黄昏の祝祭

八猛馬

1

(そら、ぼくの影ぼうしは、だんだんみじかくなって、ぼくへ追いついて来る。じきにすっかりちぢまっちまうぞ)
―――ジョバンニ 銀河鉄道の夜

 オドジェッツ先生は仰った。

 今日はとても良い日ですね。皆さんの晴れがましい表情を見ていると、先生はとても嬉しいのです。皆さんもお友達の美しい表情を見ていると嬉しいでしょう。いつもそんな顔をできると、必ず勉強も運動もはかどるはずですよ。

 子供たちは先生の話をにこにこして聞いていた。

 先生は明日も今日と同じ皆さんの顔に会えればいいな、と楽しみにしていますよ。

 オドジェッツ先生はそうやってお話を締めくくった。

 子供たちは一斉にはいと叫んだ。

 では、帰りの挨拶をしましょう。

 オドジェッツ先生は縁の細い眼鏡を指で押し上げると、姿勢をぴんと正された。

 学級の窓の外、校庭の上には秋晴れの空が広がっている。盛夏の頃よりは大分薄くなった青色が、けれど比較にならないくらいの深さをもってそこにある。

 校庭に一本、きりりと立つ柱に校旗が風になびいている。位置は半旗である。

 日直のソウルフェウムが大声でさようならと言った。

 子供たちの元気な声がそれに続いた。

 先生はにこやかに、さようなら、と返礼なさった。

 校庭に打ち込まれた天空の時計の針は、始にして終を指している。

 ミリテリエルは鞄を背負うと教室から出ようとした。

「ミリテリエル、暇かい。暇だったらこれから一緒に遊ばないか」

 声をかけてきたのはザイネリアルだ。

 ミリテリエルはザイネリアルにうなずいて言った。

「いいよ。家に帰っておやつを食べたら遊ぼう」

「そうか。じゃあまた後で会おう」

 ザイネリアルは鞄を肩に担ぐと先に走って行った。鞄にぶら下げた、煉獄の王のキーホルダーがかちゃかちゃ音を立てるのが聞こえた。

 第6学年のザイネリアルといえば学内きっての秀才だ。勉強でも図画でも体操でも、ザイネリアルに勝てる者はそうはいない。音楽だけは少し苦手で、つい最近も、ベルゼブブの交響曲第49番の解釈を巡って先生を困らせた。ザイネリアルの鞄に下がっているキーホルダーはその時に先生から頂いた物だ。

 ミリテリエルがザイネリアルの背中を見送っていると、オドジェッツ先生が近づいてこられた。

「ミリテリエル君、今日はとてもいい日です」

 先生は手を後ろに組んで胸を少しそらせている。教室の南側の窓から差し込む陽光が先生のかけておられる銀縁の眼鏡に反射している。

 ミリテリエルはちょっと言葉に詰まって鞄の肩掛けをいじった。

「こんな素晴らしい日なのに、ミリテリエル君はあまり気分が優れないようですね」

 白く光る眼鏡がミリテリエルを見下ろしている。

 何か言わなければとミリテリエルは思ったが、心の中は鉛を含んだ汚泥のようで、拾い上げるべき言葉はどこにも見当たらなかった。

「私たちは今日のこの日を喜ばなければならないのです。それはおわかりでしょう、ミリテリエル君」

 先生の話し方はとても優しい。だがミリテリエルは先生が言葉を重ねられれば重ねられるほど、その言葉が自分から遠ざかり、まるで理解できなくなるのを感じていた。そしてそれは今日に限ったことではなかった。

「お父上のことが気がかりなのですね」

 先生は緘黙するミリテリエルから目を離して窓外の風景に目を移された。

「ミリテリエル君、あなたのお父上は素晴らしい人物です。そしてお父上が戦っておられるのは立派な戦争です。偉大な戦争です。美しい理想のための戦争です。そのことを悲しむのはやめなければなりません。それはお父上の行いに泥を塗る行為以外の何ものでもないのです」

「先生、僕は授業で神様のお話を勉強しました。ずっと昔に、神様は弟を手にかけた兄を厳しく罰せられたということでした。今、人々はお互いにお互いを手にかけようとしています。人間が皆兄弟であるとするなら、なぜ父は戦わなければならないのでしょう。それは神様に歯向かうことではないのでしょうか」

「以前にも」

 先生は光溢れる校庭に目を向けたまま続けた。

「同じ話をしましたね」

「覚えています。ブラーギの二編の詩に曲をつけた時です。二つの内一曲を先生は削られました」

「ブラーギの二編の詩についてあなたは二つの解釈を立てました」

「そうだったでしょうか。僕はどちらも同じ解釈で作ったつもりでした」

 先生は首を横に振って否意を表された。

「混同してはいけません。神様の仁愛とは全き唯一のものです。そこには少しのぶれもありません。いいですか、神様は堕落した人間を愛されはしません。神様の愛は自ら助く能力のある者たち、優秀な者たちにのみ向けられているのです。あなたはそれを取り違えて、神様の愛を讃えた二編の詩を二様に解釈しました。それは間違いです。誤読です。神の愛は私たち優秀な者たちの上に常に輝くのです。それは決してエンデルクランであなたのお父上が処分しようとしている性根の腐った人間たちに向けられてはいないのです」

 先生は淡々と語られたが、ミリテリエルにはさっぱり理解できなかった。話の内容云々ではなく、先生の発する一音一音からしてそれは完全な外国語のようだった。

「ミリテリエル君、あなたが悩むのも無理はありません。お父上が勇敢に戦っておられる背後で、安全な場所にのうのうとしながら反戦だの非戦だのとお父上を攻撃するような発言を繰り返す卑怯な輩が少なからずいるのですから。でももうそれもお終いになるでしょう、今日もたらされた喜ばしき報せをもって」

 先生は後ろに組んでおられた両手を広げてミリテリエルの肩を掴んだ。

「何と喜ばしい日なのでしょうね、今日は。もはや私たちを縛るものは何もない。私たちは自由です。私たちが地上の王となるのです。黴臭い教典や書物など火にくべてしまえ!」

 ミリテリエルは肩を掴む先生の手を握った。そして静かにそれを引き剥がした。

「さようなら、先生」

 ミリテリエルは先生に背を向けて窓際から歩み去った。

 先生が背後で何か叫んだ。だがそれはミリテリエルには相変わらず耳馴れない外国語のように響くだけだった。

 教室の出口でイェギノラウルが待っていた。

「ミリテリエル、一緒に帰らないか」

 イェギノラウルが言った。

「いいよ。一緒に帰ろう」

 二人は連れ立って廊下へ出た。

「イェギノラウル、今日は練習は休みなのね」

 五組のマリエスタが追いついて来て言った。

「そうだよ。マリエスタも休みかい」

「そうなの。一緒に帰りましょう」

 学年一大柄なイェギノラウルは町の野球部の正捕手で、マリエスタは篭球部の正選手だ。普段は放課の後も練習で帰りが遅い。

 三人は家が近いこともあって仲が良い。

「ミリテリエル、曲の課題は進んでいるの?」

「ううん、あまりはかどっていない」

 並んで昇降口に向かいながら、ミリテリエルはマリエスタに首を振った。

 次回の県の音楽祭に、ミリテリエルは学校代表で作曲を任されている。

 マリエスタは心配そうに言う。

「でも主題の解釈は済んだのよね。先生が褒めてらしたわ。あの解釈は見事だって」

「頭ではわかるんだ。でも、いざ楽団の旋律に直す段になると、駄目なんだ」

 昇降口で下駄箱から靴を引き出す。

 真っ赤に濡れた夜がそこに潜んでいる。

 希望はない。

 昇降口最奥の硝子造りの大時計が陰にして陽の鐘を打った。その砕け散った陽のかけらが奏でる甲高い音に誘われたように、天上に磔にされている人倫の古時計が悔悛の歯車を回し始める。大小様々の歯車は一斉に黄金の輝きを放ち、古時計の水晶の枠組みはそれらを盛んに跳ね返して、りん、きぃんといった遥かな光年の音楽を響かせた。

 そして次元のネジが緩慢に巻き上げられ、眠っていた鳳や鴇の針が動き始めた。

 昇降口は今や宝玉や金属が互いにぶつかり噛みあう音楽で満たされ、開きかけた扉の隙間からは、9.8次元の彼方に凄絶に輝く存在の歌声が、時に高くなり低くなりしつつ響き伝わってくるのだった。

 ミリテリエルは濡れたような色の黒曜石の床の上で靴の踵を直した。

 マリエスタは胸前で静かに十字を切っている。

 花崗岩の扉から次々に子供たちが放課後の野原へ駆けてゆくのが見える。

 権能を顕す聖霊の旋律に耳を傾けながらミリテリエルはぼうっと考えていた。

 ザイネリアルは走って帰ったのだろうか。走って帰ったのだとすれば彼の家は二里先だ。ザイネリアルが訪ねてくるのは赤鴉の勢威が沖天へ達する頃になるだろう。それは黄昏のほんの前の時刻だ。

 幾人かの子どもがぼんやりと立ちすくんでいる。

 光の差し込む扉とは反対の、最も奥深い場所で、一対の青白い目が揺らめいている。そこはとっぷりと闇に覆われ、その闇は油のように重く滑らかで、微かな音も一切の感情も伝えてこない。その闇の中に浮かぶ青白い目はにやにやと笑っているようでもあり、ぎんとした怒りに張りつめているようでもある。

 ミリテリエルはすっかり靴を履いてしまうと、マリエスタの腕を掴んで歩き出した。イェギノラウルの背中はもう黄金がかった斜陽の奔流に飲み込まれている。

 一面に枯死したキツネノテブクロの広がる野原の上を、冷たい風が吹きつけている。

 どこから現れたのか、無数の男女が獣のような勢いで駆けながら、校庭をマウソレウムの尖塔の方に向かっていく。老いた人もあり、若い人もあり、髭を生やした人もあり、頭を剃った人もあり、とにかくたくさんの老若男女が懸命にマウソレウムの尖塔を指して走って行く。不思議なことに、それほどの勢いで駆けながら、彼らの目は一様に病的な輝きを浮かべてマウソレウムの尖塔にひたと据えられたまま少しもぶれることがない。

「腕で目を隠そう」

 ミリテリエルが言い、マリエスタは二の腕を掲げて視線をマウソレウムの力から防いだ。

 多くの人込みを掻き分けながら、ミリテリエルとマリエスタはマンドレイクの群落の上でようやくイェギノラウルの背中を捕まえた。

「やあ、それじゃあ帰ろうか」

 イェギノラウルはそれまで向かっていたマウソレウムの尖塔から進路を西へ戻して歩き始めた。

 西の町への道はススキの野原を掻き分けて散林を縫い、なだらかな丘陵の遠くにふっつりと消えている。

 ススキの野原は閑散として、三人の靴が小石の多い粘土質の土を踏む音の他にはひぃううううびぃうううという風の唸りしか聞こえない。

 風波にススキの穂が揺れ、時折ミリテリエルの頬をくすぐった。

 しばらくして小道を丘陵の方から逆行して歩いてくる影を見つけ、三人は足を止めた。

 影は大きなカンバス地のずた袋を肩から太い紐で吊るし、野太い声で何かベエリング辺りの俗謡を吟じながらゆらゆらと近づいてくる。けれどその歌はミリテリエルの耳には音楽のようには聞こえなかった。愉快で明るい調子ではあるが、ただのがなり声のように思われた。

「重そうな荷物だねえ」

 イェギノラウルが言った。

 ミリテリエルはうなずいた。

「こんな刻限に使者だろうか。それとも物取りだろうか」

「物取りも使者もこの道を通らないじゃない。だとすればきっと鳥打よ」

 マリエスタが言ったがそれもどうやら間違いだった。

 三角の帽子を真横に被り、赤黒まだらの笛を構えたその影は、三人の手前まで来ると歌らしきものをがなるのをやめて首を傾げた。

「おやこんな時間に人に会うとはお珍しい。あんた方は草斬りですかそれとも鼠狩りですか」

 そのきょときょとする様子があまりにおかしかったので、イェギノラウルとマリエスタはぷっと吹き出した。

「そのどちらでもありません。僕たちは学生です」

「ほっほう。学生とね。ほっほう」

 影は帽子を脱ぎ、笛を刀のように振り回して片足でぴょんぴょんと飛び跳ねた。

「そんなら謎かけをやりましょう。私が問題を出しましょう」

 三人は顔を見合わせたが、影はその様子には構わずに問題に取りかかった。

「この世界で、一等大きいのは何でしょう。ほっほう。一番嵩があるのは何でしょう」

「天だよ。そんな問題一年生でも知ってるさ」

 イェギノラウルが答えた。

「ほほう。どうして天が一番大きいんです」

「一と大をくっつけたら天になるじゃないか」

 訊き返されてイェギノラウルが言ったが、影は担いだ荷物を頭の上でぐるぐる回すだけだった。

「違います。そんなの答えじゃありません」

「じゃあ何だって言うのさ」

 イェギノラウルは少し頬を赤くした。

 影は飛び跳ねながら言った。

「地獄です」

「全然謎かけになっていないや」

 ついにはミリテリエルも笑い出した。

「さあ今度はあなたの番ですよ。あなたはこんな裏道で何をしておられるのですか」

 笑いながら聞いたミリテリエルの前で、影は一層激しく跳ね回った。

「ほっほう。裏道。ほっほう。林の間、あやしのかいな、ススキの原、すずめのはらから、裏道、空道、全部通って奈落の底へ。ほっほう裏道。ほっほう空道」

 影が飛び上がるたびに三角帽子の先端に垂れ下がったぼんぼりがぶらぶら揺れた。

 ススキがざあざあ鳴り、ひねくれた杉の木がごうごう唸った。

「あなたはいったい誰ですか」

 マリエスタが言った。その口調はもうあまり面白がっていないようだった。

 影はぴたりと動きを止めた。

「おわかりでしょうに。一目で明らかでしょうに。ほほう。私はお知らせに行くのです。私はお祝いに行くのです」

 ススキの野原は薄暗くなり、水増しされた陽光の中で影はぐんぐんと大きくなるように見えた。

「嘘だ。使者はこの道は通らないはずだ」

 イェギノラウルが叫んだ。

 影は小刻みに左右に身体を揺すり、イェギノラウルの上にかがみ込むようにして見下ろした。

「ほっほう。今日は大変めでたい日です。ほっほう。表が裏に、裏が表に、ほっほう。学生さん、私はこの道を通ります。私はマウソレウムの尖塔を通ります。私はお祝いを伝えます。ほっほう」

