■天使の羽根■

■9話■
 マスターと他愛の無い話―――この店のスタイルやら制服やらについての話を聞かされるという危険極まりない世界―――をすること20分程。
 さすがにゲンナリしてきたところ、突然、息をきらせ、というかマラソン完走後のような女の子が現れた。
 もちろん、マスターとの他愛の無い話など遥か遠い昔の話だ。
 女の子はこっちまで息を整えながら歩いてくると、遅れてすみません、と頭を下げる。
 はて、この子、どこかで見たような……。
 って、俺に高周波攻撃の強襲をしてきた女の子……じゃないのか?
 ようやく周囲の状況を把握する余裕ができたのか、俺の存在と、自分に注がれる視線に気が付くと、じりっと後ずさってしまった。
「そ、その……お、遅れてしまってすみませんっ、すぐに準備しますっ」
 そういうと店の奥へ引っ込んでしまう。
 耳を疑うほどのか細い声。
 本当に俺に強襲をかけた子か?
 そんな疑問を見抜いてか、女の子が消えた店の奥を呆然と眺めている俺にマスターが声をかけてきた。
「あの子はねぇ、普段はこう……大人しい子なんだよ。いい子なんだけどね、ちょいと対人恐怖症の気があってね……。とあるツテでここを知ったらしいんだけど、その克服と、あることの為に頑張っている真っ最中らしいんだよ。ボクはね、そういう子を見てると、こう、輝かせてみたいと思うんだよ」
 何やらマスターの目がちょっとマジだ。
「目標があるっていうのはいいことだ。でも、一人では難しい時もある。そんな時、後押ししてくれる人がいると、それは心強い。ボクは幸い、後押しすることができるようだったから……。彼女は少しずつではあるけど変わってきているんだ。ま、さっきは遅れてしまったとこに追い討ちをかけるようにキミがボクの傍にいたからね、ちょっとあがってしまったようだけど」
 ……。
 やっぱりナイスガイだ、この人は。
 俺はこんなことを真顔でサラっとは言えない。
 まして、さも当然のように。
 ま、そんな人だからこそ、俺が学生の頃につるんでいた連中も信頼をしていたんだが。
 そうこうしていると、バックルームへ引っ込んだ女の子が制服に着替えて戻ってきた。
 女の子はセラの前までいくとペコリと頭を下げる。
「無理言ってしまってすみませんでした、そして、ありがとうございました」
「そんな、かしこまらなくってもいいのよ。それより、うまくいってる?」
「はいっ」
 下げていた頭を上げて、元気よく返事をする女の子。
 それを見て、セラはふふっと微笑んだ。
「それじゃ、私は先にあがるね」
「はい、お疲れさまでした」
 セラは女の子に手を振ると入れ替わりにバックルームへ消えていった。
「ま、セラちゃんに続くこの店のbPになってもらわないとならないしね」
 さっきの話はまだ続いていたのか、マスターが口を開く。
「なんてったって、あの制服をセラちゃんばりに着こなせるのはそうそういないね、断言できるね。……ボクとしては大人し目の子が着てくれてもそれはそれで……こう、別の路線というか、何というか……」
 先程と同じく、目を閉じ、腕組みをし、果てしない、遥か彼方へと旅立っている。
 ……どうして俺の周りには一言多いヤツが多いのだろうか。
 この一言がなければ言うこと無しな人物なんだが。
「マスター、いつものー」
 本日の役者が戻ってきた。
 いかにも常連ですよ、と言わんばかりの注文をして、隣へ腰掛ける。
「お疲れ」
「やー、それほどでも」
 労いの言葉を受け取り、謙虚な言葉とは裏腹な態度をとるセラ。
「はい、セラちゃん、お疲れさま」
「あ、ありがと〜」
 甘く鼻腔をくすぐる香りと、珈琲独特の香り。
 セラにお気に入りのカプチーノを手渡すマスター。
 この早さからして、既にあの女の子がきた時から準備万端だったようだ。
「はー……。この仕事の後の一杯がたまらないね」
 どこぞの飲み屋のおっちゃんのような言葉を放つ。
 らしいと言えばらしいんだが。
 そんな言葉使いとは裏腹に、静かに口をつける姿を見ていた俺は、そこから言葉が無くなってしまった。
 俺の通っていた頃にはジャズ一辺倒だったが、今は控えめの音量でイージーリスニングがかかっている。
 言葉という音が無くなった空間。
 それは決して不快や不安ではなく、どこか心地よい安心感につつまれた空間。
 マスターは気を利かせてか、離れた客のところへ行って話をしている。
 昨日の夕暮れ、俺の言葉、彼女の言葉。
 軋みながら、やっとのことで動いていた俺の歯車は、今、急激に回りだしている。
 そう、俺は意思を決めているはずだ。
 けれど、この沈黙の時間に声をかけることができないでいる。
 相変わらず根性ナシな俺。
 ちょっとしたきっかけがあれば、と探してはみたが、特に何も浮かばず決意は時間に流されるばかり。
「さて」
 セラがカップをソーサーへ置く。
「それじゃ、行こっか」
「は?」
 さも当然のような行動に思考がついていっていない。
 そんな俺を見て、セラは、え? という表情をする。
「あれ、マスターに何か用事でもあった?」
「いや……そうじゃなくて……」
「ん、何? ボクに用事かい、煌クン」
 声を聞きつけてマスターまでやってきた。
 何か、話の流れというか、そういったものが噛み合ってない気がするのは俺だけか?
「いや、行こっかって……どこへ?」
 たまらず俺が返す。
「え、ここでいいの?」
 と、セラ。
 ここでいい?
 ここで……。
 ……。
 そこでカチリと何かがはまる。
 そういえば昨日、俺は……。
 うーむ、といった表情でセラは考え込んでいる。
「うーん、煌がいいっていうならここでもいいけど……」
 考える表情はそのまま、横目で俺を見る。
 確かに、ここではちょっと……と思う。
「いや、なんでもない、ちょっとボケてた。行こうか」
「はーい」
 素直に賛同したセラを伴い、レジへと向かう。
「あー、煌クン」
 が、マスターに引き止められた。
「はい?」
「今日のはボクからの奢り。そんだけ。じゃ、またね」
 言うだけ言って、ひらひらと手首から上だけを振りながら奥へと引っ込んでしまった。
 この人はこういう微妙なところで頑固だからなぁ。
 大人しく奢られておこう、せっかくの好意だし、それを無下にするのも勿体ない。
「ありがと、マスター。また来るよ」
 そう言って親指を立てる。
 マスターも奥からにゅっと腕を突き出し、同じように親指を立てていた。
 さすがに漢ってモンをわかっている人だ。
「ありがとうございましたー」
 幾分和らいだ高周波を耳にしながら店を出た。


