昔のハワイアン                          

バッキー白片とアロハ
ハワイアンズ。ベース
の石巻宗一郎、ウクレ
レの久保内成幸の姿も
ある。

NHKテレビで
バッキーと
藤原満穂。

山口銀次とルアナハワイ
アンズ。右から田口昂、
大谷庄次、山口軍一、
山口銀次、駒馬篤。

藤原満穂。
ハワイアンベー
シストNO.1.
豊富なキャリアと
すばらしいテクニ
ックの持主。
アロハセレナー
ダスリーダー。

岡本博とアロハリズム
コーラス。右から代喜
伸二、高田修治、岡本
博、村井啓裕、松井寿。

ヨリ寺部。
南米に行っていた
為ハワイアンファ
ンには忘れかけて
いたがスチール
ではバッキーに
次ぐプレーヤー。

昭和8年当時の慶応大学
「ガーディニァレイ
ハワイアン」
学生バンドのはしり。

寺部震。
ヨリ寺部の弟。
コロンビアから
「胸の振子」等
のレコードが
出ている。

昭和12年鴇沼の藤原宅
で個人レッスンする
バッキー白片(当時23才)

小林隆。
慶応出身。ブルー
ハワイアンズ
リーダー。
特にウクレレが
うまい。

昭和25年頃、左端の
当時流行のイキ?な
スタイルはマヒナスター
ズの和田弘。

三島敏夫
テイチクレコード
から「俺はおまえ
に弱いんだ」
「椿の便り」等で「松の木小唄」
などのヒット曲がある。

人気最高のアロハハワイ
アンズ。左から藤原満穂、
バッキー白片、和田弘、
山口銀次、エレキ鈴木。

エセル中田。
女性ハワイアンシンガー
の代表選手。
鎌倉在住。

八重洲ホテルにて、
バッキーの友人ハワイ
二世と。右端はエセル
中田。

岩佐三郎。
かつての東映のニュー
フェイスだった。

バッキーとクイーンシス
ターズのメンバー。
大変上手なバンドだった。

日野てる子。
サンケイ主催素人ハワイ
アンコンテストで優勝。
当時高校2年生。
「夏の日の思い出」が
空前の大ヒット。 

ハワイアン史上最高と
言われたアロハキングス。
藤原満穂、バッキー白片、
寺部震、寺部頼幸、
ウイリー山崎。

中川浩夫。
司会が上手。コロンビア
では自身作曲の「雨が
にくいぜ」を吹き込んで
いる。

ハワイアンスターの集い。
左から寺部(弟)、大塚
龍男、山口銀次、ポス
宮崎、寺部(兄)
藤原満穂。

山崎アキラ。
慶応在学中
から学生バンドで活躍。
ギターを弾き、歌も歌
う。

ジャズ喫茶1号、銀座
テネシーにて、アロハ
ハワイアンズの伴奏で
歌うエセル中田。

ミエ岡村。
寺部震のお弟子さん。
クラシックをやってた
だけに音程も正確。

NHKテレビでお茶目な
バッキー。

島さゆり。
東芝から「パイナップル
プリンセス」「ユカレリ
ベビー」等吹き込んで
いる。

早稲田に入学(?)した
バッキーさん。左端は
ホノルルダンディーズの
原伊佐男。バッキーの
隣りは早大野球部の
金川選手。

原伊佐男。
ハワイアン界の代表的
ギタープレイヤー。
ホノルルダンディーズ
リーダー。

バッキー白片
 本名「白片力」ホノルル生まれ。ハイスクール時代からスチールギターを
弾き始め、またブラスバンドではドラムをたたいていた。ハワイ大学に入学
の後スチールギターをしばらく止めてドラムだけをたたいていた。理由は、
当時のハイスクールでは週3回もの教練があり、数キロもある鉄砲を担がね
ばならずブラスバンドに入れば、と考えたからである。来日は昭和8年。
ハワイ大学医科3年の時で、1年休学して来日、半年の後ハワイに帰り卒業
後再び昭和10年に来日した。
 ハワイアンの歴史はバッキー白片の歴史と言って過言ではない。何故なら
昭和8年の来日当時、日本にはまだアンプがなく、音響板つきのギターで
椅子に座り膝の上にギターを乗せマイクをつけて弾いたのである。演奏スタ
イルもベースだけが立ち、他は座ったまま譜面をみながらの演奏であった。
そんな状態の中に昭和10年来日したバッキーは、ハワイでも当時初めて
のスチールギターとアンプを携帯したからである。
 日本での仕事始めはアロハハワイアンズトリオと言う名のバンドの結成。
譜面見ずの演奏は当時の日本のプレイヤー達を驚かせた。その後日本の
ジャズバンドのメンバー、レイモンドコンデ、佐野たすく、東ニアン等と
共に仕事をし、そして学生を集めて、アロハハワイアンズを作った。 
当時のメンバーは寺部頼幸(ヨリ寺部とココナツ アイランダースリーダ
ー)藤原満穂(アロハセレナーダス リーダー)等で、他は第2次世界大戦
の時に戦死した。その頃山口銀次は学生で個人レッスンを受けていた。
 やがて第2次世界大戦が勃発、がハワイには帰らず、デイックミネ、
ベティ稲田達と南方日本軍の慰問演奏を続けた。終戦を迎え、生き残った
人達でアロハハワイアンズを再編成。メンバーは寺部兄弟、山口兄弟。
その後メンバーが変わり、本多、藤原、山田一郎、曽我部博、鈴木揚助、
和田弘、三島敏夫、原伊佐男、等が加わって黄金時代を築いた。この外
お弟子さんとしてポス宮崎、エセル中田がいる。
 最後に吹き込んだレコードについてはLP50枚余(これは日本人で最高
文字通りレコード破り)EP、SPは数えきれないほどで名実共に日本ハワ
イアン界のNO.1の所以である。

