Das Pferderennen
競馬愚痴



31.Dezember.2008 Mittwoch よいお年を!

 わかりやすい政治バラエティ・ショーが連日のように放送される。国会議員が時代劇を演じる。冗談を言って笑う。派遣雇用者の大量解雇について熱っぽく語る。
 質問してもよろしいですか?お前らはいったい何をやっているのだ?お前らの仕事はいったい何だ?
 テレビ番組に出演する時間があるのなら他にすることがあるのではないか?いや、何をさしおいてもしなければならないことがあるのではないか?
 コンビニエンス・ストアの店員は本社の役員たちが休む年末年始もレジを打ち続ける。ガソリンスタンドの店員は石油会社の役員たちが休む年末年始もスタンドに立ち続ける。受験指導の教員たちは教育再生会議の有識者たちが休む年末年始も職員室にこもり続ける。工場から叩き出された派遣会社員たちは政治家たちが休む年末年始も路上にたたずみ続ける。お前らが休む年末年始もだ。
 年末年始くらいは休ませてくれとお前らは言うだろう。よかろう、休むがいい。だがその前に、すべての労働者が安心して年末年始の休暇をとることができるように、お前らがばらばらに解体してしまった法令をきちんと整えることだ。それができないならお前らは休むべきではない。労働者から休日をとりあげ、賃金を切り下げ、社会保障を事実上廃止したお前らが、労働者をさしおいて休暇を楽しむ?寝言は寝てから言え。
 なぜ臨時国会は年末年始に開いてはいけないのだろう。話し合うべきことがあるのなら開けばいいではないか?与党だけでなく、いかにも残念そうに休暇に入った野党の議員の皆さんも、そうはお思いになりませんかね?
 街頭には失業者があふれている。公共事業による旧来の失業者対策は効果がなくなったと言われる。そうかもしれない。だが公共事業などよりはるかに有効な失業者対策がある。それは派遣法を改正し、労働者の派遣を禁止することだ。そのうえで、派遣労働者を雇い止めにしたすべての企業に、解雇した派遣労働者を全員正社員として雇用させる。その費用はこれまでピン撥ねによって巨額の金を企業と労働者から吸い上げていた人材派遣会社に負担させる。別に非道な話ではない。ピン撥ね自体が非道なのだから。費用が足りなければ、多分足りないだろうが、それは国庫から支出すればよい。なに?その財源がないって?馬鹿な事を言ってはいけない。国庫の金は国民みんなの金だ。同胞が困っている時に少々融通せずにいる理由がないではないか?それが愛国心というものではないか?
 今回の事態は日本国民全体の教訓とすべきだ。どんな教訓かといえば、国民が政治に無関心でいることがどんな結果を生むのかということだ。派遣法の解禁がいい例だ。国民が政治に無関心であれば、つまり選挙の投票に行かなければ、政治家は国民の不利益を平気で行う。
 来年こそ選挙がある。選挙に行こう。怒りを行動に移そう。
 よいお年を、みなさん!

04.September.2008 Donnerstag 税金泥棒?

 五輪出場選手のうちメダルを取れなかった選手は国民に詫びろと主張する人々がいる。メダルを取れなかった彼らは強化費という名目で国民の税金を盗んだ泥棒だというわけだ。まったく理解に苦しむ。いったいどこからこんな馬鹿げた論理が出てくるのか?

 五輪出場選手が代表権をとれたのは強化費のおかげなのだろうか?誤解しないように。私は強化費の意義を過小評価しているわけではない。ただ、五輪に出場するためには、強化費と同じか、あるいはそれ以上に大切な何かがあるのではないのかと言いたいだけだ。その何かとは努力のことだ。氷を浮かべたコーラでも飲みながらテレビの前に座り、日本人選手の惨敗に憤慨する人には想像できないのかもしれない。一つの競技を極め、一国を代表して国際大会に臨むまでに、一人の選手がどれほどのものを犠牲にするのか。日々の重圧と将来への不安(プロでも一部の恵まれた選手を除いて皆同じだが、アマチュア選手には競技人生の後の展望はほとんどない)、そして孤独。負けて舞台を去るその背中に、それでも罵声を浴びせるのか?「税金泥棒」と。「国民に謝罪しろ」と。では逆に聞きたい。彼らを罵るお前たちは、彼らのためにいったい何をしたのかと。

 こういう答えが返ってくるだろう。「私たちは税金を払っている。強化費は税金から出ている。私たちには彼らを罵る権利がある」。こう反問しよう。「負けて帰ってくる彼らだって税金を払っている。彼らはあなたたちが行政サービスを受ける時、公的扶助を求める時、あなたたちの息子が公務員として雇われた時、あなたたちを罵っただろうか?あなたたちには支払った税金の見返りを受ける権利がある。その使途を監視する権利ももちろんある。だが、半生を賭けた大舞台から負け帰ってくる選手たちにだって、あなたと同じ権利があるのではないか?」と。

 なんと歪んだ意識だろうか。税金の使い道に関しては、怒るべき対象がもっとほかにあるのではないか?

 まあいい、百歩譲ろう。五十歩百歩ということわざはとりあえず無視しておけ。怒っているならそれでいい。ならばそれを行動にあらわせばいい。ただし、行動とは、あたかも自分が神であるかのごとく五輪選手団を断罪するとかいうことではない。断じてない。そんなものは行動とは呼べない。

 あなたたちは有権者だ。行動すればいい。五輪でメダルを取れなかった選手には国民に謝罪させるマニフェストを掲げる政党に投票すればいい。そんな政党がなければつくればいい。それが行動するということだろう。不平不満を言って何になる?

 勘違いした権利意識が幅を利かせる。税金泥棒を糾弾する人々が、自分の子に託す将来の夢は公務員だ。ガソリンの値上がりや政府の無策に怒る人々は、総選挙の投票日にはレジャーに出かけている。かといって、忙しい労働者のために設定されているはずの夜間投票窓口はガラガラだ。こんなことで何が変わるのだ?あなたたちは何に怒っているのだ?結局自分でもわかってはいないのではないか?それはそれで結構、哀れなことだ。だがそのいらだちを、スポーツに打ち込んでいるだけの人々に向けるのはやめたほうがいい。それが慎みというものだ。そうだろう?

 JOCの責任者までが同じような妄言を口にする。野球が負けた?だからどうした?国内ではプロリーグ戦が続き、メジャーからは一人も選手が帰ってこず、五輪に向けた合宿が始まったのは本番の2週間前だ。これでどうやってキューバや韓国に勝てと?あまりにもアンフェアな言い草だ。自分の仕事がお粗末なのを棚に上げて、贖罪の山羊に喜んでとびかかる。言わせてもらおう、こんなことを言うのはフェアではないが、構うものか、国内にはアンフェアな泣き言があまりにも多いのだから。
 不満ならあなたがやればいい。それができないのなら、静かに敗者をたたえるべきだ。

23.August.2008 Sonnabend 大きな人の傲慢

 「政府はあなたの代わりに働くことはできない。(あなたが)自ら働き、成功するのを助けるだけだ」。マケインはこう語った。

 賛成しましょう、あなたは全く正しい。だが私にも言わせてください。あなたにその権利があるなら、私にも、私をふくむあらゆる人にも同じ権利があるはずですから。

 私は言おう。「私は政府の代わりに働くことはできない。政府が私の代わりに働くことができないというのなら」と。要するに税金を払うつもりなんかありませんよということだ。万歳バーボン!!

