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「美味しい!」が好き 特別編

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2004年01月03日(土)

母の四十九日に寄せて


実は、昨年の7月24日に突然入院し、10月24日に母が他界しました。
その母の四十九日である12月11日前に書いた文章です。

母が死んだ。
私は、小さいときから、母に可愛がられた記憶が薄く、大きくなってからも、母はどうにか私に母が考えた通りの人生を送らせたいと、押し付けがましかったので、10年程前は、「きっと、母が死んでも悲しくない」と予想していたのだ。
でも、実際、母が死んだら、予想に反して、そんなことはなく、本当に悲しいという感情が湧いてきた。

それは、やはり、「私を可愛がってくれた人を失って悲しい」という種類のものではなく、「自分が大切に守ってきた人を最後まで守りきれなかった」という後悔であった。
そして、生きる気持ちが強く、まだまだ生きていたいと考えていたし、何でも自分が考えたとおりに物事を動かさないと気が済まない人が、病気に勝てず、自分が望まないのに、無理矢理生命を断たれたことが可哀想で仕方ない。
間接的な死因は、C型肝炎だった。
若いときに、確か、足の指を手術したときに、止血剤を使ったという話を聞いた覚えがある。
どうもそのときに、肝炎を移されてしまったようだ。
それさえなければ、母方の家系は身体が丈夫で、長生きできる体質なのに、母は、77才を迎えてまもなくで、命を閉じた。

私と母はずっと長い間気が合わないし、心が通ったことがなかったが、父が死んで 10年、私は、父という大黒柱を失った家を父がいた頃と同じとは言わないが、同じように安心して皆が生活できるようにしたくて、明るい家庭が欲しくて、父から知らず知らずの間に習った「食事を通して家族を思い遣ること」を実践した。(その過程が「美味しいが好き!」というエッセイになる。)
そして、父が死ぬ病床で「お母さんを盛り立ててあげてくれ」と言い残したので、母の面倒を見た。
母は、夫を失い、知らず知らずに頼っていた人がいなくなり、弟は家庭を持っていたので、必然的に、独身の私を頼るようになり、母と私の仲は、少しは改善した。
母は、私に少し気を遣うようになった。

私と母の関係はそもそもが不幸であった。
母ははっきりとは言わなかったが、どうも、父との結婚を望まなかったが、親の命令に逆らえなくて、「親元から遠く離れたところに住む好きでもない人に嫁いだ」ことを「親孝行」と考え、そして、「普通の人ではできない大変なことをこなしている」という誇りを持ちながら、結婚生活を父と不仲の状態で送っていたようだ。

そして、そこに最初に生まれた私が父親似の女の子であったせいだと思う。
また、母は、大人しくて優しそうな女の子が好きなのに、私は、きつくもないと思うが、元気で活発な性質に生まれついてしまった。
どうも、母は、そんな赤ん坊の私を見て「可愛い」という感情が起きなかったようだ。

そして、母は、小学1年生のときに父親と死別していて、父親に可愛がられた思い出もなく、福祉制度もなかった戦前に、片親ということで苦労して育っている。
その母に初めて生まれた女の子は、父親に可愛がられ、東京下町の親戚の仲の良い家で、ちやほやされ、何かあると、親戚からお小遣いやお祝いをもらうことになる。
どうも、母は、それも気に入らなかったようである。
良く、「あんたは、二親揃っているだけで幸せなのだから」と言って、色々なことを我慢させられたし、お祝いをもらう私に色々嫌味を言った記憶がある。
私からすると、二親揃っている子供の中では、最低の育ち方だと思う。

また、忙しい酒屋に嫁いだので、母は、猫の手も借りたいくらいの忙しさだったということもあって、母は、私を可愛がることはなく、「長女が母の手を借りるなんて言語道断、私は長女の面倒は見ない。まずは自分のことは自分でやらせて、しかも余りある仕事をこなすために、長女を使う」と自然に思い込むようになったのだと思う。

小さいときから、母が私を可愛がらなかったこと、何もしてくれなかったこと、支配したがっていたこと、母の命令、教えに逆らうとこれでもかという程ネチネチ怒られること、それらのことが小さいときから私の悩みであったが、誰かに悩みを打ち明けても、皆、私の母が忙しいことを知っているので、「母親は子供を可愛がるものだ、あんたの母の行為はその一部だ」と私の訴えを検証することなく棄却されて、悩む私がいけないように感じるしかなかった。
(私は無理矢理母の私に対する行為を優しさと思い込むしかなく、大人になっても「優しさ」という意味を取り違えざるを得なかった。)

小さい時、母に「いい子だから」と言われるのが大嫌いだった。
母が私に「いい子」という言葉を使うのは、物を頼むときだけだった。
母が私をちゃんと見て、「この子はいい子だ」ということはなかった。
だから、母に「言われたことはやるから、お願いだから、物を頼むときに『いい子だから』と言わないで。『いい子』と言うのは、ちゃんと私を見て、私がいいことをしたときに使って」と言ったのに、母は、何を馬鹿なことを言っているという風に、それを止めなかったし、私を一人の個性を持った人間と見ることはなかった。

大人になってから、色々な本を読んだり、経験しているうちに、「母は、私を自分の分身だと思い込んでいた」ということに気付いたのだ。
そのことがわかったら母の私にした行為が全て納得できた。
そして、小さいときからの母の私を分身として扱う態度は、母にとって当然で自然なことで、本当に確信的で、一点の迷いもなかったと思う。

私は母の分身なのだから、「母のやりたくないことを代行し、母が不在のときは、他の家族が不自由しないように私が母の役割をこなし、母が大変なときには使い走りとなって手伝う、忙しい婚家で苦労している母を大変だと気遣い、母の快適を第一に心掛ける」ことが母にとっては、自然なことだったのだ。
分身は、決して母を超してはいけない、また、自分の好き嫌いを言ってはいけないし、母の好き嫌いを自分の好き嫌いと思わなくてはいけないのだ。
私は、母に可愛がられた記憶がないのに、自分が長男や末っ子を可愛くて、しかも忙しいものだから、いつも私に「お姉さんなのだから、弟や妹を可愛がれ」と言われていた。
しょうがないから逆らわなかったが、心の中で、「私があんたに小さいときからちゃんと可愛がられていたら、命令されなくても、弟妹を可愛がるお姉さんになっていたのに...」と思っていた。

そう言えば、小さい時から今まで、母は、妹や弟の好物は覚えるし、気遣いをするのに、私の好き嫌いには無頓着だった。
死ぬ直前の2,3か月、病院で、母の夕飯に付き添っていたとき、母に出される食事で、「これ、美味しいから食べなさい」と言われたことがなく、「これ、食べたくないから、真理ちゃん、食べて」と何回言われたことか。(笑)
やはり、私は母にとって分身なんだな〜と感慨深かった。
でも、やはり、出来の良くない普通の子供にとって、自分が「親が嫌いなものを押し付ける」対象であるより、「美味しい物を食べさせたいと思う」対象である方がいいと思う。

母が亡くなる一週間前に、脳にアンモニアが回ったということで、夢と現実の境が外れたと、医者に言われた。
そのときだったろうか、父方の親戚が来ていたので、皆で弟の話をして、ケラケラと、母の枕もとで私が笑ったのだ。
母は、何を話していたのかは、わからなかったと思う。
私が面白おかしそうに弟の名前を発し、ケラケラと笑ったことに、10分くらいしてから、反応したのだ。
母は困ったような顔をして「真理ちゃん、弟をいじめてはだめでしょう?」と諌めるようにゆっくり言った。
その口調が、昔の母の昔懐かしい口調で、その言葉を聞いたとき、小さい時、弟と兄弟げんかをしていると、どちらが悪いかなんて、全然きかないで、ただただ、「弟を苛めるな」と一方的に私にだけ言う母を思い出した。
私の弟は父に似ていなかったし、おっとりしていて、母は可愛かったのだ。
この10年、母は夫を失って、理性で私を頼るようになったけれど、理性が薄くなったときに、やはり、母の中で、私は、「母が見ていないと、おっとりした弟をいじめるかも知れない活発な姉」なんだな〜と改めて思った。
そのとき、悲しいという感情は起きなかった。
私は、母が私をどうして私を可愛がらないかがわかってから、もうそんなことは超越して、母の面倒を大切な家族として見ていた。
ただ、昔、弟を溺愛し、私を弟を苛める子と見ていた昔の母に再び会えたような不思議な感じであった。

母の最後の頃、相当アンモニアが脳に回って、子供っぽくなってしまったけれど、まだ、入れ歯が口に入っていて、母が発する言葉がわかっていた時期に、私が病院を去るとき、様態が相当悪くなって、今まで以上に一人病院に残されることが本当に淋しいだろうと、一瞬、私の表情が、オロオロとした思いつめたような表情になったのだろう。
「お母さん、明日も来るからね」と言ったら、母は、一瞬「オヤ」と言った不思議そうな表情を見せたかと思うと、嫌味っぽい笑顔を作って、からかうように「真理ちゃんも優しくなったね〜」と言った。
一瞬、「こんなに面倒見ているのに何で?」と思ったが、それも、小さい時、何度も言われた覚えるのある言葉、口調であることにすぐに気付いた。
母にとって、「優しい」というのは、生まれつきが大人しくて、何かあったら、どうしよう!と一瞬怯えるような人が持つ優しさが「優しさ」なのだ。
(母の姉たちがそういう人たちだったのだ、小さいときに、母の脳には、そういう優しさだけが「優しさ」だとすり込まれてしまったのだろう)
私のように、別に、気持ちが優しくないわけではないけれど、生まれつきの性格が、困ったことに怯えるより、立ち向かってしまうタイプの人が示す優しさは、どうも、母には、優しさと映らなかったのだなとわかった。
母は、入院中、私が「母がいなくなったら、どうしよう、困る」とオロオロして欲しかったのだろう、でも、私は、生まれつきの明るめの性格と結構厳しい環境で育ったせいで、母にオロオロした態度を見せなかった。
それに、心のどこかで、この入院で死ぬと思いたくない気持ちも強かったのだと思う。
母が入院してからずっと、私や家族は、母が退院したら、すぐにでも商売を再開できるように、自販機の世話をしてきた。
そして、私は、母が「自分がどうなるのだろう」と心配すると、ゆっくりと明るい口調で、「皆も、お母さんが戻ってきたら、また、すぐに前と同じようにお店ができるよう、頑張って自販機を続けているのだから、お母さんも頑張って」と励ましていた。
私がオロオロするところを見せたら、母が「私はそんなに悪いのか」と思うと思ったのだけれど。

死ぬ5日前だったか、母はもう正常な意識ではなくて、子供に戻っているような感じのときに、私が一回泊まりこんで看病したことがあった。
その時、そういう病人はそのようなものだと聞いたが、夜になって、電気が消され、自分がいる環境が真っ暗で静かになり、周囲に人の気配がなくなると、眠れなく、暴れるというのではないが、安心感が取れてどうにかそれから逃れようとする行動をするものらしい。
母は夜中中、色々なことをしたが、天井近くにぶら下がっている数本の点滴の管を一つに集める器具をしきりにいじりたがった。
私は、その度に、強く言ったつもりはないのだけれど、「お母さん、だめ、これは大事だから触っちゃだめよ」と、優しく注意して、手を触って他のものを触らせようとしたのだ。

翌朝、母の様子を見ようとベッドの脇の柵に身体をつけながら、横たわる母の顔に覗き込んだ私のお腹が、母の点滴の器具を柵に押し付ける状態になって、私のお腹がその器具を触っていたのだ。
私はそのことに気付かず、いっぱし「お母さん、大丈夫?」なんて心配そうに母を覗いているのに、母は、私のお腹を指差しながら、厳しく注意をしている表情で、入れ歯が入っていない口で「フニャ、フニャ、フニャ〜!」と語気荒げに言ったのだ。
私はすぐ理解した。
「あ、ごめん、昨日の夜、私が『触っちゃいけない』と散々お母さんに注意したのに、自分で触っていた、私って馬鹿だね〜、お母さんを注意する資格なんてないよね〜、ごめん、ごめん」と大袈裟にはっきりゆっくり言ったのだ。
そうしたら、母は、目をつぶったまま、わかったかというように、語気荒げに「フン!」と言いながら、大きく頷いた。
そうなんだよね、私はお母さんの分身なんだから、お母さんを注意するなんて、おこがましいよね、お母さんの方が偉くて、私はだめな子なんだよね〜という感じ。
母は、この期に及んでも、分身である私に、注意されることが大嫌いなのだ、「あんたは、ご主人様である私に『触っちゃいけない』なんて、命令や注意なんかできる立場じゃないのだからね、それより、自分が失敗しないことを心掛けなくちゃ」と言いたいのだろうと思った。
心の中で、「本当に最後の最後まで負けん気が強いのだから」と笑ってしまった。

何か、本当に最後の最後の看病で、母にとって、私は「出来の悪い分身」だったのだと、再認識させられることが多かった。
出来は悪かったが、私は、長年鍛えぬかれたそれなりの「母のパシリ」であり、この10年は、母が楽しく暮せるよう、十分ではなかったけれど、色々努力してきたし、年老いて弱っていくだけでなく病気を持っていた母に、できるだけ調子を合わせ、時間的にも精神的にも寄り添っていた。
でも、結果、母が死を望んでいないし、早く家に帰りたいと言っているのに、そこから、救ってあげることができなかった。
10年間の私の行いが実は何の役にも立たなかったような気がした。

私は「優しい母」を知らない。
ずっと、母のことで悩み続けていた。
でも、母が死んでみて、可愛がってくれなくて、変な関係だったけれど、やはり、あの母が私の母だったのだなと改めて思った。
できの悪い分身でごめんね。

