戻る
1999しまなみ海道開通の時

 やあ、みんな、ワーキングプアが溢れ、格差社会が一層深刻化、30年後には国内にスラムが発生していると予想される未来に向けてひた走るこの国で、今日も希望を失わず働き続けているか?
 さて、そんな中、しまなみ海道が開通して早7年(このコンテンツ作成時が2006年)、暫定国道使用区間も解消され、名実ともに完全開通となった現在、改めてあの運命の日前後の船たちの様子を少しだけ思い起こしてみようと思う。
 充実したコンテンツではないが、それらしい写真を集めてみたから、しばしおつきあい願おう。

1999年4月28日しまなみ海道開通3日前の今治内港の様子だ。3日後にデビューする、「ちどり」ツインズが仲良く並んで来る瞬間を待っている。後方には芸予観光フェリー「第十五はぶ丸」と今治高速船「第八かもめ」の両予備船がツインズの後姿を眺めている。

1999年4月29日、岩城港東側で因島土生行「第二愛媛」と試運転中の「第二ちどり」が出会った。同じ航路にデビュー間近の「ちどり」そして、引退間近の「愛媛」という、全く未来が正反対の船同士の出会い。共にこの瞬間同じ会社の僚船でありながら、この両船が共に営業船としてこのようにすれ違うことはなど無論、ありえないことだったんだ。

1999年5月1日、しまなみ海道開通当日夕刻、因島土生から今治に向かう仕事が最後の航海となった「第三愛媛」(向こう側)が土生を出港後すぐに魚島村営「ニューうおしま」(手前左)、弓削汽船「第七青丸」(手前右)とすれ違うこととなった。まるで「第三愛媛」が顔見知りの両船に最後の別れを告げているかのように見える光景だ。しかし、皮肉にも、この「第三愛媛」を見送った二隻も僅か数年後には、この通いなれた海域から消える運命だったとは、この時、いったい誰が予想しただろう。そして、これが私が「第三愛媛」を見た最後となった。

1999年5月1日夕刻、今治高速船歴史上最後の今治発尾道行として、黄昏の弓削-生名間を走る「第十かもめ」の姿。これが本船の今治高速船の一員としての最後の営業航海である。そして、本船が今治高速船歴史上、最後に尾道に入った船ともなった。

上の写真の最後の航海を終え尾道に到着した「第十かもめ」は、乗客を下船させるとなぜか、すぐに今治に引き上げず因島土生にその姿を見せた。そして、普段は着けることのなかった長崎桟橋に着桟するとエンジンを停止し、二名の乗員はささやかな打ち上げを行うのか本船を残し土生の街に消えて行った。写真はその時のものであるが、本船はこの後、この日のうちに闇の中、今治に引き上げたようである。

1999年5月2日、新時代の始まりだ。今治行芸予観光フェリー快速船の第一便、「第一ちどり」が佐島に入港。この時、土生を出て三つ目の港であるここ佐島で既にかなりの遅れを出しており、乗務員は焦っていた。当初右舷着桟のつもりで入港したがなぜか運転手が急遽左舷着けに変更。不慣れな乗務員は解放した右舷ドアを閉めるのも忘れ対応に追われた。しかも結局着いたのはなんとフェリーが着く桟橋の正面側。写真は佐島を出て行く時の様子であるが、未だに右舷ドアは閉められておらず、これを見た私は少々心配になりながらも事故等が起こらないことを祈りつつ頑張れと、心で声援を送ったんだ。

1999年5月2日朝、土生長崎桟橋にて。前日の最後の航海のピリオドを土生で打った「第七芸予」は他の僚船が全船今治に1日中に引き上げた中、唯一因島土生で一夜を過ごしたんだ。この後、本船は次の就職先である土生商船の重井-鷺-三原航路に就航すべく整備を受けるため田熊造船瀬戸の浜工場へと回航されることとなる。だが、引退した僚船フェリーの中で当初、唯一地元で再就職が決まったと喜んでいた本船も再就職先の不振により、結局皆と同様、日本を去る結果となってしまう。

1999年5月3日今治内港に集う役目を終えた芸予観光フェリーフリートと今治高速船フリート。1日に土生で任務を終了した「第二愛媛」(右フェリー)は乗客を降ろした後、すぐに今治に回航され、この場所に繋がれたものだが、同日に今治で任務を終えた「第三愛媛」の姿は既になかった。「第十五はぶ丸」(左フェリー)は通常の位置のままだった。

1999年5月3日。上の写真の「第二愛媛」だが、係留されていた場所は普段は関前島村営「せきぜん」が昼休みを過ごす岸壁でもあった関係で、両船がこのように仲良く並ぶ光景が見られたんだ。なお、「第二愛媛」の実物を見たのはこの日が最後となったが、本船は2006年現在フィリピンで、あの大先輩である「第一愛媛」と同じ会社で元気に働いているらしいことが確認されている。ちなみに「せきぜん」も新造船と交替し既に引退している。

1999年5月3日。ここより下8カットは今治高速船シリーズ。しまなみ廃止時の全船が顔を揃えているのがわかる。しかーし、中央にいる海上タクシーが著しく邪魔だ!