久保内 成幸(くぼうち しげゆき)
 済んだ彼のうら声はロマン豊かなハワイアンにはピッタリな感じであり、
数少ないうら声のボーカリストとして大変貴重であった。
東京のステージ一切は彼のニュアンスである司会で客を喜ばせていた。
その他に放送番組に出演し人気を博した。中でもニッポン放送のウクレレ
コーナーでのウクレレ指導は全国的に話題を呼んだ。
 
         

石巻宗一郎(いしまき そういちろう)
 ベース。正確なビートとそのテクニックに於いてアロハハワイアンズの
カラーを作り上げた。ベースプレイヤーでは地味な存在と言われるが、
全く彼はその逆で、バッキー白片氏の作曲による歌謡曲に彼が殆んど作詞
すると言う多才な持ち主。その全てが大作として既にテイチクレコードから
発売され好評を博している。その代表作に
「俺はお前に弱いんだ」「椿の便り」「二人の幸せ」
「真夜中のノクターン」「無情の街」などがある。

多田孝之助(ただ こうのすけ)
 サイドギターとしてアロハハワイアンズとしてなくてはならない存在で
あった。ファーストギターとしもかなめのポジションにいた。
ギターを完全に自分のもとして弾きこなしていた。スタイリストとしての
彼はアロハハワイアンズの女性ファンを一手に引き受けている感じであった。
それ程のテクニシャンでもあったのだ。

山口銀次&ルアナ・タヒチアンズ
         
日本の代表的なウクレレプレイヤーであり、タヒチ原住民の曲を
現地で学び、日本で最初にタヒチアンを取り上げる。
がんちゃん、谷やんなどもいる。
         
「黒い花びら」でメジャーデビューした水原弘もデビュー前に
このバンドで歌っていた。

大橋節夫&ハニーアイランダース

1953年に撮影されたもの。
メンバーは、
         
スチール:大橋節夫
ギター:中村順一
ギター:横江庸行
ウクレレ:内田保正(その後ヴァイブを担当)
ベース:ダニー飯田(その後ダニー飯田とパラダイスキングを結成)
ヴォーカル:畠山みどり(演歌に転向する前、大橋節夫の元でハワイアンを歌っていた)

バッキー白片とアロハハワイアンズ

左から石巻宗一郎、バッキー白片、熊井満雄、
白片輿(あたえ-バッキーの長男)、原伊佐男

バッキー白片とアロハハワイアンズ

佐々木敢一(ウクレレ)、三島敏夫(ギター)が参加している。

バッキー白片スチールギターを弾く。

昭和30年代前半。

灰田勝彦

立教大学時代デビューしたての頃。
「鈴懸の径」「森の小径」などを歌っていた。

白石信とナレオハワイアンズ

創設期のメンバー。
左から2人目はスチールギターの白石 信。
左から3人目ウクレレとヴォーカルの小出茂。
右から2人目は森本毅郎(元NHKアナウンサーでキャスター)

バーブ佐竹&南かおる

バーブ佐竹はもともとハワイアン歌手でバンドを作って活動していた。
南かおるとはデュオでハワイアンの名曲を吹き込んでいる。
代表曲に「銀座は恋の十字路」がある。

ポス宮崎&コニーアイランダース

昭和40年代のメンバー。
ポス宮崎(宮崎英夫)は自分で開発した「ペダルスチールギター」で
演奏していた。
残念ながら53歳の若さで亡くなっている。

ポス宮崎&コニーアイランダース

昭和30年代前半の設立時のメンバー。
衣装もシンプル。
別名「ロイヤル・ハワイアン・ボーイズ」として活動していた時代もあった。
コニーはもともとキングレコードであったが、東芝で演奏するときは
この名前を使用していた。

ベティ・稲田。

ハワイ生まれの日系アメリカ人。
ディック・ミネと一時結婚していたともいわれ、その関係でハワイアンを歌うようになった。
もちろん演奏はバッキー白片とアロハハワイアンズである。
「夢の島よ」「チュー・チュー・チュー」「マリヒニ・メレ」などがある。
歌唱力は抜群でフラも踊れるスーパーアイドルであった。

トニー・相良(さがら)(水島早苗)。

戦前のハワイアン歌手。
「ハワイの宵」「想い出のホノルル」などのヒット曲がある。

ディツク・ミネ。

徳島市出身で本名「三根徳一」。戦時中は「三根耕一」を名乗った。
バッキー白片からスチールギターを学び、その関係からハワイアンを
歌うようになり、「ホノルル娘」「アイルランドの娘」「ホノルルの月」などをヒットさせている。

バッキー白片とアロハハワイアンズ

昭和40年代の一番活躍していた頃。

大橋節夫とハニーアイランダース

昭和40年代のハワイアン最盛期の頃。
中村順一(ギター)、木村栄一(ギター)、杉本いわお(ウクレレ)
などのメンバーもいる。

小林ライオン潔

スチールギター暦60年の匠の技と言われるまでになった。
15歳の時に始めてスチールギターを始めた。
         

ロイヤルハワイアンバンド

1836年にカメハメハ3世によって創設された。
現在51代目のバンマスに日系人のマイケル・ナカソネ氏
が就任している。

ダニー飯田とパラダイスキング

昭和30年代にダニー飯田(本名:飯田紘久)が大橋節夫とハニーアイランダース
に加盟。その後パラダイスキングを結成。
坂本九、九重佑三子、水原弘などを排出。
おりからのポップスブームにのって一躍メジャーデビュー。
佐野修、石川進(キューピー)などのキャクターも人気となる。
その後の活躍は周知の通り。
1999年ダニー飯田は腎不全で65歳で他界している。

