《永島慎二・訃報》

ああ、永島慎二先生が亡くなってしまった…


各社新聞報道

漫画家の永島慎二さん死去 「フーテン」など叙情的作品

 「漫画家残酷物語」「フーテン」など叙情的な作品で知られる漫画家の永島慎二(ながしま・しんじ、本名・真一=しんいち)さんが、6月10日、心不全のため死去していたことが分かった。東京都杉並区の自宅で倒れているのを家族が見つけた。67歳だった。葬儀は12日に家族だけで済ませた。喪主は妻小百合さん。

 37年、東京生まれ。61年に貸本誌で始めた連作「漫画家残酷物語」は、若い情熱に燃える漫画家たちを詩的でほろ苦いタッチで描き、人気を集めた。64年にアニメプロダクションの虫プロに移り、「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」などを演出。66年に退社後、漫画に戻り、「フーテン」「柔道一直線」などを発表した。純文学的、私小説的な作風は60年代に若者から支持され、当時住んでいた阿佐ケ谷は「漫画の聖地」と呼ばれた。

 「花いちもんめ」で72年度小学館漫画賞。「漫画のおべんとう箱」で74年度日本漫画家協会賞優秀賞。

asahi.com 2005年07月06日06時10分

訃報:永島慎二さん67歳=漫画家 「漫画家残酷物語」

 「漫画家残酷物語」「フーテン」など人生哲学的な作品で60年代から70年代にかけて若者に支持された漫画家、永島慎二(ながしま・しんじ、本名・真一=しんいち)さんが6月10日、心不全のため死去していたことが分かった。67歳。東京都杉並区の自宅で倒れているのを家族が発見し、搬送先の病院で亡くなった。葬儀は家族だけで行う予定。喪主は妻小百合(さゆり)さん。

 52年「さんしょのピリちゃん」で14歳でデビュー。61年の「漫画家残酷物語」は漫画に青春をかけた青年たちの姿を描いた。独特の感性でつづる私小説的な作風は熱烈な支持を得、教祖的存在となった。60年代は新宿でフーテン生活を続け、ライフワークとなる「フーテン」を生む。64年に虫プロに勤務し、テレビアニメの制作に携わる。67年から「柔道一直線」(梶原一騎原作)を途中まで手がけた。妥協しない生き方を貫き近年は寡作だった。72年「花いちもんめ」で小学館漫画賞、74年「漫画のおべんとう箱」で日本漫画家協会賞優秀賞を受賞。

毎日新聞 2005年7月6日 11時27分


青年漫画の"教祖"、永島慎二さんが死去

 「漫画家残酷物語」などの叙情的・感傷的な作品で青年漫画の教祖的存在だった永島慎二(ながしま・しんじ=本名・眞一=しんいち)さんが6月10日、心不全で死去していたことが5日分かった。67歳。告別式は親族のみで行う。

 東京生まれ。1952年、15歳の時「さんしょのピリちゃん」でデビュー。61年から貸本劇画に連載した「漫画家残酷物語」は、子供漫画への理想と現実との間で苦悶(くもん)する青春群像を描き、今なおファンが多い。

 その後、新宿で2年にわたるフーテン体験を基にした連作「フーテン」を手塚治虫主宰の「COM」誌に連載。同時に「ガロ」誌でも活躍して、郷愁とペーソスに満ちた“人生派”漫画を開拓、後進の漫画家に絶大な影響を与えた。

 72年「花いちもんめ」で小学館漫画賞、74年「漫画のおべんとう箱」で日本漫画家協会賞優秀賞。梶原一騎原作の劇画「柔道一直線」の作画も担当したが、原作者と衝突して途中降板するなど、妥協のない仕事でも知られた。

読売新聞:2005年07月06日03時06分


漫画家の永島慎二氏が死去

 永島 慎二氏(ながしま・しんじ、本名=永島真一=ながしま・しんいち、漫画家)6月10日、慢性心不全のため死去、67歳。告別式は近親者のみで行った。喪主は妻、小百合さん。

