猿沢池から続く興福寺石段 |
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東金堂(国宝) |
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この石段を登り切った左手に南大門があった。しかし、治承4年(1180年)の平重衡の南都焼討により焼失した。その後鎌倉時代に復興されたが、江戸時代の享保2年(1717)の火災で焼失し、以降再建されることなく現在に至っている |
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神亀3年(726年)聖武天皇が元正太上天皇の病気平癒祈願のため造営。現存するものは、室町初期の応永18年(1411年)雷火による焼失後の応永22年(1415年)再建されたものである。
法相宗の古刹の金堂としては、大きさ、荘厳さは感じられない。それもそのはずで現在、この東金堂の前に本来の金堂である中院(中金堂)が再建中である。 |
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五重塔(国宝) |
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北円堂(国宝) |
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天平2年(730年)光明皇后(藤原不比等の娘)によって建立されたが、その後五回の焼失、再建を経て、現存するものは、室町時代の応永33年(1426年)に再建されたものである。我が国で
東寺に次いで二番目に高い塔である。(基壇を除き、高さ50.25m) |
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元明太上天皇と元正天皇が藤原不比等の死を悼み発願され、藤原不比等の一周忌に当たる養老5年721年)建立された。後二回焼け、現存のものは、鎌倉時代初期、承元4年(1210年)に再建されたもの
である。 |
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南円堂 |
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夕暮れ時の境内 |
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創建は藤原冬嗣が空海に建立を懇望し、空海は、これに応えてを自ら設計し、当時東大寺の別当職にあったため、奈良に出向くことも多く、工事をも監督し、弘仁4年正月(728年)完成させた。この堂は、小規模ながら空海がはじめて己の密教思想を具象化した堂といわれている。
これ以降、それまで衰微していた藤原北家は大いに隆盛し、藤原北家は「空海に対して特別な敬意をもってのぞむ」ようになったという。但し、現存するものは、寛保元年(1741年)に再建されたものである。また、この南円堂は、西国三十三所の第9番札所でもある。 |
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南円堂から東金堂・五重塔を見ると左手に発掘調査と金堂(中金堂)再建工事中の柵が張られていた。
この日は、毎年、8月初旬からお盆頃まで行われる「なら燈火会」を見るため、境内で腰を下ろして日が暮れるのを待つ観光客の姿が散見された。 |
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三重塔(国宝)
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猿沢池から五重塔を望む
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皇嘉門院(藤原忠通の娘、藤原聖子、崇徳天皇の后)の御願により待賢門院(藤原公実の娘、鳥羽天皇の后)が康治2年(1143)に建立された。しかし治承4年(1180年)「治承の大火」で焼失、その後、再建された。 |
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興福寺の五重塔は、猿沢池からの眺望が最も美しいといわれている 。そこで何回も様々の角度から撮っているのだが納得できるものが今まで一枚もない。今後も挑戦し続けたいと思っている。 |
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中金堂 |
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平成30年(2018)10月再建される |