断 罪


第一章 月曜日

この世界では、よい人種でないものは屑である。
―――アドルフ・ヒトラー 『わが闘争』


1


 その建物に着いたのは午後五時だった。

 カミカゼのように襲来する雨粒が、傷みの激しいアスファルトの上で狂想曲を奏でている。

 憂は建物の陰に入ってほっと息をついた。廃屋同然の建物だ。窓は破れ、路上にせり出したコンクリートのひさしは崩れかかっている。それでも雨の弾幕から抜け出せたことには変わりない。

 黒い蝙蝠傘を閉じる。暗い布の襞の間から水滴が音を立てて流れ落ちた。

 昼間に事務所で岩手競馬の中継を聴きながらサンドイッチをかじっていた頃に降り出した雨は、篠突く勢いになっている。

 憂はビルの谷間にのぞく空を見上げた。濁った色の街に濁った色の雲がかかっている。晩秋の太陽は分厚い雨の層に遮られて拝めない。

 日暮れが近かった。太陽の没落は目に見えずとも、闇の接近は明らかだった。世界から急速に色が失われつつあった。その様子はどこか死を連想させた。太陽の死を。

 濁ったまま死んでいこうっていうの。

 憂は一度傘を振って水滴を払い落とすと、外界に背を向けて建物の扉に向かった。

 この街では誰もが濁ったままで死んでいく。誰もがゴミ溜めに生まれて、煤煙に染まって死んでいく。

 扉を開けようとして、その必要がないことに気づいた。昔は一枚の硝子で張られた立派な扉だったのだろうが、その硝子は今では砕けて床に散乱している。

 建物の中は外と同様に暗く、寒く、そして湿っていた。

 壁は落書きで溢れ、床には雑多なゴミやガラクタが放り出されている。何年前のものかもわからない新聞、ヌード雑誌、茶色くなったコンドーム、ダンボール、割れた酒瓶。

 憂は何となく壁に歩み寄って落書きの中の一文に目を凝らした。

 落書きをした人間は次のように警告していた―――祈れ、裁きは近い。

 預言者の言葉は地下鉄の壁や下宿屋の廊下に書かれている。

 古い歌の一節を口ずさんで憂は苦く笑った。

 当然、廃銀行のロビーにもだ。

 口笛を吹く。

 外では雨が降り続いている。

 床に投げ出された雑誌の中から、大股を広げた女がこちらを見つめている。湿気を吸って半分腐ったそのページは醜く膨れ、印刷は色褪せていて、やるせない哀愁を誘った。グラビアの女でさえ年老いてゆく。過去の影だけがそこに残される。

 憂は建物を奥へと進んだ。

 光の届かぬ空間に、一対の靴音だけが響いていく。

 暗闇だけがある、こんな場所が好きだ。

 暗闇が好きなのではない。そこに潜むものと向かいあうのが好きなのだ。薄絹のような闇を一枚隔てた向こうからこちらを見つめているものと対峙するのが。

 かつては違った。暗闇を恐れた。

 夜中に一人でトイレに行くのが怖かった。まだ小学校にも通っていなかった頃の話だ。

 寝る時には布団から脚を突き出して眠ると、ベッドの下から太くて青黒い腕が伸びてきて自分の足を掴むのではないかと脅えた。

 入浴の際、目を閉じたまま髪を洗うのも怖かった。絶えず背後に誰かが立っているような気がした。そして、不定形の顔をゆっくりとこちらに近づけながら、蒼白い吐息を首筋に吹きかけてくるように思えた。

 今ではそんなことはない。背後を振り返りながらシャンプーをすることもないし、明かりを点けたままでないと眠れない、ということもない……ほとんど。

 成長するにつれて人間は暗闇への恐怖との折りあいのつけ方を学ぶ。恐怖を無視するようになる。そして考える。暗闇への恐怖は去った。私は大人になったのだと。だが注意しなければならないのは、恐怖は完全に消えたのではなく、ただ背景に退いただけだということだ。それは人間の日常に用心深く潜んでいる。トイレへ続く廊下の闇に、ベッドの下の暗がりに、そしてバスルームの死角に。

 暗闇の中に恐怖は潜んでいる。音もなく、牙だけを鋭く尖らせて。

 だから憂は暗闇越しに恐怖と二人きりになれるこんな廃墟が好きだった。恐怖と一対一で向きあう。そして声をかける。あら、しばらく会わなかったわね。元気だった、私の可愛い相棒。

 微かに黴臭さが混ざる空気の匂いを嗅ぎながら憂はゆっくりと歩いた。

 とうの昔に壊れてしまったエレベーターがぱっくりと口を開けている。どこか上の階で雨漏りがするのか、流れ込んだ水がちょっとした滝になって髑髏の口のようなその穴から溢れ出ている。

 二階に登る階段はすぐに見つかった。

 左腕の時計を確認した。五時十分だった。

 一段ずつ階段を登った。靴底がぱりぱりと何かを踏む感触があった。

 電球の残骸だった。それはかつては天井にあった。しっかりソケットにねじ込まれ、海沿いの火力発電所からの送電を受けて白熱した輝きを放っていた。かつては。

 かつては。

 踊り場を回る。足元に濡れた風が当たる。壁の下部の装飾窓が破れて雨が吹き込んでいる。

 憂は踊り場から二階を見上げた。

 雨の幕を切り裂いて、遠くでサイレンが鳴っている。スラムで聞くその音は過ぎ去った少女時代の追憶のように淡い。警察が守るべき良民がここを去ってから長い時が流れた。屑だけがここに残った。道路に投げ捨てられたゴミは風や雨に流されて自然に低い場所に集まっていくが、人間でもそれは同じことだ。あちこちで追い立てられた屑は一ヶ所に集まる。低い場所に。誰も自分を守ってはくれないが、屑だからという理由で追い立てられもしない場所に。そして次に警察の厄介になる時には両手が後ろに回っているか、死体袋に入っているかのどちらかだということになる。

 空気の匂いを嗅ぐ。冷たく濡れた風が背後から吹きつけるが、二階から漂ってくるこの臭気は誤魔化しようもない。

 憂は階段の上にぼんやりとわだかまる闇としばらく向かいあった。

 闇は何も語らない。その背後にいるものだけが語る。

 不吉な予感がした。

 二階には明確な臭いがあった。血の臭いだ。

 階段に足を乗せる。無意識に左手が何かを固く握り締めた。それが蝙蝠傘であることに気づいて、憂は情けない苦笑を浮かべた。

 ピストルを用意してくれたまえワトスン君。

 吸血鬼のように痩せたジェレミー・ブレッドが言う。

 だが、暖炉の前の椅子に座ってホームズを見上げている若く鋭い印象のデイヴィッド・バークではなく、暗い階段に独りたたずむ三十路女の荻野憂は肩をすくめる。

 生憎、日本には銃刀法があってね、シャーロック。

 段数を数えながら慎重に階段を登る。

 踊り場から十段目で二階に達した。

 暗くてよく見えないが、広い空間だということはわかった。

 壁沿いを時計回りで進んだ。五歩、六歩、七歩。

 黴と埃と腐った木の臭いが湿気をまとってどんよりと沈んでいる。

 バチンと鈍い音がして、薄青い灯りが室内に差し込んだ。建物のすぐ前の通りにある街灯が点いたのだ。

 何館も使い回された映画のフィルムのように、きめの粗い光の粒子に照らされた壁に間延びした雨粒が大写しになっている。

 雨が世界を打つ音はなおも鬱々と響き、いつか観た映画でのティム・ロスを思い出させる。あれはずっと船の上で暮らしているピアニストの話だったっけ。1900年生まれのティム・ロス。荒唐無稽な話だ。そんな話を作る奴はイカれてる。それを喜んで観にいく奴はもっとイカれてる。

 けれどあれはいい作品だった。イカれた話かそうじゃないかってことはその作品の良し悪しには関係がない。トチ狂った話だったがあれは間違いなくいい作品だった。何故なら。

 何故なら、あの話には腹を真一文字に切り裂かれて素っ裸のまま柱にくくりつけられている中年の男なんて出てこなかったからだ。

 憂は棒立ちになってその死体を見上げた。部屋の中央部を貫いている柱の上で、一人の男が、少女が何かおかしなものでも見るような仕草で憂に向かって小首を傾けている。街灯のぼんやりした明かりの中で男の表情は読み取れない。どの道あまり記憶に留めたい表情ではないだろうが。

 男の周囲には何か黒々としてぬめぬめ光るものが一面にばら撒かれている。それが男の腹の内容物だということはわざわざ確認しなくても明らかだった。この世に産まれてくる奴らのためにカミサマ・クリーニング工場で天使の皆様がせっせと折り畳んで腹のジッパーの中に詰め込んでくれるもの。

 憂はコートのポケットを探って白い木綿のハンカチを取り出した。丁寧にプレスしてあるそれを口元に当てる。血の臭いでさえたまらなくきついのに、もう一つの臭いがそれに混ざっているとあっては耐え難い。つまり、腹の中から一式ひねり出されているとあれば、屠殺人が家畜を直前にトイレへ連れて行ったのでないかぎり、そいつのミックス・チョコレートはまだチューブに入っているわけだ。

 吐きそうだった。二十歳の頃なら吐いていただろう。だが、未来において厳正な男女平等社会が可能であり、そこに暮らすマイケル・ジャクソンは糞をしない異性愛者なのだと信じていた青臭い時代は、相当遠くに去ってしまっていた。今ここにいるのは三十代もそろそろ半ばを過ぎようかという疲れきった女だった。

 長い間この街に暮らしていれば、色々なものに鈍感になる。慣れるのではなく、ただひたすら鈍磨してゆく。他人の涙、他人の堕落、そして他人の死。

 憂は男が磔刑に処されている柱に一歩近づいた。男は殺されてからくくりつけられたのだろうか、それともくくりつけてから殺されたのだろうか。

 知りたくもないな、と思った。

 靴に固いものが触った。

 上体をかがめてよく見ると、ベルトのバックルだった。ブランドはダンヒル。間断なく吹き込む雨が大量の血を洗い流して銀色の刻印を輝かせている。

 憂はほぼ真下の位置から男を見上げた。子どもの頃、この近くの精肉工場で見た牛の枝肉に似ていなくもない。醜悪な連想だった。

 おかげさまで、と憂はげんなりしながら心の中で呟いた。しばらくは熱々のオージー・ビーフのTボーンステーキが一番の好物になりそう。

 男を柱に巻きつけているのはピアノ線だった。遠目にはただでたらめに巻いてあるように見える。しかし実際にはそうでたらめでもないようだ。憂は血を滴らせているピアノ線の一本に顔を寄せて考えた。ピアノ線はほぼ均等な多角形を組みあわせた形に巻かれている。明らかに素人の仕事ではない。かといって、人を縛るプロの仕事がどんなものかは知らないけれど。

 男がへばりついている柱の裏の面に回る。ヒールのない靴底が水と血と体液のカクテルを踏んでばしゃりと音を立てる。

 太い釘で一枚、紙がそこに打ちつけてある。

 ああ、畜生、何てこと。

 憂はその場で凍りついた。全身がかぁっと熱くなり、次にさぁっと冷たくなる。

 後ろを見ろ。

 A4版の紙にはそう書いてある。後ろを見ろ。

 途端に背後の闇に隠れていたものが正体を現した。

 憂は短く喘いだ。

 闇のベールが剥がされ、それよりなお暗い者たちが蠢き出す。

 これまで雨音だと思っていたものは幾百もの幽鬼の囁きになり、風だと思っていたものは彼らが吐き出す冷たく黴臭い息になる。

 背後で風が鳴った。

 あれは斧を振り上げる音に間違いないと思った。いや、ひょっとしたら蒼白い手で触れるだけであらゆる生物をミイラにしてしまう幽霊が、長年墓場に閉じ込められていたせいでボロボロになった黒の長衣の裾を翻した音かもしれない。

 落ち着きなさい。必死に自分に言い聞かせ、恐怖を支配しようと試みる。子供の頃、夜中に起きるたびに繰り返したあの見込みの少ない戦いの場に戻る。パニックが迫っているのがわかる。情けない悲鳴を上げてでたらめに走り出すだろう自分がすぐそこにいる。そうなったら負けだ。

 息を吸う。息を吐く。途方もなく時間をかけたその動作の間に、ゆっくりと呪縛が薄らいでゆく。

 雨は雨で、風は風、闇は闇だ。

 憂は手を伸ばして目の前の紙を掴んだ。指は少し震えていたが、自由に動いた。

 文字は血で書かれている。

「後ろを見ろ」。

 鼻を鳴らす。

 裏返し、本来の文面を読む。

 憂は溜息をついた。ああ、やっぱり。

 それは彼女宛ての仕事の内容のメモで、つまり今柱の向こうでどてっ腹に大穴を開けて死んでいる中年男は彼女の依頼人だった。

 紙を四つに折り、少し乱暴にコートの内ポケットにしまう。タイプされた文字が濡れて滲んでいるが、別にジョン・レノンの最後のサインってわけじゃない。

 それから背後を振り返る。

 もちろんそこには斧を振りかぶった殺人鬼はいないし、ベッドの下に潜んでいる類いの小鬼もいない。

 ただ街灯の明かりに照らされて、壁に描かれた一文がでかでかと浮かび上がっている。

 まず一人。

 そこにはそう描いてある。

 まず一人。

 憂はしばらくその醜悪な伝言を見つめた後、静かに階段に向かった。

2


 でこぼこのアスファルトに溜まった水が回転灯の赤い光を反射している。

 三台の警察車両が汚水を蹴立てて目の前の通りを走っていく。

 憂は傘を左手にさしてその後ろ姿を見送った。

 やかましいサイレンの音が遠ざかる。白と黒のまだら模様の車はダウンタウンの外れへと消えていく。

 憂は大通りの歩道からビルの谷間の路地へ入った。

 二十年ほど前から市と業者が組んで再開発を進めてきたこの辺りは、今ではスラムとなった旧市街とは好対照をなしている。白亜の新市庁舎の車寄せから片側三車線の大通りが東西に伸び、市庁舎の周囲には銀行や証券会社、保険会社の支店が建ち並ぶ。金融街から少し離れた場所にある関東の資本がてこ入れした百貨店の周りには、宝石や被服ブランドを取り扱う洒落た店構えが広がる。

