歴史 07・立直の歴史


 途中立直は中国のローカルルールだという記事を読んだことがあるのですが、本当でしょうか。

 途中立直は中国のローカルルールどころか、完璧な日本製です。

 中国の北方麻雀には、日本では「ダブル立直」と呼ばれる第一打牌での立直が、ローカルルールとして存在していました。しかし途中立直は存在していませんでした。

 その途中立直は、昭和の初期、中国の東北地方(満州)にいた日本人(たぶん関東軍の軍人、それも士官クラス?)が、その第一打牌での立直からの連想で考案したという説と、それとは関係なく日本国内で考案されたものではないかという説があります。どちらが正しいのか判然としませんが、どうやら満州説が有力なようです。

 しかしいずれにしてもこのダブル立直が元になっていることと、その成立に日本人が大きく関与していることは間違いないようです。

 立直はどのようにして日本で普及していったのでしょうか。

 麻雀は大正十年頃、本格的に日本に伝来しましたが、昭和五年頃までは中国麻雀と同じルールで行われていました。しかし昭和六年頃になると一般麻雀の中より独自のルールが生まれ、日本的麻雀へ変化してゆきました。

  その中で「(途中立直は)すでに昭和七〜八年頃、京都で行われていた」(三島康夫「途中立直の起源」[日雀連機関紙「麻雀タイムズ」第10号])と言われます。問題はこのとき京都で行われていた途中立直が、満州で誕生したものが昭和五,六年に伝来したものか、そのころ国内で考案されたものかということですが、この辺りは判然としません。

 いずれにせよ、おそらく中国麻雀の「第1打牌で聴牌宣言」というルールの存在を知った誰かがこれを誤解したか応用して採用し、普及していったと思われます。
*当時は単に「聴牌したぞっ」とか、「何か捨てるとあがるぞ」というような表現をしていたと思われます。

 そして昭和十五年頃、満州在住の日本人間では、この途中段階による聴牌宣言ルールが広まっていました。このときはまだ「立直」ではなく、「新體制!*1」とか「東亜!」と宣言されていたといいます。更には現在の立直一発に相当するものを「大東亜*2」と呼称していたといいます。

*1「麻雀スピード上達法」杉浦末郎[昭和二九年・大阪屋号書店]、
  「麻雀・語源と歴史に強くなろう(昭和四九年・平凡社「Oh!」四月号
*2「南は北か」手塚晴夫(平成元年・日雀連)。


 当時、日本は日中戦争のさなかで、挙国一致を強く押し進めていました。この挙国一致体勢は、当時「新體制」と呼ばれていました。そこで「聴牌という新しい體制」との掛け言葉のニュアンスを含め、「新體制」と呼んだと思われます。

 「東亜」、または「大東亜」の方は、もちろん「大東亜共栄圏」の意です。とはいえまだこの時点では周辺ルール(宣言用語、手順ノ統一。立直条件)の整備もないマイナーな存在で、手順等も各グループによってマチマチでした。

 このように統一ルールもなく適当に行なわれていた途中立直でしたが、第2次大戦後、一挙に普及しました。しかしまだ「伏せ」などの宣言が用いられていました。たとえば「麻雀(宮崎俊匡・昭和二一年・虹有社刊)]には、「最初の1回り目の場合は『立直』、2巡目以降は『伏せ』と宣言する」とあります。

 たしかに一般では途中立はすでに立直と呼称されていましたが、これでは本来の立直(日本でいうW立直)と区別がつきません。そこで途中立直の方には「伏せ」を用いたと思われます。しかし一般的には途中立直も単に「立直」と呼ばれるようになっていました。そこで、同書も昭和二三年改訂版では、単に「立直」と表記されています。

 戦後、当時の日雀連幹部、天野大三氏はいち早く立直麻雀の将来性を看破し、昭和二七年十二月、報知新聞の要請により日本最初の立直麻雀ルール「報知ルール」を発表しました。

 この報知ルールは現在から見ればまだ戦前の二十二麻雀色の濃いルールでしたが、宣言牌の横置きの他、振り聴、見逃しと立直の関係など周辺ルールはかなり整備されたものでした。これ以後幾多の改定を繰り返しながら今日に至っています。