その他 32・牌活字


 JETRUG  日付:2002/12/15(Sun)

 今、大学の卒論で阿佐田哲也について書いていてここを参考にさせていただいております。

 麻雀文学の歴史を考える上で、フォントの牌活字が最初に使われたのはいつかを知りたいのですが、誰(どこの出版社)が最初なのでしょうか?


あさみ    日付:2002/12/15(Sun)

 麻雀文学というからには、入門書とか戦術書ではなく「麻雀小説」ということになるのかしらん。
 と言うことになると、戦後の寺内大吉か五味康祐、あるいは阿佐田哲也あたりということになるけれど実は確答できない....(__;

 というのは、確認するためには関係の小説に一通り目を通さなければいけないけれど、実は麻雀小説類などを手元に置いてない。そこで確認できないというわけ。

 そして今のところ置いてあるところへ出掛ける予定も特にないので、すぐには確答できないというわけです。あしからずご容赦。m(__)m

#入門書・戦術書でも良いというのであれば、昭和5年9/30・四六書院発行の「麻雀通」(川崎備寛)と思います。

 そして同じ四六書院から、昭和5年11/20に林茂光の不朽の名著「麻雀競技法とその秘訣」が刊行されています。これにも同じ牌活字が使われています。きっと四六書院が牌活字を製造したんでしょうね。


JETRUG
   日付:2002/12/15(Sun)

ありがとうございました。

 卒論の内容は文学ですが、出版物として最初に使ったものを知りたかったので大変参考になりました。小説の方は僕も寺内大吉、五味康祐、阿佐田哲也あたりを考えたのですがすべての資料を閲覧する時間ももうありませんで(^_^; (本当はちゃんと調べないといけないのでしょうが・・・)

 昭和5年発行の「麻雀通」で最初に牌活字が使われたというのにはちょっと驚きました。そんなに早くからあったんですね。

 でもここの小説リストを参考にさせていただくと寺内、五味、阿佐田あたりって昭和40年代頃からの作家ですよね?ならなぜもっと早く麻雀小説にも取り入れられなかったのでしょう??


ふっちー 日付:2002/12/16(Mon)

 昔の印刷はハンコ状の活字を使って行われていました。
 ひとつずつ活字を拾って組み合わせてでっかいハンコを作り、そこにインクをつけて印刷するわけです。活版印刷といいます。

 となると、元になる活字がないとお話になりません。たとえば、原稿にサンスクリット語の文字を入れたいと思っても、サンスクリット語の活字を持っていない印刷屋ではどうにもならなかったのです。

 各印刷屋はそれぞれ得意分野を持っており、どんな活字をそろえているのかも印刷屋の売りでした。つまり、昭和初期に早くも技術としての牌活字が存在してはいても、それはその印刷屋の大事な商売道具として手作業で作られたものであって、公共的な存在ではなかったわけです。

 現在では、活字はフォントとしてデータになっていますから、ある程度は流通していますし、版権などを押さえていたとしても、データは簡単にコピーできますから自然と広まっていきます。つまり牌活字公共時代に入っているといえますが、それでも、牌を扱った経験のないデザイナーに、牌フォントを提供することはぼく自身よくあることです。

 6年ほど前に3号で終了した「ヤング麻雀」という漫画誌がありました。その雑誌に「麻雀小説ものがたり」という連載があって、阿佐田さんが麻雀小説を書いた事情が扱われています。以下は大雑把なあらすじです。

 そのころの麻雀小説は、麻雀に詳しい人に依頼するというよりも、小説家として腕の確かな人に依頼するもので、無名の阿佐田さんは当初のラインナップに入ってなかったそうです。

 しかし、ある小説家が原稿を落としたため、阿佐田さんに三日で代原を書いてもらうことになりました。できあがった小説はすばらしいできばえ。と、そのとき、途方にくれる編集者。牌活字がないのです。

 それまでの麻雀小説は、つまるところ麻雀シーンをうまく使った小説であり、文芸雑誌のマイナー企画でしかなかったため、[二筒]といった表記ですましていました。しかし阿佐田さんの短編は、麻雀シーン自体がストーリーの根底にあるため、牌活字を使わないとその迫力は出ないと編集者は悩むのです。

 麻雀牌を直接コピーしても、輪郭線がぼやけてしまい実用に耐えません。そこで、ちょうど印刷所で徹夜していたカット描きをつかまえて、その人に麻雀牌の絵を細緻に描いてもらい、それを版下に使って活字を作ります。こうして「天和の職人」が誕生したのでした。

 と、こんな具合ですね。
 つまりひと言でいうなら、双葉社(と印刷会社)が牌活字を持っていなかった、という理由ではないかと思います。


 JETRUG 日付:2002/12/16(Mon)

 ふっちーさん、こんな夜中に本当にありがとうございます。
 しかもエピソードつきで解説していただき大変参考になりました。

 原稿を落とした人がいたので阿佐田哲也が頼まれたという話は知っていたのですが、まさか裏にこんな話まであったとは驚きです。となると、牌活字を最初に使った小説は「天和の職人」であり、双葉社(と印刷会社)の「週刊大衆」だったと考えてよさそうですね。

 ネットで調べていても麻雀理論のサイトばっかりで、文学へのアプローチがあまりみつからなかったので こういう形で教えていただけてとても嬉しく思います。(いろんなところへ飛んでみてもやっぱりこの浅見さんのサイトの一部だったりしました(笑))


 ふっちー 日付:2002/12/16(Mon) 05:59

>双葉社が最初

まあ絶対とはいえませんけどねえ。

 昭和5年5月には、讀賣新聞が「日華麻雀争覇戦」と題して牌譜の連載を始めていますから、牌活字の存在は広く知られていたわけです。しかし菊池寛や里見トンはどうやら作中で牌活字を使っていないようです(未確認)。

 また昭和28年に出された、ある雑誌の臨時増刊号「麻雀読本」には、戦術系のページでは牌活字がふんだんに使われながら、同誌掲載の短編小説では「イーソー」と表記されています。

 思うに、小説家をとりまく環境は特殊な閉鎖世界であって、何事も文字と文章で表すことに意地と誇りを持っていたのではないでしょうか。

 ですから、本文中に牌活字を入れることには抵抗があり、そういった感性をドライに処理するには年月が必要だったのかもしれません。

 ちなみに、大正14年初版の「第二の接吻」(菊池寛)には、「赤と青のうづまきをたった一つかいた牌」と書かれており、一筒という表記すら大きな前進だったのだと感じさせてくれます。


 あさみ    日付:2002/12/16(Mon)

>菊池寛や里見トンはどうやら作中で牌活字を使っていないようです(未確認)。

確認済み(^-^)