 日も暮れた今、路地には人影はほとんどなかった。銀行の夜間金庫の常夜灯が雨の幕の向こう側でちらちらと輝いている。

 水を蹴る靴音が聞こえた。

 大通りを路地に向かって走ってくる男の姿が見える。

 県警のロゴが入った合羽を着たその人影に、憂は傘をちょっと上げて挨拶を送った。

 男は路地に入る前に背後を振り返った。嵐の夜の大通りに誰もいないことを確認してから、歩調を緩めて近づいてくる。

「お前さんの通報のお陰で署は大騒ぎだよ」

 酷い雨だな、とか、まだ死んでいなかったとは驚きだ、とか、気のきいた社交辞令をすっ飛ばしてその男は言った。

「奴は弁護士だった。それも大御所の弁護士だ」

「らしいわね」

「知ってたのか」

「いいえ、昔の男は極力忘れるようにしているの」

 厳しい表情のまま憂は言った。しかし男の表情はわずかに崩れた。

「相変わらず慎み深い口だ」

 頬笑みとまではいかないが、男の顔に三十年近く昔の少年の面影が蘇えった。

 憂はそれに緊張が和らぐのを感じたが、笑顔を返すことはできなかった。

「面白くもない冗談よ」

「そうでもないさ」

 男の口調は温かかった。

「恵梨さんは元気、佑介」

 憂は叩きつけるように降る雨を気遣って傘を男の方に傾けた。馳佑介は片手で憂を拝む仕草をして傘の下に入った。

「元気だ。三人の餓鬼の面倒を見るので毎日走り回ってるよ」

「智浩はもう小学校?」

「二年生になった。下の武浩は今年幼稚園だ。それで一番上の悠里が来年大学受験だからなあ。金ばかりかかってしょうがない」

「でも働きがいはある。そうでしょ」

「まあね」

 合羽のフードを脱いで、佑介は顔についた水滴を拭った。

「恵梨もお前さんのことを心配してるぞ、憂。たまには家に顔ぐらい見せてくれ」

 佑介に見つめられて、憂は曖昧にうなずいた。

 郊外にある馳家の小ぢんまりとした白い洋風の家を思い出す。

 昔はちょくちょく遊びに行ったものだ。馳悠太が、馳佑介の二歳下の弟が、まだ生きていた頃には。悠太が死んだ時、憂は中学三年生だった。佑介は高校二年生だった。あれから長い時間が過ぎた。だが歳月は心の傷を癒しはしない。悠太の死は憂の身体の奥深い場所に突き刺さったままだ。歳を重ねるごとに痛覚は鈍磨してゆくけれど、痛みそのものが消えてなくなるわけじゃない。馳佑介がこの痛みとどうやって折りあいをつけているのかは知らない。佑介も歳をとった。高校時代、ショートストップとして真っ黒になって白球を追いかけていた男の子は三児の父になった。腹のたるみもそろそろ隠せなくなりつつある。佑介はもう弟の死とは決別したのだろうか。そうであればいいけれど。孤独な痛みに生きるには、彼を起点に交差している幸福の数が多過ぎる。愛すべき人々が多過ぎる。

「仕事は忙しいのか」

「貧乏暇なしよ」

「そろそろ探偵ごっこから足を洗ってもいい頃だろうに」

 佑介はからかうように言ったが、その底には真剣な響きがあった。

 こう言ってやろうかと思った。やめられないのよ、佑介。それは多分、あなたが警官を辞めないのと同じ理由からじゃないかしら。

 そんなことは言えない。人間は誰でも心の深い場所に闇を飼っている。その闇に触れる権利は他人にはない。本人にすらあるかどうか。

「何回でも訂正してあげるけど、佑介、調査会社よ。探偵ごっこじゃないの」

「俺にはどっちも同じことだ」

 ビルの切れ目から、大通りをパトカーが走っていくのが見えた。

 雨はなおも降り続いている。足元に忍び寄る冷気が、秋の終わりの近づきを教える。

 佑介は首を曲げて赤い光を見送った。憂に向けた後頭部に白髪が光る。

「なあ、憂、お願いだ。署に来てくれないか」

「ああ、佑介―――」

「わかっている、お前さんにも事情があるのは。だが人間が一人殺されたんだ。それもあちこちにコネがあるような弁護士だ。警察は血眼になる。その内にお前さんのことも嗅ぎつけるだろう。そうなってからじゃ遅いんだ。そうなったら俺もお前さんを守れない。だから」

「ねえ佑介、私は死体を見つけただけ。あいつが弁護士だろうと、市長か警察署長だかと毎週ゴルフに行くような偉いさんだろうと、私には関係がないの。市民として最低限の義務は果たした、あなたに電話を入れたことでね。それ以上の協力は必要ないし、しようもない」

 佑介は右の親指で鼻をこすった。困った時によくやる仕草だった。

「あいつは仕事の依頼でお前さんを呼び出したんだろう、憂。何の仕事だったんだ」

「わからない。私が行った時にはもう殺されていたから」

「それでも何か聞いているだろう。事前の電話とか、メモなんかで」

「別に何も」

 憂は否定したが、佑介がそれを信じないだろうというのはわかった。彼の目にある種の光が浮かんでいたからだ。疑念ではなく―――憂にとってはその方がましだったが―――自分を心配してくれる者の目に宿る温かい光が。

 憂は目をそらした。

「あの弁護士にだって家族がいるんだ」

 佑介が言った。

 傘に落ちる雨の音は、容赦なく殴りつける拳の音に似ている。

「夫を殺された妻がいる。親父を殺された息子がいる。娘がいる。それでも自分に関係がないと言えるのか。死体の在処を通報すれば自分の義務は終わりだと。そうやって人殺しを見逃してもいいってのか」

 憂は黙って足元に落ちてくる雨を見つめた。水滴は水溜りに落ちて次々に砕け、無数の波紋を投げかける。そして、消える。一つの波紋が消えるとその上にまた別の波紋が生まれ、そしてまた消えてゆく。それは雨の痛みかもしれない。

「誰にだって人を殺す権利はない。殺人は一人の人間を消し去るだけじゃない。その人間から広がっている幸せの輪を消し去る。それはお前さん自身がよく知っているはずだろう。殺人を見過ごしちゃ駄目だ。他人の幸福を平然と奪うような奴には、とりわけあんな方法で奪う奴には、相応の報いを受けさせなければ。だから自分には関係がないなんて言わないでくれ。そんなことを言う憂は見たくないんだ」

 悠太。

 眉間の間で世界が揺らぐ。

 悠太。ああ彼はどんな風に木の上に縛りつけられていたんだっけ。神様、中学三年のあの秋の終わりの日に彼は。

「卑怯な戦術ね」

「わかってる。だけど俺も必死なんだ。俺のことを考えているんじゃない。お前さんのことが心配なんだよ、憂。とても心配なんだ。お前さんが傷つくのを見たくないんだ」

「ごめんなさい、でも私は私のことだけしか考えられないの」

 憂は佑介の顔を見ずに言った。

 心臓が激しく脈を打っている。胸が苦しい。自分の顔が真っ青になっているのがわかる。

 気分が悪い。吐きそうだ。

 傘で佑介の視界から顔を隠す。

「さようなら。何かあったら連絡するわ」

 それだけが精一杯の言葉だった。

 佑介はわかってくれるだろうか。そう思ったが、その心配はいらなかった。

「無茶はするなよ」

 佑介は追ってこない。

 気遣いの人。

 苦しい胸を押さえて足早に歩きながら、憂は思った。

 自分を傷つけるのはよせ。

 でもね。

 憂は心の中で佑介に反論した。

 あなたが傷つけてくれていたら、少しは変わっていたかもしれない。悠太の死から始まった、長い長い暗黒の日々の中で、ほんの少しでもいい、怒りや、憎しみを私にぶつけてくれていたら。そうすれば、私の中にある悠太の死が、別の何かに置き換わることだってあったかもしれない。

 時には傷つけてほしいことだってある。

 その言葉は憂の心にぱっくりと開いた暗い傷口の淵に静かに落ちていった。

 愚痴をこぼしても始まらない。どの道もう遅いのだから。

 痛む頭と吐き気が渦巻く胸を抱えて、憂は夜の路地を急いだ。

3


 事務所のあるマンションの一階に戻ったのは十時を回っていた。ここはダウンタウンからそう離れているわけではないが、乗り物を使わずに歩いたので時間がかかってしまったのだ。

 冷え切った身体を左腕で抱え込んでエレベーターに向かう。入り口の照明は常夜灯に落ちている。管理人室の窓口のシャッターが下りているので憂はほっと溜息をついた。

 だがその安心は甘かったようだ。

「あのねえ荻野さん」

 甲高い声が背後から襲いかかる。それから管理人室の扉が開く音がした。

 いったい、締め切った部屋の中でどうやって私だとわかったのだろう。そんなに特殊な靴音を響かせているのだろうか。

 疲労と寒さでげんなりしながら、憂はエレベーターの前で振り返った。さあ、第一ラウンド開始。

「どうかしました、羽部さん」

 無意識に口調に非難がこもる。

 管理人室のドアの前に仁王立ちになったこのマンションの管理人、つまりは全世界の支配者であるところの羽部須賀子は、その非難の臭いを嗅ぎ取ってにやりとした。実際に笑ったわけではないが。彼女のようなタイプの人間は決して笑わない。この世には不平と不満の二つの感情しか存在しないと信じている人間なのだ。

「またプラスチックを可燃ゴミの回収日に出したでしょう、お宅の事務所。もう何回も注意しているんですよ、いつになったらわかってくれるんですか」

「まあごめんなさい。ついうっかりしてしまって」

「人間そんなにうっかりできるもんなら核戦争だってうっかりですんじまうでしょうよ。いいですか、社会にはルールというものがあって」

 謹聴、謹聴!『人間と社会及びルールについて』、講演は、近代人権思想研究の第一人者にして『ゴミの回収日』等の偉大な著作がありますマンション管理人、羽部須賀子氏です。

 にこやかな笑みに見えるように唇を奇妙な形に曲げながら、憂は後ろ手にエレベーターのボタンを押した。

 六畳一間の管理人室に座って雑多な菓子をかじりながらワイドショーを網羅する生活の中で70kgに迫ろうとする体重を獲得した六十歳の管理人は、出っ張った腰に手を当てて御高説を述べ立てる。

 エレベーターはなかなか降りてこない。

 こんな時間に捕まるなんて、と自分の不運を呪う。一刻も早く事務所を閉めて自宅で熱いシャワーを浴びたいのに。

 でも、どうしてこんなに夜遅くまで羽部は管理人室に残っていたのだろうか。彼女は住み込みではないのだし、ゴミの分別くらいで憐れな獲物を痛めつけるために勤務時間を五時間近く延長するほど病的な人間ではない。

 話を途中で遮ってそのことを訊ねると、羽部は不快そうに鼻を鳴らした。

「息子が来ないんですよ。六時に迎えにくるって言ったのに」

「大学生の息子さん?」

「そう。実験だとか何とかわけのわからない用事をひねりだすのだけは上手いんだから。大方、どこかの不細工な娘にでも引っかかってるに違いないんだ」

 羽部の息子は憂も見かけたことがあった。優秀そうだがどこかおどおどした印象のある学生で、仙台の大学に多賀城の自宅から通っているという話だった。スバルのプレオに乗っていたと思う。

「それで、まだ息子さんを?」

「バスももうなくなったし、この雨ですからね。こんな中二十分も歩かされたら一発で風邪をひいてしまいますよ」

 あら、私は四十分歩かされましたけど、こうしてぴんぴんしてあなたのありがたいお話をうかがってますよ。

 苦笑を噛み殺し、憂はうなずいた。

「そうですね。車で帰るのが一番でしょうね。なるべく早く息子さんが来てくれるといいですけど」

 エレベーターの扉がようやく開き、憂は慌ててその中に駆け込んだ。

 羽部にはにこやかな笑顔を見せながら、彼女の死角で閉ボタンを連打する。

「ゴミはきちんと分けてね!それが社会人の常識ですよ!」

 ゆったりと閉鎖されてゆく空間に羽部の声がきんきん響く。

 勤務時間を過ぎた母親はさっさと家まで運ぶのが社会に対する息子の常識ですよ、と大学の研究室でわけのわからない生き物を育てているであろう羽部ジュニアに向けて腹の中で怒鳴ってやる。

 三階でエレベーターを降り、事務所まで長い廊下を歩く。四階から上は住居スペースで、二階と三階がオフィス用に貸し出されている。三階には憂の調査会社の他にミニコミ誌の編集部とイベント会社、それにかなり高齢の司法書士が事務所を開いている。

 憂は角部屋の自分の事務所の前で立ち止まり、コートのポケットに入れた鍵を探したが、中から音楽が聞こえてくるので驚いて扉を開けた。

 十五坪もない事務所の、書類棚と机に占領された空間に、ポール・サイモンが歌声を張り上げている。懐かしのミセス・ロビンソン。

「おやお帰りなさい」

 二つある机の内、手前の机の椅子に座っていた青年が顔を上げた。

「幸太郎、まだいたの。大学は?」

「今夜の雨が冷たいので休みにしました」

 幸太郎はにこりともせずに言った。

 冗談のつもりだろうかと疑ったものの、憂はすぐにまさか、と思い直した。冗談という概念を知らなければ冗談を使うことはできない。どこかの文明が車輪という概念を知らなかったように。

「珍しいこともあるものね」

 とりあえずそれだけ言ってコートを脱ぎ、ハンガーにかける。

 暖房が入っている室内はとても暖かかった。

「電話がありましたよ」

 憂が書類の山を踏み越えて自分の机にたどり着くと、幸太郎が言った。

「一本は叔父さんから。もう一本は仕事の話だそうです。伝言をメモにしていつものところに置いておきました」

「ありがとう。佑介は何て?」

 机の上に居座っているシャープのノートパソコンを持ち上げてメモを取り出す。いつもの場所に邪魔なものがあったらその隣に置いてくれてもよさそうなものだが、幸太郎の辞書には妥協の文字がない。彼の辞書はナポレオンのそれより遥かに語数が少ないのだ。

「遅くなってもいいから今夜中に電話が欲しいそうです。でも電話する前に温かい物を食べて熱い風呂に漬かるようにと言っていました。その時は余計なことだと思いましたが、今は僕も同じことを勧めたいですね」

 幸太郎は馳佑介の妻である恵梨の姉の子どもだ。恵梨も彼女の姉もとても明るい快活な人物なのだが、その血は幸太郎には伝わらなかったようだ。昔から、スポーツや勉強は何をやらせても完璧にこなしたが、滅多なことでは笑わず、笑えば秋風のように冷たい微笑しか浮かべない子供だったらしい。

 憂が初めて馳家で清洲幸太郎と会った時、彼は哲学を専攻する二十歳の学生だった。紅茶を飲みながら冷めた口調でニーチェを熱烈に罵倒する彼を前にして、カントやヘーゲルがどうだったかは知らないけれど、トマス・アクィナスは確かにこんな人間だったのだろうなと考えたのを覚えている。

 それから月日が流れて、憂が自分の経営する荻野調査会社の事務員の募集広告を出した時、面接にやってきた人間の中に幸太郎がいた。事務といっても雑用だし仕事は自分一人でこなすので給料が安い上に退屈な仕事だと言う憂に、幸太郎はそれでも構わないので使ってくれと答えた。

 そして今があるというわけだ。月二十万に満たない月給に幸太郎が我慢した謎はすぐに解けた。彼は学士を修了した年に法学部の夜間課程に再入学し、その学費を昼間の勤務で稼ごうというわけだった。

 だから幸太郎は毎日五時になるとすぐに事務所を出て大学に向かう。これまで一度もその習慣を崩したことはない。

 それが今日に限って、雨が冷たいからお休み、だなんて!

