新薬師寺
(しんやくしじ)

新薬師寺本堂
Contents
1.所在地
2.宗派
3.草創・開基
4.創建時の伽藍配置
5.その後の変遷
6.特記事項
7.現在の境内
8.古寺巡訪MENU

1.所在地
  奈良市高畑町1352
2.宗 派
  華厳宗
3.草創・開基
  当寺院は、東大寺要録が「天平19年(747)3月に光明皇后が聖武天皇の病気平癒を祈願して9間の金堂と七仏薬師像を建立した」と伝えており、これが創建とされている。
4.創建時の伽藍配置と規模
  • 創建時の規模は下図の通り興福寺に匹敵する広大な敷地に七堂伽藍があったことが古文書や発掘調査で明らかになっている(図1創建時の新薬師寺の規模と位置)
    新薬師寺創建時伽藍配置
  • 南大門は、白毫寺(びゃくごうじ)能登川の辺り、西塔は、現奈良教育大学の中央部、金堂は本薬師町と町名が残るところではないかとの見解もある
  • なお、2008年秋、奈良教育大学の北東隅の建物改築に伴い発掘調査が行われた結果、幅68m高さ2mの基壇が発見され、この基壇規模から、建物は大極殿より大きく大仏殿に次ぐ大きさであったと推定されている(図2)
    新薬師寺旧境内周辺写真
  • この建造物の大きさから七仏薬師金堂と推定されているが、古文書記録の金堂とは異なる部分もあり詳細は未だ不明である
  • しかし、遺構の建物規模からして各種古文書の記録にあるとおりの巨大寺院であったことは充分に裏付けされたといえる
  • (図1)(図2) とも、 奈良文化財研究所・奈良教育委員会設置説明パネルより作成
5.その後の変遷
  • 創建後33年目の宝亀11年(780)西塔への落雷によって火災が発生し金堂、講堂も延焼する
  • 同年12月太政官符をもって伽藍の修理費が出される
  • 延暦12年(792)東大寺寺封1000戸の内100戸をさいて当寺院の造営修理が行われ、ほぼ再興される
  • 平安時代に入っても貞観5年(863)7月に比叡山延暦寺とともに新銭・鉄などが施入されるなどの記録があり、一定の寺勢を維持していたのであろう
  • ところが応和2年(962)8月に南都を襲った台風で金堂をはじめ多くの堂が倒壊し、以降寺勢衰え、旧伽藍には次第に民家などが進出して往時の姿を失っていくこととなる
  • 鎌倉時代、明恵(1173〜1232)解脱(貞慶1155〜1213)の両上人が一時当寺院に住持し、現在の東門・南門・地蔵堂・鐘楼を建立し再興をはかるが、創建時規模には遠く及ばないものであった
  • 慶長7年(1602)8月、徳川家康より百石の朱印地を受ける
  • 元禄11年(1698)7月ごろ、徳川綱吉の生母桂昌院より寄進を受けて本尊薬師如来、十二神将を修理する
6.特記事項
  • 当寺院がよく知られている理由の一つは、本堂に安置されている十二神将像にある
  • 特に十二神将像のうち伐折羅大将(バサラ)像は郵便切手にも採用され、テレビ番組(NHK)でも取り上げられ有名となった
  • この十二神将は、本堂内の円形の基壇の中央に安置されている薬師如来座像の外側をぐるりと取り囲むように配置されている
  • これらの像はいずれも塑像で、台座裏側の墨書きに天平・・の文字が残されていることや、像の特徴から奈良時代天平期の作と推定され、11体が国宝と指定されている
  • なお、本尊の薬師如来座像は木造で平安時代初期の作と推定され、国宝である
7.現在の境内
南門 境内
新薬師寺南門 新薬師寺本堂
鎌倉時代、明恵、解脱上人の再興の際に建築された 左が本堂、中央に南門右に地蔵堂。往時の大寺を面影はなく、驚くほど小さい寺院である
本堂 鐘楼
新薬師寺本堂 新薬師寺鐘楼
建築様式などから奈良時代末頃のものであろうと推定されている。応和2年の金堂・諸堂が倒壊し残された堂を本堂としたのではないかと考えられている(国宝) 鎌倉時代、明恵、解脱上人の再興の際に建築された
   
地蔵堂   十三重の石塔
新薬師寺地蔵堂   新薬師寺十三重石塔
鎌倉時代、明恵、解脱上人の再興の際に建築された 東大寺の僧・実忠を祀る塔、建てられた当初は十三重塔であったが倒壊して現在は五重塔となったという
8.古寺巡訪MENU
<更新履歴>2011/12作成 2020/11補記改訂
新薬師寺