【 言の葉 】


 … 四魂の珠の消滅直前・直後からの話です。




 ……目の前で、井戸と共に消えてしまったかごめ様。

 それは『骨喰いの井戸』と呼ばれる、怪しの井戸。井戸の底はどこかこの世ならぬ所と繋がっているのだと法師様が教えてくれた。かごめ様がこの井戸から現れる前は、退治した妖怪の死体や骨を投げ入れていたのだと楓様が付け加える。

 この世ならぬ所なら、りんも連れて行かれた事がある。
 途中までしか知らないけど、殺生丸様の母君のお城で冥界の犬に飲み込まれて。 
 冥界の底で何があったか知らないけど、息苦しくて咳き込んで目が覚めた時、りんの目の前に殺生丸様のお顔があったのがとても嬉しかった。りんがお手に触れてもそのままにしてくださって、ああこのままこの手を離したくないなって。

 井戸に飲み込まれたかごめ様の、伸ばされた手。

 犬夜叉様が冥道を開き、その中へ飛び込む。
 きっとどこかで繋がっている事を祈って…、いえ、それを信じて!

「……殺生丸様、犬夜叉様はかごめ様のところに行けるのでしょうか?」
「…………………」

 りんの問いに、返事は無かった。
 ゆらりと珊瑚様がりんの顔を見た後、殺生丸様の元へ歩み寄る。

「……殺生丸。法師様の風穴は消えた。あの時の約束をあたしは果たそうと思う」
「………………」
「だけど、虫のよい頼みだとは判っているけど、あたしの替わりに見届けて欲しい。犬夜叉とかごめちゃんが帰ってくるのを」

 覚悟を決めた厳しい表情で殺生丸様の前に立ち、頭を垂れ無防備に急所を晒す。殺生丸様の鋭い爪なら珊瑚様の細い首の一つ、刎ね飛ばすのは造作も無い。

「珊瑚っ!?」
「珊瑚様……?」
「姉上っっ!!」

 殺生丸様の眸が不機嫌そうに細められる。御手がかすかに動く。

「……言う事はそれだけか」

 静かに珊瑚様が頷き、琥珀の顔が引きつる。

「姉上っっ……」
「何も言うな、琥珀。これはあたしの罪だ」

 言いようも無い怖いような空気が流れる。あたしはその元になっているのが自分だと、りんの顔を見た珊瑚様の表情と、真っ黒な四魂の玉から抜け出した時に珊瑚様があたしに謝った言葉から気が付いた。

「珊瑚様、あの… あたし……」

 かける言葉も無く、そう言いかけて言葉に詰まる。そこに ――――

「その女は自分の男の為にお前を殺そうとしたのだ」
「えっ…?」

 感情の見えない冷たい声で、そう殺生丸様が言い捨てる。珊瑚様の顔が苦しそうに歪んで、その瞳から涙が溢れ……。

「珊瑚、それは一体どういうことだ…?」

 この事態に、自分も関わりがあると弥勒様も殺生丸様の前に歩み出る。ぐっと今まで堪えていた琥珀が堰を切ったように話し始めた。

「……姉上は白夜の幻影に惑わされたのです。りんを人質に取った奈落の幻影をりんともに姉上に攻撃させようとしたのです!」
「そうするしか、法師様の命を救う方法がなかったから……。姉上には何よりも自分の命よりも大切だったからっっ!!」

 今にも崩れそうな珊瑚様の肩を、法師様が支える。

「ふん。忘れていた事を思い出させる。りん、お前はどうして欲しい」

 いきなりそう殺生丸様に問われて、あたしは ―――― 

「でも、りん生きてるよ」
「りん……」
「珊瑚様、りんを殺したかった?」
「そ、そんな訳は無い! 訳はないけど、だけど…、あたしは……」
「罪も無い者の命と自分の男、天秤にかければ己の欲を優先させる。素直の事だ。綺麗ごとを並べたがる人間にしては珍しい、いや薄汚い人間らしいか」
「殺生丸様……」
「お前が殺されていたら、その場で引き裂いていた。だからお前が決めろ」

 小さくなってゆく珊瑚様の声、肩の震えはますます大きくなっている。

「…殺生丸様、どうもしないって答えでも良いですか? だって、りんは今こうして生きてるし、そういう事だってあると思う。りんもりんにとって大事な方を守りたい」

 りんの言葉に珊瑚様は悲しいような諦めたような弱々しい笑みを浮かべた。

「……今度だけじゃないんだ。前にも琥珀の為に犬夜叉から鉄砕牙を奪おうとした。きっとこれからもあたしは同じ事を繰り返すと思う」
「珊瑚……」

 大好きな人の前で、自分は殺されるかもしれない。怖くてたまらなくて体は震えているのに、自分のした事の償いから逃げる事無くそこにいる。それだけの覚悟を持って、りんを巻き込んでしまったんだ。  なんだかこう上手く言えないけど、そうじゃない! そうじゃないんだって気持ちが胸に噴きあがってくる。

「りんだって、同じ事をするかもしれない。だけど、りんは今生きてるんだよ? それなのに珊瑚様が死んじゃったら悲しいよ。琥珀だって、ううん法師様だってすっとずっと悲しいと思う。だから死んじゃだめだ、珊瑚様!!」
「りん…、それじゃあたしの罪は償えない」

 泣き出しそうな顔であたしを見る珊瑚様。あたしの中で、何かが弾けた。

「ならないから! 珊瑚様が言っているような事には絶対ならないから!! 珊瑚様が鉄砕牙を奪おうとしたって、あたしを殺そうとしたって、それは珊瑚様の望みじゃないから!!」
「……………………」
「それが一番大事なことだとりんは思うよ。珊瑚様は今、すごく辛い思いをして苦しんでいる。だから、もういいよ。それで十分だよ」