 マケインの発言の程度の低さにはあきれる他ない。彼の意図は明確だ。すなわち「社会保障を求めるな、それが欲しければ自分で働け」ということだ。いったい、これが政治家の言葉であろうか?アメリカという国ではこんな政治家の存在が許されるのか?

 マケインの発言の問題点は、生活に困窮する人々を国の金を(社会保障という形で)くすねる怠け者・泥棒とみなしている点にある。もちろん、疾病、失業、貧困などの理由から社会保障の給付を受けざるをえない人々は怠け者と呼ばれるべきではないし、泥棒などであるはずもない。社会保障を求めることは、基本的人権の支柱の一つである社会権の正当な行使である。19世紀以降、先人たちの言語に絶する苦難・苦闘の末に獲得されたのが「人間に値する生活を営むための権利」たる社会権だ。日本なら雇用保険や生活保護が該当する社会保障給付は、この社会権に基づいた制度である。もちろんアメリカにおける社会保障とは何かに関しては、議論の余地があるだろう。何せ医療保険つまり国民の健康が営利企業の手にゆだねられている国だから!しかし、国民に奉仕するべき政治家が国民の社会権を否定したという一点をもって、マケインの発言は強く非難されるべきだ。彼は世界に民主主義を広げると高言する国の大統領候補だが、はたしてその民主主義の主役とは誰なのだろうか。病人、失業者、貧乏人でないことだけは確かだ。

 対岸の火事ではない。誰が政治の主役なのかという問題は、日本でも深刻だ。太田誠一は国民を「やかましい」呼ばわりしたが、彼の首はつながっている。つなげているのは誰なのか?そして、自分たちを愚弄する政治家をクビにできない有権者たる私たちは、いったい何の権利を持っている「有権者」なのか?

 政治家の目は国民に向いてはいない。彼らはもっと別なモノに尻尾を振ってハァハァ喘いでいる。好例がある。以下に挙げよう。

 8月21日付の朝日新聞朝刊はオピニオン欄で、水野和夫三菱UFJ証券チーフエコノミストの「もう内需には頼れない」と題する論文を掲載した。水野は言う。

 …(大企業は)世界経済のグローバル化に乗って成長を取り戻した。「改革なくして成長なし」を唱えた小泉元首相のおかげではなく、改革がなくても、大企業・製造業は成長したのだ。資本の力が国民の力を上回ったので、世界で戦える資本家はこれからも事業の拡大を期待できる。
 一方、国家は規制などによって働く人を守ることができなくなった。さらに株主の力が大きくなり、資本は利潤率を上げることに専念できるようになった。かつては企業が利益を増やせば労働者にも相応の分配があったが、いまは資本に圧倒される労働者の没落が格差問題として表れている。被雇用者は景気回復の恩恵にあずかれない。
 …(中略)内需に依存した業界やその労働者は今後も苦しい。日本の雇用者の約7割は、成長力が低い内需中心の非製造業に従事するから、今回の景気回復でも収入は増えなかった。こうして格差の時代を迎えた。成長の糧である新興国とは遮断され、販売先が国内に限定される中小企業・非製造業は取り残されたので、経済の足を引っ張り、景気の山が低くなった。
 …(中略)今後は、グローバル化と自分をいかに結びつけるかを考え、政府に依存しない心構えが必要だ。もちろん、グローバル化を敵視するだけでもだめだ。
 では、どうするか。大企業が集中する大都市圏は、グローバル経済に適した仕組みを整えられそうだ。一方、中小企業や非製造業が多い地域は、海外の顧客と直接つながって外需を獲得する新しい産業構造に立て直す必要がある。それには、企業の結びつきを従来の垂直的な関係から組み替えて、世界で利益を上げる仕組みをつくっていかないといけない。こうした視点から、日本にとって真に必要な構造改革とは何かを考えなければならない。

 この人物は何様のつもりなのか?

 問題点は7つある。

 1.大企業(製造業中心)の成長を支えた低賃金の派遣労働者を全く評価していない。
 2.戦後最長の景気拡大の功績を資本家の一手に帰せしめている。
 3.資本家の成長を讃える一方、低所得者の増加の原因を産業構造にこじつけ、資本家による搾取を問題にしていない。
 4.中小企業・非製造業は日本経済のお荷物であると貶めている。
 5.引用4段落1行目「今後は、グローバル化と自分をいかに結びつけるかを考え、政府に依存しない心構えが必要だ」における「自分」が何を指すのか意味不明。
 6.グローバル経済に適した経済構造として、低賃金の労働者による製造業の育成をとらえている。
 7.本論は19世紀的自由主義(帝国主義)貿易論の焼き直しである。

 1.については、水野はOECD社会政策指標における日本の相対的貧困の拡大の推移を読み返すべきだ。99年に派遣法が改正され、派遣対象業務が原則自由化されたことで、労働者の平均所得は低下し、派遣会社は急成長し、製造業は好調な輸出を維持できた。断じて大企業は「グローバル化によって」成長したのではない。グッドウィルなどのピン撥ね企業と手を組み、労働者の血を燃料にして肥大したのだ。

 2.については「世界で戦える資本家」というくだりがこの人物の馬脚をあらわしている。世界で戦える資本家に武器を提供し続けてきた低所得層は用済みですか?

 3.については、引用3段落1行目に「内需に依存した業界やその労働者は今後も苦しい。日本の雇用者の約7割は、成長力が低い内需中心の非製造業に従事するから、今回の景気回復でも収入は増えなかった」とある。まるで製造業の労働者には景気回復の恩恵があったような言い草ですね?求人情報を集めてみたことがおありですか?

