2010年7月9日(金)
屋久島へ行ってきました

先月の25〜27日、屋久島の縄文杉までのガイド付きツアーの広告にのって、屋久島までいって来ました。一年に360日雨!というのは後で聞いた話。行きの鹿児島市内から雨の中でした。なんと言っても晴れ男ですから、ひょっとして屋久島に着けば梅雨前線もさらに北上して晴れるのでは・・・との期待はありました。
トッピーという飛び魚の愛称をもつ高速船で約2時間。船酔いに気を付けてと聞いていたわりに平穏な船旅は軽く居眠りしているうちに到着となりました。小雨のぱらつく屋久島は島の中央部に佇立する山岳部が雲で見えず、周囲にへばりつくように島民1万4千人が住む一周105kmの丸い島です。1000m級の高峰が30座もあるそうですから島のほとんどは山ということです。年間降雨量8000〜10000mm日本一の多雨地帯です。早速滝がお出迎えです。昨日は大雨で水量の増えた滝は轟々と音を立てて耳にひびきます。
これは千尋の滝です。

2010年3月2日(火)
生きる意味について
この世に生きることの意味についてどう考えたらいいのだろうか?生まれたときから、親の愛、財産、才能すべてに恵まれた人もいれば、最近では実の親に虐待され、幼くして命を絶つかわいそうな子供たちもいる。それでも日本のように一応は平和で安全な国に生まれるものもいれば、内戦や明け暮れ、今日の食べ物も保証のない国や地域に暮らさねばならぬ人たちもいる。彼は幸せで此方は不幸せと普通は思うのだろうがそんな単純なものでもないのではないかと思う。
この世に生まれ来たった目的が様々な経験を通し、肉体や心の主たる霊体が何をどう学ぶかにその意義があるとするなら、あまりにも恵まれていることは却って魂の成長には不利にもなりうるとも考えられる。どのような境遇、資質、性格であれ、その所与の条件の中での努力や苦悩、悔恨、喜びや感謝にこそ霊体の成長があるような気がする。
とすれば、生まれた時代や場所、容貌や才能、性格の良し悪し云々は何も人生の価値や意義とは関係がないのであり、どのような境遇であれ、どのような人たちと交わるにせよ、成功不成功も超越し、ただ自らがどう生きるか?そのことだけが問題なのだということに気がつくのである。
2009年8月2日(日)
神は愛なり・・とはどういう意味なのだろう?

