鏡と奴らのフガート


八猛馬

 聞こえるんです。

 夜になると、奴らが動き回る音で目が覚めちゃうんです。

「なるほどね」

 白鳳町で開業して五年になる医師、都村は椅子の上で脚を組んだ。

「それは心配ですね。よくわかりますよ」

 ほどほどの同情を込めてうなずいてやる。この動作は、都村の精神科医としてのキャリアの中ではお決まりのもので、それ自体には何の意味もなかった。マクドナルドの店員が、注文をとる時には常に笑顔を浮かべているようなものだ。客に対して愛想よい印象を与えるためだけの笑顔。

 もっとも、俺が売っているのは一個80円のハンバーガーじゃないし、この同情を込めたうなずきという奴も、女子高生のアルバイトが浮かべる「スマイル」のようにタダじゃない。

 都村は頭の中で皮肉っぽくつぶやきながら、正面のソファに座っている男を眺めた。

 しょぼくれたおっさんだった。何から何までちっぽけな感じがする。身長や体重といった外見もそうだが、中身もせいぜいフェザー級というのがいいところだろう。だらしなく伸びた前髪の下でせわしなく動く目が、このおっさんの魂が覚醒剤一グラムほどの価値もないことを教えている。

 覚醒剤か。そうだな、原因はきっとその辺だろう。

 都村は自分の思いつきを賞賛した。

 こういう、五十歳を過ぎるまで他人のクソを拾って暮らしてきたような男は、必ず麻薬に手を出すものじゃないか。

 都村は、周囲があざのように黒ずんだ男の目を見て、次にその下のげっそりとやつれた頬に視線を移した。

「辛いでしょうね」

 都村は同情の中に自信を混ぜ込んだ声で言った。だいじょうぶ、病気の原因は全てわかりました。私はあなたを救い出してあげることができます。

 実際は、そんな自信など毛ほどもなかった。だからこそ言葉そのもので、ではなく、声の調子でそう示したのだ。

「ええ、辛いんです、先生。奴らは俺をずっと監視してます。他の人には見えなくても、俺にはわかるんです」

 男は救いを求める者特有の、羊のように従順で愚かな光を浮かべた目で、都村を見あげた。

 ほら、また一点だ。

 都村は温かくうなずいて見せながら、頭脳の中の電光掲示板に新たな得点を加算した。試合開始十五分で、既に我らがベガルタ都村の点数は8を横に倒した記号、即ち無限に変わっている。対するちび親父の得点は、まあわざわざ確認する必要もあるまい。

 ちょろいおっさんだった。

 この男を治療するつもりはなかった。そもそも、薄汚れた作業着を一枚着ただけの服装から察するまでもなく、継続して診察を受けるための資金さえ持ってはいるまい。

 要は、この三十分の診察で男を充分に満足させて帰してやること、それが重要だった。そうすれば悪い噂をたてられる心配もない。

 都村はこの中産階級上層のベッド・タウンたる白鳳町に自分の城を持って以来、評判の二文字に対しては核融合炉を扱うくらいの注意を払ってきた。であればこそ、開業五年目で年収一千万以上の旦那を持つ上品な奥様連中を六ダースも患者として獲得できたのだし、三十四歳にしてランボルギーニとフェラーリを自宅の車庫に並べる身分にもなれたのだ。

 もっとも、こんな下層の労働者――いや失礼、失業者かもしれない――をけんもほろろに叩き出したところで、診察と称するたった一時間の茶飲み話に気前よく大金を払ってくれる奥様たちを失うことにはならないだろう。むしろ、この世界においてより深刻なのは貧困や労働者搾取といった諸問題ではなく、今日はどの店で服を買い、どの美容室で髪を染め、どのレストランで昼食をとるかの選択であると信じる奥様方は、自分たちが通う同じ病院に、こんなおっさんが入り込むことを嫌がるかもしれない。