「夕食はもうすんだの?」

 椅子から立ち上がってダウンジャケットに袖を通している幸太郎に、憂は声をかけた。

「七時にここでトマトのパスタを作って食べました。遅い食事はとらないことにしてますから」

「あらら、振られちゃった」

 憂は半ば慣性でおどけたが、もちろん幸太郎には通じない。

「憂さんがいたら二人分作ったんですけど。作り置きすると油が酸化して味が落ちるんです」

 幸太郎は鞄を持つと書類棚の上のコンポを止めてMDを取り出した。それをきちんとケースに入れて鞄にしまう。

「それじゃあ憂さんも気をつけて帰ってください」

「ええ。ありがとう。お休みなさい」

「お休みなさい」

 幸太郎の赤いマフラーが扉の向こうに消える。

 鋼鉄の蓋の閉じる音が聞こえてから数秒、憂は椅子の上で固まっていた。

 それからおもむろに両の掌で顔を覆う。外気にさらされて冷たくなった手の感触に、頭の奥がずきんと痛んだ。

 雑多なイメージが、自主制作の短編映画のように激しい勢いで閉ざされた網膜に浮かび上がる。

 廃屋に縛りつけられた腸のない中年男の死体、佑介の温かい視線、人気のない夜の街路、殴るような雨、甲高い声の管理人。

 悠太の死。

 指の腹で目蓋の上からそっと眼球を押さえる。そうすれば記憶の墓場からゆっくりと立ち上がろうとする忌まわしい心像を追い払えるとでもいうように。しかしそれは目蓋に焼きついた記憶ではない。それは遥かに深い場所に焼きついてしまっている。脳の皺さえもまだ万里の浅きにあると思えるほど深い場所に。

 木の上の悠太。大きな真っ黒い木の上に、まるで帆船の舳先に取りつけられた女神像のように、くくりつけられている悠太。その周囲にはぬめぬめと寒天状に光る物体が散乱している。むせ返るような血の臭いが森一帯に充満している。

 憂は木の下に立って悠太を見上げている。左手に、血を吸ってぬるぬるするシャツを持っている。

 心が麻痺している。麻痺した心の片隅で、自分が左手に握っているのは誰のシャツだろうと考えている。これは誰の血だろうと考えている。不思議なことに木の上の悠太はとても綺麗だ。白い肌には一滴の血の染みもない。それはとても奇妙に思える。だって。

 だってほら、悠太のお腹には大きな穴が。とっても大きな穴が。それなのに一滴の血痕さえ彼の身体に飛び散っていないなんて。

 耐えられそうもない、と憂は思う。だって私はまだ中学三年のガキなのだから。こんなことには耐えられない。悠太がこんな、こんな、こんな。ああでも一番耐え難いのは彼の目。彼の瞳。彼の双眸。どうしてあそこに穴が開いているのですか、彼の眼球はいったいどこへ。

 猛烈な吐き気がぶり返し、憂は椅子の上で身体を起こした。

 現実に戻らなくては。

 夜ももう遅い。明日からはまた仕事をこなさなければならない。それも相当きつい仕事を。だから追憶に浸るのはやめよう。悠太は中学三年で死んでいるのだし、私は木の下に立ちすくんでいた女の子ではないのだ。

 ハンガーにかけたコートを取りに立ち上がる。

 そのポケットから依頼書を取り出す。裏面にあの趣味の悪いジョークが書かれた紙だ。後ろを見ろ。

 憂はその紙を蛍光灯の灯りにかざした。濡れてくたびれてはいるけれど、依頼人の名前や住所は読み取れる。しかし読むつもりにはなれなかった。どうせありもしない名前に架空の住所しか書かれていないからだ。恐らく依頼人は憐れな代理人を窓口にして仕事を依頼するつもりだったのだろう。文書で残したくないような種類の仕事は珍しくない。

 憂は戸棚から湯呑みを出して何枚かの紙切れと一緒にその依頼書を丸めて放り込んだ。

 マッチを擦って火を点けると、その紙玉は湯呑みの中で勢いよく燃え上がった。

 陶器の白い肌を焦がす火の玉を少しの間見つめていた。それから湯呑みを手に取り、両手でそっと抱えた。釉薬の肌越しに伝わる炎の熱は穏やかだ。直接触れれば火傷してしまうだろうに。火は触れるものを皆傷つけずにはおかない。それは力だ。

 誰の心にも火が燃えている。暗い火が。もしかしたら闇の向こうに潜んでいるものの正体はそれなのかもしれない。

 湯呑みを置く。湯呑みの底と机の天板が触れあう、ことり、という音の中に世界が反響する。そこに憂は人々が生きている世界の気配を感じる。ゴミ溜めのような街の片隅の隔絶された部屋の中で、湯呑みと机が互いに放った小さな音が、憂を、ここにある今、からここでない今、へと接続する。その眩暈のするような一瞬に、憂は多賀城の夜を聴き、仙台の雨を感じ、ずっと離れた場所にあるどこかの街の星に震える。それは幾百ものスピーカーから違う曲を同時に流すような感覚に似ている。

 疲れている。

 憂は首を振ってその接続を断ち切った。疲れているのだ、そうでなければどうして私が多賀城や仙台、リューベック、あるいはリンツ、ポーツマス、シェンチェン、ああもうどこだっていい、とにかくそんなどうでもいい場所に生きている人間たちのことを考えなければならないというのだ。

 電話の呼び出し音が鳴った。

 憂は反射的にポケットの携帯に手を伸ばしたが、鳴ったのは事務所の電話だった。

 呼び出しを十回放っておいた。特に理由があったわけではなかった。単に出る気になれなかった。それだけのことだ。

 十回待っても鳴りやまなかったので受話器を取った。相手の番号は非通知だった。

「驚きましたか」

 低く抑制された男の声が言った。

 憂は額に左手を当てて目を閉じた。

「危険な仕事だとは言わなかったわね」

「安全な仕事だとも申し上げませんでした」

 声には聞き覚えがあった。今日の昼に、このありがたい半日が始まるきっかけとなった電話をよこした男の声だ。忘れられるはずがない。

「教えて。あそこで死んでいた男は誰。あなたは誰。依頼人は誰なの」

 憂は一気にまくし立てたいのを我慢して一語一語力を込めて言った。

「教えてくれるでしょうね」

「明日の午後三時、旧市街の『シュレーカー』でお待ちしています」

 切るな。

 憂は受話器を握る手に力を込めた。

「仕事を引き受けるとは言っていないんだけど」

「昼にそうおっしゃいましたが」

「あんな死体を見せられれば考えも変わるわ」

「それならもう一度考えを変えていただくしかありません」

 憂はこみ上げてくる怒りをどうにかして飲み込もうと努めた。

「警察に協力する手だってある」

 押し殺した声で憂がそう言うと、相手は沈黙した。だがそれは虚を突かれたからという感じではなく、できの悪い内学生にどうにかして容を理解させようとする教師の沈黙に似ていた。AがBであり、BがCであるとするならAはCでもあるのです、どうしてこんな単純なことがわからないんですかね。

 双方が黙ったまま少し時間が過ぎた。

「わかった、引き受ければいいんでしょう」

 憂は負けを認めざるをえなかった。警察の名前を出したのは間違いだった。こちらが警察に協力できる身じゃないのを相手は十分知っているに違いない。

「私のことを調べたのね」

「では明日の午後三時に」

 通話は切れた。

 憂は警察に知らせる選択肢を真剣に考えた。多少は身の回りを嗅ぎまわられることになるだろう。幾つかの微罪は明らかになるかもしれない。文書の偽造、不法侵入、窃盗、脱税。どれもたいした罪ではない。

 だが何を通報するのだ。あの気の毒な弁護士の死体を発見したのは自分だと名乗り出るのか。関わりあいになるのが嫌で現場から証拠物件を持ち去って燃やしたことを知らせるのか。

 湯呑みに手を伸ばし、火が消えて冷たくなった灰をゴミ箱に捨てた。

 帰ろう。帰ってとにかく眠ろう。それで何かが片づくわけではないけれど。

 コートの袖に腕を通す。

 そしてまた脱ぐ。

 もう一つやらなければいけないことが残っている。

 電話の受話器を取り上げ、七桁の数字を押し始めて、やめた。

 佑介が自宅に帰っているとは限らない。恐らく、まだ帰っていないだろう。

 携帯を取り出して発信ボタンを押す。

 しばらく混線があり、やがて呼び出し音に変わった。

 三回鳴ったところで通話のボタンが押された。

「憂か」

「多分ね。幸太郎から伝言を聞いたの。何かあった?」

 佑介の声の背後で雑多な音が響いている。佑介は署の廊下で電話を取ったのだろうと憂は思った。

「どこからかけている?」

「事務所から。佑介、そっちが忙しいところを悪いんだけど、こっちも身体の芯から冷え切ってくたくたなの。早く用件をお願い」

「わかった。今度の事件の捜査本部に県警から人間が来るんだ。ほとんどはこの街じゃ自分の尻も拭けないぼんくらだが、一人だけ切れるのが来た」

「切れる?」

「そうだ。仙台に来る前は札幌で幾つか目立つ働きをしている。俺も本人に会うのは今日が初めてだったんだが」

「佑介、ちょっと待って」

 憂はとうとうとしゃべり始めた佑介をさえぎった。

「その優等生が捜査本部に赴任してきた。それで?それが私と何の関係があるの?」

「それなんだがな」

 佑介は少し声を落とした。背後の喧騒が遠ざかる。どうやら人気のない場所に移動しているらしいと気づくのに時間はいらなかった。

「さっき奴さんについて現場を一通り案内してきた。だがどうも何か引っかかることがあったらしいんだ」

「そう」

 憂は胃の辺りがちょっと熱くなるのを感じた。

「なあ憂、まずいことはないだろうな」

「ないわ」

 そう言ったものの声が上ずった。いくら自分の名前が書かれているからといって、あの紙を持ってきたのはまずかった。だが、釘に打ちつけられたままあそこに残してきた場合と、持ち去ってきた今の状況と、どちらがより危険なのかは判断できなかった。

「本当に大丈夫なんだろうな」

 佑介は憂の声の変化には気づかなかったようだ。

 心から案じている様子の佑介の声に、憂は理由もなく苛立ちを感じた。

「何度も訊かないで」

 言ってすぐに後悔するくらいぶっきらぼうな口調になった。

「すまない。それだけ確かめたかったんだ。じゃあ、ゆっくり休んでくれ」

 佑介は傷つく風でもなくそう言った。

 どうしてあなたの言葉はそんなに優しいのよ。

 憂は佑介に向けて心の中で呟いた。口には出せない。出せるはずもない。本当は出すべきなのかもしれないが、出す勇気なんていつまでたっても湧かないだろう。そうやって二十数年を過ごしてきた。これからの数十年だってそのままに違いない。

 憂は少し口調を和らげて言った。

「ごめん、佑介。疲れてるの。本当に」

「いや、いいんだ。熱い風呂に入ってよく暖まってから寝ろよ」

 声から佑介の微笑が伝わってくるようだった。

「ありがと」

「お休み」

「お休みなさい。そっちはまだ仕事ね。頑張って」

「嬉しいね」

「それじゃ」

 通話は切れた。

 携帯を机の上に置いて両手をつく。そのまま少しそうしていた。

 いつまでガキを続けるんだろう。いつまであの森に立った子どものままでいるつもりなんだろう。

 窓に自分の姿が映っている。うなだれているので肩までの髪が横顔を隠してくれている。

 よかったと思った。

 自分の泣いている姿は見たくない。

4


 男は震えていた。

 寒い夜だった。冷たい夜気は骨の髄まで染み込むようで、血液さえ凍っているように思える。そんな夜に男が着ているものといえば、あちこちがほつれ、擦り切れてしまった紺色の制服の上下だけだ。いかに男がその制服に偏執的な愛着を抱いているとはいえ、それは寒さを防ぐ役には立ってくれない。

 だが男が震えているのは寒さのせいではなかった。男の痩せ衰えた肉体を芯から揺さぶり、薬物の常習によってぼろぼろになった残り少ない歯をがちがちと触れあわせているのは、昂奮だった。

 部屋の片隅に膝を抱えてうずくまったまま、男は腐りかけた肉体の内側から湧き上がる純粋な昂奮に、ぶるぶると身を打ち震わせているのだった。

 男の目は向かいの壁に鋲で留められた地図に向けられている。その目は充血して異様に光り輝く狂人のそれだ。そしてその底には紛れもない歓喜の表情がある。

 地図は三千分の一の市街地図で、旧市街地を中心に描かれている。

 その地図の一点に、フェルトペンで赤い色が塗られている。

 男はその赤い点をぎらぎらと光る目で熱心に見つめている。

 そもそも真っ暗な部屋の中で、地図もそこに塗られた赤い色も男に見えているはずがないのだが、それでも男は地図が貼られた壁を凝視するのをやめない。何故なら男はそれが見えると信じているから。男は見たいと思うものを見ることができる。聞きたいと信じるものを聞くことができる。

