わいあん茶館(カフェ)

日本に於けるハワイ音楽

 「灰田兄弟売り出す」

我が国にハワイ音楽が紹介されたのは昭和4年頃ですのでもうかれこれ
80年ほどになると思います。
当時若い人達の間では殆んど興味を受けることもなく唯一スチールの音
を面白く思う程度で、曲に至ってはアロハオエをいくらか知っている程
度でした。その頃、灰田兄弟がハワイアンバンドを初めて結成、モアナ
グリークラブと命名して、日本のハワイアンファンに生のハワイ音楽を
聴かせてくれました。がその演奏も音楽喫茶の無い当時は、劇場または
公会堂の前売券を買い求め、当日を千秋の思いで待ちました。
放送局もNHK第1と第2だけで、愛宕山のスタジオでしたが、モアナ
グリーの為に鎌倉海岸の個人別荘から波の音を加えての夏の宵の実況放
送は、ムードに溢れていて人々を驚かせ喜ばせました。
当時のメンバーはウクレレ、ボーカル灰田勝彦、スチール灰田晴彦
(有紀彦)、ギター永田、山崎、ベース勝山などで構成されていました。
演奏曲目はリリウエ、ナモクエハ、キラキラハレヤカラ、エマエマ、タ
フワフワイと灰田さん作曲による森の小径、鈴縣の径などで、演奏表情
も灰田さんにスマイリングがあるだけで、他はニコリともしない日本的
演奏でした。いわゆる「演奏してやってる」と言う印象を与えました。
この様に独占的な演奏を続け、次第にハワイ音楽に興味を持つ人が増加
した頃、それに応える形で、昭和10年バッキー白片が現れたのです。
(何故バッキーと名付けたかは後述します)       (つづき)

銀座タクトでの想い出

 「天皇陛下がミシンを...」

当時私は東京の某三流大学でハワイアンをやっており銀座タクトにはよ
く通いました。入ると2階の一番前の席を目指して猛ダッシュ。そこで
は直接ステージとの会話が出来るからです。
 オッパチ(大橋節夫)のステージは常に緊張感が漂い演奏よりもおし
ゃべりの方が長い位でした。特に苦労話しが多く、移動の際は楽器とア
ンプをもつ為、雨が降っても傘もさせず、びしょぬれになった事などい
わゆるグチなどが話題の中心でした。
サイドギターでパッシングのうまい中村さん、と若さ溢れる木村さん。
ウクレレで小柄でお調子ものの杉本さんなどが出ていましたが、ある時
突然木村さんと杉本さんが居ないではありませんか。リクエストカード
でその理由を聴いたところ一言「クビにした」と言うことでした。オッ
パチが言うには「自分がうまいと思ったら大間違いだ。練習もしないで
遊びあるいている彼等は我がバンドには用はない」とまくしたてました。
これには一堂シ〜ンでした。
そして新たな若いギターマンを紹介し新たな気持でやるとの事でした。
とにかくワンマンでスチールもかかえて弾く位で大物とはこうでなくて
はいけないと思ったりしたものでした。当時はうわさによるとバッキー
さんとは犬猿の仲とかでタクトのステージでは同じ日には絶対出ないと
言うことでしたが真相はわかりません。最近のオッパチのステージには
ウクレレの杉本さんも出ていましたので良かったと思っています。
 話はかわりますが、ポス宮崎とコニーアイランダースの演奏の時に南
かおるちゃんが良く出ていましたがポス宮崎に対して「天皇陛下がミシ
ンを踏んでいる」などと言っていましたが、おだやかなポス宮崎はにこ
にこしていて笑っているだけでした。そばにいた三橋ミジンコも演奏そ
っちのけでおしゃべりに時間を費やしていました。ポス宮崎さんは早く
に亡くなられ残念でした。ご冥福をお祈り致します。  合掌