 影があんまり深く身体を折ったので、イェギノラウルの身体はほとんどその下に隠れるかと思われた。

 イェギノラウルは半歩後退して影から逃れようとした。

 影はイェギノラウルの上で勝ち誇るように身をくねらせた。影から突き出されたイェギノラウルの靴はなおも逃げ場を探すように後退したが、ついに動かなくなった。

「うほっ」

 影がいきなり悲鳴を上げてのけぞった。

「うほっほ。参ります、今参ります、うほほ。ああ、今参ります、参ります。うほっほ。参ります。疾く参ります」

 荘重な鐘の音がごうんごうんごうと鳴り渡った。

 影は担いでいた荷物をどさりと落とし、両腕を頭の上で交差させた。

「いたしません、口答えはいたしません、ああ、しかしここに子どもがいるのです。これらの子どもは私のものです」

 影は激しい痛みに苛まれる病人のように全身を引きつらせた。鐘がごうんごうんごうと鳴るたびに影は脅えに満ちた声を発した。

 ミリテリエルが目を向けると、鐘の音はどうやら学校の方角から聞こえてくるようだった。それは陽を翳らせ、風を濁らせ、水を澱ませるような音だった。

 これはあんまり酷い。いくらおめでたいといって、こんな鐘を突くのはあんまりだ。

 ミリテリエルは心中震え上がった。

「参ります、参ります!今参ります!」

 影が絶叫した。そしてその次にはもう跡形もなかった。

 三人はしばらくぼうっとしてススキの狭間に立ち尽くした。

 鐘の音はまだ続いていた。

「あれが使者だなんて嘘だ」

 イェギノラウルが言った。

「そうねえ。でもあれは確かに使者なのよ」

 マリエスタの口調は畏れに満ちていた。

 影は消えたが、薄暗さは残った。夕方近い陽光はどことなく黄ばんで弱々しかった。風の冷たさはいや増し、ススキの囁きは恨み言のようにかさこそ聞こえた。

 ミリテリエルは学校の方角を指して言った。

「嫌な音だね。あれが本当に使者だったかどうかなんてどうでもいいことだけど、僕はあの鐘の音だけは絶対に嫌だな」

 三人は学校の不吉な鐘の音に送られて、再び小道を歩き出した。

 野原は栄養不足のために萎びてしまった杉の老木の根元でぷつりと切れ、そこからは赤茶けた土に覆われた上り坂が緩やかに続く丘陵地に移った。

「あら煙ね」

 マリエスタが空に目をやってぴたりと止まった。

 なだらかな丘の稜線の向こう側に、真っ黒な煙が幾筋も立ち昇っていた。

「あれは町の方角だな。狼煙だろうか、野焼きだろうか」

 イェギノラウルが気遣わしげに言った。

「いいえ、あれはどうしたって火事よ。ほら見て、煙が広がるのがあんなに速いもの」

 マリエスタの言うとおりだった。

 煙は見る間に鈍色の空を貫き、漆黒の煤を塗りたくっていく。口にするのもはばかられるマウソレウムの尖塔から吹きつける冷たい風も、大地に屹立した暗灰色の柱を破れない。サルヘナ大神殿の円柱のように太くて頑丈そうな煙の下には、丘を挟んでなお、激昂する真紅の花弁を見て取れる。

 イェギノラウルとマリエスタの顔はあっという間に血の気を失った。

「ああ、あれは火事なんだ。それもとんでもない火事なんだ。だってあんなに煙が大きい。それにあそこに見える炎の赤いことといったらどうだろう」

「あんな火に包まれたら、町では誰も生きていないのではないかしら」

 不安に身を慄かせて、マリエスタが走り出した。イェギノラウルが騎虎の勢いでそれに続く。

 丘の赤土は固く引き締まり、少年たちの脚をよく運んだが、鍛えられた二組の健脚を追うミリテリエルには一歩一歩がもどかしく、じれったかった。

 丘の頂上には、長年貧しい土壌にしがみついてきた矮性のプラタナスの小木が、病的な手指を無窮の天蓋に向けて何かを訴えるように枯死していた。二百人のオーケストラを前にした指揮台の上で、希望はないと叫んで立ったまま死んだ音楽家を思い出させる姿だった。

「これは酷い」

 丘の頂上に立ったミリテリエルは短く呟いた。

 火が遍在していた。

 茶色の煉瓦で組まれた町の広場で火が燃えていた。噴水は止まり、聖堂の尖塔は火葬された髑髏の眼窩のように虚ろになり、役所の屋根は落ち、そして全ての穴という穴から煙が噴出していた。煙の下には紅蓮の赤があり、そこに生れ落ちた怪物は貪欲に死の食事を続けていた。

 黄土色の煉瓦が積まれてできた商業区も燃えていた。立ち昇る煙はまるで九頭の火龍のごとく、煤煙の鱗を閃かせ、熱の手足を縦横無尽に振るって破壊と死を積み上げていた。焼けて秩序を失った煉瓦があちこちで崩落する音が、ずずずんずずんどんと化け物の鳴き声のように木霊した。

 白い石で造られた住宅地は一層激しく燃え盛っていた。家々の窓は破れ、焼き尽くされた建物は次々に轟音を上げて崩れ落ちた。炎は家々の屋根を伝わり、いったん燃え移るや、あっという間に壁から扉から全てを飲み込んでまた次の家に移った。赤い連鎖が次々に白の町並みに現れ、その後には煤けた瓦礫しか残らなかった。

 ミリテリエルは我を忘れて火災の様子に見入った。空気を伝わってくる熱気と煙の匂いに、剥き出した眼球がひりひり痛んだが、それでも見ずにはおれなかった。

 ミリテリエルは普段の午後の町の様子を考えた。冷酷な突風を吹きつけてくるマウソレウムの尖塔などなく、不吉な鐘を狂ったように乱打する学校もなく、人々の暮らしに無頓着に荒れ狂う炎の嵐もない、いつもの午後の町並みを。

 川から吹く微かで涼しい風に、家々の開け放った窓から白いカーテンが揺れる。庭では枝一杯に実をつけた柿の木が頭を垂れ、百日紅が桃色がかった紫の小花を振る。犬は透き通るように薄青い空を見上げて飼い主を待ち、猫は黄色くなって乾いた芝生の上で風除けの板に身を丸めて午睡を楽しむ。

 それらを丸呑みにして紅蓮の炎が燃え盛っていた。

 ミリテリエルは目をこすって涙を拭った。

 この惨劇を目の前にして、いったい何がこの町の普段の姿なのかがわからなくなっていた。不変のリズムを刻みながら平和に進行する一日一日は、もう遠く彼方に離れてしまったように感じられた。

 この町には暴虐の限りを尽くす炎しか、最初から存在していなかったんじゃないだろうか。

 ミリテリエルは思った。

 こんなに物凄い火を相手にして、人の営みがどれほどの価値を持つだろう。

 どこかで警報が鳴っている。

 きっとそれは無駄だ。火は燃える。燃えるという言葉は対抗概念を持たない。だから人は火が燃えることに対してはどうすることもできない。火は燃え、人の営みは燃やされるのだ。

 一際強い風が背後から押し寄せ、ミリテリエルは頭を抱えてその勢いに耐えた。

 風が止んだ時、イェギノラウルとマリエスタの姿はなかった。

 きっと町へ走って行ったのだ。無理もない。二人にはお父さんとお母さんがいるのだし、お兄さんもお姉さんも、弟や妹だっているのだ。

 ミリテリエルは火炙りにされて死に逝かんとする町から目をそらした。

「君は行かなくてもいいのかい」

 急に声をかけられて、ミリテリエルはプラタナスの根元に目を向けた。

 ザイネリアルがそこに座っていた。

 ミリテリエルはどきりとした。

 ザイネリアルは乾燥した赤土の上に膝を抱え、澄んだ目でミリテリエルを見ていた。その様子は異様だった。

 ミリテリエルは声が出なかった。

「ミリテリエル、君は行かなくていいのかい」

 ザイネリアルがもう一度聞いた。

 ミリテリエルは唸った。答えようとしても声が言葉にならなかった。

 ザイネリアルは目を真っ直ぐにミリテリエルに向けたまま座っている。

 あんまりその目が澄んでいるので、ミリテリエルは見ているのが辛くなって空を仰いだ。

 秋の空は高く、光は弱く、空気は冷たかった。白い雲に黒煙がかかって恐ろしい怪物をそこに描き出していた。

「日暮れだ」

 ザイネリアルが言った。

「そうだ。もう日暮れが近いね」

 呪縛から解き放たれてミリテリエルは答えた。

 ザイネリアルは立ち上がって白いズボンの尻を払った。

「僕はもう行かなければ。ミリテリエル、君も気をつけて行くといい」

 ザイネリアルは町とは反対方向に歩き出した。

 赤茶けた峠にぽつねんと取り残されたミリテリエルは、慌てて走ってその前をふさいだ。

「ザイネリアル、僕たちは一緒に行くんだ。おやつを食べたら遊びに行く約束をしたじゃないか」

 ザイネリアルはびっくりしたように目を白黒させた。

「そうだったっけねえ。でも僕はおやつを食べていないんだ」

「僕だって食べてやしない。なら食べなくたって同じじゃないか」

「うん確かにそうだ」

 ザイネリアルはふと笑った。その笑みがあまりに嬉しそうだったので、ミリテリエルも笑った。

「ミリテリエルのお父様は戦争に行っておられるのだったっけ」

 ザイネリアルが笑いを消して言った。

「大変だねえ。お母様のご病気も早く治るといいのだけれど」

 ミリテリエルは視線を足元に落とした。

 エンデルクランで始まった戦争は長引き、ミリテリエルの父親はそこで部隊を率いて戦っている。泥の中で長衣を引きずり回すような戦いだ、と一ヶ月前に従軍記者が革命新聞に記した。母親は胸の病気で長い間臥せっていたが、一週間前にジェッセ市の病院に入院した。エンデルクランもジェッセもミリテリエルの家からは汽車で四日以上かかる距離にある。

 ミリテリエルはうつむいたまま何を言っていいのかわからなかった。

「ミリテリエルはどう思う、町にミリテリエルのお家の人がいなくて良かったと思うかい」

 ザイネリアルが町を眺めながら訊いた。

 ミリテリエルは靴を見つめたまま、ザイネリアルはどうしてそんなことを訊くのだろうかと思った。良かったと思わないはずがない。けれどそれを喜ぶことは、火災に襲われた町の不幸を喜ぶことだ。そして父の出征と母の病気を喜ぶことでもあるように思える。

「良かったと思うだろうね。だってそれが当たり前だもの」

「僕にはわからないよ」

 ミリテリエルは靴に視線を落としたまま言った。

「僕のお父さんはエンデルクランにいる。お母さんはジェッセにいる。お父さんもお母さんもいない町で火事の火が燃えている。お父さんもお母さんもこの火事に遭った心配はない。けれどそれはいいことだろうか。僕の家族が散り散りになっていることはいいことだろうか。お父さんもお母さんも大変な思いをしていることがいいことだろうか。僕の家族が無事だからといって、イェギノラウルやマリエスタや、たくさんの町の人たちが恐ろしい思いをしているのに、僕は喜ぶべきなんだろうか。僕にはわからないよ、ザイネリアル。僕には何がいいことで何が悪いことなのかわからない」

 ミリテリエルは早口に言い終えた。言いながら、きっとザイネリアルは一人で行ってしまうだろう、僕に愛想を尽かしただろうと考えていた。

 ザイネリアルは赤い不毛の丘の上で考えに沈んでいるようだった。

 光の加減か、ぴんと張りつめた弓の弦のようなザイネリアルの輪郭の上に、暗い影が漂っている。それをミリテリエルは不安な気持ちで眺めた。

 ザイネリアルの表情には極寒の北極を往く修道士のような苦悩が現れていた。この瞬間のザイネリアルはまるで極地の冷たい風そのものに見えた。

「いいことって何だろうか。悪いことって何だろうか。わからない。僕にも全くわからない」

 ザイネリアルはそう呟いた。空を仰ぎ、そこに浮かぶ煙と雲のグロテスクな絵図に見入った。

「オドジェッツ先生なら答えてくださるだろうか」

 ザイネリアルが言い、ミリテリエルは首を横に振った。

「かもしれない。けれどあそこは僕らの帰るべき場所じゃない」

 ミリテリエルは学校のある野原の方角へ目を移した。

 鐘の音はもう聴こえず、人影も見えなかった。草の黄色い屍の上にひっそりとたたずむ校舎は、どこか駅のホームに置き忘れられた荷物のように見える。

「僕らはどこに行くべきなんだろう。僕らに帰るべき場所なんてあるんだろうか」

 ミリテリエルはそう声に出さないではいられなかった。形容しがたい淋しさの大波が胸に押し寄せ、冷たい秋の空気は目にしみて、たまらなく泣きたかったが、懸命にこらえた。

「もう少しで日が暮れる。さあ、行くんだ。帰るべき場所を探しに。いるべき場所を探して」

 ザイネリアルが空を見上げたまま言った。

 空の色は薄い飴色に変わり、流れる雲はほのかな黄色に光っている。

 夕暮れが近づいていた。

 ザイネリアルはミリテリエルに向かってうなずきかけた。

「探しに行こう。僕たちで一緒に」

「そうだ、探しにいこう。僕らは一緒に行こう」

 ミリテリエルは証を立てるように大きな声で言った。どうしてもザイネリアルの顔にかかる影が気になった。

 二人は町と学校を結ぶ小道から離れ、赤い丘をずっと下って行った。

2

「ああ、遠くからですね」
―――鳥捕り 銀河鉄道の夜

 太陽の没落に沿って進んだ。丘を下り、川を渡り、山を登り、森を回り二人は進んだ。大きな火山岩の岩盤を細く穿ってちろちろ流れる湧き水でザイネリアルは唇を湿らせた。ミリテリエルはそれを眺めていた。それからザイネリアルはまた歩き出し、ミリテリエルも歩き出した。道は時に消え、時に現れ、密生した草むらはたびたび足を濡らしたが、ミリテリエルとザイネリアルは顔を見合わせて笑った。笑みは常に続いた。世界は暗さを増しながら明暗境界線へ落下しつつあった。

