興 福 寺
(こうふくじ)


中金堂
<目次>
   1.所在地
   2.宗派
   3.草創・開基
   4.興福寺の歴史
   5.創建時の伽藍配置
   6.特記事項−神仏分離令と興福寺
   7.現在の境内
   8.古寺巡訪MENU

1.所在地

奈良県奈良市登大路町48番地

2.宗派

法相宗

3.草創・開基

  • 興福寺は、藤原不比等が、藤原京から平城京へ遷都された和銅33月(710年)に、藤原京の厩坂寺をここに移したのが始まりです。
  • さてこの厩坂寺ですが、藤原氏の祖である藤原鎌足の夫人が夫の病気平癒を祈願し、669年(天智天皇8年)に山城国の山階(現在の京都市山科)に創建した山階寺が起源で、壬申の乱が勃発した672年(天武元年)、後に造営される藤原京の厩坂の地に移り、厩坂寺と称しました。
  • 以上のように興福寺はその成り立ちからしてもっぱら藤原氏の氏寺=私寺そのものであったのです。
  • ところが、藤原不比等はその絶大な権勢を背景に、私寺である厩坂寺の平城京への移設を、養老41017日(720年)「造興福寺仏殿司」を置き官費にて工事を進め、結果、官寺としました。
  • これが興福寺の始まりです。

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4.興福寺の歴史

興福寺歴史年表
西暦  和暦  出来事
669 天智8年 藤原鎌足の病気平癒を願い、夫人鏡大王が釈迦三尊像を本尊として山城国山階に山階寺を創建する
672 天武元年 壬申の乱起こる。 山階寺、藤原京に移り、厩坂寺と称す
720 養老4年 藤原不比等没、造興福寺仏殿司が置かれる
不比等慰霊のための北円堂建設着手される
724 神亀元年 東金堂建立される
730 天平2年 五重塔建立される
734 天平6年 西金堂建立される
813 光仁4年 南円堂建立される
1046  永承元年 近隣の民家より出火、北円堂以外焼失 
1048 永承3年 7カ国(近江国、丹波国、播磨国、美作国、備中国讃岐国、伊予国)負担により再建
1060  康平3年  中金堂釈迦如来像の灯明の火により失火
1067 治暦3年 先の7カ国の負担にて再建
1096 嘉保3年 僧坊から出火、再建負担金の拠出、いずれの国も辞退(摂関家藤原氏の衰退による)
1103 康和5年 再建、周防国の負担金および大和国内の神社、寺院。貴族、富豪家が所有する田1町あたり、米1斗を徴収し財源とする
1180 治承4年 平重衡らによる「南都焼討」、伽藍の大半を焼失する
1194 建久5年 藤原氏氏長者九条兼実の伊予国、因幡国により再建
1277  建治3年  僧坊への雷火により出火、再建費用負担の命下るもいずれも従わず頓挫
1300  正安2年 再建、農民の3日間の労役、田1段あたり1斗の徴収、関所通行料などにより費用調達 
1327 嘉暦2年 興福寺の僧同士の争いにて中金堂放火される
1347 正平2年 再建
1717 享保2年 講堂に入った賊の火により失火
1819  文政2年 仮堂建てられる 
1975 昭和50年  講堂跡に仮金堂建てられる 
2018 平成20年 中金堂再建される

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5.創建時の伽藍配置

興福寺創建時伽藍配置復元図興福寺は、戦火等によって消失、再建を繰り返した歴史があり、その上、後述するような明治初期の廃仏毀釈による荒廃と著しい寺域の縮小が行われたために、現境内からは往時の伽藍を想像しがたいが、近年の発掘調査によって右図のように創建時の伽藍配置が徐々に明らかになって来ている。 

なお、右の図は同朋出版刊・文化庁文化財保護部史跡研究会編「図説日本の史跡 第五巻古代2」を参考に作成した

6.特記事項 −神仏分離令と興福寺−

明治初頭、当時の狂信的な国粋主義者で占められていた神祇官によって、「神仏混淆思想」を廃し、神仏分離(廃仏毀釈)の命が下された。その影響を最も苛烈な形で受けたのは興福寺だったことはよく知られている。

