1001のバイオリンが響く

八猛馬

1

 伯父に訊いたことがある。

 小学校にあがる前のことだった。

 不思議なものだ。そのとき自分が何歳だったのかは思い出せないのに、伯父の答えははっきりと記憶に残っている。普通ならこうしたことは全て忘れてしまうものではないだろうか。

 世の中には他に覚えておくべきことがたくさんあるのだし、事実わたしはあの夜以来、たくさんのことを学んだ。それでも伯父の答えは頭に刻みこまれたままだった。

 高校二年次、英語の期末試験でinorganicのつづりがどうしても思い出せず、そのために年間の成績上位者3%のリストから外れることになったが、そのときも伯父の答えはわたしの脳みその座席を譲らなかった。

 そう、他に覚えることはたくさんあったのだ。そしてわたしは他のことを覚えようとする努力をしなかったわけではない。

 あのinorganic――わたしの辞書では糞ったれを意味する――で点を取るために伯父の答えを忘れる必要があったなら、わたしは喜んでそうしただろう。

 また、大学一年の夏にそれを忘れたせいで彼女を失うことになった恋人の誕生日、あるいは一晩中麻雀に呆けた翌朝、携帯の電源を入れたとたんにアルバイト先のコンビニの店長からあらん限りの罵声を浴びせかけられる原因となったシフト、そういったものを覚えておくために伯父の答えを忘れろと言われていたら、わたしは喜んでそうしただろう。

 だが誰も、荒野で腹ペこのキリストにディズニーランドをやろうと持ちかけた悪魔さえ、そうした取り引きを教えてはくれなかった。その結果、わたしは地元の大学への指定校推薦(奨学金つき)を受けそこね、首筋に金色の産毛があった恋人を失い、時給880円での10時間勤務(休憩30分)を週4回というありがたい労働環境から解放された。こんな事例は他にもたくさんある。ただ思い出したくないだけだ。

 伯父の答えとはその点が違う。伯父の答えは忘れても惜しくはないが、思い出したくないようなものでは決してない。

 風呂に入っていたときだった。わたしの家族はお盆休みで父方の実家に帰省中で、わたしの父とそのまた父は、つまりわたしの祖父は、焼酎による簡単な人格改造に挑戦中だった。そのどんちゃん騒ぎが、リビングルームから離れた風呂場にまでがんがん響いていた。

 わたしは湯船に立っていて、お湯はあごにまで達していた。就学年齢に達しておらず、標準的な身長水準にも届かなかった子どもにとって、体格のいい人々の家の風呂で溺れないようにすることは、息を吸った後には吐くという決まり事の次に重要なことだった。

 伯父はわたしに背中を向けて頭を洗っていた。鼻歌が聞こえていた。そのときはわからなかったが、だいぶ後になって、それがブルーハーツの『1001のバイオリン』(ひょっとしたら『1000のバイオリン』)だったと知った。たぶん中学生にあがってからのことだと思う。わたしがブルーハーツを知ったのは、中学二年で転校してきた武内くんにCDを借りてからだったから。

 その風呂場で、わたしは一つの疑問を抱えていた。ずっとそれを伯父に訊きたいと思っていたが、そのときが絶好の機会だった。少なくともわたしはそう思っていた。父と祖父の大宴会に巻きこまれた伯父は、焼酎にだいぶ噛みつかれていたし、鼻歌が聞こえるということは、彼の警戒心がゆるんでいる証拠だった。

 伯父は秘密めいていた。わたしは伯父の家に行ったことが一度もなかった。伯父に会える機会といえば、年に二回、盆と正月に祖父の家に帰省するときだけで、それも伯父が帰っていればの話だった。

 伯父の髪はちりちりの天然パーマで、辛抱強い猟犬のような顔の輪郭を持ち、銀縁の眼鏡の下では細い目が鋭い光を浮かべていた。一言でいえば怖い顔だった。

 伯父は夏に会っても冬に会っても、常に真っ黒に焼けていた。話す声は古寺の鐘のように低くこもっていた。子どもが喜んで駆け寄っていくような外見ではなかった。

 だが伯父の笑顔は優しかった。そして祖父の家にいるときはいつだって笑っていた。テレビの中で芸人が飛ばすギャグ全てに笑い、テレビに芸人が映っていないときには自分で笑い話を引っ張り出した。わたしは伯父の冗談を全部理解したわけではない。中には何が面白いのかさっぱりわからない話もあった。

「だってさ」

 ある晩、伯父は夕食のテーブルを囲んだ一族に、アフリカだったかパンゲアだったか、どこか旅先でほら話がばれて吊るし上げを食った体験談を語った後で、言った。

「真実は僕たちの持ち物の中で一番高価で尊いものだ。だから節約して使わなくちゃ」

 みんなは笑った。父はにやりとして伯父の肩を軽く突いた。祖父は上機嫌で、お前はしょうがない奴だと言った。祖母は伯父をにらんだが、口元はゆるんでいた。母と叔母は(父は三人兄妹だった)顔を見合わせて笑っていた。