多田孝之助とレイハワイアンズ

バッキー白片とアロハハワイアンズにギタリストとして在籍していた
多田孝之助が独立して結成したハワイアンバンド。
写真左から
 多田孝之助
 小川 登
 臼倉信之
 田島清三
 多田そうべい(弟)

三島敏夫とそのグループ

バッキー白片とアロハハワイアンズにギタリストであった
三島敏夫が独立して結成したバンド。
三島敏夫の甘い歌声は魅力あるものであった。
         
 ウクレレ…モンキー小幡
 ギター…多田そうべい
 ヴォーカル…三島敏夫
 ベース…コージ樋口(山口銀次とルアナハワイアンズ出身)
 スチール…サトー弘行
 

前川静夫とアロハジョーカーズ

 スチール…前川静夫
 ウクレレ…中屋輝夫(バッキー白片の甥)
 ベース…阿蘇尚人
 ギター…吉葉 洋(その後、敏いとうとハッピー&ブルーで活躍)
 ギター…多田そうべい

内田保正とロイヤルプレイボーイズ

 ヴァイブ…内田保正(大橋節夫とハニーアイランダースに在籍)
 スチール…高木康平
 ベース…阿蘇尚人
 ウクレレ…岡田武雄
 ギター…多田そうべい
 ドラム…今井芳克

早稲田大学ナレオ・ハワイアンズ(1961年頃)

伝統ある早稲田大学ナレオ・ハワイアンズでヴォーカルと司会を
努めた元フジテレビアナウンサー露木茂がいた。
左から3人目はウクレレとヴォーカルの小出 茂。
この他
徳光和夫(元日本テレビアナウンサー)…立教大学
森本毅郎(元NHKアナウンサー)…慶応大学
などもハワイアンバンドで司会をしていた。

南 かおる

エセル中田と並んで第2次ハワイアン黄金期を支えた歌手。
フラも得意でそのパンチのある歌声にも定評がある。

和田 弘とマヒナスターズ

和田弘はバッキー白片とアロハハワイアンズでギターをやりヴォーカルの
ファルセットも得意としていた。
しかし声をつぶし山口銀次がマヒナ(月)スターズ(星)を結成。
その後山口銀次が引退後バンマスになりムード歌謡に転進、メジャーデビュー
を果たす。
その後はメンバーの入れ替えがあったが2004年和田弘が死去し、現在は
大幅にメンバーが入れ代わっている。
しかしながらハワイアンを演奏させたら実にごきげんである。
         
この写真は昭和34年に撮影されたプライベートなもの。

久保内成幸とロマネスク・セブン

バッキー白片とアロハハワイアンズにいた久保内が結成したバンド。
必ずしもハワイアンにはこだわらなかった。
むしろムード歌謡路線に重きをおいた。

ハワイコールズ

1935年、ハワイはまだ正式なアメリカ国家ではなく
領土であった時代に短波ラジオ放送を始めるに当たり
ワイキキの浜辺でその産声をあげた。
過去有名人を排出、今でも続けられている。
その歌声はすばらしく、伝統的なものとなっている。

灰田有紀彦

灰田有紀彦(1909年 - 1986年)は昭和期の作曲家、スチールギター、
ウクレレ奏者。本名は灰田 可勝。別名を灰田晴彦。弟は歌手の灰田勝彦。
2世の子として、ハワイのホノルルに生まれる。慶 應義塾大学中退。
1928年、ハ ワイアン・バンドの灰 田勝彦とモアナ・グリー・クラブを結成。
戦前・戦中とハワイアンを演奏するバンドとして活躍。戦中は、敵性音楽だとして
ハワイア ンが演奏禁止になり不遇の時代を過ごす。その時期、作曲家として
「森 の小径」、「鈴懸の径」を作曲。灰 田勝彦の歌声でヒットする。
敗戦後の1945年、 弟の勝彦と灰 田晴彦(有紀彦)でニュー・モアナを結成。 
ハワイアン音楽一筋に生き、日 本ウクレレ協会会長など務めた。

宮川 泰とアロハ・スウィング・バンド

京都市立美術専門学校(現:京都市立芸術大学)を経て大阪学芸大学(現:大阪教育大学)
音楽科を中退。
その時にハワイアンバンドを組んでいた。同時にジャズ系も演奏していたと言う。
「渡辺晋とシックス・ジョーズ」でピアニスト兼アレンジャーとして活躍。
その後、独立して作曲家、編 曲家となる。
自身が率いる「名匠宮川組」のメンバーらと共に全国で演奏会を行っており、
大阪芸術大学音楽 学科の教授も務めていた。

ジョセフ・ケクク

 スチールギターは1880年ジョセフ・ケククによって発案された。
ある日胸のポケットに入れていたナイフがギターの上に落下した。
すると今まで聞いたことのない音が出た。
彼は弦をスライドさせればこのような音が出ると気がついた。
これがスチールギターの誕生である。
その後チューニングについては…
ギターのチューニングに近いEメジャーチューニング(1〜6がE B G# E B E)で、 
当初は5弦、6弦でベースの音も弾きながら演奏した。
後に4弦EをDに下げてE B C# D B E  のE7チューニングにしたり、
(1〜6)がE C# A E A EのAメジャーチューニング、 さらに6弦をAにした。
現在は数十種類のチューニングがあるがこれらは比較的新しいものだ。

関口 宏…ハワイアン愛好家

立教大学在学中からハワイアンに興味を持ち
ハワイアンバンドに所属していた。
現在もプライベートで「長尾忠彦&のってるアイランダース」
で演奏している。歌もうまい。

バッキー白片とアロハハワイアンズ

1968年頃。左から

石巻宗一郎(ベース)

バッキー白片(スチールギター)

中屋 明(ウクレレ)バッキー白片の甥

白片 輿(あたえ)ギター(バッキー白片の長男)