 だが、と都村は計算してみる。

 もし明日、退屈のあまり自分が心の正常なバランスを失ってしまったと思い込んだ奥様がやってきた時、俺が今日のちょっとしたエピソードを話して聞かせてやったら、どうなるだろう。無駄話をする時間なら山ほどあるのだ。だって診察そのものが無駄話なのだから。

 昨日、診察時間が終わって、僕が資料を整理している時に、可哀想なおじさんが見えましてね。あんまり思いつめた表情をしているので、話を聞いてあげることにしたんです。え?ああ、そうです、診察時間は過ぎていたので、病院の玄関は閉まっていました。それが規則ですからね。ただ、僕がカルテを取りに行く途中、玄関の前を通りかかって、それでおじさんに気づいたんですよ。

 本当はそうではなかった。最後の患者である五十過ぎの尻ばかりでかくなった婆さんを追い返した後、ブランデーをたっぷり垂らしたコーヒーをすすっていたら、この小男が勝手に入ってきたのだ。受付に雇っている小田今日子が帰る祭に玄関の鍵を閉め忘れたのだろう。その責任は取らせるつもりだった。もちろん、今日子はまだ二十四歳だし、どきっとするくらい大きな胸をしているのだから、口頭でちょっとした注意をしてやれば充分だろうが。

 とにかく、そんな話をしてやれば、そして、その可哀想なおっさんが、年収百万円も稼いでいないような人間だったということを忘れずに強調しておけば、それを聞いた奥様はこの都村先生の「ボランティア精神」に感銘を受けるのではないだろうか。誰とでもわけ隔てなく接する、医者の見本のような、ついでにいうと胸板も厚く脚も長いハンサムな都村先生って、なんて素敵な方なんでしょう、というわけだ。

 それで新しい患者が増えてくれれば万々歳。そろそろ一人か二人新米の精神科医を雇って、仙台の中心部に新しい診察所を作ってもいいころだ。白鳳町は仙台市の中でも中心部に近く、住人は間抜けな金持ちぞろいでボロいことこの上ないが、七十七銀行の本店近くにオフィスを持てば、さらに箔をつけることができるだろう。

 そのためには患者だ。暗証番号は俺だけが知っている、患者という名のキャッシュ・ディスペンサー。そして患者が欲しければ、小さな評判をこつこつと積みあげていくのが一番だ。

 都村は組んでいた脚を下ろした。

 おっさんはわけのわからないことをべらべらとしゃべりまくっている。都村は自分の口が勝手に動き、いちいちおっさんにあいづちを打っていたことに初めて気づいた。

 別に意外なことではなかった。熟練したボクサーが、何も考えず反射だけで相手のパンチをかわせるのと同じことだ。他人の悩み事など真面目に聞いていたら体がもたない。患者の話は右から左へ、これが成功する精神科医の鉄則だ。

 その内、本を書くのもいいかもしれないな、と都村は思った。その間もおっさんはしゃべり続け、都村の口はあいづちを打ち続けている。――奴らは鏡の中から出てくるんです。ほう。凶器は持っていません。それは興味深いですね。奴らには固くて鋭い歯があるんです。なるほど。奴らは噛むんだと思います。そうかもしれませんね。一度、夜中に奴らが噛み殺した人間の数を自慢しあっているのを聞いたことがあるんです。どんな気持ちがしましたか……。

 しかし本は、と都村は考える。安っぽい実用書みたいなのはやめておくべきだ。『好感をもたれるための十の方法』とか、『成功する人の七パターン』とかはいけない。そんなことでは、本は売れても学会では軽く見られるだろう。金は医業で稼げばいい。本を書くのはキャリアのためだ。売れなくとも重みのある題名がいいし、印税を叩かれても信頼のある出版社がいい。書店には並ばなくとも、大学の図書館に並べばいいのだ。その方が「権威」っぽいじゃないか、ええ?

