豪腕デッケルハルトらの四柱を欠くとはいえ、ドナテロ城に将星はまだまだ多い。果たして我が方がどれだけ相手になれるものか。彼我の勢力差を慮ってあえて姦計を用いるも、ギレディアは死せず、ドナテロに反乱の動きなし、とは最悪の結果になってしまった」
「公は、往時に比べて少々弱気になられました。お歳ですかな」
アリエーニレンは小さく笑った。
「私はドナテロに動きなし、と申し上げたのです。確かにこちらに内応する者はおりませんでしたが、しかし、危地の主君ギレディアを救わんとして軍を発する動きもございませんでした」
「ギレディアの留守は異母弟ギュルタールが預かっているはず。何故奴は動かぬ」
「恐らく、時を計っておるのでしょう」
「時を?」
「帝国には風が吹き始めております。新たな戦乱の風です。先程、公は大戦さになろうと仰せられました。確かに大戦さが起こりましょう。しかしその戦さは公とドナテロの間に戦われるものではありません。その戦さを挑んでくる者を、ギュルタールは見極めようとしているのです。勝てぬ相手ならば兄を捨てて降り、勝てる相手ならば兄を立てて戦うでしょう」
「では、ドナテロと誰が戦うと言うのだ」
デザルマクの問いにアリエーニレンは涼しい顔で答えた。
「知りませぬ」
若き策士は続ける。
「レグナルトかアスコットリルか、あるいはその他、ホーソネル等の地方領主たちか。もしかしたらそれらの全ての攻撃がドナテロに集中するでしょう。ドナテロへ誰が出兵しようと構いません。ギレディアは完全に滅び、ロベルトは安泰です」
「不安だな」
デザルマクが言った。アリエーニレンは片眉を上げて主君を見た。まるで、そこに有り得ないものがあるとでも言いたげに。
「既に密使が各地に到着しておりましょう。奸物アスコットリルは読めませんが、貪欲なレグナルトは確実に兵を起こすはずです。彼とギレディアの間には長い確執がありますから」
言いながらアリエーニレンは心中で苦い物を噛み潰していた。
俺は今回の計略で一度だけ、読み違いをしている。あの女、サルナータがギレディアに本気になってしまったことだ。女は理解らない。自分の夫を殺した相手に抱かれて惚れてしまう。そのためにギレディアを取り逃すことになった。
それはもういい。過ぎたことだ。その失敗を贖う策を講じれば良い。その自信はある。だが、それとは別に何かが引っかかっている。勘が危機を告げている。俺は何か重要なことを見過ごしている。
何だ。
レグナルト、アスコットリル、ギレディア。この三人が手を結ぶ?
馬鹿な。万が一にもその可能性はない。皇位継承権者たちの深い反目と憎悪を十二分に勘案した上での計略だ。ギレディアに差し伸べられる手はどこにもない。
しかし、そうであるならこの危険の予感はどこからきているのだ。
その時、部屋へ慌てふためいた様子で誰かが入ってきた。
「申し上げますっ」
「何事だレングロール、何人もここには立ち入るなと申し付けたはずだが」
主馬頭レングロールはデザルマクの叱責に恐縮して膝をついた。主馬頭は騎士の総監督的な役職であり、かなり高位の武将であるが、それでも城中のこの階層の通行は許されていない。ここはアリエーニレンが秘術を行う場所であり、その性格からデザルマクと彼の二人だけの空間なのだ。
ファーダ没落時から主君と行動を共にしてきた老将レングロールは、兜からこぼれる長い白髪を垂らして言上した。
「非礼は承知の上なれど、事の危急を勘案し、敢えてその禁を犯した次第、殿に御報告申し上げた後ならば、いかように処分されようと構いませぬ」
レングロールのその言に、デザルマクではなくアリエーニレンが答えた。
「別に気にかけはせぬ。余程のことであろう、申せ」
主馬頭はわずかにきッと若い参謀の顔を睨んだが、すぐにデザルマクに向き直った。
「ネアルコから早馬が参りました」
「帝都から早馬だと、ヘルベルに何かあったのか」
今回の計略でデザルマクは、ロベルト郊外に駐屯するギレディア軍百を掃討するためにヘルベルと協力している。大して役に立ったとも思えないが、共にファーダの禄を食んだ腐れ縁で共闘関係を続けている。先夜、ロベルト城外で表面上は決別したものの、いまだ内外に二人の結束を示しておくことで安泰を図りたいとの思惑も捨てきれない。
「ヘルベル将軍は今朝方早く、五千の兵をもってネアルコを発し、ドナテロへ向かわれたとのことでございます」
「おお」
デザルマクは低く呻くしかない。
抜け駆けである。もとよりヘルベルもデザルマクも独力でギレディアに立ち向かう勢力など持ち合わせていないが、主の生死が不明な今ならドナテロを攻略できると踏んだのか。民草に井蛙の、小物の、と嘲られてもやはり摂政公の地位は地位、即座に五千の軍勢を揃えることができる。デザルマクが今回の計略に集めることができたのはわずか三百そこらである。全領地に招集をかけても五千の半分にも満ちることはあるまい。
ヘルベルの出兵が他の諸侯への呼び水になれば良いが。デザルマクがそう考え始めた時、凄まじい怒声が起こった。
「うぬ、そうかッ、この俺こそが大馬鹿者であったッ」
孤狼が顔面蒼白となって天を睨んでいる。
デザルマク、レングロールの両者はその叫びの凄まじさに唖然として、ただこの若い賢者を眺めるばかり。
アリエーニレンはすぐに、天突き上げるその眼尻をデザルマクに移した。
「公に御赦しを請わねばなりません」
「赦しだと?」
「はい。私は策を誤りました」
「策を、誤った、と申すのか」
デザルマクは呆気に取られたまま策士の言葉を鸚鵡返しに呟いた。
「過ちも過ち、愚計を妙計として献策することより愚かな過ちがありましょうか。このままでは公は帝国諸候を敵に回して戦わねばならなくなります」
「訳が分からぬ、アリエーニレンよ、もう少し順序立てて申せ」
「もとよりそのつもりだ、レングロール」
横槍を入れた老将軍に鋭い一瞥を投げ、アリエーニレンはデザルマクを見据えた。
「ヘルベル進発の急を聞けば、ドナテロを預かるギュルタールは諸侯に援軍を要請するに違いありません。領主らの内の幾らかはヘルベルに加勢しましょうが、レグナルト、アスコットリルの二人だけは確実に反ヘルベルの側に立ちます。何故なら彼らは皇族であり、ヘルベルに対して帝都を追われた恨みを抱いているからです」
「しかしアリエーニレン、お前はその三者が手を結ぶことは有り得ないとはっきり申しておったではないか。何を今更……」
「それはドナテロへ出戦を仕掛けるのでなければ、の話です。そうでなければギュルタールもレグナルトやアスコットリルに敢えて頭を下げはしないでしょう。ヘルベルの愚挙が結ばせてはならない手を結ばせるのです。もし彼らが手を結べばヘルベルは撃破され、敵は我らの方へも押し寄せて参りましょう。それこそ我らの破滅です」
自説をとうとうと展開するアリエーニレンの前で巨漢の君主は唸った。
「で、あれば何とする。我らはヘルベルと共にギレディア謀殺を図ったのだ。儂とヘルベルは最後までこの道を全うするしかないのではないか」
「ヘルベルごときと心中するのは愚の骨頂にございます」
アリエーニレンは、にっ、と笑んだ。
「己の不始末は、私が自分で贖いましょう。愚策に転じた謀を妙策に転じるのも智者の役目と存じますれば」
「相変わらず壮語としか取れぬ物言いよな」
不興を装ってみても虚しい。デザルマクは、どうしようもなく信頼し切った眼差しで年若の将を眺めている自分を知っている。
「存分にせよ。儂はただそれを見届けよう」
ロベルト太守は踵を返し、扉際でそう言い置いた。背を向けたまま言ったのは、心の裡を読まれまいとしてのことだったが、恐らくそれはかなわぬであろうとわかっていた。
退出する君主の後背を拝しながら、アリエーニレンは黙して思いを巡らせている様子である。
渓谷のどん底に重く立ち込め始めた宵闇の下を、清流ダリアが轟々と流れて行く。
初夏、神山ヒンドスタンの頂にもようやく雪解けの訪れようかという頃である。暗がりの中、ただでさえ足元のおぼつかぬ岩だらけの道を往く者の耳に、増水したダリアの流れの轟きは、言い知れぬ不安を与える。