 ならばそれが真実ではないか。真実とは真の実相ではなく信の実相なのだから。たとえそれがいかに歪んだものであろうとも。

 男は彼自身の真実の中で狂悦に震えている。

 長く伸びた黄ばんだ髭に口の端から涎が一筋流れ落ちる。身体が震えるたびに、三本だけ残った前歯が猛烈な勢いで下の唇に振り下ろされる。そしてまた涎が一筋流れる。男はそれらを繰り返す。強烈な昂奮と愉悦が彼の芯を揺すぶっている。

 男の鼓膜には一つの言葉が張りついている。

 その言葉が消えない。

 男はそれが神の言葉であると思う。そしてそれは彼にとっての真実になる。

 神は信仰の弾圧者であったパウロにすら天啓をお与えになったのだ。それなら俺にだってその声を聞く資格がないとはいえない。

 男は闇の向こうを見る。見続ける。

 神の声が消えない。まるで鼓膜に張りついてしまったかのように。

 男は上顎と下顎をガチガチと噛みあわせながら笑う。

 そう、たらふく芋と挽き肉を喰った翌朝の便器みてえなもんだ。

 こびりついたらなかなか消えない。

 男にはその表現がこの上なく優雅なものに思える。こいつはいい。これで手元に薬があれば言うことなしなんだが。

 殺人が起きた。一人の裕福な男が死んだ。その男は、週末にもジャケットを着てタイをつけるような人間だった。そしてゴルフがない日曜の晩には、山の手の気取ったレストランで、その赤い煉瓦よりも気取った家族と、横文字だらけのメニューから、かみさんのかけている色眼鏡よりも気取った皿を選び出すといった種類の人間だった。

 だが残念ながら奴が週末に合鴨のソテーを胃袋に収めることはもうない。

 咽喉の奥で男は哄笑した。

 あいつはいい死に方だった。まあ見事にやった。満足のいく仕事だった。

 男は膝を抱えた姿勢のままで前後に身体を揺り動かす。打ち寄せる波のように喜びが交互に訪れる。

 ここに薬さえあってくれたら、本当に最高の気分になれるんだが。

 だけどな。

 男は愉悦に浸る自分に言い聞かせる。

 これで終わりじゃない。これが本当の最高ってわけじゃない。

 まだ続きがある。長い長い続きがある。絶頂はその向こうにある。

 男は闇を見る。闇の向こうに地図がある。それがこの腐った街の地図であることはわかっている。そこに赤い点が打たれていることもわかる。その数が一つであることもわかっている。たった一つだけ。それではあまりにも少な過ぎる。

 神の声が消えない。神の声は命じる。こうして男が己の巣の中に縮こまっている今も、耳の奥で命じ続ける。

 やれ、と。やれ、やれ、と。やれ、やれ、やれやれ、と。やれ、やれやれやれやれやれやれやれやれやれやれやれやれやれやれやれやれやれやれやれやれやれやれやれやれ、と。

 何をやればいいかはわかっている。

 しかし焦ることはできない。焦らずにゆっくりと動かなければならない。

 恐怖を増すために。

 男は闇に身を潜める。それは隠れるためではなく、獲物たちの恐怖を増幅させるためだ。

 獲物は闇に潜む男の正体を知らない。獲物の目には闇しか映らない。もし人間の目が闇だけを見つめるなら、闇は何も答えてはくれない。それはただ反射するだけだ。闇の滑らかな表面にそれを見る者の不安を反射し、虚像を結ぶ。そこに恐怖が始まる。獲物たちは闇に映し出された自分たちの不安を見て怖れる。それは自分自身に対する恐れなのだ。

 せいぜい脅えるがいい。

 男は震える手で脇の床に置いてあった帽子を取った。

 愛しそうにゆっくりその埃を払い、頭に乗せる。

 男はぶつぶつと呟き始める。

 雨に震える闇に男の低い呟きだけがいつまでも響いている。



第二章 火曜日

人口の原理から、じゅうぶんに供給を受けることができる人数をこえたものは常に欠乏していることが、明らかとなった。
―――トマス・ロバート・マルサス 『人口論』


1


 翌朝、多賀城の片隅でバスを降りる頃に雨がやんだ。

 空は暗く濁っている。

 火曜の朝じゃ早過ぎる。月曜に仙塩地区へ大量の雨を降らせた雨雲は、憂鬱な灰色のひだを蠕動させながらそう呟いている。太平洋上に去ってゆくには火曜日の朝は早過ぎる。あそこは俺にはいささか陽気過ぎるもんでね。

 憂は錆だらけのスタンドの隣に立ってバスの後ろ姿を見送った。しなびた桃のような色の車体に書かれた宮城交通という文字が小さくなっていく。

 私がバスを降りたのだろうか、それともバスが私から降りたのだろうか。

 憂は小さく首を振ると、ほとんど倒壊家屋に含まれるのではないかと疑いたくなるようなアパートが立ち並ぶ一角へ向かった。

 風は身を切るように冷たく、季節が秋の黄昏に到達しつつあることを教えている。

 ヒールのない固い靴底であちこちが崩れかけているアスファルトを踏みながら歩く。

 この辺りは多賀城で最も貧しい人々が住む一角だった。

 それでもあの街のスラムほど酷くはない。

 水溜りを一足でまたぎ、憂は視線を周囲の建物に注ぐ。

 多賀城はまだましな部類だ。

 ここには仕事がある。数年前に始まった史都整備事業では国から直接予算がついた。仙台や塩釜の工場や事務所に通う人々の家もある。彼らは律儀に税金を払い、法律の平衡台の上を踏み外すことなく暮らしている。

 それに加えて、多賀城市の市政は最低限度の所得再分配機能を果たしている。公共料金をかなりの期間滞納している家にも水道が来るし、生活保護受給者たちが暮らす地区にも警察が巡回に来る。それは月十万に満たない額の金で細々と暮らす人々の安全を守るためではなく、犯罪の温床を監視するためであるのだけれど。

 さらに、ここには正義がある。小指の爪の先ほどのちっぽけなことを正義と呼ぶ必要があるのならば、だが。

 多賀城でも交通事故は起こる。ゴミ溜めのあの街と同じように。だが、多賀城では、金持ちの車に10mも撥ね飛ばされ、縁石に頭を叩きつけて即死した少年が、その結果彼の自転車のせいで車の塗装が剥がれたといって車の持ち主から訴えられるといった事態は起こりえない。そしてその訴えがあろうことかありがたい裁判員と裁判官によって認められ、制限速度30kmの路地を60km飛ばしていた車の側に責任はなく、野球に行くために時速10kmで自転車をこいでいた十歳の男の子が重大な過失を犯したものとされるような事態も起こりえない。

 多賀城では個人の人権は金で左右されはしない。富める者も貧しい者も同程度の人権を享受する権利があると見なされ、その権利は法律によって保護される。法律家たちはそのために仕事をする。警察もまた同様だ。

 ゴミ溜めの街とは違う。

 でも、と憂は考える。

 一軒の木造モルタルの二階建アパートの錆びついた階段を登りながら考える。

 そんな比較が、いったい誰の慰めになるだろう。

 多賀城は確かにましな部類だが、多賀城には多賀城独自の基準がある。そこに住む人間にとっての貧困とは多賀城における貧困であって、憂の住む街における貧困ではない。北国で雪に埋もれて凍えている人間に、南国の灼熱の荒地で飢えている人間の話をしたところでしかたない。

 憂は階段を登り切ったところにある部屋の扉を叩いた。

 二○五という数字が、ちゃちな合板の上に辛うじて読み取れる。本来はゴシック体の数字ブロックを打ちつけてあったのが、いつか剥がれ落ちてそれっきりになっているのだ。

 表札はない。つける意味がないからだ。客も新聞配達も郵便物さえも期待していない人間にとって表札ほど無意味なものが他にあるだろうか。あるとすれば酒と女と金にだらしない暴力亭主くらいのものだろう。

 憂はもう一度扉を叩いた。

 部屋の奥で物音がした。

 憂は辛抱強く待った。相手が怯えているのがわかっていたから。

 薄いトタンの屋根を揺らして、冷たく鋭い風が吹きぬけてゆく。

 憂は鞄を持っていない右手で髪を押さえて、秋風の寒さに凍えているような安アパートの家並みを見渡した。

 いつかこの町も落ちてゆくのだろうか。それは全く確かなことのように思える。やがてこの一帯がスラムと呼ばれる時が来るだろう。その時、人間も落ちてゆくのだろうか。町の退廃とともに。

「誰?」

 そう問う声は部屋の奥から発せられた。

 怯えているのだ。夜も満足に眠れないくらいに。

 憂は暗い気分で頭を振った。そして相手の警戒を解くために極力優しい声音を出した。

「恐がらなくても大丈夫。正義の味方よ」

 扉の奥に張り詰めていた緊張が緩んだ。

「憂さん?」

 柔らかい足音が扉に近づく。

 厚手の靴下を履いているのだろうと憂は思った。暖房のない部屋の中では、こんな気温の朝には厚手の靴下が恋しくなるものだから。

 錠とチェーンが外れる音がして、安っぽい木戸が開いた。

「やっぱり憂さん。良かった」

 扉を開けた女は、憂の顔を見るなり目を閉じて壁にもたれかかった。

「私の他の誰だと思ったの」

「あの人よ。ドアを叩かれた時は心臓が止まるかと思った」

 女は胸に手を当ててひゅうっと息を吸い込んだ。

「こんな風にね。本当に怖かったわ」

「顔色があまりよくないみたいよ。大丈夫?」

 憂は女の顔を見て言った。女の目の下には青黒い隈ができ、頬はやつれている。

「よく眠れなかったの。ただそれだけ。入って」

 女は身体をずらして憂を中に招き入れた。

 半畳ほどの広さの三和土で靴を脱ぐ。

 女は玄関から入ってすぐの場所にある台所の流しに腰をかけた。そうして視線をぼんやりと宙に漂わせている。小さな窓から差し込む弱々しく黄ばんだ秋の光が女の輪郭を柔らかくかたどっている。陰になっているため、頬のやつれや目の下の隈などはそれほど目立たない。

 こうして見ると綺麗な顔だった。美人といってよかった。だがその表情にはどこか危なっかしい無邪気さのようなものがある。

 可哀想に、まだ若いのだ。二十歳にもなっていない女の年齢を思って憂の胸は痛んだ。

 本当ならもっと陽の当たる場所にいるべき年頃なのだ。こんな安アパートの薄暗い一室などではなく。

「あの子はまだ寝ているの?」

 憂は引き戸の奥の部屋へ目を向けて言った。

 食卓の上に置かれた時計の針は九時少し前を指している。

「そう。昨日の雨が物凄かったでしょう。だから怖がっちゃって、朝方まで寝つけなかったのよ。ずっと抱いていたおかげで私まで寝不足」

 そう言って女は笑った。三歳の娘のことを口にするその表情はとても穏やかだ。

「そこに座って。バッグはテーブルの上にでも。今お茶を入れるから」

 女は水切り台の上から手鍋を取るとそれに水を張って火にかけた。

 憂はコートを脱いで女に勧められた椅子に腰を下ろした。

 台所にはほとんど何もない。東芝製の小さな冷蔵庫が一つに備えつけのガス台と流し台があるだけだ。テレビはない。ストーブもない。奥の部屋だって同じようなものだ。女の服が二、三着と娘の身の回りのものが幾つかあるだけ。

「寒いでしょう」

 火にかけた鍋を見つめたまま女が言った。

「ううん、そうでもないわ」

 憂はそう答えたが、部屋の空気の冷たさはハイネックのセーターを着ていても肌に染みた。

「嘘。だって私がちょっと震えてるのよ」

 女は肩越しに憂に笑顔を見せた。

「やっぱりストーブがあった方がいいわね」

 憂は剥き出しの手と手をこすりあわせて言った。

 女はテーブルに白い陶器のカップを二つ並べながら憂を見上げた。憂はテーブルの上に置いた鞄を脇に寄せて場所を空けた。

「憂さん、その話は前にしたでしょ」

「そうだった?」

「もしストーブが必要なら自分の金で買うわ」

 女の口調は頑固だった。

 憂は紅茶の缶を流し台の下から取り出す女の背中に微笑した。

「でも寒いって言ったじゃない」

「たとえ部屋の中につららが下がったとしても他人の金で暖まる気にはなれないの」

「子どもが風邪をひくかも」

 女はリプトンのビニール・ケースからダージリンのティーバッグを二つ取って袋を破いた。

「それを言われると辛いわ。でも決めたことだから」

「まだ彼のことを思い出す?」

 憂の問いに女はしばらく答えなかった。

 湯が沸騰するしゅうしゅうという音がやけに大きく聞こえた。

 女はつまみをひねってガス台の火を落とした。その手には、色はだいぶ薄れてきてはいるものの、はっきりそれとわかるくらいに大きいあざがある。

 女が着ているのは淡いピンク色のトレーナーだ。七日前と同じトレーナー、と憂は思った。七日前、地獄のような暮らしから逃げ出してきたあの日と同じトレーナー。

「夢に出るのよ」

 女は鍋の柄を持って彼の家に住んでいて、ちょうど彼が帰ってくるところなの。玄関のドアが開いて、靴を脱ぐ音カップに湯を注いだ。

「嫌な夢なの。そこでは私たちはまだあの家にいて、彼がアパートの階段を上がってくる音が聞こえるの。それなのに私ときたらまだ何もしていない。洗濯物は取り込んでいない、風呂は洗ってもいない、夕食なんか米さえ研いでいないのよ。階段を登りきる音が聞こえて、それから廊下を歩く足音が近づいてくる。その内に娘が泣き出して、私はますます慌てるばっかりで。そして部屋のドアが開いて、そこに彼が立ってる―――とても口に出せないような格好でね。私はただ泣き叫ぶだけ。この子は駄目、この子だけは駄目って」

 女は鍋をテーブルの上にことんと放り出して椅子にへたり込んだ。

「目が覚めても自分がいる場所がどこなのかわからないの。仙台の彼の家だとも思うし、実家に戻ったんだとも思うし。夢と現実の間で混乱している時に表の階段が鳴る音が聞こえるのよ。たいていは風のせいなんだけどね。そうするとその夜はもう眠れない。どんなに眠ろうとしても駄目。一晩中まんじりともせずに起きていたこともあったわ。いつあの足音が、彼が帰ってくる足音が階段を登ってくるかびくびくしながら」

