パセリ、セージ、ローズマリーに競馬



FANFARE


「外をついて無人の野を往くが如し」
                    ―――第61回東京優駿実況 白川次郎

 TOKYOはレースのゴールだった。

 自由日本義勇軍は仙台―新発田ラインに7万人を展開し、その内、機械化された歩兵2万は既に帝国の霞ヶ浦防衛線を突破しつつあった。西からは共産軍5個師団が怒涛の勢いで甲信越ラインに殺到していた。

「だからな」

 岡幸雄は自由日本の将軍たちを従えて仙台市庁舎のバルコニーに立っていた。

 岡の腹心にして元帥代理である芹沢淳一が熱弁を振るって岡の業績を称えている。

 自由日本建国十周年記念式典に熱狂する仙台市民100万は、歓呼の拍手をもって演説を迎え、興奮に輝く目を居並ぶ将軍たちに向ける。

「TOKYOは先着順というわけだ」

 その熱狂の届かない場所で岡は将軍たちに問いかける。

「さて、あの糞忌々しい街を占領するのは我々かね、それともソヴィエトの赤い犬どもかね」

 元帥のその問いかけに答えるような馬鹿はいなかった。いたが最期、反逆者の汚名と共に銃殺刑送りになるのは明らかだった。

 岡は答えを求めているのではなかった。求めるのは肯定でも否定でもなく、行動だった。

 式典が終わり、市庁舎のバルコニーから引き揚げてきて初めて、仙台市長の安田十三夫政治局大佐が口を開いた。

 我々が利根川を越える際、その行為が共産軍に違約行為であると捉えられる可能性を考慮しなくてはなりません。

 極めて無表情に、事務的な口調で安田は言った。

 実際それは違約行為だった。

 76年協定で、自由日本は北海道の統治権の見返りにTOKYOを含む南関東の支配権を放棄していた。

 房総までなら目をつぶろう。式典前、共産軍は祝電にこう付け加え、通告した。

 だがそちらがTOKYOを第二のベルリンにするつもりなら、その前に輝かしい核の一撃が君たちの頭上に振り下ろされるだろう。

「諸君はアカどもが本気で核を使うと信じているのか?」

 オデッサ製の椅子に深々と腰を下ろして岡は快活に笑った。

「いえ、しかし可能性は消せません」

 もしTOKYO攻略が決定された場合、武蔵野方面に軍事責任を負うことになる古嶋太志中将が、小さな声で言った。その顔は蒼白だった。

「君は帝国の豚と赤い犬に怯えて、我々が得て然るべき栄光と名誉を失おうというのかね」

 いささか不興げに岡は老いた将軍を眺めた。

 古嶋は必死だった。TOKYO制圧についての全責任を負わされることは、贖罪の山羊にされたも同然だった。

「TOKYOの制圧作戦に関しては」

 もう黙れ。

 緊張と恐怖に喘ぐ古嶋に元帥は言った。

「TOKYOはこれまで『日本』であったし、これからも日本であり続けるだろう。攻略の遅滞は許さない」

 古嶋はもうお終いだと居合わせた将軍の誰もが思った。

 戦闘の銃弾と同じ数ほどの岡の粛清の下をかいくぐって生き延びてきた側近たちは知っていた。口を閉じなければならないタイミングを。

 その瞬間を少しでも引き伸ばせるのは、秘密警察長官職を兼ね、岡の親衛隊を統率する安田だけだった。そして彼はその権限を行使した。

「今週中にTOKYOに対して作戦行動にでることは不可能です」

「何だと」

 岡は眉をひそめて安田を睨んだ。

「日本ダービーです」

「なに?」

 この時の岡の間抜けな声を、その場にいた全員が生涯忘れなかったと、柴田吉富少将はその回顧録で語っている。

「ダービーなのです」

「そのダービーとは一体何者なのだ?」

「競馬です」

「けいば、だと」

 ―――あの時のVTRがこの世にあるんだったら、俺はケツを売ってでも買うね(柴田回顧録)。

「ダービー終了まで、府中競馬場一円は非武装中立地帯です。そしてそれはTOKYOが列強の監視下にあることを意味します」

「非武装、か。列強、か」

 岡は力なく呟いた。

 非武装中立が宣言される時、それは常に列強諸国の介入と同義であった。正義を掲げる力の論理の不条理。戦乱の1世紀で日本が体得したのはそれだけだった。

「競馬か」

 岡はうわ言のように繰り返した。

「それにしても、競馬とは!」

 2080年6月第1週はこうして始まった。





 
STARTING GATE


「大西くんがどう乗るかですね」
                            ―――第64回東京優駿パドック解説 大川慶次郎
T

 帝国の敗色が濃厚になっても、府中競馬場にはなお3000頭の馬が残っていた。別に驚くべき数字ではない。競馬場と一口に言っても府中競馬場はTOKYOの50%を占める面積を誇る。そこは牧場もあり居住区もある、巨大な1個の都市である。

 2051年、即ち<大騒乱>勃発前の最後のジャパンカップが開催された時点で、Emirates World Associationは府中競馬場の収容能力は競走馬4000頭分に達している、と判定した。<大騒乱>の最中にも帝国はTOKYO全域に調教施設を拡大してゆき、非公式な見解ながらオリヴィア・ペリエEWA会長は80年年次教書において、府中こそ新千年紀の競馬の聖地である、と断言している。

 しかしEWAがその年のWorld Series of the Classic春季の最終戦に府中競馬場芝2400mで行なわれる日本ダービーを決定した時、人々は驚いた。国内紛争に揺れる国の、今まさに陥落しようとしている都市で、砲弾が飛び交う中、世界一の馬を競おうと言うのである。

