【 冥 道 −くらきみち− 】
――― 夥しい程の、鬼の残骸。
冥道の形(かた)は繊月よりもなお細く、今までこの爪で引き裂いて来た死骸と大差ない。
辺りを覆う死臭と怨念が、新たに獲物をおびき寄せる。もう、どの位ここで天生牙を振るい続けている事か。
思うようにはならないこの仕儀に、焦りがあったのか?
それとも己の力を過信していたのか?
己の足元を中心に、禍々しい【気】が満ち不要な怨嗟の呻きを噴出している。
目指す天生牙の奥義は、冥道を開き【生きたまま】相手を冥府に送る技。
この世に、恨みも怨念も遺さぬ究極の奥義。
しかし、目指すものとはほど遠く ―――
「りんっっ―――!!!」
「殺生っっ…」
――― !!! ―――
自分の背後で突如、上がった悲鳴。
鬼の死臭の中に、自分がよく知っている者の血の臭い。
振り返り見ればそこには、小さなりんの体を串刺しにした鬼の姿。今まで切り捨ててきた鬼の頭領か。二回り以上も大きな鬼が、目を怒りで地獄の炎さながらに赤く染め、牙を打ち鳴らしていた。
何時にない焦りから、隙を突かれた。
背中から巨大な鬼の手で串刺しにされたりんの体は、半分に千切れかけていた。壮絶なほどの怒りの気が殺生丸から吹き上がる。
「殺生丸様っっ!!」
邪見の絶叫。
巨鬼と視線が絡んだ瞬間、鬼の腕は切り落とされていた。
一瞬、殺生丸はりんを助ける事よりも、目の前の鬼を切り伏せる事に心が動いた。千切れかけた体のりん。おそらく、もう息はあるまい。
だが…、この天生牙がある。
いつでも、この私が黄泉の国からお前を引き戻してやる!
りんを傷付けた事への怒りは凄まじく、唐竹割りで脳天から尾てい骨まで一瞬で切り裂き、返す刃で胴を真横一文字に薙ぎ払う。
巨鬼はその体を四つに切り裂かれ、そのままどうっとその場に倒れ伏した。
その体に、四辻の冥道を刻んで。
……そう、この時点まで殺生丸は【天生牙】のもう一つの力を過信していたのだ。
滂沱の涙で目が流れ落ちそうな邪見を払い、りんの体に刺さっている鬼の腕を抜く。気を鎮め、あの世の使いの姿を捉えようとして、気が付いた。
( ――っっ!? 馬鹿な!! )
見えないの、だ。
あの世の使いが。
そして、天生牙も鳴かない。
有り得ない事実に、殺生丸の背を冷たいものが駆け上る。
( …まさか? まさ……か… )
驚愕で見開いた眸に更なる怪異。
りんの千切れかけた屍が、ゆうらりと浮き上がり巨鬼に刻まれた四辻の冥道に吸い込まれて行った。やがてその冥道も閉じ、後には無惨にもそして無益にも殺された鬼の屍が転がるばかり ――――
「せっ、殺生丸様…。一体、何が起きたので御座いますか?」
「…………………」
ぎり、と歯噛みし虚空を睨みつける。
手にした天生牙に視線を落とす。その眸には、怒りとも憎悪とも取れる凶悪にして最強な光。
「ふ…ん。そう言う訳か、天生牙。あの時、私が【生】よりも【殺】っする事に心動かした、その報いか」
己の手の中の天生牙から伝わる、冷たい波動。
己の物でありながら、己の物になりきってはいない得体の知れなさ。
胸の内に吹き荒れる情動を鎮める為、殺生丸はその猛々しい眸を閉じ束の間、瞑想状態に己を置いた。殺生丸の周りに吹き荒れていた常ならぬ【気】の昂ぶりは鎮まり、替わりに触れなば切れそうな程の冷徹な気が辺りを圧する。
「…お前がその気なら、是が非でも私に従わせるまで!」
天生牙を正眼に構え、何もない虚空を幾度も幾度も斬りつける。
その気迫は、先ほどの鬼どもを切り捨てた時とは比べ物にはならない。
長年殺生丸に付き従ってきた邪見にしても、こんな気迫の殺生丸は見た事がない。いや、強大な敵を嬉々として切り捨てる殺気の篭った気迫なら幾度も見てきた。
だが、これはそれとは違う。
上手くは言えないが、これは違うとそれだけは邪見にも判った。
「殺生丸様、何をなさっておいでですか…?」
恐る恐る、下手をしたら切り捨てられるかもとの恐怖感を感じながら、それでも邪見は尋ねずには居られなかった。
それほどに、そう… こんな言葉は殺生丸にはそぐわないのは承知で、でもその【ひたむきさ】に言葉が勝手に口から零れ出る。
「…冥道を、開く」
「冥道、を…、でございますか?」
…確かに【冥道残月破】は冥道を開いて、敵を討つ技。
しかし、何もない空(くう)に冥道を開く事が可能なのか?
