■天使の羽根■

■3話■
 ――夢。
「ずいぶんとまた、昔の夢を……」
 布団から体を起こし、軽く伸びをする。
「ふぅ……」
 幼い頃の記憶。
 今まで忘れていたわけじゃない。
 ただ、忙しい生活の中、必要とされていなかっただけ。
 昨日、少し思い出してしまった記憶。
 そして、その中の少女。
 俺が大人になったように、彼女ももう大人になっているだろう。
 こっちにいる間に会うことが出来るだろうか。
 同じようにここを出て行ってしまったかもしれない。
「それはそのとき、か」
 ようやく覚醒しはじめた頭には難しい問題は無理なハナシ。
 時計を見ると7時を少しまわったところ。
「そういえば昨日、あれからどうなったのやら……」
 ツマミを片手に、後ろ向きで手をひらひらさせた妹の姿が浮かんだ。
 母さんがなんとかしてるだろうけど……。
 それに、そろそろ朝食にありつける時間のはずだ。
 貴重な手料理の機会を逃すのはもったいない。
「どちらにせよ……」
 俺の足は茶の間へと向かっていた。


「あ、お兄ちゃん。おはよう〜」
「……」
 ……こいつはバケモノか?
 実は茶の間へ向かう途中で、一升瓶が3、4本ほど転がっているのを目撃している。
 親父は呑んでも1升ちょっとくらいのはずだ。
 当の本人はケロっとした顔で食事の準備をしているのだ。
 もちろん親父はいない。
 今ごろは寝室で大いびきのはずだからだ。
「やれやれ、おはようくらい返しなさいよ」
「あ、ああ、おはよう」
「よくできました」
 くすっと小さく微笑むと台所へと向かっていった。
 ……末恐ろしい妹を持ったものだ。
「あら、おはよう。すぐご飯になるからお父さんの所に座って待ってなさい」
 入れ替わりに出てきた母さんに、わかった、と返事をして夕食の時とは違った場所に座る。
 すると、また台所へと戻って行く。
 朝の主婦はなかなかに忙しいらしい。
 昨日は弟が遊びに出掛けていたので弟の場所を借りていたが、今回は親父がいないので 親父のところを借りるようだ。
 起きてくることはなかなか難しい状況にあるだろうが……。
 それに、未だに帰ってきてから弟のすがたが見えない。
 どうせ寝ているのだろうから昨日と同じでいいはずなのだが。
 台所からは母さんと咲葉の声が聞こえてくる。
「なぁ、拓郎は寝てるのか?」
 台所の二人にどちらともなしに聞いてみた。
「ああ、もうすぐ帰ってくるよ〜」
 咲葉の返事が返ってきた。
 ……帰ってくる?
 予想外の返事が返ってきてしまった。
 こんな休日の朝早くにどこへと出掛けたのだろうか。


 そうこうしている間に、朝食が並べ終わる。
 人数分、と1人、4人分の朝食の準備が完了した。
 和食のいい匂いがしている。
「しかし、帰ってこないぞ、あいつ」
 準備が完了しているにもかかわらず拓郎の姿が見えない。
「もうすぐだって。あ、帰ってきた」
 外から車のエンジン音が聞こえる。
 やっと到着したようだ。
「た〜だいまぁ〜」
 玄関から少し疲れたような声が聞こえてきた。
「お帰り、ご飯の用意は出来てるよ」
「う〜い」
 そう言いながら拓郎が部屋に入ってきた。
「お、兄ちゃん、帰ってきたか」
「ああ、それより、こんな朝早くにどこ行ってたんだ?」
「ん〜、ちょっと、な」
 車の鍵を人差し指でくるくると回しながら飄々とした顔で答える。
 イマイチ話が見えてこない。
 何かを隠している態度なのは確かだ。
「な〜にがちょっとよ、ただの夜遊びでしょ」
 横から咲葉が非難の声をあげる。
「咲葉ぁ〜、余計なことは言っこなしだろ」
 つまりは朝帰りってことか。
「また派手に遊んでるもんだな」
 昨日、夕食時に家に着いたときにはすでに姿はなかった。
 時間にして約半日も遊び歩いていたのか。
「いや、バイトの後に呑みにいってさ、呑んだ後に車だってことを思い出して……。一応遅くなるって連絡は入れたろ?」
「へ〜、学生様はいいご身分ですねぇ」
 ……また始まった。
 仲が良いほどケンカするを地でいく姉弟だ。
 普段は仲がいいのだが、年が1つ違いのせいも手伝ってケンカは日常茶飯事。
 今回のような、ちょっとしたことで火蓋は切られる。
 もう子供の時のように派手には暴れないだろうけれど。
「はいはい、その辺にしてご飯にするわよ。冷めちゃうでしょ」
 さすがは母さん。
 伊達に20年以上母親をしていない。
 一触即発の場をピシャリと鎮めた。
「ま、いつものことだしね。そいじゃ、いただきま〜す」
 何事も無かったかのように箸を取る。
 妹のこういうカラっとした性格は好感がもてる。
 それからの食事は和やかな雰囲気のままに終了した。


