歴史 23・競技麻雀の歴史


 本場の中国にさえ存在しない競技としての麻雀が どういう経緯で日本に生まれたのでしょうか。


麻雀は大正10年前後に伝来し、昭和に入ると大流行したのですが、早くも昭和4年にはアマチュア麻雀団体である日本麻雀連盟が結成され、ノーレートの競技麻雀が始まりました。

 しかし中国ルールそのままでは、競技性も低かったので、ルールがドンドン整備されてゆきました。まだまだ不十分とはいえ、その整備によって、ノーレートでも十分楽しめるレベルとなりました。今日、ノーレートであっても麻雀が楽しめるのは、ひとえにそれらの先人のおかげです。


 中国ルールが日本でどのように変化して競技性を増していったのでしょうか。


 麻雀が日本へ伝来しますと「面白いゲームだ」というので、たちまち大流行しました。しかし中国各地からの帰国者が、それぞれの地方で覚えたルールをそれぞれに紹介するので、一般の人には何が何だか?・・・という状態になりました。そんな中に「賭け」が存在するので、結構、トラブルもおきたようです。

 そこで「こんなに面白いゲームであるから賭けなくても十分面白い」という先人が集まり、麻雀団体を結成しました。そじてノーレート麻雀の普及とルールの統一に乗り出したのです。しかしノーレートはいいとしても、やはり励みはあったほうがいいに決まっています。そこで囲碁将棋にならい、成績に応じて段位を発行しました。

 さて中国ルールといっても中国各地で異なります。そこで最初はそれを統一・整備するところから始まりました。そして当時、採用されていたルールで現在と大きく異なるのは、次のような点です。

1)サイド計算があった。
2)常に3人払いであった(放銃でも)。
3)四翻満貫で打ち切りであった。
4)リーチ・ドラはなかった。
5)門前加符(10符)はなかった。
6)振り聴はなかった(1筒を切って、すぐ下家の切った1筒でロンアガリできた)
7)三色(サンシキ)、一般高(iイーペーコー)、純全(ジュンチャン)などがなかった。
8)一翻縛りはなかった(勿論、両縛も)=無翻でもアガれた(得点が安かっただけ)。
9)聴牌料はなかった。


 まだいろいろあったような気がしますが、いまパッと思い出すのはとりあえずこれくらい。それが徐々に変化し、つには日本独特の形になりました。この日本的に変化した部分で、新役の追加とか点数のインフレ化という点はさておいて、劇的に転換したのはゲームの質です。

 すなわち中国麻雀は常に3人払いというルールでも分かる通り、基本的に4人融合型のゲームでした。それが放銃1人払いになる事によって4人対決型のゲームに変化したのです。

 もちろん当時の日本人が「ゲームの質を変えてやろう」となどと思って始めたことではありません。「あいつが放銃したのに、どうして俺まで払わなければいけないんだ」、「お前がいま捨てたばっかりの牌なのに、どうして俺の牌で当たるんだ」という単純発想から変化してきただけと思われます。

 中国では長年そういうルールで行われてきたのに日本では伝来してまもなく変化してしまったのですから、これは国民性でしょうか。いずれにせよ、その大きな変化で、競技的性質が非常に高まり、今日に至っているのです。