 この決定は無謀を通り越して狂気である。EWAは決定を即時撤回すべきだ。当然反対が唱えられたが、黙殺された。

 2080年1月15日の国際同盟常任理事会は常任理事国8ヶ国の一致を得てEWA支持を決定した。これを受けて列強連合は府中競馬場周辺の治安維持のための臨時出兵に合意した。さらにその後、国際同盟はシューメイカー事務総長声明で、共産圏諸国と帝国の間に停戦協定が成立したことを発表する。

 なぜ、TOKYOでなければならないのか。なぜ、日本ダービーでなければならないのか。

 ある噂がある。

 それは大島絶滅収容所で帝国が行なったとされる一連の実験内容と、その結果に対する列強諸国の関心との関係を示唆するものだ。

 帝国民族省は管理下の各収容所において、彼らが主張するところの劣等人種の根絶を遂行した。大島絶滅収容所はそれらの中でも最大の殺戮機構であり、皇帝が言うところの『能率化の見本』であったが、同時に兵器の実験場でもあったというのである。そこで開発された化学兵器ないしその他の兵器、並びにそれらのサンプルデータを餌に帝国は列強諸国と取引をした。

 帝国と列強の間でなされたその密約がEWAを動かし、列強介入の口実を与え、結果として帝国を延命させる。

 あくまでも噂である。何も確証はない。そもそも大島は単なる絶滅収容所であり、そこで何らかの体系的な研究活動が行なわれた形跡は残っていない。噂など他愛もない、陰謀主義者の妄想に過ぎない。

 一連の出来事を振り返って後年、不二澤和雄帝国陸軍大将は記した。

―――死にかけの帝国を、かつてそれが彼らの一員であったとの理由だけで、列強が護ろうとしたのだとは信じられない。阿武隈で、箱根で、長岡で、帝国は見捨てられてきた。列強が日本国内の民族闘争にそもそもの始めから興味など持ってはいなかったからだ。ならば帝国壊滅の最後の瞬間に彼らが兵を走らせた理由は、一つしか考えられなくなる。それは彼らが競馬を見たかった、ただそれだけのことでしかない(帝国軍人回顧録)。

 長距離砲と列車砲の砲撃によって半壊した外郭都市を黒々と呑みこんで広がる府中の森にはなおも3000頭の馬が残っていた。そしてその頭数はthe Day of the Derbyが近づくにつれ、さらに増えてゆくことになる。



U

 針のない時計が2時の時報を鳴いた。

 ブラインドを通してサーチライトの光が視界をかすめた。

 敵襲だ。

 スープを食いたいか?

 千の靴が土を踏みしだ音。

 そうか。食わせてやろう。旨いだろう、仲間の……。

 銃声はどこから聞こえた?

 これは辛いぞ、一晩鉄の女に抱かれるのは。

 殺せ、と誰かが叫んでいる。

 痛みはな、特に魂を貫く痛みはな、人を解放するんだ。例えばお前の大切な……。

 そうだ。殺さなければ殺される。

 お前には生きる価値がない。ようやく気づいたのか。

 殺さなければ殺される。

 痛いか?

 殺せ。

 苦しいか?

 ころせ。

 殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺ころせころせころせころコロセコロロ……。

 !!