 4.については引用3段落4-5行目に「中小企業・非製造業は取り残されたので、経済の足を引っ張り、景気の山が低くなった」とある。こういうことを語る人物は、深夜のコンビニで時給880円の店員から211円の発泡酒を買ったことがないのだろうし、長距離トラックの運転手が居眠りをしながら八戸から運んできた活イカの鮨を食べたこともないのだろうし、長時間労働が常態化している紳士服店でスーツを仕立てることもないのだろう。この人物にとって、それらの仕事は産業ではないのだ。では何なのだろう?おそらく18世紀アメリカの白人は、綿花畑で綿花を摘む黒人たちの仕事を産業とはみなしていなかっただろう。それと同じことだ。

 5.については、たぶん私の読解力が低いのだろう。ただ、ここで唐突に政府の話になるのが、実に理解に苦しむ。この文章のタイトルは「もう内需には頼れない」のはずだ。内需=政府なのか?そんなバカな話はない。おまけにそれに加えて「グローバル化と自分」とくる。ラーメン一杯食べればなくなる時給で働くTSUTAYAの店員の肩を叩いて言えというのか、「グローバル化と結びつけ、そして政府には頼るな、内需にもな」と。

 6.については、宮城県が好例だろう。村井知事が胸を張っている。「去年は4つの大工場を宮城県に誘致しました!」と。だから何だ?仙台市の最低賃金は時給額で639円だ。ああ失礼、電気機械等の製造業従事者はもっと高いんでしたね。ええと、幾らでしたっけ…719円!!ありがとうございます、知事。格安の賃金で働かせていただけるおかげで、大工場が4つも宮城県に来てくださるなんて!!大都市には職や娯楽を求めて人口が集まる。そうすれば労働市場は買い手相場となる。グローバル経済に適した仕組みといったって、それだけのものだ。ああ失礼、税金も集まる。その税金でまた新しい工場を誘致してくるわけだ。裏で賄賂が動いてなければ結構ですが。おっと、宮城県の知事は警察と仲がいいことでも有名でしたね。

 7.についてはあまりに無邪気で言葉を失う。19世紀以降、工業国の輸出競争、海外進出競争がやがて関税戦争、経済摩擦、国家間収奪をめぐる対立に発展し、破滅的な帝国主義戦争である第一次世界大戦を招いた。帝国主義とは何か。それはすなわち、産業資本が市場と資源を求めて国家に海外進出を要求する資本主義の一段階である。産業資本とは工場(企業)で拡大再生産を続ける資本をいうが、これを銀行などが支配すると金融資本となる。金融資本はもはや産業を重視しない。金融資本が求めるのは利潤のみである。産業資本も利潤を求めるが、その手段は拡大再生産に限定され、それゆえに雇用を生み、製品の品質を保証し、技術革新を進めざるをえない。しかし金融資本にはその必要がない。金融資本は株や債券の取引で利潤を増やす。金融資本にとっては支配下の工場の製品の品質などどうでもよいし、技術革新の必要などないし、できれば労働者など一人もいないほうが都合がいい。要はカネが増えればそれでいい。

 金融資本の成長は20世紀初頭に急激に高まった。その結果起きたのが世界恐慌である。これと同じ光景を私たちは見つつある。サブプライムローンの破綻と、ヘッジファンドや証券会社、銀行によるマネーゲームならびにそのバブル崩壊である。サブプライムローンについては「低所得者向け融資」が強調され、あたかも借金を返済できなくなった「低所得者」が悪者のように語られているが、余ったカネを所構わず突っ込んだ金融各社の責任が問われないのはどういうことだろうか。

 水野は論文の冒頭で述べている。

 この景気拡大に実感が伴わなかった要因のひとつは、グローバル化の進展によって、これまで先進国の経済を支えてきた「近代の仕組み」が変わったからだといえる。
 グローバル化のもとでは、企業は簡単に国境を越える。つまり国境を持った国民国家の力が衰える一方、米国やロシア、中国などの新しい「帝国」とグローバル企業が台頭した。グローバル企業をつかさどる資本は、16世紀の絶対君主をしのぐような力を手に入れ、圧倒的に優位になった時代といえる。

 「近代の仕組み」など何一つ変わってはいない。グローバル化は最近20年のできごとではない。産業革命により資本主義が、フランス革命により国民国家が誕生して以来、200年以上グローバル化は続いてきた。金融資本はかつて存在し、今も存在する。これからも同じように存在し続けるとしたら、彼らが招くのは破綻の2文字でしかないことを歴史が教えている。水野自身が三菱という財閥の金融部門の雇われ人だ。そして、彼のように金融の専門家を名乗る人間たちがかつて残した輝かしい業績をみるがいい。戦後恐慌、世界恐慌、金融恐慌、昭和恐慌、オイルショック、バブル崩壊、円高デフレ、サブプライムローン破綻、最近の物価上昇、これらの中のただ一つとして、エコノミストやアナリストと名乗る人々が、警告を発したことがかつてあったか?一度もなかった。彼らがしたことといえば、バブルの中でエサを漁るブタのようにケツを振り続けたことだけだ。

 ブタがエサをむさぼる中で労働者は声をあげ、国家に自分たちの権利を認めさせ、「人間に値する生活を営むための権利」を確立してきたのだ。先人たちの努力には頭がさがる。なぜならその努力のおかげで、私たちは残業手当をもらい(実際にはもらえないが)、休日を楽しみ(そんなものはカレンダーの中にしか存在しないが)、病気になったり失業したりしたらそれまで自分が払ってきた社会保障費の見返りを受け取ることができる(雇用保険が認められない雇用形態が増え←面白い冗談だ、生活保護は役所にとって不受理と同義のようだが)。

 水野はこうも言う。

 …(中略)国民国家として、資本と国家・国民が一体化していたのが近代だったが、資本と国家の結婚・共存関係が終わったのだ。

 信じてはならない。浮気男が不倫相手とは別れたというのと同じことだ。このことを証明するために、麻生太郎の発言を引用する必要があるだろうか?株式配当を非課税とするという発言を?この制度によって金融市場に資金が流れ込めば、金融資本家は大喜びだろう。マネーゲームにつぎ込む資金が増えるのだから。他人の金で遊ぶ競馬のようなものだ。さらに、いずれは小口投資家だけではなく、配当への非課税が、大口投資家にも適用されるようになるだろう。金融資本と国家の蜜月は続く。さらに甘く強固になるというわけだ。

 「政府はあなたの代わりに働くことはできない」。

 そうかもしれないが、国家には義務がある。「政府はあなた(国民)のために働く」という義務だ。ではあなたとは、国民とは、いったい誰のことなのか?残念ながら、世界中どこの国でも、政治家はこの肝心なことを忘れがちのようだ。だから「あなた」たちが教えてあげなければいけない。主人公がだれなのか。そのために「あなた」たちは投票する権利を持っているのだ。

