麻雀古書に記された幻の名品
花牌は麻雀一組に四個又は八個付随しています。絵は千差万別で一定したものではありません。しかし必ず絵の中にはその絵に相当した字が一字刻まれています。四個一組で一座といいます。二座ついているものは一座ずつ同じ色の文字になっています。
一座の四字合わせて一句になり、例えば春夏秋冬、梅南竹菊、山間明月、江上清風、琴棋書画、晴耕雨読、あるいは嫦蛾奔月(こうがほんげつ)、天女散花(てんにょさんげ)などという類いのものです。これを使うには文字の順序を覚えねばなりません。例えば春夏秋冬とあれば初めの春より順に荘家、商家、西家、北家の役牌になるのです。これを座花といいます。
(『麻雀競技法』中村徳三郎著/1924年・大連・千山閣書房刊 原文は旧かなづかい)
ロンドンのオークションで発見!
7年前、まだ麻雀博物館が形になっていないときに、この「天女散花牌」を目の前にして涙を流さんばかりに感動した一人の男があった。浅見了。名古屋在住の当代一の麻雀研究家で、熱心な麻雀文化財のコレタターでもある。
彼は麻雀博物館創設の発起人の一人であり、ちょうど打ち合わせで竹書房会長室を訪れたときに、偶然、ロンドンから届いたばかりのこの牌に面会することになった。
「嫦娥奔月、天女散花・・…・この牌が出てきましたか!」
彼はそう言ったきり押し黙り、目を潤ませて僻に見入った。この牌こそが、彼が長年、追い求めていた古牌だったのだ。
冒頭に引用した『麻雀競技法』の花牌の件(くだり)を、彼はそれまで何度目にしていたことか。この本は大正13(1924)年、『支那骨牌・麻雀』(林茂光著・華昌号刊)とともに日本人による初めての麻雀教則本として出版され、日本の麻雀揺藍期に麻雀ファンのバイブルとして読まれた名著である。
そこに紹介されている花牌文言の麻雀古牌を彼は何度も目にし、自分で何組も蒐めていたが、「嫦娥奔月」「天女散花」という花牌の麻雀牌だけはいくら探しても見つからなかった。あまりに出てこないものだから、この牌の存在さえ疑いかけていたのだ。特別に美しい響きをもつ文言であるだけに、著者・中村徳三郎の記述さえ疑わしくなった。中村のつくり書きではないかとまで思った。
その夢にまで見た、浅見にとっては幻の牌ともいうべき物が現実に眼前に出てきたのだから、彼の驚きはいかばかりであったろう。そうして、その牌の言い様のない美しさに彼は息を呑んだ。さらに感激することに、136枚プラス花牌8枚が1牌の欠損も瑕瑾もなく保存されている。
長い時間、言葉を失ったまま牌に見入っていた浅見は、紫檀・浮彫りの見事な細工の箱型牌ケニスをそれこそ宝物を扱うように丁寧に鑑賞し検分した後、ようやく口を開いて竹書房会長の野口恭一郎(麻雀博物館創設者。現・同理事長)に訊いた。
「どこで、この牌が見つかりましたか?」
「ロンドンです。オークションで出てきました」
「はあ....ロンドンですか....」
浅見はそれからまた押し黙り、いつまでも飽くことなく、この美牌に見入りつづけたのである。麻雀の奥まで知り抜いている男だからこそ持つ一段上の感動がその場を包んでいた。
希少花牌がなぜ古書に紹介されたのか
この花牌の文言「嫦娥奔月」「天女散花」は、ともに京劇の女形の一大スター・梅蘭芳(メイランファン(1894−1961))が演じた中国神話に基づく人気演目である。
本名・梅 瀾(メイラン) 字(あざな)・[田宛]華 学名・鶴鳴 芸名・蘭芳
「嫦娥奔月」は晋代(265−420)の『捜神記』(干宝著)に題材を採り、「嫦娥」は「[女亘]娥」とも書かれる。日本の『竹取物語』(かぐや姫)の原典となった月の女神(天女)の話で、梅蘭芳はこの「嫦娥奔月」を1915年10月31日、21歳時に北京吉祥園で初演。このとき初めて京劇舞台でセンター・ビンを使用し、京劇に新しい照明効果をもたらした。
