【 睡 蓮 ─ すいれん ─ 】
──── この世のものとは思えぬほど、美しかった。
水底に眠る、貴女。
揺らめく水が蒼い陰を落として。
( い…、生きてるの? )
「命は…、尽きかけています」
いつの間にか音もなく側に降り立った、二人の童の一人が心の内を読むように言葉を返す。
「瘴気が拡がり続けています」
もう一人が、言葉を続ける。
そして ─────
「お選び下さい。」
「お救いするか…、しない。」
─── 私が!?
─── 私が、桔梗を救う…?
犬夜叉じゃ…、なく?
それは、直観的なものだった。
私を呼んだのは…、『桔梗』じゃない。
桔梗の死魂虫を使い、式神の童を遣わしたのは。
( 私…、試されている? )
何故か、身体が震えた。
今、ここで私が『道』を間違えると、取り返しのつかない事になりそうで。
( 私の、選ぶ道。進まなければならない…、道? )
ここで私が選んだ『道』は、きっと犬夜叉にも桔梗にも繋がる道。
良きにしろ、悪しきにしろ。
今一度、水底に眠る桔梗を見やる。
奈落の瘴気に蝕まれているは思えぬ程に、美しい。
その美しさが、桔梗の全てを現している。
桔梗の、犬夜叉に対する哀しいまでに深い想い。
『生身』の人間ならば、もう疾(と)うに奈落の瘴気にその身体は膿崩、腐り果てているだろう。
ただの『人器』ならば、奈落の最初の一撃で土と骨に還っている。
そうならないのは ─────
判っていた。
桔梗が『死人』として、この世にあらざる『生』を受けた時から。
私の中で眠っていた桔梗の『心』が目覚めるのを拒んだのは、犬夜叉に裏切られたと思ったからじゃない。
……桔梗は犬夜叉に手をかけた自分が、許せなかったのだ。
確かに、裏陶(うらすえ)に黄泉帰りさせられたばかりの時の桔梗は、陰の気を含む『魂』の影響を強く受けていたかも知れない。そんな桔梗を見て裏陶は、怨念の化け物だと罵った。
だけど、そうじゃない。
桔梗の『心』はそんな陰の気など、とっくに浄化していた。
それでも尚、この世に在り続ける為に、犬夜叉を恨む事で偽りの邪気を纏い、死魂をその身に満たす。望まぬ『身体』で生き続ける為に。
犬夜叉の側に在る為に。
この世に在り続ける事の、矛盾。
それを一番強く感じていたのは桔梗、貴女なのね。
だから ─────
犬夜叉にくちづけた。
犬夜叉を地の底に引きずり込もうとした。
私を…、殺そうとした。
そして、たった一人で奈落に闘いを挑んだ。
全ては、犬夜叉への貴女の愛。
ならば、私の選ぶ道も ──────
今の私に何が出来るか判らない。
だけど、私は私の『心』の命ずるままに。
私もまた ─────
水底の、桔梗の許へと降り立つ。
不思議と、息苦しさは感じなかった。
私の目の前には、臈(ろう)たけた聖なるものの奇蹟が横たわる。
貴女を、こんな事で散らしはしない。
こんな事で、儚くはさせない。
水の底で、そっと桔梗を抱き起こす。
見るだけでは判らなかった、桔梗の傷の深さに慄然(りつぜん)とする。
首と腕が、辛うじて胴に繋がっている状態。
破魔の弓を引く、その腕が。
思わず、その傷に手を当てる。
かつて鋼牙の腕に埋め込まれた、奈落の瘴気と毒で出来たニセの欠片を取り出そうとした時に感じた衝撃の、何十倍もの禍々しさを感じる。
私は、私の手の平を焼く禍々しさを握りつぶすように、全身全霊に力を込める。
( 私は、負けないっっ!! )
私の内身(なか)から溢れだす、力強い『何か』。
負ける訳にはいかない。
『心』を捨てた奈落なんかに。
私が、私たちが!
お願い! 桔梗!!
私を、受け入れて!!