 けれどわたしは笑わなかった。真実を褒め称える一方で平気で嘘をつく世間や、嘘を禁じる道徳と嘘をたびたび必要とする実生活の格差を認識できる年齢ではなかったせいでもある。

 だがより大きかったのは、わかった気がしたことだ。父や母が、わたしの問いをいつもはぐらかした理由が。祖父も祖母もまともにとりあってくれなかった理由が。

 シンジツはコウカでトウトイ。理解できる単語は一つもなかったが、伯父が何をいわんとしたかはわかった。本当のことは大事なのだ。大事だから嘘で隠さなければならない。

 わたしはそれ以来、慎重に機会をうかがうことにした。伯父の警戒心がゆるみ、嘘で隠されている中味をうっかりばらしてしまうような機会を。

 それが実現する望みは薄かった。未就学児にさえそれはわかった。さっき言ったと思うが、伯父に会えるのは年に二回だけだったし、それすら伯父の都合で実現しない可能性があった。

 だが結局機会は巡ってきた。鼻歌を歌いながらシャンプーを泡立てる伯父の広い背中を見ながら、わたしは矢をつがえた。大好きな絵本の中でちびくろさんぼがやったように。いや、ひょっとしたらその絵本の主人公ははちまんたろうだったかもしれない。それともリー・ハーベイ・オズワルドだっただろうか?

 地道な努力をする狩人には獲物が回ってくる。わたしは秋田の山中にマタギの老人を訪ねるまでもなく、小学校入学前にしてその教訓を得ていた。そしてわたしはその獲物を逃がすような馬鹿なまねもしなかった。

 わたしは伯父に訊いた。

「おじちゃんの仕事ってなに?」

 あごに達する風呂のお湯も、もうもうとあがる湯気も、わたしの邪魔をしなかった。

 伯父の動きが止まった。ああ、確かに止まったのだ。わたしは何度も思い返してみたし、そのたびに伯父は動きを止めなかった、つまりわたしの質問を注意深くかわす余裕などなかったのだ、という結論に至りかけた。

 しかし、実際には伯父の動きは止まったのだ。そう考えなければどうしようもない。伯父はわたしの質問を受け止め、反芻し、シンジツをウソで節約する準備を整えた。

 伯父が動きを止めたのはほんの1秒だった。それ以上ではない。繰り返すが、わたしは何度もあの場面を思い浮かべた。小学六年生、中学三年生、高校二年生、大学一年生、その他ありとあらゆる時間、あの夜の風呂場の光景を脳内のスクリーンで再演してきた。あれは1秒たらずだった。もっと長かったなら、シャンプーの泡の様子やお湯が流れる音でわかったはずだ。絶対に1秒より長くはなかった。しかしその時間ですら伯父には充分だったのだ。

 伯父の答えはこうだった。

「地底人と戦う仕事だよ」

 わたしがそれを聞いて何を感じたか。

 圧倒的な失望。

 わたしはがっかりした。あれほどがっかりしたことはなかった。

 中学で懸賞つきの読書感想文コンクールに応募した、これ以上ないという自信作を、けちょんけちょんの赤ペン批評つきで教師から返却されたときも、あの風呂場ほどの傷は受けなかった。ただ、その後は二度と読書感想文など書かなかったが。だいたい、自分の作品すらまともにかけない人間が、他人の作品の感想などを書いて何になるというのか?

 後年、同僚となった国語教師がわたしに言った――読書感想文にその本のことなんか書いちゃいけない、書くとしても最初の一行で触れるだけで後は他の事を書く、たとえば自分の打ち明け話なんかをえんえんとね。

 なるほど、とわたしは思った。どうりで女性は読書感想文が上手いわけだ。

 しかし伯父の答えを聞かされても、わたしは失望したそぶりなど見せなかった。本当は、無茶苦茶に暴れたかった。泣き喚き、本当のことを教えてくれない伯父を罵りたかった。だがそれがフェアなやり方ではないとわきまえるだけの分別は、さすがのわたしも持ちあわせていた。伯父は伯父としての義務を果たしていた――たっぷりのお年玉に加え、スキー場や海水浴、かぶと虫の森への遠征など――のだし、地底人と戦う仕事だよ、という答えを拒否する権利などわたしにはなかった。それがたとえどんなに嘘っぽく聞こえようと。

「ふうん、かっこいい」

 わたしは言った。だがこればかりは言わなかったほうがよかったと思っている。地底人と戦う仕事を持つ伯父を拒否する権利がないのと同じように、わたしには伯父にお世辞をいう義理もなかったのだ。とりわけ、そのお世辞があろうことか伯父を喜ばせるような場合には。

 そう、伯父は喜んでいた。

 なぜなら、そのときこそ伯父の動きが止まったからだ。天然パーマの髪の毛とシャンプーを擦りあわせる動きがやみ、伯父が泡だらけの顔で振り返った。

「そか、かっこいいか?」

 伯父はだらしなく崩れた笑みをわたしに向け、わははと笑った。

 わたしは口惜しかった。どれくらいわたしががっかりしているか、伯父に知らせる方法があればいいのにと思った。もちろんわたしはそんな方法は知らなかったし、今にいたるまで、それほど器用に感情を表現する技術は身につけられないままでいる。