原 伊佐男(ギター)

大塚龍男

大塚龍男・・・パーム・セレナーダスのリーダー。
大きな身体で日本人ばなれの美声を聞かせる。フービーの愛称で親しまれた。
1922年生れ、現東京芸術大学出身で満州国に招かれて新京音楽院を設立、
新京交響楽団を指揮した大塚淳氏の三男。クラシック家庭でピアノを学んだが、
偶然耳にしたレコードからハワイアンのとりこになる。
父との新京暮らしの間にバンドを始める。
戦後パラオから復員、昭和23年「パーム・セレナーダス」を結成。
スチールギターのチューニングは「E7]と当時としては異色と言われた。
平成4年心筋梗塞で死去。74歳。
現在は2人の息子がハワイアン界で活躍している。

 

(写真提供:東海林 仁様)

パープル・シャドウズ

1968年の結成当時、グループ・サウンズ人気は既に下降線をたどり始めていたが、
他のグループ・サウンズとは異なるムード歌謡的な曲調の「小さなスナック」の大ヒ
ットを飛ばす。だがその後はヒット曲に恵まれなかった。その後メンバーの脱退・加
入を繰り返し、1980年代には「今井久&パープル・シャドウズ」名義で活動した。
ハワイアン的なムード歌謡風の曲調が特徴。今井のギターとスチールギターをフィー
チャーしたインスト・アルバムも発売された。
ハワイアンの殿堂「銀座タクト」へも常連で出演していた。
         
当時のメンバー
キ 今井久(ギター・スチールギター)
キ 綿引則史(ギター)
キ 川合良和(ベース)
キ 大場吉雄(ドラムス)
キ 岡村右(オルガン)
キ 木幡ユキ(ボーカル)【1986年 - 1991年】

マカハ・サウズ・オブ・ニイハウ
         
 ハワイはオアフ島。1975年IZ(イズラエル・カマカヴィヴォオレ16歳)と
その兄(スキッピー)と従兄弟(メル・アミナ。アナル・アイナ)の4人で
「マカハ・サンズ・オブ・ニイハウ」を結成。 
そして、彼らはあっという間に有名になっていった。
その後兄スキッピーが心臓発作で死去。それ以来、スキッピーの死後、バンドは
新たにメンバーを再構成して生まれ変わる。
新生マカハ・サンズ・オブ・ニイハウは好調でした。グループは10枚ものアルバムを出し、
多くの賞を獲得します。
マカハ・バッシュというコンサートもはじまります。このコンサートは今や毎年行われて
おり、ハワイの名物になっています。
代表的なヒット曲として「HAWAII′78」がある。
IZも38歳で他界している。

浜口庫之助

1939年に青山学院高等商学部(現・青山学院大学商学部)に入学した。
当時の浜口はギター講師やスタジオ・ミュージシャンをして生活費を稼ぐ傍ら、
大学内で慶應義塾大学や立教大学など他大学の学生と一緒に「DooDooフライヤン」
という名のハワイアンバンドを組んで活動した。
その後灰田勝彦の誘いを受けて灰田がメンバーを務めるハワイアンバンドの
メンバーとなったり、自らも「スウィング・サーフライダーズ」や「アフロクバーノ」
を結成して音楽活動を続ける。
そして数々のヒット曲を生み出す。

渚 ゆう子
         
1945年生まれ。日本のハワイアン歌手。本名は大江 千鶴子。
ハワイアン歌手としてレコードデビューの後、1970年にベンチャーズ作曲・演奏の
「京都の恋」を日本語の歌詞で唄って、大ブレイクし一躍人気歌 手となった。
1964年 久葉真鶴(くばまづる)の芸名で芸能界入り。
1965年 和田弘とマヒナスターズの前唄で出演した。そのとき、リーダー和田弘
のすすめがあり上京。作曲家浜口庫之助に師事。ハワイアンを覚える。
1966年 「渚ゆう子」に改名(名付け親はマヒナスターズの松平直樹)
1967年 ハワイアン歌謡「早くキスして」でレコードデビュー。
そのB面は「ルアウの火も消えて」どちらも東芝レコードのスチールギター奏者で
 ハニーアイランダースのリーダー大橋節夫が作曲した。

ジョージ根本&ザ・ブラザース
         
 ジョージ根本は明治大学軽音楽部卒業後ハワイアンバンドを結成。
当時、長男【ジョージ】と次男【昭夫】がスチールギターで活動していた。
三男【正行】ギターが大学卒業メンバーに加わり、その後四男【文夫】ドラムが加わり、
五男【厚則】ベースで加わり、ジョージ根本ハワイブラザースとして
活動していたがその後名前がジョージ根本&ブラザースと変わりました。
やがて五男ベースが脱退して兄弟4人+1で活動していました。
そしてハワイに1年間滞在後、帰国してベースとしてセンベーさんがメンバーに加わりました。
フラダンスを踊りながらショーバンドとして日本中演奏活動をしてきたのです。
15年前に解散いたしましたが皆さん現役で活動しております。
三男の正行さんは5年前に亡くなりました。
ジョージ根本さんは小池厚子さんと今でも2人で活動しています。
次男はウクレレ教室を開いております。四男はお店のマスターです。
センベーさんは津軽三味線弾きと今でもハワイアンバンドで活動しております。
当時銀座タクトは常連で多くのファンの方が見えられました。
    (写真と資料は元ベースマンのセンベー様から提供されました)
         

小池厚子

昭和18年愛媛県今治市生まれ。
高校在学中よりハワイアンに熱中し、昭和34年プロへの道へ。
最初はバンドの歌手として歌っていたが、昭和37年ソロシンガーとして再出発。
持ち前の甘い美声とフィーリングのうまさには定評があり、また非常に努力家
でもある彼女は巾の広い奥行のあるハワイアン歌手として知られている。
ジョージ根本さんの奥様でもあります。
         
