安倍寺跡
(あべでらあと)

Contents
1.所在地
2.発掘調査に至った理由
3.発掘調査で判明したこと
4.建立者は誰か
5.その後の変遷
6.参考事項
7.現在の境内
8.古寺巡訪MENU

 安倍寺跡は、飛鳥時代、孝徳朝の左大臣阿倍倉梯麻呂が創建したとされる崇敬寺(安倍寺)の跡地です。では、この寺院がどのような寺院であったのか、そして建立したとされる阿倍倉梯麻呂に代表される安倍氏とはどういう氏族であったのでしょうか、このページではこれらを中心に明らかにしていきたいと思います。
1.所在地
奈良県桜井市安倍木材団地1丁目 安倍史跡公園
安倍寺跡標石
2.発掘調査に至った背景
 この地は、安倍文殊院の西南約300mのところにあり、古くから高い盛り土があるところから、地の人たちからは「仲麻呂屋敷」と呼ばれていた伝わっていましたが、昭和40年に桜井市区画整理事業「木材工業用団地」建設計画が持ち上がり、その事前調査として発掘調査が実施されました。

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3.発掘調査で判明したこと
 この発掘調査は、40-42年にかけて桜井市教育委員会などによって実施されました。これによって以下のとおりの大きな成果がありました。
  • 当地は、古代寺院跡であること
  • 安倍寺伽藍配置その寺院の伽藍配置は、右図のとおり南面し、東に金堂、西に塔を配し、北に講堂という法隆寺式、あるいは川原寺式に近い ものであったことが判明した。
     ※?@について
     この講堂の位置は、同朋出版刊・文化庁文化財保護部史跡研究会編「図説 日本の史跡 第五巻 古代2」では「回廊は講堂に取りつくものとみられる」としている。これに対して下記の事業報告や、角川書店刊木下正史著「飛鳥幻の寺、大官大寺の謎」では「回廊外の北側の講堂を置く」と記載されており、どちらが正しいのか不明。
     ※?Aについて
     角川書店刊木下正史著「飛鳥幻の寺、大官大寺の謎」では、「安倍寺は法隆寺式伽藍配置をとるのみではなく、金堂と塔の間の距離が大きく、中門も中軸線からずれている可能性があるなど、吉備池廃寺と共通する点が著しい」と述べられている。
     右図は、この見解をもとに中門を描いたもので、果たして二門あったかどうかは定かではない。
  • この寺院の建築年代は、創建時のものと思われる山田寺式の単弁蓮華文の軒丸瓦等が出土していることなどから山田寺の創建時代(641−685)とほぼ同時期と推定できること

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(参考資料)
『安倍寺跡環境整備事業報告』(桜井市):その要点は以下のとおり。
  • 金堂跡は、旧地表面を約56cm掘り込み、黄色の山土を版築した基壇で、東西約22.8m、南北は西側で約18.1m、東側で約17.7mであった。但し基壇の高さは、上部の大半が削平されて,当初の高さは不詳。(なお、塔の基壇よりさらに1m程度高かったと推定されている)
  • 塔跡は、金堂跡から心心距離で約38mの西に位置し、法隆寺に比して広い空間をもっている。基壇は金堂と同じく黄色の山土を版築したもので一辺12.1mの規模。基壇上面から2.25m下に心礎の据えつけの根石が検出され、また東南隅の礎石の抜きとり穴も検出された。これらから復原すると、塔の初重の平面は、一辺6.3m前後となり、法隆寺の塔より一廻り小さかったと推定される (なお、「仲麻呂屋敷」と伝わっていたのは、この塔跡のことである)
  •  金堂跡、塔跡をとり囲む幅4〜5m程度の土壇状の盛土が回廊跡で、北、西北隅、西側で検出されている
  • 講堂は、北回廊の外に位置している。基壇の西外縁に幅約1.2m、大形の河原石を東西両側ともに面を揃えて据えており、石敷の西外側は溝状の落ち込みとなっている。この石敷を基点にして、伽藍中軸線に対称的に建立されていたとすると、その東西幅は約36mの規模となる。
  • これらの堂塔のほかに、塔の西方約24mで西門と推定される遺構が発見されており、寺域の東端と推定される八町道までは約二町を計る。南北については、中門、南門の遺構も検出されておらず、明確な資料はないが、南側の字花園の里道から北方約200mの字神宮山の南裾まで主要な寺域は二町平方であったと推定された
  • この寺院の建築年代は、創建時のものと思われる山田寺式の単弁蓮華文の軒丸瓦等が出土していることなどから山田寺の創建時代(641−685)とほぼ同時期と推定できる
  • その他出土品として、七世紀中頃から平安時代にかけての遺物と考えられる土器、素文鏡、金環、さらには唐三彩の獣脚など多数出土した

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4.建立したのは誰か
 以上の通り発掘調査によって、この古代寺院の創建時期は山田寺の創建時期(641-685)とほぼ同じくするということが明らかになりました。これによってこの寺院の建立者が阿倍倉梯麻呂であることがほぼ特定できることともなったのです。その理由は以下のとおりです。
  • 従前より、東大寺の古文書「東大寺要録」巻六には阿倍倉梯麻呂建立の崇敬寺(安倍寺)との記載があること
  • 阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)とは、645年に起こった乙巳の変によって誕生した孝徳天皇のもとで左大臣となった有力豪族であり創建時期と矛盾しないこと
  • 当地は、その阿倍氏の本貫地であり、財力のある有力豪族が競って本貫地に氏寺として仏教寺院を建立していたこと