幼稚園のころ、お言葉を暗誦する課業があった。暗誦するお言葉はキリスト教の聖書の中から採られていたと思うが、当時も今も賢いほうではなかった僕はどのお言葉も友人たちのようには覚えられなかったことを覚えている。今薄々ながら”貰うより与えるが幸い”とかいう文句があったかどうだったか?・・古いはるか昔の記憶を手繰ってみる。
神は愛なりというのは兄や姉たちが家で一番簡単な”お言葉”だということで言っていたもので、私自身が幼稚園で人並みに覚えたものでない。そんなことはどうでもよいのだけれど、その後も時に触れこの言葉を聴いたものである。神は愛であるとはいったいどういう意味で語られるのであろう。  神の表れは愛という形で現れているという意味なのか?文字通り神と愛は同意儀、イコールということか?
 そのような解釈をもっと掘り下げたところからふと思いついたところを記してみたい。
まず神とは何なのか?在るものあるいは在るものすべて。存在するものすべてが神であるという考えがある。旧約聖書で明確に私は在るものであると宣言しているほどだから間違いはない。エホバと呼ばれたりアラーといわれる唯一絶対神は人間に対し圧倒的な力でただ平伏すことしか人間に許さないものがある。一方日本で言われる神は石や海、山、木など自然とか宇宙とか森羅万象一切のものに
神は宿るという立場で、さながら西洋は人間とは自然や周りの環境を思うとおり好き勝手に変更しても構わないしそれこそが人類の進歩であるという人間中心主義を許容するものとして絶対神が人間に特権的な能力を与えたという捉え方ができるのではないだろうか。それに対し日本の神はアメリカインディアンやアボリジニ、アイヌそしてハワイなどなどの先住民が言うのと同様に自然との調和、環境との共存という
控えめな人間存在のありようから発現する一切合切の存在には皆、神すなわちミタマがあるのだという考え方と捉えることができよう。神という概念も西洋と日本や環太平洋のネイティブ文化では斯様に違うのだけれど、人間を含めすべての存在に神を認める立場と、人間とは厳然と別なる超越神として考える立場とはや張り大きな違いがあるといわねばならない。
西洋の人達が”神は愛なり”をどのように理解しているかについては今のところ尋ねたことがない。とりあえず神を在るもの、存在するすべてと解釈すれば、在るものすべては愛ということになる。
愛というのは人間的な言葉である。慈しみ、いたわり、大切に思う心、思いやりを愛というとすれば、私たち一人ひとりがこの宇宙をどう解釈するかを問うているのだろうか?この宇宙の隅から隅まで愛の波動が充満すると思えばその人の心の念に呼応して愛の波動が共鳴するるといいたいのだろうか?逆に愛ではなく憎しみや恨みの念を持ってこの世に生きようとすればこの世はすべて暗黒の念波で満ち溢れるということになるだろう。
とりあえず、ヒトはすべからく、存在は愛の波動で満ちているという観点で生きることが、その生存のために不可欠なことを予言する言葉が”神は愛なり”であったということで本稿を終えておくことにする。

2009年6月7日(日)
科学主義の落とし穴

「足利事件」女児が誘拐され殺害されたという事件です。最高裁で無期懲役が確定された人が再DNA鑑定の結果、犯人でない可能性が極めて高い(4兆7千億分の1だそうです)ことが判明し、再審の開始を待たずに検察が釈放の決定をしたとの報道がありました。無実の罪で17年間も間、刑務所で暮らさねばならなかった受刑者に1秒でも早くと当局も判断したのでしょう。犯人扱いされた菅家さんの身になってみればどれほど悔しい思いをしてこられたか察するに余りあるものがあります。いい加減な捜査で結論づけた警察と検察並びに、DNA鑑定だけで判断した裁判官のでたらめさ・・誰もが許せないと思うことでしょう。問題は多々あるのですが、ここでは科学的という名のもとに多くの誤りがまかり通ってきているという事実について少し述べたいと思います。実証主義とか科学的合理主義といわれる一見合理的で信憑性のある嘘が近代にあってもまかり通っていることは決して忘れてはならないことと思います。政治的なドライブ」のかかった情報はほとんど信じるに足らないことさえも多くの日本人は未だによくは知りません。政治の話は横に起きまして・・例えば、「食べ合わせ」もしくは「食い合わせ」など、昔、そう私の子供時分には売薬の人が薬と共に各家庭に配ってくれたものです。食べ合わせ注意!と壁に貼ってありました。昭和30年代ですね。その後権威ある学者たちが科学的根拠は無いといいだして、いつの間にか人々の知識から消え去っていったわけですが、単に栄養素やカロリーで人の食べ物の合理性を解明できると思った西洋近代栄養学が現実に多くの過ちを犯してきたことは承知のとおりです。最近ではアーユルベーダ医学の知識が広まってくるにつれかっての「食い合わせ」の意味が理解され、見直される事態となっています。冷たいものと熱いものを同時に食べれば身体の消化系が混乱してしまうであろうことは誰でもわかることですが、人体を物質還元的に解釈するだけでは真の身体理解に程遠いことを20世紀の終わりになってやっと気がつきだしたと言うことでしょうか。
いろいろあります。世界各地にある巨石の遺跡・・いつ誰がつくったかも記録が無いためにわからない遺跡・・有史以前ということですが、日本にもたくさんあります。イワクラと呼ばれる巨石遺物は多くの学者から無視され、あろうことか自分たちの学説に抵触するとの理由から破壊までする学者がいたことを忘れてはなりません。アトピーにステロイドはよく効く薬だから上手に使えば怖くは無い。だから専門医に任せなさい・・皮膚科学会の会長が公式に記者会見で仰ったのは10年ほど前でしたでしょうか?以来訂正の会見報道を聞いてませんのでやはり同じ見解なのでしょうか?発熱に解熱剤、下痢に下痢止め、インスリンが足りないならインスリン注射・・と症状を抑えるだけで、病の本質を改善するようにはなかなか進んでは行かないですね。
言い出せばキリがありません。目に見えない「氣」の世界を感じ取れなければ肝心の兆しを見落とすことになり、病の予防などできるはずもありません。もちろん、科学はダメだというのではありません。科学の未だ至らないことに謙虚でありたいと思うのです。