 怒っているなら行動しよう。総選挙は必ずある。投票に行こう。もし行かなければ……「政府はあなたのために働くことはできない」。

10.August.2008 Sonntag 繰り返されるワイドショー政治

 今朝、桝添要一厚労相がフジテレビの番組に出ていた。閣僚や与野党の政治家が一人で出演し、質問者と討論する形式の番組だ。桝添氏がテレビに出ること自体は悪いとは思わないし、むしろ同じような番組が朝だけではなく、夜の8時や9時台にもつくられるべきだと思う。ただし、テレビ朝日がやっているような、ハマコーに吠えさせて終わるようなものは論外だが。
 桝添氏は番組の終盤、繰り返し言った。「我々を批判するなら、こうすれば解決できるという対案を出してくださいと言っているんだが出てこない。(我々を批判する野党は)非常に無責任ですよ」。残念だが非常に無責任なのは桝添氏の方だ。番組に出演していない野党に文句を言ってどうなるというのか?この番組で問われていたのは、他ならぬ桝添氏自身の責任であり、氏は最後までその点に絞って説明すべきだった。
 同じ光景は居酒屋でよく見られる。労働者たちが管理職に対して文句を言う。「俺たちにああしろこうしろっていうんなら、自分でやってみろつーんだよなあ、あのハゲ」。そのくせ、当の管理職の前に出ると彼らは何も言えず、そのハゲ頭がまるで御神鏡か何かであるかのように振る舞うのだ。
 いや、何ともレベルの高い番組ではないか?
 桝添氏は、これまで自分が積み重ねてきた公約破棄、前言撤回、苦し紛れの言い逃れの数々について、何も感じていないのだろうか。もし仮にそうだとしても、それは許されないことだ。しかし許されているのがどうにも解せない。番組の質問者もコメンテーターもアナウンサーも、へつらいの笑いを浮かべて桝添氏のご高説をうかがっているだけだ。本当に彼らはジャーナリストなのか?ジャーナリストというのは政権に寄り添う応援団にすぎないのか?なぜ誰も桝添氏と対決しようとしないのだろうか。ああそうか、それはきっと野党の仕事なのだ。ジャーナリストのではなく。だから彼らは桝添氏を温かく見守るだけでいいのだ。
 しかし待てよ、批判されるべき桝添氏がテレビに出ているのに、氏を批判すべき野党からは一人も呼ばれていないということは……似たような光景を確か数年前にどこかで見たような気がするんだが……あれも確か夏の暑い時期だったような……。

09.August.2008 Sonnabend 足を引っ張る・出る杭は打たれる・階層の固定化という三つのことに関して

 谷亮子は柔道女子48kg級で銅メダルだった。彼女は世界で三番目だ。素晴らしいことだ。誰が何と言おうと、世界で三番目の人間であるという事実の輝かしさは覆しようがない。期待はずれ?慢心?不快?言いたい奴には言わせておけばいい。そんなことを少しでも口にしてしまえる奴は、きっと何事にも挑戦したことのない可哀想な奴なのだ。何事にも挑戦したことのない奴だけが、何事かに挑戦している人間を嗤うことができる。そうだろう?何事かを成し遂げようとする行動に伴う幾多の困難、重圧、責任を少しでも知っていれば、その中でのたうちまわり、這いずってでも目標に向かって近づいていこうとする人間を、その努力を、笑うことなどできるはずがないではないか?
 宮城県に公立の中高一貫校が整備される。学区制度が撤廃され、全県一学区制が実現する。誰も反対しなかった。僕も反対しなかった。当然のことだ。気仙沼市に住んでいる中学生が、仙台市青葉区にある県立高校を受験できないというのはおかしなことだ。同じ県にある県立高校なのだから。たとえ電車で通学に片道3時間以上かかるにしてもだ。だがいざ全県一学区制度下での受験が始まるのを目前にして、中学生の親たちはうろたえ始める。「全県一学区制度だと、他地域から優秀な子が集まって、地元校の受験が難しくなるのではないか」「学校偏差にはどんな変化がおきるのだろうか」。そして最後にはこれだ。「そもそもなんで全県一学区なんて制度が必要なんだろう」。ちょっと待ってくれ、この制度を推進したのはあんたたちが選んだ知事なんだぜ。失礼、僕は少なくとも彼には投票していませんのでね!彼に票を入れるとき、あんたたちはいったいどこを見ていたんだい?中央省庁や大企業様と仲がよさそうな素晴らしい経歴か?それともつやつやてかてかに光るまん丸ほっぺか?全県一学区について親たちは言う。「説明が足りない」と。ごもっとも、確かに説明は足りない。だが今さら泣き言をいっても遅すぎる。全県一学区主義者の知事は、警察権力との仲直りや大企業誘致といった目玉商品と抱き合わせで自分を売り込み、まんまと成功した。全県一学区について異議を唱えるなら、投票でそれを示せばよかったのに、今それを口々に叫んでいる誰も、それをしようとしなかった。他に誰かがしてくれると思ったんですかね?他ならぬ自分の子どもたちのことなのに?
 社会の病はこの点にある。輝ける者へのねたみ。自分よりも幸福そうな者、自分よりも努力している者、自分よりも前向きに人生を生きている者を引きずりおろそうとする見下げた根性。そのくせ自分では何ら行動しようとはせず、自分が行動しなかったせいで起きた事態に対して文句を言うだけ。ルサンチマンというおなじみの病!!
 悲観することはないのだ。登るべき階段はいくつでもある。全ての階段が谷亮子のいる場所につながっているわけではないにせよ――もしそうだとしたら大いに困る、全ての国民が48kg級の女子で柔道をやり、オリンピックを目指すというのでは!!階段は様々な場所に通じている。登りやすさに差はあるにせよ、現在はまだ、幾つでもある――だいぶ減ってはきているが。どうやって減らされているかは、さきほど見たとおりだ。公平な競争、結果平等という名の悪平等からの脱却、伸びる子を伸ばす教育。そんなおためごかしがまかりとおる。
 認めたらいい。中高一貫教育校はエリート養成校で、貧乏人の子は入れない。なぜか?そこでは高校受験が中学受験におきかわるだけであり、悲しい話だが、中学受験の合否なんか、受験技術をどれだけみっちり仕込まれてきたかだけで決まるからだ。公立小学校の先生方がどれだけ子どもたちの「考える力」「ことばの力」「生きる力」を伸ばそうと、そんなものは一教科40分そこらの筆記試験では問いようがない。結局は鶴亀算のやり方や、国語の記号選択問題の解き方を、一月10万近い学費を払って仕込まれた子どもだけが狭い門を通過していく。おめでとう!「へえ君は○○校出身なんだね!」って話題だけで渡っていける人生の門出だ!
 金持ちの子は金持ちに、貧乏人の子は貧乏人に。レッセ・フェールというわけだ。文部科学省から各県各市町村の教育委員会にいたるまでがその旗振り役をやってるってんだから、もうなんて素晴しい世の中なんだ。踊り出したくなっちゃわないか?
 日本の教育に本当に必要なのは、学力が下位にあると考えられる層の底上げと(質の高い労働力の確保)、学習意欲の高い層の内、経済的な理由から高等教育を受けられない人々をどのように支援していくか(専門職の人員の確保)ということではないのか?一握りのエリートさえいれば、他の労働者は不要な存在か?タイやインドネシアからいくらでも連れてこられるから?看護師・介護福祉士の一部がすでにそうなってしまったように?

03.August.2008 Sonntag -Orandum est, ut sit mens sana in corpore sano.

