- 1.所在地
- 奈良県生駒郡斑鳩町小吉田1−1−23
法隆寺から国道25号線を西へ徒歩約20分 約1.5km
駐車場:山門前に有り。広く(15台程度)駐車容易 無料 - 2.宗派
- 浄土宗 本尊:阿弥陀如来座像
- 3.草創・開基
- 寺伝によれば、吉田寺の創建は、妹の間人皇女の冥福を祈願した天智天皇とし、開基は浄土教先駆者の一人である恵心僧都(源信)であると伝えています。
それでは間人皇女および恵心僧都源信とはどういう人なのでしょうか。以下を参照下さい。
- (1)間人皇女
- 間人皇女(はしひとのひめみこ(? - 天智天皇4年(665))は、「乙巳の変」後に即位した孝徳天皇の皇后です。父は舒明天皇、母は皇極天皇(斉明天皇)で、天智天皇とは同母妹、天武天皇とは同母姉に当たります。その間人皇女の御陵と伝わる清水の古墳が当寺院本堂西側にあります。このことから創建を天智天皇との寺伝があるのかも知れませんが、これ程の皇女の御陵としては小規模に過ぎる等、確たる史料はなくその真贋は不明です。
- (2)恵心僧都源信
- (源信と母との挿話)
恵心僧都源信(えしんそうず(942-1017))は、平安時代中期の高僧です。源信は、奈良の葛城郡當麻村で生まれ、信仰心厚い母によって9歳の時、比叡山に入り、比叡山中興の祖慈慧大師良源(元三大師)に師事します。そして5年後、わずか14歳にして得度、15歳で村上天皇(在位946-967)から法華八講の講師の一人に選ばれる秀才でした。
そんなある日、母から一編の和歌が贈られます。
「後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき まことの求道者となり給へ」
これを見た源信は我に返り、僧としての本来の道・求道者として生きる覚悟を決め、以後、生涯、これを貫き通しました。
(「往生要集」を著す)
その源信が追求したのは末法の世にあって極楽往生するには何をなさねばならないか、ということでした。このために多くの経典を読破・研究します。そしてその成果として「往生要集」として纏めあげます。(寛和元年(985))
(「往生要集」は日本仏教史上の画期をなす書)
源信が著述したこの「往生要集」は、極楽往生するためには、ひたすら観想(阿弥陀仏や阿弥陀仏がおられる極楽浄土を念じて念仏すること)すること、そのための修行の仕方などを明らかにしたものです。この書は、日本の浄土教の基礎が築いた日本仏教史上の画期をなす書の一つとして考えられています。事実、後の法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗のいずれも、この書が築いた極楽浄土信仰を基礎として成立しているのです。
なお、源信の念仏は観想念仏であるのに対して、浄土宗・浄土真宗の念仏は、ひたすら「南無阿弥陀仏」などの称名を唱える称名念仏であるところが異なります。
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- 4.特記事項
- (1)「ぽっくり往生の寺 」として著名な吉田寺
- 当寺院は別称「ぽっくり往生の寺」として古くからよく知られている寺院です。「ぽっくり」とは、長く病に臥せ、他人は無論のこと、家族にも迷惑をかけることなく、安らかに往生したいという万人の願いが込められている言葉です。この願いを叶える霊験が、本尊である阿弥陀如来座像の前でご祈祷を受けることによって享受できると、古くから信じられ、当寺院は「ぽっくり往生の寺」と呼ばれるようになった言われています。
その理由は、当寺院の開基である恵心僧都(源信)が母親臨終の折、除魔祈願をした浄衣を身につけさせ、称名念仏を唱えるなかで安らかに往生させたこと、そして本尊である阿弥陀如来座像は、その源信が刻んだ尊像という由緒によります。今でもこの本尊の霊験にあやかろうとご祈祷を受けに当寺院を訪れるお年寄りが多く、筆者が訪れた日も多くの方々が本堂に集まりご祈祷を受けておられました。
- (2)「大和のおおぼとけ」と呼ばれる阿弥陀如来座像
- 当寺院の本尊は、本堂に安置されている千体仏を光背に持つ丈六の阿弥陀如来座像です。この仏像は「恵心僧都源信が吉田寺の境内の栗の木から、お念仏のなかに一刀三礼、尊像をお刻みされた」と伝わり「大和のおおぼとけ」とも呼ばれています。なお、この像は伝承とは異なり、藤原時代後期の作とみられています。(重要文化財)
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- 5.現在の境内
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