大河ダリアはその源を神山ヒンドスタンの麓に発するといわれ、ロベルト平原を長々と横切って幾つかの支流を併呑し、カロ山麓を大きく迂回してドナテロを潤した後、更に二国十地方を駆け下って大海へ注ぐ。ロベルトの沃野と険しいカロの山岳部の境界にあたる辺りでは深い渓谷を地に穿ち、鳥さえも敬して遠ざかるといわれるほどの峻険さである。
その険しい谷底の岩場を黙々と往く二つの影がある。
もとより人の歩ける地ではない。剥き出しの岩盤は繁茂した藻類によって滑りやすく、また所々に水運に取り残された大岩が転がっている。それが時に砕けかかり時に深い亀裂を生じていて極めて厳しく人跡を拒んでいる。
その岩場をまるで繁華な街道筋を歩くかのごとく、楽々と二つの影が往く。夜の闇もその行程を妨げることはないらしい。
片方の小さな影はいかにも身軽に音一つ立てずにすいすい岩間を縫って進む。驚くべきは巨大な影の方である。でっぷりと突き出した腹を揺らしつつ、その一歩一歩は軽妙にして着実、寸分の乱れも生じない。しかもその背には背負子に何やら大きなものを担いでいるのに、である。
「日、暮れたようだな」
小さな影が言った。
「ようし、今晩はここいらで宿営だのう」
答える声は巨漢僧ベナストルである。
二つの影はそそくさと適当な岩陰に入り、野宿の準備を始めた。
負傷した背徳卿ギレディアはベナストルの背に負われて、黙然と一言も発しない。何を思うかは常人には計り知れぬ。
急ぎの旅でもあり、わずかばかりの糧食をかじってすぐに就寝となった。
暗闇の中、谷底の冷たい夜気が肌を刺す。耳には清流ダリアの力強い旋律が轟き、地に身を横たえて天を仰げばそこには満天の星が、断崖に縁取られて輝いている。
傷の痛みに耐えながら、ギレディアは万星を見上げている。
星を美しいと讃える者がいる。星のために楽曲を奏で、詩歌を吟ずる者がいる。
馬鹿野郎がとギレディアは思う。一体、星が何の慰めを人間に与えてくれるというのか。地に這う者の手には届かず、空を往く翼さえ及ばず、万代の時間を超えてただ漫然とそこに輝き続ける星が、人に何を与えうるというのか。星は嘲弄である。憎むべき冷酷な傍観者である。雲一つない渇いた夜、闇を破って現れる星々は、定命の者の手指によって穢し得ぬ点で神に似る。あるいは神そのものかも知れぬ。人はその光に美を感じるのではなく赫怒を感じ、また感動するのではなく憎悪せねばならぬ。穢し得ぬという前提が既にそれ自体、全ての存在にとっていかに巨大な冒涜であることか。穢されぬ美はなく、涜されぬ聖はない。しかし星は、否、神は、血肉を持った人間にとって余りに白々しく、冷た過ぎる。
ギレディアは寝返りを打つこともなく晴れた夜空を見上げ続ける。
その視界の端で、巨体がむくりと動いた。
「眠らぬのか」
ギレディアは答えを返さないが、ベナストルもそれを期待してはいない。
「将、一敗地に塗れ、傷負いて星を仰ぐ。思い返すは故里を発つ呑天の意気。いやはや、運命とは残酷なものよ」
しわぶくようにベナストルは笑った。
規則正しい少年の寝息が聞こえている。
上り、下り、上り、下りするその呼吸に、ギレディアは束の間聴き入った。
「物思いが絶えぬようだの」
どんより沈んだ夜気の下で、ベナストルは身体を起こしたようである。
「別に悲嘆を囲っている訳ではない」
むすりとしてギレディアは言った。
「なぁ、何故俺を助けるのだ」
「何故といわれてものゥ。神の御心に従ったまでよ」
「だとすれば、余程シオルはお人好しだと見える」
ギレディアは苦心して身体を起こした。全身の痛みをこらえて黒衣の僧に正対する。
「俺はかつて坊主を殺した。偽帝ファーダを支持し、奴に従ったネアルコの聖職者を全て処刑させた。そのために俺は背徳卿と仇名され、教会から生命を狙われている。アスコットリルの餓鬼が俺に敵対しているのもそのせいだ」
「知っておるとも。仮にもシオルの家族の一員であった儂が、何故その背徳卿を助けるのか、そう問うておるのであろう」
ベナストルの表情は計り難かった。闇のせいでもあり、彼には似つかわしくない平板な声の調子のせいでもある。
「ちと、長い話になる。楽な姿勢にするがいい」
ベナストルに促され、ギレディアは素直に大岩に背中を預けた。左脚が使えない状態で腰に全体重がかかる姿勢はさすがに苦しい。
「ファーダがまだ幼かったセフト陛下を弑して後、儂は帝都を辞してマンノゥオーに帰った。彼に追従を使ってまで政争の具にされるのは御免だったからな。しかし、シオル教会はファーダ支持を決め、ネアルコから遠く離れたマンノウォーも中央の意思と無関係では済まなかった。儂と同じ司教職にあった者達も進んでファーダの犬になった」
ボルジア帝国では皇帝は神に選ばれて帝冠を戴く。神に選ばれて、というのは教会の指名のことであり、帝位僭称に当たってファーダが支えにしたのもそれだった。教会は当時ネアルコ大聖堂建立等による放漫財政で経営難に陥っており、ファーダが支持の見返りに寄進した広大な領地を是非とも必要としたのである。
「しかしやがてファーダが叛徒の手に掛かると皆すぐに変節した。ネアルコの連中はファーダの残党と心中したようだがな。儂はほとほとうんざりした。別にファーダに同情していたわけでも、逆に敵対していたわけでもない。だが一人の人間の栄枯盛衰に合わせて、時に追従を使い、時に袖を振るような節操のない教会に愛想が尽きた。もちろん儂とて変節者の誹りは免れぬ。セフト陛下の寵を受けながらその死を見過ごし、ファーダの非道を知りながらマンノウォーでその支配と闘うことをしなかった。司教の要職にありながらな」
ベナストルが髭を撫でるのがギレディアにも動きで知れた。その顎の角度から星を仰いだようである。
「儂も少しは己を責めたよ。そして教会を捨て、野辺に流離うことを選んだのだ。世の無常なることを知った、といえば聞こえは良いが、実際は司教職が煩わしくなって投げ出したというところよ。そうやって出奔の準備を整えている時に、ネアルコからの客が儂を訪ねて来た」
ベナストルは星の空を見上げて何を思うのだろうか。不意に、ギレディアは知りたいと思った。憎悪をもって星々を見上げるのだろうか。己の運命との抗争ゆえに、星の有する超越した冷酷さを、憎むのだろうか。
「突然の訪問客は、一組の母親と赤子であった。彼女が何と名乗ったか、また子供の名を何と言ったか」
ベナストルの口調はまるで禍々しい伝説を語るそれである。
次にベナストルの語った言葉はギレディアをして仰天させた。
「母の名を、リベルカ・アスクス・ハストグレンデ。赤子の名を、ファーダ・アスクス・ハストグレンデ」
「ファーダの正妃とその遺児ではないか」
偽帝ファーダは多くの女との間に多くの子をなしたが、ギレディアのネアルコ入城の際に全て殺されている。ただ一人、妊婦の身で帝都を脱した正妃リベルカ母子を除いては。
ギレディアはにわかには信じられない。しかしベナストルの言を嘘だと決め付けることもできないので、彼の言葉を待つだけである。
「ファーダ二世は、あの子だ」
「馬鹿な……」
ギレディアは身を乗り出して、横たわる少年を見ようとした。しかし左半身を激痛に襲われて元の姿勢に戻る。
ファーダの遺児が、ロベルトの片田舎で貧農同然の暮らしを送っていたのである。そこに間接的には父殺しの仇敵である自分が流れ着いたのも、偶然といえば余りにあてつけがましい神の悪戯としか思えない。
「リベルカ妃はマンノウォーへの道中で破水し、独りで出産したらしい。産後の無理が祟ってマンノウォー到着後すぐに亡くなられた。赤子も母胎の極度の緊張のためか、五体満足で生まれてくるとはいかなかった」
ベナストルは瞑目して聖印を切った。
「何のゆえがあってか、彼女は儂に赤子を託した。儂に会うためにマンノウォーへ来たのだとも言った。理由はわからぬ。しかし儂は赤子を引き受けるつもりはなかった。先にも言ったように遁世するつもりであったし、未来のファーダ二世を育てるつもりはなかったしのゥ」
しかし、とベナストルは視線をギレディアに向けた。
「リベルカ妃の言葉が儂の心を打った。彼女は言った。この子を争いとは無縁の身に育ててくれと。剣ではなく鍬をもつ手を、馬を駆るのではなく実りの大地を踏みしめる足を育んでくれと。子に偉大なる一生を望むのが親であるなら、それこそがこの世で最も偉大な生であろうから、と」