 「健全な魂は健全な肉体に宿る」。偉い先生たちは言う。外でスポーツをしなさい、引きこもっていると心が病むぞと。そうだろうか?僕にはずっと疑問だった。この説に従えば、人類史上に残る思索的業績を残した人物は、すべからくムキムキのシュワルツェネガーだったということになる。だが中高生時代の僕には、ターミネーター的カントは想像できなかったし、中南米のどこかでラテン人相手に機関銃を乱射する無敵のアダム・スミスも考えられなかった。だいたい、「健全な肉体」という部分からして優生学的な悪臭が漂っているではないか。
 その疑問がある意味では正しかったと知ったのは、大学でラテン語を学んでからのことだった。「健全な魂は健全な肉体に宿る」というこの日本語の文章は、巧妙にトリミングされているのだ。画像をから都合の悪い部分をカットするように。この一文の原典は古代ローマの詩人ユウェナリスの『風刺詩集』で「Orandum est, ut sit mens sana in corpore sano.」(かくのごとく祈られるべきである、健全な魂が、健全な肉体にあるように)とある。意味の違いは明らかではないか?ユウェナリスの生きた時代、ムキムキの兄ちゃんたちは筋トレに明け暮れ、キケロも読まず、パンとサーカスにしか関心を示さなかった。この一文には「肉体だけじゃなくちょっとは精神の鍛錬にも気を遣ったらいいんじゃないですか」という皮肉が込められているのだ。
 誤読がまかり通っている。高校生たちは全員が甲子園や国立競技場を目指し、大学生は古典講読よりもサッカーやバスケットボールに熱中するように要求される。誰から?社会からだ。進学するとき、あるいは就職するとき、面接で「何を勉強したか」よりも「どんなスポーツをやってきたか」を問われる頻度の多さには驚かされる。ヴェーバーやサイードについて何枚のレポートを書いたかよりも、週に何時間グラウンドに立っていたかという話題の方が重要視されるのだ。
 引きこもりが社会の大害悪であるかのように語られる。だが誤りである。いかなる精神的業績も、引きこもることなしには達成されないのだ。この証明には数例をあげれば十分である。キケロは『国家論』を闘技場で書いたか?モンテスキューは『法の精神』をテニスコートや九柱戯場で書いたか?ニーチェは『ツァラトゥストラはこう言った』をどこでまとめたのか?このように考えられるようになって、ずいぶん楽になった。
 だが不思議なもので、このように考えられるようになったとたんに僕は「外でスポーツをすること」を職業の一部とするようになった。立場が変われば見方も変わる。少しくらいは。「健全な魂は健全な肉体に宿る」という珍妙な誤訳を支持する気にはさらさらなれないが「スポーツをすること」自体は悪ではないということがわかってきた。悪いのは日本で信仰されている唯一神教「体育会教」なのだ。
 スポーツは観るのも楽しいが、やってみるとその楽しさが倍になる。いやそれ以上になる。
 手始めに野球から始めてみませんかみなさん。

05.Januar.2008 Sonnabend ジャーナリズムとは?

 芸能記者が得意げに語っている。「彼と彼女の結婚は年内でしょう。間違いありませんよ」と。へえそうかい。それで?あんたがやっていることは、いったい人類の英知に対してどんな寄与をしているというんだい?想像しよう。彼らは就職活動に際し、どんな志望動機を掲げたのだろうか。
 残念ながら、志望動機が何であろうと、彼らの活動にはいかなる価値も存在しない。芸能記者は明らかにする。明石家さんまが誰に何を突っ込んだかを。藤原紀香が誰のモノをくわえたかを。大いに結構。だが、問いたい。それでいったい何になるのかと。芸能人の結婚と離婚について報じる二時間のかわりに、本来報じられるべき話題が見過ごされているのではないかと。
 誰が誰とヤり、誰が誰とヤらなかったかという問題が熱く論じられる。あまりに熱いせいで、不安定雇用、医療保険の矛盾、介護保険不安といった問題は論じられるヒマがない。その点で、現在の日本のマスメディアの報道姿勢は、高校二年生の日常会話と変わるところがない。フランス大統領が離婚した?なるほど。フランス大統領がデートした。なるほど。それで?それがイランの核問題を左右しますかね?
 親愛すべき国民は気づくべきだ。わが国が抱えているのは、誰と誰がヤり、誰と誰がヤっていないかという問題ではないのだ。我々自身が既にヤられている。 マスメディアという皮をかぶったケダモノに。あまりヤられまくったおかげで、自分の本来のお相手が誰だかわからないほどだ。
 私たちが怒りを抱くべきは、私たちの知らないところで若い娘のスカートの下にもぐりこんでいる芸能人ではない。私たちは、私たちが知らないところで私たちの権利を奪おうとしている奴らに対してこそ、怒りを抱くべきなのだ。そして、そこから、つまり私たちが本来怒りを抱くべき対象から、目をそらさせるよう努力を惜しまなかった奴らに対して。
 ジャーナリストを騙る奴らが大手を振ってのし歩く。金持ちは奴らに金を惜しまない。それだけの価値があるからだ。事実、私たちは芸能界の事情を知るのに忙しく、知らぬ間に労働者のピン撥ねは合法化され、郵便貯金はヘッジファンドのものとなり、教育基本法は改められた。
 芸能記者を名乗る人々に問いたい。これがあなたのしたかったことなのか?ビルマで死んだあの人の死から、あなた方はいったい何を学んだのか?
 あなたがたにできることは多い。お願いだ、この国を救ってくれ。方法は簡単だ。芸能人を監視する努力のかわりに、政治家を監視してくれ。企業家を監視してく れ。資本家の金の出入りを調査してくれ。それだけでこの国は変わる。まったく別のものに生まれ変われる。
 嫌か?そうだよな、こんな国民だもんな。あんたらが愛想を尽かすのも納得さ。