 壁掛けの時計を見る。

 時刻は六時半を指している。

「お力になれたでしょうか」

 都村は小男に向かって言った。

 小男は急に話をさえぎられたにもかかわらず、少しも気を悪くした様子はなかった。

「ええ、もちろんです。それで、どこまでお話しましたっけ。日通だっけな、まあいいや、それで、奴らが俺を付け狙いだしたのは……」

 気を悪くした様子もないし、話をやめるつもりもないようだった。

 都村は再び脚を組んだ。

 小男は憔悴しきった顔で続ける。

「たぶん、俺が奴らをのぞいたせいだと思うんです。あの時それを知ってれば、俺だってあんなに何十分も鏡ばっかり眺めたりはしなかったでしょうが。でも実際には、俺は奴らがうっかりそこに姿を現すまで鏡を見てしまったんです」

「ちょっと待って。鏡ですか?鏡がどうかしましたか?」

 都村はやや乱暴な口調で聞いた。

 小男はうなずいた。

「だから、さっきから繰り返し言ってますが、俺は奴らをのぞいてしまったんです。運が悪いことに俺はそれに気づいたし、奴らもそれに気づいた。それで歯がかちかちなる音が聞こえるようになったんです」

 都村はもうあまり愛想に注意を払ってはいなかった。小男は話が下手だった。しかも都村はこれより前の話をほとんど聞いていなかったから、ますます小男の話の要旨をつかむのは困難だった。

「それは鏡越しに何かを見てしまったということですか。その記憶があなたに脅威を与えているんですね」

 おおかた、昔、便所かどこかでクスリをキメている時に、鏡に幻覚が映ったんだろう。

 都村は組んだ脚の先を小刻みに揺らしながら思った。貧乏揺すりのようなこの動作は癖ではなかった。それは自分が抱いている苛立ちの表現だった。都村と付き合ったことのある女なら、この動作の意味を一通り並べることができるはずだ。音楽を消せ。今日はそれ以上近寄るな。目の前から消えろ。そして、くだらない話をやめろ。

 だが脚を揺らす動作は、赤く塗ったMSがシャア専用であるように私生活専用であり、たとえ時間外だとはいえ、診察の時間に出したことはなかった。

「生活を変えることです。環境が変われば、人間の心理もがらりと変わります。案外、それで色々な問題が一気に解消してしまう、なんてこともあるものですよ」

 都村は立ちあがりながら言った。

 時計は六時四十五分を指そうとしている。七時半に約束があった。今夜は行きつけの店でキューバ人のバンドの生演奏があるのだ。彼らがキューバ人であろうとアフガニスタン人であろうと、はたまたシエラレオネ人であろうと、別にどうでもよかったが、演奏を一緒に聴く相手が、コカ・コーラのボトルほどのほっそりしたウエストの上に、ICBM発射台級の巨大な砲台を二門備えつけている女だとすると、これはちっともどうでもよくない。