ベナストルは頭を垂れた。
ギレディアはなおも信じられない面持ちで寝息を立てる少年の方の闇を見つめていた。
「では、それと俺を助けたこととがどう繋がるというのだ」
「この子を、お前に預けようと思ってな」
驚くことに飽きたギレディアは沈黙でベナストルの言葉を受けた。
「何もこの子に立身出世の道を望んでいるわけではない。ただ、このまま身寄りもなくロベルトの僻地に置いておけば、儂の身に何かがあった時、善からぬ企みに陥れられるということもないではないだろう。儂は常にあの子の傍に居てやるわけにはゆかぬ。シオルの教えを求める者は多く、儂には彼らのもとに赴くべく立派な脚が与えられておるしの。それならばいっそ、この帝国で悪辣他に並ぶ者なきギレディアの保護下にあれば、安心ではないかと思ってな。薬を隠すには毒の中という諺もあるしのゥ」
「俺が正体を知ってこの子を殺さぬと思うのか」
「思わぬな。お前は既にこの子の利用価値を見出しておる」
「それは何だ」
「教会の掌握よ」
ずばりと言われてギレディアは言葉に詰まる。
ファーダの正妃リベルカは以前のシオル教会教皇ペリアノンの私生児である。その子供は当然教皇の孫ということになる。
政治上の切り札としては未知数だが、魅力は大きい。
「俺にこの子を利用しろというのか。政争の具にせよと。解せない。貴様の言葉は矛盾だらけだ」
「儂とてこれの母親の遺志を踏みにじるような真似はしたくない。だがやむを得ぬ事態がそれを要求しておるのだ。儂などの力の及ばぬ者がこの子を探し、求めておる」
「この子の出生の秘密を知るものが他にいるというのか。誰だそれは」
「他ならぬシオル教会だよ」
ベナストルは苦々しげに言った。
「正妃リベルカとファーダの落胤が帝都を逃れたという噂は当時から囁かれていた。当初は教会もそれを本気にしてはいなかったが、最近になって方針を変えたらしい。極秘裏に間者や密偵の類を各地に放ち、盛んに消息を探っておる。儂はそれが悪しき企みによるものではないかと恐れるのだ」
「悪しき企みとは何のことだ」
ベナストルは溜息をつき、頭を振った。
「わからぬ。少なくとも今のところは。儂はこの件を調べてみなければならぬ。そしてその他にもなさねばならぬ仕事を片付けなければ。それらの大半は危険な道だ。降りかかる全ての危難からあの子を守ってやることはできぬ。それどころか儂の命さえ危ういことになるだろう。儂の背後にさえあの子を置く場所はないのだ」
「俺にもどうやら話が飲み込めてきたようだな。貴様の目的は俺と教会を闘わせることだ。背徳卿ギレディアの死地を救い、ファーダの遺児を託したのは、貴様の代わりに俺をシオル教会に立ち向かわせるためだ」
「悪い取引ではあるまい」
「取引だと!ふん、遁世者が教会を相手取って闘争を企図し、背徳の悪名高いこの俺と取引さえすると言う!言え、貴様は教会の誰を敵として何を争い、何者の指図の下に動いているのだ?」
「それには何とも答えられぬ」
ベナストルは言った。
「さっきも言ったとおり、シオル教会の内部には悪しき企みが意図されておるようだ。いや、現時点では少なくともそのように儂には思われる、というだけに過ぎん。その企みの詳細や、中心に誰がおるか等は全く推測さえつけかねる。調べてみれば、そんな陰謀は存在しなかった、ということになるかもしれん」
「だが貴様は危険を予測しているではないか」
「もちろん、もちろんそうだとも。ただでさえ、教会を棄てた聖職者には敵が多く、また、今日では伝道の旅さえ賊に狙われる有り様だからな」
「貴様に指図している者達には、貴様を守るだけの力はないのか」
ギレディアの問いに、ベナストルは苦笑して、
「疑えば限がないぞ。儂は今はいかなる組織の元にもいない。もちろん、野辺にも賢人傑物は多く、彼らの善意は時として儂を助ける。しかし儂の行動は彼らのそれと別の道にあるし、彼らにしてもそれは同様よ」
青白い光が満たす空へ束の間目を向け、
「ギレディアよ、儂はお前を助けたが、それをかさにきることなく、手の内を晒してお前の信頼を乞うた。後はお前が決めることだ。決断は委ねられた」
ギレディアは心中の逡巡を隠そうと努めた。警戒しつつ、短く答えた。
「猶予が欲しい。この場では決められない」
「安心しろ、時間ならたっぷりある。明日はより長く険しい道を往かねばならぬから。儂の背に揺られながら大分長い間考えることになるだろう」
ベナストルは砂利の上に身を横たえ、すぐに寝息を立て始めた。
だがギレディアはその姿勢のままじっと考えに沈んでいた。
翌日は篠つく雨となった。
朝から気温は低く、空は暗く濁って、大粒の雨を容赦なく地面に注いだ。
三人は干した果物と乾物だけの簡単な朝食を済ませると、雨空から夜が退散せぬ内に出発した。奥に進むに従い、谷底は一層歩きにくく、また険しさを増してゆくように見えたが、ベナストルはむっつり黙ってギレディアを背負子に乗せると、昨日と変わらぬ歩調で歩き始めた。
叩きつける雨に、三人は羊毛の上着の襟をしっかり閉じ合わせ、うつむいて旅を急ぐ。山野の冷気は骨に染み入り、その上雨が無情に体温を奪っていく。
今日中に太陽を拝むことはないだろうとギレディアは思う。希望も気力もこの天候のしたでは萎え縮んで消えてしまいそうだ。
ギレディアは横を歩く少年の様子をうかがった。昨日は岩場を跳ねるように先行して歩いていたのが、今日はベナストルの後にぴったり張り付いて歩いている。この辺りの地理には明るい彼も、気象条件の悪化から、ベナストルの指示に従うことにしたようだ。
羊毛のフードの下に隠れた表情を読み取ることはできないが、子供の身体だ、疲労がないはずはない。しかし少年は淡々と足を運んでいる。強靭な子だ、とギレディアは内心感嘆している。強靭さでいえば大人一人背負っているベナストルをまず褒めるべきなのだろうが、その健脚に全く遅れずについて来る少年も、年齢と体格を差し引いて考えれば十分賞賛に値する。
これがファーダの子か。ギレディアは複雑な感慨を噛み締める。戦火を逃れ、世の目を欺いて生を受け、十年足らずの生涯を辺鄙な山谷に独りひっそりと囲ってきた、ファーダの子。それだけでも驚異であるのに、今度はその後見が自分に、第三位皇位継承権者であるギレディアに、委ねられようとしている。反ファーダの烽火を上げ、兵を起こして十年に余りある歳月が過ぎた。この手でファーダの首を取ることこそ叶わなかったが、ファーダは死に、その原因はほとんど自分にある。父殺しといっても過言ではない男の手にその遺児が委ねられ、存分に利用されようとしているのを、世人は何と噂しようか。神はこの背徳をすら看過しようとするだろうか。ギレディアの、二度目の背徳を。
人外鬼畜の誹りを受けるのは一向に構わない。これまでそのように振舞ってきたし、これからもそうするつもりだ。加えてこの窮状である。失地回復の救世主が現れたようなものだ。教皇の血統の庇護者の立場を、存分に利用しない手はない。
しかし、心の中に引き止めるものがあるのは、何故か。少年に指をかけてはならないと、ギレディアの中で警告を発する何かがある。
まさか、ベナストルの話に心を打たれたわけではない。リベルカの遺言など、歯牙にもかけぬ。零落した貴族女の臨終には似合いの台詞だ。もし生き延びて、その機会があれば彼女も容赦なく自分の息子を食い物にしただろう。
ベナストルの申し出の背後に陰謀を感じているからか。いや、この大男の腹には何もない。ギレディアはそう確信するに至っていた。ベナストルは腹を晒したのだ。馬鹿馬鹿しいとさえ思える正直さで腹蔵を晒し、ギレディアに己の闘争に対する協力を求めた。
野郎は俺を、量っている。癪だがギレディアはそれを認めざるを得ない。俺はその手を握れるのか。
随分困難な試練を課されたものだ。ギレディアの思いは苦い。
ファーダの子。歴史によって呪われたその生を、赤貧の中に過ごしてきた子。
その子の首根を我が手で掴み、世に対して、教会に対して、他の皇位継承権者に対して、突きつけること。簡単なことだ。ためらうべき障害は何もない。
なのに何故、俺はこうまで迷っているのだ。
ギレディアの懊悩とは別に、旅程は着実に進む。
