みなさん、大相撲の元関脇「高登」を知っていますか。?
「さぁーて、そんな名のお相撲さんいたっけ…」。
首を傾げる人も多いかも知れません。
だって「高登」は、戦前の相撲界で活躍した、力士だからです。
祖父のいとこ≠ノあたる「高登」は、わが家にとっても尊敬する人物です。
少し彼のあしあと≠書いてみます。
高砂浦五郎親方が一目惚れ!
「高登(たかのぼり)渉(わたる)(引退後は大山親方)」は、1908(明治41)年、東京都で誕生。
幼いとき父親を亡くし、伯父の家(長野県喬木村)に引き取られます。
大柄な体格に成長した、本名・渉青年は、まわりから「力持ち」と、いわれるようになります。
広範囲規模で開かれた、自転車競技大会…。
みごと優勝し、運動神経の鋭さも証明させました。
ちょうど、この地に巡業で来ていた高砂親方(3代目)にも、渉青年の活躍が耳に入ります。
「よい弟子になる。間違いなし!」。
即、将来を見込まれスカウト≠ウれました。

異名は、インテリ力士!
序ノ口から勝ち越しを重ねる「高登」に、親方や故郷の人たちから期待が集まります。
当時、お相撲さんの学歴は小卒(小学校しか出ていない)≠ェ、大半でした。
進学し、農業学校を出ていた「高登」は、親方の秘書役(手紙の代筆など)≠煢ハたします。
インテリ(インテリゲンチア)力士≠ニ呼ばれ、その頭脳明晰さは生涯、生かされました。
現役「高登」の思い出を、当時、物心がついたばかりだった父は、こう話します。
「寄り切りで高登≠フ勝ち!」。
地区でラジオがある家が、数件だった昭和初期。
わが家には、隣・近所の人が駆けつけ、実況放送に耳を傾けたそうです。
「高登」の勝利が伝わると、ラジオを取り囲んだ人々から、歓声と拍手がわき起こったのです。
最も充実していたころの「高登」は、身長・188p、体重・120s。典型的な四つ相撲、正攻法の取り口が、持ち味だったのです。

仲間の反旗、協会再建に努める!
スムーズに幕内へと駆けのぼり、小結、そして関脇に到達した「高登」…。
「信州出身、大関・雷電為右衛門(江戸時代のお相撲さん)の再来か!」とまでいわれる、評価を受けます。
では、大関の座を手中にできなかったのは、なぜ?…。
昭和10年5月場所、対関脇・新海戦で、ひざを負傷。相手は「タコ足」という武器≠フ持ち主です。
「高登」が、新海を寄り切るところで、得意の足技をかけられ、ひざ下の骨が飛び出る重傷を負ってしまいます。
さらに胃腸病での休場や、相撲協会を襲った「春秋園事件」が、大関への昇進を妨げたといえます。
地位(昇進)では、巡り合わせが悪かった「高登」でした。
しかし、親方を支え、頭の切れ、知恵を生かして、相撲協会の再建に努力した、貢献者でもあったのです。
(幕内通算20場所 106勝 94敗 28休)
(【春秋園事件】…待遇などで不満を持った、多数の力士たちが相撲協会を脱退する。彼らが集まった場所が、東京・大井町の料亭「春秋園」だったことから、名づけられた)