 跳ね起きると寝汗が全身を濡らしていた。

 息が荒かった。

 しかも眠りながら泣いていたらしかった。

 ミノルは寝台の上で半身のまま動けなかった。

 剥げかけた壁紙がサーチライトの光を浴びて、白茶けた素地を晒している。

 ここは安全だ。

 自分に言い聞かせるように息を吐いて、顔を拭った。

 涙は止まっていなかった。

 薄い毛布の上で蚤が跳ねていた。

 薄汚い部屋に漂う、麻薬常習者特有の甘ったるい匂い。

 部屋の片隅に投げ出されたままの注射器が視界に入り、一瞬ミノルは激しい欲望に駆り立てられた。

 けれど息を一つ吸う間に渇きは嘘のように引き、代わりに抑え切れない虚しさが襲ってくる。

 まだ、生きている。

 その実感は大麻の白日夢よりも儚いが、現実は安宿の壁を這うナメクジのように動かし難かった。

 逃げることは許されない。

 ミノルは寝台から抜け出すと服を着た。

 2時17分だった。

 革の長靴に脚を滑らせながら小さな笑いを噛み殺せなかった。

 戻って来たぜ。戻って。

 ブラインド越しに対空照明が部屋の中を照らしだし、ミノルは便器の上の割れた鏡に映る自分の容貌をはっきりと見た。

 痩せさらばえ、絶望に潜む狂的な歓喜に眼を光らせる20歳がそこにいた。

 死神に取り憑かれた奴の面だ。

 腹の底に吐き捨て、ミノルは大声で笑った。

 ああ、そうだ。刀一本で騎兵隊に突っ込んで行く奴の面だ。

 笑いが止まらなかった。

 だが俺は戻って来た。死神を連れてな。

 2時30分だった。

 ミノルは外に出た。

 靴の下で注射器が砕けた。

 
V

 少女は、少なくともかつてはそうだった女は、強張った笑みを浮かべた。

 身体の深くで怒号が弾けた。

 鞭を握る指が痺れていた。

 JAPAN DERBYと書かれたホワイトボード。Drawing Lotと記された欄に彼女の馬の名は載っていた。

「抽選、ね」

 第147回日本ダービー出走登録馬147頭の内、出走枠は38頭。抽選馬の出走枠は1頭のみで、109分の1の確率だった。

「抽選とは、ね」

 嘲る口調を装えたのは、毅さ、に見えた。

 その場を動けなかったのは、脆さ、に見えた。

 彼女を立たせているものは、怒り、に見えた。

 10代の面影の残る口許が、強い力に歪んでいる。

「どけてくれないか」

 遠慮のない言葉が背後から飛んでようやく、彼女はホワイトボードの前から動いた。

「君の馬は抽選なのか」

 立ち去ろうとした女の、その背中へ言葉は突き刺さった。

「寝床の努力が無駄になったわけだ」

 ゆっくり振り返る視線の先で、金髪の青年は笑っていた。

「ムカつく冗談ね」

「冗談じゃないんだけどね」

 EWA史上最高の騎手と謳われるウォーターマークの笑顔は爽やかだった。

「幸い、僕を乗せてくれる調教師は、競馬会理事長と寝なくても、ダービーに馬を出す腕はあるからね」

「そう、おめでとう」

 あっさり流して、女は再び背を向けた。

「失せな、淫売」

 母国語での呟きを彼女は理解し、それでも姿勢を崩すことはなかった。

 初夏の曙光が早朝の霧を裂いて、調教場の馬たちに注ぎつつある。

 味方はいない。

 状況は厳しい。

 けれど。

 希望が消えたわけではない。

 そう。希望は、まだ。

 109分の1に望みを賭けて。ダービーまで後5日。



 
START


「渡辺の夢が実るか!」
                              ーーー第66回東京優駿実況  白川次郎
T

 つぶらな瞳は静かだった。

 見る者の魂を呑み込むほどにその色は深い。

 藍とも、鳶とも知れない光の瞬きに女の姿が映りこんでいる。

 生きていることを忘れたように、馬の時間の中で彼女は身じろぎ一つしなかった。

 刻は淡々と過ぎ行く。

 思うのは置き去った日々の連なり。その、重さ。

 灰色の馬が、小さく鳴いた。

 女は放たれた矢のように、背後を振り返った。

「探した」

 男の言葉は短かった。

 真意をはかりかねて、女は沈黙した。

 馬房の入口に立った男はにやりと笑った。

「エクサイルの調教師はあんただろ」

 女は何も言わず、黙って男を見返した。

「エクサイル。良い名だ」

 狂人と見えた。

 肉のげっそりと削げ落ちた頬。その上には大きな眼球が、飛び出さんばかりに残酷な光を帯びて爛々と輝いている。残酷な、その強さゆえに他を傷つけずにはおかない光。

 それは精気の輝きと見えた。生命への激しい渇望とでも呼ぶべきそれは、最も純粋な欲望。

 しかしそれは同時に最も危険な欲望でもある。欲求が満たされ得ないことを知らされた時に暴走は起こり、そして生命は多くの場合においてその欲求者を満たしてはくれないから。

 人が生まれながらにして、己の中に抱えるその矛盾の発露、それを人は狂気と呼ぶ。

 だがその狂気を前にして、女は恐れを知らなかった。

「この名前を誉めてくれたのはあなたが初めてよ」

 男は面白そうに女を眺めた。

「エクサイル。流浪、だったか」

「博識なのね」

「誉めてくれたのはあんたが初めてだ」

「誉めてないわ」

 女はにこりともしなかった。

「さっさと出ていかないと憲兵を呼ぶわよ」

「酷いな」

 おどけるように男は肩をすくめた。

「差し伸べた救いの手に対する扱いがそれか」

「物乞いに救われるほど安い人生じゃないわ」

「エクサイル。流浪。その涯てに救済がある。例え妄想だったとしても」

 狭い馬房の中に入って、男は葦毛の頬に触れた。

 過去に2度騎手を振り落とした<猛馬>、灰色のエクサイルは眼を閉じて動かない。

 女は軽い驚きを噛み殺した。

「良い馬だ」

 短刀で岩に刻んだかのような、男の笑みが深くなる。

「流浪の涯てに救済がある。信じられるかあんたに?」

「何を言いたいのかしら」

 女の冷ややかな言葉に、馬が鳴いた。

 女には理解った。それは明らかな苛立ちを含んで彼女に向けられていた。

「乗せてくれ」

 男の眼は毅かった。そこに浮かんだ光ゆえ、女は目を逸らすことができなかった。

 病的な、どこまでも病的な執着。その狂気独特の真摯さゆえに。

「この馬には俺が乗る。ダービーに」

 残り、4日。運命の抽選は、明日に迫っていた。



BACK STRETCH


「河内が!河内が!河内が!」
                       ーーー第67回東京優駿実況 蜂谷薫
T

 6月としては異例の陽気だった。

 国道に立ち昇る陽炎の向こうに帝国軍戦車の残骸を眺めながら、兵士たちは南下を続けていた。

 今や彼らの前には広々と道が拓け、抵抗は存在しなかった。

 幾つかの遺棄された陣地を通り抜け、自由日本第三歩兵軍は神栖を解放した。

 この小さな湖畔の町がデッドラインだった。ここから西に進撃することは、帝国ばかりか共産諸国を、そして列強連合を敵に回すことを意味していた。

 盛秀行第三軍司令官は、利根川を前に決断を迫られていた。

 仙台の決定は進撃だった。

 既に綿密な作戦計画が練られ、岡はこれを<鋼鉄の十字>作戦と命名した。

 盛の第三軍が利根川を渡河し、東関東自動車道沿いに佐倉から四街道の帝国軍陣地を開放する。古嶋太志中将指揮下の第四軍は第三軍の攻撃開始と同時に宇都宮の高射砲陣地を占領し、東北本線沿線を解放しながら南下する。

 北関東の解放が完了するのを待って、長岡から前橋に進出した第七軍は南井香津美大将の指揮の下、深谷方面の帝国軍を奇襲する手筈であった。

 作戦の遅滞は許されなかった。

 秘密警察の目は常に背後にあり、銃殺刑の恐怖を突きつけていた。

 だがそれでも盛は逡巡していた。

 彼こそは、函館上陸をはじめ札幌、釧路、水沢、新発田それぞれの解放戦に参加し、最もよく帝国軍の実情を把握している人物だった。

 その彼をしてためらわせるほど、利根川を挟んで臨む敵陣は異様な気配を漂わせていた。

―――私は異変に薄々気付き始めていた。4月に小突破があり、その時点で利根河畔には防御陣地など全く確認できなかった。しかし今、対岸には砲の影があり、さらに高度な対車輌構造物が、無数の鉄条網の狭間に見え隠れしていた。夜、我々は帝国からの脱走兵を迎えたが、彼は驚くべき警告を発した。関東一帯の帝国軍は新鋭兵器で武装しており、航空機さえ保有しているというのである。当然私は大本営に報告したが、仙台の判断はこうだった。君は謀略に踊らされている。速やかに銚子攻略に着手し、総攻撃に備えるべきだと。

 私に何ができたろう。岡の下で生き残るためには常に前進するしかなかった、そしてそれを繰り返しただけの話だ(盛回顧録)。
 

U

 名前をまだ聞いてなかったわね。

 聞く必要があるか?

