1.所在地 |
奈良県葛城市当麻1263 |
2.宗派 |
浄土宗 真言宗 |
3.草創・開基 |
当麻寺の創建については詳しいことは解っていない。但し「上宮太子拾遺記」と「建久後巡礼記」にある当寺院縁起と本堂、東塔、西塔等の建築物の検証等から、飛鳥時代の有力氏族の一人である当麻氏の氏寺として、天武天皇(672-685)期の末期頃に着工し、順次伽藍が整備されていったのであろうと推定されている。なお創建時の本尊は弥勒菩薩である。
「上宮太子拾遺記」
- 推古20年(611)用明天皇の皇子で聖徳太子の異母弟である麻呂子親王が、聖徳太子の勧めで河内国に万法蔵院を建てた。そして、天武天皇の朱鳥6年(692)麻呂子親王の夢告により、この万法蔵院を現在地に移し、寺号を禅林寺としたのが始まりである
「建久後巡礼記」
- 用明天皇の皇子麻呂子親王の本願とし、天武9年(681)に当麻真人国見が現在地に遷そうとしたが、当地は役優婆塞(えんのうばそく)の領地で、この役優婆塞の本尊である孔雀明王を金堂本尊の弥勒菩薩の身体にこめた、これを始まりとする
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>4.創建時の伽藍配置(特異な伽藍配置) |
- 当寺院は二上山の南麓の傾斜地に建てられている。右の図の南と東が山地で高く仁王門のあるところが最も低い。こうした立地に、金堂、講堂そして東西両塔が南面して建てられている。
- この立地の制約のために、本来あるべき南大門、それに続く中門はなく回廊もないという当時の仏教寺院の伽藍配置としては、大変特異なものである。
- 伽藍配置にその時々の教義に従った厳しい制約を加える仏教寺院が、何故にこのような変則的な伽藍配置とせざるを得ない立地に、敢えて建立されたのかと考えさせられる寺院である。
- この理由として、飛鳥時代以前から二上山は霊山であったことにかかわりがあるのか、それとも当寺院の直ぐ南には難波と大和を結ぶ重要な大道である竹内街道が走っていることから、ある種の軍事的要塞を兼ねる寺院建築であったのか、色々と想像できるが、よくわかっていない。
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5.その後の変遷 |
- 弘仁14年(823)空海が当寺院を訪れ、塔頭寺院中之坊の僧・実弁が空海の弟子となり、以降当寺院は真言宗となったと伝わる
- 平安時代後期の永曆2年(1161)現本堂が増改築され、ほぼ現在の姿となる
- 治承4年(1180)平家の南都攻略により焼き討ちに遭い、本堂と東西両塔を除き灰燼と期す
- 貞応2年(1223)法然の高弟で浄土宗西山派の開祖・証空が「当麻曼荼羅註」10巻を著す
- 嘉禎3年(1237)証空、澄円に当麻曼荼羅を模写させ、長野善光寺に寄進する
- 乾元2年(1303)講堂が上棟され再建が本格化する
- 応安3年(1370)京都知恩院12世・誓阿普観が知恩院の奥の院として往生院を当寺院に建立
- 文禄4年(1595)豊臣秀吉より300石の寺領を与えられる
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6.特記事項 |
(1)宗派の異なる塔頭が併存
- 当寺院は真言宗、浄土宗という異なる宗派が塔頭として併存し、現在の寺院内の宗派別塔頭は真言宗5寺、浄土宗8寺となっている
- そして、真言宗の中心塔頭は,中之坊、浄土宗の中心塔頭は往生院(奥院)である
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中之坊(真言宗) |
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奥院の鐘楼門(浄土宗) |
- その異なる宗派の塔頭が併存する理由は、前述の「その後の変遷」を参照されたい
(2)当麻曼荼羅
- 曼荼羅とは西方浄土の様子を絵に表したもので、当寺院の曼荼羅は、智光曼荼羅(元興寺)、清海曼荼羅(超昇寺)の浄土三曼荼羅の一つである
- 当寺院の曼荼羅は、後述する中将姫伝説に「中将姫が菩薩の力を得て蓮糸で一夜のうちによって織り上げた」とあってよく知られているが、実際は8世紀中の中国で織られたものであるとの説が有力である
(3)中将姫伝説
- 中将姫は右大臣藤原豊成の娘で、7歳の時に生母と死別する
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境内に設置されている蓮池 |
