海住山寺
(かいじゅうせんじ)
海住山寺本堂

Contents
1.所在地
2.宗派
3.草創・開基
4.その他
5.現在の境内
6.古寺巡訪MENU

1.所在地
京都府木津川市加茂町例幣海住山20
天平12年(740)12月,聖武天皇が平城京より遷都した恭仁京(跡)の真北にある三上山の中腹に海住山寺はある。
2.宗派
真言宗智山派    本尊  十一面観音像(重文)
3.草創・開基
寺伝では「瓶原を一望におさめる海住山の中腹、幽邃の地に、当海住山寺が創建されたのは、恭仁京造宮にさきだつ六年前、天平七年(735)のことと伝えられております。大盧舎那仏造立を発願あそばれた聖武天皇が、その工事の平安を祈るため、良弁僧正に勅して一宇を建てさせ、十一面観音菩薩を安置して、藤尾山観音寺と名づけたのに始まる」と伝えている。
(1)中興の祖は解脱上人(貞慶)
そしてこの藤尾山観音寺は、平安時代中期の「保延三年(1137)に灰燼の厄に遭い、寺観のことごとくを失った」と伝え、「その後、七十余年を経た承元二年(1208)十一月、笠置寺におられた解脱上人貞慶が思うところあってこの観音寺の廃址に移り住み、草庵をいとなんで補陀洛山海住山寺と名づけ、旧寺を中興されて、ここに現在の寺基が定められた」とされている。  ※補陀洛山とは、南海にあるといわれる観音の浄土の名

(2)解脱上人 (貞慶)
平安末期から鎌倉時代に仏教は、法然の浄土宗などの浄土諸宗および臨済宗などの禅宗が興隆を見せた時代である。そして、これら鎌倉新仏教の興隆に触発される形で、法相宗や華厳宗に代表される南都の旧仏教も、教義を深める一方、優秀な僧を多く排出した時代でもあった。僧・貞慶もその一人で、藤原武智麻呂(むちまろ)を祖とする藤原南家の出身である。幼くして父を亡くして藤原氏の寺・興福寺に入り出家。 法相宗を学び、興隆する新鎌倉仏教を鋭く批判した南都旧仏教の論客でもあった。
4.その他
当寺院で史実として考えられるのは解脱上人が入山してから以降の事柄である。聖武天皇が良弁僧正に命じて建立したという藤尾山観音寺については確たるものがなく、寺伝の域をでないと言われている。しかし、当寺院から眼下に広がる瓶原(みかのはら)を望むとこの寺伝は存外史実であり得ると思わされる。

即ち、当寺院の位置は聖武天皇が天平12年(740)に遷都した恭仁京の「宮」の真北に当たり、恭仁京を守護することを目的として何らかの宗教施設か砦などが築かれていても何ら不思議ではない位置である。聖武帝は、四年後にはこの恭仁京を去り、その後、恭仁宮は国分寺とされたが、この時も国分寺の学僧達の修練道場としても当寺院は最適地でもあったのではなかろうか。

いずれにしても詳しいことはわからないが、この地での四年間は大盧舎那仏建立に突っ走る聖武帝とって、行基との面会や、財政破綻による恭仁京造営中止、墾田永年私財法発布など、まさに忘れられないものとなったことだけは間違いなく、このドラマを恭仁宮の後輩にそびえる三上山が見守っていたのである。そして、その中腹に海住山寺の前身寺があった、そう思いたい。
5.現在の境内
山門 山門
海住山寺門 海住山寺大門
本堂の前(東)にある山門。 左の山門を下る途中にこの大門がある。
     
本堂 本堂扁額
海住山寺本堂 海住山寺扁額
本堂は、東面しており、明治時代に再建された。堂内には本尊「十一面観音立像」(重文)(平安時代作)が祀られている。 本堂に掲げられている扁額。
     
文殊堂(重文) 眼下に広がる瓶原(みかのはら)
海住山寺文殊堂 海住山寺の眼下の瓶原
 元仁2年(1225)の解脱上人貞慶の十三回忌に因んで建てられた経蔵が前身といわれるが、現存のものは、鎌倉時代の1312年に建立された、三間二間の寄せ棟造り、銅板葺き(建立時は檜皮葺)である。  この眼下に広がる地に聖武帝の恭仁宮があった。暫し眺めていると、自分が遙か天平の時代に舞い降り、眺めているような錯覚に陥る。
     
五重塔(国宝)
海住山寺五重塔
五重塔裳階(もこし)
海住山寺五重塔裳階(もこし) ← ↑  五重塔
   高さ17.1mと小さいが、初層からの逓減率が大きく、全体的に細身で軽やかな塔である。現存する塔として室生寺に次いで小さい。外見で特徴的なのは、初層の下にある裳階である。この裳階がある塔として法隆寺五重塔があり、その他では例を見ないとして有名である。また、建物として、芯柱が二層から立てられているという特異な構造であることでも著名である。建立されたのは鎌倉時代の1214年。国宝に指定されている。
 
6.古寺巡訪MENU
 
<更新履歴>2012/10作成 2016/2補記改訂 2020/11補記改訂
海住山寺