 無いとでも?

 ミノル、だ。あんたの名前は?調教師様。

 コダマ、よ。知らなかったとは驚きね。

 俺も驚いた。

 くつくつと女は笑った。

 男は黙りこくって天井を見上げている。

 こんな女は嫌い?

 穿ったような頬に爪を這わせて女は囁いた。

「演技が下手だな」

 女の指が止まった。

「あんたの噂は聞いた」

「勝手な噂を、ね」

「ああ、勝手な噂を、だ」

 女は身を起こすと寝台を降りた。硝子のない窓枠から一条の風が吹きこんでカーテンを揺らした。

「ミノル……って、呼んでも良いよね」

 窓際の小さな冷蔵庫を開ける音がした。

 男は女に目を向けた。

「昔ね」

 茶色の壜を片手にコダマは窓枠へ寄りかかった。

 星が背後で瞬いていた。

 良い夜だった。

「好きな男の子がいてね」

「昔ってほどじゃないさ」

「ふふ、10歳にもなっていなかったから、昔よ。この歳になってはね」

 少し笑って、コダマは火酒を口に含んだ。白い肌が、滑らかに光っていた。

「その子と賭けをしたの。私の親父は10年以内にダービーを獲る。そしたら結婚すること」

 コダマは黒々と広がる府中の森を遠い瞳で見つめた。

「でも賭けは成立しなかった。その子は収容所で殺された」

 黒の瞳を、空虚な闇が覆っている。

「親父も今年死んだわ。ダービーを1度も勝てないまま」

「馬鹿野郎だな」

「そう。馬鹿よね」

 コダマは小さく呟いた。

「結局、私に残されたのはエクサイルだけだった」

 その横顔に感情の揺らぎは見えなかった。けれども、壜を握った指は白く震えていた。

「どうしてもダービーを勝ちたかった。踏み躙られた笑顔のために。虫けらのように殺されていく人間たちのために」

 蒼い星明りを渡る、黒い森からの風が、コダマの前髪を微かに揺らした。

「詭弁ね。本当は、希望が見えなかったから……自分が何をしたら良いのか理解らなかったから。ミノルには理解る?自分が生まれてきた理由。自分が生まれてこなければならなかった理由。どうして私がここにいるのか……」

 どこか遠くで警報が鳴り、星空を一条の対空照明が横切った。

「……将官たちは兵に殺せと命じる  遥か昔に彼らも忘れてしまった理由のために闘えと……」

「……そうすれば彼女は真実の愛を得るだろう」

 コダマの笑みは蒼い闇の下で儚く見えた。

「古い歌を知っているのね」

「この世で価値のあるものは3つしかない。音楽とセックスがその内の2つだ」

 ミノルの薄い腹の上を毛布がゆるりと滑り、床に落ちた。

「俺は理由なんか欲しくもない。俺がここにいる、それ以外に何の事実がある?生まれてこなけりゃならなかった人間なんていやしない。生きなければならない人間もいないんだ。だから愛がある。希望がある。すべては矮小で、惰弱な、それにすがらなければ生きていけない人間の産み出した妄想に過ぎない」

「そうかしら」

 服をまとうミノルの背中を見つめて、コダマは呟いた。

「無責任ね。あなただって何かにすがっているくせに。まるで神様みたいな言い草」

 硝子のない窓を夜の涼風が吹き抜ける。

 女の眼はゆっくり窓枠の上を彷徨い、紅い口唇は夜気に音を刻んで動いた。

「夢を見たい。歓びを感じたい。それは悪いことかしら」

「地獄を見た。死を超える絶望に触れた。夢や希望は真実の暗黒を照らしはしない」

 長靴の靴紐を結ぶ男の表情は読み取りにくい。

「だが俺は絶対か?糞喰らえ、さ。俺が生きていて、俺は、俺が生きているってことしか信じないってことだけが、絶対の事実だ」

 男の背中を見下ろして女の瞳は静かだった。

「憐れね」

「かもな」

 背を向けたまま男は笑った。

「教えてくれる?この世で価値のあるもの。最後の一つ」

「ああ……いや、考えてなかった」

「冷たいのね」

「お互いにな」

 男の足は既に扉に向かっている。

 女は不思議な表情を浮かべてそれを見つめていた。

「……勝利のために。存在の、唯一の証明のために」

 どちらの唇からこぼれたものかは知れなかった。

 瞬間の2人の想いは計り難く、その表情に、その歩調に、変化は表れなかった。

 朝はまだ遠く、扉の開いて再び締まる音が夜の静寂を破って響いた。

 抽選。ダービー出走を賭けて。

 勝利のために。

 存在の、唯一の証明のために。



THE ZELKOVA


「・・・坂を登るっ!」
                           ーーー第69回東京優駿実況 青嶋達也
T

 雑誌【タイム】は2089年5月29日号の巻頭記事で、全日反共連合会頭の田仲勝治の回顧録を掲載した。その中で田仲は、元帝国競馬会理事長大坪資生の下での秘書官時代について言及し、9年前に目撃した、ある出来事について語った。