後悔の多い母の最期であった。
良かったことは、死ぬ数時間前、母に泣かないでちゃんとしたお別れの言葉が言えたことだ。
母の容態が落ち着いていたときに、母の枕もとで母の顔や頭を撫でながら、母の耳元で「お母さん、大好きだったよ。」と言ったら、母が目を開け、入れ歯が入っていない口で「う〜う〜」と反応したのだ。
私は、開いている母の目を覗き込んだ。
母の瞳は、澄んでいて、穏やかだった。
その言葉が「私もだよ」と言っているように感じられた。
最後の最後で、初めて、母と気持ちが通ったような気がした。
私は続けて「全然仲良くなかったけれど、最後の10年、ようやく仲良しになれたね、10年間、一緒に暮して楽しかったね。有難うね。最後までお母さんを守れなくて本当にごめんなさい」と泣かないで、穏やかに母に言うことができた。
「仲良くなった」と言っても、世間一般の母子のようなべたべたしたような気持ちの通い合っている仲良しではない。
でも、私にとっては、この10年は母をつかず離れずで大切にした10年だったし、母にとっても、私を頼った10年であったのだ。
私が側面援護し、母はお店が好きだとお店を守り、他の子供や孫を可愛がり、若いときのような気負いが消え、普通のおばあさんのように楽しそうに穏やかな気持ちで愚痴を言いながらも自分のペースで、何かを諦めたり、悟ったりしながら、何かに楽しみを見つけながら、暮してくれることが嬉しかった。

今まで書いてきたことを並べると、我が母は私にとってひどい母親に思えるかも知れない。
でも、母には、「確信」があったのだ。
どんなに私を支配的に扱おうと、「ずっと母親の近くで生活できる子供は幸せ」だと。
母は本当は、山梨の祖母の近くにいて、親兄弟と頻繁に行き来したかったのに、東京の大家族に嫁に出され、一人他人の家で暮らすことを心底不幸せだと感じていたに違いない。
私の母にとって、人生で一番楽しかったのは、やはり、山梨の実家で、片親で苦労しながらも、母親、二人の優しい姉、世話をすべき三人の弟妹に囲まれてワイワイガヤガヤ安心して気兼ねなく生活したことなのだと思う。
だから、母は私に優しかったり、私を理解してくれることは本当に少なかったが、決して、「苛めていた」わけではないのだ。
母は母なりに「真理ちゃんは、母親の近くにずっといられる、そして実家で他人に気兼ねをすることなく、言いたいことを言える生活を送る」という幸せを私に与えていたつもりだったと思う。
母の姉は、実家の近所に嫁に生き、毎日、実家に行っては、その母の面倒を見ていた。 そういう姉を持つ私の母にとって、長女が母の面倒を見るのは当然のことだし、母にとって、それを私に要求するのも自然なことだったのかも知れない。

お母さん、神様や仏様に頼んで、生まれ変わって来て、また、どこかで会おうね、会いたいよ。
でも、今度は、お母さんと子供の関係では会いたくない。
今度、会うならさ、両方とも優しいお母さんを持っている女の子同士がいい。
そうしたら、私は、「千枝ちゃん(母の名前)たら、面白いんだよ、すご〜く気が強くて、頭が良くて、頑張り屋さんで、負けん気が強くて、ちょっと偏った性格なんだけれど、可愛いところもあって、笑っちゃうんだよ」なんて、自分のお母さんに千枝ちゃんのこと話しながら、余裕を持った良い友達になれると思うよ。

じゃ〜ね。
もうすぐ四十九日だ。
お母さんも、私には見えない世界で、極楽に行けるように修行しているのかな。
「素直にね、心を広く持って、お釈迦様の言うことをちゃんと聞くんだよ」と、いつも母の遺骨に向って、拝んでいた。
極楽で、お父さんに会えたら、今度こそ、素直にね。
お母さんは、頭も良くていい人なのに、素直じゃなかったし、ひとつのことやひとつの悲しさに固執すると、他のことの良い面が見えなくなって、対人関係が不器用なんだから、そこのところ、注意してね。

私は、これから、父母が大切にしたことをもう一度見つめ直して、新たな人生を築くよ。
それとね、お母さんの最期、悔やまれることが沢山あるし、死んだこと、心から悲しいけれど、その気持ちだけにとらわれていると、他の人に迷惑をかける可能性や自分の人生間違えてしまう可能性があるから、普段は、そんなこと、どうってことないっていう風に、明るい人生を生きていくよ。
でも、絶対、お母さんのこと、忘れないし、母を失った悲しみは、心の中から消えることはないからね。
また、お母さん、どこかで会おうね。



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2004年01月05日(月)

たけのこまんじゅう


去年の夏の終わりに、飯田橋の地下道で、「お助け料理人平野寿将が行く」という本が安く売り出されていたので、買った。
この人、テレビで一二度見たことがあっただけだが、経歴を見ると、プロボクサーの専属料理人の経験があり、面白そうだと思ったのだ。
色々な料理が載っていて、確かにプロとして色々な経験と技術がありそうな内容。
私からすると、一番興味があったのは、結構、精進料理の技法が多く用いられていることだった。
(プロボクサーの減量の献立を、きっと、精進料理の技法でこなしたのだろう)

それから少し経った9月の連休のとき、病院からようやく二泊三日の外泊の許可がおりて、母が久々我が家に帰ってくることになった。
母が帰ってくることは本当に嬉しかったが、はてさて、何を食べさせようか、とても悩んだ。

一泊目の夕食は、水炊きでごまかすこととし(水炊きは、テーブルで各自で味付けして食べることができるから。母は、塩分○gと表示された小さなビニールに入った醤油を使えば、知らず知らずに塩分を多く摂り過ぎることはない)、二泊目の夕食は、色々考えた末、この平野寿将さんの本に載っている「たけのこまんじゅう」に決めた。

我が母は、肝臓を患っているので、減塩に注意しなくてはいけないし、蛋白質は良質の物を取らなくてはいけないのに、本人、動物性淡白質、特にお肉が苦手であるし、魚も鮮度に物凄く敏感でうるさい。
筍なら季節ではないけれど、大好きだし、揚げ物が嫌いな妹がいない日だったので、このお料理に決めた。

外泊の初日、母は迎えに行った妹とともにタクシーですっ飛んで帰ってきた。
その日の午前中、検査・治療をして、お昼ご飯を食べて帰って来ると言っていたが、果たして、ご飯はちゃんと病院で食べたものの、食後の薬を飲んでいると、30分は遅くなると言って、薬を飲まずに帰って来たとのこと。

迎える私は、たばこの仕入があったので、何もできなかったが、いただきものの梨とカステラを沢山用意し、お茶の支度をして、待っていた。
母が家に着くと、母の部屋に、私達兄弟、甥たちが集まり、おばあちゃんを囲んで、皆、嬉しそうな顔で、梨とカステラに手が伸びる。
母は、皆が美味しそうにお菓子や果物を食べたり、楽しそうに話している間にあって、嬉しそうだった。

さて、たけのこまんじゅうは、本に書いてあるとおりの分量と作り方ではなかった。

水煮の筍を買って来て、その3/4をフードプロセサーでおろし(おろし金ではうまく繊維が切れない)、1/4を粗く刻んで水気を拭いておく。
(水煮の筍の大きさは、二人分だったので、中くらいだったような気がする。)
おろした筍の水気をきゅっと絞って、そこに、冷蔵庫に残っていた山いもをすりおろし、鶏肉の挽肉を適当に入れ(本によると、筍の1/4程度)、塩・胡椒・醤油を少々入れて混ぜ、硬さを見ながら、卵白を少し入れて、混ぜ込んで行った。(卵白は、二人で1/2個程度のよう)
柔かくなり過ぎると、片栗粉を少々足し、少し固くなるとまた卵白を入れ、という感じ。
で、柔かめだけれど、まとまる柔かさになったところで粗く刻んだ筍を入れ、小さなハンバーグのような形にして、片栗粉をつけ、両面揚げた。

それと同時に、熱々の天汁を用意しておいて、揚げて油を切った筍の揚げ物をじゅっとつけて、引き上げた。

以前、減塩について、色々なHPを探していたら、減塩のポイントは、表面にだけ味をつけることとあった。
揚げると、揚げ物の表面にだけ味がつき、中まで染み込まないそうだし、揚げた香ばしさは塩分少な目の味付けでも物足りないことがない効果があると読んだ覚えがあったからだ。

このお料理、母は食べてくれるかしら、いつも小さなハンバーグでも二つ用意しても、一つしか食べない人だからと、恐る恐る1つだけ母に出したら、「こんなに美味しい物が食べられるなんて、もう病院の食事が食べられないかも知れない」と本当に喜んで食べてくれた。
(あんなに喜んで私の作った物を食べるなんて、2,3年に一回くらいの大当たりだった。)
1つ食べ終わると、真剣な顔で「もう1つ食べてもいいのか?」と言ってくれたのは、本当に嬉しかった、平野寿将様様であった。
きっと、病院の食事と違って、揚げ立て・できたての美味しさもあったのだろう。
でも、ここぞというときに、母の好みにピッタリのおかずを作れて良かった。

どんな味かというと、魚のすり身で薩摩揚げができるわけだが、魚のすり身が筍に変わった感じ。
旬ではなかったけれど、筍の味と香りがする。
作ってしまえば、あ、そうかと思うけれど、どうして、今まで筍をおろして天ぷらにするということを思いつかなかったのだろうと思う。
こういう揚げ物は、きっと精進料理の技法だろう。
同じように蓮で作っても美味しいかもと思うのだが、まだ、試していない。
どちらにしろ、精進料理の技法は研究する価値がありそう。

私もこの料理は美味しかったし、お勧め。
(ただ、淡白な材料なので、胡椒は不要かも知れない。少量入れただけであったが、結構、胡椒の味がはっきりしていた。)

母が私の料理を褒めることは本当に少なかったけれど、最後、あんなに喜んでくれる一品を作ることができて良かった。
この一品は忘れられないものとなった、でも、まだ、二度目は作っていない。

この料理、誰か、母みたいに喜んで食べてくれる人いないかな?



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2004年01月06日(火)

感じの悪い人


以前、私は、自分のエッセイで、「台東区の美味しいところを案内してもらうなら、林家こぶ平さんがいい」なんて書いた。
でも、それは、本人と会ったことがなかったせいだ。
あれは、全面的に取消し。

林家こぶ平さんと、会ったという程ではなく、ただ、すれ違っただけだけれど、本当に感じが悪かった。

去年の夏、知り合いと、上野の山に散歩に行って、谷中墓地の中を朝倉彫塑館の方から、イナムラショウゾウのケーキショップに向って歩いているとき、反対側から見たことのある顔の男の人が歩いてきた。
大分、近付いたときに、林家こぶ平さんだとわかったが、いかにも嫌そうな感じで、前から来る人を避けるように、斜め下を見ながら、顔を見せないように目を合わせないように歩いてきたのだ。

何ていうのか、自分がテレビに出るタレントで有名人だけれど、プライベートに歩いているのだから、「サインちょうだい」とか、「あ、林家こぶ平だ!」なんて、騒がれたり、気楽に話し掛けるのは止めてくれ、できたら、気付かないでくれという雰囲気だった。

すれ違った後、一緒にいた人と、「何か、勘違いしてるんじゃない?あの人」とか、散々悪口を言ってしまった。
私も相当な年だし、勿論、林家こぶ平さんのサインが欲しいとか、テレビに出る有名人に会えたとか、話をしてみたいなんて、悪いけれど、思わないのに。
(実際、相手の嫌そうな顔を見る前、林家こぶ平さんだとわかったときに、「やはり、根岸の人だから、谷中あたりを散歩するんだ」しか思わなかった。)
あんな態度取らないで、不頂面以外の表情で普通にすれ違えば、ただ、「テレビと同じで感じがいい、さすが、両親がしっかりしているから」と思うかも知れないのに、あの人は、初めから、すれ違う相手にそう感じさせることを拒否して、自分の自由な時間を嫌な顔を見せることで頑なに守っていたのだ。
変わった人。
それでは、テレビの林家こぶ平を知っている人に、実は、「テレビでの笑顔は商売用で、普段は不機嫌な顔もできるのだよ」とばらしているようなものだと思うのだけれど、本人、そこのところ、わかっているのかな?

一流か、二流か、私が判断できることではないけれど、「自惚れないでよね〜、あっかんべえ」とか、悪態をつきたくなるようなすれ違いであった。

林家三平師匠がどんな人だか知らない、でも、奥さんの海老名香葉子さんの本を読むと、奥さんともどもサービス精神旺盛で世間を大事にするような、良い印象があったから、こぶ平さんも、裏表のない人なのかなと、私が勝手に思い込んでいただけみたい。
何かに書いてあったけれど、林家三平さんの才能は、「桁外れのサービス精神」で、これは、遺伝子では遺伝しないとのこと。
環境遺伝で遺伝するそうで、林家三平師匠亡き後、急に、海老名香葉子さんが何かを悟り林家三平さんの精神が乗り移ったかのように、テレビに出たり、小説を書いたりして、皆を楽しませた時期があった。
こぶ平さんも、今がまだ未熟なだけで、もっと年を取れば、親の才能が乗り移るかも知れないけれど、今のところ、×。

このエッセイでは、人の悪口は書くまいと思っていたけれど、書いてしまった。

私の弟の高校の同級生の家が、林家さんちの近所で、弟が高校生のとき、その友達の家に遊びに行き、窓から、小学生だったこぶ平さんが見えたので、手を振って声を掛けると、ニコニコして手を振って答えてくれたと聞いたことがある。
彼も、長年の人気商売で色々な人にサービスでにこにこし過ぎて、疲れてしまったのかも知れない。
確かに、テレビタレントというのは、誰にでも感じ良くしなければ、誰かに悪口を言われる可能性が、一般の人より相当高いわけで、大変は大変であるとは思う。



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2004年01月08日(木)

2003年の暮れの黒豆 1/2


去年は、母のことで、親戚に世話になったので、今までより広範囲に黒豆を配ろうと、三回煮てしまった。
(本当は二回の予定だったが、最初失敗してしまったのだ。)

一度目の失敗の原因ははっきりしている。
今まで、黒豆を煮るときは、自分のHPで去年までを反省してから、作っていたのに、今年は、自分がHP離れを起していて、そういうことをしないで、一年振りで、わかったような顔で作り始めたからなのだ。

具体的に言うと、600gの黒豆なら、6リットルのお鍋で今まで煮ていたことを忘れ、300gずつを4.5リットル、6リットルのお鍋両方で、煮出したのだ。
そうしたら、両方が一度に同時に沸騰してしまった。
鍋が二つなのに、私は一人しかいないので、一つのアクは取れたが、もう一方が取れなかったのだ。
一つのお鍋のアクを取る前に、慌ててもう一方のお鍋の火を消したが、一方を取り終えて、もう一方の火を強火にしても、何故か、二度とアクが浮かんでこなかった。
煮汁に混ざり込んでしまったのだと思う。