 それ以上伯父の喜ぶ顔を見ていたくなかったわたしは、湯船にぶくぶくと沈んだ。膝を曲げるだけで簡単にできた。ちっぽけな存在であるということにも、少しは利点があるものだ。

 しかし問題は、いったいどれくらいそうしているのが適当なのかがわからなかったことだ。湯船に沈んでいるうちに、わたしはこれが伯父への抗議のわりと適切な表現手段じゃないかと考え始めた。

 長引き始めた潜水に、ちっぽけなわたしの肺が抗議しだした。けれども、伯父への抗議をできるだけ強く主張しようという思いは強まる一方だった。つまるところ、伯父に対する抗議への欲求が、生存に対するわたしの肺の要求を上回った。

 その結果どうなったか?

 たっぷり一分たって、伯父が真っ赤になったわたしの身体を湯船から引きあげた。伯父は大慌てでわたしを風呂場から連れ出し、縁側で涼んでいた祖母のところに連れて行った。

 わたしが意識を取り戻したのは、蚊取り線香と庭木の匂いに包まれた縁側で、6つの顔が――その内4つはわたしの身体と同じように真っ赤だった。違うのは彼らが酒の臭いに包まれていた点だ。酒豪は祖父と父だけではなかった。叔母だってそうだし、たぶん一番強いのは母だ――、わたしを見おろしていた。

 わたしは祖父の家で溺れかけた一族の最初の人間となり、伯父にまたひとつ笑い話の種を提供したわけだった。

 そして、伯父の答えはわたしの頭の中にしっかりと根をおろすことになった。

 地底人と戦う仕事だよ。

 いやまったく、がっかりだった。


2

 伯父の死を聞いたのは、三時間目の授業中だった。といってもわたしが机に教科書とノートを広げていたわけではない。学生時代は過去の話になって久しかった。特に中学時代などは、孔子が中国を放浪していた昔にも等しい。

 わたしは、いったいこんな指導内容に何の意味があるのかと内心首をひねりながら、文科省の手でばらばらになった日本の地誌の断片を、教科書から拾い集めようと必死だった。生徒はそれほど熱心ではないようだったが、教室の中でそれで金をもらっているのはわたしだけなのだし、嘆いてもしかたがなかった。そう、中学時代はわたしから遠ざかってしまったが、情熱と押しつけがましさに燃えていた新任教師時代だって遠くに行ってしまっていたのだ。

 夢の国に向かおうとしている生徒に、代わりに中京工業地帯へ向かってもらおうとわたしが必死になっていたとき、技術科の亘理先生が教室の扉を開けた。

 不思議なのだが、それからのことは思い出せない。これがドラマだったら、登場人物はとりあえず亘理先生に導かれて職員室の電話まで走り、そこで悲報を聞かされてショックのあまり受話器を取り落としただろう。記憶が曖昧になるのはそこからなのだ、もしこれがドラマだったら。

 もちろんこれはドラマではなかった。日常と自己の職責にくたびれた三十路男の人生だった。

 おそらく、強く頭を打ったことがある人々の中には、そのときのわたしの体験を理解してくれる人がいるかもしれない。頭を打って記憶をなくす場合、頭を打ってからの記憶だけがなくなるのではない。頭を打つ前の記憶、つまり、運命の棒になるはずの鉄柱までの数メートル、あるいは数10メートル、もしかしたらもっとの距離を歩いていた記憶もまたなくなるのだ。もしその衝撃が充分に強かったなら、その日の朝食に何を食べたか、奥さんとどんな会話をしたかだって忘れてしまう可能性がある。運が悪ければ、もっとたくさんのことだって。

 そのときのわたしは、ちょうどそんな状態だった。衝撃の受話器を挟んで前後の記憶が欠落している。受話器まで行った数分と、受話器から父方の実家まで行った数十時間とが。

 同僚によると、わたしは伯父の訃報を聞いてからもいつもとかわらず授業をこなし、部活の指導をしたらしい。その日はたまたま金曜日で、わたしはテニス部男子の土曜日の練習の監督を女子の顧問の先生にお願いして、帰宅した。変な様子はなかったですよと彼は言った。まるで殺人事件の犠牲者について語るように。

 とにかくわたしは実家へ帰省した。スーツのズボンと礼服の上着に身を包み、足にはアディダスのテニスシューズをはいて。

 土曜の早朝に実家に着くと、父と母はもう来ていたが、わたしの格好を見るなり目を丸くした。そこから記憶が戻る。よりによって両親に説教されている場面から。

 お前を一人で働きに出したのは間違いだった、と母は言った。その目は涙に濡れていた。それが伯父の死によるものだったのか、それともちぐはぐな格好で葬式に現れた息子を見た驚きによるものだったのかはわからない。