02.Januar.2008 Mittwoch 日本人の文化を語る傲慢

 今、テレビを見ている。麻生太郎が出ている。敬称略で失礼しますよ。
 最初はこう思った。「面白そうだな!」と。
 数十分経った。だんだん腹が立ってきた。
 一時間近く経った。麻生が言った。「日本人の文化は、権力があっても威張らない、知識があっても鼻にかけない、貧乏でも貧乏そうにしないってことです」と。頭にきた。
 注記しておくと、麻生の発言を正確に覚えてはいない―――失礼、あまりにも頭にきたもので。しかしなんと傲慢なセリフではないか。
 私には疑問でしょうがない。なぜ出演者の芸人も、アナウンサーも言い返さないのか。「お前が言うな」と。
 野中広務に対する部落差別発言はどうなりましたか?あれは野中の勘違いでしたか?野中があなたに謝罪しましたか?でなければ、きちんと決着させなければいけないのでは。そうそう、他にもアルツハイマー発言なんてのもありましたっけねえ。「権力があっても威張らない」ですか。あなたの口から出てくると、なんと素敵な響きを帯びる言葉なのでしょう!
 ええと、もう一つは「知識があっても鼻にかけない」ですか?そうですねえ、あなたは歴史に大変詳しいですからね。こんな発言がありました。「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」ってのが。あなたによると、日本人はドイツ人より無慈悲で、オスマン・トルコより計画的で、ルワンダ人よりも徹底的な民族浄化をやらかしたってことになりますね!アイヌ人と琉球人は、現在の日本には存在していないってことになるわけですからね。ちなみにアイヌについてはこちら、琉球についてはこちらで勉強されてはいかがでしょうか。知識を鼻にかけるのも考えものですが、いい加減な知識を振り回す権力者はもっとひどい害悪です。
 しまいには、なんだっけ?ああそうだ、「貧乏でも貧乏そうにしない」だ。貧乏を知らない人が貧乏を語ってはいけません。あなたはまさか「武士は食わねど高楊枝」なんてあたりからこんな理屈をひねり出しているのではないでしょうね?
 舐めくさった言葉だ。「貧乏でも貧乏そうにしない」だと?いったい今、平均的な所得の半分にも満たない国民がどれくらいいるのかご存知か?OECDの統計では1990年代には13.7%だった。2000年には15.3%に上昇した。現在はもっと増えているだろう―――次の『OECD社会政策指標』を読むのが楽しみだ。その間に麻生さん、あなたは閣僚として、あるいは党要職として政権の中枢にいた。あなたとあなたの仲間がよってたかって貧困に苦しむ人を増やしたのだ。その人々に向かって言うのか?「貧乏でも貧乏そうにするな」と?つまり、福祉を求めるな、税金を払え、と?
 こんな人物がテレビに引っ張り出される。いったい引っ張り出しているのは誰なのか?秋葉原を埋めたオタクたちか?そんな幻想を信じてはいけない。政治家をテレビに出しているのは、そうするだけのカネのある人々だ。チカラのある人々だ。貧乏人の生きるべき道を、天空の高みから説くことができる人々だ。
 二大政党制の必要が語られる。政党政治の成熟形として語られる。まやかしである。わかりやすい事例が一つある―――一つあればたくさんだ。
 参議院議員選挙での民主党の大勝を受け、経団連はそれまで自民25億、民主1億だった企業献金を見直し、民主党にも大幅に振り分けることに決めた。胸の悪くなる話ではないか?90年代以来、自民党は福祉徹底削減の暴政をしき、医療費は値上がりし、生活保護を受けるべき人が受けられず自殺し、日雇い派遣をはじめとする不安定かつ不正な雇用形態が爆発的に増加した。それもこれも、財界の圧力によってである。自民党はカネをくれる団体にのみ尻尾を振ってきた。私たちに対しては?クソをひっかけたってわけだ。だがようやく国民も気づいた。自分たちが自民党支持と引き換えに手に入れたのは、残業と失業と賃下げにおびえまくる毎日だけだったということに。だから参議院議員選挙で民主党は大勝できた。民主党は自民党がつくりだしたこのクソ地獄からぬけだすための蜘蛛の糸だった。
 だが今、あろうことかその蜘蛛の糸を買収しようとしている奴らがいる。いや、もうされているかもしれない。二大政党制というのは、とどのつまりそういうことなのだ。26億のカネがあれば、AとBに13億ずつ配ればいいんだ。それでAもBも腰砕けになる。どの道、国民に選択肢はない。要は福田と小沢のどちらの顔が気に入るかっていう問題でしかなくなってしまう。国民のための政治―――つまり税金をバカバカとって、医療・教育・社会資本の整備にバカバカとカネを使うということ。企業減税や累進課税率の抑制に使うのではなく―――は、永遠に手に入らないものになるだろう。
 一見わかりやすく、笑える政治バラエティ番組を鵜呑みにしてはならない。そこに出演しているのは、与党の政治家と野党第一党の政治家だけだ。与党にしたって小所帯の第二党が顔を出していることは少ない。この党に関しては政教分離の視点から問題があるとは思うが、それは裁判所が扱うべき問題であり、テレビ番組にどこかの政党の政治家が出演するのであれば、この党からももちろん出るべきだと私は思う。同じように、野党の政治家も、もしもその党が国会において何がしかの議席を占めているのであれば、全ての党から出演すべきだと思う。もちろんこんなことは不可能だろう。麻生太郎に英語をしゃべらせる番組に、民主党からも公明党からも共産党からも社民党からも無所属の会からも政治家が出演したらどうなる?ま、はるかに面白くはなるだろうが。
 そうであれば、政治家はテレビ番組には一切出演するべきではない。別に害悪はないだろう。彼らが今までテレビ史上に残る活躍を残したためしは聞かないから。
 その政治家の政策を知りたければwebサイトがある。マニフェストがある。私たちはそれらを調べなければならない。面倒くさいかもしれない。だが私たちはあまりに政策に無関心であることによって、まじめな政治家をずいぶん失望させてきたのではなかったか。「こ・い・つ・ら・に・何・を・言・っ・て・も・ム・ダ・じ・ゃ・ん・か!」と。その結果、政治家たちは国民にはケツのアナを向けることに決めて、エサをくれる金持ちに尻尾を振りはじめたのだ。
 私たちは政治を学ぶべきであって、それをバラエティ・ショーのようにふざけて遊ぶべきではない。
 え?じゃあ国民はどうやって政治家の人となりを知ればいいのかって?うーん、なぜ政策ではなく人となりなんか知る必要があるのか、私にはまったく謎なのだが、一つだけすばらしい手段がある。しかもそれはテレビ番組だ―――前言と矛盾するようだが。その番組には、全ての政治家が出演する。各政党一人なんて生やさしい数ではない。まさに政治家のオールスター・キャスト。しかも人となりまでばっちり映る。肝心なところで居眠りする奴、退席する奴、そもそも出席すらしない奴。
 それはどんな番組なのかって?
 『国会中継』です。

01.Januar.2008 Dienstag お前らの老後は俺たちに任せてくれ!―――冗談だろ?