その上、両方のお鍋が煮上がったとき、「混ぜてしまえば、混ざり込んだアクが薄くなるだろう」と考えたことが、傷口を広げてしまった。
混ぜて、冷めるまで置いておいて、いざ、器に分けようというときに、皮が破けたりの不良品を取り除いて、食べたら、食べたときは良いのだが、2,30分してから、そこはかとなく、口の中に渋っぽい感じが微かにしたのだ。
煮た黒豆というのは、こういう感じがあるな〜とは思ったが、いつもより、若干であるが、それがきつい感じがした。

二度目に煮上がったものを食べると、そういう感じがなかったので、人にあげるものだし、これはボツにした。
このとき、学んだ教訓は、「アクっぽく煮上がったものと、正常な物を混ぜると、傷口が広がる」ということ。(笑)




2004年01月10日(土)

2003年の暮れの黒豆 2/2


母の法事のときに、集まってくれた親戚に「黒豆、暮れに送ろうと思うのだけれど」と聞いて回ったら、一人、年上の従姉妹が「毎年、自分で作っているとのこと」。

何でも、「黒豆は熱いまま鍋ごと毛布で包んでおくと、本当に手間暇かからず、柔かくなる、その効果は絶大」と、教えてくれた。

私は、一昨年だったか、保温鍋で保温した経験はあったが、毛布で包んだことはなかった。

今年は、早速やってみた。
保温するのだから、温かさが逃げない方がいいのだからと、まず、床に足拭きを置いて、床の冷たさを遮断して、その上に毛布を広げ、新聞紙を広げて、準備した。

熱いお湯に浸けておくと、豆が早く柔かくなるのだからと、最初、黒豆を、沸騰した調味液に入れて、一晩置くのだが、これを鍋ごと準備したものの上に置き、順番に包み、一晩置いておいた。
そうすると、どうだろう、8時間くらい経ったのに、まだ、中のお湯は相当熱かった。
保温鍋より、その断熱効果は上。

その後、黒豆を煮ているうちに、用ができると、毛布に包むやり方を利用して、火を止め、台所を離れた。

今回、土日で、2回煮ようと思っていたのに、一回失敗して、三回目を平日に煮なくてはいけなくなってしまったときに、この「毛布包み」が大変役に立った。

眠る前に、調味液を沸騰させ、黒豆を入れた鍋を毛布に包んで、一晩。
朝、起きたら、そのお鍋を火にかけ、沸騰したら、丁寧にアクを取り、時間が許す限り茹でる。
そして、会社に出かける前に、また、毛布に包んでおく。
帰って来たときに、まだ鍋の中はぬるかったし、豆は相当柔かくなっていた。

で、帰ってきた後、2,3時間ガス火でコトコト煮たら、ちょうど程良く柔かくなってくれた。

何と言うか、今まで1日仕事だった黒豆作りだけれど、毛布の保温効果を利用すれば、相当時間短縮ができて、朝晩、ちょっと忙しいけれど、会社勤めながらでも黒豆を煮ることができることがわかった。
(今回細かく書かなかったけれど、一応、保温状態のときもガス火で煮るときも、落し蓋やアルミホイル・ガーゼを被せて、豆が調味液から顔を出さないように気を遣った。)

従姉妹に感謝。




2004年01月11日(日)

ほうぼう


我が母の法事のときに、年上の従姉妹が、「私は、ふぐやあんこうより、ほうぼ うのお鍋の方が美味しいし、雑炊も良いと思う」と言った。
何でも、従姉妹の家では、おばあさんがほうぼうのお鍋が好物で、小さいときか ら良く食べていたとか。
ほうぼうは骨が多くて食べにくいのだけれど、その骨をしゃぶると美味しいとの こと。
今でも、魚屋さんに良いほうぼうがあると、「お鍋にするように切って」と頼んでしまう、すると、魚屋さんが、「あんた、わかっているね」という顔をするとか。

食べ方は、ごく普通のちり鍋というか、昆布の入ったお湯のお鍋で、ポン酢で食 べるらしい。

その話を聞いて、ふぐやあんこうより、美味しいのなら、是非、食べたいという気になってきた。
私は食べたことがないのだ。
また、別の機会に、釣り好きの人と話をしていて、「ほうぼうって、美味しい?」と聞くと、「鍋にすると美味しい」とのこと。
ほうぼうのお鍋って、家庭で食べる以外、料理のお店では食べられないし、自分で探して作るしかない。

で、「ほうぼう」を食材図鑑で引いてみたら、そもそもが「こち科」で、こち自 体は、あっさりとした上品な味わいの白身とある。
で、ほうぼうのところに「刺身は絶品、他にも淡白な味を生かして、椀種や天ぷ ら、塩焼き、蒸し物と、様々な食べ方を楽しめる。いい出しがでるので、汁物や 鍋物でも美味で、ブイヤベースに好んで使われる」とあった。
そうだ、昔、ブイヤベース作ろうと思ったときに、レシピに「ほうぼう」と書い てあったのだが、そんなにそこら辺で、売っている魚ではなかったし、地味な 魚だから、なくても目立たないので、省略した覚えがある。

そうか、ブイヤベースに好んで使われる白身魚なら、きっと良い出汁が出るのだろう、是非、食べなくては。

皆様も、頭の片隅に「ほうぼうは美味しい」と記憶しておいて、何か機会があっ たら、是非、そのチャンスを掴むことをお勧めする。



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2004年01月12日(月)

後楽園遊園地(ラクーア)が好き!


後楽園遊園地がリニューアルされて、温泉ができ、ショッピングセンターができ、今まで入園料を取っていたのが、入園料なしになった。
ほ〜んとに、昔のイメージを良くあれだけ一新できたと思うくらい、きれいになった。
確か、去年のゴールデンウィークぐらいのときに、オープンし、成城石井があるし、私がこの最寄の駅である「春日」を通る定期券を持っていることで、何度となく通っている。
(自転車で自宅から行こうと思えば行ける距離だけれど、一度、小高い丘程度のものを上って下りなくてはいけないから、つい、乗り物に乗ってしまう。)

温泉は全然行っていない。
行ったことのある下町のおばさんが言うには、「温泉が茶色っぽくて、昔の隅田川温泉と同じ水質とのこと。」
行きたい気もするが、結構、高いと思う。

ショッピングセンターのお店の中に、「ゴディバ」があったりして、「そうだ、ここは、東京の有名な観光地で新名所なのだ、わざわざ都会で買ったと誰もがわかるお土産物を売っているお店も多いのだ」と再認識したりして。
どの店も、若者狙いのような感じで、オシャレである。

レストランも沢山あるが、全然入っていない。
レストランは、味より「現代の子に受けること」を狙って、見かけだけオシャレで味の割には高そうな気がして、入る気がしない。
でも入ってみれば、おばさんでは考えつかないような新しい感覚に出会えたりして面白いかも知れないとは思うのだが、観光地にある一見さん狙いの店が連なっているように見えてしまうのだ、ま、私の偏見かも知れないけれど。

全部を見て回ったわけではないけれど、美味しそうなパン屋が二軒あるし、生活雑貨のお店もいくつかあるし、成城石井があるはで、地元民というか、観光客ではない普通の人にも結構役に立つ。(ただ、成城石井は、やはり、絶対的に、生活者の客が少ないようで、肉・魚は種類が少ない。お惣菜、チーズや野菜、調味料や乾物・飲料水は良いけれど)

でもね、一番、気に入ったのは、やはり、観光地ならではの「華やいだトレンディな雰囲気」なのだ。

クリスマスイブの夕方に、ラクアから東京ドームに向う2階か3階かだかの、白地に金色の光をきちんと配列したドームのまーるい屋根が前面に見える、青いイルミネーションの小さなクリスマスツリーが置いてある静かな道を歩いたら、何か、トレンディドラマの主人公になった気分。
(どうして、そう簡単に主人公の気分になれるかというと、トレンディなロマンチックな道を歩く非トレンディ・非ロマンチックな自分の姿は自分からは見えないことが大きいと思う。<笑>)

以前、大阪に暮したとき、大阪人から見る東京人は「テレビに出てくるような人」と言われて、はたっ?何で?と思ったけれど、リニューアル後楽園のクリスマスイブの夕暮れを歩いて、そういうものに憧れる気持ち、良くわかると思った。
確かに、テレビのトレンディドラマに出てきそうなところに身を置くのは気持ちがいいし、皆、憧れるのだろうな。

クリスマスイブの夕方には、ジェットコースターだのが動いていて、音楽もガーガー鳴ってうるさかったのだが、お正月明けの平日の夕方は、乗り物の営業を停止しているようで静か。
そんな静かな後楽園の夕方、買物帰りに、ラクアの二、三階から遊園地を見ると、ジェットコースターのコースを初め、色々な建造物のイルミネーションが高くまで伸びていて、冷たい空気の中で、きれいに耀いている。
昼間の騒がしさが消えた遊園地の夜景を見て、ニコっと微笑みたくなるような安らぎを感じた。

家から4つめの駅に、いつもの台東区や勤務先の高田馬場とは全く異質の「トレンディなオシャレな空間」ができて、無料で雰囲気を味わえて、ミーハーな私は幸せ。(笑)
買物に行くだけで、気分転換ができる。
後楽園さん、無料で入れる遊園地の中に、高級スーパー作ってくれて有難う。



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2004年01月13日(火)

ミツカンの特製酢差しプレゼント


10年以上前、ミツカン酢で、「お酢差し入りお酢」を売っていた時期があった。
その酢差しというガラスの容器は、中味を詰め替えながら、ずっと母のところで使われていた。
大きさも手頃で、小振り。
また、注ぎ口を引っ込めたり出したりできるタイプだから、冷蔵庫に仕舞い易かった。(お酢なのだから、冷蔵庫に仕舞う必要性はないのだけれど、習慣で、冷蔵庫のポケットのところにいつもあった。)
母がいた我が家では、餃子、冷やし中華の他、あんかけ焼きそば、焼いたたらこにちょっとかけて、それを熱々のご飯に乗せて食べると、簡単なお寿司風になったりしてで、結構、その存在が当たり前のように、活躍していた。

で、母が亡くなってから、自分の部屋に持っていこうと思って、母の冷蔵庫を探したのだが、もうないのだ。
何でも、10年以上前に、そもそも、これを買って来たのは妹だそうで、妹が自分の部屋に持って行った後であった。

しょうがないので、色々なスーパーを見て歩いたが、今は、どこにもないようであった。
だから、ミツカンのHPから、メールで問い合わせたら、電話がかかってきて、「今は、商品としては売られていないけれど、今、キャンペーンで商品として出しているから、是非、応募してください」とのことであった。
でも、応募なら外れるかもと言ったら、「1か月に4000個ですから、当たりますよ」と言われた。

そのキャンペーンのHPを見ると、ミツカンさんは、優良企業らしく、ミツカン酢を買って、クーポン券を貼れなぞというコセコセしたプレゼントではなく、クイズに答えれば良いのだ。
お〜、太っ腹だね〜と感激。

「ミツカン 特製酢差しプレゼントキャンペーン」のページ ←ここをクリック

早速、12月に、4,5枚応募したら、1月10日に、2つも届いて、大感激。

大きさは、直径6cm、高さ12cm程度で、昔のに比べたら、2回りくらい大きくなっていた。
ちょっと、一人暮らしには大き過ぎるけれど、結構、立派なもので気に入った。
(材質は、ガラスから、厚手の化学樹脂に変わっていたが、100℃のお湯につけても大丈夫。但し、アルコール類は入れてはいけないとのこと)
そして、以前は、注ぎ口を出したり引っ込めたりするタイプだったけれど、現在は、蓋が二重構造になっていて、つまみを注ぎ口に合わせると、お酢が出て、外すと、閉まって、お酢が出なくなるようである。

嬉しい。
一つにはミツカン酢を入れ、もう一つには柚子酢を入れることとしよう。
確か、今月までのキャンペーンだから、もう一度、何枚か葉書出して、後、もう2つ当たらないかしら?
当たったら、一つは、密閉できるから、お醤油差しにして、お酢・柚子酢・お醤油の三点同じ容器のセットにしたい、もう一つは、予備に取っておきたい。

ミツカン様、素敵なプレゼントキャンペーン、有難うございます。
今後とも、太っ腹でご商売を続けてくださるよう、切にお願い申し上げます。(笑)

でも、この酢差し、私のように、長年、使っていた者には、必要な物だけれど、使った経験がない人は、酢差しという存在も知らないし、なくても不自由は感じていないし、欲しいとも思わないようだ。
お酢を食卓で使うとき、瓶を食卓に持って行って、使うのが、普通のようである。
でも、瓶から直接だと入れ過ぎてしまう。
その点、酢差しは、注ぎ口が細いし、その心配はないし、密閉度が高いから、使い慣れると、手放せなくなる、お勧め。
(酢差しが置いてあるのは、中華屋さんくらいだからかな、調理道具売り場に行っても、中華屋さんの酢差し以外、日本製を売っているのは見たことがないような気がする。もしかして、日本製の酢差しは、ミツカンの物のみかも。
でも、小さい時、ガラス製の酢差しが食卓にあったような覚えがあるけれど。)

手に入れたのは良かったが、良く考えると、「今まで、母が詰め替えてくれていたから使っていた」という気がしないでもない。
一人暮らしで、お酢をちゃんと詰め替えて使うか、自分のことながら、ちょっと不安。(笑)



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2004年01月15日(木)

北千住の吉田餅菓子店再び


母が死に、一ヶ月以内に、たばこの権利の承継を行わなくてはいけなかった。
弟は公務員だし、妹はれっきとした大会社のキャリアウーマン、やっぱ、派遣社員なぞやりながら、「美味しいもの、美味しいもの」と言っている私が継ぐのが、妥当なところであろう。

で、承継するにあたって、3度、日本たばこに行かねばならなかった。
が、大変ラッキーなことに、去年の四月まで、墨田営業所管轄であったのが、合併で、北千住に営業所が移っていたのだ。
で、住所から地図を検索すると、何と、あの吉田餅菓子店のすぐ近くなのだ。
だから、三回、書類の関係で北千住に行かねばならなかったが、全く苦痛にならなかったし、楽しみですらあった。(笑)
こんなことでもなければ、中々、北千住までは行かない。

で、一回目から、しっかり吉田屋さんで、塩大福を買って来た。
この前行ったのは、4年前だったかな?
そのときも、おじいさん一人で、ゆっくり作っていたけれど、今は、一つ作るのに、もっと時間がかかるようになった気がした。