日本に於けるハワイ音楽

 「スチールでの本格的演奏へ」

バッキーさんの最初の来日は昭和8年(23才)で、友人三人と共にト
リオでハワイ音楽を演奏し、バンド名を「アロハ ハワイアンズ」と名
付けて、主として関西方面で演奏しました。が1〜2年で解散。その後
単独で「アズマニアン」と言うフルオーケストラに入団し、そこでドラ
ムを受け持つようになりました。昭和10年、そのアズマニアンが横浜
山下町のフロリダに専属で演奏活動に専念。彼は16人編成のスイング
のドラマーとして後列左上段でタキシードに身をつつみ小柄な身体でリ
スミカルに振り、終始笑顔で演奏しておりました。(その後これがトレ
ードマークに)
昭和12年バッキー白方は日本国籍を取得し名実共に日本人になった。
さて、スイングを終了したあと20分間彼のスチールを主体としたハワ
イアンステージは驚異であったのでした。その理由は、全く聴いたこと
のないハワイの曲だったこと。(ザッツ ザ ハワイアン イン、ミー
ソフィスケテッドフラ、テンアイニー トウズ等、スチールギターが電
気ギターだった事。そしてタンゴバンドに演奏が移り、再びスイングに
なった時の再度の驚きは視聴者をびっくりさせました。それは彼がドラ
ムの席を離れて、スチールとして加わり「スイートジョージャ ブラン」
「スターダスト」「ソリテュード」等の曲を1コーラス或いは2コーラ
スをアドリブでソロを取ったからです。         (つづき)

「銀座タクト」での想い出

 ウクレレソロ「ペルシャの市場」

バッキー白片とアロハハワイアンズ
テーマ曲「ハワイアンパラダイス」で登場です。バッキーさんが出演す
るといつもタクトは満員御礼です。
当時のメンバーはサイドギターに原伊佐男とバッキーさんの息子(輿)、
ベースの石巻宗一郎、ウクレレは熊井。そしてボーカルの若い男性でした。
女性のボーカリストは余り見かけませんでした。
特にバッキーさんのアドリブの効いた「Honolulu How do you do」が
好きでよくリクエストしました。ソールブライトの作った非常に早い曲
です。我がバンドのこの曲のアドリブはバッキーさんと同じです。
ベースの石巻宗一郎さんはウッドベースに弓を器用に使っていました。
ハワイアンの場合は恐らく初めてではないかと思います。なかなかユニ
ークな音色が出ていたような気がしました。
ファンサービスもしっかりと行い、いろいろ工夫をこらしてお客を喜ば
せていました。時には泡踊りも見せたり、打ち合わせ通りやらないと、
言って原伊佐男がバッキーさんに文句を言う場面もありました。
 特に圧巻だったのはバッキーさんのウクレレソロ「ペルシャの市場」
でした。これには拍手喝采、全員が酔いしれていました。
エンデンィング曲はバッキーの息子さんがギターを前に下げながらスチ
ールを弾いて最後を締めくくりました。
とにかく居るだけで存在感があるバンドでした。

日本に於けるハワイ音楽

 「バッキーさんは日本語が苦手」

「ガーディニャ レイ ハワイアンズ」と名付け8年頃から家以外では
演奏しないと心に決めていましたが、スチールと言う楽器はハワイの曲
ばかりでなくジャズは勿論のこと、幅広く使えることを日本人はこの時
知ったのでした。
 当時バッキーは日本語がたどたどしく、自分に対して敬語をつけるな
どしていました。これに関しては和田弘は後の雑誌のインタビューでこ
のように述べている。当時のバッキーさんはハワイから来たばかりで、
日本語はうまく話せず、間違えると口より先に手が出てスチールのバー
でこづいたり、時にはスチールのバーを投げ付けた。
皆んなはそれがイヤで一生懸命練習に励んだと言うことです。
あの時に和気あいあいでやっていたら、今日の自分はなかったと言います。
 さて、アロハハワイアンズはドラマーの川口章吾(ジョージ川口)さん
の銀座礼明ビル地階の練習所を川口さんの絶大なる援助によって借りる事が
出来ました。
ここにアロハハワイアンズの誕生の場所となったのであります。
当時のメンバーはウクレレ、ボーカル清水、ギター寺部(兄)、香田、
星野、鶴田、新納、泉(神谷)、ベース藤原、小林でした。(このうち
香田、小林、清水、鶴田は戦死した)
さていよいよ練習が始まりました。           (つづく)