 いい歳をした男が長い間独り身でいるとこういうことになるものなのよ、と母はわたしに言った。

 わたしはまずいと思った。忘れていたのだ。母が一人前の狩人であることを。数十年前にわたしが伯父の隙をつく機会をうかがっていたのと同じく、母もまたわたしの隙をつく機会をうかがっていたのだ。つまりわたしの結婚話を持ち出す機会をだ。

 お前には誰かきちんと気をつけてくれる人が必要なんだわ、と母は言った。わたしは父親に目配せして、そろそろと退却を始めた。幸運に助けられて、撤退は成功した。近所のおばさんがお悔やみを言いに現れたのだ。母親の関心は、息子の結婚からおばさんの息子の結婚話に移った。

 伯父の葬式は葬祭会館で行う手はずだったので、実家には親族の内の数人しかいなかった。

 玄関を開けると、4足の靴がわたしを迎えた。祖父と祖母の靴はなかった。ニ人はわたしが大学の卒業証書を見せる前にこの世を去ってしまった。

 そして今また、伯父が去った。

 わたしは上がり框に座りこんだ。

 最近はめったに会うことがなかった。もっと伯父に会っておけばよかったと思った。親しい人の死に接すると、後悔は遅刻の常習犯なのだということが、身にしみてよくわかる。

 話したいことがたくさんあった。

 中でも一番話したかったのが、あの問いだった。数十年前の夜、風呂場で口惜しいくらいにうまくかわされたあの問い。あれから二度と口にすることがなかったあの問い。

 伯父さん、伯父さんの仕事は何だったんだい。

「兄さん?」

 声をかけられてわたしは顔をあげた。

 背後を振り返ると、リビングへ続く廊下に妹が立っていた。

「やあ、久しぶりだな」

 わたしは言い、上がり框から腰をあげた。

「兄さん、なにその格好」

 妹は笑った。わたしも自分の着ているものを見おろして笑った。

 伯父は死んだ。これは伯父の葬送の時間だった。笑うのは不謹慎かもしれなかった。

 だがわたしは伯父はそう思わないだろうと思った。伯父なら自分の死だってくだらない笑い話にしたててしまったことだろう。もしかしたら今まさに、天国へ続く石段で、不運な同道者をつかまえてその笑い話を聞かせている最中かもしれないと思った。

 伯父の笑顔。

「覚えてるかな、僕がこの家の風呂場で溺れかけた話?」

「ええ、何度も聞かされたもの」

 そうか、とわたしは思った。あの時、妹はまだ生まれていなかった。ついでにいえば、妹の旦那だって、叔母の子どもたちだって、まだ生まれてはいなかった。

 一族の第三世代の中では、わたしが一番年長だった。そしてわたしは、ちょうどあの夜の伯父と同じくらいの年齢にさしかかっていた。

「かなり大きくなったね」

 妹のお腹を見てわたしは言った。

「兄さんそれセクハラ」

 妹は屈託なく笑った。

 わたしはあの夜の伯父の年齢にさしかかり、妹はあたらしい生命を育んでいた。

 月日はめぐる。壮年の者が年老い、若者が壮年になり、幼子が若者になる。

 土を土に、灰を灰に、塵を塵に。

 わたしは靴を脱いだ。そして溜息をついた。

 わたしがはいていたのは、やっぱりどう見てもテニスシューズだった。そうでなければいいのにと少しだけ期待したのだが。


3

 伯父の遺体はなく、荼毘に付された骨の入った小さな壷がひとつあるだけだった。飛行機事故だったそうだ。そういえば、その頃世界の各地で飛行機事故や船の事故が頻発していた。

 葬式はつつがなく終わった。こう書くのは、実態を少々美化しすぎているかもしれない。

 だが、真実は僕たちの持ち物の中で一番高価で尊いものだ。

 だから節約して使わなくちゃ。

 実際は騒ぎがあった。しかしそれは深刻なものではなかった。

 葬祭会館には一族が顔をそろえた。わたしの両親、妹夫婦、叔母夫婦、従弟妹たちとその連れ合い。

 それから、伯父の知人たち。もしくはそう自称する人々。

 彼らは例外なく目つきが悪く、辛抱強い猟犬のような顔立ちをして、真っ黒に日焼けしていた。あんまり黒かったせいで、国籍もよくわからなかった。

 そんな人間が100人近くやってきた。

 最初は会館側で気をきかせて彼らを入れないようにしようと試みた。だが結局彼らは入ってきた。どこからともなく。

 わたしたち一族は彼らを見て緊張した。最初のうちは。誰だってしただろう。地方都市の葬祭会館よりも、ヴェトナムの森林やソマリアの土漠、あるいはソロモンの海といった戦場のほうがよっぽどしっくりきそうな人間の一個大隊に包囲されてみれば。

 だがわたしたちは彼らに列席してもらうことにした。彼らが一様に悲しみに打ちひしがれているように見えたからだ。ごく当たり前の会社勤めをしているような人間は、その知人にあれほど悲しんではもらえないだろう。伯父と彼らの間には、何かはかりしれない絆があったようだった。