 深い森の中に続く道が現れた。

 ザイネリアルは迷うことなく森へ入った。ミリテリエルもそれに続いた。

「大きな木だね」

 ミリテリエルは頭上を取り巻く木々の冠を仰いだ。

 ザイネリアルは真っ直ぐに前を向いて歩いていた。

「大きな木だ。本当に大きな木ばっかりだ」

 ミリテリエルは木々をきょろきょろ見回して言った。

「僕はなんだか怖い」

 道に降り積もった落ち葉を踏む足音はかさかさ聞こえた。分厚い落ち葉の層の下には、大地の中心に向かって静かに沈降してゆこうとする黒ずんだ柔らかい土の感触があった。

「この森にあるものは何だろう」

 ザイネリアルが前を向いたまま言った。

「この森には何かがある。一本一本の木も確かに大きいけれど、そんな見せかけの大きさじゃない何かがある。本当に大きい何かがこの森を覆っているような気がする。その何かって何だろう」

 道は緩い上り坂になった。

 ミリテリエルは森の奥に大きなブナの巨樹を見かけた。信じられないほど大きな木だった。ごつごつした黒い幹には昏い風が蠢き、どどうごうと耳鳴りのような音を響かせてミリテリエルの頭を引っ張ろうとするようだった。ミリテリエルは慌ててブナから目をそらした。

 斜面に生えているにもかかわらず、進むにつれ木々の頭はますます高まった。

「その何かは僕には怖い」

 ミリテリエルは言った。

 ザイネリアルは前方を見据えたままひたむきに歩を進めている。

「この木々は静かだ。静けさというのは死と同じだろうか」

 ザイネリアルの言葉にミリテリエルはぞくぞくするような寒気を背中に感じた。

「木だって生きているんだってオドジェッツ先生は仰っていたんだけど」

「僕が言っているのは死についてであって生についてじゃない。先生は生についてはたくさんしゃべっておられたけど、死についてはほとんど何もご存知じゃないようだった」

「死について知っている人なんているだろうか」

 ミリテリエルの問いに、ザイネリアルは深く考えに沈む様子だった。

 林冠の上から斜めに差し込む赤い光がザイネリアルの横顔に当たっている。その蒼白さに、ミリテリエルは胸を締めつけられるような思いがした。

 ミリテリエルとザイネリアルはしばらく黙ったまま道を歩いた。さくざくさくざくという二つの足音だけが重なり合った。

 巨樹の森は静かで、夕暮れは木々の腕の下では黒かった。一羽の鳥の声も聴こえず、一匹の羽虫も飛んでいなかった。静けさの中に落ち葉の衣擦れのみが残されていた。

 この森はどれだけ古いんだろうか。

 ミリテリエルは落ち葉を踏む自分の足音だけを聞きながらぼんやりと考えていた。

 一本一本の木は、いったいどれだけ長い歳月をそこに立ったまま過ごしてきたのだろう。そしてこれからどれだけの歳月を経て枯れてゆくのだろう。こんな静寂に包まれたまま。

 静けさというのは死と同じだろうか。

 ザイネリアルはそう言った。

 もしそれが正しいなら、これらの木々は死に包まれたまま生き、死の中で枯れてゆくのだということになる。一本の木は死を認識するのだろうか。一人の人間と同じように。

 道が森を抜けた。

 ミリテリエルはそこに立ち尽くした。

 遠くに蒼穹柱が見えた。

 暗い緑の芝に覆われた山腹が描く曲線の頂点に、蒼穹の塔がそびえていた。夕闇の中心と繋がっているのではないかと思われるほどそれは高く、青く、深く、そして清冽に輝いていた。

 西から押し寄せる茜色の風がミリテリエルの身体をあおった。風に乗って不思議な音色の歌声がミリテリエルの耳をくすぐった。百の作曲家に百のオーケストラを集め、百年練りに練ったとしても編み出せないだろう美しい音楽だった。

 森の縁から眺める蒼穹柱は大地に突き刺さった空の断片だった。

 暗く燃え立つ空と同じ色をした芝を切り裂いて、一本の道が天球の切っ先の根本へ繋がっている。その道の起点に自分が立っているのを知って、ミリテリエルの膝は震えた。

 孤独な背中が道を行く。

 ザイネリアルはもう蒼穹柱への道をたどり始めている。

 烈火の赫と深淵の紫紺に彩られた天空の下に、ザイネリアルはやはりひたむきに前を見据えて歩いてゆく。

 ミリテリエルはゆっくりとザイネリアルを追った。

 はやる心とは裏腹に、踏み出す一足一足が信じられないほどに重く、意のままにならなかった。

 ミリテリエルは緩慢な歩みの途中で何度も蒼穹柱を仰いだ。目を凝らすほどにそれは遠くなり、近くなり、多彩な輝きを帯びるかと思えば全く無色になり、つかみ所がなかった。

 ザイネリアルの背中に追いつくのに何時間かかっただろうか。ミリテリエルにとってそれは無限の長さであるようにも、わずか一瞬のことであるようにも感じられた。

 ザイネリアルに追いついた時、ミリテリエルは爽やかな喜びを見出した。

 時間の長さなんてどうでもいいことだ。

 ミリテリエルは立ち止まったザイネリアルに肩を並べながら思った。

 今僕はザイネリアルの隣にいる。それが大事なことだ。一切のことを抜きにして、それが一番大切なことだ。

 ミリテリエルは来た道を振り返ろうとはしなかった。目の前には蒼穹柱があり、頭上には壮絶な夕焼けがあり、隣にはザイネリアルがいた。それ以外に何が必要だったろう。

 ザイネリアルとミリテリエルは蒼穹柱の前に立ち、夕風に髪の毛を掻き乱されながらしばらくそうしていた。

 東から夜の匂いを乗せた雲が走り、西からは狂おしく燃える風が押し寄せる。それら闇と光の分水嶺に蒼穹柱は立ち、太陽が間歇泉のように強烈な矢を地平の際から射るたびに、微妙に表面を震わせてりぃんきぃんと歌うのだった。放たれた歌声は草地を渡り森を越え、どこまでも響いていく。それはいつしか音ではない音となって町を駆け、国を満たし、やがて世界を覆うのだろうとミリテリエルは思った。

「綺麗だね」

 ザイネリアルが言った。

 そうだねとミリテリエルは答えた。でもザイネリアルは何のことを言ったのだろう。

「僕は自分が嫌だ」

 ザイネリアルが独り言のように呟いた。

 ミリテリエルにはそれが聞こえた。だとすれば黙っているべきではなかった。

 それなのにミリテリエルは黙っていた。それは明らかに正しいことではなかった。しかし、そうだとしてもミリテリエルに何が言えただろうか。

「僕には世界に居場所がない」

 ザイネリアルは小さな声で夕景に向かって語りかける。

「僕の居場所はどこにあるだろうか。それともそんなものはそもそもどこにもないのだろうか」

「世界が無意味だという人は大勢いる」

 おずおずとミリテリエルは言った。

 ザイネリアルが自分の顔を見るのがわかって、頬を赤らめながらミリテリエルは続けた。

「詩人のブラーギが遺した詩の中にもそんなのがある。暗い詩だけど優れた詩だ。僕は嫌いじゃない。でも、暗い主題の詩よりも明るい詩を書いているブラーギの方が楽しそうに僕には思える。そして、前者よりも後者の方に素晴らしい詩は多い」

「ミリテリエルはブラーギが好きなんだね」

 ザイネリアルは微笑んだ。酷寒の雪原に消えゆく陽光のような微笑だった。

 ミリテリエルは少し胸を張って答えた。

「うん、僕はブラーギが好きだ」

「去年、彼の詩に二曲つけたね」

「そうだったろうか。一曲だけだったような気がするけど」

「いや、二曲だよ。僕は両方聴いて大変気に入った。でも先生が片方の曲を削られたんだ」

 ミリテリエルは恥ずかしくなって夕焼けの方に半歩進み出た。

「先生が削られたのは正しいんだ、ザイネリアル。先生のお話をうかがって僕もわかった。僕は自分では理解できないことを曲にしようとしていたんだ」

「なぜ理解できないことを作品にしてはいけないんだろう。詩でも曲でも、優れたものを残した人たちはみんな、自分が何を書いているのか書こうとしているのか、完璧に理解していただろうか」

 ザイネリアルの言葉に、ミリテリエルは掌をぎゅっと握りしめたまま動けなかった。

 ミリテリエルの背中へザイネリアルの言葉は続く。

「僕は、先生がミリテリエルの曲を削られたのは、主題が難しいからとかやさしいからとか、そういった理由ではないと思う。ドの音を知らなくてもシの音を出すことはできるけれど、演奏と演じることとの違いを知らなければ音楽は理解できない。それを理解できなければ音楽は不可能だ。しかしその差異を知らない相手に演奏だけを音楽だとして押しつけることはできる。そうするのは楽だし、相手を機械的な運動に縛りつけておければ、とても便利だ。支配するためにはね」

 ミリテリエルの目に夕焼けの空は鮮やかで、蒼穹柱は強烈だった。その鮮烈な対照に、目頭が熱くなるのを感じた。

「僕は音楽をそんな風に考えたことはない」

「音楽に限ったことじゃないよ。音楽は一例だ。僕は生きることについて考えている」

「それならなおさら難しい」

「そう、確かにそれは難しいんだ」

 ザイネリアルが半歩進んでミリテリエルの隣に立った。

「ミリテリエル、君はさっき、世界が無意味だという人は大勢いると言ったね」

 ザイネリアルは心をどこか遠くにやってしまったような、身体のどこかにぽっかりと穴の開いた人のような口調で言った。

「僕はそうじゃないんだ。世界が僕にとって無意味なのではなくて、僕が世界にとって無意味なんだ。僕が自分を嫌なのは、僕が世界を無意味だと見なすからではなくて、世界にとって無意味な僕だから嫌なんだ」

 こんなに美しい風景に包まれているのに、こんなに爽やかな風を浴びているのに、こんなに美しい音を聴いているのに、どうして僕らは孤独なんだろうとミリテリエルは思った。どうして僕らはこんなにも世界から隔絶されて立ち尽くしているのだろう。

「ザイネリアルは独りぼっちじゃないよ」

 ミリテリエルは勇気を出してそう言った。だがザイネリアルの視線を感じると、すぐにその勇気は萎えしぼんでしまう。

「だって、ザイネリアルにはお母さんとお父さんがいらっしゃるじゃないか」

 僕が言いたいのはこんなことじゃない。けれど自分の心の中にあることを言葉にして取り出すのはとても難しい。

 ミリテリエルは暗澹たる気分になりながらザイネリアルを盗み見た。

 ザイネリアルは寂しげな笑みを頬に浮かべて、鮮やかな赤と深い青に明滅する空を見上げていた。

「僕は申し訳なく思う」

 ザイネリアルの声は悲しい響きを帯びていた。

「僕は母も父も裏切った」

 ミリテリエルの心を満たしていた美しい夕焼けへの感動が掻き消えた。ミリテリエルは驚いてザイネリアルを見た。

「父も母も僕がこんな風な人間になるとは期待していなかっただろう。でも僕はこうなってしまった。僕は両親を裏切った」

 ザイネリアルが抱える苦しみの大きさは、その口調を通し、その表情を通し、どうしようもなくミリテリエルに伝わってきた。ミリテリエルはザイネリアルの苦悩の一端を心の中に握り締めたまま、とても悲しい気持ちでザイネリアルの顔を見つめていた。

「僕はどのように生きるのが正しかったろう。どうしたら善く生きることができたろう。でも、ああ!正しいことって何だろう。善いことって何だろう。僕にはそれがわからない」

 ザイネリアルは空を見上げたままで言った。

 ミリテリエルが何か言おうと口を開きかけた時、周囲の風景が揺れた。

 町の百貨店でエレベーターに乗る時に感じるような、世界がぐにゃりと歪む感覚があった。

 そしてその一瞬後にはもう、二人は日没に燃える蒼穹柱の原から冷たい闇に沈む石造りの大きな建物の中にいるのだった。

 軽い乗り物酔いに近い眩暈に少しくらくらしながら、ミリテリエルは辺りを見回した。

 そこは重そうな石を何千何万と積み上げて造ったに違いない大広間で、目の高さにある壁は暗がりの中でずっと遠くの四方にぼうっと浮かんでいるけれども、そこから上は漆黒の闇にとっぷりと塗り込められて、天井までどれくらいの高さがあるのかはもちろん、いったい天井そのものがあるのかないのかさえ、うかがい知れなかった。

「闇が滝のようだね」

 ザイネリアルが言った。

 ミリテリエルはザイネリアルの視線を追ったが、その言葉の意味はわからなかった。

 ザイネリアルはミリテリエルの不思議そうな様子にちょっと笑った。

「ここには闇以外何もない。何もないから闇の動きがわかるような気がする。ほら、ずっと上から闇の粒が降ってくる。闇は上から降ってきて下に溜まっていくんだ。光がそれを焼き尽くしてしまうまで」

 ミリテリエルは頭上に目を凝らしたが、黒い油絵の具で塗り固めたような一色の空間には何の動きも感じられなかった。

「僕、何となくここが好きだ」

 ザイネリアルは舞台の上で俳優がするように両腕を広げて言った。

 雨を浴びる人みたいだとミリテリエルは思った。そしてその瞬間、自分の腕といわず肩といわず、全身に落ちてくる無数の微細な闇の粒を感じた。闇の粒は黒色で固く、つややかで柔らかく、透明で光のように優しかった。

「この闇は特に暗いね。でもとても暖かい。そんな感じがする」

 ミリテリエルは降りしきる闇の粒子をすくおうと、お椀型に丸めた掌を差し出した。

 闇はふわりふわりと掌に落ちたかと思うとすうっと消え、また手の甲の下に現れて落ち続けた。それは終わることのない旅路を往く者の無言の背中を思わせ、ミリテリエルは暗い雨の中に突き出した自分の手を寂しい気分で眺めた。自分の空っぽの掌を。

 闇の旅はどれくらい続くのだろう。光がそれを焼き尽くすまで、とザイネリアルは言った。だけどそれで闇は死んでしまうのだろうか。こんなに暖かく、こんなに優しい闇を、光は殺してしまうのだろうか。光にそんな権利があるだろうか。

「ねえ、ザイネリアル」

 ミリテリエルは闇の粒子の滝を一身に浴びて彫像のようにたたずんでいるザイネリアルに呼びかけた。

「闇はどこへ行くんだろう。そして闇はどこから来たんだろう」

「僕もそれを考えていたんだ」

 ザイネリアルは思慮深い瞳でミリテリエルを振り返った。

「どちらの問いがより大切だろうか。闇が来し方と、行く末と」

 ミリテリエルは自分の指を透過して流れ落ちてゆく闇の粒を見つめた。

 闇は降る。それはどうしようもないことだ。闇は生まれ、生まれたがゆえに降る。ちょうど光が降るのと同じように。それはどうしようもなく不可逆な過程なのだ。

 なぜあなたは生まれたのですかと問うても、闇は答えてはくれないだろう。生まれたがゆえにあるのであって、あるがゆえに生まれたのではない。

 ならば行く末こそが求められるべきだ。

 ミリテリエルが決然とした眼差しを向けると、ザイネリアルは大きくうなずいた。

「僕もそう思う。何かがここにある、冒しがたくここにある、そのある、ということの理由を決定するのは、それがどこから来たかではなくて、どこへ行くのかによるのではないだろうか」