二回目は、朝の9時に会社を遅刻して行ったのだが、吉田屋さんはもう開いていた。
ただ、塩大福は、午後2時からしか作らないとのことで、機械で作ったという草餅の大福を、会社の同僚にお土産で買って行ったら、大評判。
美味しい、美味しいと大騒ぎ。

止せばよいのに、「実はね、本当の名物はこの草餅の大福ではなくて、『塩大福』という午後からおじいさんが手で作る大福なの」と話してしまったら、皆、食べてみたいとのこと。

で、三回目は、会社を早退して、5時前に北千住に着くようにして、塩大福を15個買って来た。
看板には、「塩大福はお一人5個まで」と書いた札が立っているが、今は、おじいさんの作るスピードが遅くなったせいか、以前より、5個作るのを待つ人が少なくなったのか、それとも、平日でお客が少なかったせいか、お店の人に聞くと、「いくつでもいいですよ」と言ってくれたのだ。

でもね、一個作るのにどのくらいかかるのだろう、私の前の二人の人は、途中で「もういいわ」とキャンセルして、帰ってしまった。
皆、夕飯のしたくの迫った夕方、吉田屋さんで塩大福を買う以外にも色々な用や買物があって、ずっと待っていられないのだ。
しかし、母を亡くした私は、その後の用がなかったので、15個、ずっと待っていた。
全部で1時間くらいだっただろうか、でも、いくら暇な私でもずっと立って待っているのはつまらないし、飽きるし、吉田屋さんの前は、ドトールコーヒーだ。
お店のおばさんに、「ドトールで待っていてもいい?」と聞いたら、「あんたが、そこで見張っていないと、できた大福、他のお客さんに売っちゃうからね」と言うのだ。(笑)

何か、浮世離れしているよね〜。
予約も受け付けず、取りに来るのもだめ。
高齢化した人たちで、お店を切り盛りしているし、大福を作ってそこにいるお客さんに売る以外のことしたくないみたい。
若い人がそのセリフを言ったら、非常識としか思えない言葉だけれど、この餅菓子屋さんのおばさんが言うと、「うん、わかった。できた大福を他に売られないように、自分で見張ってる」と返事したくなるような変なお店。(笑)

まだ、12月の初めでそんなに寒くなかったこともあって、風邪も引かずに無事、大福15個をゲットして、家に帰って、一個一個、乾燥しないようにラップに包んで、次の日、高田馬場の職場に持ち込んだ。

これも、やはり、大評判であった。
ここの塩大福は、やはり、他では食べられないものなのだな〜と改めて実感した。

で、今回は、大福ばかりではなく、切り餅も買ってみたが、この切り餅も絶品。
500円で、8枚なのだが、とても厚くて美味しい。
お正月のお餅、ここのものにしたかったけれど、くれる人がいたので、今回は見送り。
何でも、塩大福は25日くらいまでしか作らず、年末は、お餅一本になるとのこと。

また、営業時間を聞いたら、「年中無休で、朝の9時から、夜は10時か11時まで営業している」とのこと。
え〜!あの腰の曲がったおじいさんは、そんな夜遅くまで、きっと休み休みだろうが、ずっと大福を作っているのかしら?と思うが、ここのところは不明。(わざわざ本当かどうか見に行くこともないので、ずっとわからないだろう。)
午前中寝ていて、午後から夜中まで起きているタイプなのかも知れない。

ここの大福とお餅大好き、こんなお店が近所にあったら、いいのにね。



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2004年01月19日(月)

揚げ餅


暮れに、みかんが乗るくらい大きなお供えを三つ買った人が、「はい」と、10日頃に、相当ひからびたお供え餅を割った半分をくれたのだ。
「うん、有難う」なんていってみたものの、心の中では、「有り難迷惑」なんて思ったのだが、そのお餅をそのまま置いておくうちに、「そうだ、揚げ餅ができるではないか」と思いついたら、「ま〜、何と良いものをくれて」という気持ちに変わってしまった。

小さいときは、良く揚げ餅を食べた。
冬、学校から帰ってから、おやつに揚げ餅が良く出たっけ。
私は、ぷく〜と膨れたところもある、表面は良く揚げたものが好きだったが、母は面倒だから、膨らませることに気を遣ってくれなくて、膨らんでいないものが出ることも多かった。
(揚げ餅の美味しさは、表面が香ばしくて、固いところを良く噛めば噛んだで美味しいことと、お餅のように柔かいという美味しさが一つに両方あるところだと思うのだ、固いだけなら、おせんべいを食べれればいいのだから)
その頃から、食べ物にうるさい私は、「ちゃんと膨らまして!」と抗議したけれど、余り、聞いてくれなかったな〜。(笑)

何で、揚げ餅を作らなくなったかというと、きっと、家庭に冷凍庫が普及して、お餅は古くなる前に冷凍保存するようになったからではないかと思う。
(それに、家族が皆大人になってしまい、おやつの時間に家族が集まることが滅多になくなってしまったことも大きいと思う。)
我が家の揚げ餅は、お供えを割ったものではなく、切り餅がひからびて、カビが生えかかったようなもののカビをこそげ取ったものだったと思う。
(お供えは、小さな物をちょっとしか買わなかったからか、余り食べた覚えはない。もしかしたら、お供えは、お汁粉に回ったのかも。)

で、自分で、揚げ餅を作ってみた。

鏡餅は、アイスピックを割れ目に刺すと、簡単に崩れて、力を入れなくても、程良い大きさに割れた。

インターネットで「揚げ餅」で検索すると、結構レシピがあり、「お餅を天日で干す」という物を多かったので、一瞬、干そうかどうか迷ったが、小さいときの記憶に、「天日で干す」という工程がなかったように記憶しているので止めておいた。(これも正解だと思う、天日でカラカラに乾かしたら、本当におせんべいに近くなると思う。)

で、鉄のお鍋に油を入れて、一応温度計をさしておいた。
何か、120度まで上がったとき、せっかちなものでもうお餅を入れてしまった。
その後も、火は、ずっと弱火よりちょっと中火に近い程度の火加減で、急激に油の温度を上げないようにした。

お餅は、生だと透明感があるのだけれど、油に入れて暫く熱すると、白っぽくなり、柔かくなって、隣同士、くっつき出した。
これを菜箸の先で分けているうちに、温度の上昇とともに、表面が固くなりつつあるのか、くっつかなくなってきた。
(だから、細かくなり過ぎたお餅は、この段階で、くっつけて他のお餅に合体させればいいのだとわかった。)

初めの計画では、確か、調理師学校で、中華のおこげ料理の乾燥したごはんを揚げるのを見たときに、「油の中にじっとさせていないで、揚げては空中に出し」を繰り返すと、ごはんがふっくら揚がると習った(というか、言いながら揚げるのを見ていたら、確かにふっくら揚がったのだ)ので、そうしようと思っていたが、実際、お餅を揚げるとき、ケチで、油の高さは、お餅の半分程度だった。
それでも、絶えず、お餅を触って、ひっくり返すと、膨らむような気がした。

少し、所々にキツネ色が付いたときに、火を強火にして、油を高温にして、全面に揚げ色をつけて、油を切ったら、出来上がり。
初め、低温というか、高温でない温度で、時間的にはゆっくりと膨らませて(しょっちゅう、お餅はひっくり返しているのだが)、最後、高温で色付ける、という具合で、うまくできた。

熱々を、お皿に載せて、お醤油をつけて食べる、やはり、美味しい。
でも、小さいときとちょっと違う味であった。
きっと、油が新しいサラダ油だったせいか、油がサッパリし過ぎたような気がする。
本当にスーパーで売っている「サラダ揚げ」なんていう名前のおかきのような仕上がり。
昔食べた揚げ餅は、もうちょっとさっぱりしていなかったような気がする。
きっと、何回も他の揚げ物に使った油だったのだろう。
程度問題はあるけれど、揚げ餅は、古い油の方が美味しいと思う。

また、お餅は、鏡餅ではなくて、昔食べた切り餅の乾いた物の方が、膨らんだとき、内部の白いお餅がふわっ、ベタっとしていて美味しいような気がしたのだが、これは、もしかしたら、乾き具合によるものかも知れない。

美味しいから、一人で、三、四度、揚げて食べたが、最後、甥たちにも食べさせてみた。
二人とも「揚げ餅」を食べるのは生まれて初めてとのこと。
感想を聞いたら、「美味しいから、あれば、いつでも食べる」とのことであった。

揚げ物は敬遠されるけれど、たまには、「揚げ餅」はお勧め。




2004年01月21日(水)

ロリーナのレモネード


夏に、後楽園の成城石井に行ったとき、余り見かけない輸入物の飲料水が色々置いてあるコーナーに気付いて、能書きを読んで、名前は忘れたが、昔の製法で作ったイギリスのコーラとフランスのレモネードの青いラベルの一番シンプルそうなものを買ってみたのだ。
両方とも結構高い。
一本330mlで250円くらい。
(もったいないし、試しだったので、一本ずつしか買わなかった。)

コーラはそんなに特筆する程のものに感じなかったが、フランスのロリーナという会社のレモネードは、本当に美味しかった。
どんな感じで美味しいのかというと、結局、これは、「フランスのキリンレモン」だと言えばわかりやすいと思う。
でもね、炭酸の強さ、甘味を与えている砂糖、酸味を与えているレモンの味、それらが、繊細に気を遣ってバランス良く調整して配合され、微妙に全てが程良くまとまっているけれど、その一つひとつも全て垢抜けていて美味しい。
(ロリーナの商品のHPに原材料の説明があり、良い材料ばかり使っていることがわかった。←だから、高いのだろう)
気に入って、三度くらい買って、何人かの人に飲ませたけれど、皆、一口飲むと「美味しい!」と言う。
何というか、流石、美食の国のフランスが作るキリンレモンみたいな物はちょっと一味上という感じか。

グビグビ飲むのに適した値段だったらいいけれど、日常的に飲むには、ちょっと高いと思う。
瓶もオシャレだし、お酒飲めない人が多い持ち寄りパーティのお土産に、このレモネードを持って行けば、受けると思う。
(瓶はミネラルウォーター入れにするとオシャレという話も出た。)

「販売元のアルカンのロリーナ」のページ ←ここをクリック

このページにロリーナのレモネードは「1997年にはニューヨークのフードショーにおいて「市場で目立った飲料」として“NASFTプロダクト・アォード”を受賞する」と書いてある。
「最も美味しい」とか「最も人気のある」ならわかるけれど「市場で目立った」って何だろう、多分、人気があったということかな?
良くわからないけれど、大きなフードショーで賞を取るだけの商品だと思う。

何か、初めのシンプルな青ラベルが気に入ってしまい、他の4種類はまだ飲んでいない。(そのうち、ちょぼちょぼと買ってみようと思うが、今は冬。)
夏には、330mlしか売っていなかったが、この前見たら、750mlも販売されるようになっていた。
同じ青いラベルなのに、大きいのと小さいのでは、ラベルに書かれているフランス語が違っていたので、お店の人に、「同じものですか?」と聞いてしまった。
(同じものですとのことだった。)

当たり前だけれど、良く冷やして飲んでくださいね、美味しいよ。




2004年01月26日(月)

近所の持ち寄りパーティへのお土産


近所の知り合いが、「一品ずつ持ち寄って真理子さんを励ます会をしてくれる」と言う。
え〜、そんな、悪いわ、でも、嬉しい。
そんなことしてもらわなくても大丈夫、私は元気なのだけれど、そういうことをしてくれると聞くと、やはり、そういうことを言ってくださるお友達というのは心から有り難いなと素直に思えた。
私を励ます会なぞ余りに珍しいことなので、ついでに、パーティ前日にニューヨークから帰国予定の妹にまで声をかけさせてもらった。
パーティは、総勢10名くらいになるようであった。

で、何を持って行こうか考えたが、すぐ決まったのが、「ヴァシュラン・モンドール」。
冬限定のチーズだし、10名くらいのパーティにうってつけの大きさ。

これ一品でいいかなとも思ったのだけれど、皆様、私を励ますために集まってくださるのなら、何かしら、皆にお礼になるものを持って行きたくなった。

こういうときに役に立つのが、後楽園の成城石井とラクーア。
毎日の買物には不向きだけれど、こういう高級で目新しい物やパーティに映える物を売ることを心掛けているお店にときたま寄って、フラフラと散歩しながら、売っているものを把握しておけば、いざパーティというときに楽。

1.ヴァシュラン・モンドール
  これは、買ってすぐでは美味しくない可能性が高い。
  勿論、賞味期限が近い物が買えればいいのだけれど、大抵は、賞味期限が遠
  い。
  友人宅パーティが決まったのが、12月のクリスマス頃だったので、成城石
  井に見に行ったら、ちょうど賞味期限がパーティの日の前後であった。
  だから、その場でゲットし、家の冷蔵庫に入れておくことにした。
  うまくトロトロに熟成してくれれば良いのだけれど。

  実際、切ってみたら、見事トロトロになっていたけれど、私としてはもう
  ちょっと熟成した方が良かったと思わないでもない。

  前日に、パン・ド・カンパーニュを買って来て、クラッカーのような形に
  切って、オーブンで並べてトーストした物を添えて持って行った。
  まあまあの評判。

2.皆へのお礼の気の利いたプレゼントを後楽園のラクーアで探したが、そうい
  うものを日頃探していない私には簡単には見つからなかった。
  それで、私が「面白いもの、遊べるもの」と「美味しい」と思うものを揃
  えて、各人にではなく、その場で全員で楽しんでもらうことにした。

  「面白いもの」で選んだのは、「各国の甘栗」である。
  ラクーアの二階の若い子向けのドラッグストアにフランス・イタリア・スペ
  イン・中国の栗の袋1袋150円でを売っていた。
  確か、モンブランを作るときに、同じ栗と言っても、フランスの栗と日本の
  栗は味や色が違うから、日本でフランス風のモンブランを作ろうとしたら、
  日本産の栗より、天津甘栗を使った方が似ると何かで読んだことがあるから
  国ごとの栗の味の比較したら、面白いかなと思ったのだ。
  どれがどの国のと当てるゲームと思ったが、どの国の栗も食べたことがない
  だろうから、「どれが一番好み?」というのはどうだろうと心の中で考えていた。
  中国はなじみがあるから、ヨーロッパ三国の栗を二袋ずつ買って行った。
  しかし、パーティが始まってみれば、お料理自慢の皆さんが揃っているから
  大皿の美味しそうな料理が次から次に出て、全く話題にならなかったし、
  袋から出してしまえば、所詮、栗なぞ、「あら、ちょっと茶色っぽい栗ね」
  とか「軽い味の栗ね」とかその程度の物なのだ。
  これは、お勧めしない。(完全に企画倒れ)