 なぜ彼が事件から9年を経たこの時になってそんなことを語ろうとしたのかは謎である。誰も、【タイム】の記者ですら、彼の真意を確かめることはできなかった。なぜなら、彼が、雑誌が発行された翌日に首吊り自殺を遂げたからである。遺書は発見されず、動機も見当たらなかったが、当局は捜査を打ち切り、真相は闇に葬られた。回顧録掲載号もまた、全く関係のないほかの記事が≪反国家的≫であるとの理由から回収を命じられ、これを閲覧しようとする人間は反逆罪に問われた。

 当然のように陰謀説が流れ、田仲の死因について様々な憶測が乱れ飛んだ。しかし今となってはその真偽を確かめることは不可能である。年月の間に資料が四散してしまったためであり、証言者がすべからく死去しているためだ。

 結局は、事実だけがある。田仲が何かについて語り、その翌日に死んだという事実だけが。

―――あの夜、先生の執務室には大坪先生その人と私しかいなかった。幾つかの早急を要する懸案があり、私は書類の処理に追われていた。日本ダービーの出馬投票を十数時間後に控えながら、私は先生との会話の中で、先生と必要以上に親密な関係にあった若い女性調教師について触れないように努力し、彼女に対して先生が行なった仕打ちに関して見解を述べることがないように祈っていた。電話が鳴ったのはその頃だった。大坪先生が電話を取られた。私は相変わらず書類に頭を悩ましていたが、様子がおかしいので先生のほうを見た。私は、あれほど死人然とした人間をいまだかつてあの時以外見たことがない。先生の顔は蒼白を通り越して土気色だった。電話は切れていた。しかし先生は切れた電話を片手に握り締め、同じ単語を呟き続けていた。私には、死神、と聞こえた。私が口をきけずにいると、大坪先生は死人そのままの顔で、『死神だ。死神が来た』と仰った(【タイム】89年5月29日号特集≪反共の旗の下に≫田仲勝治)。

U

 帝国内相大塚英三郎は煙草に火をつけた。

 宮廷は静かだった。煙を吐くのもためらわれるほどに。

 遠慮がちな大塚の視線の先で、静寂の中心たる皇帝は黙想していた。

 大島絶滅収容所が自由日本義勇軍によって解放されたとの報があったのは昨夜だった。収容所の優秀な処理機構は陥落の2日前にその最終ノルマ、即ち収容人員の絶滅を完了していたが、内部資料等を含む施設は完全に破壊されるに至らず、ほぼ完全な形で義勇軍に接収されたとのことだった。

 さらに悪い報せがあった。

 列強連合による非武装中立地帯化宣言にも関わらず、自由日本が総攻撃に移るとの予測があり、義勇軍の部隊配置はその情報を裏付けていた。

 帝国軍の通信網は関東全域で寸断されつつあった。既にかなりの地域で部隊が連絡を断っていた。破壊活動が公然と行なわれ、帝国警察はそれを阻止できずにいた。敵軍の突破がない現在でさえこの状態だった。

 大塚にはTOKYO防衛の直接の責任はなかったが、こんな早朝に緊急の呼び出しを受けたことが彼を緊張させていた。

 永遠とも思える時間の後、皇帝はようやく口を開いた。

「<死神>だ」

 在位数十年をかけ、指一本で何十万何百万という人間を殺戮できる行政機構を完成させた男が、怯えさえ含んでそう言った。

 30年前に近衛兵から絶滅計画委員に抜擢されて以来、大塚は皇帝のこのような姿を見たことがなかった。

 大阪に労働政府が結成された時も、共産諸国が労働政府支持を掲げて松江に出兵上陸した時も、また、愛人が自殺した時も、長岡の敗戦で保有車輌兵力の52%を喪った時も、日本の歴史の中で皇帝と呼ばれた唯一の男は冷静だった。

 しかし、今、この時。

「<死神>が来るのだ」

 皇帝は怯えていた。

 列強諸国を恫喝し、軍閥の割拠する混迷の日本を帝国の下に結集させた英雄の威厳は少しも失われていない。相対する者を畏怖させ、圧倒する魅力が翳ったわけでもない。

 だが皇帝は怯えていた。

 それは皇帝に絶対の忠誠を捧げ、ひたすら皇帝のために働いてきた大塚にだけわかる変化であったかもしれない。

 少しの沈黙の後、大塚はやや遠慮がちに口を開いた。

「<死神>とは、何者なのです?」

 皇帝は冷厳な眼で大塚を一瞥した。

 けれどその瞳の中に大塚の姿はなかった。

 恐らくは、この朝であったと思われる。大塚が全てを知らされ、同時に秘密を知らされた最後の人間になった瞬間は。

 確証はない。大塚はこの後皇帝の命を受け、前の晩に一家心中を図った民族相五藤弘樹の屋敷に赴き、簡単な残務処理を部下に指示して帰宅した。そして拳銃で頭を撃ち抜いて死んだ。

 遺書はなく、いつもと変わった様子も感じられなかったと二級市民の使用人が証言した。

 ただ、逓信局の通話記録は死の直前に大塚が自宅からかけた電話について記録しており、通話先が帝国競馬会理事局であったことが判明している。

 この一分に満たない電話の中で何が話されたのかはわからない。

 全ては歴史の闇に埋もれ、個々の事象は全体像を成そうとしない。ばらばらの事実があり、それらは永遠にばらばらの事実のままである。

 数年後、ある新聞社が1世紀の歴史を編纂した時、80年ダービーを写真付きで振り返って次のような短文を寄せた。

 ――― 一体何が起こったのだ?