(写真と資料は元ベースマンのセンベー様から提供されました)

アイリン・多(おおの)

昭和20年高知市生まれ。大阪でハワイアンバンドの歌手として活躍していたが、
上京して女性ハワイアンバンド関万里子とパイナップル・プリンセスに籍を置いた。
ウクレレ、ヴォーカル、フラダンスを担当していたが、昭和44年1月ソロシンガー
として独立。
レパートリーはハワイアンを始め最近のポピュラーからオリジナルに至るまで幅広く
手がけている。
旧日劇オーケストラの指揮者「多(おおの) 忠修」氏の姪にあたる。
また、鉄道唱歌の作曲で知られる「多 梅雅」氏のお孫さんでもある。
         
(写真と資料は元ベースマンのセンベー様から提供されました)

ジョージ松下

1934.9.10.東京生まれ。
今年でハワイアンを歌って65年になるジョージ松下さん。
「ポス宮崎とコニーアイランダース」でヴォーカルとウクレレとを担当。
1950年に「ジョージ松下とアイランドキング」を結成。
日本を代表するハワイアンのソリストだ。
同期にエセル中田がいる。
昨年は「リアルハワイアン」なるハワイアンの曲を200曲をも収録した本を出版、
売れ行きも好調である。
ハワイ州の親善大使も委嘱されていて、ハワイアンにはなくてはならない人でもある。
現在六本木のライブハウスを中心とした活動を続けている他ウクレレ、
ヴォーカルの教室も開いている。

清水 峰生(しみず みねお)

1938年12月15日生まれ。

  日大芸術学部出身,1964年に小林隆とブルー・ハワイアンズ、
山口軍一とルアナ・ハワイアンズ、白石信とナレオ・ハワイアンズ等、
数多くのバンドを経て現在も第1線のプロ・ミュージシャンとして活躍中。
ハワイアンバー「布哇庵」(新宿)のオーナーという顔も持つ。
 日本ハワイアン音楽協会理事、日本ウクレレ協会特別会員、スパリゾート
ハワイアンズ付属音楽舞踊学院講師、江東区古石場文化センターウクレレ講師、
「ウクレレで楽しく歌う会」主宰等(2002.7月現在)

サンディー(Sandii、ウニキ・クムフラ1952年生まれ)

 日本の女性歌手。東京都生まれ。本名は鈴木あや。スペイン人と日本人とのハーフ。
9歳の頃から歌手として活動。10歳のときにハワイにわたりハイスクール卒業まで
そこで過ごす。日本では1970年代初頭から活動し、「サンディー・アイ」名義で
グラビアアイドルとしても活躍していた。1976年「グッドバイ・モーニング」で
第7回世界歌謡祭グランプリ最優秀歌唱賞を受賞。1978年、映画『ナイル殺人事件』の
主題歌「ミステリーナイル(サンディー・オニール名義)」がヒットする。
1990年代中盤頃より、自身のルーツであるハワイ音楽に傾倒。「サンディーズ・ハワイ」
などハワイアンを基調としたアルバムをセルフプロデュースで次々とリリースしている。
ウニキ・クムフラとは「フラの継承者」と言う意味である。
現在彼女のハラウ(フラ教室)には約500人の生徒がいる。

カレイナニ早川 (本名:早川和子)福島県在住 1932年1月台湾生まれ。

 映画「フラガール」は常磐ハワイアンセンター設立の物語で、主人公のモデルと
なった人物だ。縁もない土地に飛び込んで専属フラチームを養成し、見事公演を
成功させた物語に胸を打たれた人も多いはず。もとはセンター創業者の映画が撮
られる予定だったが、制作側がフラチームの軌跡に興味を持ち、そのまま話が進んだ。
1965年に同センター付属の舞踊学院の講師として招かれ、炭鉱町の少女たちをゼロ
からダンサーに育て上げた。
フラとの出会いは、幼少から続けてきたバレエを学ぶために昭和31年(1956年)
24歳でハワイへ留学したとき。今も講師だけでなく、ショーの演出や振付を一手に担う
「総合演出家」として国内外を飛び回る。
数々の逆境に立ち向かってきた経験から、「自分で切り開いていかなければ、良いものは
できない。そのためには日々勉強し努力すること」と断言する。各地を回りながら色々な
人と会話し、そこから学び、吸収する毎日。常にトップを走り続けながら努力を怠らない
その姿勢が、今なお現役で活躍する所以だ。

ドン・ホー(ハワイアン歌手)
         
 ドン・ホー(ダン・ホー)はハワイ、中国、ポルトガル、オランダ、ドイツと、
5つの血がミックスしていて、高校時代はフットボールの花形選手だった。
その後朝鮮戦争に従軍したのち、1964年からインターナショナル・マーケッ・
プレイスで、デゥーク・カハナモクと一緒に、エンターテイメントを行ってきた。
彼の歌い方は、夏の午後のひとときのような、けだるさと甘さがあり、特に白人の
女性観光客を中心に大変受けていた。
世界的なヒット曲になった「タイニー・バブルス」がある。
2007年4月14日76歳で亡くなり、Boy's dayの5月5日、数多くのカヌーに
伴漕されながら、ワイキキ沖合いの海で散骨、深い眠りについた。

ドロシーマキ(神田まき)

 ピアノ、ヴォーカル担当。
バッキー白片に師事。
ハワイアンシンガーとしてデビュー。
バッキー白片とアロハ・ハワイアンズの女性ヴォーカルとして活躍。
平成6年より和田弘とマヒナスターズの女性ヴォーカルとして参加。
歌、ピアノ、司会などで活躍。
バッキー白片・長男(與・あたえ)の奥様でもあります。