 にぎやかな葬式になった。曹洞宗の坊主がお経をあげたが、それに混じって念仏や英語の祈りが聞こえてきたし、中にはさっぱり理解できない言語の歌まで混じっていた。

 焼香のしかたも様々だった。灰を頭に振りかけた者もいたし、空中に吹き飛ばした者も、灰を口にした者さえいたようだった。おかげで焼香の箱は、列席者の最後尾まで回った時には空っぽだった。会場の空気は埃っぽかった。坊主が咳きこんだのでそれがわかった。

 それでも列席してもらってよかった、とわたしは思った。親戚一同の意見を集めたわけではないが、みんなそう思っていたのではないか。

 母にしてみれば、伯父を独身のまま逝かせてしまったことだけが、心残りだったかもしれない。予定外の列席者の中には、それらしい女性が見当たらなかったからだ。そもそもあの中に女性がいたのだろうか。今にして思えばいたような気もするが、女性の目があれほど鋭くなれるものなのか、わたしには判断がつかない。

 困ったのは、香典を集計したときだった。多様性に富んだ葬式だったから、ある程度は覚悟していたが、実に様々な通貨がわたしたちに残されていた。水引が逆についた香典袋からは100ドル紙幣が滑り落ち――これはまだわたしたちの理解の範疇だ――、ポチ袋からはサングラスをかけ麦藁帽子をかぶった人物の肖像入りの紙幣が何枚も現れ、草で編まれた袋状の物体からはあろうことか金貨が、それもユスティニアヌスの横顔が刻まれた金貨が、じゃらじゃらと吐き出された。

 ユスティニアヌスって誰、と大学生の従弟が訊いた。ラテン語の読み方をほとんど忘れかけていたわたしは、ひょっとしたらこれはローマを再統一したビザンツ皇帝ではなく、どこかの玩具会社がつくったタモリの肖像入りの真鍮硬貨かもしれないと思いながら、娼婦の夫だとだけ答えてやった。

 へえヒモか、と従弟は言った。

 わたしには、センター試験頻出のユスティニアヌスの業績を指摘してやるだけの気力もなかった。たぶん従弟は世界史はとらなかったのだろう。責めるにはあたらない。日本史のほうが覚えやすいし、点を稼ぐだけなら政治経済と地理がある。スターリンも言っているように、世界史なんか気にすんなよ。俺たちには大ロシアがあるんだぜ、万歳ウオトカ。

 やれやれ、とわたしは頭を抱えた。

 もしこれが本物のユスティニアヌス金貨だというのなら、教えてほしい、あそこでグラサンをかけて紙幣におさまっている陽気なおっさんはいったいどこの誰なんだ?

 不便な円でそろえろなんてぜいたくはいわない。しかしせめてアメリカドルで統一してほしかった。わたしは手元の100ドル札を取りあげ、溜息をついた。現実的なドル。ありふれた現実。そう、ドルならまだ日本人にも理解できる。

 100ドル札にはベンジャミン・フランクリンが描かれている――はずだった。頭のてっぺんが禿げあがった、独立宣言起草委員の一人だ。

 だがこれはどう見てもフランクリンではなかった。わたしが手に持って眺めているのは。

 クリーブランドとはいったい何をやらかした人物なのだろうか。

 1000ドルというのは日本円でいくらになるのだろうか。

 そもそも1000ドルなんて発行されていた時代があったのだろうか。

 わたしは香典を集計するのをやめて、椅子にもたれかかった。

 伯父さん、あんたいったい何をしたんだい。


4

 わたしは月曜日には職場に戻った。朝の打ち合わせの前に、先生方の机に土産の菓子を配り、お悔やみの言葉の儀式をすませた。

 忙しい日だった。一年生3クラス、二年生1クラス、三年生2クラスの計5コマの授業がある日だった。一年生の授業では単元の導入にちょっと変わった体験を入れる予定だったので、朝の打ち合わせで校長の訓辞を聞き流しつつ、その準備に忙殺されていた。

 授業はまずまずのできだった。一風変わった試みは必ずしも上手くいったわけではなかったが、生徒たちは興味をもって取り組んでくれた。3クラス中、夢の国へ赴いた者はいなかった。別に、奇跡というほどではなかったけれど。

 給食もまあうまかった。これは奇跡といってよかった。

 テニスの部活では、一年生と二年生の数人が相変わらずバックハンドがだめだった。これは毎週のことだった。いつも月曜日の練習から始める。一人一人、腕だけで振る手打ちを修正し、膝の使い方を覚えさせ、逆クロスでバックハンドをどう使うか教える。これだけで土曜日まで時間が進む。日曜日は部活が全休になる。すると翌週の月曜日にはまた手打ちの修正から入らなければならない。