 そう、一体何が起こったのだ。


V

 ある二級市民の手記。

―――ついに動員令が出た。我々のような年老いた役立たずにも戦う機会が来たのだ。敵は思い知るだろう。我が帝国の団結の、鉄のごとき堅固さを。さあ、シャベルを、つるはしを持って前線に急ごう。我々は何者をも恐れはしない。正義は常に我が皇帝陛下と共にあり、神の加護は帝国の上に輝くからだ。劣等人を根絶せしめた皇帝陛下の偉業と大島収容所の努力に敬礼。

 ある女学生の手紙。

―――また、一人死にました。私たちは絶望しています。誰も私たちを助けてはくれません。動員令が出てから、ここで3人死にました。これからもっと死ぬでしょう。それでも私たちを誰も助けてくれません。二級市民は弾除けか、それとももっと酷いもののように扱われています。この戦場には一級市民の姿はありません。二級市民がばたばたと死んでゆく今も彼らは安全な場所で、ぬくぬくと生き長らえているのでしょう。最近よくこの戦争が終わった時のことを想像します。しかしそこには勝者はいません。皇帝陛下も、共産党員も、義勇軍も、皆勝者ではありえないのです。誰がTOKYOの廃墟の上に旗を掲げるにせよ、勝つのは政治家や英雄などではなく、<一級>の人々なのです。下級市民の犠牲の上で遊び暮らしている、生まれながらに支配者だった彼らなのです。それを考えると、暗い気持ちになります。

 ある帝国騎兵隊員の日記。

―――大尉殿の話によれば、今度の競馬には我々も賭けることが許されるらしい。自分はエクサイルという馬に5円を賭けた。賭け過ぎだったろうか。今月分の俸給の全額だが。構うことはない、帝国からは彼一頭しか出ないのだから。帝国皇民が応援してやらなくて、誰が応援すると言うのだ。帝国の孤独は深い。エド卿は講和の仲介を蹴った。自分たちには暗い任務が課せられている。もしも市内に敵が侵入した場合、二級以下の市民を処刑しろ、と。そのための臨時司法権は既に発行されている。TOKYOは血の海になるだろう。帝国の栄光は市民の血の中に翳るだろう。願わくば、せめて神が我々を見放し給わんことを。

 ある前線兵士の回想。

―――夜になると長距離砲が轟き、確実に味方が死んでゆく。次は自分の番かもしれないという恐怖がつきまとって離れない。死と飢えが精神を蝕む。いっそ、終わらせてしまえば楽なんじゃないかと、仮眠を取る前や、歩哨に出て怯えた眼で闇を見つめている時に思ったりする。敵が攻めて来て、弾を自分に当ててくれれば楽になるのに、と。そのたびに、愛する彼女の顔や、両親のことを思い出す。そして、安心する。自分には戦う理由が、守るべき人々がいる。戦わなければならない。戦うために生きなければならない。けれどもう、それが正しいことなのかさえ理解らなくなってしまった。じゃあ、この戦争はどうして始まったのだろう。なぜ、俺は家庭にいず、軍刀を握っているのだろう。理由があったはずだ。だが誰もその問いに答えてはくれない。答えがなければ、俺たちはわざわざ死ぬために戦争を始めたことになる。わざわざ愛する者を砲火に晒すために。戦禍の恐怖は、この不安を一つの考えに向かわせる。もしかしたら自分たちは死ぬために戦っているのかもしれない。そしてその真実を、己の心に潜む破滅への願いを、否定したいがために愛の対象を求めるのではないだろうかと。愛は大きな欺瞞ではないだろうかと。もちろん、こんな考えは馬鹿げている。そんなことは百も承知だ。しかし多くの若者が結婚して戦場に散ったのも事実なのだ。会って数時間しか経っていない相手と、一夜だけの関係を結んで。誰が歌ったのかは忘れたが、こんな歌があった。