3.皆へのプレゼントの美味しいものは、一話前の「ロリーナのレモネード」
  これは、結構、受けた。

その他、家が近所だったので、出汁を取って、吸い物を作って持って行ったのだが、はっきり言って、私の持っていったものの中で一番受けたのが、「昆布と本枯れ節のお吸い物」であった。

この話は、後日。(私は、私の出汁にすご〜く自信がついた)

書き忘れたけれど、企画の段階では確かに「真理子さんを励ます会」だったのだけれど、何故か、実際蓋を開けてみたら、どこでどうなったのか、ただの「新年会」になっていた。(笑)
ま、こんなものでしょう。




2004年01月28日(水)

アクア・パッツアを作る 1/2


近所の持ち寄りパーティで、主催者の方が「パーティの中で料理をしよう」と企画して、材料等、用意してくれていた。

作る料理は、「アクアパッツア」。
確か、こういう名前のイタリアンのお店があるから、その言葉と何か料理の名前であることは知っていたが、その料理が何だか全然知らなかった。

説明によると、「アクアパッツア」というのは「狂った水」というイタリア語で、どうも、イタリアの漁師料理とのこと。
その方が、アクアパッツアという店ののオーナーシェフの日高良美さんの講習会でこれを食べ、本当に美味しくて感激した料理だそうな。

まずは予習。
日高さんのアクアパッツアの手順が写真入りで載っている本を皆で見る。
オリーブオイルを温めたフライパンに魚を乗せて、両面こんがり焼いて、出てきた油は捨て、そこにお水を入れて、乳化させて煮こむのが大まかな手順と頭に入れた。
魚の他の材料は、アサリとドライトマト、オリーブなど。

で、その方は、めばるを錦糸町の魚寅まで買いに行ってくださったそうなのだが、魚寅のおじさんが忙しそうだったので、腹わたは取ってもらったものの、うろこもえらも付いているそうな。
「真理子さん、うろことえら、取れる?」ということで、3年前に通った調理師学校で、魚のうろことえらと腹わたは良く取ったことを思い出して、久々だけれど、頑張ることにした。

ウロコは、「本当は、流しに新聞紙を敷いて、その上で取ると散らからない」とか言いながら、包丁の背で魚の表面をシャッシャカ掻いて無事取り終えた。

エラは、確か、エラの周辺のどこかを押すと、エラが広がって、見える筈だと、魚をひっくり返して、人間で言ったら、喉仏あたりを指で押すと、見事、一発でエラが広がり、四段、きれいなピンクのフリル状のものが顔を出した。(3年間、全然魚をさばいてなかったけれど、覚えているものだね〜と一人で感激)

私は、調理師学校の授業を思い出し、偉そうに「エラはね、魚の身体に入る海水をろ過して、雑菌を漉す役目をしているの。だから、エラは不潔だし、雑菌の塊だから、美味しくないから、必ず取るように。あんこう鍋のときはエラを食べるけれど、汚いエラを何回も水を取り替えてさらし、血液を全て抜いて、食べられるようにしているの。」(良く覚えていたでしょう?)
と、うんちくを語りながら、キッチン挟みで、エラをパチンパチンと切り落とした。

さて、ウロコが残っていないことを確認して、メバルの下準備は終って、塩・胡椒を振る。




2004年01月29日(木)

アクア・パッツアを作る 2/2


さて、焼くことを始めよう。
強火の上には、大きなパエリャ鍋が置かれ、オリーブオイルをドドッと入れ、温め、四尾のメバルが並べられる。
どのくらいの火加減が適当かわからず、遮二無二、強火で魚を焼く。
焦げが強そうだったので、火加減を弱めたが、そうとう、焦げてしまった。
しかし、今作っているのは漁師料理なのだから、焦げがひどいことなど、気にして躊躇しても何の意味はないのだと思い込むことにする。(笑)

料理本を持っている人が「こんがり焼けたらひっくり返す」と言うので、ま、こんなものかなと思ったときにひっくり返す。
また、料理本を持っている人が「魚から流れ出た油は捨てる」というと、ティッシュペーパーに鍋の油を吸い込ませればいいかしらと実行する人がいる。
だいたい、焼けたかなと、皆で魚をチェックすると、お腹とか背中が焼けていない。
だったら「こうやったら」と、手を何かで防御しながら、魚を持って、パエリャ鍋の中で立たせて、背中と腹を焼いた。

そして、その次は、水を入れて乳化だ。
少し火を弱めたのか、火から鍋を外したのかは忘れたが、水がざ〜と入れられた。
私は、水と油の乳化は、ラベットラ落合シェフの「アリオリオ ペペロンチーニ」の作り方が美味しいとのことで、そのポイントが「鍋を振って、水と油を乳化させる」だから、何度か乳化に挑戦した経験がある。
その要領でやればいいのだと、鍋の中の水分が飛び出ない程度に、鍋を前後に振った。
乳化、乳化と呟きながら、頑張る。

でも、不思議、やはり、私は料理が好きなのだ。
皆で、作ったこともない料理を、あ〜でもない、こうでもないと作るのも楽しかったし、魚のエラを取ったり、乳化頑張らねばと鍋を振っていたら、ほ〜んとうに元気が出て来て、楽しくなった。

乳化は、うまく行ったと思う。
(ただ、水の適正量がわからず、適当になった。)

乳化が済んだら、そこにアサリ、プチトマトのドライトマト(お手製)、種なしのブラックオリーブが適当に鍋に入れられ、そのまま、強火で煮て行くのだ。
茶色っぽい魚と白っぽい汁に、トマトの赤、ブラックオリーブの黒、アサリもあって、とても華やいだパーティにはうってつけの料理に思えた。

スープでなく、水を入れるのは、魚やアサリやトマトから、良い出汁が出るからだろう。
煮ている間、色々な味がついている筈の乳化した油汁をメバルにかけるのもポイントのよう。
蓋をしてはいけないのもポイントとのこと。
お魚に鍋底の汁をすくってはかけながら、「これが日本料理だったら、やはり、まずは紙の落とし蓋をして少し煮てから「すくっては、かけ」だけれど、イタリアはすくってかけるだけなのだ」と思った。
早く作ろうと思ったら、パラフィン紙なぞを適当に切って、魚にかけると早く煮えるし、味も染み込むのではと思った。

ぐつぐつ煮えてきて、アサリは全部口を開けたし、メバルは骨から肉が大分浮いたような感じがしてきたので、そろそろ煮えあがった頃と判断した。
アサリが入っているから、塩は控えめかしらと言いながら、2,3人が味を見ながら、塩を入れて、塩加減を決めた。
さ〜て、出来上がり。

食卓に大きなパエリャ鍋に並んでふつふつと言っているメバルが四尾並んだ、うわ〜、美味しそう。
トマトの赤と、オリーブオイルの黒、アサリの白黒、結構、きれいで見栄えのする料理が完成した。

こういう西洋料理の魚はどうやって、サーブすれば良いのだろう。
と考えることもなく、イタリア留学の経験者がいたので、彼女に任せた。
どうも、結局は、魚の背と腹の中間をすっと切って、広げ、頭と骨・尾を取ってしまい、フィレだけにして、切り分けて、汁をかければ良いようだ。

しかし、釣りが趣味という魚好きな人が、不要物としてまとめられた骨の山をもらい、美味しそうに食べた。
私も美味しそうなので、一匹分の骨をもらって、回りを食べた。
フィレも美味しいけれど、骨の回りも美味しいよね。

熱々の魚を汁とともに食べる。
日本でも新鮮な魚で作る漁師料理美味しいのと同様、イタリアの漁師料理も美味しい、でも、魚と一緒に、汁とオリーブやトマトやアサリを一緒に口に入れるともっと美味しい。

このお料理は、漁師料理というから、ダイナミックに作ってダイナミックに食べるのがいいと思う。

美味しいし、華やかだから、自分でもやってみたいけれど、大きな魚一匹でも、入れられるフライパンを持っていないのだ。
だから、私はできないけれど、このお料理はパーティに映えていいと思った。
(「アクアパッツア」とか、「アクアッパッツア レシピ」で検索すると、レシピとか、料理の写真が見られますので、是非、見てください。)




2004年01月31日(土)

私の自慢料理はきっと「お吸い物」


私が自信を持っている私の料理というと、スポンジケーキ、ポークソテー、出汁かな?
(ポークソテーは、HPをお休みしていた間に一段と上手になったので、その内、書く)

でも、中々、家族・親戚以外に食べていただく機会がなく、世間一般の評価は良くわからない。

で、今回、近所の持ち寄りパーティに、お料理好きが集まったわけだけれど、「お吸い物だったら、誰とも競合しないだろう」と思って、お吸い物を持っていく気になった。

初めは、昆布水を作って持って行って、会場のお家で、出汁を取ろうと思ったが、慣れていない台所では何かアクシデントが起きそうだし、大したことでなくても落ち着いてできないと失敗するかも知れないので、お吸い物まで作って行って、向うで温め直すことにした。

まず、悩んだのは、具は何にするかである。
魚系にすると、その魚の味が混じってしまう。
また、季節柄、柚子を吸い口にするのが良いのかも知れないけれど、香りが強過ぎるような気がした。
でも、私としては、昆布とかつおできちんと取った出汁の美味しさを味わって欲しかったので、結果、はんぺんをあられというか、正四面体に切って、後は、三つ葉にした。
(はんぺんは、ちゃんと、前日に末広町の練り物屋さんで調達した。)

パーティに行く前に出汁を取る。
昆布は最近、築地の羅臼の切り落としを使っていて、それしかないので、30分くらい、水に浸けておいた。
量は、10人だとして、1人150ccくらいかなと思ったし、ちょうど、500mlが入る100円ショップで買った容器が3つあったから、1500cc作ろうと考えた。

昆布を入れたままの昆布水を弱火にかけて、15分くらい、ゆっくりと温度を上げて行った。
昆布が伸び伸びしてきて、湯気が立ってきて少し経った頃、昆布を引き上げる。

火を強火にして、沸騰させて、アクを出す。
昆布のアクを取るかどうか、いつも迷うのだが、今回は取ってみた。
少し煮て、昆布臭さが抜けたかなといい加減だけれど考えた時点で、火を止め、温度計を差す。
今回は失敗したくなかったので、温度計で80℃を探った。
80℃になった時点で、予め麦茶用のパックに用意した枯れ節の粉の冷凍を入れた。 以前は、3分しか入れなかったけれど、5分とか7分経った方が、かつお節の出汁らしい味が取れるので、味を見ながら、この日は、7分くらい、枯れ節の粉パックを浸けておいてから、引き上げた。
で、塩加減も今回は失敗したくない。
ということは、本のとおりにやってみようと、料理本を引っ張り出して来て、吸い物のレシピを見たら、800ccの出汁に対して、「塩小さじ3/4、薄口醤油小さじ1」とあった。
ちょっと塩がきつめかなと思ったけれど、このとおりにやってみると、果たして、結構濃い味で、いつもの私の吸い物とは味が違う。
やはり、料理本を見ないで、勘で味付けした方が良かったかと反省。

だいたい冷めたところで、容器に詰めて、会場のお宅に向う。
しかし、幸か不幸か、私はおっちょこちょいなので、その持って行った出汁3本のうち、1本をパーティが始まる前に落として殆ど床にばら撒いてしまったのだ。
しょうがないからと、だいたい1100cc残った出汁に、水を入れては伸ばして、味を見てを繰り返し、ま、このくらいなら美味しいでしょうというところが、だいたい、1500ccであった。

で、パーティの最後の頃、主催者の方が用意してくださった鮭をちらしたご飯とともに、はんぺんと三つ葉を入れた器に出汁を張って出したら、大受け。
目を丸くして「美味しい!」とか「お代わりはないの?」という声が飛んだ。
たまにしか取れない技術点5.0が並んだような気分。
嬉しい、こんなに受けるとは思わなかった。
私が出汁を落として薄めたのを知っている方が「出汁を薄めて正解だったわね」と言った。
本当にね、彼女には言い訳しなかったけれど、実は、自分の舌ではなく、本の分量で味付けしたものだから、そして時間がなく家を飛び出したから、濃かったのだ。

しかし、怪我の功名である。
7分、かつお節を浸しておき、いつもより多くの塩を入れた吸い物は、1.2倍薄めても、美味しいのだ。
ということは、今までに、500ccの昆布水に大さじ1杯で3分であった出汁は、実は、600ccの昆布水に大さじ1杯7分でも良いのだ、美味しいのだということがわかった。
この方が経済的である。
かつお節を3分浸けておくと書いていたのは、野崎洋光さんだけれど、プロの高級店では、ちょうど吸い物に適した濃さの吸い物の出汁を取るのは、「3分」なのだ。
シロウトの家庭で飲む出汁だったら、7分かつお節を浸けておいて、煮物や味噌汁にはそのまま使い、吸い物には薄めても使っても、十分美味しいと感じることができるのだ。

また、きっと私の出汁は、普通より相当いい出汁なので、塩加減も薄目で十分美味しいのだと思った。(800ccに塩小さじ3/4+薄口醤油小さじ1は、塩分0.58%、それ以上に塩分が薄くても美味しいのだから、健康に良い筈だ。本当に怪我の功名)

私の出汁は、親戚以外の世間で通用して、世間の人が飲んでも美味しい!と思ってくれるものだということを初めて認識した。

「どうやって作るの?大変?」と聞かれる。
「大変ではないとは思うけれど、一番簡単なのは、本枯れ節というかつお節を買って来て、自分でかつお節削り器で削ったもので、昆布も使って、出汁を取れば同じ物が作れると思う」と説明した。
「でも、かつお節一本買って来ても、たまにしか使わない人だったら、乾燥させてしまって、使い切れなくてだめにすると思う。それに、毎回毎回かつお節を掻くというのは、落ち着いた生活をしている人はできるけれど、私のようにバタバタ暮している人にはそういうことをしようという気すら起きないものなの。だから、私の場合は、買って来た本枯れ節をトンカチで砕いた後、電動ミルサーで粉にして、冷凍保存してあるから、いつでも簡単に出汁が取れるし、無駄にしないの。この『自分のライフスタイルに合わせて、本枯れ節を粉にして冷凍してある』ところが私の価値」なんて説明したけれど、皆、余り頭に入らないような様子であった。

一年に二回くらいであるが、かつお節をトンカチで割り、ミルサーにかけるのが手間だけれど、それさえしてしまえば、日常的にこの出汁が使えるの、それが私の価値なのだよ、と言いたかったけれど、理解してくれたかな〜?

