西 大 寺
(さいだいじ)

本堂      <目次>
   1.所在地
   2.宗派
   3.草創・開基
   4.創建時の伽藍配置
   5.その後の変遷
   6.特記事項
   7.現在の境内
   8.古寺巡訪MENU

1.所在地

奈良市西大寺芝町1−1−5   ※ 住所をクリックすると地図のページを表示します

2.宗派

真言律宗  本尊 釈迦如来像

3.草創・開基

 (1)発願者
西大寺建立を発願したのは、僧道鏡との関係でよく知られる孝謙天皇(称徳天皇)である。
 (2)発願事由は「恵美押勝の乱」の勝利祈願
 天平宝字2年(758)孝謙天皇は譲位し、淳仁天皇が即位する。ところが僧道鏡をめぐって淳仁天皇と次第に対立しはじめ る。 そもそも淳仁天皇を擁立したのは藤原仲麻呂であり、淳仁天皇はいわば藤原氏の傀儡であった。朝廷内にはこう した藤原氏の再台頭を 倦厭する皇族・貴族が少なからずいた。これら勢力が結果として孝謙太上天皇派の勢力を押し上げ、藤原氏勢力は追 い詰められる。そこで恵美押勝(藤原仲麻呂)はこの形勢を一挙に逆転すべく天平宝字8年(764)9月ついに挙兵。
しかしこの押勝の動きを早くから察知していた孝謙太上天皇側は直ちに軍を動かし、わずか8日間という短期間で鎮 圧。結果、恵美押勝は近江で敗死する。 この孝謙太上天皇軍を指揮したのは、遣唐使として唐に留学し兵法に通じ、孝謙太上天皇の阿倍内親王時代に教師を 務めた吉備真備であった。
孝謙太上天皇はこの戦いに臨み、勝利を祈願して金銅の四天王像とその寺院の建立を発願したが、結果は願い通り勝 利し西大寺建立は実現することとなった。
 (3)孝謙太上天皇が称徳天皇として即位し建立開始
   翌年、孝謙太上天皇は称徳天皇として返り咲き、西大寺は本格的に造営が開始された。 寺地 は、下図のとおり平城京の右京三・四坊に31町(1町=約120平方メートル)の広大な面積を占めていた。この西大寺の寺域がいかに広大であったかは、下の左表をご覧いただきたい。

  平城京官寺の寺域比較 

 東大寺   50町

 西大寺   31町

 興福寺   20町

 大安寺   15町

 元興寺   15町

 薬師寺   10町

(参考)平城宮   76町

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4.創建時の西大寺は唐風の装飾を施された壮大な伽藍

(1)特異な伽藍配置 と 僧・道鏡
右の伽藍復元図のとおり、薬師金堂と弥勒金堂の二金堂が南北線上に配置されるという他の例のない伽藍配置であった。なぜ、このような伽藍配置をしたのか、一説には西大寺建立に深く関わったであろう道鏡が、薬師金堂は称徳天皇ために、弥勒金堂は道鏡自身のためだったとするなど諸説あるが、実際は雑蜜(後の密教)にも通じていた道鏡が称徳天皇の現世の安寧(国家鎮護、治世安泰、称徳帝自身の健康で健やかなこと等)を祈願するためのものとしての薬師金堂を、弥勒金堂は称徳帝の来世の安寧を祈るものとするという願いを具現化した伽藍ではなかったかと、各金堂の本尊がもつ意義から推論される考えがある。

道鏡は、後に藤原氏のみならず、皇親勢力からも激しい排斥を受け、これらの勢力によって天下を揺るがした悪僧として伝えられることとなったが、当時、僧として一流の学識を有し、そして称徳天皇が師として敬い続けたことは、一方では相違ない事実としてある。これらのことをを勘案すれば、この伽羅はまさに道鏡が、一途に称徳天皇のために造立したとのこうした推論も充分にあり得るのではなかろうか。
(2)壮麗な薬師金堂
薬師金堂の装飾について、奈良文化財研究所編「奈良の寺」岩波新書では以下のように記述されている。「西大寺資財流記帳」によると、棟の両端には金堂製の鴟尾をおき、その上には銅鐸をくわえた金堂製の鳳凰が立ちます。鳳凰は左右に向かい合っていたのでしょう。棟の中間には、火炎形の金具をつけた宝珠が蓮の花をかたどった台の上にのり、それを雲形の上に立つ二頭の獅子が支えていた」
(3)八画七重塔から四角五重塔へ計画変更された塔
西大寺の塔は、当初計画では八角七重塔であったが右大臣藤原永手が四角五重塔に縮小させてしまった。この罪によって永手は地獄に落ちた、との説話が「日本霊異記」に載せられているが、長年、これはあくまで説話であろうとされてきた。ところが昭和30年(1955)の東塔基壇発掘調査によって、現基壇の外側の部分から八角形基壇の痕跡が発見され、さらに昭和57年(1982)の発掘調査では塔基壇の造成が上下に違いがあることがわかり、これで基壇の造成そのものが途中で変更になったことがほぼ明らかになった。もしこの八角七重塔が完成したならば、華麗な薬師金堂と相まったさらに壮麗な寺院となっていたことであろう。