2009年5月18日(月)
ホ、ポノポノと老人問題

ホ、ポノポノというのは、ご存知の方も多いと思いますが、ハワイの凶悪犯罪者精神病棟を任された精神科医が、手の付けられない凶悪精神病患者に対し、I'm sorry. とI love you. の思いを毎日送り続けたことにより、数ヵ月後には続々と症状の安定と改善が見られ、数年を経ずして患者がいなくなったという理由で病棟そのものが廃止になったというホントのお話です。
この世界はすべて自分自身の心の影であるから、戦争や殺人をはじめ如何なる犯罪、自然災害さえも、すべて人間の心の中にその種があり、それを一つ一つ浄化することでしかそれらを根絶することはできない。「ごめんなさい」「ありがとう」「愛してます」は自分の心の曇りをクリーニングする魔法の言葉なのだとヒューレン博士はおっしゃいます。この世の罪穢れ、争い、不正、妬みや虐め、病気‥
近代は自己とその個我と対立する一切の事象との二元的世界観をよりどころに現代文明というものが展開されてきました。この21世紀に入り、争いの絶えぬ世界情勢と物質マネーに翻弄される今日の経済状況を見るにつけ、それは私たちに明日はあるのか?いや人類は生き残る価値があるのかしら?とそれは同意語だと思うのだけれど、その答はすでにホ・オポノポノにあるではないかと思うのは私ばかりではないだろう。
老人問題や介護の問題もふっと思うことは老人の問題なのではなく私たち一人ひとりの心の中にある死や老いの恐怖が老人をして過度の老後への恐れや生への執着となって現れていることに思い至る。私たち自身が生と死の意味を把握できれば老人問題など消え去ることに今気付くのである。

2009年5月12日(火)
部分をいくら詳細に調べても本質の理解に到達するとは限らない

先だって来院の患者さんです。左の足指の基節関節が赤く晴れ痛いという。外反母趾ですと最初から患者さんが病名を告げられた。確かに左の拇指基底部が腫れているが外販の程度はそれほどでもない。よく調べてみると肩頸はこりこりに凝って、足の冷え、不眠、腹部の硬さ、季肋部のコリと圧痛、脈は肝臓の気血の鬱滞を示している。60歳のご婦人である。左足の親指の痛みさえ解消すれば充分という訴えに対し、「左足の拇指が腫れて痛いのでその部分が病んでいると思うでしょうが、どのような症状であれその患部だけが病んでいるということは無いのです。あなたの肩こりもイライラする感じやなんとなくすっきりしない身体の状態も便秘傾向でさえも身体の不調和がもたらしているのでそれを解決してゆけばすべての症状が全部まとめて改善します。」と私は申しました。痛いという患部を治そうとするからなかなか治らないのであり、身体の調整をして本人の自然治癒力をたかめれば、すべての症状が改善します。と私は答えました。肝の精気を補い、五臓のバランスを調え、患部の気を通してやれば速やかに改善するものです。治療が終わるころには患部の腫れが幾分小さくなり、痛みはほとんど感じなくなりました。脇の張りや肩頸の頑固な凝り、その他なんとなく気分が悪いという訴えも「治療後はずいぶんと楽になりました。」と患者さんが言うほどには改善しました。十年以上前からの症状が約半分ありますので、1〜2回で完治することは無いのですが、本人の生命力をたかめ、自然治癒力をたかめれば諸症状がまとめて改善してゆきます。ようするにその病める部分だけを治療してもあまり効果はないし、身体全体を調整してゆけば自己の治ろうとする力が発揮できるようになり、より速やかに治癒に向かうことになります。伝統的な漢方医学では心、肝、脾、肺、腎五臓の気を調整することにより身体の健康度をたかめ治癒力や免疫力を発揮できる身体の状態を改善することができるのです。

