点数 01・満貫点



 30符四翻7700点を8000点(栄和)、2000・3900を2000 ・4000(自模)とするルールが普及していますが、これはどのような経緯で発生したのでしょうか。

  昔の麻雀は精算法という方式で計算されていました。これは連底(基本点)が24点であれば24点、28点であれば28点とし、それを翻数分キッチリ累乗計算していました。

 ところがこれでは面倒だといので、24点は24点、28点は28点ですが、累乗計算の終わった後の点数(実際の得点)を四捨六入して精算するようになりました。
*この計算では、24点一翻は200点、28点一翻は240点となります。

 ところが戦後、立直麻雀の時代になりますと、四捨六入でもまだるっこしいと云うので、連底の一の位を十位に、得点の十の位を百位に切り上げるようになりました。これは端数を2段階で切り上げるのでダブル切り上げしきと呼ばれ、これが現在の一般的な計算法となっています。

 しかしこのダブル切り上げ式計算法でも30符四翻(プラス場ゾロ)の栄和は7700点、摸和は2000・3900(合計7900点)となります。これは四〇符四翻の栄和8000点、摸和の2000/4000(合計8000)とほとんど変わりません。

 そこで「ダブル切り上げ式では、本来22符四翻で5700点になるものでも7700点としているくらいなんだから、こんなところで100点ケチっても仕方がない」というところから、30符四翻(プラス場ゾロ)を8000点とする計算法が普及してきたのです。

 この計算法は、端数を3段階で切り上げるのでトリプル切り上げ式、あるいはオール切り上げ式と通称されます。

 7700を8000とするのは、満貫が8000点だからということですが、では満貫はなぜ8000点なのでしょうか。推測するに7700という点数と関係がありそうですが、どうなのでしょうか。

  7700という点数は、「満貫点の近似値」というだけであって、「それがあったから満貫点が8000点と決まった」わけではありません。

 満貫とは「貫(お金)が満(みつ)る」の意です。中国古典麻雀においては「符底の20倍が満貫点の基準であった」と言われます(榛原茂樹氏)。しかしまた「清一色の最高額が標準」との説もあります(木村衛氏)。

 どちらにも一理ありますが、この辺りの詳細は割愛するとして、取り敢えず清麻雀成立当初の満貫点から話しを進めます。

 中国古典麻雀での満貫点は800点でした。当時の符底は10符でしたから、榛原説に従えば10符×20=200点(一人分)というわけです。
※幺二式ですから合計点は200点×4で800点となります。
※木村説でも、結果的に満貫点は八〇〇点前後になります。

 後に符底が20符になり、満貫も20符×20=400点(合計は400点×4で1600点)となりました。その後、符底の増加(40符、または60符)や、符底の20倍という原則が崩れたりして満貫点もインフレ化しました。

 日本伝来当時、満貫点は300点(一人分。以下同)が主流でしたが、400点、500点方式なども採用されていました。昭和五年、東京の各地に乱立していた麻雀団体が合同に向けてルールの統一会議を開きました。このとき満貫点についても審議され、結的に500点で決着しました。以後、今日に至るまで日雀連は満貫500点(合計2000点)で行っています。

 第二次大戦前は一般麻雀も日雀連ルールで行われていましたが、戦後は立直・ドラ・両ゾロ麻雀が盛んとなりました。そこで満貫500点(合計2000点)に場ゾロ分が累乗され、満貫は2000点(合計8000点。親は五割増しで12000点)となったわけです。
 

 近麻ゴールド5月号の『53年目の王』に中国ルールの麻雀役が出てきますが、その中に倍満相当とか役満相当という役が出てきます。

 昔の(たぶんアルシーアルだと思う)麻雀の本を見たら、満貫以上が一切触れられていなかったので、私は昔の麻雀(中国麻雀も)は満貫打ち切りだったと思ってました。

 そこで質問ですが、満貫より上(倍満、4倍満など)は中国ルールに存在するのでしょうか?

 ご質問の通り、昔の麻雀(中国麻雀も)は満貫打ち切りです。満貫は「貫が満つる=ガソリンでいえば満タン」という意味、英語でもリミットハンド(限界の手)といいます。限界の点数なのですから、中国麻雀に満貫より上の跳ね満、倍満、4倍満などは存在しませんでした。

 しかし日本では戦後、一般麻雀はインフレ化し、満貫も跳ね満、倍満、三倍満などの種類が生じ今日に至っているのです。

※あの漫画は珍奇役をネタにしたギャグ漫画ですから、真剣に考えないほうがいいですね。

 ついでながら現在の中国麻雀は、一翻・二翻〜満貫ではなく、*役は何点、○役は何点というふうに役の一つ一つに点数が決まっていて、アガッたときは、その点数を合計したものが得点となる方式となっています。

 満貫がリミットであるにもかかわらず、日本でハネ満、倍満が登場した経緯、またその時期などを教えて下さい。

 経緯を一言で言いますと、インフレが進んだ結果、ただの満貫だけでは物足りなくなったのでそうなった、と言うことになります。

 満貫に初めて段階が出来たのは第2次大戦後、立直麻雀が普及し始めてからのことです。敗戦の混乱が少し落ち着き、人がまた娯楽に目を向け始めた昭和22,3年頃、いわゆる阿佐田哲也の麻雀放浪記の時代です。

 四翻満貫(いまふうの言い方で言えば「数え満貫」)とは別に、役満貫は五割増しというルールがはやり出しました。「それは面白い」というのでどんどん普及し、昭和27年に作られた「報知ルール」にも採用されました。

 いったん認知されれば、あとは前へ進むだけ.....「五割増しがあれば十割増しがあってもいいだべさ」、「十割増しがあるなら二十割増しがあってもいいだべさ」とドンドン進んで行きました。

 そしておおよそ昭和30年台中頃には「八翻五割り増し(跳ね満貫)、十翻十割増し(倍満)、役満貫二十割増し(三倍満)」となりました。そして昭和40年台中頃からだったでしょうか、十三翻を二十割増し(三倍満)とするルールがボツボツ登場しました(とうぜん役満貫は三十割増し(四倍満)にアップです)。

 あとはそこへ十五翻で数え役満というルールが加わって現在に至るという感じです。*もちろん普及については地域差やら、グループ差などがあります。