奥から10、11、12と並んだ「かもめ」準同型船トリオの尻なんだが、これだけ整然と並ぶと、なかなか壮観に見えるものだ。

並びの順番は5月1日の最終日、今治に帰ってきた順番による単純なもの。まず、写真左側の「第十二かもめ」が尾道発今治行最終便として今治に到着後、一番最初にここに繋がれた。

次に今治に戻って来たのは中央の「第十一かもめ」で5月1日の今治発土生行が本船の最終営業航海となったのだが、本船は土生に到着後間髪入れずに今治に回航され、「第十二かもめ」の横に繋がれた。ちなみに、私はこの土生行最終便に用事もないのに乗船し、別れを惜しんだのだが、結果的に「第十一かもめ」は快速船予備船として唯一残ることになったので、同じメモリアル乗船するなら「第十二かもめ」あたりだったらよかったのにと、後になってちょっと残念に思うことも正直あったりして。

一番に外側の係留となったのは先にも触れた、尾道で営業終了となった「第十かもめ」。土生で道草をしていた関係で、今治に戻ってきたのは結構夜遅くなってからみたいである。そして、5月1日のうちに、この3隻の並び係留が完成した。

今度は1999年5月5日に撮影された10、11、12の三重連係留かもめだが、先の5月3日から変化は見られなかった。

今度は三重連かもめプラス予備船の「第八かもめ」も加えた姿。左から12、11、10、8となる。ちなみに、「第八かもめ」がこの後どこに行ったのかは不明だ。

最後は同じく1999年5月5日、今度は今治内港対岸のガソリンスタンド前付近から撮影した三重連だ。なお、一番手前の「第十かもめ」はこの後マルト汽船に再就職し芸予エリアに一旦は留まったものの、結局現在は海外へと去ってしまった。無念だ。

1999年5月5日。5月1日に就航を終了し、大三島宮浦港桟橋に係留されていた大三島ブルーライン「きのえ丸」。芸予観光フェリー、今治高速船が団体で今治内港に係留されていたのに対し、こちらは一人寂しくポツリと取り残されたかのように見える。相棒の「フェリーみしま」が、この日も元気に活躍している姿を見ると、余計に「きのえ丸」の姿は悲しげに見えたが、この後、本船は芸予観光フェリーとは違い国内天草で新たな人生のスタートを切ることになるんだ。

1999年5月5日、大三島宮浦港。愛媛汽船の先輩でもある初代「第五愛媛」である先代「フェリーまつしま」を追い出し、名前まで奪ってしまった形になったのは悲しいが、その先輩の分も松島-八代航路の二代目「フェリーまつしま」として頑張ってくれ。何しろ君は、国内に生存する数少ない瀬戸内片船頭フェリーでもあるんだから。負けるな、「きのえ丸」。そして「第十六愛媛」よいつまでも。ちなみに、2006年の時点ではこの写真撮影時が本船の実物を見た最後となっている。

1999年5月5日。この日、使命を終えた「第七おおみしま」は海外に旅立つ日をこんな所で待っていた。向こうに見えるのは貧乏造船だから地元の人なら、ここがどこか一発でわかるよね。本船は2006年現在、海外で元気に働いているらしいことが確認されているので、まあ、とりあえずは一安心と言ったところだろうか。しかし、お気に入りの船の一つだったから何とか「きのえ丸」みたいに国内で再就職して欲しかったのだが・・・。

1999年5月23日三原港でのカット。土生商船に移籍した「第七芸予」は「第五おおみしま」時代以来久々に三原港に出入りすることに。しかも外観は「第七芸予」のまま。そしてスゴイことが発生。1984年「第五おおみしま」として自らが建造されたことにより玉突きで追い出した先輩元「おおみしま」こと「第十五幸運丸」(左)と夢の並びが!