 嗤う人もいるだろう。教師の中にだってそういう人間がいる。あんな奴らに教えたって無駄だ、それよりもできる奴を伸ばしたほうがずっと効率がいい、と彼らは言う。シーシュポスの神話って知ってるか、お前のやってることはあれみたいなもんだ、とさえ。

 わたしは同意しない。確かにわたしは自分の職責にくたびれているし、白状すれば、子どものフォアのフォームを直してやっているときにうんざりすることだってないとは言えない。いや、とことん正直になろう。非常にたびたびうんざりする。だが、わたしのやっていることが無駄だと思ったことは一度もない。

 嗤う人間たちがシーシュポスの岩にたとえた子どもたちの何人かは、たぶんずっとバックハンドがだめだろう。だが、練習は決して無駄にはならない。他の何人かはいつかバックハンドを自分のものにするし、適切なスウィングと打点さえ身につけ、ラケットの握り方も知らなかった入部したての頃とはまったく違う人間になって、部を巣立っていく。

 バックハンドから先に進めない子どもたちだって、他の点ではそうなのだ。テニスを楽しんでやるのならば。フォアだろうがバックだろうがへなちょこの山なりボールしか返せなくても、フォアハンドで常に振り遅れても、テニスを楽しみさえすれば、身につくことはたくさんある。

 太陽に焼けた土の匂いの懐かしさ。友人と冗談を飛ばしあう楽しさ。身体を動かしている間に心の中の苛々やもやもやがすっと消えていくときの心地よさ。そういったものを学ぶことが、無駄だろうか。

 それは何もテニスに限ったことではない。野球だって、サッカーだって、あるいは文化系の部活だって、同じように身につくものはあるとわたしは思う。それを真剣に楽しみさえすればだ。山の上まで岩の塊を押していくシーシュポスの神話とは、その点が違う。

 人生は一見うんざりすることの繰り返しで、それが永遠に続くのではと思うとその不条理を呪いたくなる。だが永遠に続く反復など、現実には存在しない。

 シーシュポスは常に同じ山頂の高みから岩を投げ落とされ、常に同じ低い位置からやりなおさなければならなかった。しかし人生では、同じ高みから岩を投げ落とされても、やり直す場所は以前とまったく同じではない。確かに、もっと低い場所からやり直さなければならないこともあるだろう。たとえばうっかりアルコールや麻薬に染まってしまったときなどは。だが馬鹿げた真似さえしなければ、おおむね、やり直す場所は以前よりも少し高くなっている。

 めくら滅法に振り回したラケットを離れたボールが、先週まではベースラインをオーバーしたのに、今週はぎりぎりインに収まる。乱打のラリーが今週は20回以上続く。校庭の外周を走るタイムが、先週よりも30秒縮まる。

 これが不条理だろうか。わたしはそうは思わない。

 人生は閉じた円周を回るのではなく、螺旋を描いてゆっくりと昇っていく。そうやって成長し、歳をとり、世代を替えていく。

 何も不満に思うことはない。くたびれることはくたびれるにしてもだ。

 教頭が帰った。いつも遅くまで残る三学年の先生方も、ついに帰った。

 わたしは一学年の机に座ったまま、がらんとした職員室を見回した。

 教師になってからの10数年で3回ほど転任したが、退職するまでどれくらい転任することになるのだろうか。どれくらいの人数の生徒たちに、歴史・地理・公民の左フック・左フック・右ストレートをお見舞いすることになるのだろうか。

 そんなことをぼんやりと考えていた。机の上のコーヒーはとっくに冷めていた。

 しばらくしてわたしは職員室の灯りを落とし、SECOMのスイッチを入れて通用口を出た。施錠しているときに腕時計を見ると、夜の11時だった。

 学校裏の駐車場に停めてあるアンフィニに乗った。

 運転席に座ってエンジンをスタートさせたとたん、涙があふれてきた。

 伯父の死を知らされてから、泣いたのはこれが初めてだった。

 ラジオがブルーハーツを流していた。

 『1001のバイオリン』だった。あの夜の風呂場で伯父が歌っていた曲だ。


5

 アパートの自宅に帰ると、手紙が届いていた。

 昔の教え子からだろうと思った。ちょっと風変わりな材質と色使いの封筒だったからだ。子どもからの手紙は嬉しい。子どもたちは自分が知っていることをみんな教えてくれる。そしてそれだけで終わってくれる。

 だがそうではなかった。

 差出人は不明。それでも封筒を開けて手紙の文面を読んでみれば、それが伯父の手になるものであることは明らかだった。

 車の鍵をテーブルに投げ出すと、わたしは椅子に座って手紙を読んだ。

 それは奇妙な手紙だった。


6

 君がこの手紙を読んでいるときには、僕はもう死んでいるだろう。そうでなければいいと思わないでもないけれど、やむをえまい。僕が僕の役目を終えた、ただそれだけのことだし、僕はそれを誇りに思っている。

 残念なのは先行きが不透明になりつつあることだ。もともと事態は混迷していた。混迷した状態のまま一千年を経過してきた。しかし最近、事態はより憂慮すべき方向へ、より悪しき混沌へと向かいつつある。この先どうなるのかは誰にも予測できない。