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その池の中央に設置された中将姫像 |
- まもなく豊成は後妻として橘諸兄の娘・照夜を向かえ、姫の継母となった
- 中将姫は和歌・管弦に優れ、容姿も美しく、女帝孝謙天皇が開いた宴席で琴を演奏して孝謙帝からお褒めの言葉を賜るほどであった。継母はこの姫の才色兼備の様子に激しく嫉妬し姫の命まで狙うが、藤原家の家来が姫を匿い難を逃れる
- 24歳の時、その才色兼備故に立后の噂が立つが、姫は俗世の栄耀栄華よりも浄土に憧れ当麻寺に向かうが、当麻寺は当然女人禁制、姫の入山を断った
- しかし、幾日もの間、素足で石の上に立ち、一心に念仏を唱える姫にうたれた住職は入山を許し、出家させ法如の名を授ける
- 26歳のある日、長谷観音の化身である老尼が現れて蓮の茎の糸で曼荼羅を織るようにと告げられる
- そのため姫は、大和や近江、河内から多くの蓮華を集めて蓮糸を紡ぎ、どこからか現れた織り姫(観音の化身)とともに一晩で4m四方もある曼荼羅を織り上げる
- 29歳の時、姫を西方浄土へ迎え入れるために阿弥陀如来と二十五菩薩が現れ、姫は西方浄土に旅立っていく
(4)練供養
- 毎年5月14日(旧暦3月14日)、当麻寺では、この阿弥陀如来、二十五菩薩の来迎と中将姫の西方浄土への旅立ちの様子を、練供養として行われる、一種の宗教劇である
- この練供養は、寺伝によると平安時代の寛弘2年(1005)に源信・寬印によって始められたという1000年を超える歴史があり、国の無形民族文化財指定である
- なお、源信は天台宗僧侶で、日本で初めて極楽浄土思想を説いた「往生要集」を書き、後に盛んとなる法然などの浄土教の基礎を築いたことで知られる
- (5)2018年11月14日 西塔心柱の先端部分から最古級の白鳳期制作の金属製の舎利容器発見されました
- 西塔は、屋根瓦や基壇部分の破損が認められるところから、2016年から解体修復工事が実施されていましたが、その解体工事によって昨年に西塔心柱の先端部分から金属製の舎利容器が発見されました。
それ以降、その制作年代などの検証を行った結果、「最古級の白鳳期制作の金属製の舎利容器である」と確実視されると、奈良国立博物館が発表しました。
その内容については、下記を参照してください。(2018/11/14追記)
<2018年11月14日水曜日「毎日新聞」デジタル毎日 20時30分>の記事
三重塔の舎利容器 最古級の白鳳時代制作と判明
奈良県葛城市の当麻寺(たいまでら)にある国宝の三重塔・西塔(高さ約25メートル)の先端に納められていた舎利容器が、白鳳時代(7世紀後半)の制作で、舎利容器としては国内最古級だったことが分かった。14日、奈良国立博物館や県教委が発表した。金、銀、銅の三重の容器に入った「入れ子型」で、専門家は「国宝級の文化財。仏教美術史における大きな発見」としている。
舎利容器は塔の心柱の先端、屋根の上にある相輪の上部に納められていた。その存在は1910年代の修理でも確認されていたが、制作年代などは不明だった。
最も内側の金の容器は高さ1.2センチ、重さ4.57グラムで、成分は金約8割、銀約2割。押しつぶしたような球形で、円形のふたがあり、中には舎利に見立てた直径2ミリのガラス粒が入っていた。その外の銀容器は球形で高さ3.1センチ、重さ24.67グラム。ほぼ純銀で、つまみの付いた円形のふたがある。銅製の器は高さ9.06センチ、重さ701.21グラムの球形で、金メッキを施してあった。
釈迦(しゃか)の遺体は金銀銅鉄の四重のひつぎに安置されたとされ、日本では白鳳時代に金銀銅の三重容器が作られた。同様の入れ子型の舎利容器は、これまでに同県斑鳩町の法隆寺・五重塔の心礎(心柱の礎石)や、大津市の崇福寺跡の塔心礎から見つかっている。
奈良時代以降は、塔に三重の舎利容器が納められなくなったことから、白鳳時代に作られた可能性が極めて高いと判断した。関根俊一・奈良大副学長(仏教美術史)は「ろくろを使った銅器の技術的特徴からも白鳳時代としか考えられない。保存状態も非常に良く、仏教美術史上、大きな発見だ」と話している。
舎利容器は奈良国立博物館で来年2月19日から3月14日まで公開される。塔には複製を納める。【大川泰弘】
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7.現在の境内 |