ま、とりあえず、そんなこんなで、パーティは終った。
他にも美味しいもの、是非習いたいというものもあって、すごく楽しいパーティであった。
私を励ますという言葉はいつの間にか消えていたが、実質、とても励まされた。
主催者に感謝。




2004年02月01日(日)

懐かしのブール・エンブレス


今年、私が喪中と知らないで来た年賀状の中に、ワイルド・ブレスという会社からのものがあった。
この会社と私は無関係だけれど、もう3,4年前になるのか、日本橋のブール・エンブレスというフレンチのオーナーシェフと奥さんが、ここに引っ越して、軽食の店を開くと話していた会社だと思った。

私は、日本橋や兜町の会社に勤務していた一時期、このお店に週に一二度ランチで通い、何度となく、夜、送別会や数人でのちょっとした集まりに利用していた。
とても評判が良かった。
ランチは、1千円くらいで、オードブルとメインとパンとコーヒー。
リーズナブルで出来立ての美味しい料理が食べられ、家庭的な雰囲気が良かった。
今でも時たま、ランチでフレンチのお店に色々行ってみたりもするが、ブール・エンブレス以上の味のお店は、まだ、見つかっていない。
私なぞ、フレンチを語る資格がある程は食べ込んではいないけれど、私のフレンチの「美味しい」「不味い」の基準は、このお店が機軸になっていると思う。

偶然ではあるが、閉店することが決まっていたときに、友人と二人で食事に行った。
いつもは一言三言しか話せなかったが、そのときの食後に、ご主人が厨房から出て来られ、ご夫妻とゆっくり話すことができた。
不況で、日本全体が沈む雰囲気の時代のとき、また、このお店を畳むという時に、ご主人が奥さんに確か「俺の腕でいくらでも稼げるから」と頼もしいセリフを言っていたことを思い出した。
腕に技術があるっていいね〜。

私に、「会社辞めて、家でスープバー開いたら?俺が毎日作って持って行くから売ればいいんだ」と言ってくれたけれど、そのときは会社を辞める時期ではなかったし、近所でなかったら、無理な話であった。
一度、お料理習ってみたかったが、もし、習うなら、遊びではなく、このお店に入らなくては習えなかっただろう、でも、そのときの私はただのOLしかやったことのない状態だったし、会社辞める度胸もなく、「雇ってください」とか「教えてください」という状態ではなかった。
残念だったけれど、止むを得ない気もする。

また、偶然に、築地の野菜の場内でご主人に出会ったことがあり、トマトの美味しい店や野菜の仕入先を教えてもらった。
また、以前、「街場の鉄人」という本に載ったことがあり、その本によると、ご主人は、フレンチのシェフとしては腕がいいのだけれど、気取ったフレンチの店ではなく、ご主人がシェフで、家族がサービスをし、ごく普通の人が食べに来る気の置けないフレンチの店をやるのが夢だったとか。
その通りの温かくも美味しい店だったのだけれど、ご夫妻二人だけで人気のお店を続けるうちに、このまま働き詰めだと、自分の身体が参ってしまうと自覚して、閉店することに決めたそうな。
本当にフレンチの店で、昼も繁盛、夜も繁盛で、美味しい味を出し続けるというのは、仕入れから仕込み、料理、サービス、後片付け、掃除と、大変なのだろうと思った。

ブール・エンブレスを閉店後、友人たちが持っている田舎の土地に家を建てて暮すと話していたと思う。

開店のときにも葉書をもらったが、場所が相模湖の近所で、自動車の免許すら持っていない私には中々行けない場所。
おまけにウエスタン乗馬だって、益々、私と無関係。
だけれど、あのご夫妻がお料理を出していると思われる「カフェ・ブレス」は軽食でもさぞかし美味しいと思われる。
馬に乗らなくても、カフェだけ利用も可能だと思うけれど、良くわからない。
相模湖方面に遊びに行く時、是非、チェックして、行ってみてください。

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2004年02月04日(水)

甘いあられ


揚げ餅の話を書いて思い出したことがある。

小学生の夏休み、私の記憶では、山梨の母の実家に孫は私だけがいた。
そのときに、祖母がおやつを作ってくれた記憶がある。
一回目は、蒸しパン、もう一回は、お餅を細かく切った甘いアラレであった。

蒸しパンは、私の好みでなかったが、アラレは、私の心に響いて、その美味しさを今でも覚えている。

おばあさんは、さっさと、アラレ用に細かく刻んで、干したお餅を油で揚げた。
確か、揚げ終わると、お鍋に砂糖と水を入れ、温め、そこに揚げたお餅を入れて、サッサと菜箸でかき混ぜた。
そして、私の前に、アラレが出された。
熱くて、甘くて、香ばしくて、とても美味しかった。
今書いている作り方は、その時、祖母に聞いたものかも知れないし、本当に私は祖母に付きっ切りで作り方を見ていたのかも知れない、その両方だったかも知れない。

私が小学生のとき、母の実家は、まだガスが来ておらず、かまどだった覚えがあり、その頃だったら、きっと、油で揚げ物をするとき、近くに寄せてもらえるわけはないから、遠目に見ていたのかも知れない。
溶けた砂糖がお餅にくっついていき、再結晶化されて、お餅の周りに砂糖がくっついたような記憶がある。

おばあさんの作る姿を見ていた分には、とても簡単そうに見えた。

確か、小学生の時だったか、あの美味しさが忘れられずに、東京の自分の家で、記憶や聞いた話を辿りながら、自分で作ったことがあった。
要は、乾いたお餅を細かく切った物を油で揚げて、砂糖水を沸騰させた中に入れればいいのだ、程度のレシピだったのかも知れない。
自分で作ってみたら、揚げたお餅もべちゃべちゃで、砂糖も再結晶化しないで、大失敗した記憶がある。
おばあさんが作ったとき、あんなに簡単そうで、しかも確実に、手際良く、美味しくできたのに、どうして、私が失敗したのか、わからなかった。

その後、甘いアラレのことは心の隅にあったものの殆ど忘れていた。

この前、揚げ餅を揚げているときに、急にアラレを思い出し、「アラレは、きっと、低温の油にくっつかないように、少量ずつ入れることがポイント、そして、常にひっくり返しながら、空気に触れさせながら、揚げていけば、うまく行きそう」と思った。
砂糖の再結晶化は、「アマンドショコラ」で習ったことを思い出したのだ。

確か、砂糖が再結晶する温度が、107度だった。
きっと、我が祖母は、この砂糖の再結晶化する温度を知っていて、その時点で、揚げ餅に砂糖をからませたのかなと思う。
それにしても、何の本も見ないで、温度計もなく、さっさか、手順良く、失敗もしないで、砂糖をあられにまとわりつかせて、すごかったなと思う。

さて、私だが、まだ、甘いアラレは作っていない。
用意はできているのだ、去年、どこかのスーパーでアラレを作るための、細かく刻んだお餅の乾いた物を手に入れてあるのだ。
温度計も持っているし、時間ができたら、是非、作ってみようと思う。




2004年02月05日(木)

日本海のぶり


今日のどっちの料理ショーで、佐渡の一本釣りの寒ぶりが紹介されていた。
そのナレーションで、「東京に出ているのは、定置網のぶりだけで、一本釣りは、出ていない」と言っていた。

それで、思い出したのだが、確か、去年の11月に、上野松坂屋の金沢展で偶然買ったぶりの切り身。

ある日、会社帰りに、その金沢展に行ってみたのだ。
金沢は、小京都と言われるくらいだから、美味しそうな綺麗そうな繊細そうなお菓子などが多数並んでいて、華やかな物産展という印象であった。
フラフラ色々なお店を見ていると、ぶりとイカを売っているお店があり、もう6時を過ぎていたからか、「東京には普段出ていないぶりだよ、1200円を1000円におまけするから」「塩焼きができるよ」と売っていたのだ。
ぶりの切り身を見ると、新鮮で美しい感じであった。
本当に上質な感じがしたので、2切れを1000円でお買い上げ。

でも、これは本当に美味しかった。
ちょうど、近所の友人と一緒にご飯を作って食べようという話があり、私は、「ぶりの良い物が手に入ったから、それを塩焼きにしよう」と言ったら、その友人が、「焼き魚は余り好きではない」と言うのだ。
でも、私は私の目に狂いがなければ、あのぶりは絶対最高だからと、絶対食べさせたく、少しでも感激を分かち合いたくて、一切れだけ持って出かけた。
(美味しい物を一人で食べてもいいのだけれど、多人数で、「美味しい!」とか言ってのたうち回った方が楽しいから)
一切れを半分に切って、塩焼きにして出したのだが、いつも食べている普通の魚屋さんで買うぶりとは、格が全く違う、全く臭みがなく、とろけるようなぶりであった。(母が生きていたら、このぶり食べたら、ものすごく喜んだと思った。)
焼き魚嫌いと言っていた友人が、このぶりを食べたら、「何で、ちょっとしかないの?」と聞くのだ(笑)。

でもおかげさまで、私は、後の一切れを一人で別の日に食べることができた。
(半分に切って、冷凍にして、解凍して塩焼きにした。冷凍・解凍をしても美味しかった)。

今日、どっちの料理ショーを見ていて、「あれは、一本釣りのぶりだったのかな」と思ったけれど、本当のところは良くわからない。
でも、日本海の地方の物産展に行って、「東京では売っていない魚」を売っていたら、是非、買うことをお勧め。(特に秋冬)




2004年02月09日(月)

母のいなり寿司 1/2


母がこんなに急に他界するとは思っていなかったので、色々習いたい料理もあったのに、習わず仕舞いになってしまったものがいくつかある。

一番困っているのは、「いなり寿司」。
以前にも書いたかも知れないが、我が家のいなり寿司は、独特で、横浜の母の大叔母が油揚げを送ってくれたときに母が作っていた。
習おうと思えば、機会は沢山あったのに、母がいなり寿司を作るというと、私は、おさんどんから解放されるので、母一人に任せっきりで、つい、食べる人になり切っていた。
だから、詳しい作り方を知らない。

実際、自分で真似して作ってみたが、常に完成形でしか味わっていないので、油揚げだけの味加減とか、酢飯の感じがどの程度の物か良くわからない。

で、だいたいの記憶を辿って作ってみたが、余り似ないものができてしまった。

母のいなり寿司は、

1.油揚げは殆ど甘くない。(だったら、本当に甘さを全然つけないかというとそこが
  わからない。)
  完成形では、醤油味の油揚げが、寿司飯の甘さを引き立たせて、味がバランス
  することになる。

2.だしの香りとか味が殆どしなかった。(だったら、本当に出汁が0だったかというと
  そこもわからない。)

3.結構油っぽい。

だしは、使ったと聞いたような気もする、油揚げの油抜きはすると言っていたような気がする、皆、不確かだ。

で、自分流に、油揚げを煮てみた。

1.油揚げは、熱湯を入れたお鍋に入れて少し置いておいてから、お湯を捨て、
  油揚げを絞った。

2.かつお・昆布出汁に、醤油・お酒と、隠し味に味醂を少々で、味をつけてみた。

結果、母のおいなりさんと似ているところは、「油揚げが甘くない」ところだけ。(涙)
食べてみると、私のいなり寿司は、はっきりかつおの味がするし、油っぽくないのだ。

でも、殆ど違う物を完成させてみて、少しは、作り方がわかったような気がした。

1.きっと母は油揚げの油抜きと言っても、絞らないのだ。
  精進料理では、油揚げを味出しに使うと言う、母は、油揚げを絞らないで、
  油揚げの中にある味と油を利用したのではないか?
  (横浜の大叔母と電話で話したとき、「うちの油揚げは良い味が出るよ」と言って
  いた。)

2.やはり、出汁は使っていないのだ。
  出汁を使っていたら、母の煮る油揚げは私の作ったようなかつおの味がしてい
  た筈だ。

結論としては、我が母のおいなりさんは、「精進おいなりさん」なのだとわかった。




2004年02月10日(火)

母のいなり寿司 2/2


近所の料理好きのお姉さんに、私の母のいなり寿司は、精進料理のようにかつお出汁を使わず、その上、砂糖も使わず、油揚げの持つ「大豆を揚げた味」と「油の美味しさ」で食べさせるいなり寿司だと話した。

そうしたら、その友人の死んだお母さんのいなり寿司の揚げも、出汁を使わないで水で煮たけれど、お砂糖は使って甘辛いから、寿司飯にはお砂糖を入れなかったとのこと。
我が家は、甘くない揚げに、砂糖を使った寿司飯を入れる。
お互い、揚げとご飯どちらかが甘くないおいなりさんで育ったので、「揚げもご飯も両方甘いのはくどい。」という話になった。

そのお姉さんの友人の家では、出汁で揚げを煮ている家だったから、お姉さんがその友人の家のおいなりさんをご馳走になったけれど、出汁の味がして美味しくなかったという話をした。
そうなんだ、おいなりさんの好みは、どうしても、その人が小さい時から食べ慣れているものになってしまうのだろう。
それで、おいなりさんの作り方と味は、その家それぞれなのじゃない?ということになった。
お雑煮の次に、おいなりさんあたりのレシピが地方色というか、その家その家でのレシピが残っていて、テンデバラバラで、それぞれの美味しさがあるような気がしてきた。

色々な料理本を見てみたが、いなり寿司の油揚げは、油抜きをしてお砂糖たっぷり入れた甘辛い出し汁の中で煮るパターンばかりだ。
(油抜きにしても、お湯で煮て茹でこぼすタイプと、お湯で煮た後絞るタイプと、お湯で煮ること2,3回という3パターンがあるようである。)
こういうレシピばかり見ると、「油揚げ」というものは、「油を抜いて、他の味を付けて、他の味を補って食べるもの」というイメージになってしまうが、実は、油揚げが丁寧に作られていた時代には、「油揚げ」というのは、そのものに良い味と油気があり、他の物に味を出す側の物だったに違いない。
私の推測だけれど、きっとかつおとか昆布が高級で普及していなかった頃は、油揚げ自体が出汁の素だったのだ。
それが時代が移り、かつお・昆布が手に入りやすくなってから、そして、いなり寿司が家庭で作られれる物ではなく、店の商品として売り出されてからは、かつお・昆布などで味付けする物の方が目新しくて人気があって、そして、甘い方が三時のおやつなどの代わりになるから、そういう甘辛いおいなりさんが標準になってしまったのかも知れない。