幅広で流れの速いダリアの両側にそそり立つ断崖はいよいよ高さを増し、暗い雨雲は大地の裂け目のような渓谷の上方に微かに望める程度である。岩壁は、初め比較的林冠の高い潅木等に蔽われていたものが、歩くにつれ蔦や矮生の小木がそれにとって代わり、やがてそれらさえもまばらになって、この辺りではほとんどどのような植物も見かけることはなくなった。河岸は速い流れのために侵食され、ベナストル一行の歩く崖に刻まれた一筋の細い道の他は川淵に沈んでいる。その道は川面から覗いている岩壁に真一文字に穿たれ、縦は大人が頭を屈め、横は人一人がようやく通れる大きさである。
「この道はアクバリヌ、修行者の道と称されている」
このような場所にこのような道を、一体誰が造ったものかとギレディアが訝しんでいると、背中越しにベナストルが言った。
「造られた時代と工作者の名は知られていない。一説には古き暗黒の昔に異教の信徒がこれを造ったといわれているが、その真偽はわかっておらぬ。現在ではこの道のことを知る者も少なく、あちこちが欠落して危険であるためにほとんど利用されておらん」
「異教の信徒、というとボルフガンゲネルの司祭どもか」
「さよう、物知りだのゥ」
ボルフガング、即ち昏き光の信奉者たちはボルフガンゲネルと呼ばれ、古き暗黒の時代にはシオルの家を凌駕する勢威を誇ったという。その司祭たちの力は魔術師のそれとほとんど区別がなく、またその名が示すとおり光より闇を重んじ法秩序に従わなかったため、軍人王朝時代に王権と結び付いたシオル教会によって長い時間をかけて駆逐されていった。現在では教団自体は滅んで残っていないが、その教典ボルフガンゲンは魔術師たちに受け継がれ、中にはこれを公然と所持する者もいて、それがシオル教会と魔法学界の対立の火種となっている。
「万が一にもボルフガンゲネルの残党に出くわしはすまいな」
「異教の徒がこの地を追われてから、子が子を生み、その子が更に4代の孫をなすほどの時間が流れた。もはや彼らは追憶の彼方に去った。我らは亡霊を恐れることはない」
「魔術師はどうなのだ。奴らの中には昏き光を崇める民の直系が数多くいるという話ではないか」
「この道を知る人間は儂の知る限り6人しかおらぬ。内5人はデザルマクには仕えておらぬし彼と交流を持ったこともない。唯一人、暗黒を求めて西方へ旅立った術師がいたが、これの消息を儂は知らんし、もし生きていたとしてもデザルマクに仕えたりはせんだろう」
「つまり、この逃亡路は絶対に安全というわけか」
ギレディアは言った。そして心の中で嗤う。絶対に、とは。己の語彙にまだそんな言葉があったと思うと虫酸が走る。
「ラケトーは、喋ったと思うか」
ベナストルがそう問うた。
そんな質問を彼が発したことを意外に思いながら、ギレディアは言った。
「当然だ。あの男の目を見なかったのか。奴は切実に俺を殺そうと願っていた」
「それならば何故あの場で殺さなかった。手負いのお前と丸腰の坊主の二人、やろうと思えば簡単に殺せたはずだ」
「あの場はな。しかし小屋を出た途端に考えを変えただろうさ」
「ふむ。それでもすぐに取って返さなかった。わざわざロベルトまで戻った。そしてあの小屋のことを報告した、とギレディアよ、そう考えるのかな」
ギレディアは答えに窮した。
雨は依然として強く、ダリアの流れは足元にある。
「儂はあの男は喋らぬと思う。お前も当然そう考えているものと思ったが」
ベナストルは的確にギレディアの心中を言い当てた。
「ふん」
ギレディアとしては鼻を鳴らすしかない。
道か。覇道と、王道。万物を喰い物にして野望を遂げんとする者と、あくまでも信に生き義に殉じようとする者、それぞれの歩む道か。
背負子の上からなす術もなく眺める先にはベナストルの脚が踏破してきた道が延々と続いている。背後には、同じように未だ踏まれざる道が続いていることだろう。
「ベナストルよ」
アクバリヌ、断崖に穿たれた修行者の道をじっと見つめながらギレディアは言った。
「貴様の道は、どこへ続く」
束の間、破門者ベナストルは答えない。
しかしやがてからからと、どこまでも晴れやかな笑いを放って言う。
「取り敢えずは、ドナテロだろうなァ」
初夏の雨は激昂の激しさで強まる。曇天に陽光の覗く兆しはなく、ダリアは濁流の様相を呈しつつある。
心なしか、道は登り坂に入ったようである。
孤狼アリエーニレンはくわッと目を開いた。
その激しさに周囲の闇さえたじろいだようだ。篝火が爆ぜ、一陣の風が吹き抜け、星光は明滅した。
軍兵隊長ラケトーはその気迫を真正面から受けて微動だにしない。
ロベルト城主楼閣の頂上に二人はいた。
ギレディアが谷間の砂地で星空を見上げている頃である。アリエーニレンの目は天ではなく人に、向けられていた。
「何の成果もなく、ただ戻って来た、とそう言うのだな」
「己が無能を恥じ入るばかりです」
平然とラケトーは言った。
「それは貴殿の問題だ。私はギレディアを捕らえられなかった、その一事を嘆くのみ」
「デザルマク公に日頃の大恩を返せず、情けなく思います」
「それも、貴殿の問題だ」
言葉とは裏腹にどこ吹く風のラケトーに、アリエーニレンは煮えくり返る腹を隠しながら言う。
「ギレディアはどこにもいなかった。その痕跡さえ発見することができなかったと、そう申すのだな、ラケトー」
「先刻来、ご報告いたしておるとおりです」
軍兵隊長は慇懃に答えたが、頭を下げるでも礼を取るわけでもない。デザルマクの私的な参謀であるアリエーニレンに対しては敬服の義務はないのだと、態度でそう示している。
「無為の処罰はいかようにも、デザルマク公の御下知に従いましょう」
「いや、その必要はあるまい」
アリエーニレンは努めて鷹揚に言った。
「八方に放った追手が貴殿と同じく何ら成果を上げぬまま帰還している。これらを一々咎めては、かえってその指揮官の無能を問われよう」
言いながら腹中に、喰えぬ奴め、と吐き棄てる。
間違いない、こいつはギレディアの行方を知っているのだ。知っていながらそれを言おうとせぬ。
解せないのはそこだ。何故ギレディアをかばう。一介の軍兵隊長が、背徳卿をかばってみたところで何の益がある。
「日を通しての任務、疲れただろう」
アリエーニレンはラケトーに、一変して優しく声をかけた。
「夜も遅い。登楼して女でも抱け」
「はい」
いささか拍子抜けした調子でラケトーは答えた。
ロベルトに戻ったところを突然この楼閣に呼び出されたのである。厳しい尋問を覚悟してアリエーニレンとの面会に臨んだのだが。それなのに娼婦を買って休めという。
言い知れぬ不安をラケトーは感じた。
隠蔽を悟られたか、と思う。しかし懸命に思い返してもそんな失敗はなかった。単語の選択から声の調子、表情まで完璧に操ってみせたはずだ。いかに孤狼といえども、こんな短時間の接見でそこから情報を引きずり出せたはずがない。
「それでは、これで退がらせていただきます」
さすがにこれだけは省くわけにもゆかず、ラケトーは退出の礼を取って階段に向かった。
青闇を、風が渡った。
市街地とは反対の草原から流れてくる風は、沃野の寝息を爽やかに運んだ。
アリエーニレンの裳裾が風を孕んで翻った。
「私は、ギレディアを助けた者がいるのだと思う」
止まってはいけなかった。歩みを止めてからラケトーはほぞを噛んだ。
しかし止まったからには何か言わなければならない。
自分の迂闊さに腹が立った。
アリエーニレンに勝ったと信じた己の顔を、思い切りぶん殴りたかった。
ラケトーは返すべき言葉を探しながら、落ち着きを取り戻そうと必死だった。
しかし、この期に及んで何ができるのか。ラケトーの心臓はアリエーニレンの手にがっちりと掴まれている。
「もちろん、自分もそう考えます。しかし、聞けばギレディアはダリアの断崖を飛んだとか。あのような落差を落ちれば五体無事では済みますまい。もし助けた者たちがあったとしても、今まで生き延びておられるか……」
何を言っても取り繕いに聞こえて、ラケトーは全身にじっとりと冷たい汗が滲み出るのを感じた。
「私が言っているのはそういうことではない」
ラケトーの眼前でアリエーニレンはにこりと笑った。
「我々の配下に、ギレディアの逃亡を手引きした奴がいるのではないかと、私は思う。いや、積極的に手を貸したのではない、恐らく彼がしたのはギレディアを見逃す程度のことだったのだろうが」