開いた冥道を如何するつもりなのか?
「…極めれば、その開いた冥道は円となり、冥府に丸ごと身体を送れると言う」
「何を、お考えで…」
「りんを、連れ戻してくる」
殺生丸の考えに、邪見は青ざめずにはいられない。
つまり…、殺生丸は【生きたまま】冥府に乗り込み、りんを連れ戻そうとしているのだ。その為に、【冥道残月破】で真円の冥道を開こうと。
そも、冥府に生きた者が入れるのかどうかすら判らない。
ましてや、おそらく【死者】として堕ちたであろうりんを現世に連れ帰るなど…。
またその【冥道残月破】にしても、今はまだようやく三日月程度。
技を極めるに、どれ程の時が掛かるのか。
はっと邪見が我に返ったのは、自分の肌に感じる【気】が尋常では考えられないほどに高められて来たのを感じたからだった。
殺生丸の流れるような白銀の髪が一条々々妖力を高めて逆立ち、眸は変化する寸前の灼熱の赤。時として繊細にもみえる殺生丸の体が内に孕んだ妖気の高まりで、一回り程大きく見える。
それに対応するかの如く、天生牙からも神妙にして凄烈な【気】が膨れ上がる。
殺生丸と天生牙。
互いが互いを、【気】で呑み込もうと、闘っていた。
「殺生丸様っっ!! 危ない事はおやめ下さい! りんは…、あの様ではおそらく天生牙でも助けられなかったのでしょう。生きたまま冥府入りをなさるなどと、恐ろしい事は御考えなさいますな!!」
「…違う。天生牙が助けなかったのではなく…、この私が、助けなかったのだ」
「殺生丸様…」
……そうだ。
助からぬ者でも、【助けたい】と言う思い。
今まで、そんな者をも【助けようと】したか?
見極め、その判断に従ってきた私。
【死】すらも、凌駕出来る力を手にしたと思い…
所詮、私の思い上がり。
どうにも出来ぬものに、足掻くなど今まで私には出来なかった。
出来ぬ事もある。それでも、私は!!