    将官たちは兵に殺せと命じる

    遥か昔に彼らも忘れてしまった理由

    そのために闘えと……

    彼女に逢ったら伝えて欲しい

    そうすれば

    彼女は真実の愛を得るだろうと



THE LAST TURN


「あっという間に、並ばない!並ばない!」
                           ーーー第65回東京優駿実況 三宅正治
T

 乾いた声で女は笑った。

「奇跡には縁遠いと思ってたのにね」

 狭い馬房の中に葦毛の馬はいない。

 午後の運動に出されている。

 そう、ダービーへ向けて。

 もう一度、口唇から笑いがこぼれた。

「ダービー、ダービー、ダービー……」

 泣いていた。

 嗚咽はない。

 涙だけが、どうしようもなく溢れてくる。

 悲しくはない。怖いわけでもない。けれど嬉しいわけでもなかった。

 どうして泣くのか理解らなかった。

 どうしてダービーを目標にしたかも判らなかった。

 生きていることがわからなかった。

 反吐が出そうだった。

 吐く代わりに笑った。思い切り、大声で笑った。

 涙は止まらなかった。


U

 石壁にもたれて男は息をついた。

 上々だった。

 後は仕上げだけだった。

 この森に戻った最初の晩に自分で呟いた言葉が思い出された。

 戻って来た。

 戻って来たのだ。

 府中の朝は暗かった。



 
ROAD TO GOAL


「これはもう、フロックでも何でもない!」
                 ーーー第64回東京優駿実況 三宅正治
T

 市長執務室を黎明の紫光が覆っていた。

 執務机に置かれた軍帽の、秘密警察の紋章が暗がりで鈍色の光を放っている。

 秘密警察の長たる安田は、能面のような顔で仙台の夜明けを眺めていた。

「終わったか」

「ええ。回収を完了しました」

 部屋の片隅に蟠る闇にたたずむ男が応えた。

「嬉しくは、なさそうですね」

「乾杯で祝えるとでも思ったのか」

 窓に映る男の影に、安田の視線は冷たかった。

「奴が現れた」

「奴、というと?」

 問い返す口調にからかうような響きさえこめて、男は楽しげだった。

「奴だよ。奴だ」

 安田は吐き捨てた。

「<死神>だ。我々は外された。もう世界は我々のものではなくなったのだ」

 窓外に見える旭日はまだ低く、仙台の眠りは深い。

 運命の日曜日の幕開けにしては、静かな朝であった。


U

 TOKYOは死にかけだった。

 帝国陸軍大将不二澤和雄はそう断言した。

 6月頭にしては暑すぎる陽気のこの日曜日に、自由日本が総攻撃をかけてくることは確実だった。

 迎撃体制は整っていた。

 もちろんそれが、圧倒的多数を誇る敵の進撃を何ら阻むものでないのはわかりきったことだったが。

 不二澤の手元には温存してきた航空戦力がわずかながら残っていたし、国家総動員体制で量産した軽装甲車輌は相当規模の部隊編成が可能な数に達していた。

 そしてなお、帝国は民間人の戦力に期待することができた。大半が瓦礫と化したTOKYOの、工場跡地で、住宅地で、商店街で、ないし学校で、動物園で、自由日本とその義勇軍は背後から刺されることになるだろう。水を求めて入った民家で、義勇軍兵士は毒を飲まされることになるだろう。両手を差し出して近寄って来る子供たちはシャツの下に手榴弾を隠しているだろう。

 絶望的な闘いの中で義勇軍は疲弊し、仙台はTOKYOを畏れるようになる。

 屍の泥沼に自由日本は遅滞し、やがてそれは致命的な段階に達する。その時に彼らは思い知るだろう。TOKYOの戦いを終わらせるために何をしなければならないか。誰の力を借りねばならないか。

 即ち帝国の統治機構を継承すること。帝国の官僚組織、経済構造を受容することによってのみ、TOKYOの戦争が終わるのである。

 玉砕の布陣は既に完成していた。TOKYOの廃墟の下から新たな帝国を蘇えらせるための戦いの布陣は終わり、400万の将兵皇民が迫り来る死に静かに対峙していた。

 昨日までは。

 不二澤は昨日の土曜日までは考えもしなかった部隊配置を愕然として眺めていた。

 土曜日まで、少なくとも彼が30回目の結婚記念日を祝うために麻布の自宅へ帰った土曜の午後7時まで、確かに利根河畔に存在していたはずの騎兵大隊が消えていた。前橋方面に配置していた機甲部隊も消えていた。

 同様のことが全戦線に渡って起こっていた。

 その朝、冷たいお茶を不二澤に運んだポグロム記念高校の女子学生忍江順子は、電話に向かって怒鳴り続ける司令官の姿を見た。

「<死神>だと?<死神>とは一体何者なのだ!」

 とうとう頭にきたのかしらと少女は無邪気に考えた。

 それはある意味正しいと言えた。

 帝国将校の誰もが、国家の瀕死の瀬戸際で、多かれ少なかれ精神に異常をきたしていた。この時点で不二澤がそうでなかったとは言えない。

 しかし不二澤は幸運だったのだ。彼は知らなかったから。<死神>を。その真実を。

 例えそのために戦後何十年という時間を悩み続けるはめになったとしても。

 帝国を震撼させた<死神>。その正体を知らなかったがために不二澤は天寿を全うし、後悔の中に没することになる。

 
V

 氷嵐が窓の外で荒れ狂っている。

 夜と氷に閉ざされた世界にあって、少年の瞳に浮かぶ光は一筋の希望を湛えて暖かい。

 暖炉で薪が勢いよく爆ぜ火の粉を散らした。

 少年は静かに火の踊る様を見つめているが、その耳は小型ラジオに聞き入っていた。

「君はどこにいるの……君は」

 激しい雑音に、まるで砂漠から砂金の粒を拾おうとするかのように熱心に耳を傾けて少年は呟いた。

「相変わらず御執心ですね」

 揺り椅子にもたれた白皙の青年が優しく少年に微笑みかけた。

「なぜ、その心を少しでもマリエスに向けてあげないのです」

 説教するでもなく、言う。

 けれど少年は上の空で小さな一瞥を与えただけだった。

「マリエス?……マリエス、ね」

「心ここにあらず、ですか」

 青年の微笑は見る者を包み込むように広く、深い。

「可哀想ですよ。マリエスも彼女なりに精一杯頑張っているのですから。たまには褒めてあげてもいいでしょうに」

「うん、マリエスは可愛いよ。うん、僕もマリエスが好き」

 青年はそんな少年になおも何か言いかけたが、ふと言葉を止めて耳を澄ませた。

「ほら、マリエスですよ」

 ラジオは雑音に混ざって、小柄な北方人種の女性騎手とその愛馬を紹介している。

「マリエスはいらない……君はどこにいるの」

 青年は微苦笑して少年を見つめた。

 一途で純情な彼女がこの場にいなくて本当に良かったと思いながら。

 そして、この小さな君主とその忠実な家臣の間を取り持つ自分の気苦労を思って。

 氷嵐が窓に叩きつける音に混ざって雑音がしばらく続いた。

 暖かい沈黙が二人の間に降り、少年はラジオへ、青年は本へ没頭した。

 暖炉は赤々と燃え、雪と氷の世界に夜は更けゆく。

 やがて、少年の瞳の色が揺らぎ、その表情が輝きを増した。

「ここにいたんだね、ここに……」

 その瞬間、ラジオの雑音が止み、荒れ狂う嵐さえ収まったかのような静寂が訪れた。

「ファンファーレだよ、エリシオ」

 高らかに、誇りやかに、響き渡るそれは紛れもなくファンファーレだった。

 日本時間にして。

 2080年6月2日午後3時35分。

 第147回日本ダービー発走。


 

VICTORY


「クロフネは馬群に沈んでいくぞ!」
                    ーーー第68回東京優駿実況 来栖正之
T

 聞きたいと思う言葉を言ってあげるわ。

 愛してる、かな。

 最後までふざける気なのね。

 悪いことかな。

 あなたは人を愛したことがないの?