 ザイネリアルの言葉は力強く確信に満ちていた。

 でも、とミリテリエルは思った。

 闇の旅は長い。その旅は僕らの道と重なるのだろうか。僕らにそれを追うことができるのだろうか。

 ミリテリエルは辺りを取り囲む闇の帳に目を向けた。

 不思議と闇の表情が読み取れるような気がした。この闇は暗い。けれど暖かい。そしてとても孤独だ。

 ザイネリアルは無言で立ち、その目は深い色合いを帯びて計り知れない。

 僕は行こう。

 ミリテリエルは心の中に固く誓った。闇の旅路をどこまでも行こう。その果てを見届けるまで歩き続けよう。

 暗黒の大伽藍に靴音が響いた。

 二人の少年は物思いから覚まされてはっと身を固くした。

 その靴音は固く凍った土を叩くように重く、それでいて雲を踏むように軽やかに聞こえた。

 ミリテリエルとザイネリアルは短く視線を交わした。その簡潔だが緊張した動作の中に、ミリテリエルはザイネリアルが脅えていないのを見て取った。

「その通り。脅える必要はないよ子供たち」

 白くぼんやりと輝く衣装をまとった人影が、闇の雨をくぐって二人の前に現れた。

「こんばんは、この夕暮れは特に冷えるね」

 ミリテリエルは目をこすった。

 白く光る絹のような生地に銀と灰色の糸で刺繍を施した立派な長衣の上には、そこにあるはずの顔がなかった。

「あなたには顔がありません」

 ミリテリエルは思わずそう言ってしまい、ザイネリアルの笑いを誘った。

「顔はあるじゃないか。よく見てごらんよ」

 ザイネリアルはくすくす笑う。

 ミリテリエルはちょっと赤くなりながらも、闇の中に目を凝らした。

 しばらく見つめていると、蛍の火よりも微かな輝きを放つ長衣の上に、ぼうっと黒い輪郭が浮かび上がってきた。

 その顔には闇があった。

「あなたはどなたですか」

 ミリテリエルはそう訊かずにはいられなかった。

「失礼だよ。それを訊く前にまず僕たちが名乗らなくては」

 ザイネリアルがたしなめたが、闇を持つ人は朗らかに笑った。

「いや、果たして相手が何者かを知らずに自分が誰かを知ることができるだろうか。私はそれはとても難しいことだと思うよ。そして自分を知らなければ名乗ることもできまいとね。さて」

 その人はつかの間記憶を探るように沈黙した。

 そして次に口を開いた時、その顔の闇はすっかり晴れていた。

「私はセラトスリウム。始まりと終わりを見る者だ」

 年老いた研究者は物静かだが温かい微笑を浮かべて、ミリテリエルにうなずいて見せた。

「無理に名乗る必要はない、それはこれから時間をかけて掴んでゆけばいいのだから」

 セラトスリウムは長衣の裾を翻すと歩き出した。

「ついておいで。少しの間だが一緒に歩けるだろう。この道は特に昏いからね」

 ミリテリエルとザイネリアルは躊躇なくその後を追いかけた。

 僕はこの人について何も知らないのに、とミリテリエルは思った。どうして僕らは疑いもなくこの人の後ろを歩いているんだろう。

 しかし実際には、始まりと終わりを見る者という言葉だけが、セラトスリウムについて知るべきことの全てだった。それ以上セラトスリウムを語ることは不必要だった。ミリテリエルはそれを知っていた。もしくは、自分がそう知っていることを知っていた。たとえ、始まりと終わりを見る者としてのセラトスリウムがセラトスリウムの断片に過ぎず、セラトスリウムの背景にはミリテリエルに対して語り尽くされえぬセラトスリウムが存在しているにせよ、ミリテリエルはそれを知りたいとは思わなかった。それを知りたいという望みは不遜であり、不吉だった。

 セラトスリウムは足早に歩く。だがこの老人は一歩先も見えないような暗がりの中でも道を誤ることがなかった。

「あれをご覧」

 セラトスリウムが指差した。その方角には小さな明かりが幾つも揺れている。

「冬に造るかまくらの灯りみたいですね」

 ザイネリアルが感想を口にした。

 例年大雪が降る星送りの祝祭の前後に、子どもたちはかんじきを履いて野原にかまくらを造る。それはもうたくさん造る。手を血よりも真っ赤に染めてたくさん造る。夕方になって原っぱがこんもり盛り上がった雪の小山で一杯になると、大人たちが蝋燭と熱い食べ物に飲み物を持ってやって来る。そしてその晩はかまくらの中で食べ、飲み、歌い、笑う。夜目にも白一色に輝く野原のあちこちにぽかりぽかりと黄色い明かりが灯り、歌声と笑い声がどこからともなく流れてくる情景はとても楽しく暖かだ。

 僕は去年はマリエスタのお家の人と一緒に食べた。そしてその後丘に登って野原を眺めた。あの時見下ろした光景と、今目の前にある灯りの様子はとても似ている。でも決定的に違うことがある。

「あそこで誰かが泣いているのですか」

 ミリテリエルは微かな空気の震えを感じ取ってセラトスリウムに尋ねた。遠くに見えるあれらの明かりはとても悲しかった。ほのかに明滅するかまくらの明かりを満たしていた幸福と喜びはそこにはなかった。

 セラトスリウムは明かりの方へは行かずに道を変えた。そしてミリテリエルを振り返った。

「泣いておるよ。誰もが泣いておる。やむをえんことだ。今日は悼むべき日だ。涙を流すべき日だ」

「なぜでしょうか。泣いて何になるでしょう」

 ザイネリアルが言った。ミリテリエルはどきりとした。

 セラトスリウムは注意深い視線をザイネリアルに注いだ。

 ザイネリアルはセラトスリウムと同じ歩調で歩きながら、遥か遠方の闇に浮かぶ悲嘆にくれる明かりを眺めている。

「確かに君は泣いていないね」

「僕は泣く必要を感じないのです」

「泣くことは無意味かな」

「僕にとって無価値です」

「そうだろうね」

 セラトスリウムはうなずいた。

「僕は病んでいるのでしょうか」

 ザイネリアルの言葉は乾いていた。

 セラトスリウムの衣の裾が闇の微風にそよいでいる。

「終わりを前にして涙を流さないことは病でしょうか」

 ザイネリアルはセラトスリウムを仰いだ。その目の中にとても切実な光を見たように思ったのは気のせいだろうか。

 セラトスリウムはきびきびした歩調を緩めずに言った。

「涙は無価値ではなかったのかね」

「僕にとってはそうです。でも他の人たちは泣いています。その違いが僕を苦しめるのです」

「彼らはなぜ泣いているのかな」

「世界の終わりがきたからです」

「ふむ。だが我々はまだこうして固い石の床を踏みしめて歩いておるよ」

「世界の終わりは彼らの外にではなく、内側にやってきたのです」

「しかし君にとってはそうではない」

「ええ、そうです。僕はその死によって世界の終わりがもたらされるものを彼らと共有してはいませんでした」

 セラトスリウムは微笑んだ。

「答えはもうでているようだね」

 ザイネリアルはどちらかというとぽかんとしてセラトスリウムを見上げた。

「僕にはわかりません」

「気づいていないだけだ。後は深く掘り下げてゆくだけさ」

「僕が泣かないのは正しいことなのですか。それともそうではないのですか。僕はその答えが知りたいのです。本当に本当に知りたいのです」

 ザイネリアルは言い募ったが、セラトスリウムは優しく笑うだけでそれには答えず、ミリテリエルに視線を向けた。

「さて、泣いていない人間といえばもう一人いるようだが」

「僕が泣いていないのはザイネリアルとはちょっと理由が違うんです」

 ミリテリエルは百万哩の深さの海底さえも見通すようなセラトスリウムの目を前に、どぎまぎして言った。

「僕が泣かなくても多くの人が泣いています。これだけ多くの人に悼まれるなら、その死は幸福なのではないでしょうか」

「だから君は泣かないのだね」

「僕は誰にも悼まれないような死のために泣きたいと思います」

「誰にも悼まれない死だと。さて、そんなものがあるだろうか」

「セラトスリウム、いったい誰が僕の父のために泣いてくれるというのでしょう」

 たまらない気分になってミリテリエルは言った。

「僕の父はエンデルクランでとても恐ろしい戦闘を戦っています。味方さえ震え上がらせるような戦いです。父は月に二通の手紙には戦争のことは何も書いてよこしません。母も何も知りません。けれど僕にはわかります。父の魂が日ごとに細っていくのが。手紙の文面に、文体に、一字一句に、父の中の大切なものがすり減っていくのが見て取れるのです」

 老いた賢者は何も言わない。天空を覆う薄暮の光がその双眸に宿っている。

「先生方は父のことで僕を褒めます。僕の父のエンデルクランでの戦いはとても立派だと。美しいと。でも僕には先生方のお話の大半が聞き取れません。何を仰っているのか理解できないんです。授業の時なら苦もなく理解できる先生方のお話が、父のことになるとまるで習ったこともない外国語を聞いているようになるんです」

 ミリテリエルはうつむいた。蜂蜜のように濃くねっとりした闇が、交互に運ぶ脚の動きを隠している。

「僕の父は間もなく死ぬでしょう」

 ミリテリエルはぼそりと言った。その声はかさかさに乾いていた。

「その時にいったい誰が父のために泣いてくれるでしょうか。先生方は泣いてはくださらないでしょう。人間が魂をすり減らすような行いに身を投じているというのにそれを褒めるような人々が、誰かの死を悼むことができるとは思えませんから。それに、僕はそんな先生方に泣いていただきたいとも思いません」

「だが君のお父さんはまだ死んではいない」

 セラトスリウムが言った。ミリテリエルの耳にその言葉は遠かった。

 闇は降り、三人は歩いた。

 長い直線の石廊を進んだ。道程は平坦で、空気は重かった。

 悲嘆の灯りは背後へと去った。ザイネリアルとセラトスリウムの、あるいはミリテリエルとセラトスリウムの、二つの対話も背後の闇へと置き去られたが、ミリテリエルの心に苦しみは残った。

 作曲のことがふと頭に浮かんだ。次の音楽祭に向けて任されている作曲のことが。

 難しい主題だった。ここ数週間はその解釈との格闘だった。寝る間も惜しんで主題を解きほぐし、曲の構想の中に練り込む作業に没頭した。

 だが今、ミリテリエルはその主題が何であったかを忘れていた。主題などどうでもよかった。曲の構想などどうでもよかった。音楽祭などどうでもよかった。

 旋律だ、と思った。旋律。ヴァイオリンの四つの弦の一本一本が弓と触れ合いその身をわななかせる際に放つ、感じやすく傷つきやすい音の重なり。切り出されたばかりの真っ白な音を拾い集め、遠慮がちな小さな流れにまとめる作業の甘美さ。やがてその儚げな流れが集い合い、巨大な奔流となって押し寄せてくるのを感じる歓喜。

 旋律を探さなければ。自分の内側にある旋律を。それは人間を音楽へ編み直す作業だ。人間という旋律を前に、音楽祭が何の意味を持つだろう。戦争が何の意味を持つだろう。人間に勝る旋律がどこにあるというのだろうか。

 ミリテリエルの抱える陰鬱にその考えはゆっくりと染み込んでいった。

 そのためにセラトスリウムが一枚の鉄扉を前に立ち止まった時、ミリテリエルの表情は少し明るくなっていた。

「共に行けるのはここまでだ」

 セラトスリウムが言った。

 鉄の扉はミリテリエルやザイネリアルでさえ身をかがめてやっと通れるかという小さなものだ。

 ミリテリエルとザイネリアルは立ち止まってセラトスリウムを見上げた。

「善いことと悪いこと。幸と不幸。子どもたちの悩みは深いというのに」

 セラトスリウムは頭を振って嘆息した。

「蝋燭を灯して涙にくれているだけとは、賢人の智慧も落ちぶれたものだ。本来こんな時こそ世界の真理が説かれ、普遍の価値が見出されねばならぬというのに」

「あなたはそうひどくありませんよ」

 ザイネリアルが言った。ミリテリエルもうなずいた。

 セラトスリウムは頬を緩ませた。

「この世を定めるあらゆる真理を修めたと自称しながら、その真理にではなく子どもたちの声に慰めを見出そうとはな」

 そうして闇の中を一陣の風が吹き抜けた後にはもう、始まりと終わりを見る者である老賢者の姿はどこにもなかった。

 ミリテリエルはザイネリアルの顔を見た。ザイネリアルもミリテリエルの顔を見た。

 それから二人はうなずいて、一緒に鉄の扉を押した。

3

「あなたの神さまってどんな神さまですか」
―――青年 銀河鉄道の夜

 足が水に浸る冷たい音がぽちゃぱしゃりと聞こえた。

 紫色に沈む水の世界にいた。傾ぐ体の平衡を取りながら、ミリテリエルの目にしんと静かな水面が見えた。

 重心を失いかけ、ミリテリエルは両腕を横に開いて二、三歩たたらを踏んだ。爪先が薄く張りつめた水の表面を叩くたびに、金管楽器のような硬質で誇り高い音塊が切り出されるようだった。

 どうにか転ばぬように重心を取り戻し、ミリテリエルは脚をそろえて水の上に立った。

 水は寝かせた人差し指を二本重ねた程の深さで、底には継ぎ目のない純白の石板が敷いてある。水は冷たかったが体温を奪う冷たさではなかった。水はミリテリエルの足に触れつつミリテリエルの心に接していた。水の清浄な冷感はミリテリエルの足の神経ではなく心に生じているのだった。

 ミリテリエルはザイネリアルを探した。ザイネリアルはミリテリエルより二歩前に立っていた。

 どこまでも広がる水平線がザイネリアルの孤独な背中の先に見える。夕暮れの水平線だ、とミリテリエルは思った。水の色は暮れなずむ天球をそのまま溶かし込んだような紫色をしている。万色に移ろうその色は、あちらでツルリンドウの実のような紅紫に変じたかと見えると、こちらではクサギの果実の藍色へと転じて、一色に染まることを知らない。

