その他 49・むかしの学生


愛犬 投稿日:2007/07/03(Tue)

 こんにちは。
 昔、大卒サラリーマンの初任給が1万円や2万円だった時代にも、 学生は点5で打ち、大人はピンで打っていたと何かで読みました。 1ヶ月の収入は1万円しかないのに、ピンなんかで打ったら下手すると半荘数回でパンクですよね。
 ウマのつけ方が違っていたとも書かれていましたが、例えウマなしでも箱ラスだと点5で1500円、ピンで3000円です。勝つ人の数だけ負ける人がいるわけで、負けた人はどうやって生活していたのでしょうか。

あさみ 投稿日:2007/07/04(Wed)

 こんにちわ、愛犬さん
 他の人のことは分かりませんが、σ(-_-)の場合はこんな感じでした。
 ピンとかで負けが大きくなると(1万とか2万とか)、とても払えないので月末精算。月末に仕送りが届くと(下宿代コミで数万円のレベル)、まず下宿代を払う。次に負け分を精算。運良く金が残っていれば、晩酌をやってチャラ。それから、(さぁこれから1カ月、どうやって暮らそう)と考える(笑)
#質屋へ行ったり、友達の下宿に転がり込んだり、最後の最後は電報を打ったり(カネオクレタノム)....

 では勝ったときは“ 一ト月 大名生活 ”と思うのは大間違い。どういうわけか受け取った数日後には、いつも文無し。(笑)

という生活をしていました....(ノд`)
 

愛犬 投稿日:2007/07/06(Fri)

こんにちは、お返事ありがとうございます。
ピンでも1ヶ月の負けが大きくて1万円や2万円で済んでいたのですか。
点数計算方法が現在と違っていたのは想像できるのですが、実際に半荘1回で動く金額はどれくらいだったんでしょうか?
くだらない質問ですが、よろしくお願いします。

あさみ 投稿日:2007/07/06(Fri)

 ども、愛犬さん
 前にコメントしたような生活をしていたのは間違いないのですが、よく思い出してみたらピンのときはその場で精算していました。

 ピンは3年になってから(1966年くらいになるのかな?)打つようになったのですが、あくまで普段のレートは5。で なにかの拍子にマケが込むと(1,2万円)、月末精算。
 点数計算法は現在とまったく同じ(2万7千持ち。まだ2万5千持ちではなかった)。ただ赤ドラが無いだけ。“一発 ”も、言葉としてはありましたが、役ではありませんでした(「お、一発やんけ」と云っていただけ)。

 たしかにピンでは大マケすると一晩で1,2万円いってしまいますが、ピンは数カ月に一度くらい。どうしてそんな金があったのかまったく思い出せませんが、たぶん前月に借金が無く、仕送りが丸々使える状態だったのでしょう。(^-^; いずれにしても精算できる金を持っているときしかピンで打っていませんでした。
水道橋界隈での話です。

愛犬 投稿日:2007/07/11(Wed)

こんばんは、お礼が遅くなってしまって申し訳ありません。
丁寧に答えていただきありがとうございます。
ともうひとつお聞きしたいんですが、当時は手積みでやっていたんですよね?
その際、やっぱり山は記憶して打っていましたか?
フリーは積み込みなどのイカサマをする人ばかりだったんですか?
よろしくお願いします。

あさみ 投稿日:2007/07/12(Thu)
ども、愛犬さん

>その際、やっぱり山は記憶して打っていましたか?

 これも 当時の学生がみんなそうであったかということではなく、あくまでσ(-_-)の個人的な話になりますが。

 記憶をたどってみますと、それは “ そのときによって ” という感じだったと思います。
 る以上、ましてや金がかかっているとなれば勝ちたいのは当然ですよね。しかし所詮は“学生の遊び”なので、毎日 毎回 勝つために目の色変えて、ということはありません。
 “始める前はヤりたい一心、始まってしまえば ただ夢中”というだけで、いちいち“山を記憶して”などという意識はありませんでした。しかし特に勝ち負けにこだわる状況になったときとか、飯田橋やお茶の水など 他の学生街に遠征に出かけたときなどには、洗牌の時点から眼光が鋭くなっていたかも知れません。(^-^;
>フリーは積み込みなどのイカサマをする人ばかりだったんですか?

たしかに、なかにはそんな人もいたようで....しかし“ばかり”ではなく、“数あるプレーヤーの中には、良からぬ人もいた”という程度だたと思います。(^-^;
※当時はセット雀荘ばかりで、現在のようなフリー雀荘はありませんでした(ブー系の店は別)。ただしセット雀荘の常連同士がフリー客状態になっていた、というのが普通でしたが。