 先日、私のところに保険のセールスマンが来て言った。「毎月5万円を定年まで払い続けてください。そうすれば、定年後、1.2倍にしてお返しします。どうです、すばらしい保険でしょう?」。セールスマンは満面の笑顔だった。私はといえば、開いた口がふさがらなかった。1.2倍だと?ナリタトップロードとテイエムオペラオーの菊花賞でさえ、馬連は7.8倍だった。1.2倍といえば、ラスト・ランとなった有馬記念でのディープインパクトの単勝オッズに等しい。いや、実にすばらしい保険ではないか。
 考えてみてほしい。40年近く毎月5万円を払い続けた見返りに、老いた私は毎月6万円を手にする権利を得るわけだ。
 問題点は2つある。まず、このセールスマンがインフレをまったく考慮に入れていない点だ。総務省が発表した11月の全国消費者物価指数は、物価が上昇局面に入ったことを示している。今のところ灯油やガソリンなど石油関連の価格上昇が際立っているが、遠からず原油高が物価全体を押し上げることは想像に難くない。
 考えてみてほしい。1970年代、日本は2度のオイルショックに見舞われた。以来、どれほど物価が上がったか。どれほどインフレが進んだか。過去がわかれば未来もわかる。現在の6万円が、40年後どれほどの価値をもっていることだろうか?
 もう一つの問題は、保険屋は信頼ならない、ということだ。今年騒がれた明治安田や富士火災海上だけじゃない。2001年から数えただけでも、生保会社の不当な不払いの総額は900億円を軽くこえる。900億円である。たったの5年か6年の間に、900億をこえるカネをごまかしたのだ。不当な不払いを平然とやっていた奴らの名前を挙げてみようか。日本生命保険、第一生命保険、住友生命保険、明治安田生命保険、東京海上日動火災保険、日本興亜損害保険、あいおい損害保険、富士火災海上保険、共栄火災海上保険、日新火災海上保険、ニッセイ同和損害保険、日立キャピタル損害保険、AIU保険、アメリカンホーム保険、まだまだある。保険と名のつく会社は全て、不当な不払いに手を染めているようだ。
 しかし、不当な不払いという表現は、事の本質を隠している。日本語にはもっとわかりやすい単語がある。他人の金を預かっておきながら、返す時になると知らん顔をすることを、日本では「詐欺」と呼ぶ。
 結論しよう。保険会社は多かれ少なかれ詐欺に手を染めている。そんな盗人どもに金を預けることはできない。奴らに金を渡したが最後どうなるか、アメリカの医療保険の現実が嫌というほど教えてくれているではないか?
 ただ、もう一つ問題がある。それは、現場で働いている保険の外交員たちの大半は善意に満ちている、ということだ。私のところに来て、よりによってディープインパクトのラスト・ランを思い出させてくれたセールスマンも例に漏れない。憎むべき奴ら、唾棄すべき盗人どもは、彼らの遥か上にいる。上等のスーツを着て、高級車を乗り回し、余暇にはゴルフを満喫するような人間どもだ。
 奴らは現場のセールスマンたちが血道をあげて集めた顧客の健康や、家族や、幸福のことなんか歯牙にもかけない。奴らが気にするのはただカネのことだけだ。だから堂々と詐欺をはたらくことができる。
 奴らは命令するだけだ。ウン百件の契約を集めろ。集まったか、よくやった。俺に特別ボーナス、お前には新しいノルマ。ウン百万円を集めてこい。集まったか、よくやった。俺は昇給、お前には新しいノルマ。
 企業の経営者にとって、重要なのはどんな製品をつくり、どんなサービスを提供するかということではない。要はどれくらいのカネを集めることができるか、ということであり、カネさえ稼げれば製品やサービスなんか二の次だ。
 だから生保各社は次々に新しい商品の開発を目論む。医療保険は既に奴らの手に渡りつつある。今はまだ、私たちは自分で自分の通いたい病院を選ぶことができるが―――原則の話だ、あくまでも―――、このまま国保が骨抜きにされていけば、インフルエンザにかかった小学生が生保会社から「それは単なる仮病だから学校に行け」と指図される未来がやってくるだろう。
 次に奴らが狙っているのは何だろう?答えは簡単、年金だ。
 2010年から国民の年金は日本年金機構が管轄することになる。この組織はあくまでも厚生労働大臣の指導下に置かれることになっているが、いつまでもつでしょうかねえ?やがて年金の一部も民間の保険会社に開放されるのでは?医療保険が既にそうなっているように?ちなみに、健康保険は今年から全国健康保険協会という、これもわけのわからない組織に移されるんでしたね?
 盗人たちが寄ってたかって福祉を切り崩していく。ひでえ国だ!だが責任の一端は私たち国民にある。
 私たちは享受することに慣れすぎた。福祉を支えているのが何なのかを忘れた。税率は低ければ低いほどいいものと思い込んだ。医者がいい暮らしをしているのをみると、あいつらは儲けすぎだ、甘やかされすぎだと妬んだ。もちろん、国民からふんだくった税金を、政府が無駄に垂れ流してきた一面はある。あくどいことをして儲けていた医者もいるだろう。だがだからといって、税金を払わなければいいという論理にはならないはずだし、医者の労働環境を劣悪にしていいということにもなるまい。だが私たちはそのように考えた。その結果何が起こったか?
 健康保険はやせ細り、医者は職場を離れた。私たちは私たちの福祉を私たちの手で切り崩してきたのだ。おめでとう、その試みは確実に成功を収めつつある!
 社会保険庁の問題にしても同じことが言えないだろうか?職員がだめなら職員全員の首を切ればいい。公務員には首切りがない?そんな嘘をまさか信じてはいないでしょうね?
 防衛省で汚職が問題になったら、防衛省を潰して新組織に移行させますか?三菱あたりは狂喜乱舞するでしょう。それとも防衛省は潰せませんか。国防は国家の要だから。
 よく考えてほしい。福祉もまた国家の要なのだ。そして、国防とは違って、病気や死、生活苦という敵は、人生の中で必ず国民を襲う。必ずだ。それなのに福祉を管轄する社会保険庁を潰す?なんとトチ狂った理屈であることか。だがそのトチ狂った理屈を、当の私たち国民が支持しているのだ。やれやれ、ひでえ国だ!
 一度手放したら、福祉は私たちの手には二度と戻ってこない。盗人どもがそれをばらばらに引き裂き、それぞれのねぐらに持ち帰ってしまうからだ。
 行動しよう。幸いなことに、私たちには行動の手段がある。投票という手段が。今年は総選挙がある。盗人どもの操り人形を国会に送り込むわけにはいかない。
 行動しよう。