 ミリテリエルが背後を振り返ると、そこにも広大な水平線と夕景が横たわるばかりで、さっき二人がくぐったはずの鉄の扉はどこにも見当たらなかった。

 そこは斜陽と水と白い石板で編み上げられた世界だった。

 ミリテリエルは思い切り背伸びをした。

「荷物は下ろしたかい」

 ザイネリアルが言った。

 ミリテリエルがもの問いたげな視線を向けると、ザイネリアルは微笑んだ。

「僕たちは靴を履いていないね」

 はぐらかすようなザイネリアルの言葉だったが、ミリテリエルは素直にうなずいた。

「確かにそうだ。でも僕はここに来る前に靴を履いていただろうか」

「君はどこから来たんだい」

「丘の上だよ。ザイネリアルも一緒だったじゃないか」

「それなら履いていないのが道理だよ」

 ザイネリアルは言って歩き出した。

 ミリテリエルも小走りにザイネリアルの隣へ並んで歩き始めた。二本の脚が作り出す波紋が水面に交互に広まり、それらはまた互いにぶつかり合って複雑な紋様へ進化しながら八方を囲む水平線へと走っていく。

「ミリテリエルのお母様の話を聞かせてくれないだろうか」

 ザイネリアルがそう言ったのでミリテリエルは少し混乱した。

「お母さんはジェッセにいるよ。でも話せるかどうかわからない。病院の電話は通じないことが多いんだ」

「そうじゃなくてさ」

 ザイネリアルはおかしそうに笑った。

「僕はミリテリエルの口からお母様の話を聞きたいんだよ。お母様ご自身をではなくて、ミリテリエルにとってのお母様を知りたいんだ」

「ザイネリアルがそんなことをどうして知りたいのか、僕には理解できない」

「自分でも、おかしなことを、それももしかしたら失礼にあたるかもしれないことを訊ねていると思う。けれど」

 ザイネリアルは鏡面のように微動だにしない水を見下ろして、言葉の継ぎ穂を探しているようだった。太陽の没落に燃え悶える天蓋がその横顔の鋭い輪郭を彩っている。

「ミリテリエルは言ったね、燃え盛る炎を前にしたあの丘の上で。僕の家族が無事だからといって、たくさんの町の人たちが恐ろしい思いをしているのに、僕は喜ぶべきなんだろうか、と。それは僕には遠い言葉だった」

 ミリテリエルは何も言えなかった。

 一歩ごとに跳ね返る清水の雫がくるぶしを絶え間なく濡らしていた。

「僕には遠い言葉だった」

 ザイネリアルはもう一度溜息と共に吐き出した。

「けれど君にはそれは近い言葉だった。当たり前の言葉だった」

 ミリテリエルはザイネリアルの視線を感じた。ミリテリエルにはザイネリアルにかける言葉はなかった。だからただその視線を受け止めた。

「自分の家族のことを心配するのはわかる。その無事を知って喜ぶのもわかる。本当はそれらでさえ僕にとっては遠いのだけれど、でも理解はすることはできるんだ。教科書に書いてある電子の運動のように。それはとても単純なことだし、それが世界を律しているのだとわかったならば、僕はとても安心できただろう。でも君が問題の軸をひねってしまった。あるいは目には見えないペンを走らせて、二次元の座標軸を三次元のそれに変えてしまった。世界は単純ではなくなってしまった」

「電子の運動はそれだけで世界を支配してはいないし、僕は何もひねってはいないと思うよ」

 ミリテリエルは真面目に言ったつもりだったが、ザイネリアルは微笑んだ。

「そうかもしれないね。でも僕の世界ではこうなんだ」

 何がそうかもしれなくて、ザイネリアルの世界で何がこうであるのかミリテリエルには全くわからなかった。しかしザイネリアルの言葉は異国の言語のように遠くはなかった。ザイネリアルの存在は近かった。それは決定的な違いなのだろうかとミリテリエルは思った。

「僕にとって君の言葉は遠かったんだ、ミリテリエル。でも君にはそれが当たり前の言葉だったとするなら、どうして君はその言葉に近づくことができたのだろう。その言葉に君を近づけた何かがあるはずだ。僕にはなかった何かが」

「それが僕のお母さんだと思うんだね」

 ミリテリエルが言うと、ザイネリアルはうなずいた。

「話してくれるだろうか」

「あまり話すようなことはないよ」

「何でもいいんだ」

 ミリテリエルは母親の印象を思い浮かべた。幾つかの言葉がそこからこぼれ落ちてはきたけれど、それらはとても限定的な働きしか持っていなかった。

「家にいる時は口うるさいよ。宿題をせずに詩集を読んでいるといつも怒られる。音楽はあまり聴かないけれどピアノはよく弾く。ビスケットやパンケーキを焼くのが得意だ」

「それから?」

「ええと、僕が生まれる前から胸の病気を患っていた。特別に悪くなったのは一年前で、すぐに入院しなければならなかったのだけれど、設備の整った病院はジェッセにしかなくて、そこに入ることになった。僕のことを心配して最後まで入院を嫌がったので、しまいにはお父さんが手紙で説得しなければならなかった」

「それから?」

 ミリテリエルは考え込んだ。

「それから、背は僕より頭二つ分高いくらいだ。お父さんよりずっと低い。髪は真っ黒で長くて、とてもいい匂いがする」

「それから?」

「お父さんのことをとても心配している。僕以上にお父さんを気にかけているのじゃないだろうか。それはたぶん、お父さんのことをとても好きだからなんだと思う」

「それから?」

 ミリテリエルは深く考え込んだ。思考の海に深く深く潜り、自分の頭の中にある母親の像に埋没しようとした。もはや手で探るだけではどんな言葉もそこに探し出すことはできなかったから。自分の思考の中に身体を沈め、そこにあるものに直接確かめようとした。それは音楽を創ることに似ていた。

 ミリテリエルはザイネリアルに視線を送った。

 ザイネリアルは同じ調子で問いを重ねた。

「それから?」

「それから、戦争が嫌いだ」

 ザイネリアルは黙った。

 ミリテリエルも黙って歩いた。

 二人が歩いているのは巨大な、途方もなく巨大な水盤だった。地底で石を切り出し世界の部品を加工している酒好きな工芸の神様が寸法を間違えて仕立ててしまったような、世界を丸ごと飲み込んでしまうような白亜の水盤だった。

 足の上げ下げに従って水滴が跳ね、それらは空中で夕光を浴びて見事な宝玉に変じ、再び水面に滑り込んでまた透明な鏡へ戻った。

「僕の家族の話をしなければ」

 ザイネリアルが口を開いたのは、ミリテリエルの一歩によって東方へ走り去った波紋が西方から再び現れ、足元へ駆け寄ってこれるだけの時間が経ってからだった。

「いいんだよ、辛いのなら」

 ミリテリエルはザイネリアルの口調に表れている苦悩を感じて言った。

 ザイネリアルは首を横に振った。

「話さなければならないんだ。僕自身のことを話すために、それはどうしても必要なんだ」

 ザイネリアルの言葉は一つ一つが重そうだった。ミリテリエルはその重みが自分の肩にものしかかってくるのを感じ、それを歓迎した。それでザイネリアルの苦しみが少しでも和らげられるなら、どうしてそれを拒む理由があるだろう。

「僕の両親は毎週教会へ行く。丘の下にある小さな教会じゃなくて、街の中にある大きくてきれいな教会へ。そこでは誰もがきちんとした身なりをしている。神父さんは太っておられるけれど、鼻が酒焼けで真っ赤になっているということはない。丘の下の教会の神父さんのようではないんだ。そして、その教会に通う人たちはみんな立派な人たちだということになっている。彼らは慈善活動に少なくないお金と時間を使う。学校の先生方にもずけずけとものが言える。代議士や偉い役人とも仲がいい。実際、僕も彼らを立派な人たちだと思うよ。でも、それで彼らは本当に幸せなんだろうか。僕にはそのことが疑問なんだ」

 ザイネリアルは長く心を塞いでいた岩を一つ一つ取り去るように、一語一語ゆっくりと慎重にしゃべった。

「ミリテリエル、慈善にお金を使う時、彼らがどんな顔をするか、君には想像できるかい。可哀想な人々と軽食を共にして数時間を費やした後、車の中で彼らがどんな会話をするか、君には想像できるかい。自由な教育、公平な教育、先生方の前でそんなお題目を並べる彼らが、自分の息子を徴兵から逃すためにどんなことをするか、君には想像できるかい。彼らが偉い人たちと月に一度の食事会をもつのがどんな目的のためなのか、君には想像できるかい」

 ザイネリアルの口調は苦々しかった。それはミリテリエルがこれまでの短い人生の中で一度も耳にしたことのない響きを持った声だった。

「全部まやかしなんだ。不断の欺瞞の中で彼らは生きているんだ。嘘で築き上げられた世界なんだよ、彼らが住んでいるのは」

 ザイネリアルは言って、ちょっとだけ唇の端を曲げた。それは乾いていて苦い笑みだった。

「やっぱり僕は三人称を使っているね」

 ザイネリアルは歩きながら身体をかがめ、右手を伸ばして水をすくった。水はすぐにザイネリアルの指の間からこぼれて、夕暮れ色にきらきら輝く光の粒となって宙を舞った。

 ザイネリアルは水がすっかりこぼれてしまった後も掌を長い間見つめていた。

「大人の世界のことを僕は知らない」

 ミリテリエルはザイネリアルに言った。

 ザイネリアルは首を縦に振った。

「僕だって知らない。僕はそこに生きてはいなかった。だからそこでどんな嘘がつかれどんなに汚い行為が行われていようと、僕にそのことをとやかく言う資格はないし、言うつもりもない。そんなことは無駄だ。自分が責任を持たない世界について苦情を言い立てるのは卑怯なことだ。僕が言いたいのは大人は汚いなんてことではないんだ」

 ザイネリアルは水が飛び去った後の濡れた掌を視線の先にかざしたままで続けた。

「彼らはそれで幸せだったのだろうか。僕がわからないのはそのことなんだ」

「幸せ?」

「うん。彼らは貧しい人たちにお金を寄付する。それは神様がそうするように仰ったからだ。でも彼らは神様を信じるからそれをするんじゃない。貧しい人たちを、弱い人たちを愛するからそうするのでもない。見返りを期待してそれをするんだ。彼らは慈善のために費やしたお金の額で天国の門の大きさが決まると信じている。困っている人たちのことなんか本当はどうでもいいんだ。彼らが愛しているのは自分たち自身だけなんだから。天国への階段を登る時、そこを一人しか通れないとなれば彼らは平気でお互いを殺しあうだろう。口々に叫びながらね。俺はお前よりもずっと多くの金を寄付した、だから天国に入る権利があるのは俺だ、俺だけだ!と」

「僕にはそれは辛辣すぎる考えのように思える」

「そうかな」

 ミリテリエルの言葉にザイネリアルは濡れた指先をそっと顎に当てた。

「彼らは」

 ザイネリアルの唇を秋の斜陽に似た笑みが横切った。

「いや、もうやめよう。三人称を使うのは。それが僕の両親のことだというのはわかりきっているのだし、僕がそのことに向きあわなければならないのもまた明らかなのだから」

 ザイネリアルはちらりとミリテリエルの顔を見やった。ミリテリエルの目に秋の影が映った。

「僕の両親が慈善に協力するのはそうしたいと思うからではなく、見返りが欲しいからだ。死後の世界でのね」

「僕にはそれは当然のことに思える。誰でも死ぬのは怖い。死んで地獄に行くのはなお怖い。お金で天国が買えるとは僕も思わないけれど、慈善にお金を寄付することで安心できるのなら、それはそれで構わないのではないだろうか。そのお金で困っている人たちが少しでも助かるのは事実なのだし」

「死後の世界のためにお金を積むのは砂地に水をまくことと同じだ。効果は全く感じられない。それでも善行のためだと自分を納得させてまたお金を寄付する。結果は同じ。手元のお金が消えるだけ。それをえんえんと繰り返すんだ。何年も、何十年も。そして不満だけが溜まっていく。自分だけが損をしているという不快感がね。するとどうなるだろう。憎みだすんだよ。慈善の対象となる人たちを。今月は教会の救貧基金に幾ら寄付した。でも今日大通りですれ違った時、彼らは帽子を取るどころか挨拶もしてこなかった。何ということだ、彼らは金持ちに食わせてもらうのが当たり前だと思っているのだ。私たちが努力して築いた財産を食い潰してやろうと狙っているのだ。そんな風に考え始める。慈善の裏側に、憎しみだけが募っていくことになるんだ」

 ザイネリアルはためらうように話を切った。ミリテリエルはザイネリアルが先を続けないように願った。しかしそれは心からの願いではなかった。ザイネリアルの吐き出す苦しみはとても痛々しい響きを帯びていたけれど、それを口にすることがザイネリアルにとって必要であるなら、どうしてミリテリエルに拒む理由があったろう。

 果てしない水の上にザイネリアルは立ち、ミリテリエルだけがその隣にいた。ザイネリアルの存在は近かった。

「奴隷と同じだ」

 ザイネリアルは短い緊張した沈黙の後で言った。

「表面では喜んで相手に奉仕しているかのように見せかけ、内面ではその相手を憎んでいるなんて、奴隷と同じことだ。そんな状態が幸せであるはずがない」

 ザイネリアルはそこで言葉を切った。切った後に続けることはもうできなかった。

 ザイネリアルは歩いた。ミリテリエルも歩いた。

 暮れなずむ天空が遠くで水面に反射して、宝玉で満たされた溶鉱炉のような茜色の輝きを放っている。

 一対の足が水面を叩く音だけが規則的に続いた。

 旋律、とミリテリエルは思った。世界はありとあらゆる旋律に満ちている。楽者はその無限の旋律の内から一つのかけらを拾い上げ、楽譜の中に移植する。画家が、世界を満たす無限の瞬間の中から一瞬だけを切り取ってキャンバスへ移植するように。

 人間もまた旋律に満たされている。人間は、世界に風が吹くように笑い、霧のように憂鬱に沈み、雷鳴のように狂い、驟雨のように叫び、陽光のように慈しむ。世界を満たす旋律が無限に存在するのと同じく、人間の内にある旋律もまた無限に存在している。

 それが尽きたらどうなるだろう。ミリテリエルは陰鬱に考えた。旋律を失った人間はどうなってしまうのだろう。

「幸せであるはずがないんだ」

 ザイネリアルの肩がミリテリエルから離れた。

 ミリテリエルは足を止めた。

 ミリテリエルの後ろに立ってザイネリアルは言った。

「神様は奴隷を作った。神様は信者を全て奴隷へと変えてしまった。建前に愛があり、本音には憎しみがある。そんな教義に幸福があるはずがない。僕の両親は不幸だった。それは蔑むべき不幸だった」