 突然こんな手紙が届いて、君は混乱しているんじゃないかな。いや、間違いなく混乱しているだろう。僕だってある意味ではそうなんだ。

 もう時間があまりない。だから物事を順序立てて説明することはできない。思いつく順に書きなぐり、封をして、あとはこれがきちんと宛先に届くように、そして君が僕の言いたいことをきちんと理解してくれるように、祈るしかない。

 もっとも、その点は悲観していないよ。君は期待を裏切らないだろう。昔から君は辛抱強い猟犬のような子どもだった。

 かつて戦場は限定されていた。ギアナ高地、ボロブドゥール、テオティワカン、バミューダ海域、南極。

 僕たちは――僕たちの父祖は――かつてブリタニアで勝利し、ベーメンを掃討し、ワラキアでは完全な勝利のうちに戦いを終えようとさえした。だが、戦いではなく平和の到来を告げる凱歌があがりかけたまさにそのとき、裏切りが起きた。そして、それまで多大な犠牲の上に積み重ねられてきた勝利と同じ数の敗走が続いた。

 戦局は膠着状態に陥った。ユカタン半島ではマヤ人が長く苦しい戦いに耐えていた。激しい戦闘でボロブドゥールは無人となり、ギアナ高地とバミューダでは巻き添えを食って多くの無辜の生命が犠牲になった。勇敢な戦士たちが何世代にもわたって南極へ特攻をかけたが、そのつど白い嵐が僕たちの父祖を飲みこんだ。

 激戦の末に僕たちは数を減らした。敵の数は増える一方だった。僕が初めて戦いに臨んだとき、戦場はすでに世界中に拡大していた。あちこちで味方が孤立し、包囲されて全滅しかけていた。アラル海の作戦では僕も死ぬ寸前だった。助かったのは幸運のおかげだとしか思えない。たぶん誰かが僕の代わりに死んだんだ。だから僕も誰かのために死ぬ。そしてそのときはもうすぐそこまで迫っている。

 戦場が拡大し、悲劇が幾何級数的に増大した。花嫁が花婿を失い、老親が娘を看取った。子どもの骨を親が拾い、兄の復讐のために妹が立ちあがった。

 だが悲しむべきことばかりではなかった。僕たちは選ばれた者たちの軍団だったが、参戦を志願する人々の集団が出現した。彼らはみな怒りに燃えていた。彼らの働きは、古参の僕たちに少しも劣らなかった。また、僕たちの存在を知らずに戦う人々の集団も各地で生まれた。虐げられるだけだった人間たちが、不当な運命に対して抗議の声を挙げ始めたんだ。

 僕たちの抵抗は熾烈なものになり、敵の歩みがしばしば止まった。

 年に二回、僕が実家にきちんと帰れた時代のことを、君も覚えているだろう。苦しかったが希望もまた大きかった日々。僕の妹――君の叔母さん――が結婚しようとしていたし、君は這い這いからよちよち歩きを経て、着実に育ちつつあった。僕には守るべきものがあった。信じてほしい、僕はみんながいたからこそ戦い続けることができたんだ。

 だがそんな小康状態も長くはもたなかった。

 敵はついに核を手に入れた。

 こう書いたら、君はきっと考えるだろう。きっとパキスタンから手に入れたのだと。もしくはインドからだと。あるいは北朝鮮からかもしれないし、イスラエルだって可能性はあると考えるだろう。

 答えは?残念なことに、その全部だ。それだけじゃない。ロシアの大平原に放置されていた何百発もの核弾頭、厳重に管理されていたはずのイギリスとフランスのミサイル原潜、中国とアメリカの核基地、あらゆる場所からあらゆる核兵器を敵は手に入れた。敵が入手した中性子爆弾――アメリカ人が自慢するきれいな核――の正確な数を知ったら、世界中で自殺が相次ぐだろう。どうせ死ぬなら、楽なほうがましだからね。

 君は、どうしてそんなことが起こったのかと思うはずだ。

 僕は、僕たちの父祖がワラキアから潰走する途中で、同じ問いを口にしたのを知っている。

 すべては裏切りのせいなのだ。太陽の光を群雲が隠すように、勝利の輝きはいつも裏切りによって翳る。戦士の武器が剣から槍へ、槍から鉄砲へ、鉄砲から自動小銃へ、どれほど進歩しようと、人間は進歩しない。核を管理する人間たちが、どれほどたやすく富の魅力に屈したことか。

 核なんてなければよかった。

 僕は心からそう思う。

 1945年に3発の原子爆弾が相次いで爆発したとき――初めニュー・メキシコ州で、次に広島で、次に長崎で――、敵は震えあがった。敵はついに終わりの時がやってきたと信じた。僕たちが最終兵器を造りだし、奴らの殲滅に取りかかったのだと。

 だがそうじゃなかった。それを知ったときの敵の嘲笑が目に浮かぶ。僕たちは敵を滅ぼすために核兵器を生み出したのではなく、僕たち自身を滅ぼすためにそれを造りだしたのだから。