もしくは、丁寧に作られている油揚げではなく、安価な薄っぺらい油揚げしか手に入らないのなら、「油揚げ自体の美味しさ」を引き立たせるより、出汁や調味料をうまく使った方が簡単に美味しいいなり寿司ができる。

な〜んて、勝手に、いなり寿司の歴史を想像してみる。

近所のお姉さんの家でも水から油揚げを煮ると言っていたし、出汁を使わない「精進いなり寿司」も、どこかの地方や家に多々存在するような気がしてきた。
(インターネットで、「精進料理 いなり寿司」なぞで検索してみたが、残念ながら、レシピは見つからなかった。)

我が家のいなり寿司は、父方のものではなく、母方の物だと思う。
この母のいなり寿司は、豆腐屋を営んでいる母の大叔母の作る油揚げのような、豆腐の量が多くて、しっかり揚げてある油揚げで作らないと美味しくない。
勿論、我が母が自分で考えついたものとも思えないし、母方では我が家のいなり寿司と似た物を作っているかも知れないので、今度、母の親戚に会ったら、いなり寿司の油揚げの煮方を聞いてみようと思う。




2004年02月11日(水)

六本木ヒルズ 南翔饅頭店 1/2


11月末の私の喪中の知らせで、お悔みをくださった友人がいたので、遅くなったけれど、その人にお礼を兼ねて、久々会おうと思ったのだ。
どうせ会うなら、東京の新しい名所で会う方がお互い楽しいかと思い、六本木ヒルズで会うことにした。
1月は会社が忙しく休めなかったので、2月初めに休みを取って、出かけた。

行く前の予備知識では、「南翔饅頭店」で小籠包のランチして、「TORAYAカフェ」でおしゃべりかな?と思って出かけた。

東京は、日本で一二を争う観光地だし、次から次へと新名所が出来ている時期で、東京に住んでいると言えども、知らない観光地は沢山あり、こういうところに行ったら、思いっきり、おのぼりさんに成り切った方が楽しいと、案内所で地図をもらった。
でも、地図を広げなくても、歩いて行くと、分かれ道になるところの地面に、どちらに行ったらどこに行くと書いてあるので、分かれ道に来たら、下を見れば、どうにかなる仕組みになっていた。
最初、戸惑うけれど、案内図が沢山あり、結構、歩きやすかった。

南翔饅頭店(ナンショウマントウテン)
何でも、上海のお店の海外第一号店とのこと。
事前に、「美味しい」との評判聞くことが多く、期待が高かった。
平日の11時過ぎに着いたせいか、全く並ばないで、席に着くことができた。

単品の小籠包は6個入りで、豚肉(780円)、海老、上海蟹と高くなって行き、上海蟹味噌(1680円)が最高級だったと思う。
どうせなら、色々食べたいからと、それらの小籠包を一品とその他のお料理がつく形のランチに決めた。

ランチは、一番安い豚肉で2800円だったと思う。ま〜、上海蟹味噌だって食べてみたかったが、ランチに4000円近く出す気はなく、二人だったので、豚と海老にしてみた。
(そう言えば、六本木ヒルズに行く前日、会社の友人に「明日、南翔饅頭店に行くの」と行ったら、「もっと早く言ってくれれば、1000円の割引券あげたのに。今、持っていないで、家にあるの」と言っていたことを思い出し、くれぐれも残念。
それがあったら、上海味噌小籠包を食べたと思う。(笑))

小籠包は、上海で一番人気があるという評判どおり、今まで私が食べた小籠包の中では群を抜いて美味しかった。
味的には、大満足。
個人的には、海老より豚の方が素材の上質な味がスープに濃厚に出ていて美味しかった。

が、このお店、問題がないわけではない。

まずは、熱々の小籠包が一篭だけすぐ運ばれてきたことは問題ないけれど、熱いうちの方が美味しいから、友人とふ〜ふ〜言いながら「う〜ん、美味しい!」と一生懸命食べた。
食べ終わると、すぐにお姉さんが空いた篭を取りに来たことも問題ない。
でも、その後、すぐに、次の熱々の小籠包が運ばれて来たのだ。
(おまけに、もう1つで精進のお饅頭も熱々で早い時期に運ばれていた。)
何か、次から次に熱々が出てくるので、冷めたら美味しくないだろうと、次々と食べたけれど、食べながら、本当は、一篭食べ終えたら、「美味しかった〜」とお茶なぞ飲んでちょっと美味しさの余韻に浸り、呼吸を調え、熱くなった口と体温をちょっと下げ、体制を整えて、次の篭を迎えたかったのだなと思った。

現在、私は高田馬場という安いランチの地域にいるせいか、3000円近いランチなぞ、ものすごく高いランチであり、こんなギュウギュウ詰めの席で、次から次に、回転を良くしたいのか、熱々を運ばれてしまうと、何か余裕がないというか、もうちょっと、お客様をリラックスさせて食べさせる配慮してくれてもと思ってしまう。

ま、その点は不満足だけれど、味的には抜群の店だと思う。

コストパフォーマンスで、割引券を持っていなければ、豚がお勧め。




2004年02月14日(土)

六本木ヒルズ 展望階


南翔饅頭店を出ると、その前も中華のお店で、「しみだれ子豚まん」の写真が飾られていた。
中国農村家常菜と書いてあったけれど、もうちょっと、六本木ヒルズにふさわしい名前つければいいのになんて、思ってしまった。
しみだれというのは、大きな肉まん状のものの表面にお醤油っぽいたれを塗ってあるかららしい。
「子豚まん」なんて、本当に子豚が入っているのかしらねと言いながら、その界隈を後にした。

その後、展望階に登ってみようということになった。
で、お値段なのだけれど、東京シティビューという展望台だけで1500円、その2F上の東京スカイデッキというヘリポートもつけると500円アップ、他、美術館付きとか、色々あった。
最初のことだし、一度行けば満足するだろうからと、ヘリポート付きにした。

展望階は、ぐるっと歩けば、360度見渡せる。
1500円は高いけれど、結構、満足で、景色の説明が入った写真のパンフレット片手に一周した。
残念ながら、富士山を初め山は見えなかったが、東京湾をバックにした東京タワーが新鮮であった。
あれ?東京タワーって、あんなに海に近いところにあったのだ。
考えてみれば、東京タワーは浜松町に近いのだから、当たり前なのだけれど、この景色見て、初めて気付いた。

他、青山墓地全体が見えて、これも結構大きな墓地なのだとわかった。
友人が気付いたのだが、東京タワーが見えて、田町のNECが見えるということは、手前の正四面体の緑の屋根の建物は、慶応大学?ということになったのだが、景色の説明のパンフレットには、慶応大学の表示がなかった。
慶応大学が省かれてしまうなんて、何か信じられない気がするけれど、東京中、説明を要する新しい高層のビルが多くなって、省かれてしまったのかも。

この六本木ヒルズには、レジデンス部分もあり、ここに住みたいかと友人と話す。
二人とも自分は住みたくないけれど、ここに住む友人が欲しいねということになった。
私の場合、朝倉彫塑館も大好きだけれど、その風情豊な邸宅がおじいさんか何かの家だったらいいのにと思い、六本木ヒルズのような最新鋭で綺麗で現代的なマンションも友人のもので、自分は住みたくないけれど、たまに出入りしたいと思うのだ。
だって、自分で住んだら、そういう一本筋の通ったアートを感じさせる住居を、住まない前と同じ美しさに保って行くというのは、大変だ、自分には無理だとわかっているからなのだ。(笑)
別宅とか私のゲストハウスとして持てるのなら、欲しい、掃除してくれる人付きで。(笑)

展望台はガラス越しで景色を見るしかないかと思ったら、一ヶ所か二ヶ所、ガードマンが立っているのだけれど、外の空気を直に感じられる場所もあった。

その後でエスカレータで、ヘリポートに向う。
エスカレータを降りたら、後は、少しだけだけれど、ごっつい階段や廊下を歩くことになる。
ヘリポートは、当たり前だけれど、ふきさらし。
ガードマンが結構多人数立っていた。
やはり、ここで事故を起されることは困るという感じか。
友人が、「料金の500円は、絶対、人件費ね」と言ったが、本当に同感。
ヘリポートは気持ち良かったけれど、ビルの一番てっぺんで、一番細くなっているところらしく、先程の展望階から見えていた景色の遠くの部分は見えるけれど、すぐ足下の方に見えていた景色は見えなかった。
ま、それにしても、こんなに高いところの空気を直に吸うことは滅多にないから、これも一度くらいはいいと思った。

帰りは、元の展望階に戻って、係りの人に聞いたら、切符を持っていれば、また展望階に戻ることができるというので、もう一周してから、下に下りることにした。
帰りのエスカレータは、展望台より下の階からということで、エレベータなどで向ったけれど、ちゃんとお土産物屋を通るように設計されていた。
どんなに建物が最新鋭でモダンでも、観光客には土産物屋が欠かせないみたい。
森美術館の土産物だけ見たけれど、特段興味の湧くものはなかった。

その後、2Fだったか3Fだったかのレストランなどを見て歩いたのだけれど、六本木ヒルズで、標準のランチのお値段がだいたい2800円、ランチ2800円以下だったら、安い方だとわかった。
展望台にしろ、ランチにしろ、六本木ヒルズは、お金のかかるエリアだと納得する。

その後は、けやき坂通りにあるTORAYAカフェに向かった。



2004年02月16日(月)

六本木ヒルズ ル・ショコラ・ドゥ・アッシュ


(え〜ん、12日分を全て間違って消してしまいました。
近々、再び、南翔饅頭店に行く話があるので、そのときに、12日の話を織り混ぜて、再び書きます。
ごめんなさい。)

(え〜ん、そう言えば、ミツカンの酢差し、1月分、出したのに、外れたみたいで、全然送られてきませんでした。)

TORAYAカフェは数人の人が並んでいた。
自由時間も終わり近かったので、残念だけれど、諦めて、ル・ショコラ・ドゥ・アッシュというモンサンクレールの辻口さんのチョコレートショップに向った。

ここも、2,3人並んでいたが、どうも、温度管理の厳しいチョコレートショップの方の行列だったようで、お店の人に「お茶するのも同じ列に並べばいいのですか?」と聞くと、そちらは空いているようで、すんなり入れた。

カウンターの席に座って、テレビで見て、どんな味だか試したかった「チョコレートの飲み物」を注文した。
チョコレートの飲み物は、2,3種類あって、一番安いのが1000円、一番高いのが1500円だった。(勿論1000円にしてみた)

カウンターだから、少しだけれど、チョコレートの飲み物を作るのを見ることができた。

私はぼーっとしていたので、見逃していたが、一緒の友人が「生クリームは使わず、タカナシの牛乳を使っていた」と教えてくれた。
小鍋を火にかけ、牛乳を入れ、泡立て器でかき混ぜていた。
ココアの粉のような物が入ったのは覚えている。
濃度の高い牛乳に、濃厚なチョコレートの粉でも入れたのかな?
テレビで温度が大切だと言っていたっけ。

小さいデミタスカップに、高さの1/3程度の熱くて濃度の高いチョコレートの飲み物が出された。
甘さがちょうど良くて、うっすり洋酒の味がして濃厚で美味しい。
チョコレートって、濃度の高い飲み物にしても良いのだと思った。
でも、ケーキ教室で良くチョコレートを溶かし、生クリームなぞを混ぜるのだが、その時に味見している味と同じだと思った。
温度が難しいらしいが、そうか、チョコレートケーキに使ったチョコレートクリームが張り付いたボウルを洗わず、牛乳を入れて溶かせば、似たような飲み物ができるな、なんて、変な感想を持ってしまった。(笑)

お砂糖もミルクも入れるわけではないのに、どうして、スプーンがついてくるのかと思ったら、飲み終わった後、カップの底に残ったチョコレートをすくって飲むためであった。

飲み終わって、チョコレートショップも見たいと思ったが、店員さんに聞いたら、改めて、順番待ちの行列(と言っても、4,5人だったが)に並んでくれと言われて、時間がないので、止めてしまった。

このお店、ティーサロンよりチョコレートショップの方が人気のようで、次回は是非行ってみたい。

六本木ヒルズの端にあるけやき坂通りは、麻布十番に近いとのことだったので、最後、六本木ヒルズの中のスーパーをざっと見た(ここも結構いいと思う)後、麻布十番の商店街を歩いて抜け、友人を日進ワールドデリカテッセンに案内して、家路に戻った。
六本木ヒルズのような、非日常・高級感を出すように設計された人工的なところにずっといたせいか、日進ワールドデリカテッセンのような、外人向けとは言えど、日常のゴタゴタしたものを売っているスーパーマーケットでゴタゴタしたものに囲まれて、落ち着いて買物するのも楽しい気がした。

そう言えば、行く前にインターネットで「六本木ヒルズ」を検索したら、今月は、「グルメブック100」という六本木ヒルズの飲食店を全て写真入りで紹介した小冊子を配布中とあったので、案内所に置いてあったものを見つけて、自分の分と友人の分をお土産にもらってきた。
結構、良い出来だと思うし、他にどんなお店があるのか予習するのに役に立つ。
今月、六本木ヒルズに行ったら、もらうといい。




2004年02月18日(水)

最近の私のショートケーキ 1/2


先日、久々、ケーキ教室に行て、ケーキを作りながら、「最近、家でどんな物を作っている?」なんていう話をしていたのだ。
私は、1月のある日曜日、妹のお誕生日に18cmを1台、15cmを2台焼いて、ショートケーキにして、親戚と会社に配った話をした。
そうしたら、それを聞いた先生や生徒仲間から、「ショートケーキみたいな単純なケーキの方が反って難しくて人にあげられない」という声が上がった。

