岡寺
(おかでら)

Contents
1.所在地
2.宗派
3.草創・開基
4.その他
5.現在の境内
6.古寺巡訪MENU

1.所在地
  奈良県高市郡明日香村岡806
岡寺仁王門
2.宗派
  真言宗豊山派    本尊  如意輪観音像
3.草創・開基
 岡寺は、厄除け霊場、西国三十三所第七番札所として親しまれている。法号は、龍蓋寺(りゅうがいじ)である。その創建について寺伝では以下のとおり述べられている。
『大和国高市郡に子供に恵まれない夫婦がおり、彼等は日々観音様に子が授かるよう祈りを捧げていました。そんなある日の夜突然子供の泣き声がして、夫婦が表に出てみると柴垣の上に白い布に包まれた赤子がおり、中に連れて入ると馥郁たる香りが家の中にみちた。というのが義淵僧正の出生伝説。その後この夫婦に養育され、ついで観音様の申し子として天智天皇に引き取られ、岡宮で草壁皇子とともに育てられました。後に義淵僧正はこの地を与えられ、龍蓋寺を建立されました。』
 創建時期は同じく寺伝では『663年(天智天皇2年)とされ、創建一千三百有余年の歴史を持っている』とされている。
(1)創建時の岡寺は治田神社境内にあった
 岡寺仁王門の西に治田神社がある。岡寺は創建時にはこの神社の境内に建てられていたことが発掘調査の結果、判明し、出土瓦の様式から、白鳳時代末期に創建されたと考えられている。(白鳳時代:異説はあるが通常、645年の乙巳の変から710年の平城京遷都までの約65年間を指す)
 以下は治田神社境内前にその旨を記したパネルの文面である。
「創建当初の伽藍は、仁王門の西方、ここ治田神社境内地にあったと考えられている。境内地には礎石がいくつか残っており、(中略)昭和57年には柏原考古学研究所によって発掘調査が行われており、基壇建物の北端を画したと思われる凝灰岩の切石が4.5mほど並び、その東端に階段があったらしいこともわかっている。その建物や伽藍配置については不明であるが、岡寺所蔵の寛文年間(1661〜1672)の絵図には、治田神社付近に金堂や講堂・塔の跡地が描かれている。発掘調査で見つかった建物は、南向きに建つ7間×4間の金堂と推定される。」
 治田神社
治田神社
   治田神社拝殿
治田神社
 また、治田神社境内の由緒掲載パネルには以下のように記載されている。
「当社の創建は明らかではないが、延喜式巻十の延喜神名帳の式内社とされているので、平安時代(10世紀)には社があったことがわかる。さらに当境内地からは凝灰岩の基壇や礎石、瓦が出土することから、8世紀初頭の岡寺(龍蓋寺)創建伽藍があったと推測されており、寺の鎮守神として、境内地に祀られていた可能性がある。(後略)」
 なお、ここでいう延喜式・延喜式神名帳等とは以下のとおりである。
※1.延喜式:延喜格式。平安時代に編纂された三代格式の一つで、格式とは律令の補助法令である。
※2.延喜神名帳:延喜式の巻9,10に記載されている「神名帳」のことで、全国2861社の神社が一覧されている。この神名帳に記載された基準は「祈年祭奉幣」を受けさせることができるか否かにある。
※3.祈年祭:神道の祭祀の一つで、一年の五穀豊穣などを祈る。律令制度下での重要な祭祀とされた。

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(2)岡寺の開基者 僧・義淵について
「続日本紀」が伝える僧・義淵
 義淵は、「続日本紀」に以下のとおり四回登場する。これをみるといかに義淵が長きに渡って朝廷から信頼が厚かったがわかる。
  • 文武天皇3年(699)11月29日の条
    「義淵法師(聖明王の後裔と伝う)に稲一万束を施入した。   学問の業績を褒めてのことである。」と最初に登場しているが、この文面からしてこの頃、既に義淵は僧として高い知識と人徳を認められていたことがわかる。
  • そしてこの4年後の大宝3(703)年3月24日の条
    『義淵法師を僧正に任じた。』とあり、同じく文武天皇によって僧網界最高位の僧正に任じられ、その信頼は厚かった。
  • 僧正に任じられてから24年後の神亀4(727)年12月10日の条
    聖武天皇から『僧正の義淵法師(分注。俗姓は市往(いちき))は、仏法の奥義を早くから究め、僧中の棟梁となった。深遠な道を四方に広め、法のともしびを三界の全てに照らしわたらせた。それだけでなく、先帝の御世より朕の代に至るまで、内裏に仕えて一つの咎め誤りもなかった。思うにこのような人は、年と共に益々徳も加わるであろう。そこで市往の氏にかえて、岡連の氏姓を贈るので、兄弟らにもこの姓を伝えさせるように。』とその僧としての高い能力と人徳を認められ、氏姓を贈られるまでに重用されている。
  • しかし、残念ながらこの一年後、その一生を閉じた。これを神亀5(728)年10月20日の条では『僧正の義淵法師が卒した。治部省の官人を派遣して葬儀を監督・護衛させた。』と伝えている。
義淵と藤原不比等
 義淵の詳しい出生など不詳であるが、僧正に昇り詰めてから、文武、元明、元正、聖武と四代の天皇に仕えている。元明、元正が女帝であることが示すとおり、皇位継承を巡って大変微妙な、ある意味綱渡り的な政権運営が成されていた時代であった。 この綱渡り的な政権運営を演出し、巧みに己の権力基盤を拡充していったのは、希代の政治家といわれる藤原不比等である。
 不比等が朝廷において頭角を現すのは持統天皇の時代である。軽皇子(文武天皇)の皇太子擁立を巡る功績が持統天皇に認められ、以降、閨閥による権力基盤を着々と固め、それを確固たるものとした後の720年亡くなっている。
 義淵は、不比等が701年大納言となった2年後に僧正に任じられ、不比等が他界した8年後の728年に義淵も没している。即ち義淵が仏教界の最高位・僧正であり続けた25年間のうち前半の17年間は不比等の時代であったのである。義淵が僧として高い知識と人徳を兼ね備えた人物であったことが僧正に昇り詰め、25年の長きに渡ってその地位にあり続けられた主要な要因であろう。しかし、この激動の時代に在ってはそれだけでは成し得ないことでもある。であれば、義淵という僧は、当代の実質的な権力者・藤原不比等と常に密接で良好な関係を維持させるという政治的能力にも長けていた人物であったのではなかろうか。