 女は悪い夢を振り払おうとするように何度も首を振った。

「わかってるの、そんなことが実際には起こりっこないってことは。彼はぶん殴る相手がどこに消えたのかわからずに、はらわたが煮えくり返る思いで仙台にいる。女房と娘が出ていった後の2Kのアパートにね。そして私の居場所が彼に知られる心配はない。理屈ではわかってるのよ。でもやっぱり夜になると怖い。たまらなく怖いの」

「わかるわ」

 憂のあいづちに、女は疑わしそうな視線を向けた。そうかしら、とその目は語っていた。本当にわかっているとは思えない、と。

 それは正当な疑いだった。誰だって他人の恐怖を理解することはできない。喜びや悲しみと違って、恐怖は共有することができない。それは極めて個人的なものだ。

 女は憂に真っ直ぐに見つめられて唇を緩めた。

「憂さんには感謝してる。私だけじゃどうしようもなかった。あなたのお陰で一歩を踏み出すことができた。これからは私が自分の力で歩いていかなくちゃ」

 朝の光が女の目に反射している。

 輝いていると憂は思った。ちっぽけで、危うげで、頼りなげではあるけれど、見間違いようのない輝きが、その目に宿りつつある。

 それでいい。

 憂は女に向けて微笑む。今はそれでいい。

「紅茶をもらってもいい?」

「あ、ごめんなさい。どうぞ」

 女は顔を赤くしてティーバッグを抜き、カップを憂の前に置いた。

 カップの縁に口をつける。

 紅茶は冷めているうえ、茶葉の出し過ぎで苦かった。それでも憂は美味しいと思った。紅茶の下には素晴らしい味が潜んでいた。

「ぬるぅ」

 一口飲んで女は顔をしかめた。

 その様子がおかしくて憂は笑った。女も笑った。

 悪くない紅茶だった。

「そろそろ行くわ」

 カップを置いて憂は言った。

 女は立ち上がろうとしたが、憂はそれを手で制した。

「その前に、プレゼントがあるの」

 憂はテーブルの上の鞄を引き寄せて中から一通の封筒を取り出した。

 女は不思議そうな表情で差し出された封筒を受け取った。

「これは?」

 何の変哲もないセービングの事務用封筒の中をのぞきながら、女が言う。

 憂は中身を取り出すように手で促す。

 女が茶色の封筒を筒状にして傾けると、テーブルの上に薄い紙片が何枚か滑り落ちた。

「ああ」

 その紙切れを手に取った女は、片手で口元を押さえた。

憂は女の涙溢れる瞳に向けて言う。

「おめでとう」

「ああ、憂さん、これ、なんてお礼を言っていいか」

 女の手には捺印済みの離婚届の写しと、養育費の支払い同意書が握られている。

「養育費は仙台の弁護士事務所の口座経由であなたに振り込まれることになってる。おめでとう。あなたはもう自由よ。何をしようと、どこに行こうとね」

「でも、どうして。彼が、こんな、こんな。ああ、まだ信じられない」

「信じなさい。それが一番大切なこと。信じるの。自分は自由なんだって。脅える必要はないんだって。生きていくために信じるの」

 憂は書類を持つ女の手を両手で強く包んだ。

 女は憂の手に額を寄せて泣き出した。

 信じるには時間がかかるだろう。脅える夜をまだ何回も経験しなければならないだろう。籠から出された鳥はすぐに飛び立ちはしない。何事も急に変わることはできない。

 憂は女の髪にそっと手を置いて考える。

 それでも歩かなければならないのだ。過去の影に脅えながら、恐怖に苛まれながら。

 だが、もし時間さえ解決してくれなかったら、その時私はどうすればいいのだろうか?

2


 小さな女の子が一人、塀の上に座って両足をぶらぶらさせている。遠目にも、その髪が雨に濡れて額にぺったりとはりついているのがわかる。

 多賀城では止んだ雨が、この街ではなおも降り続いている。

 携帯と傘を持つ手を入れ替えて、憂は束の間、頭上に注ぐ雨を恨めしく仰いだ。

 そして女の子に向かって傘を振る。

 しかし少女は遠くからじっと憂を見返しているだけだ。間断なく降る雨粒がそのピンクのシャツを乱雑に洗っている。

 憂は傘の影でこっそり溜息をついた。

「どうした」

 携帯の向こうで男の声が言った。

「何でもない。それで?殺された弁護士についての新しい情報は何かないの」

「うんにゃ、河北に出ている以上のことは何もねえな」

 男の声の後ろでは雀牌が触れあう耳障りな音が響いている。男が早く電話を切り上げたがっているのは明らかだった。

「何かわかったらすぐに連絡して」

「そうするがね、一つ、警告もさせてくれや」

「情報屋が何を警告してくれるっていうの」

「こいつは結構ヤバそうだってこった。あんたの街はもとからヤベえけどもな」

「素敵ね。考えたこともなかったわ」

 憂は通話を切って携帯をコートのポケットにしまった。

 塀の直前まで歩いてきていた。

 女の子は高さ三メートルほどのその塀の上にちょこんと座ったまま、憂を見下ろしている。金色がかった前髪がぺったりとその鼻筋に貼りつき、そこから雨滴が白い滝となって流れ落ちてくる。

「こんにちは」

 憂は傘を上げて少女に笑顔を向けた。

「マリエ、風邪ひいちゃうよ」

 くすんだ空を背景に、澄んだ瞳が冷たく憂を見返している。

「ほら。降りて」

 憂が傘を頬と左肩で挟んで両腕を差し出しても、マリエは変わらぬ姿勢で憂を見ているだけだ。

 憂は目の前にぶら下がっている二本の脚を掴んだ。

 今年の夏に五歳になったばかりのマリエの体重は軽い。憂はやすやすと塀の上からその身体を下ろし、両腕で抱きかかえた。

「冷たい」

 マリエのずぶぬれの身体から水が滴り、憂の手首を伝ってコートの袖へ流れてくる。

 マリエを抱えた拍子に肩の上で傘が揺れ、憂の全身が雨に濡れる。

 マリエの黒い目は憂の腕の中から空を見上げている。雨がその小さな額に、頬に、顎に、次々に当たって砕けるが、マリエの表情は変わらない。そこに波紋は生まれない。何ものもマリエを変えることはない。

 憂は両手がふさがったまま、どうにか傘の位置を直すと、バラックの立ち並ぶ路地を一足跳びに走り出した。

 東の方角に煙が見える。三本の煙突から噴き上がる煙が。

 晴れた日なら、煙突にかかれた文字がよく見えただろう。

 EWA。

 それが海沿いに建つ製鉄会社の名前だった。もちろん略称ではあるのだろうが、その三文字がそれぞれどういう単語の頭文字なのか、あるいは日本語なのか英語なのか、それともバヌアツあたりで話されている言葉なのかさえ、この街のほとんどの人間は知らない。彼らはその工場を単にエワテツと呼ぶ。系列会社のエワケンやエワハナとはそれで区別がつく。それだけで十分だ。煤煙を乗せた海からの風が始終吹きつけてくる土地に住む人々はそれ以上のことを気にしはしない。地権者のはっきりしない原っぱに掘っ立て小屋を建てて住むような人々にとって、企業の名前などどうでもいい問題なのだ。

 一般的な日本人はオリンポスの山頂に住む神々の名前の由来について知りたがりはしない。しかし中には知りたがる奴もいるかもしれない。その場合も、この煤煙の街での言い回しが当てはまる。つまり、変人だけがそれを気にする、というわけだ。

 憂は何十年も前に建設途中で放棄されたマンションにたどり着いた。マリエは相変わらず憂の腕の中で身じろぎ一つせずに揺れる傘を見つめている。

 壁面を四角く切っただけの入り口をくぐってマンションのエントランス・ホールに入る。

 ロビーの奥まった場所では、数名の老人が腐った木製の長椅子に腰かけている。

 彼らの頭蓋に開いた虚ろな穴が、さながら無人の天空要塞を守る自動砲塔のように憂に向けられる。

 憂はその視線を背に受けつつ、乾いたコンクリートの床の上にマリエの身体を下ろした。

 首を真っ直ぐに伸ばして肩の上の傘を取る。そのはずみに頚骨がぽきりと鳴る。

 顔が上気しているのがわかる。路地の直線は決して短くはなかったが、それを斟酌しても、息が上がりかけていることが許せない。もちろんほんのちょっとだけではあるのだけれど。

 背後で老人たちが呻いている。

 その大半は、むあ、とか、にい、といった意味のない音だ。生物の影のない要塞を吹きぬける風が、冷え切った孤独な砲身を鳴らす静寂の音。

 憂は傘を畳んで鞄を肩にかけ直し、もう一度マリエを抱き上げた。

 老人たちは陰々と声帯を震わせながら憂の動作に白っぽい目玉を向けてくる。

 死の都の番人、と憂は考える。その比喩は冷淡で非礼ではあるが、あながち間違いではない。老人たちは文字通り番人なのだ。このマンションが街の高校生の溜まり場になったり、街中を通る国道沿いで車を誘う娼婦たちの仕事場になったりせずにすんでいるのは、ここに住み着いている老人たちが、常にあの虚無の巣食った目玉で見張っているからだ。

 だから他の人間も安心して住むことができる。深夜にホンダ車に乗ったティーンエイジャーたちがウォトカの壜を抱えてやってくることはないし、自身が抱える特殊な問題から一つの土地に定着することができないような浮浪者がふらりと現れることもない。

 老人たちの他には誰が住むだろうか。ダイエーやユニクロで廉売されている服の色あせたヴィンテージを着込み、とうに消滅した球団の帽子を被って、日がな一日薄暗いロビーに座り込んでいる老人たちの他には誰が。

 そう、たとえば、製鉄工場の爆発事故で親を亡くした幼い兄妹とか。

 憂は階段を三階まで登って目的の部屋の前へ進んだ。

 マンションの建設は三階部分までは順調に進められた。しかし残りの七階分の空白が鉄骨とコンクリートで埋められることはなかった。クズネッツ循環の下降曲線が生み出す波は容赦なくこの街の建設業界を洗い去り、二度と戻ってくることがなかった。EWAの土建部門であるEWA建設、通称エワケンはこの地区の開発を諦め、ついでに百人近い労働者の首を切った。それから二十年が経つ。

 憂は暗がりにぼんやりと光る白塗りの扉の前で足を止めた。抱いているマリエを右腕に寄りかからせて、空いた左手でスチール製の板を叩く。

「憂だね。開いてるよ」

 中からの返答に、憂は左手をドアの取っ手に添えて押し下げた。

「よくわかったわね」

 玄関に足を踏み入れながら憂は言った。

 部屋の中はできかけのマンションとは思えないくらい、内装が整っている。玄関から奥のリビングへ続く廊下には板敷きが施され、壁には断熱材と壁紙が貼られている。

 憂は足だけを使って靴を脱ぎ、廊下に上がった。

「だって憂くらいしか来ないじゃんここ」

 入り口のすぐ近くに風呂場がある。憂はマリエを抱いてその戸を開けた。

 脱衣場には小さな洗濯機とタオル類をかけておくハンガーが置いてある。憂はそのハンガーから大きなバスタオルを一枚取ってコルク材の床に敷き、その上にマリエを寝かせた。

 廊下を車輪が滑る音が聞こえる。

「またマリエが外に出てたんだね」

「そう。この悪癖を直さないといつか肺炎になるわ」

 鞄を置いてコートを脱ぐと、憂は風呂場に入って給湯器のダイアルをひねった。

「今もびっくりするくらい身体が冷たいのよ」

 タイル張りの小部屋に憂の声が反響する。壁掛けのシャワーヘッドを手に持ち、お湯を出して温度を確かめる。

「マリエは哲学者なんだよ」

 その廊下からの声に、憂は思わず苦笑した。

「何それ」

「どんな場合にも彼らは自分自身の行動様式を変えちゃいけないんだ。どんなに偉い王様を前にしようと、樽の中に住み続ける哲学者はこう言うだけ。『そこをどけ、これから私が転がるのだから』」

「それを言うなら『日向ぼっこの邪魔だから』でしょ。どっちにしろ雨の日に塀の上に座ってずぶ濡れになっているマリエと哲学とは関係ないわ」

 脱衣場に戻り、マリエの服を脱がせる。

「風邪、引いちゃうかな」

 廊下の声が言う。

 憂は首を回して、開いたままの戸口に立っている声の主に答える。

「引かずにすめば幸運ね」

 そう言ってから、冷たすぎたかなとちょっぴり後悔した。暗い廊下に浮かぶ白い顔に、妹を真剣に心配している表情が浮かんでいたからだ。人生最悪の嵐である思春期を二、三年後に控えた薄い頬の輪郭が、雨の光をぼんやりと不安げに反射している。

「マリエ、どっか苦しいところ、ない?」

 憂の肩越しに、少年はタオルの上で身じろぎしない妹に言う。

 憂は脱がせたマリエの服を洗濯籠に詰めながら、大丈夫よと言おうと思う。熱いシャワーを浴び、何か温かい物でも飲んで身体を休めれば、風邪なんか引かないと。

 だがそうする機会は訪れなかった。

 服を脱ぎ終えたマリエがすっくと立ち上がり、無言で風呂場に入っていってしまったからだ。

 かちゃりと閉まる浴室のドアを前に、憂はしばらく口を開けたまま座っているしかなかった。

 やがて笑みが溢れてくる。抵抗するべくもない。

 廊下からも笑いが起きる。

 憂はそれを振り返り、少年と声を合わせて笑う。

 ただ楽しいだけの笑いではない。ちょっぴり苦くて力のない味がある。かといってそればかりでもない。それらを超えて何かがある。

 笑いながら憂は立ち上がり、少年の隣に回る。

 車椅子に座っている少年の脚は腿から先の部分がない。

3


 火が消えたガス台の上で、やかんがちりちりと鳴っている。

 助かったわと憂が言った。

 十二畳のリビングでは、食卓の前に座ったマリエが湯気の立つカップからココアを飲んでいる。

 台所に立って同じくココアをすすりながら、憂はマリエの横顔を眺めている。マリエの着ている動物柄の薄青色のパジャマが、去年の誕生日に自分がプレゼントしたものだと気づいて、憂はちょっぴり嬉しくなる。

