立直麻雀体系化の最大の功労者。
明治37年(1904)山梨県に生まれた。昭和3年、早稲田大学専門部卒。在学中、民政党機関誌「憲政公論」にて編集のアルバイト。その頃、麻雀に接する。
昭和5年、林茂光麻雀研究所(四谷区舟町(現・新宿区四谷))に参加。沼崎雀歩の「牌姿難問」の出版に携わる。また自身も「麻雀の第一歩(東京朝日新聞)」、「標準規程・麻雀闘牌法(東京朝日新聞・織田収との共著)」を著す。
昭和9年、盟友・織田収の縁で鳥取県米子市に下向。3年在住する間に山陰日々新聞に「マージャンの哲学」を連載。地方新聞に掲載された、はじめての麻雀の記事となった。
昭和12年、草鹿三郎の縁で神戸新聞入社。しかし昭和14年に帰京。東京大空襲のおりには、麻雀書と哲学の本だけを抱えて避難したとのエピソードを残す。
昭和27年、日本最初の立直ルール「報知ルール」制定に関与。同時に立直麻雀団体「日本牌棋院」を創立、総裁に就任する。以後、立直麻雀の体系化、普及に多大な貢献をした。
昭和57年(1982)東京にて死去。享年78才。
著書多数。特に日本牌棋院が総力を挙げた「リーチ麻雀シリーズ(S43・日東書院)」全10巻は、総合書ベストワンとして評価が高い。
また昭和37年発表の段位審査ルールは、中国においてバクチとして誕生した麻雀が競技豊かなゲームへ変貌する可能性を示唆した歴史的ルールとして名を残す。
参考文献・大隈秀夫「立直一代」(竹書房S58.1.15)
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