 今から病院に鍵をかけて車に乗り込み、店に向かったとすると到着はぎりぎり七時二十五分というところだろう。

 都村は小男の手を握るふりをして立ちあがらせながら、素早く時間を計算してみた。

「環境を変えるんですか」

 しょぼくれたおっさんは、モーゼの言葉を聞かされたイスラエルの民のように、不安げに目をしょぼつかせた。

「そうです。今はどういった家にお住まいですか」

 男の背中に手を回し、そっと扉に向かって押しやる。

「車です。軽トラで生活しているんですよ。さっきも言ったと思いますが」

「ああ、なるほど、もちろんそうでしたね」

 右手を男の背中に、左手を扉のノブにかけて都村はうなずいた。

「それでね、先生。奴らは鏡に……」

「そうそう、鏡にね。しかしまず生活を変えるのが大事です。酒はやっちゃいけない。クスリなんか厳禁です。いいですね?」

「俺は酒も飲まないし、クスリなんて何のことだかわかりませんよ」

「でしょうね。とにかく注意することです」

 都村は扉を開け、待合室に男を押し出した。

 四十万もした絨緞の上に、常夜灯が薄ぼんやりした光を投げかけている。

 都村は小男の顔と診察室の中を見比べ、部屋の壁にかけた上着を取った。

「私もこれから帰るところです。玄関まで送りましょう」

 診察室の電灯を消し、扉を閉める。

 おっさんはなおもしゃべっている。

「先生ね、鏡なんですよ。奴らは鏡にうっかりしていたんです。ああ、俺さえあの時気づかなかったらなあ」

 都村はもう言葉を発する気もなかった。

 待合室を抜け、品のいい靴入れと姿見の鏡が置かれた玄関に出る。

 広々とした三和土には、味噌と醤油で一昼夜煮込んだと思われるくらい汚いスニーカーが脱ぎ捨てられている。

「さあ、もう暗くなっていますから、気をつけて」

 小男が靴をはくのを待つ。

「鏡なんだなあ、それと鋭い歯ですよ。奴らは自分たちのことを知られるのを嫌がるんです。秘密主義ってやつなんでしょうね。だからあんな醜くて恐ろしい歯をもっているんです」

 都村は男の話を聞くまいと思い、玄関のガラスから外界を眺めている。

 やれやれ、今日はとんでもない残業だった。

 小男を外に追い出して扉に鍵を下ろし、都村は溜息をついた。スコッチを三杯まで飲むのもいいかもしれない。帰りの運転が怪しくなるが、もしそうなればホテルに泊まればいいわけだ。何も自宅でしか女の相手ができないというわけじゃない。

 ふと、脇の姿見に目がいった。

 身長180センチ、体重75キロのすらりとした体格の男が映っている。着ているスーツは黒系で地味だが趣味がよく、ついでに値段もいい。厚く膨らんだ胸板は、スポーツ・ジムに振り込んでいる安くない年会費が決して無駄ではないと主張している。

 男の背後には玄関の反対側の壁が見える。開業するにあたって、わざわざイタリアから取り寄せた壁紙に、大枚をはたいた印象派の絵がかかっている。その絵の下には黒いものがある。何か黒くて、小さく、丸まっこいものが。

