松尾寺
(まつおでら)
松尾寺北惣門
Contents
1.所在地
2.宗派
3.草創・開基
4.その後の変遷
5.特記事項
6.現在の境内
7.古寺巡訪MENU

1.所在地
奈良県大和郡山市山田町683 
最寄りの駅はJR大和路線大和小泉駅下車、奈良交通バス矢田山町行き「松尾寺口」下車、徒歩40分
 駐車場:北惣門の前にあり。駐車容易。
2.宗派
真言宗  本尊 千手千眼観世音菩薩(やくよけ観音)
3.草創・開基
(1)開基
松尾寺の開基には二説あります。先ず一つ目は舎人親王説、今ひとつは法隆寺奥院説です。それぞれの説には根拠が有り、その内容は以下のとおりです。
<舎人親王説>
これは、延宝4年(1676年)に作成され「松尾寺縁起」の、「天武天皇の皇子・舎人親王が日本書紀の完成と己の厄年払いを祈念して養老2年(718)に建立した」と伝えていることが根拠となっています。
<法隆寺奥院説>
この説は、法隆寺の僧の修行場・奥の院として建立されたのがはじまりとしています。
その根拠は、 当寺院の南惣門は明らかに法隆寺に向かって開かれ、約2kmほど、この道を下れば法隆寺伽藍の真裏に至りという立地条件と、また本堂落慶法要の導師として法隆寺東院の永業禅師が務めたなどです。
※ 舎人親王(とねりしんのう) 676生-735没 天武天皇の皇子、淳仁天皇の父 「日本書紀」の編纂を総裁した
※ 「日本書紀」 養老4年(720)完成、続日本紀の養老4年5月21日の条「(前略)一品の舎人親王は、勅をうけて 日本紀の編纂に従っていたが、  この度それが完成し、記三十巻と系図一巻を奏上した」との記述あり。
(2)建立時期
建立時期は、当寺院および松尾山神社の発掘調査によって奈良時代前期の瓦が出土していることから、寺観が整ったのは聖武帝のころではないかとも推定されています。

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4.その後の変遷
当寺院の建立後の変遷は詳しくは確たるものがありませんが、各種古文書に登場する松尾寺に関連 した記述内容などを繋ぎ合わせると凡そ以下のとおりです。
(1)奈良・平城京時代には広く知られた寺院であった。
「続日本紀」の延暦元年(782)7月21日の条に当寺院が登場している。内容は「松尾山寺の僧・尊鏡は生年とって百一歳である。内裏に招き入れて大法師の位に叙した。高齢を優遇してである。」とあり、この頃には既に平城京では広く知られる寺院であったと考えられています。
(2)平安京遷都後も、平安時代中期頃までは一定の寺勢は保っていた。
平安時代中期に施行された延喜格式に、当寺院が官稲が支給されていたことが記述されており、これからも平安京への遷都後も寺勢は保っていたようです。
(3)興福寺一乗院の支配下に置かれ衰退する。
しかし、南都の寺院の多くがそうであったようにやがて興福寺一乗院の支配を受けることになり、寺領から得る収入の多くが一乗院に収奪され寺勢は急速に衰えたと思われます。
(4)室町時代に興隆した修験道の醍醐寺三宝院によって当寺院は中本山格の正大先達寺院とされ繁栄する。
室町時代以降、修験道の醍醐寺三宝院が当山派の棟梁となり急速に勢力を広げ、織豊時代には醍醐寺三宝院から、法隆寺、壺阪寺とともに中本山格の正大先達寺院とされ、修験道の拠点として繁栄しました。
(5)江戸時代の民間信仰・厄除観音信仰の広がりで栄える。
江戸時代に入って、当寺院は厄除観音として霊験あらたかとの民間信仰が広がり、栄える。
(7)以降、日本「最古」の厄除霊場として、厄除け払いを願う民間信仰に支えられ今日に至っている。

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5.特記事項
(1)「日本最古の厄除霊場」
舎人親王は松尾寺建立に際して「日本書紀」の完成と自身の42歳の厄除けを願ったという寺伝によって、当寺院は日本最古の厄除霊場と当寺院では喧伝され、その本尊を千手千眼観世音菩薩立像とされている。 なお、この本尊は秘仏とされ、毎年11月3日に限って開扉される。
(2)松尾寺厄除観音出現記念大祭
松尾寺の最も重要な行事で、毎年2月初午の日に執り行われる。これは「松尾寺縁起」に記述されている舎人親王がこの地で祈願・修行していたあるとき時、東の空が明るく瑞雲がたなびいたかと思うと眼前に千手観音が現れたことを因み、大厄・還暦を向かえた多くの人々が厄除け祈祷を願う参詣者で賑わいをみせる。
(3)大黒天立像
松尾寺の七福神堂に安置されている大黒天立像は、鎌倉時代の作。像高約82cm、桧材一木造り木造。現在よく見かける米俵に乗った大黒さまとは異なり、日本でもっとも古い様相をもった大黒天像とされる。像全体は黒色で、お顔は憤怒の様相である。大黒天は本来仏法守護の武神であったといわれ、その本来の姿をとどめる像として貴重で重要文化財に指定されている。

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6.現在の境内
北惣門 本堂
松尾寺北惣門   松尾寺本堂
法隆寺中宮寺宮の寄進よって建立されたといわれ、この門を潜ると直ぐに本堂までの長い石段がある。石段数は108段あるという。    建治3年(1277)に焼失した後、室町時代の建武4年(1337)に再建された。中世真言宗本堂の典型的な建造物という貴重な遺構として国の重文指定されている
     
本堂正面石段   境内に咲くカサブランカ
松尾寺本堂   松尾寺境内
本堂正面に至る長い石段。ここは南惣門から当寺院に入ると直ぐにある。こうした境内の配置からも法隆寺に開かれた南惣門が当寺院の正門であることがよく解る。   訪れた時、カサブランカの植木鉢が多数、境内に置かれていた。毎年7月初旬から行われている。その数、約5000輪とのこと。なお、後方に見えるのは三重塔。 
 
三重塔   行者堂
松尾寺三重塔   松尾寺
明治16年(1883)に建立された。しかし、使用されている鬼瓦に正徳3年(1713)の銘があるなど、旧材が再利用されていることが判明している。   古くより修験道の寺院として栄えた当寺院らしく、行者堂があり、修験道の祖、役行者(えんのぎょうじゃ)の像が安置されている。 
     
七福神堂  
松尾寺七福神堂    七福神堂には国の重文指定されている大黒天が安置されている。鎌倉時代の作。像高約82cm、桧材一木造り木造。現在よく見かける米俵に乗った大黒さまとは異なり、像全体は黒色で、お顔は憤怒の様相である。日本でもっとも古い様相をもった大黒天像とされる。
     
 南惣門    
松尾寺南惣門    江戸時代の文久2年(1862)に興福寺一乗院宮の寄進により建立された四脚門で当寺院の正門である。この門より約2km下ると法隆寺の東院に至る。
     
風神   雷神
松尾寺南惣門風神浮彫彫刻   松尾寺南惣門雷神浮彫彫刻
上の風神、雷神のそれぞれの浮彫彫刻はこの門に、両彫刻が対面して掲げられている。このため雷門との異称がある  

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7.古寺巡訪MENU

 
<更新記録> 2012./7 作成  2013/7 補記改訂 2020/12 補記改訂
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