「そのようなことが、果たして本当に行われたのでしょうか」
駄目だ、とラケトーは思った。負けた、自分は目の前にいる男に負けたのだ。
「当然そうだろうと、私は考えている」
アリエーニレンは後手を組んでラケトーに背を向けた。
「ただ、理解できないのはその理由だ。貴殿はどう考える?一人の人間をしてギレディアを助けさせた動機を」
ラケトーは深く息を吸った。湿った恐怖が脳天から爪先までを濡らしている。
「自分は、ただ希望のみがそれを可能としただろうと、思います」
「ほう、希望、とは」
「乱世を嘆く、その怒りからくる希望です」
「乱世を。すると、ギレディアは救国の英雄か」
ラケトーは哄笑を予期したが、それは裏切られた。
「面白い」
「は?」
「面白い」
アリエーニレンは背を向けたまま真面目な声で言った。
「私もそう考えているからだ」
狼がいる。
ロベルト城の主楼閣の頂上に、一頭の狼の姿をラケトーは見ていた。
二基の篝火に赤々と照らし出された賢者の姿に、ラケトーの口から、ああ、と溜息が漏れる。
ここにもいた。昼間、谷間の古屋に潜んでいたのと同じ怪物が、ここにいたのだ。
「引き止めてすまなかった。さぁ、今度こそ退がっていいぞ。早く女でも買ってこんな話なんかは忘れてしまえ」
アリエーニレンの言葉に対する返事はなかった。
ラケトーは悄然と頭を下げ、階段に消えた。
アリエーニレンの念頭に軍兵隊長は既にない。知り得ることは全て知った。
若き賢者の頭にはロベルトの地図が広げられている。
清流ダリアを辿り、ドナテロへ抜ける。やはり、これが逃亡者たちにとっての最善の道であった。今までこれを封鎖しなかったのは、地理に疎く、かつ負傷している身のギレディアでは、到底踏破できる道程ではないと考えていたからだ。
だがあの軍兵隊長は言った。助けた者たち、と。ギレディアは間違いなく同行者と案内人を、あるいはその内の一方を得たのだ。
だとすれば、清流ダリアを辿ってドナテロへ抜ける道は一つに絞られる。
「アクバリヌか」
アリエーニレンは呟いた。
彼の眼下でロベルトの町は眠りに閉ざされつつあり、ただ繁華な街路の明かりだけが、草原から忍び寄る夜の眠りの中で煌々と輝いている。
眼下の草原に濃く立ち込める白い霧を、幾筋もの風が引き裂いていく。
暁の空はまだ昏く、紫紺の天球に星々は白い光を重ねている。
夜露をたっぷり吸った草原は、重くなった葉を深く垂れて曙光を待つ。
カロの天険を足早に駆け抜けた清流ダリアは、ここで一気に速度を緩めて、早朝の草原の風を楽しみながら流れてゆく。ダリアが処女から女に変わる場所と評したのは史家にして旅行家のハンナバールである。
ギレディアは低く呻いた。
眼下に広がるのはドナテロの草原であった。
旅を始めて三日が過ぎていた。
ドナテロを眼下に望むカロの断崖の頂上にギレディアはいた。アクバリヌ、修行者の道は崖を縫い、草原に達して果てている。
「見ろ、夜が明ける」
隣に立ったベナストルが、言った。
石の上に腰を下ろして傷付いた足を投げ出した姿勢のまま、ギレディアも草原の彼方に目を移した。
曙光が濃紺の空を割って万物に降り注いだ。紫から赤へ、赤から橙へ、そして金色へ。
草原が燃えた。
草々は一斉にその首をもたげ、弾かれた夜露は、さながら黄金の剣の一閃となって草原を渡る。
ここに星々は舞台から去り、空は茜から澄み切った青色へ変化していく。
風は瑞々しい歓喜を乗せて吹きゆく。
その萌黄色の芳しい匂いが朝の到来を知らせている。
「きれいだな」
少年が言った。
ギレディアは無言で太陽の寸劇を眺めていた。
見慣れていたはずのドナテロの野が、とてつもなく遠かった。その土地はギレディアの帰還を歓迎してはいなかった。彼の帰還は拒まれていた。峻厳に。余りにも峻厳に。
俺の、野望の地よ。
ギレディアの心が叫んだ。
俺は棄てられたのか。俺の同胞は、この俺をもう必要としてはいないのか。
ギレディアはその首をがっくりと折った。
無駄だったのか。生きて、生きて、生きて。それは所詮無駄なあがきであったのか。
肩に、小さな手が触れた。
「ほら、朝、だ」
ギレディアは少年の顔を見た。
「きれい、だよな」
少年は言った。
やつれた顔だった。頬はこけ、目の周りには長く厳しい生活を生き抜いてきた苦労の跡が色濃く漂う。
それでもその容貌は美しい。
貧苦は、この子からいかに多くのものを奪ったことか。
しかし同時に、この子は貧苦からいかに多くのものを勝ち得てきたことか。
恐ろしい容貌だとギレディアは思った。
孤独も、貧苦も、あるいは希望であってさえ、この子の特質を毀つことはできなかった。
何と凄まじい魅力。少年は、谷間の荒地に一頭の怪物を育てつつあったのだ。
己という怪物を。
「ここが、お前の、生まれた、土地か」
眼下に広がるドナテロの草原を見渡して、少年は言った。
ギレディアは首を振った。
「いや、俺の出生地はドナテロじゃない」
その言葉を、ベナストルが少年に通訳する。
ギレディアはそれを待たずに続けた。
「だが、餓鬼の時分から今まで、ほとんどの時間をここで過ごした。その意味では、そうだな、俺が本当の意味で生まれた場所は、ドナテロなのかもしれない」
これまで、帝国の統一をかけて戦ってきた。無一文無一物から始めて、第一位皇位継承権者たるレグナルトに匹敵するとさえいわれる勢力を作り上げた。
その努力がかくも簡単に水泡に帰そうとしている。
俺は、帝国どころかこのドナテロさえ喪おうとしている。
「行こう!」
うなだれるギレディアの視界に一本の手が差し伸べられた。
「ギレディアの、家路はまだ、終わってない。俺の家は、もうないけど、ギレディアには帰る家が、あるんだから。帰らなくちゃ」
ギレディアは呆然と少年の顔を仰いだ。
「お前の、道は、まだ終わっちゃいないんだから」
曙光を浴びて、真っ赤に輝く少年の笑顔。
ギレディアは思わず呟いた。
「お前は、恐ろしい子だ」
少年はベナストルを顧みて、首を傾げた。
だがベナストルはニヤリと笑っただけで答えなかった。答える代わりに、どんッと少年の肩を叩いた。
「痛いぞ、ベナストル」
「わははッ、人間の成長ほど目の当たりにして嬉しいものはない。そう思わんかギレディアよ」
「さあな」
ギレディアはさらりと受け流したが、その目はもう地面を向いてはいない。
心を覆っていた弱気は風に吹き散らされた。
そうだ、これは王の帰還なのだ。
俺は今まで、行動を起こすのに人々の要請を待ったことなどなかった。決めるのは常に背徳のギレディアであって、それを拒む権限を他の何者も有していなかった。
そのギレディアの帰還なのだ。
ドナテロの大地はギレディアの眼下で広々と開け放たれている。先ほど、あれだけ峻厳に拒むかに見えた青い大地が、ギレディアの帰還を待ちわびている。
「さあ、ベナストルよ、俺を連れて行け」
ギレディアは言った。
「ドナテロは支配者の帰りを待望している」
離別の時のサルナータの言葉の意味が、今になってよく理解った。
誰でも自分が生まれ育った場所は愛しいもの、とサルナータは言った。それを、ギレディアは感傷だと笑った。それは間違いだった。
感傷や愛着などを超えた次元でサルナータは闘っていたのだ。己が存在を賭けて、彼女はギレディアへの計略の中で闘っていたのだ。何故なら、彼女の存在は、ただロベルトだけにしかなかったから。他に彼女の行き着くべき場所はなかったから。
だからこそ彼女は闘えたのだ。夫の仇を身中深く受け入れながら、同時にその腹中で策謀の毒を養うことができた。その二重生活の苦しみはどれほどのものであったろう。その苦しみにサルナータは耐えた。ギレディアは追い詰められた。
想像を絶する苦痛の下でサルナータを支えたのは、自己の存在への執着だったろう。サルナータがサルナータ自身であり続けるために、彼女はアリエーニレンの計略を引き受けた。そうしなければ、ロベルトは、亡夫ザルマトとの思い出の地は、永遠に彼女の足元に帰ってはこないから。それこそが彼女にとっては耐えがたい苦痛であったのだ。ザルマトへの愛と追憶が、サルナータの存在の全てであったのだから。
ギレディアは腹中に吼えた。