「銀座タクト」での想い出

「ジョージ松下」さんとの出逢い

白石信とナレオハワイアンズ
 白石信さんと言えば屈指のハワイアン通であり、幾多の専門誌も編集
しておられます。当時は8本弦(?)で4本ネックのスチールギターを
あやつり見事な演奏を披露、我々に言わせるとどうやって弾くのでしょ
うかねえ。ハワイへ行くと10本弦の4本ネックを弾いている方も数多
くいます。その時はジョージ松下さんがウクレレをもってボーカルを担
当。また清水峰生さんも「アカカの滝」などを美声を聴かせておりました。
彼は歌い終わるとアカカの滝は大した事がない、などと常に言っておられ
ました。今はハワイアンライブハウスを経営されているとの事です。
サイドギターで若いのに頭の薄い人(失礼)がいてジョージ松下はいつ
も「頭が薄い」などとからかっておりました。そのジョージ松下さんは
今も元気で活躍しておられる由、ほっと致しました。
白石さんは常にお客さんの立場が気になるようでキョロキョロして落ち
着かない様子でした。早稲田時代はどうだったのでしょうか?
白石さんも健在の様子、今後も元気でご活躍下さいますようお祈り申し
上げます。

日本に於けるハワイ音楽

「アロハハワイアンズのジュニア誕生」

 練習所では午後練習し、終わるとバッキーさん1人残って個人教授。
お弟子さんは山口銀次、ポス宮崎、寺部震、等がいた。メンバーの中に
も居残ってレッスンを見て覚えようとする努力家も。寺部(兄)さんは
「盗スン」(ヌススン)のニックネームも頂戴していました。
野球で言う盗塁スチールは盗むと言う意味があり、バッキーさんも黙認
していたと言う。
演奏場所は日本青年会館、日比谷公会堂、仁寿講堂、蚕糸会館、都内
のダンスホール等でハワイ向け放送をNHKから行った事もあります。
その頃、アロハハワイアンズ ジュニアとしてポス宮崎とコニーアイラ
ンダースが誕生。メンバーに笈田敏夫、荒井ノボルさんがいました。
 バッキーさんの技術は、この様にして次第に人々の注目を浴びるよう
になり、絶対的なものとなって行きますが、更に成功へと導いた力に
ディックミネさん、ベティ稲田さんのただならぬ援助があります。バッ
キーさんがテイチクに関係されるようになったのもディックミネさんの
力によるところが大きかったのであります。
何故「ディック」と言うかについては諸説ありますが、彼は巨根だと
うことです。そこから命名した(?)
 昭和14〜15年になりますと都会に限って幾つかのハワイアイアン
バンドの誕生を見ますが、いずれも営業としては成り立っていません。
そして昭和16年太平洋戦争が勃発。アロハハワイアンズ一族も次々と
出征しました。                   (つづく)

「銀座タクト」での想い出

「クサイ」ハワイアンがトレードマーク

山口銀次とルアナハワイアンズ
 業界で言ういわゆる「クサイ」ハワイアンを実践。今で言えば民俗楽
器を主体としたもの(エスニック音楽)とでも言うのでしょうか。
水笛を吹いたり、木を叩いたりで非常に賑やかでした。ギターの田口昂
さん(通称ガンちゃん:ゲン、現:尾崎)、大谷庄次さん(通称谷ヤン)
山口軍一さん(通称軍ちゃん)そしてスチールの若い人(名前忘れました)
銀次さんはウクレレ片手に縦横無尽にステージ狭しとばかりに飛び回り
豪快なステージでした。
その後弟の山口軍一さんは独立されてスチールを弾いていましたが、私
くしの好きな歌でフィリピン民謡「愛の花サンパギータ」をリクエスト
したところ快く演奏して頂きました。もう一度この曲が聴きたいと思っ
ております。
銀次さんはその後片足を病気で無くし亡くなられたと聞きました。
ご冥福をお祈り申し上げます。