「天女散花」の「散花」は「散華」とも書き、正しくは「さんげ」と読む。菩薩や釈迦の大弟子らが法(真理)を行うときに、天女が降らせた花が大弟子の身体について落ちなかったという、仏典『維摩経』の一節を劇化したもので、梅蘭芳は「天女散花」を1917年、23歳時に初演。ミュージカル風の斬新な演出で京劇界に革命をもたらし、京劇第一人者の地歩を固めるとともに、のちの『覇王別姫』と並ぶ彼の代表作となった。
いま「嫦娥奔月」も「天女散花」も、その言葉は女性の美しい姿態を表す代名詞とも使われ、「嫦娥奔月」は中国で切手になっているし、「天女散花」は中国銘茶の品名や打ち上げ花火の名前にも使われている。日本の横浜・みなとみらいの日本丸パークにはその文言のまま「天女散花」という石像もある。
…そういったことを踏まえたうえで、この牌をじっくり見ていただきたい。
牌の左肩に補数字とイニシャルが入っている(欧米の麻雀牌にはすべてこれがある)ので、海外輸出用につくられたことは間違いないが、それにしても、短時日の間に欧米の麻雀牌はなんという充実をみたことか。
梅蘭芳が「天女散花」を初演したのが1917年で、スタンダード石油の元・福州支配人J・P・パブコックがはじめて麻雀牌を欧米に輸出(入)したのが1919年のこと。本格的に麻雀牌輸出が始まったのは1920年になってからだった。
中村徳三郎が『麻雀競技法』を上梓したのが1924年10月で、中村の脱稿時期から推察すると、この牌は1920年初めから24年8月頃までの間に世に出たものと考えられる。パブコック以来何年もしないうちに、欧米の麻雀牌はここまで美しく昇華しているのだ。
それにしても、と私はいま一度思う。中村徳三郎はこの牌の存在をどこで知ったのだろうか。彼はこの牌を実際に見たことがあったのか、なかったのか。
先に触れたように、中村がその本で紹介した他の文言の花牌は麻雀博物館に数多く収蔵されており、量産されたらしいことがわかるのだが、この文言の花牌は他に二つとない。麻雀博士の異名をもつ浅見了でさえ、これまでずっと探しつづけてきてまだ他に見ていないというのだ。
断言できないにしても、この牌は世界唯一無二のものではないか。私が知る限り、現時点ではそうである。その希少の花牌を、中村はなぜ他のものと同じようにポピュラーな例として日本の読者に紹介したのだろうか。
その時代のポピュラーな花牌文言としてなら、「福禄寿喜」だの「漁礁耕読」だの「八仙上寿」だの、他にもっと出回っているものがあるにもかかわらず、彼はわざわざこの二つの文言を選んでいるのだ。
中村は、その原文で「嫦娥奔月」「天女散花」の前に「あるいは」という言葉を挿入して他の文言との列記を避けている。特別にこれも紹介する、というようにもとれる文章で、彼の本意はじつはそこにあったのではないか。
この牌の存在を噂で開いたのか、写真で見たのか、あるいは実物を見たのか。そのことをしるした記録はないので今となっては確かめようもないが、私は、中村がこれを実見したほうに賭けたいと思う。彼はきっとこれをどこかで見たのだ。そしてあまりの美しさに打たれ、これを本に書かざるを得なかったのだ。と、そう思いたい。
肌合いが体温を伝えるような牛棒骨の乳白色の牌身に、精密な彫りと秀麗な彩色が施され、花牌にあでやかな人体の天女と1索に不老長寿の鶴が舞う。天女と1筒の竜、1索の鶴には金箔が施されているが、それも成金趣味のいかにも金ですというのとは違って、さりげない高級感を醸し出している。
この「天女散花牌」に対面するとき、私はいつも感謝に似た気持ちが湧いてくる。それは、麻雀の素晴らしく奥深い歴史・文化に対する一革筆三才としての研がたい思いと、この牌を一牌も損なうことなく大切に扱い保存してくれたおそらくヨーロッパ人であろう麻雀愛好家への、敬意と感謝の思いなのである。〈文中敬称略〉
名木宏之(麻雀博物館運営委員)
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