 憂の隣ではミシルが、車椅子の上で紅茶をふうふうと吹いている。甘いものが苦手なのだ。

 憂の言葉を少し吟味してから、ミシルは目を上げた。

「あの女の人のことだね」

「そう。早く結論が出せてよかった」

「ぼくは、弁護士に任せて調停にしてもよかったと思うけどな。あれなら正式にやっても絶対勝てたでしょ。どうして急いだのさ」

 憂はカップを口に運んだ。

「急いだ方がいいような気がした。それだけよ」

「ふうん。ま、お陰で色々見られて楽しかったからいいけどさ」

「のぞきは楽しむものじゃないわよ」

「のぞきじゃないもんね」

 ミシルは紅茶のカップを飲みかけのまま調理台の上に置いた。

 憂はココアを一口飲んだ。火傷しそうなくらい、熱い。

「仕事は今は何件?」

 憂が顔をしかめながら訊くと、ミシルはにっと笑った。

「それはわが社の機密事項だよ、きみ」

「生意気」

 憂は改めて部屋の中を見回す。台所はタイルと壁紙から三菱製の冷蔵庫に至るまで清潔な白で統一され、リビングには黒檀の食卓と二脚の椅子、そしてリビングの続きにある部屋には、開きかけの扉の間から何台ものコンピューターが設置されているのが見える。

 全てミシルがそろえたものだ。まだ声変わりも迎えていない車椅子の少年が。

「報酬は弾んでおいたわ。後で口座を確認しておいて」

「無理しちゃって」

「いいの。日曜に旦那の方を叩いたら、いくらか余計に出てきたから」

「あれ、あくどいなあ」

「ほんの交通費程度よ。私が労働者を搾取するような人間に見えて?」

 さあどうだろうねとミシルは笑った。

 リビングの二重硝子の窓の向こうで、煤煙を吹く鉄塔が雨に煙っている。

「あっちの方はどう」

 憂はそう問いかけた。

 ミシルは車椅子の上から窓外の雨に目を向けている。

「まだ何も」

 ミシルの仕事部屋で甲高い電子音が三回鳴った。

「何か鳴ってる」

 憂が言ってもミシルは車椅子を動かそうとはしなかった。

「仕事のメールだよ、たぶん。後でまとめて見るからいいんだ」

 三本の鉄塔を遠景に、リビングの黒檀の食卓ではマリエが黙々とココアに取り組んでいる。甘いものが好きなのだ。

「忙しいのね。充実した毎日で羨ましいわ」

 憂は冗談のつもりで言った。

 だがミシルは軽口を返さなかった。降り注ぐ雨滴の彼方にマジノ要塞のように黒くそびえる製鉄工場が、その瞳孔の黒い鏡面に映り込んでいる。

 憂はココアを飲んだ。

「楽しくはない」

 ココアがカップの底に溜まった黒い滓だけになった頃、ミシルはそう言った。

「憂の言うとおりだ。のぞきなんか全然楽しくない。最初は違った。他人の秘密を知るのにちょっとワクワクした。メールを盗んだり、個人情報を書き換えたり、企業のネットワークに侵入したり。びっくりするくらい簡単にできたし、びっくりするくらいのお金にもなった。もちろん少しはスリルもあった。でも今はね」

 言ってミシルは首を振る。

「ぼくに来る仕事の裏にあるのは悪意だけだ。他人を出し抜こうとか、痛い秘密を暴こうとか。そんな汚い考えしかない。そしてそのためにみんな非常識な額のお金をぼくに払う。どうしてだろう。世の中には悪意しかないから?それともぼくがそんな使い道しかない技術しか持っていないから?」

 ミシルは憂を見上げた。その目は切実に救いを求めていた。

「泣き言を並べるくらいなら仕事をやめなさい」

 憂の答えはにべもなかった。

「あなたが自分で始めたことよ」

「わかってるよ」

 ミシルは憂をにらんだ。

「でもどうしようもないだろ。ぼくが仕事をしなかったらぼくとマリエは生きていけないんだ」

「妹のせいにするの」

「違う」

「あなたが他人の私生活や秘密を盗んで転売するのはマリエのため?それともあなた自身の復讐のため?」

 憂はミシルを容赦なく追いつめた。

「マリエだって復讐を望んでる」

「それなら割り切りなさい。復讐のためならどんな汚い方法を使ってでも金を稼ぐって。今の看板を掲げ続けたいなら、つまらない感傷なんか捨てることね」

「憂が時々人間だって思えない時があるよ」

 ミシルは言い、赤くなった顔をそむけた。

 憂は黙って流しの中にカップを入れた。

 スポンジに洗剤を含ませる。水道の蛇口から水を出してカップをすすぎ、ココアの滓を流してからスポンジでこする。

 廃墟に水道とガスが通り、電気が引かれ、電話回線までついている。

 憂と出会った時、チリからの移民の遺児であるこの兄妹は既にこのマンションに住んでいた。二年前のことだ。マリエは三歳だったし、ミシルは八歳だった。

 八歳の天才的なハッカー。

 驚くべきことなのだろうか。

 白い無地の陶器に付着した泡を水で洗い落としながら、憂は思う。

 そうかもしれない。八歳やそこらの子どもが何台ものコンピューターを縦横無尽に使いこなし、いかなるネットワークにもやすやすと侵入するという事実だけを見れば、そのとおりだ。

 だが、他の子どもはどうだろうか。製鉄工場の爆発事故で両親を失ったにもかかわらず、不法滞在を理由にろくな補償もなく路上に放り出されたら、他の子どもはどうするだろうか。両手を上げて現実に降参し、国道を走る車の波に飛び込むだろうか。各地に満員の児童養護施設を抱える児童福祉政策の担当者ならばその解決法を推奨するかもしれないが。

 少年ジャン・バルジャンは幼い弟妹を食わせるためにパン屋の窓ガラスを破ってパンを盗んだ。生きていくために企業のファイア・ウォールを破って情報を盗むのも本質的には同じことだ。

 スピーカーが震える、ざあという音が聞こえた。

 憂がカップを拭いて棚にしまい、リビングに行くと、マリエがラジオのスイッチを入れたところだった。

 時計は二時ちょうどを指している。NHKの定時ニュースを聴くのがマリエの習慣なのだ。もちろん、塀の上で雨に濡れている時以外には、という条件はつく。

「そろそろ行くわね」

 椅子の背もたれにかけたコートと座席の上の鞄を取り、憂は兄妹に声をかけた。

 低く柔らかい声のアナウンサーが上品な口調で原稿を読んでいる。総理大臣は労働基準法見直しの必要性を改めて強調……中台国境では緊張が続いており……次に……市の荒吉弁護士殺害事件について警察は……。

「次はいつ来るの」

 車輪を回して、ミシルがリビングに入ってくる。

「さあ。しばらく新規の仕事は入れないことにしたから」

「休暇を取るってこと?」

「まさか。でも少しの間、ある事で忙しくなりそうなの」

「そう」

 ミシルは寂しそうな表情を見せる。

 アナウンサーは昨日殺された弁護士について、朝刊各紙が報じているのと同じ内容を繰り返している。

「EWAの顧問弁護士だったんだ、こいつ」

 ミシルが吐き捨てるような口調で言った。

 憂は鞄を肩にかけながらうなずこうとしたが、次にアナウンサーが読み上げた内容に動きを止めた。

 ……県警捜査本部はEWAの系列会社、EWA建設社長の大前章氏の行方が昨晩からわからなくなっていると発表、誘拐事件の可能性があるものと見て捜査を開始……。

「顧問弁護士に続いて系列会社の社長」

 憂は呟いた。自分は今どこにいるのか。どこへ行こうとしているのか。いったい、この街で何が自分を巻き込もうとしているというのだ。

「企業テロかな」

 背後でミシルが言った。

 違う、と即座に憂の直感が否定する。そんなものではない。そうであってくれたらと祈りたくなるくらい不気味なものが、この街の光が届かない深奥で胎動を始めている。

 そんな気がする。するだけであってくれたらいいのだが。

4


 雨上がりのバスケット・コートで子どもたちが走り回っている。

 憂はフェンス越しにその様子を眺めながら、旧知の喫茶店への道を歩いていた。

 スラムの中心に当たる地区だ。ここに来るのは久し振りだった。もう二十年になるだろうか。あの頃はスラムなど影も形もなかったっけ。

 すっかり変わったなと思う。

 バスケット・コートがある場所は、憂の中学時代には郵便局だった。

 住民の所得水準は当時はずっと高かった。現在貧困層に不法占拠されている空ビル群は正式な契約による入居者で常に満室だった。

 コートの中で歓声が上がる。その大部分が中国語やスペイン語、ないしはポルトガル語だ。

 一人の小柄な少年が、長い黒髪をなびかせてコートを自陣に戻っていく。彼は右手の人差し指と小指を立てて、たった今決めたばかりのシュートを誇示している。

 憂は歩道を歩きながらその様子を見ている。

 コートの外ではゲームに入れてもらえない小さな子どもたちが、縄跳びをしたりけんけんぱ―――地面に円を描いて片足で跳んでいくあの遊び―――をしたり、思い思いに雨上がりの午後を楽しんでいる。彼らの口にする言語も年長の子どもたちと同じく様々だ。

 路上に黄ばんだ光の筋が伸びている。

 雨雲は宮城県東部上空から海上へ去っていったようだ。淡い水色を刷毛で控え目にひと塗りしただけのような空が、灰色の街の上に広がっている。

 子どもたちの歓声に包まれるコートは右手後方に過ぎ去り、憂はいつしか人通りの少ない裏通りを歩いている。

 建物の谷間を縫うその細い道は日当たりが悪く、まるで雨雲がそこにだけ取り残されて行き場もなくまごついているように、じめじめと湿っている。

 『シュレーカー』は、日陰の小道をしばらく奥へ進んだ場所にある喫茶店の名前だった。

 だったという言い方は全く正しい。

 店は潰れていた。

 雑居ビルの一階にあるその喫茶店の扉には内側からボール紙が張られている。カンバス地の日よけはホラー映画のミイラの屍衣のようにぼろぼろで、時折吹く風に無数の裂け目をなびかせている。

 その姿には胸が痛んだ。ほんの少しではあったけれど。

 憂は半ば意識しないままに扉の取っ手を握り、それを押し開けていた。

 街の中でもこの地区に来るのは久し振りだ。それは大人になってから訪れる用が何もなかったからだ。しかしよく考えてみればそんな理由だけではなかったのかもしれない、と思えてくる。

 扉に鍵はかかっていなかった。

 蝶番がこの世の終わりを告げるラッパのような音を立てたが、たいした抵抗もなく店内への道は開かれた。ドアの上部で全世界から忘れ去られた鈴がからんからんと鳴った。

 憂は店内に入った。

 室内に漂う空気は埃っぽく、どこか野菜屑が腐ったようなすえた臭気が漂っている。それは無人のまま長い間放置された家屋につきものの匂いだった。。

 三つしかない小さな窓にはいずれもブラインドが下りている。その隙間から差し込むわずかな光が、店の床に蛇腹模様を浮き上がらせている。

 調度品の類いは備えつけのカウンターや棚、テーブル以外は何も残されていなかった。グールドの演奏を初めて聴かせてくれたLinnのレコードプレイヤーも、その下のアナログ盤を満載した棚もどこかへ運び去られてしまっている。ナチによって音楽史から連れ去られてしまったシュレーカーのように。

 シュレーカー、悲しい運命をたどった退廃音楽家。

 窓辺の席に座った少年は言う。歌劇を愛し、歌劇に愛され、人々に捨てられたユダヤ人。

 憂はかつて少年が座っていたテーブルに歩み寄った。

 少年の向かいには一人の少女が、何も言わず座っている。

 あの時の私は何を考えていたのだろうか、と憂は思う。

 喫茶店『シュレーカー』は、雪迫る中学一年の秋に悠太と憂が初めてのデートの待ち合わせをした店だった。

 指でテーブルの表面をなぞる。厚く積もった塵の下に、保存用のビニールカバーの感触が埋もれている。

 時は流れる。その間に店は潰れ、少年は殺され、少女は容赦なく大人の世界へ蹴りだされた。そして今、三十路にさしかかった女は死した喫茶店の胎内に立ち、かつてそこで語られた言葉の意味を反芻している。

 悲しい運命をたどった退廃音楽家。

 気取った台詞だ。中学一年生が喫茶店のボックス席に座ってコーヒーを飲みながら言うようなことではない。自分の前に座っていたのが悠太以外の誰かであったら、憂は吹きだしていただろう。しかしあいにく、目の前に座っているのは悠太以外の誰でもなかった。

 退廃がどういう漢字で書く熟語なのかはおぼろげに知っていたと思う。使い方も知っていたような気がする。小学校時代は読む本といえばもっぱらコバルト文庫や集英社文庫といったあたりだったが、退廃がどういう文脈で使われる単語なのかを知るためにいちいち『マイン・カンプフ』―――二十世紀の聖書になり損ねた本―――を読む必要はないはずだ。

 しかし実体はなかった。

 言葉のつづりを知り、意味を知っても、それだけではプラモデルを組み立てているに過ぎない。プラスチックの零戦にいかに細心の塗装を施したところで空を飛ぶことはない。本物の零戦はそれらしい外見だから飛ぶのではなく、電気系統や内燃機関がその内部に充填されているから飛べるのだ。

 もし、畑の真ん中か裏山の空き地に置かれた実寸大の零戦のコックピットに誰かが座って空を飛んでいる気分に浸っているのを見かけたら、みんなはそいつ笑うだろう。中には笑わずにそっと立ち去る人もいるかもしれないが。これがあいつの趣味なら放っておこうじゃないか。それで誰かが死ぬわけでもなし。私的領域の尊重というわけだ。だがその場で笑わなくとも誰かにそのことを話すだろうし、その時にはやっぱり笑っていることだろう。

 それを言ったのが悠太以外の誰かであったら。

 それを言ったのは悠太だった。

 その口から出てきた退廃という言葉には中身があった。

 それが中学一年生の荻野憂には理解できなかった。悠太が口にした退廃という熟語は辞書に載っているのと同じ単語だったし、作中の一文にちょっとした重々しさを与えるためにどこかの少女小説作家が使った単語とも同じものだった。

 しかしその内実は悠太自身の退廃だった。理解できないのはそこなのだ。

 シュレーカー、悲しい運命をたどった退廃音楽家。

 悠太自身の退廃?