 店を出てからのセラはとても上機嫌だ。
 遠足のお子様よろしく、足取りは軽く、鼻歌なんかを口ずさみながら歩いている。
 久しぶりに見たそんな光景に俺までつられて歩く。
 ……。
 セラはどこへ行こうとしているのだろう。
「なぁ、セラ」
「ん?」
 上機嫌のまま、こちらに振り返る。
「どこに行くんだ?」
 丁度差し掛かった横断歩道、青く点った信号の前で足を止め、唇に人差し指をあて、少しだけ首を傾けて考えるポーズをとる。
 何年経っても変わることのない、セラの癖のようだ。
 俺だけ歩いて行くわけにもいかないので、隣に立つ。
 そもそも、前に立って歩いていたのはセラだ、俺に目的地は特にない。
「んー……。どこ行こっか?」
 傾けていた首を逆方向に傾け直し、聞いてきた。
「あのな……」
 USAを出る間際、あの意味深な一言があったから俺はここまでついて来たんだし……相変わらずよくわからないヤツだ。
 まさに溜め息をつかんばかりの俺の様子に気づいてか、それまでの上機嫌が不満そうな顔に変わる。
「なによ、自然な会話の流れってやつじゃない。もー、少しは大人っぽくなったかなぁ、とか思ってたのに……大人の余裕ってのがないわよ、大人の余裕が」
 やれやれ、といったポーズ。
 両の手のひらを上に向けて肩をすくめている。
 む、なんか馬鹿にされてるか、俺。
 というか、反撃を食らっているのか?
 いや、これはヤツなりに俺を試しているのかもしれない……ここは一つ、本当の大人の余裕ってヤツを見せてやるべきだな。
「フッ、キミがもう少し大人の女性らしいかと思っていたんだがな……俺はこんなことで怒ったりはしないさ」
「……」
 決まった……あまりにも完璧すぎるぜ……。
 セラは俺の言葉に返す言葉が見当たらないのだろう、口を半開きのまま固まっている。
「う……」
 ようやく我に返ったのか、セラの口から言葉が発せられようとしている。
「うわー……"フッ"とか言った、言ったよ、この人……私、初めてみちゃった……すごーい、変な人―」
 ……。
「しかも喋り方がなんかヘン……っていうか、ちょっとアレな人?」
 ……。
 アレな人ってなんだ、アレな人って……。
「ねぇ、煌……」
「……なんだ」
「もしかして、あなた、馬が鹿に見える人?」
 馬が……鹿?
 セラは無邪気な瞳で俺を覗き込んでいる。
 俺はそれをポカーンと見返す。
「や、失礼、キミにも分かるように言うとだね、煌くん、それを世間では……」
 ―――馬鹿、と。
 ……。
 落ち着けっ、落ち着くんだ、煌!
 お前は試されているんだ、ここはぐっと耐えるんだ!!
 ……。
 すまん、大人の俺、耐えることは不可能だ。
 正義の鉄槌を下そうと一歩踏み込む。
 しかし、目の前にはにやり、と邪悪な笑み。
「やー、冗談よ? まさか煌くんともあろう大人が女の子の冗談を真に受けたりしないわよねぇ」
 俺の心理をついた巧みな言葉を放ち、流し目に切り替える。
 こいつ……いつのまにこんなに手強くなったんだ……。
 ここで俺が動けば、何か大事なものを失う、そんな気がして動くことができなかった。
「何言っているんだよ、セラ、当たり前じゃないか」
 ふふふふふ、はっはっは、二人の笑い声が木霊する。
「そうよねぇ、大人の男といえば、余裕と甲斐性よねぇ」
「ま、まぁな」
 これ以上墓穴を掘ることの出来ない俺は、曖昧に頷くので精一杯だ。
「よっし、それじゃ、駅前へ、ごー」
「はい?」
 意気揚揚と歩みだす。
 見ると信号は未だ青、いや、話をしている間に一回りしたのか。
 既にセラは横断歩道の道半ば、彼女の意図を考えていた俺は置いてけぼり。
 そこへ信号が追い立てるように点滅する。
「とにかく、ついていくしかないか」
 昔からそうだった。
 そんなに決断の早い方じゃなかった俺の前に立って、ずんずんと先に行ってしまう。
 でも、そんな彼女のお陰でいろんなものを見て、聞いて、遊んで、笑って……。
 ふと、あの頃に戻ったような感じがして、口の端を緩めながら彼女の後を追いかけた。

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