庭で遊ぶのが好きだった。
目を閉じてみる。今でも目蓋の裏に、陽光の暖かい匂い、風が頬を撫でる感触、雨垂れの柔らかなリズム、そんな記憶がいっぺんに蘇えってくる。
幼かった日々の私の幸せな思い出は、家の小さな庭と分かち難く結び付いている。
私の家は都心から川を一本隔てた住宅街にあった。周りのそれと比べて特別大きくはなかったけれど、日当たりが良くて暖かく、清潔で手入れの行き届いた家だった。
庭はそんな私の家を象徴していた。若草色の柔らかい芝生、そこを横切る小さな石畳とその縁取りに咲く可憐な花々。朝には曙光が優しく降り注ぎ、夕方には家の赤い屋根越しに沈んでゆく太陽をいつまでも眺めることができた。その赤銅色の夕陽を背中に浴びながら、私は川の向こうに林立する摩天楼を眺め、そこから長い橋を渡って帰って来る父の水色の車が見えはしないかと目を凝らしたものだった。
庭で遊ぶのが好きだった。その頃、私は何も知らないちっぽけな女の子に過ぎなかった。その私を、両親は「庭の番人さん」と呼んだ。確かに、日の出ている時間に限れば、私は家の中より庭にいる方が多かった。学校から帰るとすぐ庭に出た。この小さく無知な番人の遊び相手は学校の友達だったり、時には母や父だったりしたが、私の一番のお気に入りは兄だった。私と二十歳近く歳の離れた兄は空軍に勤めていて、滅多に家にいなかったけれど、休暇や何かで帰省した時には全力で遊んでくれた。バドミントン、縄跳び、ナインハンズオブゴブリンズ、それからサッカーやキャッチボールといった男の子がやるような遊びまで。
兄と一緒にいるのは楽しかった。私は庭だけでなく家中彼を追いかけ回した。兄は聞き手を魅了する話の種をたくさん持っていて、またそれをおもしろおかしく話すコツを掴んでいた。私は兄の話に夢中で聞き入った。その大半はおとぎ話のようなもので、そうでなくともどこか不思議な話であることが多かった。十年前に行方不明になった飛行機がある日砂漠の空に現れて、基地の上を旋回した後またどこかへ飛び去った話や、象の墓場に眠る財宝の話、それにどこかの王様の宮殿の美しい庭の話など。
それらの話をする時の兄の顔は楽しげだった。私は兄のその楽しそうな表情を見るのが好きだったのかもしれない。兄の笑顔の背景に広がるのどかな青空、白い雲、暖かい光、滑らかな風の流れ。
そう、兄の想い出も、私の庭とともにある。
ある晴れた穏やかな日、私たち家族は庭でお茶を飲んだ。兄が本当に久し振りに帰ってきた時だから、あれは私が十歳の初夏だったと思う。父が白い椅子にテーブルを庭へ運び、兄もそれを手伝った。
「今日は陽射しが強いから」
そう言って兄がビーチパラソルを立ててくれたのを覚えている。兄自身は真っ黒に焼けていたのだが。
私はキッチンからカップとソーサーを運ぶのを手伝った。母はオーヴンの中のパイと睨めっこしていた。
父は、ひと働きした後は椅子に座って煙草をふかし、川向こうのビルの森を眺めながら兄と短い会話を交わしていた。私は何となくその内容を聞きたくない気がした。結局その機会は巡ってこなかったけれど。
テーブルに食器を並べるのを手伝った後で、私はキッチンに引き返した。アップルパイの焼ける甘くて香ばしい匂いがダイニングを通る私の鼻をくすぐった。
「さあ焼けたわよ」
私がキッチンに入って行くなり母が言った。
「ママ、お茶は?」
私が訊くと、母は慌ててオーヴンから顔を上げた。
「あらいけない、まだお湯を火にかけてなかったわ」
ポットは空のままで、お茶の葉の缶は流しの脇にぽつんと置かれていた。
「ね、パパにもう少し待ってって言ってきて」
母は基本的に几帳面な性格だったが、どこかのんびりしていて忘れっぽいところがある人だった。
「あ、ただし、このことは内緒よ。何か他の言い訳をしてね」
庭に戻りかけた私に母は言って舌を出した。私はちょっと笑ってうなずいた。
庭では父と兄はまだ話をしていたが、話題は先程とは変わっていた。
「おや、ママはまだかい?」
父は私に気付くとそう声をかけた。
「例の『うっかり』かな。パイはもう少しお預けだろ」
言って兄が笑った。父も笑った。
強い陽射しに二人の座るテーブルと椅子の白が眩しく輝き、私は目を細めた。
明るい午後だった。風の香り、地上のあらゆる事物に跳ね返り、鮮烈に、それでいて優しく光る陽光の色、そして、笑顔。
兄の言葉に私も笑った。しかしそれはおかしさのせいではなかった。