―――― 欠けていた心。
余りにも秀でていた為。
余りにも強すぎた為。
何よりも、もっとも妖怪らしい妖怪であったが為。
完璧であるが故の…、欠けていた心。
犬夜叉に左腕を落とされ。
敵方であった者に憐憫を感じ……。
そして。
訳もなく連れ歩いた足手まといな人間の小娘を、目の前で連れて行かれ…
私が、初めて助けた【もの】 ―――、りん。
天生牙を掴む手に、さらに気を込める。
「私を誰だと思っている! 天生牙よ! この殺生丸に従えっっ!!」
振り下ろされた天生牙に込められた【気】は殺気でも闘気でもなく、もっと大きな……
ざんっ! と目の前の空間が切り払われた。
そこに現れたのは見た事もない、真闇の月。
冥道の入り口。
「せ、殺生丸様っっ!!」
「…ふん、ようやく開いたか」
「行ってはなりませぬ、殺生丸様! 父君の墓所があるあの世とこの世の境の、さらに先の世界。生きているものが立ち入ってはならぬ世界でございますっっ!!」
「邪見、貴様誰に物を申しておる」
「せ、せっしょうまるさまぁ〜〜」
真闇を見詰める殺生丸の眸には、どんな色も浮かんではいない。
あるのはただ、己の信念のみ。
「…己の心の赴くままに」
硬直し、口をあわあわと開いたままの邪見を置き去りに、殺生丸は真闇の月の中に身を溶かす。
躊躇いもなく真闇の月の中を歩む殺生丸の靡く髪が小さく光を反射したのを最期に、冥道の入り口は現れたのと同じようにふっと掻き消えた。
冥道の中は光も風も匂いも音もない世界だった。
殺生丸は自分が生きているか死んだのかも判らなかったが、自分の【存在】はしっかりと感じていた。
闇の中でも、歩む歩調に狂いはない。
勘のようなものが、歩むべき方向を指し示す。
( …りんは、二度もこのような暗闇を味わったのだな )
小さく、ほんの微かに、天生牙が鳴った。
闇を見晴るかす獣目を凝らし、行く手を窺う。
闇が滲んだように、ほんの僅か空間が揺らぐ。その揺らぎの中から針で突いた程の弱々しい光。
その光が何であるか、殺生丸には確信めいたものがあった。儚く、暖かな柔らかい光。
りんの、色 ―――
迷う事無く、その光を目指す。
指先に小さな温もりを感じたと思った瞬間、殺生丸の体は朧な光に包まれていた。
そこが通常の空間ではない事は、光があっても影がない事でそうと知れる。何もない事は変わりないが、先ほどまで歩いていた所と違うは、音もあり、風も匂いもあると言う事か。やはり、どれも朧ではあるが。
( 殺生丸様 ――― )
遠くで聞こえたのか、足元で聞こえたのか距離感の掴めぬ声音ではあったが、その声は紛れもなくりんの声。
声に誘われるように辺りを見回すと、何もなかったその場所で柔らかな光が収縮を始めていた。その光はやがて、子供ほどの大きさに変わり、そして ―――
「…戻るぞ、りん」
人型になった光は微かな風に揺られたように、小さくふるふると首を横に振る。
( …【りん】のお役目は、終りました。これは最期にもう一目、殺生丸様にお逢いしたいと言う、りんのわがままです )
「お前にその気がなくとも、構わん。この私が、そう決めた」
( 殺生丸様… )
朧な光に包まれたりんの手を取ろうと、殺生丸は右手を差し伸べた。
その手を嗜(たしな)めるように、一陣の風が殺生丸の手を打つ。
( …この世に存在(あ)る全てのものは、果たすべき為すべき【何か】を持って生まれてくる。そう、こんなあたしでもね )
いつの間にかりんの傍らに、一回り大きな光が寄り添っている。
「お前は……」
( それを人間どもは運命だとか、宿命だとか言うようだけどさ )
「…………………」
( それをやり終えてない奴は、まだ生きる【意味】があるんだろう。その為の天生牙だろ? 殺生丸 )
大きな光が収縮して、艶やかな女人の姿をとりはじめる。
( …あたしもりんも、もうそれを為し終えたんだよ。それは、あんたが一番良く判っているはず。死ななきゃならない者まで生き返らせるような、そんなお助け刀じゃないだろ、天生牙は )
「…神楽」
( それが天の理(ことわり)って奴。いくらあんたが大妖怪でもひっくり返しちゃいけないよ。それ以上は、あんたの【欲】だよ。りんへのさ )
天生牙 ―――
全ては、お前が。
お前を通して紡がれた、運命の意図。