 中心に来た、とミリテリエルは思った。途方もなく巨大な水盤世界の中心へ。

 ザイネリアルの隣に炎が見えた。

 それは凍りついた炎、盛大に燃えながらわずかな温もりさえ発しない炎だった。

 大人二人分の背丈と同じ高さのその篝火は、紫水晶の塊の中に閉じ込められている。あるいは炎そのものが紫水晶なのか。

 周囲はしんと静まり返り、凍った炎はザイネリアルの肩の上でぴくりとも動かない。

 ザイネリアルは一歩だけ歩み寄ると滑らかで冷たい紫水晶の表面に右手を触れた。

「誰かが不幸から救ってあげなければ」

 ザイネリアルの口から漏れる言葉の不吉さに、ミリテリエルの心臓は凍りついた。

「神様がそれをしないのなら、誰かが救ってあげなければならなかった」

 ああ、とミリテリエルは心の中で嘆息した。

 なぜこの場所が水盤世界の中心だとわかったのだろう。どこまで歩いても四方を一直線の水平線が取り囲むこの世界で。

 この場所は水盤世界の中心ではないかもしれず、それどころか水盤世界の最果てに位置しているのかもしれなかった。自分が立っているのが世界の中心ではないかもしれないという考えは、どこか空恐ろしく感じられた。世界の中心にいるのが自分ではないという考えは。

 水音が響いた。

 世界がぐらりと揺らぐ一瞬、ミリテリエルはその音が自分の足が水面から抜ける音だと気づいた。

 周囲の光景が歪んだ。

 ミリテリエルは襲いくる違和感に左手で額を押さえて耐えた。

 目は閉じなかった。

 わずかな間があって再構成が始まった。

 ミリテリエルが再び立っているのはもはや水盤世界ではなかった。頭上には濃密な闇があり、足元には乾いていて堅い花崗岩の石畳があった。左手には石壁が連なり、それはミリテリエルの視線の先で右側の暗闇の中へ緩やかな曲線を描いて消え、背後でまた現れていた。

 円柱のような構造物の内部にミリテリエルは立っているのだった。そして足元の石畳は螺旋階段を形作って遥か下方へ、闇が降ってゆく先へと続いている。

「この道も間もなく終わる」

 ザイネリアルが言うのが聞こえた。

 ミリテリエルがその声の方向を目で追うと、ザイネリアルは螺旋階段を五段下った場所にいた。

「先へ進もう。闇の行く末へ進もう」

 ザイネリアルはミリテリエルへ右手を差し伸べた。

 しかしミリテリエルはザイネリアルの手を前にして動かなかった。

「ザイネリアル」

 ミリテリエルの声は震えていた。

 ザイネリアルの表情が翳った。闇に包まれていてもミリテリエルにはそれがわかった。なぜならザイネリアルの存在は近かったからだ。ザイネリアルは苦悩を抱えていた。そしてミリテリエルもまた耐えがたい苦しみを感じていた。

「町に火を放ったのは、ザイネリアルだね」

 道の起点に立って、老セラトスリウムは何と言ったのだったか。

 この道は特に昏いからね。

 昏過ぎます、とミリテリエルは呟いた。生きることは昏過ぎます、何の明かりもない長く冷たい道程を僕たちは足を引きずって歩いています。

 ミリテリエルの目の前に差し伸べられた指先が揺らいだ。

「そうだよ」

 ザイネリアルはぎこちなく笑った。きっと他に作るべき表情を知らないのだ。

「僕がやった」

 短い努力の後、ザイネリアルはいつもの微笑を取り戻した。超然として何事にも動じることのない微笑を。ザイネリアルという人格を常に代表してきた美しい微笑を。

 だがそれは楯だった。

 ミリテリエルは激しい後悔を感じていた。

 この分厚い楯の向こう側に自分の手が届いたことがあっただろうか。一度だってなかった。そうしようとしたことはあっただろうか。一度だってなかった。

 僕はこの微笑を友達にしてきたのだ。ザイネリアルその人をではなく、傷つきやすいザイネリアルを鎧う楯と付き合ってきたのだ。

 僕は馬鹿だった。

 視界がぼやけた。

 ザイネリアルの輪郭が滲み、闇へと溶け込んでいく。乾いていない画用紙に垂らされた水彩絵の具の雫が周囲の色へ流れ出していくように。

 自分が泣いていることも知らぬまま、ミリテリエルは力を失って壁に倒れかかった。

 ミリテリエルの身体が石にぶつかる軽い音を聞きながら、ザイネリアルは微笑していた。

 友は、かつての友は、滂沱の涙とともにその場を動かない。

 ミリテリエルの目に自分の姿が映っているかはもはや定かではなかったが、ザイネリアルは微笑を崩せなかった。

 ミリテリエルが感じているのが怒りであれ憎しみであれ、どうでもよかった。蔑まれても構わないと思った。それだけのことを自分はしたのだから。

 けれどかつて一度でも自分の手を取ってくれたことがある相手に、みっともない姿を見せるわけにはいかなかった。

 だから笑った。笑うしかなかった。他の表情は知らなかったし、もし他の表情を装おうとすれば泣いてしまうに違いなかったからだ。

 ザイネリアルは伸ばしていた腕を下ろした。たちまち降り積もる闇がザイネリアルとミリテリエルの間を閉ざした。

 ザイネリアルは身体の向きをゆっくりと変えた。

 階段は、円柱状に組まれた石壁にしがみつくように心許なく、下へ下へと螺旋を描いて続いている。

 覚悟はしていたことだった。しかし独りぼっちで対峙する闇はどこか虚ろで、寒々しく感じられた。

 自分では気づいていなかったが、ザイネリアルはこの時初めて闇を怖れていた。正確には闇に反響する自身の孤独を。

 ザイネリアルは階段を下り始めた。

 一段下り、二段下った。三段目に足をかけ、ザイネリアルはこの先に続く何百万、何千万という段数に思いを巡らせた。それは気の遠くなるような道程だった。

 ザイネリアルの足が知らず知らず螺旋階段が取り囲む中央部の吹き抜けに近寄っていく。

 もとより完遂できる見込みはない旅だった。

 傾きゆく世界の中で、ザイネリアルは疑問に思っていた。

 どうしてできると信じたのだろう。与えられた生さえまっとうできなかった僕に、闇の行く末を見届けることが可能だなどと。

 ザイネリアルの脚の筋肉がたわむ。最後の跳躍に備えて。

 吹き抜けの底の奈落へ向けて石段を蹴る一瞬、ザイネリアルは自分の目を覆っていた靄が晴れるのを感じる。

 あらゆる記憶が蘇える。そして、自分が今まさに離れようとしている世界の事物が比類ない鮮烈さをもって認識される。

 ザイネリアルの生命に過去が戻りきて現在と溶けあい、その混沌たる渦から未来が生じきたる。三つの時制の混在の中に自己の存在が感取される。それは七月の太陽のように熱く、強烈に輝いている。

 こんなのは汚い。

 ザイネリアルは思う。

 僕はもがいた。世界という海の中で僕は溺れた。這い上がろうとして手がかりを探った僕の手は、決して何ものをも掴むことがなかった。

 僕は世界にとって無意味だった。

 偽善とまやかしの隣人愛、その裏にひねくれた欲望と憎悪を養っている奴隷の道徳で満たされた海に僕は沈んでいった。

 目蓋の裏に、炎の影が躍る。それは罪の影、背後から長く伸びて道の行く手に破滅をもたらすものの影だ。

 世界は僕を必要とはしていなかった。世界は僕に幸福を与えてはくれなかった。だから僕はお終いにした。

 そして今、本当の終わりが訪れようとしている。

 これまで僕は何かを恐れたことはなかった。少なくとも、そう信じてきた。

 でも今は違う。

 僕は怯えている。孤独な終局を恐れている。たった一人で迎える終わりを。

 僕は孤独だ。でも少し前には独りではなかった。独りではないということの意味を真剣に考えたことがあっただろうか。それがどんなに重要なことか、生きるために、いや、ただあるというためにすら、どんなにかけがえのないことなのか、考えたことがあっただろうか。

 今ならわかる。自分が無意味ではなかったということが。自分の存在には価値があったのだということが。

 孤独ではないという理由だけで全ての生には生きられる価値があるのだ。もし孤独な生があっても、それは孤独から脱するために、他の誰かの手を取るために生きられる価値がある。世界にとって無意味な生など存在しない。誰かが自分の手を握り、また自分が誰かの手を握り返すためにこそ生があり、それを取り巻く世界があるのだ。

 でもこんなのは汚い。

 ザイネリアルは暗然として動じない闇の深淵に対して半ば本気で憤りを感じていた。

 こんなのは汚い。なぜ今なんだ。なぜ今でなければならないんだ。全てが終わりを告げようとしている今この時に、なぜ。

 その答えは終局を迎えようとしている現在から生じる未来によって示される。

 ザイネリアルは明瞭な視界に未来をとらえる。

 それが手の形をしていることを、ザイネリアルは不思議に思う。

 未来は大きく広げられた手の形をしている。

 石段をザイネリアルの足が蹴る。千尋の深さの吹き抜けへ向けて、身体が完全に傾きかける。

 だが伸ばされる掌がザイネリアルの左腕を掴む。そのあまりの力強さにザイネリアルは思わず呻く。

 未来が僕の腕を掴んだ。

 つかの間、ザイネリアルは吹き抜けの底をのぞく。孤独で満たされた大きな穴がそこにある。

 未来が腕を引っ張る。

 左腕から肩にかけて走る強烈な痛みに顔をしかめながら、ザイネリアルは身体をそらせて吹き抜けから逃れる。

 引きずり上げられた反動で、ザイネリアルは石壁にしたたかに叩きつけられる。

 頭を打ちつけた衝撃と激痛に意識が朦朧とするが、視界の明瞭さは少しも損なわれない。

 未来がザイネリアルをのぞき込んでいる。

 ザイネリアルはその顔に向けて微笑みかける。

 その微笑は以前のようではなかった。楯は割れ、吹き抜けの底に失われたのだ。

「どうして、僕を」

 ザイネリアルは細い声で訊ねる。上半身を強くぶつけた後ですぐに堂々としゃべれるほど花崗岩は軟らかい物質ではない。

 未来は、つまり深淵からザイネリアルの魂を救い上げた掌であるところのミリテリエルは、ザイネリアルの前にひざまずいて問いに答えた。

「僕は馬鹿だった」

 ミリテリエルはザイネリアルの両肩を掴んだ。

「でも君はもっと馬鹿だった」

 ザイネリアルはミリテリエルの両手が帯びている熱に驚く。

「それなのに一人で悩みを溜め込むなんて。一人でそれを解決しようとするなんて。馬鹿のくせに。馬鹿のくせに。馬鹿のくせに」

 ミリテリエルはザイネリアルの肩を掴んで揺さぶる。

 痛む頭を何度となく石壁を叩きつけられても、ザイネリアルは黙ってミリテリエルのなすがままに任せた。

「僕を置いていくな!一人で行こうとするな!約束したじゃないか、赤い丘で、闇の降る石の広間で、一緒に行こうと。僕は馬鹿だ。君も馬鹿だ。だからどちらも独りでは歩けないんだ」

 ザイネリアルの肩を押さえつけてミリテリエルはうつむいた。前髪で隠された顔から二筋の雫がこぼれ落ちるのが見えた。

 ザイネリアルはミリテリエルの肩越しに闇を仰いだ。

 闇が降っている。

 吹き抜けの縁で足下にのぞいた虚ろな闇が思い出される。そこには虚無があった。虚無とは孤独であり、孤独の内に訪れる終局であり、ザイネリアルの魂が患った病だった。ザイネリアルは自分が土壇場で自分自身の心の闇をのぞいたことに気づいていた。

 闇が降っている。それはもう虚無ではない。闇は温もりを取り戻し、穏やかな優しさに満たされている。

 ザイネリアルは微笑を深くした。

 自分の罪が赦されたわけではないことはわかっている。

 どうして、僕を。

 微笑しながら、ザイネリアルは同じ問いを繰り返した。今度は心の中で。

 僕が馬鹿だからだ。

 ザイネリアルは声を上げて笑いたくなった。けれどその衝動の根本には熱く塩辛い何かがあって、笑い声のつもりで発した声はすぐに奇妙にかすれた音に変わってしまった。

 どうして、僕を。

 ザイネリアルは自分が微笑しながら泣いていることに気づかない。

 僕は本当に馬鹿だった。

「僕たちが友達だからだ」

 ザイネリアルはそう口に出した。

 ミリテリエルは深くうつむいたまま両手に力を込めてザイネリアルの肩を石壁に押しつけた。

「二度と友達を置いていくな」

「置いていくもんか」

 ザイネリアルの微笑を大波のように飲み込んで、涙が襲いかかった。

4

「もう時間だよ」
―――カムパネルラ 銀河鉄道の夜

 階段を下りながらザイネリアルは無言だった。ミリテリエルも沈黙を保った。

 無限とも思える時間をかけて二人は螺旋階段を下った。

 ミリテリエルが四万段まで数えても、階段はなおも単調な渦を幾重にも巻きながら永遠に続くかと思われた。そこでミリテリエルは段数を数えるのをやめてしまった。

 旋律を考えるべき時だった。世界を満たしている旋律の切れ端に手をかけるべき時だった。

 ミリテリエルには曲が形をなしつつあるのが感じられた。その感覚は、これまでに作ったいかなる曲の場合とも違っていた。

 ミリテリエルの手元には微細な手がかりしかなかった。それは頼りなげですぐに消えてしまいそうな数個の音塊の連なりだった。それでもミリテリエルはその連なりが巨大な旋律の一部であることを疑わなかった。ちょうど、考古学者が砂漠の上に突き出した一かけらの歯の化石からその下に埋もれている恐竜の姿を知るように、ミリテリエルは世界という砂漠の中から旋律という化石を切り出すべき鉱脈を見出したのだ。

