山田寺跡
(やまだでら)

Contents
1.所在地
2.草創・開基
3.創建時の伽藍配置
4.その後の変遷
5.特記事項
6.現在の境内
7.古寺巡訪MENU

1.所在地

奈良県桜井市山田1258

2.草 創 ・ 開 基

舒明天皇13年(641)  蘇我倉山田石川麻呂が発願した一族の氏寺である。
蘇我倉山田石川麻呂は、蘇我馬子の孫で蘇我蝦夷は叔父、蘇我入鹿とは従兄弟の関係で蘇我一族の有力な豪族の一人である。当時の有力豪族は競って氏寺を建立したが、この山田寺もその一つである。

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3.創建時の伽藍配置

伽藍配置は、下の鳥瞰図の通り講堂が中門に取り付く廻廊の外側にある点が異なるものの、基本的には塔、金堂、講堂が一直線上に並び四天王寺式といえる。
山田寺跡石碑伽藍再現鳥瞰図
山田寺伽藍鳥瞰図
(現地の文化庁作成パネルを撮影)

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4.その後の変遷

  • 奈良、平安時代を通じて栄えたと伝えられているが、平氏が壇ノ浦で滅亡した2年後の文治3年(1187)3月、興福寺の衆徒が当寺院の金銅丈六薬師三尊像を略奪し興福寺東金堂の本尊とするという事件があるなど、この頃には寺勢も相当衰えていたのであろう。
  • そして鎌倉前期の当寺院の様子を記録した古文書には「堂塔・鐘楼・経蔵は遺跡と化している」とあり、この頃には既に廃寺同然となっていたと思われる。
  • 以後、本格的な復興が行われることなく推移し、現在は、無住の小堂が、創建時に講堂があった付近に建っているだけとなっている。

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5.特記事項

(1)山田寺は約14年間工事が中断された
完成までの道程
当寺院は、下記の通り、建立途中で発願者である蘇我倉山田石川麻呂が謀反の疑いをかけられ自害し、約14年間伽藍整備が中断するという紆余曲折を経て、着工からおよそ40年の長期を要して伽藍が完成したという特異な歴史を持っている。
   ・大化4年(648) この頃までに金堂が完成。
   ・大化5年(649) 石川麻呂、蘇我日向の讒言により、一族が当寺院で自害。
   ・天智天皇2年(663) 塔建立に着手。
   ・天武天皇5年(674) 塔完成(五重塔)
   ・天武天皇7年(676) 丈六仏像鋳造開始
   ・天武天皇14年(683) 丈六仏像開眼供養、この頃伽藍全体がほぼ完成したと推定されている。
(2)山田寺建立中断と再開に至る原因
乙巳の変と蘇我倉山田石川麻呂
この寺院建立を発願した蘇我倉山田石川麻呂は、 蘇我氏一族でありながら大化5年(645)6月の「乙巳の変」で 中大兄皇子側に立ち蘇我入鹿謀殺では重要な役割を果たした。変の後、 孝徳天皇が即位し都は難波に遷され、石川麻呂は右大臣に昇進、順風満帆の時を過ごしていた。 (下の蘇我倉山田石川麻呂系図参照)
右大臣蘇我倉山田石川麻呂の自害と山田寺
ところが、4年後の649年突然異母弟である蘇我日向 (下の蘇我倉山田石川麻呂系図参照)によって、石川麻呂は中大兄皇子殺害を企んでいると密告される。これを聞いた孝徳天皇は直ちに兵を難波京にあった石川麻呂の館に差し向けた。石川麻呂は 何とかこの追討軍を躱して大和に逃れ自らが建立した山田寺に入るが追ってきた軍に直ちに寺を包囲されてしまう。これに対して長男の興子(こごし)等は、決戦に及ぶべきだとの意見を述べたが、石川麻呂は自分は天皇の忠臣であるとしてこれを退け、境内で一族全員が自害し果てる。
右大臣蘇我倉山田石川麻呂謀反説の真相?
石川麻呂謀反が事実だったのどうか不明。しかし、自害後に山田寺建立は14年間の中断があったとはいえ天皇家の手で再開された。これが何よりもこの事件の性格を物語っている。即ち、663年に天智天皇となった中大兄皇子が山田寺建立を再開し、さらに壬申の乱を勝利した天武天皇が石川麻呂の霊を祀るために丈六仏像を作らせ、遂に683年には完成させるのである。これらのことから石川麻呂謀反事件の真相は、乙巳の変の後、右大臣となった石川麻呂の勢力拡大を排除したい藤原鎌足らの陰謀ではなかったかとも考えられている。
蘇我倉山田石川麻呂の系図
蘇我倉山田石川麻呂系図
(3)発掘調査で東廻廊が倒れたままの姿で発見される
昭和57年(1982)の発掘調査で東廻廊が倒れたままの姿で発掘され 、現存する古代寺院を含めて最も古い寺院建築様式を伝える貴重な遺構とされ、奈良文化財研究所飛鳥資料館で見ることができる。飛鳥資料館の場所は下の地図のとおり。

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6.現在の境内

山田寺跡小堂

山田寺跡小堂
現在の山田寺の入り口 境内には小堂がある 

山田寺金堂基壇跡

山田寺の塔と金堂基壇址を南から撮影。
手前が塔基壇址、向こう側が金堂基壇址、更に奥の建物の
あるところが現在の境内で講堂跡である。

山田寺塔基壇・金堂基壇跡

塔と金堂基壇址を東側から撮影。
左が塔基壇址、右が金堂基壇址である。 

塔基壇址
山田寺塔基壇跡

金堂基壇址
山田寺金堂基壇跡

基壇の大きさ=幅12.6m×奥行12.6m×高さ1m  基壇の大きさ=幅21.6m×奥行18.2m×高さ1m 

東廻廊礎石
山田寺東回廊礎石

石碑の写真
山田寺回廊発掘時の写真

倒壊した東側廻廊が発掘された場所

石碑に発見当時の写真が載せられていた 

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7.古寺巡訪MENU
 
<更新履歴>2011/5作成 2012/9補記改訂 2016/1補記改訂 2020/11補記改訂 
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