近衛 里帆(Riho Konoe)

 学生時代よりプロの女性ボーカル・グループ「メトパーズ」にて活躍。
ハワイアンからポップス、ポピュラー・ミュージックまで、
幅広いジャンルの歌を歌いこなし喝采を浴びる。
現在は白石信とナレオ・ハワイアンズと共に数多くのステージ、CDで
その歌声を披露している。
一方、ココミュージックスタジオのプロデューサーとして、アーティストの
プロデュースや、育成・発掘、また、ハワイアン・コンサート/イベントや、
ファッション・ショーの企画・構成・演出など、これまでにも数多く手掛けている。 

和田 弘&マヒナスターズ

当時(昭和40年代)のプロフィール
         
和田 弘(スチールギター)
 昭和6年生まれ。愛称「ルダ」。趣味:車、愛車ルノー
松平 直樹(テナー、ウクレレ)
 昭和9年生まれ。愛称「マツ」。趣味:落語、読書、旅行
山田 哲也(テナー、ベース)
 昭和8年生まれ。愛称「ウッチョ」。趣味:落語、クイズ解答。俳優「広岡 瞬」の父親。
日高 利昭(バリトン、ギター)
 昭和8年生まれ。愛称「ヒータカ」。趣味:オートバイ、愛車:トライアンフ
佐々木貫一(ファルセット、ウクレレ)
 昭和9年生まれ。愛称「カンちゃん」。趣味:野球、車
三原 左稔(テナー)
 昭和11年生まれ。愛称「ケジ」。趣味:ボーリング、野球

大橋節夫&ハニーアイランダース

1999年日比谷公会堂でのライブ。

(ナイツ♪テラシマ様より提供されました)

三橋 渡&コニーアイランダース

1999年日比谷公会堂でのライブ。

(ナイツ♪テラシマ様より提供されました)

山口軍一
1931年 スチールギター始める。東京都出身
小学生の頃より兄達(正保・銀次)が、ハワイアン音楽に携わっていたので、
ウクレレ等に興味を持ち弾き出す。
1945年 学徒動員。
1946年 カハナ・アイランダース結成(青山学院時代)。
1949年 NHK オーディションに合格。
       進駐軍クラブ『コーヌ・コピア』:専属出演。
1951年 ルアナ・ハワイアンズ結成。
       進駐軍クラブ『エデン』:専属出演。
1954年 銀座『金馬車』、『キャンドル』:専属出演。
1955年 青山学院大学卒業。
1960年 日本ポリドールと専属契約。
1964年 山口 軍一とルアナ・ハワイアンズに改称。
         
日本楽友会:理事
日本ハワイアン音楽協会(JHMA):理事
日本ウクレレ協会(NUA):名誉会員
スパリゾートハワイアンズ:顧問(芸能部門)

灰田有紀彦の娘

並河佳代さん。
年令、職業?
手にしているのは父である灰田有紀彦の作詞作曲した「こりゃさの音頭」の譜面。

山口銀次とルアナ・ハワイアンズ

昭和34年の写真です。
左から
    ・樋口 広二 Bass. Voc.  
    ・山口 軍一 SGt. Voc.  
    ・山口 銀次 Uk. Voc.
    ・大谷 庄次 Gt. Voc.   
    ・椎原 寂 Gt. Voc.
         
この写真は ジャズ喫茶(銀座タクト)(渋谷プリンス)
(有楽町・不二家ミユジクサロン)(上野 金馬車)(新宿 ラセーヌ)等 
店頭に貼り出されていました。
写真撮影:マルベル堂(浅草)撮影スタジオ。
         
この写真は元ギタリストの椎原 寂さん(写真右端)から提供されました。
ありがとうございました。 

バッキー白片&大橋節夫のツーショット

バッキー白片80歳の時。
大橋節夫に「息子よろしく」と頼んだと言う。

和田 弘&山口銀次

1952年新東宝映画「ハワイの夜」にバッキー白片とアロハハワイアンズと出演した。
二人ともに歌がうまく、特にファルセットはファンを魅了した。
主演は鶴田浩二、岸恵子で現地ロケで行われた。

伊藤素道とリリオ・ハワイアンズ

昭和25年に結成され、このバンドはコーラス主体で高く評価されました。
昭和28年まで活動しました。(写真前列左)
その後に「伊藤素道&リリオ・リズム・エアーズ」としてテレビの
「光子の窓」やリリオ・リズム・エアーズを率い、西部劇「ローハイド」の
主題歌の日本語版をヒットさせた。
伊藤素道は2003年腸閉そくのため死去、75歳。

掘 威夫&ワイキキ・ハワイアンズ

現ホリプロ会長の掘威夫が高校時代に結成したハワイアンバンド。

ワイキキハワイアンズ。

浜口庫之助

青山学院大学時代に灰田兄弟に誘われてハワイアンバンドで演奏していた。

バッキー白片

バッキー白片(本名:白片力)は日系2世。
父は山口県からハワイに渡った移民1世で、建築業を営んだ。
二男として生まれ、欧名としてレイモンドを名乗った。
バッキーは愛称。小学校時代はウクレレに親しみ、中学でギター、
ドラムを学び、17歳から自宅でスティール・ギターを演奏。
 昭和8年ハワイ大学進学のためにやってきた灰田有紀彦のインタビュー
記事を地元紙で読んで知遇を求め、日本行きを相談。
大学の最終学年(医学部)にいるのだから卒業後に来日するよ
うに勧められたが気持ちを抑えきれず、友人たちとアロハ・ハワイアン・
トリオを結成して来日、日本コロムビアで「アカカの滝」「フイ・エ」を
録音した。
9年いったん大学に戻り、10年無事に卒業して改めて来日。
この時、初めて日本に電気を用いたスティール・ギターを持ち込んだ
(それまではアコースティックのスティール・ギターしか入ってきていなかった)。
12年日本に帰化。

