歴史 06・サイド計算の歴史



 昔の麻雀にはサイド計算というのがあったそうですが、これはどういうものだったのでしょうか。

 これは、アガリ点の精算終了後、今度はアガらなかった3人の間で、自分の手牌の状況によって点数の精算を行うルールです。

 たとえば平和(ピンフ)のみをBからロンアガリした場合、Bがにアガリ点を支払ったあと、アガった以外のBCD間で手牌をくらべあい、点数をやりとりするのです。

 するとこのとき、放銃したに暗刻などが多くて手牌の形がいいと、場合によってはアガったより放銃したのほうが高得点となるというおかしな事もありました。

 そのような状況のことを、当時のプレーヤーは「吉原(よしわら)麻雀だ」と表現したそうです(アガらずに儲ける)。


 前項の回答にある「吉原麻雀」って、どういう意味でしょうか。


 吉原とは江戸時代にあった遊郭の名前です。そこの店に入って遊ぶことを「登楼(あが)」といいました。登楼(あが)れば大きな出費がともないます。そこで遊郭を見物しただけで帰ってくることを「登楼(あが)らなかったから儲けたよ(無駄な出費をせずに済んだよ)」と表現していました。

 「サイド計算」ではアガらなかった3人の間で手牌の状況によって点数を授受するルールですが、場合によってはアガった人よりもアガらない人の方が高収入となる状況が発生しました。つまりアガらなかったから儲けたよ、と言う意味で吉原麻雀と呼んだわけです。現在でも1人テンパイの状況が何度か続いてノーテン罰を稼ぐと、こう呼ばれそうです。(笑)

 ついでながら、昔は1人勝ちのことを岐阜芸者と呼んだこともあったそうです。
 これは昔、三円でコロぶ芸者のことを、岐阜で「三コロ芸者」と称したこと、また「岐阜」を「ギフギフ(ぎゅうぎゅう)の目にあわす」という状況に引っかけたものだそうです。


 そうか、ノーテン罰は現代のサイド計算だったのか!・・・・。

 ところでサイド計算って歴史的には古いものなのでしょうか。
 またどうしてサイド計算と呼ばれたのでしょうか。

 残念ながら、いつ頃成立したのか判然としません。しかし1920年にアメリカで出版されたJOSEPH P.BUBCOCK(ジョセフ・P・バブコック)のMAHJONG RULES OF BUBCOCK;THE RED BOOK(MAHJONG COMPANY OF CHAINA(SHANGHAI)には、すでにサイド計算ルールが記されています。

 そこから考えると、1910年から1920年になるまでの間、中をとって1915年くらいに誕生したのかも知れません。ただこのサイド計算そのものは、当時、上海租界に居た欧米人の中から誕生した可能性があります。その理由は、それ以前の中国麻雀にサイド計算のルーツを思わせるルールがどうも見あたらないからです。

 これはまったくの憶測ですが、当時の中国麻雀はロンもツモも3人払いでした。このアガリがあると常に3人がやり取りする状態を欧米人が見ていて、なにかルールかシステムを錯覚したのかも知れません。

 「SIDE」と呼ばれたのは、和了者以外のプレーヤー(サイドプレーヤー)同士の精算、あるいは和了点(MAIN)以外の点数精算、という意味と思われます。

 いずれにしてもサイド計算は上海租界で用いられ、アメリカに伝播しました。そして太平洋航路を通じ、大正末期、アメリカから日本へ伝播しました。日本では、そのまま「サイド」と呼称されたり、訳して「横」と呼ばれていました。しかしあまりにも煩雑な計算法なので、日本では昭和四、五年頃には消滅してしまいました。


総裁 投稿日:2004/12/07(Tue)

>あさみ 投稿日:2004/12/04(Sat)

>ツモしてアガリでなければ1枚打ち出すのは必然ですが、中国古典麻雀では、河底牌取得者がアガリでなかった場合、1枚打ち出さなくて終了というルールが通り相場だったようです。


荒牌の場合サイド計算も無しということでしょうか?そうでなければ海底牌取得者は有利ですね。

関西三麻は役が報知ルールより多い一方、河底投了はありません。海底仕舞の伝統を享けてか、完先との関係なのかは解りませんが…

あさみ 投稿日:2004/12/11(Sat)

 おお、いいところに目がゆきましたね。実はサイドの発祥は、はっきりしていません。
 元祖・麻雀研究家である故・榛原茂樹の「想定寧波規則」によれば、「原始麻雀である寧波ルールに存在していた」とあります。しかし上海租界生まれの後発ルールである可能性が十分あるのです。
 そこでサイドが上海租界生まれの後発ルールであれば、この時代の中国麻雀には、サイドというルールそのものが存在していなかったことになります。