ドナテロよ、我が存在よ。
再びベナストルの背に負われて、ギレディアの逃亡の最後の行程が始まった。
草原に一本の樹が生えている。
朝の爽やかな風に長く伸びた枝葉を遊ばせ、優しい陽光を全身に浴びて喜ばしげに立っている。
大きな樹だ。そして、孤独な樹だ。周囲に木々を従えて森を作るでもなく、青い草叢の只中に屹立している。
修行者の道アクバリヌはその樹の根元で絶えていた。
そこから先はドナテロの封土だった。
皇位継承権者にして帰還者ギレディアを負うた漂泊者ベナストルは、ぴたとその歩みを止めた。
隣を心地良さげに歩いていた少年も、身体をびくりと震わせて立ち止まった。
樹の下には先客がいた。
背負子の上のギレディアは、身体を無理矢理に捻って二人の視線を追った。
そして愕然とした。
樹の下にアリエーニレンがいた。
孤狼の名をもって知られる謀策の士は、自分を見詰める視線に、とりわけギレディアのそれに気付くと、大樹の下で和やかに微笑んだ。
「お待ちしていた、背徳卿ギレディアよ」
策士は腕を広げて樹の葉陰へ三人を誘った。
「朝の会食の準備ができている。是非、食卓を共に囲んでいただきたい」
大樹の下には純白の布をかけた小さな円卓がある。その上にはパン、乳酪、ワイン壷が置かれ、遠来の客を待っている。
「給仕はいない。我が配下は遠ざけてある。客人方には不自由をさせるが、互いに親密になるにはこんな食卓が一番だろう」
アリエーニレンは帯剣していない。黒革の上着に白い綿の上下という、金は張るがいたって普通の服装である。
「さぁ、来るがいい。こんな場所でとる朝食も、酔狂だが中々楽しいものだ」
「……賢者アリエーニレンとは奴のことか」
低くベナストルが言った。
「奴の言葉に嘘はない。周囲に伏兵の気配は感じられぬ。突破するか」
「いや、奴の企みが読めない。ここは大人しく奴の誘いに乗った方がいい」
ギレディアのこの言葉に、ベナストルは唸った。
「さすがにこんな出方だけは予想できんかった。アリエーニレンとは何者だ?度を越した馬鹿者なのか、あるいは度を越した切れ者なのか」
「おそらく、その両方だろうな」
「だとすれば、ギレディアよ、お前と同じ人間なのだな」
「そうかも知れんさ。行こう、そして奴の話を聞こうじゃないか」
アリエーニレンは丁重な礼を取って三人を迎えた。
用意された椅子は、ギレディアの身体を気遣ってか、背凭れが大きく奥行きがあって大分楽ではあったものの、安楽な座り心地からは程遠かった。しかしそれでもギレディアは平静を装い続けた。
一つには、アリエーニレンに侮られたくないという心情からであったが、もう一つには、そうしなければ腹中に蔵するありたけの憎悪や赫怒、怨恨が溢れ出して手におえなくなるだろうからだった。
殺したかった。ギレディアは目の前にいるアリエーニレンを殺したいと切実に願った。地に叩きつけ、四肢をもぎ取り、腹を割いて臓物を引き出し、顔面を割ってその脳漿を全身に浴びたかった。
もちろん肉体的にそれは不可能事だった。
だが身体上の都合からギレディアはその怒りを抑えたのではない。単にそれだけの理由であれば、委細構わずアリエーニレンに飛びかかっていただろう。
ギレディアの背後には死んだ者たちがいた。
風読みのエレゲルト、銀嶺のサナルー、大リングナル、豪腕のデッケルハルト。その他無数の戦士たちが。
一度ギレディアはアリエーニレンに敗れ、そのために多くの死を招いた。
既にそのことを悔いていない。それら死者の上により良い未来を築くことがその無念に対する贖いであり、己の使命であると確信している。
それならばこそ、ギレディアは再び敗けるわけにはいかなかった。
アリエーニレンと対決し、その上で完全な勝利をもぎ取らねばならなかった。
孤狼自慢の策謀を逆手に取り、翻弄し、逆さまに地面に叩きつけてやることこそ、その対決における勝利であるはずだ。
今ここに開かれている酔狂な朝食会はその舞台なのだ。
「傷は、痛むのかな」
陶製のジョッキに蜂蜜入りのワインを注ぎながらアリエーニレンが言った。
「いや、もう見た目ほどには痛まぬよ」
「強靭な人だ。だから嫌になる」
薄く笑ってアリエーニレンはジョッキをギレディアの前に置いた。ちらりと目が動き、ベナストルとその隣の小さな頭を見る。
「ところで、こちらのお二人は」
「見た目どおりさ。乞食だよ」
ギレディアは言って、ワインを咽喉に流し込んだ。
「アクバリヌを知る乞食はあまり聞かないがね。そこまで身を落とされたか、ベナストル大司教」
「儂はどうも、ロベルトでは有名人らしいの」
苦笑して、ベナストル。
「もう一人、儂の名を知っている奴がいたよ。名前は確か」
「ラケトー、であろう。我が軍兵隊長の名だ」
「おォそうだった。一本気で良い男だった」
「安心しなさい、というべきかな。それとも悔しがれ、というべきか。貴公らのことを喋ったのは彼ではない。私は彼から密告を受けなかった」
ベナストルのジョッキにワインを注ぎ終え、アリエーニレンは言った。
「もっとも、この逃走路について着想を得たのはラケトーとの会話からではあったのだが。それまでこのアクバリヌを考えから外していた私は迂闊だった。例え、まさかあなたのような人間が背徳卿の逃亡を手助けしているとは、誰の頭にも思い浮かばないことだとしても」
ベナストルは最後に少年のジョッキにワインを注ぎ入れながら、続けた。
「私は世に出る前、西方に遊学したことがある。その時に師と仰いだ男が、旧き暗黒であるボルフガングへ私を導いた。アクバリヌ等についての知識はその際に得たものだ。しかし、ここではこんな話はどうでも良いことだったな」
少年のジョッキを満たして、アリエーニレンは席に戻りかけた。
そして、たった今そこで思いついた話をするように、言った。
「ところでこの子は何者なのか」
ベナストルの目にほんの微かな躊躇いの色が浮かんだ。
それはごく微かなもので、常人には悟られまいが、アリエーニレンには喰らいつくべき咽喉笛となっただろう。
もし、ギレディアが即答を返さなければ。
「その坊主の餓鬼だ。置いて来いと言ったのに、連れて来やがったのさ」
腹の中で、ざまぁみろ、と呟く。
ベナストルの顔は見ない。
「ほう。そうか」
アリエーニレンは席に着くと、ワインを一口飲んだ。
「土地の人間ではない舌には少し甘いか。ロベルトの蜂蜜は濃厚だから」
「良い味だ。ロベルトの土地柄をよく表している」
ギレディアは黒パンをとってバターを塗った。
「旨そうだ」
「旨いとも」
ベナストルは早くも一切れのパンを飲み込んでいる。
「親子して、良い食べ振りだ」
呆れたようにアリエーニレンが言う。
「親父が甲斐性なしだからのゥ。子にも食い溜めの習性がついとるのよ」
「ベナストル、あなたは面白い。とても興味深い人間だ」
アリエーニレンは声を上げて笑った。
ひとしきり笑った後、その目がギレディアに据えられた。
「ベナストルと個人的にもっと多くの話をする時間を取りたいところだが、この卓の主賓はギレディア卿だ」
アリエーニレンとギレディアが真っ向から対峙する。二頭の獣が睨み合う。
「アリエーニレンよ、俺が今何を考えているかわかるか」
孤狼の視線を、冷たく研ぎ澄まされた背徳卿の目が迎え撃つ。
「貴様が何食わぬ顔でパンを掴みワインをあおる、その手に染み込んだ我が同胞の血のことが頭を離れないのだ。俺はこの先一生忘れることができないだろう、犯してしまった失態に対する自責の念と、貴様に対する復讐の誓いを」
ギレディアの声は冷たい。
微かに残る、完璧なまでに抑制された感情の残滓が、かえってその怒りの凄まじさを聞き手に教えている。
「この点だけははっきりさせておきたい。アリエーニレンよ、貴様が俺をこの先どう弄ぶつもりなのかは知らないが、中途半端な覚悟しかしていないのなら、俺をこの場で殺してしまえ。そうでなければ俺がいつかは貴様を殺す。俺は貴様に勝つ。何故なら」
ギレディアが前に拳を突き出す。
「俺の手は死者の手であり、俺の言葉は死者の言葉であり、俺の行いは死者の行いであるからだ。そして、俺は死者によって生かされ、それゆえ貴様はこのギレディアとの闘争と同時に、その背後にいる無数の死者との戦いを闘わねばならないからだ」