 ミリテリエルは無言のまま、姿を現しつつある曲に没頭した。自分の足が交互に階段を踏み越えていく機械的な動作はとうに意識の彼方へ去っていた。

 だから石段がいつしか突起のない下り坂に変わっても、すぐにそうとは気づかなかった。

 黙々と歩き続けていたミリテリエルは、ザイネリアルに腕をそっと押さえられてようやく目を醒ました。

「僕は階段を歩いていたはずだけれど」

 そう呟いた声は自分で聞いても寝ぼけているように思われた。

「だいぶ前に通り過ぎたよ。ここは最後の回廊だ」

 ザイネリアルの囁きはミリテリエルの耳朶を強打した。

「最後の?」

 ミリテリエルはちょっと呆然としてザイネリアルの顔を見返した。

 薄蒼い闇明にザイネリアルの輪郭が浮かんでいる。そこには以前感じたような鋭さはなかった。それでもなお双眸にわだかまる翳りは隠しようがなかった。

「最後の回廊だよ」

 ザイネリアルはもう一度囁いてミリテリエルの腕を放した。

 離れていくザイネリアルの横顔を追うミリテリエルの目に、壮大な遠景が映り込んでくる。その凄まじさにミリテリエルは思わず息を呑む。

「最後の回廊」

 ミリテリエルは両脚に力を入れて踏ん張る。そうしなければ自分など消し飛ばされてしまうような圧倒的な光景が広がっている。

「これが最後の回廊」

 悪魔がそこにいた。山さえ一飲みにしようかという巨大な悪魔が。四つ並んだ目をいずれもかっと見開き、めくれ上がった長い唇の間からはきつく食いしばった牙をずらりとのぞかせて、立ちすくむミリテリエルを睨みつけている。その容貌は醜悪な野牛か猪のようにも、あるいは狂い死にする病に犯されて山谷を彷徨う雄山羊のようにも見える。胴体は人間の男の身体のようだが寸法の誤りもはなはだしい。どう考えても聖堂五つ分はありそうな大きさだ。左右に伸びた五本の腕は何かを支えるようにたわめられ、一つ一つが車道ほどの幅をもつ筋肉の繊維が幾筋も浮き上がっている。長い剛毛で覆われた三本の脚は上方からのしかかる重みに懸命に耐えるように踏ん張っている。

 邪悪な顔面をぐいと前方へ突き出して五本の腕を大きく広げた悪鬼の姿の凄まじさにミリテリエルは圧倒されていた。

「悪魔だ」

 ミリテリエルは言った。だがその声に嫌悪はなかった。

「彫刻なんだね」

 その怪物は生きて動いてはいなかった。隆々と盛り上がる筋肉も、くわと剥き出した眼球も、生命の通わぬ閃緑岩の塊だった。

「よくできているね。こんなに恐ろしいものを彫り上げようと考えた人の気持ちはわからないけど、でもきっと素晴らしい腕の匠だったに違いない」

 ミリテリエルは歩み寄って怪物の足を見上げた。ミリテリエルの背では怪物の親指の爪さえずっと上方にある。

「彫刻ではない」

 ザイネリアルが言った。

「かつては動いていた。見かけどおりのものとして」

 ザイネリアルはミリテリエルの隣に来て、悪魔の足の親指の下の曲線に手を当てた。

「じゃあこれは本物の悪魔だったんだね」

「そうだったかもしれない。そうではなかったかもしれない」

 ザイネリアルは閃緑岩の冷たい感触に手をなじませながら目を閉じた。

「世界は蝕まれていると考えた人たちがいた」

 ザイネリアルはそう言って、戸惑うミリテリエルに目を閉じたまま笑いかけた。

「昔話だよ。僕たちがまだ元素も知らなかった時代の話だ」

 ミリテリエルは笑みを返しながら考えた。ザイネリアルが使った一人称の中に自分は含まれているのだろうか。

「人々は考えた。自分たちが生きている世界は大きな樹木のようなものだと。生命を育む自然を太い幹に、世界に満ちている生命を豊かに繁る枝葉に見立てたんだ」

「でも、樹は枯れる」

 ミリテリエルが言うとザイネリアルはうなずいた。

「枯れない樹はない。だから人々はこの世界にもいつか終わりがくると信じた。それどころか終わりは明日にでもやってきかねないとさえ信じた。世界は不断の侵蝕にさらされているのだと考えた」

「どうしてそう考えたのだろう」

 その問いを口にせずとも答えはわかっていた。

「不幸が多過ぎるからだね」

 ミリテリエルは父親のことを思い、母親のことを思い、戦争と死を、病と死を思った。そして、世界が経た歳月の分だけ繰り返されてきたであろう、無数の死と悲しみとを思った。

 確かに不幸が多過ぎた。

 ミリテリエルの前でザイネリアルは閉じていた目を開いた。

「たくさんの涙が流された」

 その双眸に差す翳にミリテリエルの心臓はじんと痛んだ。

「人々が流す涙は大地にこぼれて、それを支える世界の枝を伝い落ちた。流される涙の量はどんどん増えた。そうしていつしかその涙の河から一匹の魔物が生まれたんだ。世界を蝕む魔物がね」

 ザイネリアルは彫像を見上げて言った。

「魔物は世界の根元に生れ落ちた。魔物はまず世界の枝を、その上に広がる世界を見上げた。それからおもむろに世界の幹にかじりついた」

 ミリテリエルは遥か頭上の闇に浮かぶ怪物の顔を眺めた。

 顔の前方に突き出した唇は耳まで裂け、林立する巨塔のような乱杭歯がその隙間を埋めている。

 苦しそうだなとミリテリエルは思った。意外なことに、こんなにも邪悪な姿形をしていながら、そこから伝わってくるのは悪意ではなく悲哀の情だった。

 ミリテリエルの思いを知ってか知らずか、ザイネリアルは淡々と言葉を続けた。

「魔物は世界をかじり続けた。その間に魔物の頭上では幾百もの世代が交代し、太陽さえ少し歳を取った。それだけ時間をかけても魔物の仕事ははかどらなかった。休まずにかじり続けたのだけれど、世界はほとんど無限に近く、その前では魔物の口はとても小さかったから。それでも魔物は世界の幹をかじるのをやめなかった。なぜって、世界に不幸が途絶えることはなく、流される涙は常に魔物に力を与え続けたから」

 ミリテリエルはその様子を想像しようとした。冷たい闇に生まれた怪物が、冷たい闇の中で冷え切った悲しみだけを吸い上げて、凍てつく闇に閉ざされた孤独な戦いを続けている様子を。

「救いがないね」

 ミリテリエルは溜息とともにそう言わずにはいられなかった。

 ザイネリアルはゆっくり首を振った。

「確かに救いはなかった。けれどこの魔物に救いがなかったのだとしたら、この魔物を生み落とした世界にはどんな救いがあったというのだろう。魔物の孤独は悲しみに源を発し、悲しみの源は人々の内にあった。僕にはこの魔物だけが特異な存在なのだとは思えない」

「この怪物が世界をかじっていたのではなかった。世界を蝕んでいたのは人々の悲しみそのものだった。やりきれない話だね」

 怪物の小高い頭頂のずっと上から闇の粒子が間断なく舞い落ちてくる。

 ミリテリエルはその足の親指に右の掌を置いた。冷ややかな岩肌の感触があった。孤独な魂の手触りだった。

「魔物はかじり続けたよ。世界の幹は着実に細った。そして終わりの時がやってきた」

「誰も魔物を止めようとはしなかったのだろうか」

「誰にそれができただろう。人々は互いに傷つけあうことしか知らないように見えた。だから悲しみが世界から絶えることもなかった。悲しみから力を与えられて魔物はかじり続けた。魔物を止めるにはどうするべきだったのか。僕にはわからない。わかっているのは魔物がひたすらにかじり、そうしてついに終わりの時がやってきたということだけだ」

 ザイネリアルの述懐は痛切だった。

 ミリテリエルは胸に溢れるやるせなさにどうしようもなく、怪物の肌に頬を当てた。

 束の間、目蓋の裏に光芒が炸裂した。それは過去に弾けた光、星が死して後に何十億年も宇宙を彷徨い続けながら悲しみの残像を伝えようと望む光のような輝き。

 樹が傾いだ。

 ミリテリエルは空を仰いだ。

 首の骨がぽきりと鳴った。

 樹が倒れようとしていた。

 久し振りだなとミリテリエルは思った。こうして空を見上げたのは、樹をかじり始めて以来絶えて久しいことだった。

 あの時僕は何を考えたのだろう。

 僕が生まれたあの時、樹はまだ少しも損なわれることなくどっしりとここに立っていた。僕は樹を憎んだのだろうか。空を見上げ、樹を憎み、それからこの緩慢な仕事に取りかかったのだろうか。僕は憎むことから始めただろうか。

 憎むとはどういうことなのだろう。この樹が僕を傷つけたことはない。だから僕はこの樹に恨みを抱いているわけじゃない。

 僕はこの樹の外に生まれた。僕はこの樹の中に居場所を持ってはいない。僕はこの樹とは無関係だ。

 でも僕はこの樹をかじった。とても長い時間をかけてかじり尽くした。この樹と僕が交錯しているのはその一点だけだ。どうして僕がこの樹を憎む理由があるだろう。この樹が僕を憎むのならわかるけれど。

 ミリテリエルは五本の腕をだらりと弛緩させ、発達した上下の顎の間から長い舌を垂れて息を吸った。

 僕がこの樹をかじった。それは憎しみからではなかった。

 樹が倒れてゆく。

 悲しみは消えない。

 ミリテリエルは咆哮した。

 悲しみだけがあった。悲しみしかなかった。悲しみが僕を狩り立てた。

 暗黒すら色褪せるほどの時間をかけ、汲めど尽くせぬ悲しみに狩り立てられるようにして樹をかじってきた。そうすればいつか解放されるのではないかと期待して。自分を追い立ててきた見えない手綱が外れることを期待して。

 仕事は終わった。宿命は果たした。

 それなのに悲しみは消えない。それは身体の芯に口を開けた虚無からこんこんと湧き上がり、呪われた四肢を駆け巡る。

 まるで焼かれるようだとミリテリエルは思った。

 この焔を消してくれとミリテリエルは叫んだ。咆哮は聞く者とてない闇を渡り、虚しく消えていった。

 崩壊が始まった。

 ミリテリエルは醜い肉体から力が抜けるのを感じた。三本の脚が折れ、膝が闇の底を叩いた。

 自分が泣くだろうと思ったが、蔑むべき鬼畜の身体には流すべき涙など与えられていなかった。あらゆるものが乾いていた。目が、頬が、そして何よりも心が。湧き出す悲しみはそれらを焼くばかりで、一滴の潤いさえ与えてはくれなかった。

 ミリテリエルは自分が絶望しているのを悟った。

 振り返ってみれば、樹をかじり始めたのも絶望にかられてのことだった。

 生み落とされた直後に僕は天を仰いだ。

 植物は種子として生まれ落ちるとまず初めに大地を求める。種子は土によって包まれ、守られ、育まれるからだ。動物は温もりを求める。多くの場合、温もりは親に属するものであり、それゆえに多くの動物の赤子は親を求める。そうでない場合には自然が親の役割を務める。

 僕は違った。僕は天を仰いだけれど、僕が何を求めていたにせよ、それはそこにはなかった。たぶんどこにもなかった。

 始まりに絶望が置かれた。

 世界の外に投げ出されているという絶望、世界と完全に無関係であるという絶望、世界が無意味なのではなく、僕が世界にとって無意味なのだという冷酷な現実に対する絶望。それが僕の始まりを規定し、僕は樹をかじり始めた。

 そして今、終わりの時にも絶望がある。狂おしいほど緩慢な破滅への道程の中で、絶望だけが一貫していたように思える。

 しかし始まりにあった絶望と、終わりにあるこの絶望は同じではない。それどころか全く異質なものだ。

 世界に対する絶望は背景に過ぎなかった。いったいどうして想像できただろうか、そんなものより遥かに深く冷たい暗闇が、自分の内側にあると。

 僕は自分自身に絶望している。

 その絶望は僕に巣食った虚無の闇だ。それが僕を飲み尽くそうとしている。

 ミリテリエルは死を願った。死という闇を。絶望という虚無の闇を打ち消してくれるほどの暗黒を。

 世界の崩壊を前に力を失って座り込んだミリテリエルはどうしたら死ねるだろうかと考えた。

 耳をふさぎたくなるような轟音が大気を震わせている。それは世界が倒れる音だ。

 死にたい。

 ミリテリエルは思った。

 死んでしまいたい。

 闇がミリテリエルの思考をすっぽりと包もうとする寸前、光が走った。

 ミリテリエルは錯覚だろうと思った。

 鼓膜が震えていた。忌むべき肉体の耳が轟き渡る破壊音とは別の音を拾っていた。

 世界が崩壊する音の底に微弱な電流のように流れるそれは、夏の夜空の星々を視界の中心に捕らえるのが困難であるのと同様、意識を傾けて聴こうとすればたちまちぼやけてしまう小さな小さな音でしかなかった。

 ミリテリエルは錯覚だと自分に言い聞かせた。そんなものがこの終局の時に流れているはずがない。

 いや、それは確かに流れていた。

 旋律が。

 音楽が。

 ミリテリエルは顔を上げた。

 崩れゆく世界のどこかで誰かがヴァイオリンを弾いていた。

 ミリテリエルは形容しがたい衝動に襲われ、折れた膝を再び立てた。

 その旋律は楽しげだった。

 にわかには信じられなかった。

 世界が果てようとしているこの時に、誰かが悠々とヴァイオリンを奏でている。氷の海に沈みゆく船の甲板で最後まで演奏を続けたある楽団のように。陥落し炎上する城塞で猛火に取り囲まれながら笛を吹き続けたある詩人のように。

 ヴァイオリンに合わせ、他の誰かが世界のどこかでピアノを弾き始めた。

 ミリテリエルは世界を、倒れつつある樹の最上部を仰いだ。

 誰かが歌っている。誰かが笛を吹いている。誰かがオルガンのペダルを踏んでいる。

 最初は微弱なものでしかなかった旋律は、何本もの細い糸がより合わさって強い綱になるように、次第に力を増し、やがて世界を覆い尽くすとそこから溢れ出した。

 ミリテリエルは旋律の飛沫を全身に浴びながら、再び力がみなぎるのを感じた。それは悲しみによって贖われた力ではなかった。世界を破滅に導くような力ではなかった。

 それは破滅の最中にも微笑を浮かべて旋律を刻むことができる、悲しみとは全く次元の異なる感情によって付与された力だった。

 ミリテリエルは心が軽くなるのを感じた。

 世界が無意味であるとか、自分が無意味であるとか、そういった類の懊悩はもはや去っていた。ただこの旋律が、世界を満たしそこから溢れ出してなお止むことを知らない旋律が、永遠に続くことだけを願った。

 ミリテリエルの視線の先で、魔物が再び立ち上がった。その全身から鎖が千切れて弾け飛ぶのが見えた。存在の根幹に深く食い込み、いる、とか、ある、といった至極当たり前のことさえも束縛し規定してしまう目には見えない鎖からの解放だった。