 以来、奴らは核を盗み出すことにご執心だった。それは別に難しいことではなくなっていた。冷戦以降、核の管理はずさんになる一方だった。

 そしてこのときがやってきた。敵は今までに各地の基地に集積した核を、いっせいに本土へ向かって移送しようとしている。もしその企みが成功すれば、もう戦局はくつがえしようがない。僕たちの世界は、一昔前にアラル海がそうなったように、焼けただれ赤茶けた無惨な大地に変わるだろう。

 最後の号令がかかろうとしている。世界各地で僕たちの仲間が、終局の訪れを食いとめるために立ちあがろうとしている。誰かに生命を救われた者が、誰かのために命を投げ出すべきときがこようとしている。

 僕の部隊はボロブドゥールにいる。アジア最大規模の敵の基地がここにある。

 古い廃寺でこの手紙を書いている。傷病兵を後背地へ送る最終の船便で、この手紙を送ってもらうつもりだ。敵がその船を見逃してくれることを祈る。

 さあ、そろそろ時間がきた。急いで切りあげなければならない。

 覚えているだろうか。あの晩、風呂場で君が僕に質問したときのことを?ほら、君が実家の湯船で溺れかけた夜のことだ。

 僕は酔っ払っていて、しかも完全に油断していたので、君の質問をごまかすことができなかった。小学校入学でさえまだ来年の話だったというのに、君は実に適切なタイミングを選んであの質問を放ったよ。

 あの後僕が、親父にすすめられた焼酎一杯を断っておけばよかったと、どれほど悔やんだことか。

 しかし、もしあのときはごまかせたとしても、結局いつか君は本当のことを聞き出していただろうという気がする。前にも書いたが、昔から君は辛抱強い猟犬のような子どもだった。

 部隊が集合を始めた。

 僕は行く。

 その前にひとつ提案をさせてほしい。強制ではない。断じて強制はしない。これはあくまでも選択肢だということを覚えておいてくれ。君はどちらを選ぶこともできる。僕にどちらかを選べと君に命じる権利はない。まったくない。そうするつもりもない。

 だが君には素質がある。敵を震えあがらせ、その邪悪な意思をくじく力が君には備わっている。だから、君はこれから先、教師の道を選んでも、もう一つの道を選んでも、立派にやっていけると思う。教室で子どもたちを助けるか、戦場で仲間たちを助けるかの違いがあるだけだ。

 この提案をしなければならないのは、僕が去った後、戦いを引き継いでくれる人間が必要だからだ。最精鋭の部隊は僕とともにいなくなるだろうが、ひけをとらないくらい優秀な部隊がまだ温存してある。そしてその部隊は隊長を必要としている。一つの目的のために教え、導いてくれる教師のような存在をだ。君は僕の葬式で彼らに会ったんじゃないかと思う。

 さてと。

 提案しよう。

 地底人と戦わないか?


7

 目の前では伯父がシャンプーを泡立てている。

 伯父は秘密めいている。

 真っ黒に焼けた伯父の広い背中を見ながら、小学校入学を来年に控えている男の子は思う。

 伯父は大いなる謎に包まれている。

 以前は中学校の先生をしていたらしいのだが、だいぶ前に辞めたらしい。そして今では世界中を飛び回っているらしい。らしいらしいらしいというのは、両親も祖父母も彼の質問にまともに取りあってくれないからだ。

 でもそれは構わない。

 僕は訊きたいことがあれば自分で訊き出す。

 風呂の湯船に立って溺れないようにしながら、彼は伯父の背中を見つめた。

 遠く離れたリビングルームから、祖父母と両親のどんちゃん騒ぎが聞こえてくる。祖父母も父も大叔母も酒豪だが、一番強いのはたぶん彼の母親だ。

 伯父も大宴会の巻き添えを食って、焼酎にだいぶ噛みつかれている。伯父はあまり酒が強くない。

 僕が生まれる前に飛行機事故で死んだ大伯父も、伯父と同じようにあまり酒が強くなかったそうだ。以前何かの拍子に、伯父がそんなことを口にしたのを覚えている。そして、酒が強くない人間は、酒を飲むとついつい警戒心が薄れがちになるとも。

 だからこれは絶好の機会だった。

 僕は機会を逃すような馬鹿じゃない。彼は自分にそう言いきかせ、また伯父の背中を見る。

 地道な努力をする狩人には獲物が回ってくる。そう、僕はそれを知っている。

 今ならば、伯父には真実を嘘で節約する余裕はないだろう。

 さあ、狩りの時間だ。

 伯父はのんきに鼻歌を歌っている。

 あごまでお湯につかりながら、溺れないように必死で立つ彼には、その鼻歌がなんという曲なのかわからない。

 だがいつかわかるときがくるだろう。

 中学に入れば、転校してきた武内くんか誰かがきっとCDを貸してくれるのだ。

 『1001のバイオリン』が入ったブルーハーツのCDを。



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