興福寺僧侶は、春日神社の神職にさせられ、興福寺は廃寺同然になった。その時期、五重塔はわずか25円で売りに出され、買主があらわれた。購入理由は、薪にして転売し、利益をあげるのが目的だったという。しかし、解体費などから採算が取れないことがわかり、この買主は撤退。結局、売却することができなかったという。そのおかげでわれわれは今、この貴重な建築文化財を目にすることができるのである。

このことは、何も何百年前に起こったのではない。ほんの100年前に近代国家を目指した明治新政府が実際に発令し実行したものである。

国家があるいは政治が特定の価値観や宗教観などの狂気に導かれたとき、その国家を形成する民族固有の文化財や文化そのものをも、いとも簡単に破壊してしまうのだという事例である。真に恐ろしい限りであるが、今後こうした事態が再びこの日本でおこらない保証はどこにもない。そういう意味で,政治がどういう方向に進んでいこうとしているのか常にチェックすることが次の世代へのわれわれの責任だと思うがどうだろうか。

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7.現在の境内

猿沢池から続く興福寺石段 東金堂(国宝)
五重塔 興福寺東金堂

 この石段を登り切った左手に南大門があった。しかし、治承4年(1180年)の平重衡の南都焼討により焼失した。その後鎌倉時代に復興されたが、江戸時代の享保2年(1717)の火災で焼失し、以降再建されることなく現在に至っている

 神亀3年(726年)聖武天皇が元正太上天皇の病気平癒祈願のため造営。現存するものは、室町初期の応永18年(1411年)雷火による焼失後の応永22年(1415年)再建されたものである。
 法相宗の古刹の金堂としては、大きさ、荘厳さは感じられない。それもそのはずで現在、この東金堂の前に本来の金堂である中院(中金堂)が再建中である。
五重塔(国宝) 北円堂(国宝)
興福寺五重塔 興福寺北円堂

  天平2年(730年)光明皇后(藤原不比等の娘)によって建立されたが、その後五回の焼失、再建を経て、現存するものは、室町時代の応永33年(1426年)に再建されたものである。我が国で 東寺に次いで二番目に高い塔である。(基壇を除き、高さ50.25m)

  元明太上天皇と元正天皇が藤原不比等の死を悼み発願され、藤原不比等の一周忌に当たる養老5年721年)建立された。後二回焼け、現存のものは、鎌倉時代初期、承元4年(1210年)に再建されたもの である。
南円堂 夕暮れ時の境内
興福寺南円堂 興福寺境内

 創建は藤原冬嗣が空海に建立を懇望し、空海は、これに応えてを自ら設計し、当時東大寺の別当職にあったため、奈良に出向くことも多く、工事をも監督し、弘仁4年正月(728年)完成させた。この堂は、小規模ながら空海がはじめて己の密教思想を具象化した堂といわれている。
  
  これ以降、それまで衰微していた藤原北家は大いに隆盛し、藤原北家は「空海に対して特別な敬意をもってのぞむ」ようになったという。但し、現存するものは、寛保元年(1741年)に再建されたものである。また、この南円堂は、西国三十三所の第9番札所でもある。

 南円堂から東金堂・五重塔を見ると左手に発掘調査と金堂(中金堂)再建工事中の柵が張られていた。
 この日は、毎年、8月初旬からお盆頃まで行われる「なら燈火会」を見るため、境内で腰を下ろして日が暮れるのを待つ観光客の姿が散見された。
 三重塔(国宝)
興福寺三重塔
  猿沢池から五重塔を望む
猿沢池
 皇嘉門院(藤原忠通の娘、藤原聖子、崇徳天皇の后)の御願により待賢門院(藤原公実の娘、鳥羽天皇の后)が康治2年(1143)に建立された。しかし治承4年(1180年)「治承の大火」で焼失、その後、再建された。     興福寺の五重塔は、猿沢池からの眺望が最も美しいといわれている 。そこで何回も様々の角度から撮っているのだが納得できるものが今まで一枚もない。今後も挑戦し続けたいと思っている。
     
中金堂  
 
平成30年(2018)10月再建される  
8.古寺巡訪MENU

 

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