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5.その後の変遷

  • 平安時代の承和13年(846)、貞観2年(860)の火災により主要堂舎を消失し、その後次第に衰微するなかで、興福寺の支配下となり別当も 興福寺別当等が兼帯するまでに至った。
  • 下って鎌倉時代の嘉禎元年(1235)に、真言僧の叡尊が入寺し、鎌倉幕府や院などの帰依の下に東塔をはじめとする伽藍を再興する 。しかしこれは、創建時の伽藍形式を復興したのではなく、叡尊独自の真言律による修行道場にふさわしい伽藍として整えたもので、寺地も創建当時の約半分程度までに縮小された。
  • この再興された伽藍も兵火等によって消失し、現存のものは江戸時代の寛永年間から慶応3年(1867)に再建されたものである。
  • 従って孝謙天皇(称徳天皇)が、父である聖武天皇の東大寺を上回る大伽藍を造立したいとの夢を込めた西大寺の面影を残すのは五重塔基壇址だけである。

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6.特記事項  

(1)孝謙天皇の苦悩
西大寺という寺名は、東大寺に対応するもので孝謙天皇(称徳天皇)の当寺院建立にかけた思いがこの寺名からも伝わってくる。 孝謙天皇(称徳天皇)は聖武天皇と光明皇后の一人娘であるが、聖武天皇には別に県犬養広刀自妃との間に生まれた安積皇子がいた。しかし聖武天皇は、 というより光明皇后は、藤原氏の血縁である彼女をどうしても即位させたかった。それが藤原不比等の娘であり、藤原氏一族繁栄・維持の責を一身に担っていた光明皇后の言わば悲願でもあった。

そのために即位前の阿倍内親王の時代、遣唐使帰りの秀才吉備真備を家庭教師につけ英才教育を施した他、皇位継承をこの娘に確定させるために前例の無かった立太子式を天平10年(738)に強行してその他の皇位継承者を封じ込め、その11年後の天平勝宝元年(749)実際に阿倍内親王を孝謙天皇として即位させ 聖武天皇は太上天皇となる。 (なお、安積皇子は天平16年1月に17歳の若さで難波行幸中に死去する。藤原仲麻呂による毒殺ともいわれている。)

彼女の苦難はここからはじまることとなる。世情は、輝かしい天平の時代も終焉を迎えようとしており、動揺しつつあった。しかし彼女は、 そのような時代背景にあって、また当代一流の学識・見識を持った男どもの藤原仲麻呂、吉備真備、道鏡などに翻弄されながらも、 一途に天皇という国の最高権力者として成すべきことを全うしようとし、奮闘した。そしてなによりも聖武帝の天平仏教文化を擁護し 、支え、今日に伝えた第一功労者だと私は思っている。その彼女が全霊をかけ建立した西大寺が創建当時の面影が無いというのはどういう歴史の皮肉か。
(2)孝謙天皇の面影
称徳天皇陵ところで当寺院には、吉祥天像が安置されている。この像は、孝謙天皇(称徳天皇)の等身の像といわれ、古くから特に尊ばれ懇ろに供養されている。その像を見て孝謙帝の面影を想像された哲学者梅原猛さんが次のように書かれている。
「美人ではないが、愛くるしくて童顔である。おどろいたような顔をして、上目づかいにひとをご覧になられる。私は帝は歳をとってもこんないたづら小僧のようなお顔をしていらっしゃたのではないかと思う」と。

孝謙帝は当寺院の完成を見ることなく神護景雲4年(770) 8月4日亡くな られ、当寺院がよく見える北東の墓陵に眠 られている。上の写真は奈良市山陵町の県道52号線沿いにある称徳天皇陵。

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7.現在の境内

南門   本堂
南門   本堂
 近鉄西大寺駅から当寺に入る門が正門かと勘違いするが東門で、この南門が正門である。門内に見えるのが本堂である  江戸時代中期の宝暦2年(1752)に再建されたもので、同時代に南都で建てられた仏堂建築では最も大きいものといわれている。
本堂と東塔基壇址   東塔基壇址

八角塔跡

 

八角塔跡

  孝謙上皇は、ここに八角七重の塔を建立することを計画し、実際工事に着手したが技術、財政両面で果たせず四角五重となったと伝わっている。昭和31年発掘調査の結果八角の基礎工事がおこなわれたことが確認され事実と判明した。塔は東西にあったが西塔は基壇も残っていない。
 四王堂    愛染堂
四王堂 愛染堂
 創建時、孝謙上皇が鋳造させた四天王はここに安置された。創建時の四天王像は残っていないが唯一邪鬼は当時のものである。なお現存の堂は江戸時代前期延宝2年(1674)再建された。   江戸時代中期の宝暦2年(1752)に京都御所の近衛公政所御殿を移築された。有名な西大寺の大茶盛式はこの堂で行われる。
鐘楼   東門
鐘楼 西門
 この鐘楼は、元来、大阪府の多田院にあったがここに慶応3年に移築されたという。慶応3年といえば徳川慶喜が大政奉還した年である。  南門の項で記載したように近鉄西大寺駅から当寺に入るにはこの門が一番近い。

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8.古寺巡訪MENU

 
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