 病院は静まり返っている。

 都村はふとそのことに気づいて、少し不安になった。廊下は薄暗く、常夜灯の照らす待合室は赤っぽい光の中にくすんでいる。そして、鏡の中に見える黒くて丸い何か。

 都村はそれをよく見ようとして鏡の方に身を乗り出した。

 陽光の中で優雅にボート遊びに興じている人々を描いた絵画の下に、鼠くらいの大きさの球体がぶら下がっている。

 何だろう、あれは。

 奴らは鏡。固くて鋭い歯。

 その言葉は脳内に大きく反響し、都村をぎくりとさせた。

 鏡の中で、それが動いた。

 都村は反射的に身体をのけぞらせ、背後を振り返った。

 何もない。

 気難しいフランス人が百年前に描いた絵の下の空間には何もない。

 病院は静まり返っている。

 ひたひたと忍び寄る静寂に、都村の額から汗が一筋滑り落ちた。

 鏡をもう一度確かめてみよう。おそらくゴミがついているのだ。あのおっさんの体から落ちたものかもしれない。何しろ、相当汚い男だったから。

 だが背後を振り返る勇気が出なかった。

 奴らは鏡の中。

 固くて鋭い歯。

 俺は何をおびえているんだ。全部、あのヤク中の戯言じゃないか。

 だがそう打ち消そうとしても、冷たい不安の炎は心の奥底にわだかまり、消えなかった。

 薄暗い空間に死者の沈黙とともに取り残されて、都村は鏡に背を向けたまま動けない。

 時間の感覚がなくなっていた。

 しかし長い脚をした巨乳との待ち合わせも、もうそれほど重要な問題ではなかった。

 俺は一人だ。

 だが厳密には一人じゃないかもしれない。

 絵画の下の黒い球体が、瞼の裏で強烈に存在を主張していた。

 間違いない、奴らは俺を見ている。奴らは俺が振り返るのを待っている。俺が振り返れば、後は固くて鋭い歯が仕事をする。ぐちゃがり。べちゃぼりがりごり。ばき。

 どん、という音がした。

 都村は腰砕けになって、目の前の印象派絵画がかかった壁に倒れ込んだ。

 奴らが来た。

 鏡。固い歯。鋭い歯。

 どんどんどん。

 玄関の扉が叩かれていた。

 薄汚れた作業着を着た小男だった。

 都村は壁に寄りかかった姿勢のまま、男に顔を向けた。

「診察代を!」

 おっさんが叫んだ。右手にはしわくちゃになった札が握られている。

「忘れちゃってすみません!一万円でお釣りが欲しいんですが!」

「消え失せろ」

 都村はそっと吐き捨てた。もちろん外の男には聞こえない程度の大きさだったが、意識して声を低くしたわけではなかった。それしか出なかったのだ。もし腹に力が入れば、盛大な罵声を男に浴びせかけていたかもしれなかった。

「いらないよ」

 今度はまともな声が出せた。

「いや、でも!」

「いらないんだ。それで酒でも飲んでくれ」

 壁から離れ、玄関に向かって言う。

 第一な、俺の診察料金は一万円でお釣りなんかでねえんだ、クソったれ。

「酒ですか!」

 小男がにやりと笑うのが見えた。

 どことなく意地悪そうな笑みだったのは気のせいだろうか。

「酒はやめろといったのは先生でしょう!それに俺は酒は飲まないんですよ。さっき言いましたっけね!」

 どうでもよかった。

 都村は手を振って、いなくなれと指示した。

 おっさんはにやにや笑った。

「それじゃ、どうも!」

 小男は薄汚い作業着の背中を見せて引き揚げようとした。

 都村はほっとして息を吐いた。

「そうそう!」

 おっさんが嬉しそうに引き返してきた。

 都村は自分のまなじりが吊りあがるのを感じた。

「先生にお礼を!これでまたしばらく持ちそうです!」

 だろうとも。お前らみたいな連中は、一万円で八十年暮らしていく術を心得ているもんだ。せいぜい長生きすることだな。

 都村は小男が夜の世界に消えるのを待たず、玄関を離れた。

 姿見をちらりと見たが、黒い球体などどこにも見えなかった。

 当たり前だろう、馬鹿が。

 廊下を歩き、駐車場に通じる裏口を目指す。

 時計を見る。七時を過ぎている。

 巨乳を失うことになるかもしれない。

 欲望が蘇ってきた。

 セキュリティを設定し、裏口からガレージに出る。

 戸に鍵をかける。

 鋭い歯。

 いいかげんにしたらどうだ。固い歯なんかより、手応えのある乳房のことを考えろよ。先端にはとがって震える小さなつぼみを持ち、ベッドサイドの明かりに当たってつややかに光る白い果肉のことを。

 赤いフェラーリまで歩く。

 奴らは鏡の中。

 お前はアホか。

 だが都村はアホではなかったし、自分のおびえにはきちんとした理由があるのではないかと疑ってもいた。

 何だっけな。

 暗闇を見つめる時、暗闇もまたこちらを見つめている、だっけ。

 都村は優秀なドイツ語の生徒ではなかったから、原文をそらんじるというわけにはいかなかった。

 鏡を見つめる時、鏡もまたこちらを見つめている。

 悪くない。未来の著書の冒頭に使ってもいいかもしれない。

 車のロックを解除し、運転席に乗り込む。

 戦争は下手だが、女を口説くことと車にかけてはローマの誇りを忘れていないイタリア人が作ったエンジンは、快調な音を発して始動した。

 リモコンを操作し、ガレージの扉を開ける。

 せりあがるシャッターの下に、徐々に白鳳町の夜景が見え、さらにその向こうに仙台の輝きが見えてくる。

 都村は髪型を確認しようと、バックミラーに目をやった。

 バックミラーに。

 奴らは鏡。

 都村はハンドルを握ったまま凍りついた。

 小男はなんと言った?