これぞまさに神の悪戯かと、私は我が目を疑ったぞ。両船は大三島フェリーを去った後、共に二つの船会社を経験し、ここで、こうして顔を合わせた訳だ。ちなみにこの時、「第七芸予」は、外観は「第七芸予」のままだが、書類上は既に「第十一かんおん」となっており、もはや真の「第七芸予」ではなかったことを付け加えておこう。

1999年5月30日、しまなみ開通引退の井口-三原航路就航船、大三島フェリー「おおみしま一号」(右)は生まれ故郷の尾道向島の木曽造船に戻り、この後移籍する山陽商船の「さちかぜ」へと生まれ変わるべく同造船所に上架されていた。まさにこれが、塗り替えられる直前の「おおみしま一号」としての最後の姿である。しかし残念なことに、せっかく新天地の山陽商船に移籍したものの、現在は同社の合理化バリアフリー大型高速船「はやぶさ1&2号」の就航で使命を失い、私の知らないどこかに消えてしまったのだ。日本国内で生存してくれているのなら嬉しいのだが・・・。

1999年6月12日、弓削港でのカット。新規の今治-土生快速船航路の予備船として、元今治高速船中、唯一生き残った「第十一かもめ」が早くも航路に出動。これはレギュラーの「第二ちどり」が持病を持った船で、早々故障に悩まされ始めたせいだが、「ちどり」は新造故、救援出動デビューはしばらく先と思いきや、早くも5月1日まで高速船として走った航路(土生-尾道間を除く)を快速船として復帰する展開になったものだ。予想以上の早い時期の出動故、まだ行先表示板が新しいものになっておらず、高速船時代のものの尾道の文字上をガムテープで覆い隠しての出動となった。

1999年7月25日、尾道向島の尾道造船向かいの小さな造船所(名前は知らんのだ)にて「第十二かもめ」が新天地の三原観光汽船の「第十二西日光」に生まれ変わるべく改装が行われていた。塗装は新たなものに塗り換わっていたが、船首の船名は、この写真の撮影時点ではまだ書き込まれていない。なお、「かもめ」の部分の切り抜き文字は削り取られていたが、「第十二」部分は再利用されるため残されている。

取り外された救命浮環には既に新しい船名「第十二西日光」と船籍の三原の文字が書き込まれ、ペイントが乾くのを待っている状態だ。

今度は船尾からの姿であるが、テント屋根の増設工事が進んでおり、船尾の切り抜き貼り付け船名は船首同様「第十二」の文字だけが再利用されるべく削られず残されている。船底の亜鉛板も新品のものへと交換されており、塗装が終わったばかりの船体と相まって、まるで新造船のような美しさだった。なお、本船は現在も三原観光汽船の重要な構成船として健在である。

1999年7月25日、尾道駅前近くの岸壁に係留されていた「第十五はぶ丸」。写真では船名、塗装共に芸予観光フェリー時代のままであるが、既に笠岡の藤井一彦氏の手に移っていた。この後塗装を深めのブルーに改めている。この頃は備後商船の常石-尾道航路「フェリーびんご」の代船を務めたり、チャーター船を主業務に使用されており、ブリッジ前の残されたままとなっている、かつての行先表示文字の「因島」の文字の上に、紙で「常石」の文字が簡易的に貼り付けられているのが確認できる。

1999年7月25日。これは船尾の船名付近の様子。芸予観光フェリー時代の鉄板切抜きの「今治」の文字は剥がされることなく塗りつぶされたのみで、その横に新たなる船籍である「笠岡」の文字がペン書きのみで書き込まれている。かつて私が「第十七愛媛」の次に愛したフェリーであった本船に書かれた「笠岡」の文字に、人手に渡ってしまったことを実感するカットであった。そして、本船をこの後、比較的早い時期に藤井氏はなぜか手放しており、この後にどういう経過を辿ったかは不明であり、国内にいるのか海外に去ったのかも情報が無くわからない。ちなみに本船を見たのはこの7月25日が最後となった。

 時の流れは早い。
 ありがちな表現で申し訳ないが、大変化を伴ったしまなみ海道が開通してからも様々な変化が積み重なるには十分な時の流れがそこにはあり、当然ながら開通当時と比較して変貌した事実も少なくない。 開通当時は無事に生き残ったものが結局消滅したり、あるいは予想に反して現在も精力的に事業を展開するものなど、船の世界においても悲喜こもごもの出来事が起こっている。
 そんな中、しまなみ界隈の船の様子となると、やはり、縮小、廃止などというマイナスの変化の方が多いのが事実で、それに関連するように地域の過疎化、少子化などが急速に進んでいることを無意識にでも連想させられてしまう状況にあると言えよう。
 しかし、中には早々に消えてもらった方が良いような、日々の努力もしない古色蒼然とした業者も含まれており、全てが我々が声援を送るに値するものばかりでないのも事実で、今後は「生き残るべきもの」の選別は一層シビアになってくるものと思われる。そんな状況の中で我々もその「生き残るに値するもの」を見分ける眼力を養い、その、失ってはならない火を短慮に安易に消されるような事態を防ぐべく、絶えず関心を持ち、声をあげていかなくてはならないと思う。
 何しろ役人はバカが多いから、目を離すと何をしでかすかわかりゃしねぇからな。