日本に於けるハワイ音楽

 特攻機でウクレレを振る清水弘

 バッキーさん自身も大阪毎日、東京日日主催の皇軍慰問団に加わり、
皆んな死線を越える毎日を送りました。帰国してバッキーさんが語った
ところによると「誰もひとときもハワイアンの事を忘れなかった」と言
うことでした。特に戦死した清水弘は彼の特攻機が被爆し、海に墜ゆく
瞬間、隠しもっていたウクレレを振っていたと言われています。
 戦後、戦死、家庭の事情等で手不足のうちに再結成したメンバーは、
ディックミネ、ベティ稲田、山口銀次さん。日本各地を巡業した事から
始まり、しばらくの後進駐軍の宿舎をPDで毎夜演奏。曽我部、鈴木、
本田、山口銀次とメンバーも変わり、23年に藤原満穂もベースとして
加わった。山王ホテル、八重洲ホテルが主な仕事場で、24年には和田
弘がギターとして入り、一方島岡美穂子とクィーンシスターズをバッキ
ーさんは指導していました。特に末の妹さんのエセル中田さんの唄は、
最初ジャズの曲「サニーサイド・オブ・ストリート」の唄い方、発音ま
で詳細にわたり指導され、フラダンスはバッキーさんの友人の二世の方
が教えて、それによって非常に上達したのには回りも驚きました。
エセル中田さんの才能も才能ならそれを伸ばしたバッキーさんの並々な
らぬ指導力と絶対的実力を持っていたからこそ現在があると今も思って
いることでしょう。                 (つづく)

「銀座タクト」での想い出

「パープルシャドー」は「パーピンシャドー」

ハワイアン以外のバンド
 ハワイアン以外も数多くエントリーしていました。
「パープルシャドー」はもともとロックバンドからハワイアンに転向し
たグループで若さが溢れ、特にリーダー(今井久)のスチールのうまさは
定評があり、迫力がありました。ギターを首に抱えながらのスチール演奏
であった。ヒット曲も「小さなスナック」などでした。
麻雀をやっている時も「パーピン」を切る時も「パーピンシャドー」
などと言ったものでした。
 次に「鶴岡雅義と東京ロマンチカ」もたまに出ていました。レキン
トンギターを抱えた鶴岡さん。三条正人さんもいました。
 フォークとカントリーを歌った「ザ・ライジングサン」もギター、
ベース、バンジョーと3人で構成。「ライオンは寝ていた」「ミスタ
^ベースマン」「オレンジ・ブロッサム・トレイン」などでした。
 この他、クラシックギター、フラメンコなどもあり、いわゆる全て
のエンターテイメントショーの感じでした。
 現在は「タクト」がなくなり残念です。当時は横浜にもありました
がもうないでしょうね。
これ以外の思いでは皆さん教えて下さい。情報をお待ちしております。
BBSでお逢いましょう。

日本に於けるハワイ音楽

バッキーさんハワイに凱旋帰国

 昭和27年〜28年頃になり国内も平穏を取り戻し、アロハ・ハワイ
アンズのステージも進駐軍から離れてナイトクラブ、キャバレー或いは
ライブの運びとなり、6大都市のキャラバンも出来、後援会も杉山四郎
博士を会長とする強力なものが出来て、ここに名実共に日本ナンバー1
のアロハ・ハワイアンズとなったのであります。
 この年バッキー白片さんはハワイに帰郷した際もホノルル市挙げての
歓迎だった。また逆にハワイのフラチーム「パールス・ポリシアン」が
バッキーさんを頼って来日し、東京公演並びにテレビを通じて日本全国
で絶賛を浴びたことは語り草となっている。
 次回はバッキーさんの名前の由来等についてお話ししたいと思います。

バッキーさんの名前の由来

「バラ弾 バラ弾」とからかわれた

 アロハ・ハワイアンズ・トリオのメンバー達は、3人が3人ともに
背が低かった為、友人達が3人を評して「バラ弾」とからかった。
「バラ弾」と言うのはバック、即ち鹿打ちの時の弾、つまりバックショ
ットだと言う訳で、そのバックにキーをつけてバッキーと言うあだ名が
誕生し、それが芸名となりました。
 次回は当時のバンドの実情などについてお話ししましょう。