義淵の弟子達
 鎌倉時代後期の東大寺の学僧・凝然が著した「三国仏法伝通縁起」に、義淵の弟子として玄肪・行基・隆尊・良弁をあげ、門下として道慈・道鏡が記載されいる。ここに挙げられているのは奈良時代を代表する僧ばかりで、義淵という僧が奈良仏教界に大きな遺産を残した優れた人物であったかを物語っている。しかし、「三国仏法伝通縁起」は義淵死後約600年を経て著されたものである、果たしてそうであったのかどうか今では確かめようはない。  

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4.その他
○西国三十三箇所第7番札所
 岡寺は、西国七番札所・厄除観音として著名。当寺院の解説によると「この『やくよけ祈願』の始まりは岡寺の名前の由来、開祖 義淵僧正が民を苦しめていた悪龍をその法力を持って寺の池に封じ込めた所から始まったといわれております。」とされている。
○本尊は如意輪観音  
如意輪観音像 塑像仏像としては国内最大で、高さ4.85mある。奈良時代末期ごろの作と推定され、東大寺盧舎那仏像(大仏)、長谷寺十一面観音立像(木造)とともに日本三大仏像に数えられている。寺伝では、弘法大師空海が、インド、中国、日本の三国の土によって制作したと伝えており、国内の如意輪観音像では最古のものとされている
 左の写真は、屋外から垣間見える本尊を撮影したもので不鮮明ながら、見据えておられる眼に表現しがたい何かを感じさせられる尊像である。

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 5.現在の境内
仁王門 境内
岡寺仁王門   岡寺境内
 慶長17年(1612)に建立されたもので、仁王像が左右に安置されている。    仁王門を潜ると直ぐに階段があり、この境内に至る。大きく重量感のある本堂が先ず目を引く。 
     
本堂 開山堂
岡寺開山堂 岡寺開山堂
文化2年(1805)の上棟された。堂内には、4.85mの如意輪観音像が安置されている。 本堂の西側にある。阿弥陀三尊が安置されている。
明治新政府の廃仏毀釈によって明治4年、多武峰妙楽寺(現在の談山神社)より移築された。建立年代は解体修理の再発見された『寛政9年』ではないかとされる。
 
楼門   大師堂
岡寺書院楼門   岡寺大師堂
岡寺書院の楼門。元は鐘楼であった。建立は仁王門と同様に慶長年間(1596〜1615)頃と推定されている。   昭和初期建立。弘法大師空海を祀る。 
 
三重塔    
岡寺三重塔    鎌倉時代古文書に岡寺に三重塔があったとの記載に基づき、昭和61年に再建された。ただし、岡寺は創建時、現在の治田神社にあったことが明らかになっている。従って、創建時の塔は現在地とは異なっている。
 
 なお、この三重塔からは、明日香村の橘寺、川原寺跡付近を見渡すことができる。
岡寺からの明日香村の風景
 
義淵僧正廟所   龍蓋池
義淵僧正廟   岡寺龍蓋池
創健者・義淵法師の廟   当寺院の法号の由来である村人を苦しめる龍を義淵法師が法力により小池に封じ込め、大石で蓋をしたという。この池がそれで、中央の岩が蓋であるという。
     
奥之院石窟 奥之院石窟内安置石仏像
岡寺奥之院石窟
龍蓋池から階段を上がっていくと奥之院石窟がある。岩壁に横穴を空け、その最深部に右の石仏が安置されている。端正で穏やかな表情をした石仏である。
  岡寺奥之院石窟内石仏像
     

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6.古寺巡訪MENU
 
<更新履歴>2012/7作成 2016/1改訂
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