「うぃ〜、ごっそさん」
 体を壁にもたれかけた姿で拓郎が天井を仰ぐ。
「そういや兄ちゃん、友達のトコはいいのか?」
 そう、今回の帰郷は地元に残っている友人からの電話がきっかけだったのだ。
「ああ、昼頃にでも連絡してみる」
「それとさ、お兄ちゃんって何の仕事してるの? 前の会社は辞めちゃったんでしょ?」
 咲葉が急に口をはさんだ。
「そういやそうだな」
 拓郎までもが興味津々といった顔で会話を促しにかかる。
 実は現在の仕事については家族に教えていない。
 教えたとすれば確実に反対の声があがるような仕事なのだ。
 かと言って人様に迷惑をかけるような仕事をしているわけではない。
 が、家族には少しだけ、いやかなり言い辛い職に就いている。
 ここは適当にはぐらかすのが一番の良策と思われた。
「ま、簡単に言うと体を使った仕事だよ」
「え〜、それじゃ年とったら辛いんじゃないの〜?」
 食後のお茶をすすりながら咲葉がジト目でこちらを見る。
「それは大丈夫だ。その頃には新人教育で食えるくらいの地位にいるさ」
「は〜、大きく出たもんだね。でも昔からお兄ちゃんは教えるのは上手だったからね、大丈夫かもね」
「そういうことだ」
「ふ〜ん。そんじゃ俺は朝風呂に入って寝るわ」
 なんとなくつまらなそうな顔をして部屋を出ていった。
 無理に干渉しあわないこの家族を俺はとても気に入っている。
 言い辛い、というのを言わずとも察知してくれたようだ。
「"足"が必要な時は言ってくれてかまわないから。俺は結構暇だからさ」
 廊下からそんな声が聞こえてくる。
「わかった。その時は頼む」
「う〜い」
 それだけ言い残すと足音は消えていった。
「さて……」
 今日はやることが決まっている。
 まずはチビの墓をきれいにしなくてはならない。
 友達への連絡はそれからでも遅くはないだろう。
 一旦部屋へ戻り、身支度を済ませてから物置へ道具を取りに行く。
 いつもながらホコリっぽい建物だが、有事の時に必要なものは大抵揃っている。
 そこから必要な道具を拝借して目的地のあの場所へ向かう。
「ちょっと出掛けてくる」
 玄関から誰へとなく呼びかけた。
「あら、何処に行くの?」
 洗濯をしていたのだろう、服の入ったカゴを持ってこの家の影の実力者が現れた。
「ちょっとそこまで。何かあったら携帯に連絡をくれればいいよ、咲葉が番号を知ってるはずだから」
「気をつけて行ってくるのよ」
 母さんに見送られてチビの元へと向かった。