当時の楽器は

スチールのバーはカマボコ型が主流

 スチールギターは電気のものが無く、ネックの方迄胴と同じ深さを
持ったものか、または普通のギターのフレットに鉄片を入れて線を持ち
上げてスチールとして弾きました。バーもカマボコ型が多く、現在用い
られている砲弾型のものはバッキーさんの紹介によります。
 アンプはリケンベーカー製(米国)が殆んどでギブソン、エピオン、
フェンダーは余り見かけませんでした。日本製は駄目で、戦後バッキー
さんの友人で不二音響の技師である宮崎さんが造られたアンプが日本で
初めて外国品に近い性能を持つとして認められました。
 サイドギターの方はナショナル、ドプロ、カラマゾ、ギブソン等があ
り、エピオンは殆んどありませんでした。ウクレレはカマカとロイヤル
が多く、マーチンは当時未発売でした。ウリウリ、プイリ、コンガは全
く使用していません。
 尚、バッキーさんがフェンダーのスチールを使い始めてから人気が出
てきました。その後、和田弘も使っていますが、現在ではフェンダーで
はスチールは製造されていません。アンプのみです。しかし、使って
みてやはりフェンダーのアンプ(オールチューブアンプ)は違うなあと
感じます。皆さんはどのようにお考えですか?
 次回は服装等についてお話ししましょう。

当時の服装と仕事場及び教材

一流は灰田さんとバッキーさんのみ。

 ワイシャツに腕まくりで各人自由なズボンと靴、レイはペーパーレイ
で、灰田さんクラスの一流となると白背広上下に白靴、それにレイと言
った具合でした。
 仕事場は、戦前はバッキー、灰田の一流バンドを除いては殆んどなく
一流バンドは放送、劇場、ダンスホール等、その他はダンスホールを借
りて開かれたパーティまたは友人宅の宴会などが主な仕事でした。
 教材は灰田さんを真似るか、1ヶ月1曲の割で各レコード会社発売の
ハワイミュージックを教材としました。放送は短波受信機が禁止されて
いましたので、外国放送は全く聴くことが出来ませんでした。
 次回は戦前の主なハワイアンバンドをご紹介しましょう。

戦前の主なハワイアンバンド

独断と偏見の浜口庫之助 

・バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ
・灰田勝彦とモアナ・グリークラブ
・コロンビア・ヒロ・カレッジアンズ(尾上)
・ドウドウ・ハワイアンズ(橋本、金子、浜口庫之助)
・サウザ・クロス
・ポップ・アカイ(ハワイ人)
・ホワイト・レイ・ハワイアンズ(長浜)
・サーフ・ライダーズ(村上徳一)
・カルア・カマアイナス(学習院)
・ブルー・ハワイアンズ(吉田宗之助)
・ポス・宮崎とコニーアイランダース
         
戦後大橋節夫とスターダスターズ(後にハニーアイランダースと改名)
が早々と発足し、以後続々とバンドが結成された。
このうち浜口庫之助はアマチアハワイアンコンテストの審査委員長と
してあちこち顔を出し、平塚市で行われた大学生大会にも来て、独特
でユニークな審査で会場を沸せました。
平塚市での大会には自分の名前の字が違っている、と怒って1時間
余りも姿を見せずハラハラさせました
しかし、今は亡きハマクラ先生に合掌。
次回は外国のハワイアンバンドについてお話ししましょう。

戦後紹介された外国バンド

日本のハワイアンテクニックはトップレベル

・ラニ・マッキンタイヤー
・ディック・マッキンタイヤー
・ソル・フーピー
・アンディ・アイオナ
・ソル・ケー・ブライト
・ジョニー・ノーブル
・ロイ・スメック
・モアナ・セレナーダス
・ハーリー・オウエンス
・ワイキキ・ビーチ・ボーイズ などである。
当時は彼等の技術に堪能し、また競ってそれらを真似することに専念
した。しかし、現在の日本のハワイアンテクニックは世界でもトップ
レベルにあり、ここにも日本人の勤勉さのあらわれが特出されている。
次回は当時の演奏模様などについてお話ししましょう。

当時の演奏模様と格言

練習で泣け、最後に笑うものは?