ま、考えようによってはそうかも知れないし、ケーキ教室の先生がシロウトっぽいショートケーキ作ってプレゼントしたら、おかしいかもしれない。
が、私のようなシロウトで、一見、ケーキなぞ作らなさそうなのが、下手なりにでもとにかく作って、本心から「下手なのですけれど」と言いながら、ショートケーキをプレゼントすれば、私の周囲の人は、皆、デザインの悪さ、生クリームのデコレーションのひどさなぞには目をつぶって、皆、材料が良いから「美味しい、美味しい」と食べてくれるのだ。
捨て身の人間には、その捨て身を評価してくれる人がいるものなのだ、なんちゃって。

で、1日3台焼いたスポンジは、久々の最初のものは、160度で焼くべきところを間違えて、170度で焼いたため、ほんのちょっとの差で完璧でなかったけれど、2,3台目は本当に上手にできた。
三回連続で焼いて、全てほぼ完璧というのは、気持ちが良い。

以前は、スポンジのタネを入れた型の上にも、クッキングシートを被せて、初めからその上にアルミホイルを被せ、蒸し焼き状態で焼いていた。
こうすると焦げ目のつかないスポンジになるのだが、やはり、スポンジは少し焼いて焦げ目というか、周囲が茶色くなるくらいが美味しいと思い直したので、最近は、上部に、クッキングシートを被せることもなくなり、アルミホイルは、焼いて、15〜20分して、上部が茶色くなってから、被せるようにした。
こうした方が味的には相当美味しいと思う。

何て言うのだろう、私の作るスポンジケーキの味は本当に美味しいと自分で思う。
でも、ケーキ屋さんのスポンジとは違った風合いで美味しいのだ。
絶対、同じ物ではない、でも、私のスポンジには私のスポンジの美味しさがあると思う。(家庭ならではのスポンジの味だと思う。同じスポンジなのに、どこかケーキ屋さんのとは違う、どこが違うのか、そのうち、探り当てたい)

もう一つ、改良した点は、スポンジのタネに入れる牛乳とバター。
以前は、小鍋で沸騰させた物を入れていたが、最近は、焼く前にはオーブンを熱しているので、耐熱容器にバターと牛乳を入れて、余熱中のオーブンの中に、10分弱かな、入れて、溶かしている。(まだ、このやり方を始めたばかりで、何分と言えないのが残念。使うときにまだ溶けていないのが不味いのだから、取りあえず、早めにバターを溶かしておくのがいいと思う。)
何故だかわからないのだが、このやり方のバターと牛乳の溶かし方の方が、スポンジの味というか食感を良くするような気がしている。




2004年02月19日(木)

最近の私のショートケーキ 2/2


また、飾り付けなのだが、苺だけではなく、新鮮な緑の葉っぱがケーキの上にちょっとあれば、綺麗だと思うのだが、ほんのちょっとの飾りにだけ使うペパーミントの葉を200〜300円出して買う気が起こらないし、アンゼリカという名前だったと思うが、蕗の砂糖漬けでは余りに今の時代に合わない。
しょうがないので、なるべく、上部を飾る苺は、苺のへたを生かすようにしている。


そんな中で、この前、思いもかけずに好評だったのが、スーパーで売っているカットされたメロン。
(これも200円か300円する物だけれど、残っても食べてしまえばいいのだから、無駄にはならない。)
何メロンか不明である(マスクメロンでないことだけは確か)が、これを、5mm角くらいに切って水気を切るために、ざるに暫くあげておき、使うときには、更にティッシュか何かに取って、再び水気を切ってから、生クリームを敷いたケーキの上を被うように多めに敷き詰めると、苺の赤が映えて、きれいだし、味的にも評判が良く、複数の人から誉められた。

以前、水色のリキュールを水に溶いて、ゼリーで固めて細かく切ったものをケーキに載せたときも「とてもきれい」と評判であったが、この緑色のマスクメロン以外のメロンの賽の目切りも、評判が良かった。
これは、ヒットだから、ショートケーキお作りになる方がいらしたら、是非、スーパーのカットメロン、ショートケーキに試してくださいね。




2004年02月20日(金)

浅草寿町 野風僧(のふうぞ) 1/2


この1年、近所にボーイフレンドというか、おじさんフレンドができて、近所ばかり、食べたり飲み歩いたりしている。
その人は、たかが夕飯食べるのに、30分も40分も時間をかけて出かけることに何も感じない私を不思議がる。
遠くの美味しいものより、近場の安くて早い店が好きだとのことなので、私も家の近所のお店を良く知らないし、それも面白いと思い、近所をちょくちょく食べ歩いている。
だから、最近、私が行く店は、所謂、近所の人たちばかりが行く、東京レストランガイドや雑誌に載らないようなお店ばかりだ。

そうは言っても、そういう店は価値がないかと言うと、結構、美味しかったり、学ぶことがあったりするのだが、そういう話は追々するとしても、中でも抜群に、「このお店はこんなにレベルが高いのだから、もっと人気が出てもいいのでは?」「遠くから食べに来ても損はないよ」と思う店の話を。

その名前は、「野風僧」、創作中華のお店らしい。
おじさんフレンドが歩いていて見つけたとのことで、行ってみた。
お店自体は、「大正ロマン」で統一されている。
(それ自体、私は興味はない。もっと明るくてモダンな方が私の好みだけれど、でも、これはご主人の趣味だし、味に関係ないし、少なくとも味の邪魔はしていない。でも、とにかく掃除は行き届いていて、すっきりした店である。<おじさんフレンドは、「大正ロマン」の外観に惹かれて入る気になったらしい>)

細長いお店で、厨房は良く見えないけれど、厨房2人に、フロア1人、4人席が4つに、6人くらい座れるところが2つくらいの大きさのお店。

ここのお店の特筆すべきは、「味」なのだ。
今まで食べたものが全て美味しかったわけではないけれど、出てくる一皿一皿、「あ〜、この料理を作っている人は、美味しい物を作ることが大好きなのだ、そして、それを表現する力量を持っている、これを作っている人は、本当に心からお料理と美味しい物が好きなんだな〜」と感じることができる。
決して、高い店ではないけれど、安くもない。
でも、一皿一皿、皆、丁寧に繊細に気を遣われて作られたものなのだ。
高級なフレンチとか、高級な和食なぞに、そういうことを感じることはあったが、こういう街場の中華で、この値段程度で、高級店で感じる「丁寧・繊細」を感じられるなんて、幸せ。
素材・調味料・腕の全てにこだわっているのだと思う。
そういう意味では、最高コストパフォーマンスのお店。

一度目は2,3か月前に行った。
メニューから適当に取ったのだが、「大根餅」がとても美味しかった。
今まで、何度か、飲茶なぞで大根餅を食べたことはあるが、「こんなものか」と思う程度で感激する程のものに巡り合っていなかったが、ここの大根餅を食べて、初めて、大根餅って美味しいものなんだとわかったような気がした。

もう一つ印象に残ったのが、青葱が沢山と豚の角煮の入ったラーメン。
細麺もスープも本当に美味しかった。
塩加減も良いし、確か、鶏の味が上等だったと思う。(鶏の味だったと思うが、2,3か月前のことなので、あやふや)
最近、色々な有名なラーメン屋を食べ歩いているが、実は、この店のこの青葱麺という名前の中華そばが一番美味しいと思っている。
行列のできるラーメン屋さんより、絶対に美味しい。
鶏の釜焼きは、残念ながら、好みではなかった。
その他、色々食べたけれど、麺と大根餅ですごく満足。

で、帰るときに、入口で塩を売っていることを発見。
ここの料理が美味しい秘密は、この塩なのかと思い、買ってしまった。
それは、ベトナムの天然天日塩で「百禄の塩」という名前。

お勘定のとき、ここの料理がとても気に入ったので、フロアの人に、「今日食べた中で、大根餅とラーメンがすごく美味しかった、大根餅は、今まで食べた中で最高!」と言ったら、厨房に伝えられて、作っている人が、挨拶に出てきてくれた。

場所は、駒形どぜうの一本裏通り、もうちょっと蔵前側、歩いて2,3分のところなのだ。
ギリギリのところで、浅草に行ったついでに寄れる位置にあるけれど、普通、浅草に遊びに来た人は、駒形どぜうまでが行動範囲なのだろう。

中華膳 野風僧
   台東区寿3−14−12
   第3矢口ビル1F

   駒形どぜうの角を曲がって、一本目を右に曲がり、右側を見ているとある。
   03−3842−1008
   ランチ 11:30〜15:00(13:00より珈琲も)
       <土曜のお昼に行ってみたら、閉まっていたから、土曜は夜だけかも>
    夜  18:00〜23:00(ラストオーダー)
   定休日: 日曜・祭日

二回行って、一度目は土曜日の夜で、客は私達を入れて二組、もう一回は平日の夜だったが、4組だった。
もっとじわじわという人気が出てもおかしくない店だと思う。
きっと、盛り場から外れている場所と宣伝しないせいで、全然目立たないのだと思う。




2004年02月21日(土)

浅草寿町 野風僧(のふうぞ) 2/2


で、一昨日、二度目、野風僧に行って来た。(行ったばかりだから、まだ、何を食べたか覚えている)

メニューを見ずに、「大根餅!」と注文したら、何でも、大根餅は、2,3か月前の「お勧め」として出していて、定番の料理ではないので、今はないとのこと。

残念、で、メニューの中から、色々取ってみた。

中華風冷奴
 細かく切った沢山の青葱で覆われたお豆腐。
 味付けは、白い上等な胡麻油と塩。
 「お好みで、醤油をちょっとたらしても美味しいですよ」とアドバイスがあった。
 お豆腐が上質で、余り、かき混ぜずに、出されたまま食べても上品でさっぱ
 りしていて美味しかったけれど、醤油を少したらして、良く混ぜてから食べ
 ても美味しかった。

らっきょ
 らっきょが絶品。
 細いらっきょで、甘さ加減がちょうどいい。
 自家製というか、このお店で漬けたものではないかと思う。

海老とニラのお饅頭
 これも海老がぷりぷりしていたし、皮も美味しかった。
 良い材料で手作りの作り立ての焼き立ての良さが物凄く良く出ている一品。

鶏の皮の餃子みたいな物
 鶏の皮で餃子の具を包んでこんがり焼いたもの。
 鶏の皮がカリカリで、脂こさが全て抜けて、生焼けの鶏皮とは違った美味しさ。

もやしとふわふわ玉子
 (けちなようだが)え!もやしと玉子の炒め物で650円は高いんじゃな〜いと心の
 中で思いながら、注文。(笑)
 もやしの炒め方はまあまあだけれど、ふわふわの玉子は本当にふわふわ、卵
 も良いものを使っているのだと思う。
 ふわふわ玉子(スクランブルドエッグみたいなもの)が上手。

湯葉
 これは、ごく普通に含まれたお水も美味しいし、上等な湯葉であった。
 (トロトロして柔かくて美味しい)

最後の麺は、お店の人の推薦で、坦々麺を取ってみた。
坦々麺というと、唐辛子いっぱいの麺かと想像していたのだが、出てきたものは、汁が真っ白、何かと思ったら、白胡麻ペーストを伸ばした感じのものであった。
お店の人が「うちの坦々麺は、全く唐辛子が入っていませんので、お好みで、これらを入れてください」とテーブルにあった小さな器を2つ寄せた。
荳瓣醤なのだろうが、唐辛子ペースのものと、黒豆から作った物と2種類あって、「さすが」と思った。
坦々麺なのだが、白い汁の真中に、黒胡麻ペーストで円が描かれ、青葱がまたまた沢山乗っていて、きれい。
食べると、これが美味しい!
白胡麻ペーストの上質な胡麻の濃厚な味が美味しいの、何のって。
それが細めの麺にまとわりついて、口に入る、幸せ。
(それに、一つの麺を二人で分けるために、小鉢をもらったのだが、それがちゃんと熱々に温めてあった、さすがである)
おじさんフレンドが「これ、ちょっと濃厚過ぎないか?」というと、お店の人が「ご飯を取って、お汁かけて食べる方もいらっしゃいます」とのこと。

そうなのだ、私がここで二回食べたのだが、二回ともお酒を飲みながらであるから、シラフでここの料理を食べたら、同じように美味しいのかな?と思わないでもない。
お酒飲んでいるときって、舌が鈍くなっているから、少し濃い目の味が美味しいのだ。
そこのところの問題はあるけれど、でも、このお店、本当に美味しいし、お店の人も感じが良い。

一度、昼間にシラフで食べてみよう、そして、まだまだ食べてみたい物が沢山あるから、これからも夕方何回も通うことになりそう。
<おじさんフレンドは、「この程度の店、他にもあるよ」と言う。でも、高いお金出したらあるかも知れないけれど、この位の値段帯だったら、稀有な店だと思うのだけれど>

メニューの一部から

上海チキン(北京ダック風パリパリチキン 半羽2−3人前)  1,300円

焼き餃子(肉汁たっぷりの棒餃子)                350円

海老春巻(海老とイカの入ったパリパリ春巻)           600円

鶏団子(軟骨の入ったコリコリ団子)               650円

生ザーサイ(当店自慢、今までになかった味の青生ザーサイ)    500円

冷やし中華(棒々鶏とレタスとトマトの入ったヘルシー味)     880円

坦々麺(これぞ当店お勧めの絶品、こってり白ごまスープ)     880円

青葱麺(麺が見えない位のたっぷり青葱に特製豚角煮入り)     750円

エビ・レタス炒飯(海老とレタスの入ったサッパリ炒飯、当店人気料理) 830円

海鮮かた焼きそば(ホタテ・エビがたっぷり入った贅沢な焼きそば)1,000円

杏仁豆腐(豆乳で仕上げたとてもヘルシー、デザートにどうぞ)    300円

豆乳で仕上げた杏仁豆腐食べたいでしょう、それから、メニューに載っていた麻婆豆腐は、豚の角煮が入っていて、ご飯にかけると美味しいって書いてあった。
後、中華のパンの間に角煮挟んで食べるのがあったかな?
上海チキンは、駒込の六義園の近所にそういう看板を掲げた店があったっけ、どんな物か、食べてみたいとずっと思っていたのだ。
結局、全部食べたいのだ。(笑)

日本風の中華とか、中国の中華を食べたくて行くと外れるかも知れないけれど、野風僧の料理人さんの腕とセンスを食べたいと思って行けば、当たると思う。
(でも、好みの問題はあるかも。私と同じ好みだったら、絶対外れない、当たり前ですね。)



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