アリエーニレンの色素の薄い眼は冷淡にギレディアを眺めている。
「今回の一連の出来事の中で、人間が生きるということがどれだけ偉大なことであるのかを俺は思い知らされた。次に貴様にも思い知らせてやる。いつになるかは知らないが、この場で俺が死なぬ限り、必ず、必ずだ」
「楽しみにしている」
アリエーニレンは言った。
「楽しみにしているが、ギレディア卿、残念ながらあなたがこの先、私に勝つことがあるとは思わない。だからあなたをこの場で殺す必要はない」
アリエーニレンの口調はまるで面白い冗談を口にしているかのようだ。
ギレディアは肩をすくめた。
「貴様がそう考えるのであれば、勝手にするがいい。前置きは済んだ。本題に入るとしよう」
「ああ。少し前、ヘルベルが帝都ネアルコを発った。兵力は五千。後続や援軍を含めればおそらく七千。攻城兵器を牛馬に牽かせ、長い隊列を作ってドナテロへ向かったそうだ」
アリエーニレンは言って、ギレディアの表情を注視した。
驚愕がないはずはない。よしんばそれを感じなかったとしても、怒り、焦り、ないし恐れ、とにかく何らかの感情を表さずにはいられまい。
そのアリエーニレンの予想を裏切って、ギレディアは平然と言った。
「こんな場所にいて良いのか?お仲間のドナテロ攻めに遅れるぞ。それとも、もはやヘルベルはデザルマクとその知恵袋程度の助力は必要としていないのかな」
「痛いところを突く」
アリエーニレンが苦笑して言う。
「確かにヘルベルと我がデザルマク公の間にはかなり以前から軋轢があり、意思の疎通も上手くいっていなかった。何といってもヘルベルは摂政公、力ではロベルトの遥か上を行く。それが今回の独断専行、我が方が捨てられたと見ることもできよう」
「違うのかな。デザルマクはヘルベルの地位にすがって所領を保ってきた。ヘルベルが逆賊だとすればデザルマクごときはその逆賊に仕える佞臣。最後には井蛙摂政ごときにさえ見捨てられ、ついに命運窮まったといったところだろう」
「違う。命運が窮まったのはヘルベルの方だ。ヘルベルはドナテロへ出戦を仕掛けて棺桶に片足を突っ込んでいる。デザルマク公とロベルトは、今後ヘルベルと袂を分かつ。泥舟には乗れぬからな」
「どういうことだ」
「今回の戦で、ヘルベルは恐らくドナテロの軍と同時にレグナルト、アスコットリルの軍とも争わねばならんからだよ。ギレディア、あなたの弟ギュルタールは食えない男だが優秀だ。彼はレグナルトとアスコットリルに援軍を求め、その代価として、彼らが長年待望してきた帝都ネアルコ入城を差し出すだろう。そしてヘルベル亡き後、ギュルタール自身はロベルトに報復を挑む。ネアルコではレグナルトとアスコットリルの反目が遠からず表面化し、両者は互いに争って勢力を減じる。それを待って今度はギュルタールがネアルコを奪う。多分、弟殿の頭にはこの程度の計画は既に出来上がっているだろう」
アリエーニレンは言葉を切ってワインを舐めた。
束の間の静寂に鳥の声が響き、さやかな風が卓に掛けられた白布を揺らした。
「だがこれはデザルマク公とヘルベルの共闘関係が今後も続いた場合の話だ。そしてもう一つ、重要な要素が欠けている」
アリエーニレンは身を前に乗り出し、卓の上で両手を組んで、爛々と輝く双眸をギレディアにひたと据えた。
「ギュルタールが、兄ギレディアの生存を知ったとしたら、その確証を得たとしたら、どう行動するか、という問題だ。ギレディア生存中はまず間違いなく前述の同盟は成立しない。ギレディアにとってレグナルトは仇敵だし、レグナルトにとってのギレディアも仇敵だ。アスコットリルとの関係についても同様のことが言える。果たして、ギュルタールはどうする。兄を捨てるかな、それとも、わざわざ拾いに来るかな」
「ギレディアなくしてドナテロなし。ギレディアなくして帝国もまたなし」
ギレディアはこともなげにそう言い放った。
「あなたは間違いなく帝王だ」
アリエーニレンは冗談めかしておだてたが、すぐに真顔に戻る。
「しかし、審判はすぐそこに迫っている。ギュルタールはあなたが思うような答えを出すだろうか」
「言っている意味がよくわからぬが」
ギレディアは訝しげに眉根を寄せる。
「なに、簡単なことだ。昨日、ドナテロのギュルタール殿にこの朝食会の招待状を出したのだ。密偵の報せでは速駆けに速駆けをを重ねてまもなく到着するそうだ」
アリエーニレンは席を立つ。
「周囲に人目がない辺境の草原で、権力をほぼ手中に収めかけている男と、それを失いつつある男、両者の会遇がどんな結果になるのか、楽しみだよ。もっとも」
アリエーニレンは席上のギレディアに会釈を見せ、
「私は、ギレディア卿、あなたがドナテロの首座に帰還されることを願っている。何故なら、帝国の再統一者たるべき皇帝の資質は、唯一あなたにしかないからだ」
そう言ってギレディアに背中を向ける。
その歩みの先にはロベルトの大地が広がっている。
「ああ、そうだ。安心されよ、ヘルベルは必ず自滅する。レグナルトもアスコットリルも動かぬ内に。私も今回は大分読み違いを犯したが、これについては誤りようがない。だから思う存分戦ってもらって結構だ。この戦勝が、ドナテロの家臣に対する失地回復になるのではないかな」
アリエーニレンの後姿は言葉と共に遠ざかり、朝の光の中へ消えてゆく。
ギレディアは燃える眼でそれを見送っている。
やがて孤狼の姿がなだらかなロベルトの地平へ溶けて見えなくなっても、ギレディアは動こうとしない。
ドナテロとロベルトの版図が接するこの辺境の草原で、珍妙な役柄を配した朝食会は終わった。
ベナストルが、口に含んだワインをごくりと飲み干し、満足げに髭を拭った。
そして言った。
「さて、敵の次は味方との対決のようだな、ギレディアよ」
ドナテロ側の草原を遠く見透かして続ける。
「ギュルタール殿の到着だ」
青く萌える草を千々に蹴立てて、騎馬の男たちがやって来る。
ギレディアは黙して待つ。
異母弟ギュルタールは十人の騎士を伴ってやって来る。
ドナテロのギュルタールは洒落者として知られる。次に美食家として有名であり、政治家の名は三番目だ。
ギュルタールを一世の傑物と評する人物はいない。
長身痩躯の異母兄とは似ても似つかぬ太鼓腹に乗っている栄養の行き届いた丸顔を見れば、誰しも彼を道楽者、遊興にうつつをぬかす気楽者よと侮る。
堅い話は苦手で、軍略や学芸の話はことさら毛嫌いし、口に上らせる話題といえば、ノノアルコ産の羊毛で編んだコートがどうの、どこぞの姫君との色恋がこうの、といった類のものばかり。
戦場に出ては、決して矢面に立たず、華々しい果し合いの話もついぞ聞かない。口さがない連中の中には、臆病者よと嘲る声さえある。
それでもギレディアはこの異母弟を信頼し、常に傍に置き、また自らが出征する時にはドナテロ城の鍵を預けた。
君主としてのギレディアは、決して温厚な仁徳者ではない。その言動は時として苛烈に過ぎ、臣下の心を損ないがちである。己が目的への執着が強過ぎるため、他者を慮り、和合を念頭に置く余裕がない。ギレディアが臣下に求めるのは己への絶対的な崇拝であり、敬愛ではないのである。
しかし、ギュルタールはギレディアの苛烈な言葉を和らげる術を知っており、また、臣下から、恐怖からくる崇拝だけではなく、思慕の情からくる敬愛をギレディアに集める術を知っている。ギレディアとその封臣たちにとって、ギュルタールは必要不可欠な緩衝材であった。
それにギレディアは道楽と臆病の仮面が半分は装いであることを見抜いている。根っからの演技ではないのだろうが、凡夫を装い本来の才覚を隠すことで、いらぬ疑いを招かぬようにとの思惑がギュルタールにはある。
気の良い外見とは裏腹の、全く食えない男ではあったが、ギレディアは異母弟のそんなところが気に入っていた。凡庸な人物に興味はないが、自らの才能をひけらかすことしか能のない、処世術のしの字も知らぬような人物は興味云々以前に危険なのだ。天才よ、大人物よと評された者の、長生きしたためしがないのが好例である。