2009年5月7日(木)
自律神経失調症

「お医者さんに自律神経失調症といわれました」
と患者さんがよくおっしゃいます。肩こりであれ不眠であれ、イライラ、のぼせ、
発汗異常に眩暈、消化不良、胸焼け、便秘等など、およそ不定愁訴と呼ばれ
症状を伴ったものは自律神経失調に違いない、わかりきった自明のことと思いますが
さすがに医師に言ってもらうと患者さんは安心するようです。それはいいのですが、要はチャンと
直してもらえれば言い訳です。この直してもらえればという表現はかなり問題のある表現ですが
何でもかんでも身体のことでも調子が悪くなったら医者にかかって保険で直してもらえばイイと
安直な考えで普段不養生を重ねていよいよとなって医療機関にかかり、やれなかなか治らないとか
後悔することが多いのではないかと危惧するのですがそのことはまたゆっくり話題にすることとして
・・その自律神経失調症ですが、ちょっと我田引水みたいですが鍼灸治療ほど有効な方法は
マア漢方とか気功ヨガ等あるとはいえ最も手っ取り早く効果の確実な方法といえば鍼灸だと思います。
とにかく受けてみてください。施術を受けられた方は蘇ったような爽快感を味わえるとおっしゃいます。

2009年5月4日(月)
蒼天堂物語

還暦など他人事と思っていた自分にもいよいよそれが近づいてきた。かっては人生五十年といわれていたことを思えば、今の人はずいぶんと長生きになったものと思う。巷には老人があふれ、介護や寝たきり、認知症などの話題にことかかない昨今である。もちろん他人事ではない。自分自身歯はすき、十数年来の頸肩の凝りに大小便は締まらず、髪はとっくの昔に禿げ上がっている。天干地支による還暦というけれど、実は人の一生を観察した古人が人の寿命に基づき設定したものなのではないのかと思うのである。お蔭様で大病も無くこの歳まで活かせてもらった。最後の時間を何とか自分なりに納得できるものにしたいと思う気もある一方、予想される終局への準備をしておかねばならないとも思う。この世に生きるということは如何なる意味があるのだろうか?この問いも命あってのもので、死んでしまえば考えることもできなくなってしまう。だからこそこの世で考えておかねばならない。ヒトは食べたり、飲んだり、友人や異性と交わり、便利さを求め工夫し、社会のなかで役割を演じ、苦労しても困難を乗り越えることに喜びを感じるように設計されている。若いうちは知恵も体力も充分あり、欲望実現への衝動に突き動かされ生きていく。少々の挫折ぐらいはかえって次の挑戦の肥料になる。しかし主観的にも客観的にも体力知力持続力とも衰えてきたことを知るようになったとき、はじめて人の生あるいは自分の人生の意味を考えるのかもしれない。世間的なそれなりの成功や実績を収め得た人であれ不本意な人生と思っている人であれ、それなりの自己満足感に浸りたいと思う人がいるかもしれないし、どうしても納得できないであくなき挑戦を続ける人、人の一生こんなものかと諦める人等等様々な終了劇を演じることとなる。少なくともまだこの意識がしっかりしているうちに自己欺瞞ではない真実のところを自分なりに認識しておきたいと思うのである。