31.Dezember.2007 Montag 蛇の舌

 もし、あなたの家が燃えていて、あなたの家族が中にいるというのに、知事が手ぶらで現れて、「気にするな、事態は少しも深刻じゃない。家族が焼け死ぬって?君は悲観的なマスコミに踊らされているんだよ。煙を吸って娘が一酸化炭素中毒?今時、欧米じゃ誰もそんなトンデモ説を信じちゃいないよ」と言ったとしたら、あなたはどうするだろうか。私なら、まず手持ちの消火器で知事の頭を一発やってから、119番に通報するだろう。おっと失礼、順序が逆でした、まず119番に通報してからがいいですね。その方が、念入りに仕事に取りかかれますから。
 火災に見舞われた人間に「実は火事は安全なんだ」などと吹き込む知事の魂胆は、見え透いているでしょう?防災費が惜しいから。結局はただそれだけのこと。防災費?俺たちにはもっと大事なことがある。たとえば、大企業のために税金を優遇するとか、大企業のためにただで工場用地を用意してやるとか、大企業のために最低賃金を低く抑えておくとかだな。県民の生活?うーん、それで?奴らが俺たちに何をしてくれるんだ?せいぜい、教育扶助や生活保護をふんだくっていくことくらいだろ?
 あ、村井知事、あなたのことじゃありませんよ、念のため。ここで取りあげるのは、あなたよりひどい詐欺師の話です。
 この火事の話と似たような例が最近あった。つい昨日のことだ。あるテレビ番組の中で、地球温暖化の話題が取りあげられた。出演者いわく「恐竜がいたころの地球は、今よりずっと気温が高かった。だから地球が(白亜紀なみに!!)温暖化すれば、(昔は図体のでかい恐竜を十分に養えるほど食料が豊かだったわけだから)食糧問題なんか解決しちゃう」。
 これが発言をそのまま文にしたものではないことに注意。そればかりか、かなり曲解している恐れがある―――すみません、頭にきたもので。しかし、どうだろう、実に笑える発言ではないか?彼にいわせれば、温暖化は私たちに薔薇色の未来を約束してくれる。食糧は食い放題―――信じられるか、恐竜なみに食って太れるなんて!!!
 まず、この出演者は、食糧問題の何たるかを理解していない。現在でも、食糧は足りているのだ。65億人が栄養をとるのに十分な食糧が、世界にはある。それにもかかわらず、8億人が空腹を抱えている。食糧問題は再分配の問題である。地球の気温の問題なんかでは、断じてない。
 次に、土地の問題である。平均気温が上昇すれば、乾燥帯やその周辺地域では耕作が不可能な土地が増え、農民が生活基盤を失うだろう。何だって?そのかわり、耕作可能な土地も(冷帯を中心に)増えるだろうって?それなら、スーダンの枯れ果てたオアシスに呆然とたたずむ村人に言ってあげるといい。「気にするな、事態は少しも深刻じゃない。今朝のCNNのニュースじゃ、シベリアの大半が耕作可能地帯になったらしい。まあほとんどが泥炭地か、ツンドラの名残りの泥沼だが、まあ、心機一転頑張れよ。じゃあな!!」それで?翌日村人たちはFedexの航空便で送られるのか?スーダンからシベリアへ?故郷とはそんなに簡単に、Fedexのシールと引き換えにできるものなのか?あるいは、アフリカに住む貧しい農民たちには、故郷なんて贅沢は許されないとでも言うのか?アフリカに住む者は、それ以外の者たちの大いなる意志につべこべいわず従って、世界中を行ったり来たりしろと?その実例を私たちは奴隷制という名前で知っているわけだが。
 土地の問題といえば、もう一つ、別の出演者による発言があった。この人物は環境問題の専門家を名乗っていたっけ。
 「北極の氷が溶けたって海面はほとんど上昇しませんよ。したとしても10cmくらいでしょう」
 もちろん本人の意図を正確に再現できた自信はない。しかしどうだろう、笑いを通り越して、愕然とする内容ではないか?おまけに、海面上昇についての話題はここで打ち切りだった。まるで「温暖化による海面上昇なんて起こりませんよ」というような内容ではないか。
 大きな問題点は、北極の氷が溶けても海面上昇は起こらない、という巧妙な言い方にある。確かに氷の体積は水より大きい。だから、氷が溶けても、なみなみとコップに注がれたコーラがあふれることはない。
 だがそこに、新たに水を注いだらどうなるだろうか?答えはかんたん、あふれるに決まっている。同じことが現実に、地球規模で起きている。氷河の融解である。2007年のIPCCの報告は、氷河の融解によって、2100年までに海面が18cm〜59cm上昇すると予想している。「上昇したとしても10cm」どころの騒ぎではないわけだ。おっと、忘れるところでした。同じ極でも南極の氷、あれも陸上の氷ですね!
 環境問題の専門家がこんなことを見落とすだろうか?そんなはずはない。だから、この人物は意図的に、視聴者が、温暖化による海面上昇の影響を過小評価するように発言したのだとしか考えられない。
 さらにもう一つ問題点がある。他の出演者がこの発言を援護する形で「(ツバルが海没しそうなのは)米軍が基地を作るために整地したからだ(だから温暖化とは関係ない)」と語った。
 おいおい、ツバルに米軍基地だって?そりゃまさか、第二次世界大戦あたりのことを言ってるのか?フナフチ空港の原型ができた時の話を?ならきっと、日本も一枚噛んでるに違いないだろうよ。どっかんどっかん爆撃したんだからさ。ブルドーザーで島を沈めることができるなら、爆弾にはもっと多くのことができたに違いないと、そうは思わないか?
 ぜひツバルでも放送したい番組ではないだろうか。他にも、海没の危険におびえる太平洋の島々で巡回興行すればいい。さぞ日本の国益を高めるのに役立つことだろう。
 地球温暖化と海面上昇は関係している。それもとても深く、密接に。氷が溶けることだけじゃない。試しに、徳利に酒をなみなみと注いで、燗してみるといい。どうだい?え?あふれだしたって?ということは、熱膨張について説明する手間が省けたってわけ だ。
 もう一度言う。こんな単純なことを、環境問題の専門家が見落とすはずがない。ということは、彼は意図的に、視聴者が、温暖化による海面上昇の影響を過小評価するように発言したのだ。なぜだろう?
 発言内容と番組の構成を改めて振り返ってみると、いかにも経団連なんかのお偉方の喜びそうな内容じゃないか?
 経団連や業界団体は、口では京都議定書の目標達成に賛成しながら、大規模事業所への削減義務設定や環境税導入、排出量取引制度の導入には反対してきた。その点で、彼らはアメリカの財界人やそのロビイストどもと大差ない。ある意味では、アメリカ人のほうが潔くさえ見える。そうじゃないか?アメリカ人は「できない。だからやるつもりもない」と言い切ったんだ。おためごかしに明け暮れている日本人よりよっぽど品格があるってもんじゃないか。
 結局は彼らも―――彼らというのは日本の財界のお偉いさんたち―――もアメリカ人の真似をしたいんじゃないかな。京都議定書なんて不可能だ。だから離脱する、あるいは、離脱するのはまずいので、もう少し穏便に、なかったことにする―――黙殺する。
 でももしそうなった時、日本の国民はどんな風に反応するだろう。偉いさんたちが恐れているのはそれだ。国民は怒り狂うんじゃないか。怒り狂ってキャノンの製品を打ち壊して回るんじゃないか。
 そこで国民を「正しい方向へ」教育する必要が生じる。教育にはそれなりの教師が必要だ。もし経団連会長がテレビで「温暖化なんて心配なし!」なんて言っても誰も耳をかさないだろう。みんな、誰の話なら聞くかな?そうだなあ、たとえば環境問題の専門家、とか。
 オーケー、1人は決まった。でもそれだけじゃ足りない。まともな学者ならそんなオファーを蹴るだろうし、まともでない学者1人では、まやかしを見破られる恐れがある。
 そこで、多数の「評論家」を用意する。経済・軍事・スピリチュアル、何だっていい、「評論家」の意見なら国民は鵜呑みにする、というわけだ。
 でもこれでは番組がちょっと固いイメージになりすぎる―――実態は詐欺師の集まりのゆるゆるな番組であるにせよ。
 そうだ、バラエティーって入れ物に入れちまえばいい。司会には環境問題なんかとは無縁の芸人を用意しよう。芸人だって!?馬鹿野郎、下手にジャーナリストでも呼んでみろ、嘘がばれるじゃないか。
 こうしてお膳立てが整う。国民教育の一大プロジェクトの始まりってわけだ。
 同じ例はごまんとある。視聴者は教育されていく。テレビのつくり手―――テレビ局じゃないぞ、番組にカネを出す者のみがつくり手たりうる―――の思うがままに。やれやれ!
 さて、どうしよう?
 私なら、まず手持ちの消火器で頭を一発やってから、119番に通報……おっと、順序が逆でした。まず119番に通報してから、念入りに仕事に取りかかることにしましょう。
 抗議という名の槌でもって、詐欺師の頭をガツンと一発。
 念入りにね。



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