愛を感じて私は笑った。笑いはたいてい、どこか虚ろなものだ。他人の仕草で笑う時、他人の言葉で笑う時、笑みの後には空虚が残る。楽しいひと時を過ごしても人は笑うが、楽しい時間もいつかは終わる。それが終わってしまえば人はもう笑うことはない。けれど唯一、愛を感じて笑う時だけ、人は幸福になれると私は思う。愛を与え、また与えられていると感じた時に人の目を和ませる笑みだけが、幸せの兆候なのだ。愛は消えることがない。私はそれを信じる。だからこそ愛から生まれる笑みに終わりはないのだ。
兄が空を見上げて言った。
「ほら、飛行機だ」
澄み渡る初夏の天球に、純白の筋を引いて銀色の光が飛んでいた。
私は掌を額にかざし、懸命にその行く先を追おうとした。
「あの方向だと、西回り便だな」
父が楽しげに言った。
「見てごらん、飛行機雲があののっぽのビルの先の左側に伸びてるだろう、あれは一度北に迂回して西への風に乗るためなのさ」
そんな説明をされても小さな娘にわかるはずはないのだけれど。
兄が笑った。
「要するに、パパはいつもあのビルの窓から飛行機雲を眺めてるんで詳しくなったのさ」
父が銀行員だということ、そしてその銀行が川向こうの摩天楼の中でも一番高いビルに入っているということを、私はおぼろげに思い出していた。
「たぶん、いつかは僕の飛行機雲を見送ることになるんじゃないかな」
冗談めかして兄が言った。
私はすごいと思った。兄の操縦する飛行機が、陽光を浴びて青空の破片のようにきらきら輝くビルの頂上の、その遥か上空に飛行機雲をひきながら飛んで行く。それをあのビルの中で父と一緒に眺めるところまで想像して、私はわくわくした。
だが次の瞬間、兄は父の顔を見て肩をすくめた。
「もちろん、父さん、冗談だよ」
私も思わず父の顔を見上げた。
しかしその表情は既に、飛行機雲について楽しげに説明していたそれへと戻っていた。
兄は空軍の戦闘機乗りだった。私はそれを子供心に自慢に思っていたが、父と母はどう思っていたのだろう。
「ごめんなさい、やっとパイが焼けたわよ」
短い緊張は母ののんびりした口調で解かれた。
「うん、いい匂いだ」
父が鼻をくんくん鳴らして朗らかに言った。
「ちょっと遅いお茶になってしまったわね」
「空腹は最高の調味料だよ」
母の言葉に兄も笑って応じた。
私はとりあえず安心してテーブルについた。焼き上がったリンゴの甘い香りと紅茶の芳しい匂いが風に乗って庭の隅々に流れていった。
幸せな日々。
私が永遠に終わることのないと思っていた時代。
私が何も知らない無力でちっぽけな存在だった日々。
庭でのお茶会からしばらく経ったある日、私はいつものように学校から帰ると庭へ出た。
よく晴れた日だった。空は宇宙の色が透けて見えるほどに青く、さらさらと流れる空気は暖かで、緑の匂いが爽やかだった。
私は絵を描こうと思っていた。兄が遠い外国の基地から送ってくれたきれいなスケッチブックと色鉛筆が、前日に届いたばかりだった。
遠くに横たわる川からの風が私の頬を撫でた。
私はスケッチブックを開いて芝生の上に座った。
描こうと考えたのは父が勤めるビルだった。
私はまず水色の鉛筆を取った。
空の色を塗りたかった。美しい空の色を。
私は鉛筆を手に、高い高い天を仰いだ。
水色を薄く塗り始めた。淡く、優しく、そして徐々に濃く、強く。
空の色は一色ではない。点で見れば、紺色があり、青色があり、群青があり、水色がある。夕暮れには赤が、黄が、朱色が、朝焼けには金が、紅色が、ある。それが面になると、それぞれの色の区切りがどこからどこまでなのか、まるでわからなくなる。
だから見る人によって、描く人によって、空の色は様々だ。明るい色、暗い色、楽しい色、沈んだ色。
私は空を美しく塗ろうとした。それは美しく見えたから。
大部分を塗り終わった後で、銀色を使ってみようかと思った。
雲を塗ろうとしたのではなかった。青い空の一点のどこかに銀色を使ってみようと思った。
私は銀色の鉛筆を持った。
そして、もう一度空を見上げた。
空には銀色があった。
熱くぎらぎら光る太陽の光を濁った虹のように反射して、巨大な銀色が空を埋めていた。
私は自分が青空を銀に塗ろうとした、その理由の必然を知った。
私の手から鉛筆が、次いでスケッチブックが滑り落ちた。
空はもう美しくなかった。それは今や汚され、寸断され、混濁した体液を滴らせていた。
地の底から響いてくるような轟音が地を揺らした。
私は茫然と空を見上げていた。
銀色の光を放つ巨大な怪物が、点ではなく大きな面となって空を舞っていた。
私はその怪獣たちの名前を知らなかった。とっさに戦闘機だと思った。けれどそれは爆撃機だった。
青い空から魔物たちは次々に飛来し、私の頭上をかすめていった。
彼らの冷酷そうなとがった鼻先は同じ方向を向いていた。
私はその邪悪な企みを感じ取って慄然となった。