 中学一年生がどうして退廃なんて単語に実体を与えることができるだろう。

 憂は過去に沈んだ喫茶店の内側で、テーブルを覆うカバーの埃に指先を這わせたまま、考えに沈む。

 シュレーカーはユダヤ人だった。たったそれだけの理由でナチが彼に退廃のレッテルを貼った。それを印刷した張本人であるちょび髭が光の差さない地下室で四月のある御機嫌な月曜日に頭を撃ち抜いて死に、ようやくカラシニコフの使い方を覚えたロシア人たちがナチス・ドイツをベルリンで蜂の巣にして解体した時、シュレーカーが土に還ってから既に十一年が過ぎていた。

 シュレーカーにとって退廃は悪罵だった。

 悠太にとっての退廃も悪罵だったのだろうか。もしそうだとしたら誰からの?

 わからない。

 憂は首を振った。

 わからないことが多過ぎる。

 鈴がからんからんと鳴った。その音が過去の海から憂を現在へと引きずり上げた。

 憂は店内に入ってきた男に目を向けたが、その視線はお世辞にも丁重なものとはいえなかった。

「あんたが調査会社の奴か」

 その男の口調もぶしつけだった。

 バーンスタインのBGM入りでお届けする運命的な出会いには程遠いわね、と考えながら憂は男に向かって尋ねた。

「あなたは誰なの」

 男はその質問には答えなかった。顎を上げ気味にして、馬鹿にしたような視線で憂を眺めている。

 がっちりした体格の大男だ。光線の不足で容貌はよく見えないが、別段記憶に止めておきたいような顔ではないだろうという察しはついた。

「車を待たせてある。話はその中だ」

 男は遠慮のない目でしばらく憂を値踏みした後、扉を開けて外に消えた。

 しかたなく憂はその後に続いて店を出た。さようならシュレーカー、歌劇を愛し、歌劇に愛され、人々に捨てられたユダヤ人。

 扉の向こう側、細い路地を占領してダークシルバーの車体が寝そべっていた。アルファロメオ166。それが憂の目には老音楽家の前に立ちはだかった傲慢な暴徒のように映って腹が立った。

 男の姿は路上にはなかった。そして車の後部座席の扉が開いている。

 憂は迷わずそこに乗り込んだ。訊きたいことを訊き、言いたいことを言わなくては腹の虫がおさまらなかった。

「あの店は空気が悪い」

 右側の座席にあの男が座っていた。

「ならどうして待ち合わせ場所にしたのよ」

 憂は言って扉を閉めた。

 男はうっすらと笑い、運転席に向かって言った。

「ただの気紛れだ。出してくれ」

 車がゆっくりと走り出した。

「昨日電話してきたのはあなたじゃないわね」

「そうかもな」

「あなたの名前は」

「姓名判断でも始めようってのか。よせよ、使い走りの名前なんかにこだわるな」

 男は額と顎が必要以上に前方にせり出している顔に嘲りめいた笑みを浮かべている。

「昨日殺された弁護士はEWAの顧問弁護士だった。私の依頼人はEWAの誰かね」

「だとしたらどうする」

「私の専門は殺人じゃない。企業テロでもない。あなたたちはそれを知らないか、アイスクリームをしまうのにオーブンを開けるような馬鹿なのか、どちらかだと思うわね」

「あんたの依頼人はアイスクリームだろうが道路をほっつき歩いているガキだろうが、戸棚にしまっておくくらいなら売りに出すような男だ。あんたの疑問は的外れだな」

 男は茶目っ気たっぷりに憂に答えた。少なくとも本人はそう見られているつもりなのだろう。

 男はゴリラに似ていた。しかしそれはゴリラに失礼な表現だった。ゴリラに朝は読売を読ませて昼間はラグビーをやらせ、移動中と夜寝る前には男性週刊誌を与える生活を十世代に渡って続ければ、こんな男が生まれてくるだろう。

 車は旧市街の旧目抜き通りをゆるゆると走っている。夕刻を前に交通量は徐々に増加しつつある。憂を乗せたアルファロメオの脇を白いクラウンが追い越していく。

「悪趣味な車」

 憂が言うと、男がうなずいた。黒いスーツの下のはだけたワイシャツの胸元に、金色の鎖が光っている。

「蟻の乗る車だ」

「この車のことよ」

 男はむっとしたようだった。そのことが憂に意地の悪い快感を呼び起こした。

 湧き上がる陰険な笑みを押し隠し、男に反論する間を与えずに話題を変える。

「エワケンの社長が誘拐されたって聞いたけど」

「らしいな」

「彼はもう殺されているの、それともまだ生きているの」

「犯人に訊けばいい」

「捕まえてくれたら訊いてあげる」

 男は鼻を鳴らしただけだった。

 車は旧市街の通りに三機ある信号の二つで捕まり、残る一つは無視してぶっ飛ばした。

 車は校外へ続くなだらかな小道にさしかかり、両脇を森の木々が取り巻き始めている。

 憂は浅く息を吐いてシートに身体を埋めた。

 手が冷たくじっとりと汗ばんでいる。首筋や、腋の下、乳房の裏にも冷ややかな汗の感触がある。

 窓から目をそむける。逢う魔が時の近づく樹林に影は色濃い。その黒々とうねる影の下から何かが自分をじっと見ている。

「顔色が悪いな」

 男はさも面白そうに言った。

「私をどこに連れていくつもり」

 憂の声はかすれ、小さかった。

「怖いのか」

 男に言われ、憂はぎくりとした。知っている、と思ったのだ。この男はあのことを知っている、と。

 身体の表面を這う汗が粘液質の微生物のように感じられる。

 自分の目が怯えを含んでいるのはわかっていたが、たとえそれを悟られようとも、男の表情を確かめずにはいられなかった。

 男は憂の視線を受けて侮りの薄笑いを深くした。それはもう無邪気なほどに。

 怯えの色を誤解されたのは口惜しかったが、憂は内心胸をなでおろした。

 この男はやはり知らない。

 安心はしたものの、息苦しさと不気味な汗は去らなかった。

 歩道もない細い道を車は快調に走る。道は森を通って山の手の住宅街へ至る。

 依頼者の自宅へ向かっているのだろうと憂は考えた。

 道が左右に割れる分岐点にさしかかった。右斜め前方に進めば森を抜けて瀟洒な邸宅がゆったりと立ち並ぶ様子を楽しめる。

 早くしてくれと憂は願った。

 今はとにかくこの森の影から抜け出したくてたまらない。

 無情にも車は左へ急なカーブを描く道へ入った。車輪が舗装路面から砂利道へ踏み出し、車体が揺れる。

 吐いた。

 憂は身体をくの字に折って、後部座席の床の上に吐いた。

 食道のみならず気管にまでも粘っこく生臭い流動状の物質が詰まっている。胃はまるで時速150kmの硬球を飲み込んだかのようにでんぐり返しをうち、口は空気でできた電信柱を突っ込まれたかのようにぱっくり開いたまま閉じてくれない。

 憂は二度えずき、三度えずき、四度えずいたが、何も出てこなかった。

「おい、俺の車だぞ!」

 隣の男のわめき声もアフガンで行われる反米デモのように遠い。

 六滴目の唾を床に吐いて、憂は激しく咳き込んだ。咽喉に詰まっているのが千匹の蝿にも感じられる。

 呼吸ができない。両目に血液が集まっていくのがわかる。このまま息を止めていれば、二個の眼球は祭りの屋台で売られている風船の大きさにまで膨らんでぽんと弾けるだろう。

 許して。

 憂は叫んだ。

 私は何もできなかった。それは私が何もできない歳だったから。私は何もできなくて当然のただのガキに過ぎなかったから。

 だから私は何もしなかった。

 許して。

 悠太。

 後頭部に強い痛みが走った。

 男がごつい右掌を伸ばして憂の髪を掴み、無理矢理引きずり上げたのだ。

 憂の咳は収まっていた。

「いい加減にしろ、俺の車を汚すんじゃねえ」

 愛車の後部座席に数滴の唾を吐くという大罪をなした女の首をねじ曲げ、男は凄んだ。

 憂はほつれた前髪を数本、汗のにじむ額に貼りつけたまま、にやりと笑った。

「何がおかしい」

「立派な車だものね」

 男は狐につままれたような表情を浮かべた。狐につままれたとはわかりにくい慣用句だが、この時の男の表情を図解に載せておけば百人が百人ともこの言葉の意味を理解するだろうと憂は想像した。

「糞ったれ女が」

 男は気のない口調で毒づき、憂の髪を離した。

 車は丸太小屋風の廃屋の前を通り過ぎた。それがこの公園の管理小屋だと誰が知っているだろうか。正確には旧公園の旧管理小屋だと。

 一体の惨殺体がこの森林公園から人々を追い払い、二十年もの間無人の地としてきた。おそらくこれからもここは無人の地であり続けるだろう。

 銀色に輝くイタリアの狂騎兵は一本の木の前で歩みを止めた。

 悠太が磔刑に処された木の前で。

「降りろ」

 男が言った。

 憂は無言で座っていた。

「降りろ」

 暴力を言外に匂わせて、男がもう一度言った。

 憂は自分のコートの袖を強く握りしめた。

 男が腕を振り上げる動作に移りつつ、再び何か言おうとした。

「降りてもらう必要はないよ、河東澤さん。僕がこの車に乗ればいい」

 男が座っている側の扉を開けて、誰かがそう言った。

 憂はその方向に目を向けて、事情を理解した。

 アルファロメオの左にもう黒いスバルが停まっている。

 その車を背景に、長髪の青年が扉に手をかけて、男に降りるよう、自分が座るスペースを空けるように促している。

「わけわかんねえな。こいついったい何なんだ。来る時も俺のこの車ん中で吐きやがるしよ」

「河東澤さん、とにかく降りて」

 青年は柔らかい笑みを浮かべて河東澤のゴリラ顔に言う。

「おいウタ―――」

「降りてください」

 ウタと呼ばれた長髪の青年はなおも辛抱強く河東澤を諭した。

「いいわ。私が降りるから」

 憂は自分の側の扉を開けた。湿った木屑と落ち葉の匂いが嗅覚を覆う。それに加えて、間違えようもない確かな臭気がもう一つ。

 血の匂い。

 気のせいだ。

 憂はドアを押して身体を車の外に出した。

 風に乗ってくるのは晩秋の森につきものの植物の腐敗臭だけだ。二十年前に流された血が今も臭気を放っていると信じるなど正気の沙汰ではない。

 憂は首を振って妄想の鎖を断ち切った。

「荻野さんですね」

 アルファロメオの車体を回って、青年は憂に握手を求めてきた。

「ええと、そちらはウタさん?」

 反射的にその手を握って憂は尋ねた。濃紺のスーツを着た身体は華奢に見えたが、青年の手の力は意外に強かった。

 ウタは朗らかに笑った。

「変な名前だとお思いですね」

「あだ名みたいなものかしら」

「ええ、そんなものです。あの河東澤さんと同じく院舎先生の下で秘書をしています。昨日の電話は僕がおかけしました。驚かれたでしょう」

 ウタは憂の腕を軽く取って自分の車の方に誘導した。

 黒のレガシイB4へ向かって歩きながら、憂はウタに言った。

「あの男が秘書ですって?」

 ゴリラ、もとい河東澤は自分の車の後部座席にふんぞり返ったまま、憂とウタの様子をにらんでいる。

 ウタは苦笑した。

「仕事の内容は僕とはだいぶ違いますけどね。あれでとても優秀な人ですよ。打ち解けたらとても面白い人でもありますし。ここまでの車中はいかがでした」

「最高の気分だったわ」

「僕が行くはずだったんですが、先生の御指示で急遽この森に場所が変更になりまして。おかしな話ですが、あれ、顔色が悪いですよ、大丈夫ですか」

「ありがとう、大丈夫」

 憂は引きつった笑みをウタに向けた。

「ウタさん、その院舎っていうのが私の依頼人ね」

 言いながら、憂は記憶の引き出しをかき回していた。

 院舎。どこかで聞いた気がするが、どこでだっただろうか。思い出さなければならない。

 その人物は、間違いなく二十年前にこの森で起きたことを知っている。そればかりか、悠太の死にそいつ自身が深く関わっていた可能性だってある。

 始まりは廃銀行の二階。次に喫茶店シュレーカー、そしてこの森。

 これからはどうなる。気違いじみた真似をする依頼人は、この騒ぎの最後に私をどこへ連れていこうというのか。

 憂は緊張を感じた。同時に恐れてもいた。

「御存知ありませんか。EWAの会長ですが」

 ウタは少し驚いたように言った。

 憂はどう答えていいかわからずに、ウタの幼さが残る顔を見返した。

 院舎明治はEWAの全部門を統括する最高司令官としてこの街に君臨し続けてきた。比類なき辣腕と貪欲をもって知られるが、人前に姿を見せることはほとんどなく、常に郊外の大邸宅の奥深くに閉じこもっているという噂だ。

 だがその院舎が何故あの事件を知っているのか。そして零細調査会社の経営者にその記憶を呼び覚まさせて何をさせるつもりなのか。

「戸惑うのも無理はないと思います。失礼ですが、僕もこの仕事は憂さん、ええとごめんなさい、荻野さんの手には余るんじゃないかと反対したんですが」

「憂でいいわ。それで。院舎氏は私に何をさせようと」

「それなら僕もウタとだけ呼んでください。さん付けだとちょっと落語家みたいで」

 憂はまじまじとウタを眺めた。

「古い落語家を知っているのね。悪いけど、まだ大学生くらいにしか見えないのに」

「正解です。今年二十歳ですから。でも大学は出てますよ。外見じゃなく中身のことを言われたのなら落ち込むな」

 ウタは快活に言った。

「先生に御世話していただいて、高校からアメリカに留学していたんです。さあ、おしゃべりはこのくらいにして本題に入りましょう。そう、院舎氏は憂さんに何をさせたいのか、というさっきの疑問ですね」

 ウタはレガシイのトランクを開けた。

 そこにはA3版の紙の束が一杯に詰まったダンボールが二箱置かれている。

「これは?」

 憂が言うと、ウタは紙束から一枚を抜き取った。

「目下この街で起きている事件については知っておられると思います」

「嫌ってほどにね」

 憂が吐き捨てた言葉に、ウタはうなずいた。その目をちらりと横切ったのは、心痛の影だっただろうか。

 憂は知らず知らず頬が紅潮しているのを感じて、慌てて顔をそむけた。二十歳の男に心が動く三十路の女というのはあまり絵にしたい構図ではない。

「こんなことに巻き込むことになって、本当に心苦しく思います。しかし院舎先生が望まれるのであれば僕もそれに従うしかないんです」

 憂は懸命に動揺を抑えて訊くべきことを探した。

「昨日の弁護士は私との待ち合わせ場所で殺された。まさかそのことは予測済みだったの?」

「是とも言えますし、否とも言えます。ただ確実に言えるのは、最も古くからの親友の一人をああいった形で亡くされて、先生はひどく怯えておいでだということです」

「あの面会の情報は他に誰が知る立場に?」

 ウタはしばらく考え込んだ。

 そしてゆっくり首を横に振った。

「院舎先生の他には河東澤さんが。それからもちろん僕が。でもそれだけじゃないんです」

「どういうこと」

「あなたの依頼人は院舎先生だけではないということです。あなたへの依頼はいわば合議によって決定されたものです。日曜深夜に行われた会合に出席していた方々は月曜のあなたと荒吉―――これが彼の名前ですが―――弁護士との会合を知っていた。情報が漏れる経路はいくらでも考えられます」