悲運の波にもまれ、瘴気の渦に呑まれ、今まさに息絶えんとする桔梗に私は自分の『命』を分け与えるように、その水の色より蒼い唇に口付けた。
自分で自分を抱きしめるように。
何よりも守りたい存在として。
犬夜叉が何故、桔梗を守りたいのかよく判った。
桔梗が、一人で奈落に立ち向かった訳が今、判った。
私も、一緒 ─────
『過去』と『未来』が交わり、『今』になる。
私の中の『何か』が桔梗の中に流れ込むのを感じた。
私たちの身体は強い光に包まれ、その光は水面を突き破り、天へ駆け登る。
「法師様! あの光!!」
「あれは、破魔の光! かごめ様の身に一体なにが……」
結界の前で足止めさせられていた弥勒と珊瑚は、その結界が解けているのに気が付いた。
「おい! 今の光は一体なんだっっ!!」
ほぼ同時に、犬夜叉が二人の前に駆け込んでくる。
「桔梗の…、死魂虫じゃ。かごめがそれを追って結界に入ってしまったんじゃ!」
おろおろと経緯(いきさつ)を話す七宝。
「桔梗…? かごめだけを呼んだってのか!?」
先程出会った、式神の童の言葉が気にかかる。
童は、こう言った。
奈落の瘴気に蝕まれている、と。
魂だけで闘っている、と。
( まさか、桔梗! お前、かごめを…!? )
微かな、かごめの匂い。
水の匂い。
犬夜叉はそれだけで、走り出していた。
神気さえ感じさせる、森閑とした場。
聖なる水が滝をなし、全ての罪科を洗い清めるかのように淵を満たす。
そこに、二人の姿はなかった。
「犬夜叉。かごめ様は?」
少し遅れて着いた弥勒たちが、先に着いていた犬夜叉に問う。
犬夜叉はかすかに首を振り ────
「……判らねぇ。かごめと、桔梗の匂いは残ってるんだが――――」
「それって、かごめちゃんを連れて桔梗がどこかに行った、って事かい?」
もし、そうなら……。
犬夜叉の背に、寒いものが走る。
思案気なその場を、七宝の悲鳴が引き裂いた。
「かごめっっ〜!!」
「なにっっ!!」
滝の淵を覗き込んでいた七宝が腰を抜かしている。
犬夜叉たちが、そこで見たものは ──────
水底に横たわる、かごめの姿。
かごめの姿を認めた途端、犬夜叉は水の中に飛び込んでいた。
どれほど水の中に居たのだろう?
かごめの身体はすっかり冷たくなり…、すでに息はない。
「かごめっっ、かごめ〜っっ!!」
犬夜叉はきつく抱きしめ、激しく揺さぶる。
それは、今にも壊れそうな程に。
壊れそうなのは、犬夜叉の『心』
「何をしてるんだい!! 犬夜叉! そんな事したって、助かりゃしないよっっ!! かごめちゃんを助けたかったら、あたしの言う通りにしてっっ!!!」
……こんな時、冷静なのは却って女の方かも知れない。
「いいかい! あたしがかごめちゃんの胸を五つ数えて押すから、あんたは三つ数えて口から息を吹き込むんだよ。あんたはバカ力だから、吹き込みすぎて、かごめちゃんの肺臓を破ったりしたら、承知しないからねっっ!!」
今まで見せた事もないような形相で指示を出し、犬夜叉からかごめの身体を受け取ると、地に横たえ気道を確保すると胸のふくらみからやや下、中心から少し左寄りを両の掌で力を込めて押し始める。
「…三、四、五、ほら、今だよ! 息を吹き込んで!!」
……普段の犬夜叉なら、躊躇いと戸惑いでとても出来る事ではなかっただろう。
だが、今はかごめの命がかかっている。
この息吹が、かごめの命を繋いでくれる事を願って。
二度、三度と繰り返す。
生色の戻らぬかごめの顔を見て、強気な言葉を吐いていた珊瑚の顔は、今にも泣き崩れそうになっている。
珊瑚に取っても、かごめは唯一無二の『親友』。
無くしたくはない、無くす訳にはゆかない『宝』。
( お願い! 頑張って!! かごめちゃんっっ!! )
想いは皆、同じ。
万感の想いを込めて、犬夜叉が息を吹き込む。
自分の『命』の全てを与えるかのように。
「…う、う〜ん」
犬夜叉がその唇を離した瞬間、かごめの口許から小さな呻き声が漏れる。
それと同時に大量の水を吐き出した。
「かごめちゃんっっ!!」
「かごめっっ!!」
側に居た犬夜叉を押し退けて、珊瑚がかごめに抱きつく。
「かごめちゃんっっ、良かった! 本当に良かった!! かごめちゃ〜んっっ!」
もう、後の言葉はない。
壊れそうに、張り裂けそうにかごめの身を案じて、今はただ泣き崩れる珊瑚を、そっと優しくかごめは抱き返した。
「ありがとう、珊瑚ちゃん。心配かけて、ごめんね」
一際強く自分に注がれる視線。
その主は ─────
「犬夜叉……」
かごめは泣き崩れる珊瑚を、珊瑚の側に付いていた弥勒に預け、犬夜叉に向き直った。
「……ごめん、犬夜叉」
犬夜叉のかごめを見る顔が、怒っているように見えたので。
