京都・比叡山 和讃のつどい

平成19年9月5・6日、京都と比叡山に行ってきました

日蓮宗では京都といえば、日蓮聖人が御入滅の時、13歳で帝都開教を託された日像聖人の妙顕寺。

日像聖人は、その御遺命を果たすべく25才で入洛するが、3度都を追われ、3度目にようやく後醍醐天皇の聖旨を頂き、堀川に寺地を戴き建立されました。

妙顕寺

本堂は閉まっていましたが、経机と鐘と木鉦があったので、皆でお自我偈一巻をあげました。

妙覚寺

妙顕寺を離れた日実上人が永和4年(1378)開創。
斉藤道三が修行したお寺だそうです。
道三の子息、観照院日鐃上人が貫首となり、信長も
泊ったことがあるという。
山務員の若いお坊さんが法姿園(右→)でお茶と
お菓子を出して話してくださいました。
きれいなお寺です。

本法寺

「なべかむり日親上人」のお寺。

長谷川等伯の「佛涅槃図」がある。
これは、縦約10メートル、横6メートルの大作で
当時はこれが掛けえる大本堂であったそうです。
〔10世・日通上人代、慶長4(1563)年〕
等伯は跡取りの長男を亡くしており、その嘆き
悲しみと、菩提を願う心が表された傑作です。

本阿弥光悦作 巴の庭

二条城

二の丸庭園

二条城より比叡山を見る

徳川家康が、京都御所の守護と将軍上洛の
時の宿泊所として造営、三代将軍家光が伏見城
の遺構を移すなどして完成したもの。

比叡山

延暦7年(788年)に最澄が一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。
開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁14年(824年)のことであった。
延暦寺は数々の名僧を輩出し、融通念仏の開祖良忍浄土宗の開祖法然浄土真宗の開祖親鸞臨済宗の開祖栄西曹洞宗の開祖道元日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行している。(ウィキペディアより)
宮沢賢治の歌碑

延暦寺会館に泊まり、根本中堂の朝の
お勤めに参列。
薄暗く、内陣が前方・下にあります。
お経は「妙法蓮華経如来神力品」と「般若
心経」でした。

横川定光院

日蓮聖人は比叡山・南都六宗・高野山・四天王寺で学ばれ、そののち法華経をよりどころとする日蓮宗を開かれました。
 横川は慈覚大師が開かれた叡山三塔の一つ。日蓮聖人が京畿遊学の際、学ばれた地です。

ここで全国から集まった日蓮宗教師・檀信徒・寺庭
婦人の「和讃のつどい」で和讃を奉詠。
このあと延暦寺大講堂に移動、和讃奉詠がなされました。
折りしも今年は、比叡山開山1200年に当たり、日蓮聖人ゆかりの定光院、さらに法華経に縁深き伝教大師の比叡山にても和讃を奉詠出来て大変感激しました。


比叡山より琵琶湖を見る

高台寺

豊臣秀吉の北の政所、ねねの開創したお寺であり墓所.
小堀遠州作の庭園がとても美しい。

庭園

ねねの道

myourei world



法華和讃

日蓮聖人奉讃歌題目より

     三つには 見定めぬ 緒経の中に法華経は 諸仏世尊の御本懐ぞと

     七つには 何ほどの 大難来るもいとわめや 死身弘法は身の願いとて

 

聖詠

     立ち渡る 身のうき雲も晴れぬべし たえぬ御法の鷲の山風

 

日蓮聖人御一代記より

     五五百年の春を経て 一天四海 皆帰妙法

     日蓮の御名をかこみて 幼き子等も額づく世となりにけり

 

妙法蓮華経和讃(法華四首)

     ひとたびも 聞きし御法を種として 仏の身とぞ誰もなりぬる

     大空に 宝の塔のあらわれて 法のためにぞ座をば分けける

     亡き身ぞと 思いし親のながらえて 今も有る世と聞くぞうれしき

     日の光月の影とぞ照らしける 暗き心の闇晴れよとて

 

高祖御一代記和讃より

     自ずから 蓮華の水にある如く 世間の法に染まぬ御姿

     草も木も 仏の種の山なれや 妙法華経の谷の鶯

横川定光院にて和讃奉詠

延暦寺大講堂にて和讃奉詠

文殊楼

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