「その謎めいた会議に出席していた人間の名前を教えて」

「そうですね、たとえば大前章」

 憂の耳にラジオで原稿を読むアナウンサーの声が蘇った。

「誘拐されたEWA建設の社長ね」

「そうです」

「彼はもう死んでいると思う?」

「おそらく。彼が二人目です」

「荒吉弁護士もその会合に出ていたの?」

「ええ」

「会合に出席した人間が標的になっているようね」

 ウタはうなずいて手にした紙を憂に渡した。

「それが会合に出席した七名のリストです」

 名簿の肩書きには様々な職種が並んでいた。EWA幹部が三名、役人一名、市会議員一名、医者一名、弁護士一名。

「彼らに狙われるような共通点は」

「全員がEWAの利益のために働いている人々です」

 憂は紙片から顔を上げてウタを見た。

「企業テロだと考えているってこと?」

「少なくとも先生はそう考えておいでです。警察もその線で動き始めました」

 憂はもう一度リストに視線を落とした。最初に顧問弁護士が殺され、次に系列会社の社長が誘拐されて十中八九は死体にされた。確かに企業テロだと見えないこともない。だが。

「ねえウタさん」

「ウタでどうぞ」

「どっちでもいいわ。会合は日曜だったわね」

「そうです」

「日曜に会合が開かれたのは何故。弁護士が殺されたのは月曜。日曜にはまだ何の脅威もなかったはず。それなのに私に仕事を依頼することが日曜の会合で既に決定されていた。日曜日に何が起きたの」

「『五粒のオレンジ種』です」

 森のどこかでノスリが鳴いた。甲高いその声は幻想的で、死滅してゆく妖精族の悲嘆を連想させた。

 ウタの真意をはかりかねた憂は遠慮がちに訊いた。

「それはシャーロック・ホームズだったかしら」

「ええ。秘密結社が死の宣告としてオレンジの種を五つ送ってくる。あれと似たようなことが起きたと考えてください。そしてその予告に怯えるだけの理由がこちらにはあると」

「犯人に心当たりがあるというわけね」

「さあ、それですが」

 ウタは苦い表情でトランクに並んだ二つのダンボール箱を見下ろした。

「心当たりが膨大な人数なんですよ」

「それはもしかして容疑者のリスト?」

 暗い予感とともに憂は二つの箱から溢れんばかりの紙束を眺めた。

「私にそのリストに載っている人間を片っ端から調べろっていうわけじゃないわよね」

「それが、申し訳ないんですが」

 慰めるような笑みを浮かべて、ウタは肩をすくめた。

「警察にやらせなさいよ」

「警察には提出できません」

「さぞ立派な理由があるんでしょうね」

 憂は気が遠くなるような思いで箱に手を伸ばし、数枚の紙を取った。

 リストはア行から始まっている。一人一人の人間の略歴、EWAとの関係、住所などが詳細に記入され、見ているだけで憂鬱な気分にさせられる。こんなものを調べるくらいなら、過去百年間に地球上を走った競走馬の血統表を全て提出しろと言われる方がよっぽどましだと思われた。

「犯人の要求は」

 リストにざっと目を通しながら、通すといっても全体の数千分の一の分量にしかならないが、憂はウタに尋ねた。

「ありません」

 ウタははっきりとそう答えた。

 憂は紙片から顔を上げて、会議の席で間の悪い冗談を飛ばしてしまった部下に対する上司のような笑みを浮かべた。要約すればこういうことだ、馬鹿言っちゃいかんな、きみ。

「事前に犯行予告を出した犯人が何の要求もよこさないなんてはずはないわ」

「この犯人に限っては事情が違うようですね。要求というのがEWAによる人命金の支払いとか特定の事業からの撤退といった種類のものでなければならないとすればですけど」

「んん、ちょっと待って、要求は既に出されていると言いたいの?」

「憂さんも御覧になったはずですよ」

 憂は無意味な情報が羅列された紙切れを手に、その場に棒立ちになった。

 そうだ、私はそれを見ている。

 月曜日、廃ビルの二階、街灯の青みがかった光の中で、壁に照らし出された赤い文字。

「まず一人」

「もう二人になりました」

 ウタが言った。

 森の腐臭を乗せて、冷たく湿った風が憂とウタの間を吹きぬけてゆく。

「企業テロなんかじゃないわね」

「そうかもしれない。そうではないかもしれない。誰にもわかりません。犯人を捕まえるまでは誰にも」

 ウタはトランクの蓋を閉じた。

 そして手を振って停止したままのアルファロメオに合図を送る。

「乗ってください。帰りは僕が送りますよ。仕事の細かい内容もそこで話せますから」

 一頭のゴリラを閉じ込めた銀色の檻は不機嫌にエンジン音を響かせて、バックで小道を戻っていく。

 憂は混乱した頭を抱えたまま、ウタのスバルの黒い扉に手をかけた。

5


 懐中電灯の投げかける光条が何本も交錯している。

 闇のとばりの降りた川原に無数の靴音が響く。

 一人の若い警察官が懐中電灯の光輪の中に男の背中をとらえる。

 いたぞ、と彼は叫び、騎虎の勢いで駆け出す。同僚の警官がぞろぞろとその後を追う。

 たちまちその若い警察官の手が男の肩に触れる。

 男はしかし喧騒を背にしたまま動こうとしない。

 警察官は手にした懐中電灯の明かりで男が凝視しているものを照らす。

 一人の警官が走っている途中で足を滑らせる。川原の石に足を取られたのではない。

 転んでしたたかに額を地面に打ちつけた警官は、滑りやすいぬめぬめしたものが一面にばら撒かれていることに気づく。彼は指で近くの石の表面をぬぐい、その指を懐中電灯で照らしてみる。その指は赤黒く染まっている。

 男の隣では、懐中電灯を掲げた若い警察官が悲鳴を上げ始める。

 地面に倒れた警官も同時に悲鳴を上げる。彼は地面に散布されている物質の正体をよく見極めようとして手を伸ばし、ぐにょぐにょとして細長い帯状のものを掴んだ。それは紛れもなく動物の腸だった。

 何だよこれはとその警官は叫んだが、男の隣で壊れたスピーカーのように悲鳴を上げ続ける若い警察官ならその問いに答えられたことだろう。

 懐中電灯の光の中で、地面に突き立てられた十字架の上に男が縛りつけられている。不思議なことに、彼には七つの空洞が存在している。二つの鼻腔、口腔、肛門。これらの標準装備に加えて、さらにざっくりとかっさばかれ背骨がのぞいている腹腔、えぐり出された二つの眼腔。

 けたたましい悲鳴を上げ続ける人間サイレンと化した若い警察官の腹を、隣に立っていた男がいきなり殴りつけた。

 警察官は悲鳴を上げるのをやめて長々と川原に寝そべった。

 男は固めた拳を解き、恐る恐る近寄ってくる他の警官たちに顔を向ける。

「だ、大丈夫ですか」

 警官の一人が男に言う。

 男は疲れたように首を振り、十字架の上の死体を指す。

「俺のことなら大丈夫だが、あいつはどう見てもそうじゃない。鑑識を呼んでくれ」

「もう来てるよ」

 揃いの作業服を着込んだ男たちが大仰な荷物を抱えて進み出る。

 男は溜息をついて死体とは反対の方向へ歩き出した。

 近寄りがたいその雰囲気に飲まれ、警官たちはその後ろ姿を見送るだけだ。

 かろうじてその中の一人が言葉を発する。

「馳さん、どこへ」

 死体の第一発見者にして警部補である馳佑介は振り返らずに答える。

「どこって仕事に決まってるだろうが」

 馳の背中が宵闇の中に溶けてゆく。

6


 バスは遅れていた。

 原因は明らかだった。

 運転席の隣の運賃投入口で一人の中年男がごねているのだ。もめ始めてからかれこれ五分が経つ。

 憂は携帯のモニタをのぞいて時間を確認した。

 ウタに事務所まで送られてからの二時間はリストとの格闘だった。労災認定や解雇を巡ってEWAと争い打ち負かされた元社員や社内の不満分子、問題を抱えていそうな取引先の会社員などの中から特に強い恨みを持っていそうな者を抜き出していく作業だったが、その結果見えてきたのはリストに記載されている全員が同程度に疑わしいという結論だった。どうやら自分がリストを片手に一人ずつ訪ねて歩くはめに陥りつつあるようだと知って、憂の気分は沈んだ。諸経費別で一日百万という報酬の魅力も、でんと積まれた二つのダンボール箱の前では幾分色あせるように思われる。

 早く家に帰りたかった。悪夢のような紙束のことはひとまず忘れ、クバリブレを飲みながら音楽に浸り、頭を空っぽにしたかった。

 時計は夜の七時を過ぎている。バスに乗っている人間は憂の他に運転手と彼に向かってしきりに何かを懇願している男しかいない。

 この市営バスは車体の左中央部に乗車扉があり、左前部に降車扉が設置されている。そして乗客は降車時に乗車区間料金を支払う仕組みになっている。

 憂はバスの最奥部、六人掛けの座席の右窓側に座り、男と運転手のやり取りを眺めていた。

 不快な午後の記憶に神経がささくれ立っている。

 募る苛立ちを鎮めようと憂は額に手を当てて目を閉じた。心の中で、次に目を開く時には休息の時間にお預けを食わせている男が降車口から消えているように、そしてバスが走り出しているようにと願う。

 だがその願いは叶わない。ダーツや紙飛行機の飛距離で学生の成績を決める教授のように遊び心に富んだ運命の神は、望ましい選択肢から順番に黒墨で塗り潰してくれるものと相場が決まっているのだ。

 バスの床を靴底が叩く音が近づいてくる。

 狸寝入りを決め込むこともできたはずだが、憂はそうしなかった。

 かっと眼を開き、顔を上げて靴音の主を睨みつける。

 ありったけの憤懣と憎しみを視線に込めたつもりだったが、両肩にのしかかる疲労感がその威力を致命的に削いでしまったに違いない。目が合っても男はためらう素振りさえ見せなかった。

 バスの室内灯の薄暗い明かりの下をややおぼつかない足取りで近づいてきた男は、息に酒の匂いを微かに漂わせながら憂の一つ前の座席の背もたれに手をついた。

「あのお、すみませんがね、お金、貸してもらうわけにはいかないですかねえ」

「はあ?」

 憂の眉間に深い皺が刻まれる。

 男の顔は赤い。それは酒が染めたものだけではなさそうだ。

「いえね、私うっかり財布を持たないでバスに乗っちゃいまして。それで今、運転手さんに大目玉落とされて、警察に突き出すぞなんて脅されていましてね」

「無賃乗車を警察に突き出すのは当たり前でしょう」

 本当は怒鳴り散らして苛立ちを全部この赤ら顔の小男にぶつけてやりたがったのだが、憂は怒りの蕾が何故か急速にしぼんでいくのを感じていた。疲れているのだと憂は思った。決して目の前の白髪頭の中年に愛嬌があるからではない。確かにちょっとくたびれていて、ちょっと渋みのある容貌ではあるが。それに好感も持てる。でももちろん持ったとしてもほんのちょっぴりだ、人差し指と親指でつまんだ程度。

「いやそりゃそうなんですがね」

「早くしてくれよ、おいその人は本当にあんたの知りあいなんだろうな」

 運転席から柄の悪い大声が飛んだ。

「懐かしいわねタゴサクくん。財布を忘れるなんて小学校から相変わらず間抜けのままなのね」

 憂はわざと声を高くして運転手の疑惑に答えた。

 男はタゴサクは酷いやと渋面を作った。

「そのタゴサクに早く払ってやってくださいや。そいつのせいで運行が遅れてんのに、結局下げられるのは俺の査定なんすから」

 運転手は振り返りもせずに怒鳴ってよこした。

 憂は男が着ているトレンチコートの襟を掴んで軽く自分の側に引き寄せた。

「いつもこうやってダニみたいにたかっているわけ」

 男は少し乱暴な扱いにも申し訳なさそうに頭を掻くばかりだ。

「いやあ、今夜はたまたま職場でくだらない宴会がありましてね。担当している仕事でどうも気になることがあるんで酔ったふりをして途中で店を抜けてきたんです。でも支払いがあるから部下にこっそり財布だけ預けてきたのを忘れてまして。そうこうする間に急に職場から呼び出されたんでバスに飛び乗ったらこのありさまってわけです」

「警察にその事情を話したらわかってもらえるんじゃない」

 憂が言うと男は慌てた様子で首を振った。

「いえいえいえ、そいつはいけません。警察はまずいです」

「後ろめたいことでもあるんですか」

「色々とねえ」

 男は一層激しく頭を掻きながら言った。

 運転席からは運転手が苛々とハンドルを叩く音が聞こえてくる。

 憂はポケットから小銭を出して男の掌に握らせた。

「どうもすみません。お礼は必ずしますから」

「金もないのにバスに乗るような人にしてもらうお礼はないわ。あるとしたらさっさと降りて私を家に返してくれることくらいでしょうね」

「そいつはどうも」

 男は後ろ向きに二歩三歩と後ずさり、小銭を握った右手を顔の高さに持ち上げて頭を下げた。それから運転席に向き直ったが、少し進むとまた振り返って右手を掲げ、

「本当にどうも!」

「タゴサクくん、そういえば小学校の頃のお漏らしの癖は直った?」

 男の表情が奇妙にひきつる。

 ようやく運賃投入口が規定の料金を吸い込み、バスがウインカーを出して再び走り始めた時、憂はトレンチコートの背中がバス停前の警察署の玄関に入っていくのを見た。

 憂は頭を振って苦笑いした。

 実際、奇妙な一日だった。




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