 陽の昇りきる前のこの丘には、相変わらず人気は全く無い。
 昔のままだ。
 そう、あの時のまま……。


 あの夕暮れ時に彼女に出会った次の日、俺はまた同じ場所に来ていた。
 別に約束があったわけじゃない。
 どこに住んでいるか、それどころか名前すら知らない女の子。
 ただ、あの時の「またね」の一言がどうしても頭から離れなくて、また同じ時間、同じ場所に行ったら会えるような気がして……。
 でも、そこには失った親友の墓があるだけだった。
「やっぱり来てないかぁ……」
 チビに向かってそう呟く。
 その頃の俺は人見知りをするようなヤツで、正直なところ女の子が来ていなくて少し安心していたくらいだった。
 例えいたとしても、どう話をしていいかわからない。
「今日も空が赤いね」
 返事がない相手に向かってか、それともただ呟いたのか、それはもう覚えていない。
 ただ、夕焼けがきれいだったことだけを覚えている。
 辺りは黄昏の中で、全てが茜色に染め上げられようとしていた。
 からだを少しだけ沈めはじめた太陽は、徐々に蒼かった空を黄金色、それからオレンジ色を含んだ朱へと変えている真っ最中だ。
 前日は遅くなったことであれから結構叱られた。
「また怒られるのは嫌だしなぁ」
 母親の顔を思い出し、チビに挨拶だけして帰ろうと屈んで手を合わせた。
「"こんにちは"と"こんばんは"の境目っていつなんだろうね」
 ふと背後から声が聞こえてきた。
 急いで振りかえるとそこには夕焼けを背にした人の姿があった。
 後ろ手に手を組み夕陽を見つめる、長い髪をした少女。
 俺は声をかけることを忘れていた。
 いや、声をかけることができなかったのかもしれない。
 緩やかな風に揺れる黄金の髪。
 時折辺りを見まわす時に見える横顔。
 友達の女の子達とは違う何かを感じさせる。
 なにか神々しいものを目の当たりにしたような、そんな雰囲気に包まれていた。
 その時の俺はひどくまぬけな顔をしていたのだろう。
 急に振りかえった少女は、くすっと微笑んだ。
「も、もうそろそろ、こんばんは……かな」
 そう答えるのが精一杯だった。
「う〜ん、そっかぁ……。うん、そうかもしれないね」
 そう言って、くるりと体を反転させる。
「へへ〜、こんばんは〜」
 なんだか嬉しそうな、それでいて少しだけ悪戯っぽい微笑みを向ける。
「……こんばんは」
 前もそうだったがイマイチ状況がつかめない。
「ごめんね、遅れちゃって。結構遅い時間になっちゃったからあんまし遊べないねぇ……」
「う、うん」
 別に約束をしていたわじゃない。
 ただ、また会えそうな気がしてここへ来ただけ。
 そんな俺に向かってすまなそうな顔をする。
 どちらも悪くないはずのことに二人ともなぜかシュンとしていた。
 ……でも、言っていることは確かだ。
 このまま遊んだとしたら今日も雷が落ちてくる。
 さすがに2日連続はまずい。
「そうだ、あれからチビくんには会えた?」
 唐突な質問。
 場の雰囲気を変えようとしたのかもしれない。
「ううん、……会えてない」
「そ、そっか……。う〜ん、やっぱりダメなわたし……」
 少しだけ声のトーンが下がる。
 何がダメなのか、その時は全く見当がつかなかったなかった。
 チビと関係があるのだろうか?
 もうチビとはさよならをしたというのに。
 永遠のさよならを……。
「と、というわけで、明日こそ遊ぼう! そうだなぁ……、何時頃がいい?」
 沈んだ雰囲気を打ち消すかのような明るく澄んだ声が響く。
 出会った日と同じように主導権は握られたまま。
 けれど人懐っこい笑顔を向けられてしまうと何も言えなかった。
「学校が終わってからなら大丈夫だよ」
 その言葉を聞いて少女の顔がパッと輝く。
「うんうん! それじゃあ今日は解散〜!」
 そう言うと身を翻し帰る方向へと進んで行く。
「あ、あのっ」
「ん?」
 その時、少女を引き止めた。
 少しでもその少女のことが知りたくて……。
 いや、知ることで自分の知っているものと違う何かを手に入れたかったのかもしれない。
「……名前、聞いてなかったから……」
「名前……。そっか」
 唇に人差し指をあて、少しだけ首を傾けて考えるのポーズをする。
 だが、予想に反して名前が即座に出てこない。
 時間にして5秒も経っていなかったのかもれない。
 沈黙が少し怖くなってきて先に声をかけてしまった。
「べ、べつに無理に聞いてないからっ、ほら、僕も自己紹介してないしっ、あ、じゃあ僕から自己紹介するよっ」
 こんな状況に陥るのははじめてのことで混乱しているのか、早口でまくしたててしまった。
 そんな様子を見て、ふふっと笑うと俺の口に人差し指を押し付けて、し〜っのポーズをとった。
「ううん、ごめんね、別に嫌なわけじゃないんだよ」
 そしてゆっくりと指を離す。
 考えてみれば名前を教えるのが嫌だって言う人に対して、自己紹介をしようが結果は同じはずだ。
 そのことを思うと少し恥ずかしくなった。
「考えてみるとそうだよね。友達なら名前は知っておかないとね」
 小さな口からちょっとだけ舌を出して笑う。
 それから、更に朱の濃くなった空を見上げる。
「わたしの名前はね……」


 急に強い風が吹いてきた。
 そこで過去から現在へと引き戻される。
 懐かしい思い出……。
 あの後から俺達は毎日のように遊んだ。
 最初はこの丘でだけ遊んでいたが、次第に物足りなくなりこの街のありとあらゆる所を巡って遊びまわった。
 そしてそれは俺がこの街を出て行く時まで続いた。

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