 編成は大体現在と同じ、サイドギター等は最初ローコードをおさえた
為、音を切る事が出来ず、この点をバッキーさんに指摘され、直されま
した。ディミニッシュコードも6本出来るようになりました。
演奏はハワイ音楽を心から愛する人たちばかりでしたので、各人真剣に
演奏していました。また練習も帰宅後も良く勉強し、夜明けに至った事
もしばしばでした。従ってステージでのミスは、次の休憩時間にはすぐ
正そうと努めました。「今の若い人」とお決まりな言葉ですが、誤りは
素直に認め、正すよう努めましょう。忠告をひとつ。
また、クラシックから現代の曲に至る過程をふむ事がきらいな人をみか
けますが、また高度の技術を最初から論じ、批判したりしますが、高眼
低手のたとえ通り、その人達に限ってろくなチューニングも出来ず、リ
ズムに乗り遅れたり走ったりで初歩の技術すら出来ないのが常です。
カメハメハ大王が怒り、リリオカラニが泣くといけませんから、この様
な考え違いはやめましょう。
バッキーさんが常に言っていた言葉は「人の言う事は気にするな、練習
で泣け。貴方が一番最後に笑う様になりなさい」
勿論そうなる為には努力以外に何ものもありません。その為には先ず
ハワイアンが好きになること。これだと思いますが?

キャバレー、ビアガーデン全盛時代

ファンレター(?)に酔い知れる

 当時私は東京の某三流大学のハワイアンバンドに所属しておりました。
その頃、東京神田に学生専門のプロダクションがあり、ごたぶんにもれ
ずあちこち出させて貰いました。入部した頃はギターから始め、ウクレ
レ、パーカッションなどをこなし4年生のバンマスになってからスチー
ルを初めました。バッキーさんが6本弦のAmチューリングでしたので
それで弾き始めました。(現在では8本弦をマスター中)
ギターには絶対的な自信をもっていましたので、いわゆる「トラ」で登
録、あちこちのキャバレーで稼いだ訳であります。ギャラは一晩で食事
付で500円でした。当時はタクシー初乗り100円、電車の最低区間
10円、大学のBランチが85円の時代でしたから、まあまあと言うと
ころでしょうか。
思いで深いのは東武デパートの屋上ビアガーデンで女子大生のバンドと
一緒に出た事でした。バンド名「ノセ和子とナレオハワイアンズ」小柄
なノセはスチールもうまく、唄も抜群でした。
しかし、女性だからと言っても演奏は厳しく、いつも気合を入れられま
した。曲目はパーリーシエルズ、アイラブパリ、ホノルル・ハウ・デュ
・デゥ、コニコニ、等で古くからあるハワイアンナンバーでした。
歌謡曲では「女心の唄」「ラブユー東京」「ワシントン広場の夜はふけ
て」などヒットしたものばかりでした。
そこは雨が降ると地下のレストランで行い、食事の内容もグレードアッ
プの為、いつも雨が降る事を祈っていた感じでした。
良い事と言えば演奏終了後電話番号の書いたメモが数枚私宛に届く事で
した。唄も歌っていましたので全て連絡を取ることも出来ず2、3の人
に電話してデイトもしたりしましたが、楽しいひとときでした。
次回はキャバレーのバンドの内状についてお話ししましょう。

キャバレー悲話

新人歌手の女性ゆえの試練
 当時のキャバレーは今のキャバクラなどと違ってあまりいかがわしい
ものはなく、純粋なエンターティナーの活動の場でもあった。
蛇を使った踊り、コント、アクロバットなど皆真剣であった。
バンドも2組編成で30分交代、チェンジングワルツが流れると交代の
合図である。当時一般的に使われていたのは「うそは罪」で今でもあの
悲しそうな曲が思い出されます。私は相手のスイングバンドのギター奏
者と親しくなっていろいろ聞いた話しによると、新人の女性歌手には試
練が待っているとのことです。わざとバンドの方で音程を合わせず、歌
いにくくしてしまうそうです。歌手がクレームをつけると「じゃ、わか
ってるな」と言う事で2〜3の幹部がホテルに直行していいことをする
とのことでした。
この中に今の大物歌手がいたことがわかり、びっくりしました。
(差し支えがありますので、名前は伏せます)
このような暗部が芸能界にあるのは今も変わりがないのでは?
しかし、暗い話しばかりではなく明るい話題もあります。それは次回と
します。