灰田晴彦、勝彦兄弟来日

大正11年日系2世の灰田兄弟来日。
関東大震災の影響で日本に帰化、日本初のハワイアンバンド
「モアナ・グリークラブ」を結成した、

タイムファイブ

同志社大学軽音楽部出身の男性5人(田井康夫、野口鎮雄、勅使河原貞昭、
吉村晴哉、杉江浩平)で1968年に結成されたグループ。
学生時代のバンドネームは、「モダン・フラ・ハワイアンズ」。
当時、ハワイでヒットしていたコーラスグループ「INVITATIONS」の曲
「ナニワイメア」を歌って大学対抗バンド合戦で優勝。結成30年超えても、
メンバーは一度も変わったことがない。
現在でもハワイアンは時々歌っている。
(写真は結成当時のメンバー)

高石ともや

フォークシンガーの高石ともやが福井県の高校時代にハワイアンバンドを
結成し、その後フォークシンガーに転進した。(左から2番目のウクレレを
弾いている)

朝比奈愛三

雪村いづみの父親。
実業家の父・愛三は事業の傍らハワイアンバンド「カルア・カマアイナス」に
参加する熱心な音楽家(ギター)でもあり、幼少期のいづみは戦時下においても
モダンな音楽に日常的に接して育った。1946年(昭和21年)、いづみが9歳の時、
当時通信社に勤務していた父・愛三が自殺(享年57)。1952年には母・恵子が
経営していた東興映画が倒産し、生活が困窮する。いづみは高校に合格していたが、
学費などが支払えなかったため入学を断念。家計を助けるために中学卒業後まもなく
して歌手を志し、新橋のダンスホール「フロリダ」で無給ながら歌手活動を開始した。

尾崎紀世彦

ヒロ・ハワイアンズ 1956年 - 1964年。
13歳の時に父にウクレレを買って貰い、中学の同級生6人でハワイアンバンドを
結成する。教則本が先生だった。
初めて覚えた曲は、おそらく「星は何でも知っている」。
箱根ホテル小涌園のバンド募集のオーディションに合格し、17歳でセミプロ
デビューする。
ここで司会を担当したのが大学生の露木茂(元フジテレビ)。 
1964年には念願の日劇出演を果たすが、目標達成とメンバーの学業と家業の忙し
さから解散に至る。
ハワイアンのリズム「チャント」を広めたことでも知られている。
ハワイ出身女性との最初の結婚では1男1女を、2度目の結婚では1女をもうけた。
療養の際には、交流が続いていたハワイ在住家族の献身的な看病があったという。
遺言通り遺骨の一部はハワイの海に散骨された。

高木ブーとハワイアン

 高木 ブー(1923年生まれ)は、日本のコメディアン、
ミュージシャン(ウクレレ奏者、ギタリスト)、俳優、タレント。
ザ・ドリフターズ、こぶ茶バンドのメンバーである。本名:高木 友之助。
ウクレレとの出会いは、中大在学中は音楽研究会「ルナ・ハワイアン」に所属。
この研究会の先輩に谷啓がいる。
ドリフターズに加入し、その後、ハロナ・セレナーダス時代の仲間の青木健たちと共に
「高木ブーとニュー・ハロナ」を結成するなど、ウクレレ奏者としての活動も盛んになる。

水原 弘

高校卒業後ジェリー藤尾らとハワイアンバンドを結成。
その後山口銀次とルアナタヒチアンズに入りヴォーカルを担当。

梓みちよ

当初はハワイアンを歌っていた。

スィング・サーフライダース

浜口庫之助が青山学院大学在学中に結成したハワイアンバンド。

右端ギターを担当。

阿木燿子

明治大学に入学した頃、宇崎竜童(後の夫)に軽音楽部に誘われハワイアンバンド

のスチールギターを担当、女性だけのハワイアンバンドを結成した。

ドウドウ・ハワイアンズ

浜口庫之助が結成した本格的はハワイアンバンド。

大橋一夫

大橋節夫の長男。
外車販売会社に定年まで勤務した。
自身ギターを担当していた。
歌もこなし、現在全国を行脚ハワイアンの普及に努めている。
大橋一夫の長女「華子」が一時期はハワイアンカフェ「華子」をオープン。
大橋節夫もライブなどで盛り立てたが現在は閉店している。
(似てますね)

フランシス座波(1914-1949)

「別れの磯千鳥」は作曲者のフランシスコ座波は、本名座波(ざは)嘉一と言い、
両親は沖縄出身でハワイに生れた日系二世。父はハワイで財を成した日系一世である。
この曲の作曲は1941年頃と言われているが彼は1949年、35歳の若さで死去
した事で詳細はわからない。歌詞も日本の無名の女学生が作ったとも言われているが
真相は不明のようだ。ハワイ松竹楽団を結成し活躍した時期もあった。
現在ハワイの一部地域ではハワイ民謡として歌われている。

美空ひばりのフラダンス

昭和25年5月にハワイ公演を行う。この時同行したのが師匠の川田晴久、母親の
喜美枝である。フラダンスは初めてであったが好評で「ひばりのアロハオエ」を
収録している。