 聞こえるんです。

 夜になると、奴らが動き回る音で目が覚めちゃうんです。

 都村の脚が震え始めた。それはエンジンの振動のせいではなかったし、まして苛立ちのせいでもなかった。

 夜になると。それで、あのおっさんはどこで夜を過ごしていると言った?

 車です。軽トラで生活しているんですよ。

「奴らは夜、車の鏡からやってくるんです」

 都村の唇がひとりでに動き出した。診察室で右から左へ聞き流していたつもりでも、それなりに優秀な都村の脳は小男の話を逐一記録にとどめていた。

「それで俺にせっつくんです」

 都村の目は大きく見開かれ、バックミラーに釘づけになっている。

 何をせっつく?

 決まってるじゃないか、と都村の思考機構が応じた。

 奴ら自慢の固くて鋭い歯を使うためだよ。

 奴らは自分たちのことを知られるのを嫌がるんです。

 その秘密主義者たちが、なぜあのしょぼくれたおっさんを殺さないんだ?

「夜になると、大合唱するんですよ。新しい奴のところに連れていけって。俺たちは腹が減った。もう我慢できない。何ならお前を片づけて、新しい身代わりを探してもいいんだって」

 都村の全身が、エイト・ビートに酔い痴れているように激しく震えている。

 その目はバックミラーから離れない。

 バックミラーだ。かつてはバックミラーの役目を果たしていた。

 だが今は何も見えない。何もそこに映ってはいない。

 いや、映ってはいるのだ。

 無数の真っ黒い球体だけが。

 鼠ほどの大きさのその球体は、しかしさっき姿身で見たような、完全な球形を保ってはいない。

 真っ赤な口が、ばっくりと開いているためだ。

 そこから鋭い歯が見える。ずらりと並び、ダイヤモンドのように固そうで、ナイフのように鋭そうな歯が。

 先生にお礼を!これでまたしばらく持ちそうです!

 白鳳町の都村精神科の隣に住んでいる中年女性は、その時奇妙な物音を聞いて居間の窓を開けた。

 彼女の背後から、夕刊を読み耽っている夫が声をかけた。

「どうした。虫が入ってくるぞ」

「変な音がしたのよ。それに、人の悲鳴も聞こえたみたい」

「ツムラ・インチキ・クリニックからか」

「やあね。あの先生は評判いいのよ。でも、そうね、都村先生の病院からだったわ」

「放っとけ。もしあいつが死んだら、この世から悪人が一人と未来の犯罪が百個も消えるってもんだろうさ」

「あなたはスポーツマン・タイプの若い男と見るとそんなことばっかり言うんだから」

 女は、庭の向こうに見える病院のガレージをしばらくの間眺めていた。

 奇妙な騒ぎだった。

 人の悲鳴と、スイカを百本ほどのバットで叩き潰すような音が聞こえ、それから車の警笛が十秒間ほど続いたのだ。

 ブー、というホーンの音が。

 運転席で人が倒れれば、ハンドルの警笛のボタンを押しちゃうわよね。

 女は考えた。

 でも十秒くらいでその音もやんだじゃない。たぶん、先生が間違って押しちゃうかどうかしたんでしょうよ。

 ハンドルに突っ伏して死んじゃったなら、警笛がまだ聞こえているはずだもの。

 誰かが死体をどこかへ持っていかない限りは。

 あるいは、誰かが死体を十秒間で片づけたりしない限りは。

 十秒間で死体を片づけるって、いったいどうすればそんなことができるのかしら。

 女は窓を閉めながら考えた。

 そうね、鋭い歯があれば、できるかもしれないわね。固くて鋭い歯が、無数にあれば。



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