キャバレー悲話

ハワイアンはお呼びではない。

 錦糸町の場末のキャバレーにトラ(エキストラ)で1ヶ月間出ていました。
そのハワイアンバンドは「チャームボイス」と言うプロでレコードも出
していたそうです。演奏はまあまあでしたが芸能界は運も大事でなかな
かデビューとは行きません。以前エセル中田さんは「ハワイアンでは食
えない」としきりに言っていましたが全くその通りでした。
「和田弘とマヒナスターズ」もこれに悩みハワイアンは夏だけのイメー
ジを払拭させるのに成功しました。この話しは以前NHKのテレビで放
送していましたが、和田弘が悩んでいた頃たまたま外に酔っぱらいが通
りかかり、それが口ずさんだ歌がヒントになったと言っております。
もし今もその方が健在であれば一言お礼を言いたいそうです。
おそらくこれからも日本人としてのハワイアンプロは難しいのではない
かと思います。ハワイからはどんどんといろいろな形で来日しますが、
それは向こうでは定期的な仕事があるからなのです。
問題は冬期間をどうするかと思いますが皆様はいかがお考えですか?
 さて、この「チャームボイス」も昼間はそれぞれバイトをしながらで
大変なようでした。このバンドの上下の関係も厳しく、これが芸能界な
のかと思わずうなりました。立っているのがきついと常にこぼしていま
したが、それはバイトの為であって決してバンドによるものではないと
思っております。
 演奏内容につきましては、ハワイアンはお呼びでなく、殆んどが演歌
でそれも、もの悲しいものばかり。これにはがっかりでした。
従ってヒットチャートの演歌を覚えるに時間を費やし、リクエストに応
えるのです。これではハワイアンは育たないと思いました。
ボーカルの女の子も「どこかに歌の仕事さがして」と言うばかりで現実
の厳しさがひしひしと伝わる当時の模様でした。
次回はキャバレーのホステス事情についてお話しましょう。

キャバレーのホステス物語

10円玉がポイント。

 当時のキャバレーは夜朝礼が行われます。もちろん挨拶は「お早よう
ございます」で始まります。先ずマネージャーが点呼をとり、昨日の反
省をします。例えば「○○さんはお客様のネクタイを直さなかった」と
か接客態度が良くない、などそれはそれは細かく、よくチェックしてい
るのものだと感心させられます。それが終わるとホステス達は一斉に赤
電話に走ります。赤電話は30〜50台ほどあり、ズラリ並んでいて
お客様に来てもらうようにラブコール送ります。従って当時はいかに
10円玉を多く持っているかでその日は決まるとまで言われていました。
テレホンカードなど無い時代でしたからホステスのポケットにはいつも
ジャラジャラ持ち歩いていたのです。
 歩合制の為、少しでもアルコールの量をあげようと自分でも飲み、裏
でゲーゲー吐いているというのが日課でした。その為、体を悪くして
数年でやめた人、早く亡くなられた人様々でした。   

ハワイアン黄金時代

昭和40年から50年にかけが日本のハワイアンの黄金期と言えるかと
思われます。
東京銀座には「銀座タクト」「不二屋ミュージックサロン」「ニュー
美松」「ラ・セーヌ」「市松」「プリンス」などでライブを聞くことが
出来ました。
1958年のエセル中田による「カイマナ・ヒラ」のヒットにより日本
のハワイアンバンドは雨後のタケノコのように誕生しました。
ハワイからはFEN(アメリカ進駐軍放送)から流れる「ハワイ・コールズ」
のハウナニ・カハレワイ、アルフレッド・アパカ、スチールギターの
ジュールス・アーシーなどが有名でした。
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