爆撃機の大編隊は悠然と川を越え、その先へ飛んで行った。
私は何か叫んだ気がする。けれど記憶の中でそこにどんな言葉を当てはめても陳腐な感じがする。実際は叫ばなかったのかもしれない。
私は立ち尽くした。魅せられたように邪悪な怪物たちの背中を見送っていた。
結末のわかりきっている物語を読まされているようなものだった。
巨鳥の編隊の先端が、市街地の中心部へさしかかった。そこには、のっぽのビルがそびえていた。
どんなに悪趣味な漫画でも、ここまで悪趣味な筋立てはないだろう。
怪物の翼がぎらりと光り、その腹から卵のようなものが一個、だしぬけに落とされる。
街は気味の悪い生き物の影の下で静まり返っている。まるで誰も空の出来事に気づいていないとでもいうように。
あまりに馬鹿馬鹿しいコントラスト。
空を舞う怪物たちと、その下で平和を謳歌する地上、その間をゆっくり落下していく黒鉄の卵。
誰もが吐き気を覚えるだろう。
けれど数瞬後にけたたましい笑い声が上がる。
その笑いは炎と煙と風と血の笑いだ。
振り下ろされた無情な鉄槌は私の目の前で父のいるビルを叩き割った。のっぽのビルはガラスの破片を撒き散らして爆発した。
まるでそれが合図だったかのように絨緞爆撃が開始された。
私の子供時代はこうして終わった。
長く暗い夜があった。
私はその夜の闇の中で大人になった。
あの日の事件を境に世界は「終局無き戦争」―――私たちの政府はそう呼んだ、一体、これ以上の冗談があるだろうか―――に突入した。
家族のことに触れておきたい。私のことは最後でいい。私が生きてきた時代は吸殻のようなものだ。幸福や、笑いや、愛情や、その他、輝きに属することは全て私が家族と共に生きたあの子供時代に固有のものなのだ。
父の生存は望むべくもなかった。今でも私は父の死を受け入れられずにいる。どこかで生きているのではないか、そう思って時々雑踏に父の姿を探す。一度や二度、父を見つけたと確信したことがある。けれど父の姿はすぐに赤茶けた街の背景に消え失せてしまう。
事件の後、私たちの街はがらりと変わってしまった。敵意と憎悪が溢れ、銃声が止まなかった。内戦が始まったのだ。
母は父が帰ってこなくなってわずかも経たない内に死んだ。近所のスーパーマーケットに買い物に出かけ、路上で狙撃された。
兄は出征先で死んだ。戦死ではなかった。不敬罪というのが理由だった。敵地住民のデモに対する掃射を拒んだから。私はその兄の行動を誇りに思うが、内心どこかで馬鹿なことだと感じている。
私は神様の子供では決してない。私は、爆撃で死んだ父と射殺された母の子供だ。だから、爆撃した敵と、あろうことか彼らに呼応して内戦を起こした同胞に対して、彼らが私の両親に対してしたように振舞うことに何のためらいもない。
私は右の頬をぶたれればナイフで相手を刺すし、両頬をぶたれれば撃ち殺す。
それを罪悪だと考えたことはない。
しかし不毛なことだ。
その長い不毛な時を私は過ごしてきた。
おそらく私は天国に行けないだろう。
天国の門番の聖人は言うだろう。
「お前の心は血に穢れ、邪悪だ。天国に入る資格はない」
私はこう答える。
「なら全知全能の神様は、私の父が爆弾で殺された時、私の母が狙撃手に撃ち殺された時、私の兄が国に処刑された時、どこで何をなさっていたんです?」
本当に長い歳月が経った。
私は家族を喪って、当時勃興しつつあった義勇軍の募兵に応召した。
故郷を離れ、街から街を移動し、山野を彷徨った。
その日々を思い出すと、生きているのが辛くなる。敵は駆逐され、勝利は近づいたが、残された傷も大きい。
過去は道の先に長い影を落す、ということわざがある。しかし暗い夜、私を励まし、暖めてくれた私の家族の思い出が、その影からも私を護ってくれると信じたい。
私は今、川沿いの道を歩いている。
一歩ごとに砂塵が舞い、罅割れた舗装路に面する家並みには生活の気配が感じられない。
右手を見れば焼け落ちた橋の残骸が横たわる。
私は肩を揺らし、背負ったライフルの紐の位置を戻す。
赤く錆び付き、横に傾いた標識が見える。
あの角を曲がれば見慣れた赤い屋根が見えるはずだ。
私は帽子を脱ぐ。
周りの空気が暖かい。
心なしか太陽の光が明るさを増した気がする。
足取りが軽い。
曲がり角が近づいてくる。
ああ、視界がぼやけてゆく。私は泣いている。
長い、長い夜を私は孤独に震え、脅えて過ごしてきた。
私の家が近づいてくる。
私の家の屋根は今でも赤いだろうか。
空が美しく青い。
私は夜明けを感じている。
曲がり角を曲がる―――私は涙に霞む目で見上げる。そこに、赤い屋根はあるだろうか。