 1952年、「さんしょのピリちゃん」でデビュー。61年の「漫画家残酷物語」で漫画界の舞台裏を取り上げ、若者の支持を集めた。代表作に「フーテン」「柔道一直線」など。

NIKKEI NET 2005/07/06 (23:56)


永島慎二氏死去、67歳…「フーテン」「柔道一直線」

 「フーテン」など私小説的な作品で一時代を築いた漫画家、永島慎二(ながしま・しんじ、本名真一=しんいち)氏が6月10日午後10時15分、慢性心不全のため東京都杉並区の病院で死去していたことが5日、分かった。67歳。東京都出身。葬儀は親族で済ませた。喪主は妻小百合(さゆり)さん。

 中学を中退してプロの漫画家を目指し、1952年「さんしょのピリちゃん」でデビュー。61年に発表した漫画界の舞台裏を描いた作品「漫画家残酷物語」で評価を確立した。その後、新宿で放浪生活を送るが、自伝的作品「フーテン」で復活、独特の作風で漫画青年の教祖的存在となった。他の代表作に「若者たち」「花いちもんめ」「柔道一直線」など。

 33歳で糖尿病にかかり、4年前から人工透析をしていた。ギタリストの永島志基は長男。

 ■漫画家しりあがり寿氏の話 昭和の漫画黄金時代の一翼を担った人が亡くなり、残念。商業漫画と一線を画するものを作ろうと真摯(しんし)に作品に向き合っていた人で、その姿勢に影響を受けた後輩は数多い。僕自身もそう。繊細でシャープな線など、テクニックも画期的だった。「フーテン」などに描かれた愛すべきキャラクターは、今見ると現代的な人物像である気がする。

ZAKZAK 2005/07/06


永島慎二氏が死去 私小説的漫画で一時代築く


 「フーテン」など私小説的な作品で一時代を築いた漫画家、永島慎二(ながしま・しんじ、本名真一=しんいち)氏が6月10日午後10時15分、慢性心不全のため東京都杉並区の病院で死去していたことが5日、分かった。67歳。東京都出身。自宅は東京都杉並区西荻北2ノ28ノ16。葬儀は親族で済ませた。喪主は妻小百合(さゆり)さん。

 中学を中退してプロの漫画家を目指し、1952年「さんしょのピリちゃん」でデビュー。61年に発表した漫画界の舞台裏を描いた作品「漫画家残酷物語」で評価を確立した。その後、新宿で放浪生活を送るが、自伝的作品「フーテン」で復活、独特の作風で漫画青年の教祖的存在となった。他の代表作に「若者たち」「花いちもんめ」「柔道一直線」など。
 33歳で糖尿病にかかり、4年前から人工透析をしていた。ギタリストの永島志基氏は長男。

(共同通信) - 7月6日1時19分


流れ星通信BBS

熱き夢より覚め 7月の雨 寒し
 投稿者: シバ  投稿日: 7月 6日(水)18時31分32秒
中々雨が上がらずにさっぱりしませんね、今日も雲は重たいです。
(中略)
♪メグどん、そうですね、本人の遺言で、葬式、告知、献花、香典いっさい無しと言う事で、6月10日に密葬なされたそうです。鎌倉の ずいせん寺という所にお墓があるそうです。わたしが、17から18才にかけて、内弟子としておせわになりました。当時、柔道一直線やフーテンという作品などをお手伝いしたのです。とくに、フーテンは私の担当で、新宿に背景のスケッチとかを描きに行ったりしました。住み込みしていた当時、ボブディランのブロンドオンブロンドを買って来て先生の部屋のステレオで聞いたりして、音が大きいと叱られたのを思い出しました。私が17歳の頃です。これからも、又色々な事を思い出すのだと思います。なぜと言うに、あの頃が私の原点のような気がしますから。
♪フォーク&ナイフさま、そう言う事なのでした、本当に残念ですね。
♯訃報が続きますが、受け入れて行くしか術がありません。慎んで、永島慎二先生の御冥福をお祈りいたします。


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