親思い、故郷を愛す相撲人=I
「高登」は、故郷への愛着を持ち、人づき合いを大切にしました。
それは力士時代、親方になっても変わりませんでした。
エピソードを一つ…。
伯父(育ての親)の病気見舞いで帰省したとき、蓄音機とレコードを土産に持っていきます。
スピーカーから流れてきたのは「東京音頭」で「高登」は、歌に合わせて踊りはじめます。
まわりの人や、病床の伯父は大喜び。
大きな拍手が、わき起こりました。
昭和30年前半、地区祭りの際、地元青年団による相撲大会がありました。
これを知った大山親方(元高登)は、優勝杯を寄贈したのです。
「人前で裸になり、相撲をとるなんてイヤだ!」。
団員からの苦情は、優勝カップという贈り物≠ェあって、吹っ飛んでしまいます。
毎回、相撲大会は盛会裏でした。
(これは当時、団長を務めいていた(筆者の)父が、大山親方に手紙を出したことで、実現したお話です)
隣地区奉納相撲大会の際、帰郷した「高登」(中央)
左側は祖父。
先妻との結婚記念写真(昭和14年)
大山部屋の経営に尽力するが、戦災で妻と子に先立たれた。
「松登」「伊那登」を育てる!
昭和14年5月場所で「高登」は、12年間の土俵生活に終止符を打ちます。
大相撲の発展に尽くそうと、年寄「大山」を襲名、部屋の運営から協会役員の任務を果たしていきます。
元大関「松登」、幕下筆頭まであがった「伊那登」らの、弟子を育てました。
土俵下での勝負検査役は、足かけ17年続け、大鵬や柏戸の相撲にも目を光らせたのです。
「口にあめ玉を含んでしゃべるような、訥々(とつとつ)とした調子。ときには、英語が飛び出すことも…」
NHKがラジオ・テレビの実況で、現役時代、活躍した親方(名力士)を解説者とするようになったのは、昭和28年。
スタート時から、大山親方が放送席に座ります。
飾り気のない解説は、相撲ファンに愛され、ものまねに登場する人気ぶりでした。
幼いころの父が「高登」関に抱かれたスナップ。父は怖がり、逃げ回っていたそうだ。
ひざの負傷で里帰りしたとき(昭和10年)
優勝カップを前に、大山親方と地区青年団のみなさん。
親方の右隣が父。(昭和30年ころ)
愛弟子、家庭を大切にした親方!
将来のことで悩んでいた、友人の娘さんを、親方が大山部屋に誘いました。
裸のお相撲さんに囲まれて、食事を摂る
恥ずかしさや力士の稽古に励む一面が、新鮮に感じたのでしょう。
元気を取り戻しはじめた彼女に、親方が小声で言いました。
「和ちゃん、お相撲さんのお嫁さんにならないかい?」。
この一言に、彼女は「戦災で最初の奥様とともに失った、幼い娘さんの面影を、私に託したのかもしれません…」と、親方の心境に迫っています。
その悲しみを乗り越え、新しい家庭では、2人の息子さんをかわいがりました。
息子さんも「相撲には厳しかったが、よく遊びに連れて行ってくれ、心優しい親父だった」と、回想しています。
部屋の愛弟子、家庭をも大切にしていたことがうかがえます。
1962年(昭和37年1月)、初場所中、突然の心臓発作で、親方は天へ旅立ってしまいました。
53歳の若さでした。

でっかい夢と、勇気を!
「心身とも、絶好のコンディションを保つ…」。
スポーツ界では、重要視される一つです。
それを当事者(選手)は、心がけているにもかかわらず、ベストを尽くせないときがあります。
けが・プレッシャーなどが、要因となるのでしょう。
ひざを痛めてしまった「高登」も、例外ではありません。
ある誌上に「不運と取っ組む」のタイトルで、本人が心境を書き記しています。
「(中略)相撲を取らぬ力士の心中もお察しください。四股も踏まずに取り残されていく情けなさを耐(こら)へるのは、肉体の欠陥を押して相撲を取る以上に、勇気が要(い)ります」(原文)
この一文に触れ、一人の人間、渉さんを見た思いがします。
小・中学校からのお呼びで、駄弁(障害と向き合っての体験談)を披露した経験のある筆者。
現地までは改造自動車、1本の杖をつきながら演台へ…。
会場の温度に関係なく、分かりづらい言葉で話しはじめてから1時間後には、サウナ風呂から出たのと同じような、汗びっしょりになってしまいます。
それは「土俵上で勝負を争う、お相撲さんのパワーに迫るかな…」って、自負してしまうのです。
幕内上位に外国人力士が肩を並べる、平成の大相撲。
戦前、地域の期待のもと、相撲人生に挑んだ渉青年は、多くの子どもたちに語りかけるでしょう。
「でっかい夢と、勇気を持ってください!」と…。

(【おことわり】読みやすくするため、句読点ごとに改行しました)
参考図書「名力士高登・元関脇その生涯」中日新聞飯田ホームニュース編
(掲載写真は、わが家で保管してあるものです。無断転載禁止)
「高登」が祖父に贈った、高砂部屋力士の寄せ書き。
前田山(のち高砂親方)は、ハワイ出身の高見山を育て、大相撲の国際化に貢献する。

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