 かも知れない。

 冷笑的ね。

 俺は誰にも何も期待しない。そうすれば傷つくこともないから。

 その代わり満たされることもない。

 別にいいさ。旅の荷物は軽い方が良い。

 薄い日記は惨めでしょ。

 なら、君が聞きたいと思う言葉を捧げよう。

 愛してる、かしら。

 愛してるよ―――。

 ―――。

 もう、行かなくちゃ。

 祈ってやることしかできないが。

 あなたが信じてくれればそれで良い。今の私には、それしかないから。

 幸運を。

 幸運を、お互いに。

 靴音を残して女は去った。

 男は馬上で手綱を握り締めた。

 地下馬道の遥か彼方に6月の陽光が輝いている。

 灰色の馬の足取りは、歴史を刻むように力強い。


 
U

 走ること。それは抗うこと。

 降り積もる歴史の澱に埋もれる宿命に抗うこと。

 ただ勝利だけが無情の刻の流れの中で己を己たらしめる。

 もしも世界がうつせみの箱庭に過ぎぬのであれば、生命は傀儡の操る傀儡にも似て、闘うこと以外の何が生死の境界を定めるだろう。

 男は唇を噛んだ。

 戻って来た。

 戻って来たのだ。ただ勝利するためだけに。

 風が、吹いた。

 白いゲート越しに、緑が、どこまでも果てしなく広がる芝の緑が、見えた。

 ゲートが、開いた。


V

 皇帝は競馬を見つめていた。

 その眼は異様なまでに真剣だった。まるで、全身全霊を競馬の記憶に注ぎ込もうとでもするかのように。

 TOKYO決戦は既に始まっていた。

 それでも皇帝は競馬を見つめていた。

 これが終局だった。生涯を賭けて求め続けた彼の闘争の、完結だった。

 馬群は第一コーナーを回り、向正面の直線を進んでいる。

 天覧席には彼独りだった。

 かつて帝国六相と畏れ敬われた建国の盟友たちも既に鬼籍にあった。

 思えば永い道程を皇帝は歩いてきてしまっていた。

 新緑の芝を進む38頭の馬に彼が今何を見ているのか、それは当の本人でさえ知らないことであったかもしれない。

 天覧席の扉が静かに開いても、皇帝は競馬を見つめていた。

 一つの影が滑らかな動きで室内に滑りこむ。しかし皇帝は気づかない。

 影は洗練された動きで皇帝の真後ろに立つ。

 馬群は大欅の木陰を過ぎて第三コーナーから最終コーナーへ巡って行く。

 皇帝の眼は食い入るように馬の輪舞に見入っている。

 影が拳銃を抜き放つ。

 的確な動きでそれをポイントしようとした時。

「<死神>か」

 皇帝が言った。

 影がその動作を、止めた。

「是非もない。もはや世界は我が手に負えぬ」

 振り返るでもなく、言う。

「コダマ、という名であったな」

「―――そう、皇帝陛下の忠実な調教師の、ね」

 昏い瞳の女は言った。その容貌に少女の面影はない。

 歓声が、湧いた。直線へ、最終コーナーを抜けて。

「頼みがある」

 皇帝は、絞り出すような声で言った。

「余の闘争を、せめて完結させてはくれまいか」

 その答えは皇帝の後頭部に押し当てられた鉄の冷酷。

 否、の答えであった。

「死んで」

 撃鉄が、死の影を帯びて立ち上がる。

「素晴らしき哉、人生!」

 生の終わりに死があるのではなく、死の始まりにこそ生がある。

 それは即ち闘争であり、抗い、いや、あがきであるとすら言える。

 崩れ逝く皇帝の体躯の向こうへ瞳を向けて、女は微笑った。

 彼もまた、懸命に抗っているように見えたから。


W

 大観衆は水を打ったように静まり返った。

 誰もが言葉を喪っていた。

 あの馬。

 あの、灰色の馬―――。


X
第三軍より入電15:35。
 ―――我総攻撃ヲ開始ス。
第三軍より入電15:47。
 ―――河岸確保ニ成功セリ。渡河作戦ニ着手ス。
第三軍より入電15:58。
 ―――先鋒渡河ニ成功シ交戦中ナレド損害軽微ナリ。
第三軍より入電17:20。
 ―――TOKYO防衛塁外郭ニテ敵主力ト遭遇。損害極テ大ナレバ救援ヲ乞ウ。
第三軍より入電18:43。
 ―――TOKYO外郭ノ防衛陣ヲ制圧スルモ、周囲ノ状況酸鼻ヲ極メ、事態ノ収拾困難ナリ。TOKYOヘノ道ハタダ死屍累々タルノミ。

 
Y

 砲声が大地を揺るがす。

 着弾の衝撃が罅割れた舗装路に伝わってくる。

 灰緑の制服に身を包んだ青年将校が、無表情に弾倉を替えた。

 死んだ眼で、ちらりと戦火の上がる空を見やる。

 そしてまたすぐに任務へ戻る。

 彼の前には両腕で頭を抱え膝を折った人々がずらりと並ぶ。

 将校は黙って引き鉄を引く。

 老人の頭が弾け飛び、脳漿を撒き散らして絶命する。

 その様を確認しようともせず、将校は次の頭へ向けて引き鉄を引く。

 射出の衝撃で、彼の懐から一枚の紙切れが滑り落ちた。

 エクサイル、そして日本ダービーとそこに文字が読めた。

 わずかな間だけ、将校は動きを止める。

 しかしその目に理性の輝きはない。

 再び任務へ戻って引き鉄を引き続ける。

 瓦礫と化した街並に風船を割るような単調音が響く。

 青年将校の顔は無表情なままである。

 しかしずらり並んだ人々の顔もまた、恐ろしいまでに無表情である。

 







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