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5.その後の変遷
  • 創建後の安倍寺の推移は史料が乏しく詳細不明でありますが、鎌倉時代に焼失し、北東300メートルの地にあった当寺の別院(現在の安倍文殊院)の地に遷ったと伝わり、阿倍倉梯麻呂が創建した安倍寺は廃絶したと考えられています。
  • 一方、安倍文殊院の寺伝では、文治元年(1185)安倍寺崇敬寺全山消失し、その49年後の文暦元年(1234)に安倍寺崇敬寺を安倍別所に移転統合したと伝えています。
  • なお、この安倍文殊院は、同朋出版刊・文化庁文化財保護部史跡研究会編「図説 日本の史跡 第五巻 古代2」によると、「現在、日本三文殊のひとつに数えられる「安倍の文殊」の安倍山文殊院は、この寺の保延年間(1135-1141)頃の別院とみられている。」と述べられています。 

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6.参考事項 (阿倍氏の出自・氏族の性格 )
以上のように安倍寺は、阿倍倉梯麻呂が建立を開始しその後の阿倍御主人によって完成を見た阿部氏の氏寺です。それではこの阿倍氏とはどのような氏族であったのでしょうか。

阿倍氏は、飛鳥時代から奈良時代初めにかけて興隆した氏族です。その本貫地は現在の桜井市にあるこの安倍寺を中心にした地域一帯でありました。

阿倍氏と言えば歴史上必ず登場する人物は、阿倍倉梯麻呂、阿倍比羅夫、阿倍御主人、阿倍仲麻呂、安倍晴明の5名ですが、阿倍氏の実質上の祖と考えられる阿倍倉梯麻呂と阿倍御主人はここを本拠地として活躍したのは間違いないようです。
(阿倍氏は軍事氏族?)
 ところが阿倍氏の一方の雄とも云える阿倍比羅夫は越の国主として本貫地を越でした。阿倍比羅夫は、日本書紀によると、斉明朝の時代に蝦夷討伐の将軍として、また「白村江の戦い」の派遣将軍として名を馳せた人物です。阿倍比羅夫は、どうも自らも優秀な実戦部隊を有し、且つ軍事に関する卓越能力を持っていたようです。この阿倍比羅夫に注目し、阿倍氏は軍事に長けた氏族としてのし上がってきた一族ではないかとする説もあります。そして、越の国を本貫地としていたのは彼の軍事力と統治能力を高く評価した斉明朝が北陸の重要な拠点としての越に派遣したからで、本来は阿倍倉梯麻呂の本貫地と同一だとしています。
(阿倍氏は地の利と豊富な財力を背景にした豪族)
 確かに軍事氏族説は阿倍氏の一面を語る上で十分に評価できる説です。朝廷内に於いて重きをなし権勢を振るうためには軍事力は欠くことができません。しかし軍事力だけでは権勢を支えることは困難なことも明らかです。
 軍事力を維持するためには豊富な財源が必要なのです。それと、朝廷内で権勢を得る為に今ひとつ必要なモノは地の利でした。権力の中枢がある場所にできる限り近くに本貫地があって、いかなる時にも一族として俊敏に反応できることが必要でした。
 阿倍氏の本貫地は、三つのの条件、即ち人・物・金・情報が集積し経済力を生むことが可能な、1.権力の中枢地に近い、2.交通の要衝、3.肥沃な大地、という全てを兼ね備えていたのです。この総合力を背景に阿倍氏は朝廷内で次第に力を蓄え、そこに阿倍倉梯麻呂という政治力に長けた氏上を得て確固たる地位を築き上げた一族であったのです。
(阿倍御主人の登場)
 祖である阿倍倉梯麻呂が大化5年(650)3月に没後、その氏上となったのは阿倍御主人です。阿倍御主人の出生を倉梯麻呂の子とする説と真っ向から之を否定する説があってその真偽は不詳とするのがどうやら正しいようです。しかしこの御主人は倉梯麻呂に劣らず政治力に長けた人物であったようです。
 御主人は壬申の乱の時、大海人皇子(天武天皇)側に参戦して大いにその論功行賞を得て朝廷内における地位を高めて行き、大宝元年(701)には右大臣まで上り詰めました。
 ところで阿倍御主人と云えばこうした豪族の氏上としてよりも、「竹取物語」に登場する5人のかぐや姫の求婚者の一人としての方がよく知られています。それも右大臣阿倍御主人と実名で登場し、大変な財力を有する長者として描かれています。
(阿倍仲麻呂との関係?)
 阿倍仲麻呂は、元正朝の霊亀2(716)年、16歳で遣唐留学生となり、唐に渡った留学生です。その高い智力故に、玄宗皇帝に認められ要職を歴任します。そしてその後帰国のため帰りの遣唐使船に乗り込みますが難破して果たせず、望郷の念にさいなまれながら異国の地・唐で没します。
 この仲麻呂は一説では阿倍比羅夫の孫とされています。しかし、この説にも確たる裏付けはなく、阿倍氏を出身氏族とすること以外は史実としては不詳と云わざるを得ないようです。
(安倍晴明との関係?)
 阿倍御主人亡き後、阿倍氏は新興氏族である藤原氏におされ政治の中枢からその姿が消えていくことになります。それから下ること300年有余年後に希代の陰陽師と伝承される安倍晴明が登場します。晴明に関する史書には阿倍御主人を祖とするものや、阿倍仲麻呂を祖とするものなど、その他を含め多々あるようです。
 しかし阿倍氏の祖・阿倍倉梯麻呂の以後の各人物がそうであるように、安倍晴明もいずれも伝承の域を出るものではないと云わざるを得ないようです。

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7.現在の状況
安倍史跡公園全景 塔基壇跡
安倍史跡公園全景 安倍寺等基壇跡
塔跡から見た金堂基壇跡
安倍寺金堂基壇跡
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 8.古寺巡訪MENU
 
<更新履歴>2014/2 新規作成 2016/1補記改訂
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