中宮寺
(ちゅうぐうじ)

Contents
1.所在地
2.宗派
3.草創・開基
4.木造菩薩半跏思惟像について
5.天寿国繍帳について
6.古寺巡訪MENU

1.所在地
・奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北1-1-2
  中宮寺は、下記「法隆寺境内図」の最も右端(東側)の赤丸、夢殿の東隣にあります
・現在の境内・本堂
 現境内は夢殿のある法隆寺東院の東に接する子院地にあり、この本堂は、1968年(昭和43年)に高松宮妃の発願で建立されました。設計者は吉田五十八(1894-1974)です。
   
2.宗派
聖徳宗 本尊:木造菩薩半跏像(4.木造菩薩半跏像 を参照ください)
3.草創・開基
  • 創建時の中宮寺は室町時代後期ごろまでは、現在の本堂から約500m東の地にあったことは各種文書などで明らかになっています。そしてその創建時期は、昭和38年から実施された発掘調査によって法隆寺の前身寺である若草伽藍と同時期の7世紀前半ごろと推定されています。

  • 開基は聖徳太子で、母穴穂部間人皇后(あなほべのはしひと)のためにその宮を改めて寺とした伝えられ、聖徳太子建立七カ寺に数えられています。なお異説として、開基は穴穂部間人皇后自身であるとの伝承もあります。

  • 現在の中宮寺は、法隆寺東伽藍夢殿の東隣にあり、聖徳宗の尼寺です。別名を、斑鳩尼寺あるいは法興尼寺とも呼ばれています。

  • また、古くから「大和三門跡尼寺(法華寺、円照寺、中宮寺)」に数えられ、その中でも最も草創が古い尼寺として知られています。

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4.本尊:木造菩薩半跏像について
  • 中宮寺と言えば、国宝・木造菩薩半跏像が有名です。中宮寺を訪れる方の目的は、おそらくこの木造菩薩半跏像に「一目お目にかかりたい」が大半でしょう。そしてこの像は、京都の広隆寺弥勒菩薩像としばしば比較されます。

  • 広隆寺弥勒菩薩像が朝鮮三国時代の作風を色濃く残すのに対して、中宮寺木造菩薩半跏思惟像は、中国や朝鮮半島の仏像様式を直接的そのまま受け入れたのでは無く、それらを充分に咀嚼(そしゃく)し、日本的な感覚で再構成した全く斬新な様式で作造された仏像であると評価されています。

  • なお、和辻哲郎氏はこの木造菩薩半跏像を「彼女は神々しいほどに優しい「たましいのほゝえみ」を浮かべていた。(中略)その与える印象はいかにも聖女と呼ぶのがふさわしい。」と表現し、さらに「物の哀れとしめやかな愛情とを核心とする日本人の芸術は、既にこゝにその最もすぐれた最も明らかな代表者をもっている。」と述べられています。(和辻哲郎「古寺巡礼」より)

  • この像の制作時期は、その日本的に洗練された様式などから、天武・持統天皇の時代(672-696年)頃ではないかと考えられています。
      ※参考:半跏思惟像の由来
             「半跏思惟像はインド、中国、朝鮮半島に多数残るが、日本で流行するのは飛鳥・白鳳文化期で、
               奈良時代になると急速に衰退する。七世紀を中心とするきわめて古代的な仏像の姿である。」

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5.「天寿国繍帳」について
  • 中宮寺と言えば木造菩薩半跏思惟像の他にもう一つ有名なものがあります。「天寿国繍帳」です。

  • 天寿国繍帳は聖徳太子を偲び、妃の橘大郎女が太子が往生した天寿国の様を刺繍で描かせたものと伝わっています。

  • この天寿国繍帳は文永11年(1274)に信如比丘尼が法隆寺網封蔵で発見し中宮寺に戻されました。

  • 元々の大きさは一丈六尺四方(約縦2m横4m)の二枚で構成された刺繍の帳ですが、残っているのはその一部を寄せ集めたものです。そのため「天寿国繍帳残闕」とも呼ばれています。

  • 浄土曼荼羅の一つとして絵画史上貴重な作品と評価されています。天寿国繍帳残闕の大きさは縦89cm、横83cmです。

  • なお、この現物は奈良国立博物館に寄託されており、現在本堂で見られる天寿国繍帳は複製です。

6.古寺巡訪MENU
 
<更新履歴>2018/1作成 2020/11補記改訂
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