身延山・七面山団参
平成16年6月12〜14日
身延山開闢会
日蓮聖人が佐渡流罪を許されて後、執権北条時宗に三度目の諌堯をするが聞き入れられず、
甲州波木井実長氏の招きに応じ、身延山に入られた・文永11年5月17日をお祭りしています。
身延布教研修院生のお説法 身延山高校生を先頭に
行列・奴さん 身延町の人たち
養珠院お万の方 お稚児さん
まとい(御廟所にて) 行列が来るところ、御草庵跡から
楽僧 御草庵跡
七面山(しちめんさん)
白糸の滝 七面山・山門
お万の方
(1577〜1653))将軍徳川家康の側室で、紀伊徳川家の祖頼宣、水戸徳川家の祖頼房の生母。天正五年上総勝浦城の正木左近大夫邦時の娘として生れ、のちに伊豆加殿(かどの)に移り、伊豆河津の城主蔭山長門守利広の養女になったと伝えられる。お万の方は幼少より法華経に結縁していたと考えられる。文禄二年(1593)一七歳、縁あって徳川家康に仕え、その美しい容姿と誠実な人がらから深く愛され、晩年の家康に最も寵愛された女性となった。慶長三年(1598)二二歳の時養父母を喪い、以後深く仏教に帰依し、追善の誠を捧げ、僧の供養をおこたらなかった。慶長九年、心性院日遠は三三歳の若さで身延山久遠寺に晋山したが、お万の方は日遠の行学兼備の高名を聞き、彼に師事した。慶長一三年、家康により江戸城中で常楽院日経と浄土宗との法論が命ぜられた。対論の前夜、日経は暴徒に襲われ法論不能となったが、幕府は法華宗を負とし、全国の日蓮宗諸寺に念仏無間の文証なきことの誓状を出させた。これを聞いた身延日遠は直ちに家康に抗議し、浄土宗との再対論を求めたが、家康の怒りにふれ駿河安倍川で磔刑に処せられんとした。これを知ったお万の方は、今こそ法華経の大事とばかり、日遠と共に法難に殉じようとして家康にその覚悟を伝えた。さすがの家康もお万の方の信心の固さにうたれ、日遠を許したのである。この話は天聴にも達し、後陽成帝はお万の方の信仰を讃えて首題の七字を大書し、彼女に送っている。その後、日遠は刑余の身をはばかって大野に隠棲したが、お万の方は息子の紀州大納言頼宣と水戸中納言頼房に命じて大野に大伽藍を寄進させた。これが今の本遠寺である。以後お万の方の本宗外護の丹誠は厚く、聖人の霊蹟復興に尽力し、新寺建立、身延山久遠寺、池上本門寺ほか主だった寺院に寄進し、徳川時代における発展の礎を築いた。
寛永一七年には、それまで女人禁制であった身延の七面山に、「女人成仏の法華経守護の七面天女の御山に、法華経を信ずる女人が登れぬはずはない」と、白糸の滝で七日間の水ごりをとって、初めて女人として山頂をきわめた。七面山女人踏み分けの祖とされるゆえんである。(日蓮宗事典より)
七面山
伝承によれば、草庵から上手に数丁ばかり登った所に大きな石があり、日蓮聖人は散策の時とか、身延山頂へ登られた折とかにその大石によって説法されるのを常としていた。建治三年(一二七七)九月のころいつものようにそこで法を説いていると、聴衆の中に妙齢の美女がいて熱心に聴聞していた。居並ぶ弟子・檀越たちもこの山深いところで見なれない妙麗な姿だと不審に思ったが、一緒にお供をしていた波木井実長も大変いぶかしく思った。聖人はみなの不審を感じとられ、女人に向って「そなたの姿を見てみな不審を抱いている。本体を見せてやりなさい」といって、女人の所望に応じてかたわらの花瓶の水を女人にそそぐや、たちまち姿を変じて一丈あまりの竜の姿となって花瓶にまつわり、首をもたげ、恐ろしい姿でなみいる人々をおじおののかせた。ややあってもとの美しい女人の姿にかえり「わたくしは七面山に住む七面天女です。身延山の鬼門をおさえてお山を守る法華経の護法神として、いまかりそめの姿を現しました。人々が法華経を読み、題目を唱え、至心に私に祈るならば、心のやすらぎと満足をあたえるでしょう」いいおわるや、七面山の方へ飛び去っていった。実長は不審をとき、この感激を永く留めておこうと画工に命じてその状を写させた。その後聖人入滅一六年後の永仁五年(一二九七)九月一九日、実長は六老僧の一人日朗と共に七面山に登り、七面天女を祀ったと伝えられている。七面山ではこの日をもって開創の日とし大祭を行っている。更にまた元亀三年(一五七二)には身延山は武田信玄により攻められたが、身延山の鎮守、七面大明神が霊験あらたかにこれを防いだとの伝えも残されている。(日蓮宗事典より)
(標高1982メートル・山梨県南巨摩郡)
富士山・河口湖
富士山五合目展望台より