私がりんに出逢ったのも、妖狼どもに食い殺されたお前を蘇らせたのも、
連れ歩いたのも。
訳など知らず。
そして、神楽。
お前も、そうか。
お前も、私を導く為に天生牙に選ばれた【駒】だったのか。
お前達に出逢う前ならば、きっとこんな所まで追いはしない。
もう出逢う前の私には、戻れない。
出来る事なら ―――
( …ありがとう、殺生丸様 )
( ああ、あんたがそう思ってくれただけであたしゃ、本望だよ )
「 ―――っっ!?」
…声には出さぬ、想い。
伝わる、想い。
( もう、ね… 戻り様がないんだよ。身体(うつわ)と魂の糸が切れちまってるからね )
( あたしの身体は、灰になって風になっちまった。りんの身体も、魂の【命】の抜け殻 )
「…その切れた糸を、天生牙で繋いでみせる」
( …酷い事を言うねぇ。りんの身体は天命が尽きてる。もう、どうしても生き返りはしない。それでも、無理を言うなら朽ち果てて行く屍にりんの魂を閉じ込める事になるんだよ? )
蓮っ葉な物言いはそのままに、伝えられた意味の無惨さに殺生丸は言葉を失くす。
( 殺生丸様。りん、すごく幸せでした。今も、幸せです。ですから、殺生丸様… )
( 殺生丸。あんたも、あんたの【往くべき】道を真っ直ぐに歩きな。ちゃんと見ててやるからさ )
大きな光と小さな光が一つに溶け合う。
「りん、神楽…… 」
( 安心しな、殺生丸。【りん】はこれからあたしが、ちゃんと守ってやるから )
神楽の微笑み、りんの笑顔
それが、殺生丸への餞別。
―――― いつかまた出逢える、その日まで。
目も眩む様な閃光が、りんと神楽であった光を掻き消し殺生丸をも包み込む。殺生丸の【色】さえ消し去る強い光は浄化を思わせ、殺生丸はほんの一瞬、意識を手放した。
あまりの光量の激変に、殺生丸の眸でも見る力をしばし奪われた。光に盲(めしい)た眸が物の貌(かたち)を捉えた時には、もうその身は現世(うつしよ)に戻ってきていた。
「せ、殺生丸様!!」
邪見が足元にひれ伏し、おんおんと傍目も憚らず大きな声で泣き出している。
「り、りんばかりではなく、殺生丸様まで逝かれてしまってはこの邪見、どうして良いかと、それはもう……っっ!!」
「…何が、起きた?」
「あっ、はい。殺生丸様が冥道に入られてすぐでございました。空(くう)に亀裂が入ったかと思うと、光が迸り出まして…」
「……………」
「目が眩んで、どうにか見えるようになったと思ったら、殺生丸様が立っておられました」
「そうか…」
冥道の中を随分歩いた様に思ってはいたが、そしてあの二人…
「…りんには、逢えませなんだか」
「いや…。いや、あれはもう、いい」
「殺生丸様…?」
りんは、あれははっきり今も【幸せ】だと、そう言って笑ったのだ。
だから、もう良い。あれが幸せなら、もうそれで…。
出来る事と、出来ぬ事。
その狭間で苦悩し、足掻く愚かしさ。
それでも、なおと願う心の働きもまた【強さ】か。
失くして得た、大きな【力】
「…行くぞ、邪見」
「は、はい! 殺生丸様」
夜は空け始め、闇は彼方に去りつつある。
そこにお前達が存在(い)ると言うのならよく見ておくが良い。
お前達に恥じぬ、私の歩まねばならぬ道を歩んで見せよう。
どれほど冥(くらい)道であろうと、お前達と言う光を導(しるべ)に。
【完】
2005/09/05
【 あとがき 】
…う〜ん、これ【殺りん】ではありませんね、はい^_^;
どうしてか【天生牙】を主題にすると、こんな感じの話になりやすい管理人です。
もともと恋愛要素の薄い性格ですし、「やおい」(…エッチな意味ではなく、山なし落ちなし意味なし、の方ですね)な話は書いてて自分が空しくなるので、と言うより意味のない話は私としては【話】にならないので書けないんです。
どんなささいな【意味づけ】でもそこにないと。
なもので殺りんの場合、どうして殺生丸とりんを天生牙は引き合わせたのか? と言うのがずっと根底にあります。
その流れで見ると神楽の存在も天生牙を通した、【大いなるもの】の意思を感じる ――、と勝手に私は意味づけをしている訳なんです。
そうですね、次はその辺りを含めて考察の一本でも書いた方が良いかも知れませんね。
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