ロイヤルハワイアン・ボーイズ

ポス宮崎が別名で演奏していたバンド。
コニーアイランダースのメンバーと変わりない。

バッキー白片とアロハハワイアンズ

昭和40年代、佐々木敢一がいた頃。

バッキー白片&ディック・ミネ

灰田勝彦とディック・ミネ

昭和40年代ハワイアンショー。

日本のハワイアン3人娘。

エセル中田。
日野てる子。
南かおる。

アロハハワイアンズ・ジュニア

長男 白片 興(あたえ)
次男 白片 修(おさむ)
四男 白片 健(たけし)
ヴォーカル ドロシー・マキ(長男・興の奥様)
スチールギター 綿貫祐三

常磐ハワイアンセンター

 石炭業界は、朝鮮戦争に伴う1950年代前半の朝鮮特需期には需要増から一時好況と
なったものの、1950年代後半には労働運動の盛り上がりによるコスト増から低価格な
輸入石炭との競合が露呈し、さらに1962年10月の原油輸入自由化によってエネルギー
革命が加速して、構造的な不況に陥った。常磐炭鉱での整理解雇は1955年から始まった。 
そこで炭鉱労働者やその家族の雇用創出、さらに同社の新たな収入源確保のため、炭鉱
以外の新規事業を立ち上げることになり、『日本人が行ってみたい外国ナンバー1』
だった「ハワイ」に着目。炭鉱で厄介物扱いされていた地下から湧き出る豊富な常磐
湯本の温泉水を利用して室内を暖め、「夢の島ハワイ」をイメージしたリゾート施設
「常磐ハワイアンセンター」の建設を計画した。しかし、社内でも先行きを疑問視する
声が強く、炭鉱の最前線にいた社員たちの転身にも根強い反対があり、「10年続けば
御の字」という悲観的な見方すらあった。最終的には当時の常磐湯本温泉観光社長の
中村豊が押し切る形で事業を進めた。 

畠山みどり

本名:千秋みどり
歌手を目指して大橋節夫の門下となりハワイアンを歌っていた。
その後大橋節夫のアドヴァイスもあり演歌に転向した。

サムカプー・ジュニア(SAMKAPU)

ハワイ生まれ。父親がハワイコールズで歌っていた関係で
幼少の頃から歌っていた。その後父親は肺がんで死去。
ドン・ホー亡き後、後継者としてステージに立っている。
特に日本調の演歌に興味を持ち「ちょっと待って下さい」
「ここに幸あり」などヒット曲が多い。

ホレホレ節・・・アリソン・アラカワ

ホレホレ節は、ハワイで日本人が作った唯一の民謡。
1885年に始まったハワイへの移民は官約移民と呼ばれ、1924年まで
西日本出身者を中心に約22万人がハワイへ渡った。
官約移民たちの労働は過酷で、炎暑のサトウキビ畑で働いた。
重労働の中、命を繋ぐ思いで、おのおのの出身地の民謡など耳なじんだ調べを
口ずさんだ。それが「ホレホレ節」になった。
「ホレホレ」とはハワイ語でサトウキビの枯れ葉をむしる作業のことで、
「ホレホレ」という言葉の口調がよく「ホレホレ節」と名付けられた。
つまり「ホレホレ節」はハワイの日本人一世が生み出した労働歌でもある。
これに目をつけたアメリカのレコード会社が日系人のアリソン・アラカワに
歌わせてヒットさせた。 

白石 信

 昭和7年8月27日、浜松市生まれ。昭和35年、早稲田大学大学院法学
研究科民法専修科卒。高校在学中より、ハワイアンの熱烈なファンとなり、
ウクレレ、スチール・ギターを独習。早大入学と同時に早稲田大学ナレオ・
ハワイアンズに籍を置き、スチール・ギターを担当、またリーダーとして
大学関係のステージを中心に、全国的に演奏活動を展開。昭和37年、母校・
大隈講堂での初リサイタルで、プロに転向。レコーディング、ステージ等で
活躍する。一方、ハワイアン関係のレコードや楽譜、その他の資料のコレク
ションを意欲的に行う、研究家でもある。昭和59年より、ハワイアン・
クラブメタパ・ルームを経営、平成13年より「ココ・ミュージック・
スタジオ」として新発足させ、スチール・ギター、ウクレレ、ハワイアン・
ソング等の個人レッスン・コースも増設。現在、日本ハワイアン音楽協会
常務理事。(写真左端スチールギター) 

アロハポーズ
         
         
「ここハワイでは、人々がお互いに「シャカ」サインで挨拶を交わすのをよく見かけます。
シャカを作るには、こぶしを作り、親指と小指だけを広げるのです。腕を伸ばしその手を
外側に向け、メjモの字を書いてみて下さい。それで、あなたもハワイアンスタイルのコミ
ニュケーションが出来ます。
シャカサインの実際の起源については諸説があります。一つ目の説はシャカサインの起源
が1930年代に砂糖プランテーションの列車従業員であったハマナ・カリリさんにあるとい
うものです。
彼は砂糖製粉機の事故で真中の3本の指を失ったのでした。列車が人の住んでいる様々な
地域を通る時、カリリさんは親指と小指を伸ばしてよく手を振ったのでした。
もうひとつの説は、ある少年が3本の指を失った父のまねをしたというものです。少年は、
その手の振り方を近所での挨拶に使い、それがハワイ中に広まりました。
起源はどうあれ、シャカサインは挨拶したり、微笑んだり、親しみのある第一印象を生み
出すためのハワイ独特のやり方です。

美空ひばりのウクレレ弾き語り

昭和22年10歳の時に当時珍しかったウクレレを弾いて歌った。
当時ウクレレは高価で市民には手が届かない楽器であった。
それだけに観衆は喜こんだと言う。

榎本健一(エノケン)のウクレレ披露

昭和10年映画で「月光値千金」をウクレレを弾きながら歌い、評判となる。

ダニー飯田&パラダイスキング

ダニー飯田とパラダイスキングは、1950年代後半から1990年代末まで活動した
ハワイアンバンド。リーダーはダニー飯田(飯田紘久)。
ダニー飯田が1999年に腎不全のため死去(享年65)。
スチールギターは10弦のペダルスチールを使用。
ヴォーカルとしては九重佑三子、坂本九、石川進、水原弘が担当した。