ギュルタールが雪白の馬に跨って、風に赤いマントをなびかせながら草原を進んで来た時、ギレディアはギュルタールの本当の力を感じたように思った。ギュルタールは、自分がギレディアの後継者として十二分に資格を有しており、その行動次第では本当に異母兄の所領を手に入れることができるのだという点を、はっきり認識して草原に現れた。その風格は王者のそれといっても過言ではない。背後には少数の腹心のみを従えている。
失墜した権力者と、その後継一番手の面談の意味を心得ている。もしこの場でギレディアが死んだとしても、この場にいない人間にはそれがいつ、どこで、どのように行われたのかはわからない。
ギュルタールの顔は逆光で見えぬ。
その馬はもう駆け足ではない。ゆっくりとした調子で歩いて来る。
ギレディアは座して待つ。
着実にギュルタールは馬歩を進める。自慢の太鼓腹が引き締まって見えるのは気のせいか。
ギレディアは待つ。
馬の息が聞こえる。全身に白く泡立つ汗が、陽光に煌めいている。獣の匂いが鼻腔をくすぐる。
馬の両前脚がぴたりと停まった。
ついにギュルタールはやって来た。
ギレディアは人知れず、ああ、と溜息を漏らす。
ギュルタールは下馬しなかった。
ギレディアは、弟の顔を見上げる。
ギュルタールは下馬しなかった。
ギレディアは意識せずに微笑む。
ギュルタールは、既に君主だ。
ギレディアは目を閉じる。
ギュルタールの剣が鞘走る、油染みた音が聞こえる。
生涯唯一の断罪が下る。
誰も知らない。誰も見ていない。そんな場所で背徳の名を冠されたギレディアが死ぬ。手を下すのはその弟だ。
祈るべき神はなく、還るべき土もない。
偉大なるシオルのくびきから、聖職者の屠殺をもって解放されたギレディアは、祈りなき最後の瞬間を過ごす。
「兄上」
死がギレディアの裾を掴む。
「兄上」
違う。それは死ではない。裾を掴むのは人間だ。泣きながらすがりつくのは人間だ。
「兄上ッ」
ギレディアは眼を開ける。
「ご無事でしたかッ」
確かにギュルタールは下馬しなかったが、転げ落ちたらしい。
顔中を草と鼻血と鼻水と涙で濡らし、ギレディアの膝にすがりついて泣いている。
それに付き従って来た男たちも、主君を半円に囲んで泣いている。
ギレディアは少し拍子抜けしてその光景を眺めている。
「良かった、本当に良かった」
ギュルタールは泣き笑いだ。
ギレディアはその肩へ手を伸ばしかけた。優しいねぎらいの言葉がその口をついて出ようとした。
だが、そんな自分を微笑みながら眺めているベナストルの視線に気付くと、たちまち手を引っ込め、用意した言葉を飲み込んでしまう。
ギレディアは異母弟の功労を慰撫する代わりに、その頬を思い切り殴った。
「大馬鹿者が!」
鈍い音が鳴り、ギュルタールが地に突っ伏する。
「ギュルタールよ、俺が貴様に城の鍵を預けしは何のためぞ。貴様にドナテロの執務を預けしは何のためぞ。全ては、この俺の身に不測の事態あるを予測し、ドナテロの安寧を貴様に死守させんがためではないか。それなのに貴様は親愛の情に溺れ、このような場所に阿呆面を晒しておるッ。貴様ごときに留守を預けた我が身の不明、己をこれほど恥じたことはない」
余りといえば余りなギレディアの言葉にも、ギュルタールは平伏して言う。
「ギレディア卿なくしてドナテロなしッ。ギレディア卿なくして帝国もまたなしッ」
ギュルタールは涙声で吼えた。
「昨日の密使がアリエーニレンの謀略である危険は百も承知、しかしギレディア卿が死ねばどうせ帝国が死ぬのですッ。我が願いは最後にもう一度御尊顔を拝し奉りたいというその一念のみ、ならばそれが叶えられた今、この場で死を下されようと悔いはございませんッ」
これにはさすがのギレディアも二の句が継げない。
「わはははッ、ドナテロに好漢ありと聞いてはいたが、ギレディアよ、噂は真であったな」
ベナストルが哄笑する。
「兄上、この方は」
「乞食だ」
ギレディアは不機嫌に吐き捨てる。
「うむ、乞食である」
「ギュルタールよ」
ベナストルを無視して、ギレディアは言う。
「既にヘルベルの軍勢が街道をドナテロへ向けて進んでいる。我らは急ぎドナテロへ帰還し、総力を結集してこれに立ち向かわねばならぬ」
そこで表情を和らげ、
「貴様の今回の軽挙については拳一つをもって不問としよう。だからもう泣くのは止めて、俺をドナテロへ連れて行け」
ギュルタールはまじまじとギレディアを見つめ、もはや正体不明の液体でぐしゃぐしゃになった顔を拭って、また泣く。
ギレディアは処置なしといった体で肩をすくめる。
そこでまた、暖かいベナストルの視線に気付き、不機嫌そうにそっぽを向く。
ギュルタールが、泣き止まないながらも馬を用意させ、そこにギレディアの座席を設えさせたのは、かなり時間が過ぎてからであった。
「よろしいですか、兄上」
「うむ」
ギュルタールにうなずいて見せ、ギレディアは馬上からベナストルへ顔を向けた。
「ここで、別れだな」
「そのようだのゥ」
爽やかな陽光が、各々の道を草原に照らし出す。
ギレディアは少年に目をやった。
巨漢の僧の傍らに、眩しげに見返す双眸がある。
ギレディアは馬上から手を差し伸べて言う。
「俺と共に来い!」
ベナストルが、そっと少年の背中を押す。
前に押し出されて、少年は馬の背のギレディアを見上げた。
「俺の道を共に歩め!そして己が宿命を、俺を超えて見出せ!お前は怪物だ、俺すら足元に及ばぬかも知れぬ怪物を、お前は身中に育んでいる。お前なら俺の道を往くことができる!」
少年は笑った。
そしてその指を、空に向けた。
「俺の、道は、あそこに、ある」
ギレディアは全身が泡立つような恐怖を覚えた。
それは、ベナストルも、ギュルタールも、彼に従う騎士たちさえも、その場にいる全員が共有した感覚であった。
束の間の静寂があった。
最初に口を開いたのは少年だった。
「お別れだ、ギレディア」
はにかむように言って、ベナストルの手を握った様子は、ごく普通の子供ともう何の違いもなかった。
ギレディアは腹中に呟く。道か、と。
「さらばだ」
短く言い、ベナストルへ会釈して馬首を巡らせる。
そこにはドナテロの野が広がっている。
速歩で馬を進めるギレディアの脇を、警護の騎士たちが散開して駆け抜けて行く。
ギレディアは背後を振り返ろうとはしない。
ギュルタールが追い付いて来る。
騎士たちは全て前方に展開している。
彼らに話が聞こえないのを確認して、ギュルタールが頬をさすりながら言う。
「あれは、強烈でした」
不敵に笑う。
無様に泣き喚き、ギレディアの無事を喜んでいた凡夫の面影はない。
ギレディアは鼻を鳴らす。
「ふん、奸臣め」
「そいつは酷い。あなたの無事がわかって嬉しかったのは事実ですよ」
「それならば、何故、俺の手前で馬の速度を緩めたのだ。大方、俺を殺すのと生かしておくのと、どちらがより人生を楽しめるか、などと最後まで愚にもつかぬ逡巡をしておったのだろうが」
ギレディアが横目で一瞥を投げると、ギュルタールは苦笑する。
「やれやれ。優柔不断な性格ってのは損ですなァ」
ギレディアはにやりと笑う。
ギュルタールは咳払いをすると表情を改める。
「ところで、あの子供は何者ですか。兄上は御執心だったようですが」
「さあな」
ギレディアの答えは素っ気ない。
「さあな、はないでしょう。出会い頭に殴られるわ、面白そうな秘密は教えてもらえないわ、兄貴思いの弟が、これじゃああんまり可哀そうだ」
「ならば怪物とでもしておけよ」
「怪物ねェ」
ギュルタールは首をひねる。
「まァ、そうおっしゃるならそういうことにしときますがね」
爽やかな風に吹かれて、馬影は軽快に草原を飛ばして行く。
その影が遠ざかるのをじっと見守っていたベナストルは、荷物を担ぎ直して言った。
「さァて、我々も旅立つとするかのゥ」
「ごめんな、ベナストル」
少年はすまなそうに言う。
しかしベナストルは軽く笑って、
「なに、構わぬよ。しかし、ギレディアと共に行くのが、お前にとっては最善であっただろうとは思うが」
「それは、誰にも、わからないよ」
少年は言う。
「あの、人は、悲しい、人だな」
ベナストルは驚いて少年の顔を眺める。
だが少年はそれきり何も言わない。
「うむ」
青い天球にむけて息を一つ吐き、ベナストルはその歩を踏み出した。
傍らを、少年が歩く。
歩かねばならない。
道はそこにあるから。
そう。全ての人間の足元に、それぞれの道は、伸びているから。