 魔物は跳躍すると、かつて彼がかじって虚ろになった巨樹の幹に飛び込んだ。そして全ての腕を振り上げ、完全に崩れ落ちる寸前の幹を支えようとした。

 世界は重かった。世界はそれをかじり尽くすという呪われた宿命を背負って生み出された魔物の肉体にとっても重過ぎた。

 鋭くとがった幹の先端が、それを止めようとする五本の腕の努力も空しく魔物の首根に突き刺さった。

 魔物は吼えた。音楽がその咆哮を圧して闇の彼方へ運び去った。

 魔物は三本の脚で踏ん張った。木屑が舞い上がり、猛烈な速度で落下する木片が魔物の皮膚に数百の傷をつけたが、魔物の足は樹の下底をがっちり掴んで放さなかった。

 五本の腕の先端についている鉤爪のある大きな掌が、それぞれに樹を捕らえた。魔物は沈降してくる樹に爪を立て、あらん限りの力を振り絞ってそれを持ち上げようとした。その試みは成功したように見えた。いまや崩壊の軌道に乗って加速を始めた樹と、その重みと力にうち克とうとする魔物の間に一瞬の短い緊張があり、その後に樹はゆっくりと持ち上がった。魔物の頭二つ分ほどは。

 だがそこで限界がきた。

 魔物の首根から樹が少しずつ引き抜かれると、傷口から恐ろしい量の血が噴き出した。

 魔物は苦悶の呻きを漏らした。大量の血がぼたぼたと滴り落ち、魔物の足をしとどに濡らした。流血は止まらず、魔物の全身に浮き上がる腱と筋肉の震えを見るまでもなく、その激痛と苦しみは明らかだった。

 敗北は致命的な距離に近づきつつあった。敗北の瞬間こそ終局の完成する時だった。

 いまや音楽は協奏と大合唱とによって最高潮に達し、樹が崩れ落ちる轟音すらその一部に巻き込んで狂おしいまでに神々しい大気の波を創出していた。

 魔物が一声叫んだ。

 ミリテリエルはその叫びの大きさに思わず目をつぶった。しかし閉ざした目蓋の裏に閃光が炸裂した。

 狂騒が反転した。

 静寂がミリテリエルの周囲を満たしている。

 頬には冷たい石の感触。

 ミリテリエルは目を開いた。

 あの回廊にミリテリエルは戻っていた。

 全てが邯鄲の夢であったように思えた。

 だが弾けた光の断片はミリテリエルの網膜に残り、世界の内だけでなく世界の外に広がる虚無をも満たした音楽の香りもまたミリテリエルの耳を去ってはいなかった。

 ミリテリエルは頬を魔物の足に寄せたまま、息を吐いた。

 魔物の最後の叫びが頭の中に残響している。

 あれは祈りだった。

 ミリテリエルは自分の手をかざした。手はじんじんと痺れている。

 凄絶なまでの祈り。

 手を握る。開く。握る。開く。手は痺れている。手だけではない。身体の最も深い部分が痺れている。

「君はまだ僕と一緒にいる」

 ミリテリエルはそっと言った。

 宿命に抗い、自らの命を代償にしてまで何かを守ろうとする祈りの凄まじさ。耐えがたい苦痛の嵐の中、死を目前にして俺を岩に変えろと叫ぶ祈りの烈しさ。

 ミリテリエルはせめて祈りのかけらだけでもそこに閉じ込めようとでもいうように、しっかりと掌を握り締めた。

 最後の祈りによって閃緑岩に変じた魔物は常闇の回廊に踏ん張り続けている。のしかかる世界の重みに耐えて。

 いつまで。

 ミリテリエルは魔物にもたれかかった姿勢のままで考えた。

 あの神話は完結したのだろうか。世界が蝕まれていると考えた人々の神話は。

 魔物は世界をかじり尽くすという目的を達した。だがその直後に世界を蝕むものから世界を支えるものへと変じた。

 世界を蝕むものはいなくなった。絶望的な神話は完結した。

 そのように見える。

 しかし、本当にそうだろうか。魔物を動かしていたものは何だろう。魔物を生んだのは何だっただろう。

 それが消えてなくなったのだといえるだろうか。

 世界の終わりは永遠に去ったと証明できるだろうか。

 僕も守ろう。

 頬に魔物の肌の冷たさを感じながら、ミリテリエルは誓った。

 魔物が守ろうとしたものを、あの時あらゆる場所を満たしていたものを、僕も守ろう。それができるかどうかは自信がないけれど、せめてその努力はしよう。

 ミリテリエルは魔物から身体を離した。

 空間が飴細工のように歪んだ。

 風がぴぃうううびぅうううと吹いてミリテリエルの前髪を揺らした。

 矮性のプラタナスの小木がねじれた枝を天に向かって突き出している赤い丘の頂上にミリテリエルは座っていた。

 夜が迫っていた。紫紺の空に大釜の火は落ち、そう気が早い方でもない星々がのんびりと仕事に取りかかり始めている。

 プラタナスの幹にミリテリエルは背を預けた。木は一見枯死しているように見えて、けなげに根を張って乾いた大地にしっかりと息づいている。希望はないと叫んで立ったまま死んだ指揮者のように枝を伸ばしていながら、木は懸命に生きようとしている。

「隣は空いているかな」

 その声にミリテリエルはがばと起き上がりかけたが、すぐに照れくさそうな笑みを浮かべてもとの姿勢に戻った。

 もちろんそれは闇もて語る賢者であって、張りつめた弓の弦のような頬をした少年ではなかった。

「空いていると思いますよセラトスリウム。木が僕たちのことをどう思っているかはわかりませんけど」

「もちろん歓迎しているとも。その証拠に何も文句を言わんだろう?」

 セラトスリウムは微笑すると長衣の裾を翻してミリテリエルの隣に腰を下ろした。

 風が吹き、プラタナスがセラトスリウムの上で枝を鳴らした。

 ミリテリエルと老賢者は顔を見合わせて笑った。

「道程は長かったかな。それとも短かったかな」

 セラトスリウムはミリテリエルの目をのぞき込んで尋ねた。

 ミリテリエルは少し考え、首を振った。

「わかりません。多分、まだ途中だからだろうと思います。全部歩いてみなければ、道が長かったか短かったかなんてわからないんじゃないでしょうか」

 セラトスリウムはうなずいた。

 ミリテリエルは続けて言うべきかどうか迷ったが、思い切って口を開いた。

「セラトスリウム、まだあなたに僕の名前を名乗っていませんでしたね」

 セラトスリウムは右手を上げてミリテリエルを制した。

「性急になってはいけない。今日君が掴んだと思っているものが明日になれば崩れているかもしれない。今日の君はそれを許せないことだと感じるだろうが明日の君にはまた別の言い分があるだろう。焦らぬことだ。じっくりと見つめたまえ。君が君自身から逃げ出さぬように」

「でも僕はあなたに伝えたいのです。僕が今掴んでいることを。僕の手が握っていることを」

 セラトスリウムは人差し指を立ててミリテリエルの口の前にかざした。

「言っただろう、私は初めと終わりを見る者だと。急がずともいつか私は見る。大切なのは君自身が見ることだ。過去を見つめ、現在を見つめ、そして未来を見つめることだ。時は移ろう。多くのものがかたちを変える。見つめたまえ。全てを見た後でなければ、自分が何を見たかなどはわかるまいから」

 引用されてミリテリエルは笑った。セラトスリウムも皺を深くして笑い声を上げた。

 ミリテリエルは輝かしい昼間の陽光の最後の一片が消える紺と黒の狭間の一瞬に座っていた。

 東方から夜が押し寄せてくる。暗い時間が。

「ここが岐路だったのでしょうか」

 ミリテリエルは言った。

「それともあの回廊が岐路だったのでしょうか。どこから僕とザイネリアルの道は分かれたのでしょう」

「どちらであって欲しいと思うかね」

「僕はあの道を歩いた記憶がザイネリアルとの間に共有されていると信じたいのです」

「君はザイネリアルと共に歩いたよ。少々昏過ぎる道を。たいしたことだ。それだけは全く確かなことだ」

「僕はザイネリアルと一緒に歩きました。でもザイネリアルは僕と一緒に歩いたのでしょうか。それが僕だけの記憶に過ぎないのではないかと僕は恐れます」

 セラトスリウムは思慮深い光を目に浮かべてミリテリエルを見た。

「彼は去ったのかな。君の心からさえも」

「もちろん僕はザイネリアルを覚えています。でも僕はもうザイネリアルの声を聞くことはできません。おやつの後で遊ぶ約束をすることもできません」

「悲しいことだね」

「この世界でザイネリアルはもうしゃべることができないのです」

「親しい人の不在は悲しいことだ。だから好きなだけ嘆きたまえ。泣きたまえ。悼みたまえ。だが不当なまでに悲しんではいけない。ザイネリアルの不在によって君が歩いた道が消えるわけでなし。好きなだけ大地に涙を流したら、後は顔を上げて前を見ることだ。そして歩いてきた道がこの先どこへ続いているかを見つめるのだ。そこできっと君は会いたい人物にもう一度会うことになるだろう」

 一陣の風が吹き、清冽な秋の草原の空気を運んだかと思うと、もうそこにセラトスリウムは影も形もなかった。

 ミリテリエルは声を上げて泣いた。

 濃厚な夜の香りが丘をすっぽりと包んでいる。

 黄昏のひと時は過ぎ去った。世界のどこかで寝ぼけ眼の虫たちが合唱を開始した。指揮者はまだ到着していないようで、楽団員たちは好き勝手にそれぞれの楽器をつま弾いている。プラタナスの枝に梟が降り、泣いているミリテリエルを眺めてくるくると首を回した。それは慰めたいのにかけるべき言葉が見つからず困っている人の仕草に似ていた。赤土の上に遠慮がちに生えた名をもたぬ雑草が風に揺れて、放っておけよと梟に向かって肩をすくめてみせた。

 老練な女優の貫禄を振りまきながら月が舞台への軌道につく頃、梟は諦めたように音もなく飛び立った。丘の片隅で鼠が土を蹴って走った。虫たちはようやく前奏曲に取りかかり、それぞれの楽器を抱えながら、狂ったように走る鼠が誰と競争しているのか、果たして鼠に勝ち目があるのかを興味深げに見守っている。

 ミリテリエルは両手で目をごしごしとこすって立ち上がった。

 涙が完全に去ったわけではなく、これから先も家の中に独りぼっちでいる時やこの丘を通る時にやってくるだろうということはわかっているが、少なくとも今はこれ以上泣きたくはなかった。

 前に進むべき時だった。

 ミリテリエルは丘の下へ続く道に目を向けた。

 その顔に驚きの表情が広がる。

 町の灯りがいつもと変わらずそこにあった。建物の細部は闇に溶けて見えないものの、幾つもの窓から漏れる小さな灯りの瞬きが、町がそこにあることを教えている。黄昏にこの丘に立ったミリテリエルが目にした全てを焼き尽くす劫火など幻だったといわんばかりに。

 いや、確かにそれは幻だったのだ。でなければ、この宵口の夜景を説明することはできないのだから。

 ミリテリエルはその目でしっかりと見たはずの大火災の光景を思い出そうとした。

 たいした努力もなく鮮明に思い描くことができる。火の赤い舌が商業区を舐め尽くし、住宅街の上で暴れ回る様子を。窓から炎を噴き上げ力なく崩れ落ちる建物が、焼身自殺を図った人間さながらに見えたことを。

 ミリテリエルは混乱して丘の上にしばらく呆然と立ったままだった。

 だが夜景を見つめる内、一つの微笑がミリテリエルの目に二重写しのように映り込んできた。

 それを感じたミリテリエルの口元を柔らかな笑みが覆った。

 そうか。

 それは奈落の底で出会った微笑だった。

 歩いているのは僕だけじゃない。

 ミリテリエルは一歩踏み出して思った。

 一緒に行こう。道は分かれてしまったけれど、違う道を僕たちは一緒に歩こう。そしてそれぞれの道の続く先を見つめよう。またいつか道が交差することを期待して。

 ミリテリエルは大きな歩幅で歩き始める。

 丘の下には夜を迎えた町並みが広がっている。暗黒の時が訪れ光の時は去ったが、家々の灯の間にたゆたう闇は暖かい。それは人の営みが持つ暖かさだ。そして暗い時代にあってはそれだけが何ものにも代えがたい貴重な光になるだろう。

 願わくは、それがいつまでも続くように。

 ミリテリエルは丘を下る。いつしかそれは駆け足になる。

 丘の下から幾つもの角灯の明かりが揺れながら近づいてくるのが見える。

 丘の中腹でミリテリエルは立ち止まり、角灯を提げた人々の中にマリエスタがいるのを見つける。

 人々は皆泣いている。そして同時に笑っている。

 笑い泣きしながら角灯の人々はミリテリエルに追いつく。

 マリエスタがミリテリエルに駆け寄り、両肩を掴んで激しく揺さぶる。

 マリエスタが大声で何かを言い、周囲の人々もミリテリエルを囲んで口々に叫ぶ。

 最初ミリテリエルには何のことかよく聞き取れない。

 終わったと彼らは叫んでいる。泣き、笑いながら。

 ミリテリエルはマリエスタに訊く。何が終わったのかと。

「戦争」

 マリエスタは怒鳴るように言ってミリテリエルの首を抱く。

 ミリテリエルはマリエスタの向こうに立っている人々を見回す。皆が終わったと叫び、戦争と怒鳴っている。泣くのも笑うのもやめようとはせずに。少しだけ複雑なものが混ざった表情でミリテリエルに抱きつくマリエスタを眺めているのは彼女の父親だ。

 終わった。戦争が。

 ミリテリエルはマリエスタを引き離し、周囲の狂騒に負けないように大きな声でもう一度確かめる。

 戦争が終わった。

 ミリテリエルは自分でも理解できない叫びを上げる。

 誰かがこの記念すべき日を永遠に祝おうと言っているのが聞こえる。

 祝祭だ。

 ミリテリエルはマリエスタに向かって言う。

「聞こえない!」

 マリエスタが怒鳴る。

 ミリテリエルは言う。

「祝祭だ、黄昏の祝祭だ!」

 丘の下から続々と角灯の波が押し寄せ、丘の中腹に集う人々の輪は膨張を続ける。

 どこから起こったものか、いつしか歌がその輪に広まり、大合唱となって夜の大気を渡ってゆく。

 鼠との競争に競り負けて不機嫌に木の枝にうずくまっていた梟が、その騒ぎに驚いてくるくるくると首を回している。


――― 終 ―――







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