「……俺は、もう嫌だからなっっ! 誰かが、俺の目の前から消えちまうなんて、もう絶対嫌だ!!」
「うん…。もう絶対、犬夜叉あんたの側を離れない」
かごめのその言葉に、犬夜叉はかごめの肩を強く抱き寄せた。
──── そう、気が付いてしまえば簡単な事。
私は、(ワタシタチハ)あんたの側に居る ────
肩にひりつくような痛みが走り、顔をしかめる。
「あっ、済まねぇ。つい……」
「ううん、いいの。ねぇ、桔梗は?」
その名を出した途端、犬夜叉の顔が曇る。
「……お前、だけだ。やっぱり、桔梗も居たんだな」
犬夜叉が何を考えているか、判ってる。
私がこんな目に逢ったのは、桔梗のせいだと思っている。
「……桔梗が悪いんじゃないの。私が選んだだけ」
「桔梗の身体、奈落の瘴気にやられてるって式神が言ってた」
桔梗が自分の身体を再生させる為に、私を必要としたと思っているのだろう。
「大丈夫。私が大丈夫だったんだから、桔梗もきっと、どこかで生きてるわ」
「かごめ……」
かごめと桔梗の間に何があったか判らない。
だが、何か吹っ切れたものがあるような気がした。
弥勒になだめられ、幼女のように泣きじゃくっていた珊瑚もようやく泣き止み、落ち着きを取り戻して来た。
そんな様子見て、弥勒がぽつりと一言。
「珊瑚、あんな救命法も知らぬ犬夜叉に手伝わせずとも、私に声をかけてくれれば良いものを。こーゆー事でしたら、手慣れたものですのに」
ばきっ。
珊瑚の飛来骨がまともに弥勒の顔面を直撃する。
どげいんっっ。
その後、犬夜叉の蹴りが入る。
「あんたみたいなスケベに、大事なかごめちゃんの身体を触らせる訳にはいかないだろっっ!!」
そんなつもりなど毛頭なかったのだが、日頃の行いが悪すぎたのだろう。
自業自得である。
「……バカじゃ。こんな時に、なぜあーゆー事を言うんじゃろう?」
かごめを水底に見つけた時から、その衝撃で声も出ず身体を固くしていた七宝が、ほっと大きく息を吐いた。
──── いつもの仲間。
──── いつもの時。
これからも、ずっと。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
──── 死魂虫が、(元)主の側を離れがたく、未だまとわりついている。
「 ──── お前たち、今までよく私に仕えてくれた。さぁ、お前たちの行くべき所へ、行くがよい」
高く上げた右手から、清らかな光が迸り道を指し示す。
死魂虫たちは、その光に導かれ昇天してゆく。
下ろした肩口に、微かな痛み。
「どうかなさいましたか? 桔梗様」
桔梗に付き従う式神の一人が、目敏くその様子を見て取り声をかける。
「お前たちも、主(あるじ)の許へ還るがよい」
「桔梗様……」
桔梗の凍てついたような美しい顔に、薄く笑みが浮かぶ。
「お前達の主が何を思って私を生き長らえさせたかは知らぬが、これだけは伝えて欲しい」
そう言って式神たちを見据えた桔梗の瞳には、今までにない力強い『命』の光。
「 ──── 望まぬ身体に、常ならぬ『生』を与えられた事を、私は認めようとはしなかった。だが、この『生』も私に与えられた『道』だと、受け入れよう。私が私で在るために、この『身体』で、この『心』で生きてゆく。そう、お前たちの主に伝えて欲しい。」
そう言い切った桔梗の顔は、巫女であった時よりも美しく活き活きとしていた。
「御意。確かにそのお言葉、我が主にお伝えいたします」
一人が答える。
「なれど、桔梗様。貴女は貴女であられる為、あの奈落を追うのでしょう? ならば、我等もお連れくださいませ。きっとお役に立ちましょう」
ふっ、と桔梗の顔に笑顔が零れる。
艶(あで)やかな花がほころぶように。
「……主が物好きなら、お前たちも物好きだな。好きにするがよかろう」
朗らかな声でそう言い、空を見上げる。
あの者たちへと続く空を ──────
もう一度、右の肩口を押さえる。
確かに感じる、この痛み。
奇跡、と言う名の痛みであった。
【 あとがき 】
サンデーの19号を読んだ後の、読後妄想文です。かごめは間違いなく
く桔梗を助けると思うのですが、それがどう言う事なのか杜なりの解釈
です。その為、原作にはない『第三者』として式神の童を遣わした『主』
なるものを登場させました。
奈落の瘴気に蝕まれている桔梗に、三体もの式神が操れるのかな? と
疑問が湧き、もしかして第三者が桔梗を助ける為に式神の童を遣わし、
人形(ひとがた)に桔梗の『魂』を乗せたのでは? と考えたんですね。
次の号が出てしまうと、そんな設定はどこかに飛んでいってしまうので、
大急ぎで仕上げた拙文です。
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