 珊瑚様が法師様にすがって声を殺して泣き始めた。
 殺生丸様が何事も無かったようなお顔をして、その御手を収められた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 不思議な光景だと、楓はその隻眼を凝らしてその成り行きを見ていた。

 戦国一の大妖怪、残酷無慈悲なその性格。人間の命など虫けらのようにしか思っていはないと噂されていた者のその様に、こんなちっぽけな娘にどんな力があるのだろうと思わざるを得ない。緊張しきっていたその場がりんの珊瑚に向ける笑顔で解ける。そんな事が出来る『りん』と言う娘の不思議さを。

「行くぞ、邪見」

 消えた井戸など関心が無いと言わんばかりに、殺生丸が踵を返す。邪見とりんは互いに同じ事を思ったようだが片方は口をまごつかせ、片方は当然のように言葉を発した。

「殺生丸様、まだ犬夜叉様とかごめ様が戻ってません!」
「だから?」
「だからって…、心配ではないのですか?」
「私は奈落や曲霊との決着をつけにきただけだ。ここに留まる理由は無い」
「殺生丸様……」

 りんは心配げに自分を見ている琥珀や珊瑚の方に頭を下げ、すでに歩き始めた殺生丸の後をついてゆこうとした。そんなりんに殺生丸は振り返りもせずに一言言葉を投げる。

「ついてくるな」
「殺生丸様っっ!?」

意外な一言に、りんの眼が見開かれる。先ほどとは違う緊張がその場に走る。

「殺生丸様、なぜそんな事をっ!?」

 真っ先にそう問いかけたのは琥珀。あの冥界での出来事を目撃した琥珀には信じられない一言だった。そう、いつしかこの二人はどんな形であれ、いつも共にあるべき存在なのだろうと疑いもしなかったのだから。りんにいたってはまだ言葉も出ない。

「それはりんをここに預ける、と言う意味でよろしいのですか?」

 少し落ち着いたのか珊瑚が今度はりんの方を心配気に見、そんな珊瑚を支えながら弥勒がそう殺生丸に問いかける。
 殺生丸は答える替わりに軽く地を蹴り、中空へと浮かびあがった。それを見た阿吽が慌てたように邪見の体を後ろから跳ね上げ、背に乗せると主の後を追う。りんの悲痛な声が辺りに響く。

「いやだっっ!! 殺生丸様! りんも行く! りんも一緒に行きます!!」

 慌てて駆け出したため足元の石に躓き、転ぶりん。転びながらも手を空に向けて必死で伸ばす。それは周りで見ているのが辛くなるほどの必死さだった。誰もがりんの保護者は殺生丸であると感じていた。それはお互いがそう思っているとも思っていた。りんが殺生丸の側を離れる事はないだろうし、殺生丸がりんを手放す事もないだろうと。

 ……それが人の世の理に反していても。

 弥勒の眼が一瞬、僅かに揺れる白銀の髪の流れを捉えた。しかし、りんの必死な声を聞いても、その姿が戻ってくる事はない。後を追う邪見の声が、りんを思い主を留めようとする声だけが空の上から遠ざかりながら切れ切れに聞こえていたが、それもやがて聞こえなくなってしまった。

「どうして…、どうしてりん、置いていかれたの? りんはもう邪魔なの?」

 転んで土で汚れた頬に、涙の痕が一筋二筋と描かれる。
 突然の事で、あまりのことで、凍り付いていたりんの感情が溢れ弾け飛ぶ。

「いいもん! 置いていかれても、りん追いかけるから!! どんなところでも、必ず追いついてみせるから!」

 転んで血を滲ませている膝の傷もそのままに、りんは再び走り出そうとした。そのりんを、楓の手が引き止める。

「……りんや、お前は何処へ行くつもりだ? 殺生丸は人ではない。お前がいくら追いかけようと、鳥のように羽がある訳でもなく馬のように遠くまで駆ける事もできぬだろう。とても追いつくものではないぞ?」
「それでも、楓様! りんは殺生丸様のお側に居たいんです!!」

 楓の手を振りほどき後を追おうとするりんを、楓は両腕で包み込んだ。

「訳があるのじゃろう、殺生丸には。お前を見ていれば良く判る。お前がどれほど大事に想いを注がれてあの妖怪の側にあったかを。お前の真っ直ぐな瞳を見ればな」
「楓様……」
「あれは、お前が不幸になる事を望みはすまい。お前の為を思えばこそ、ここに残して行ったのではないだろうか?」
「りんの、為…?」

 楓の言葉に、りんの動きが大人しくなる。

「ああ、そうじゃ。お前の為に躊躇う事無く凶悪な四魂の玉の中に飛び込んで行った殺生丸じゃからな」

 りんの気持ちを和らげる楓の言葉。

「……奈落が消えた今、少なくともりんを利用して殺生丸を陥れようという輩は居なくなったと言うことでしょうか? そういう意味では危険は去った。そして、私たちは殺生丸からりんを託されるだけには信頼されるようになったと」
「ああ、そうかもしれんな。あ奴がなぜこの場を立ち去ったかはワシにも判らぬが、それは消えた犬夜叉やかごめに関係しておるかも知れぬ」

 楓のこの状況を見据えた言葉に、りんは自分の振る舞いがあまりにも子どもじみていた事に気付き、恥かしくなってきた。

「……殺生丸様には、きっとまだなさらないとならない事があるんですね。りんがお側にいては足手まといなんですね」

 ふっと、りんの全身から力が抜けた。そう言ったりんが急に大人びて見えたのは気のせいではないだろう。

「りんは信じます。殺生丸様はりんにとって悪いことはなにもなさらないって。ついてくるな、って事はついてゆくことがりんの為にならないってことですよね」
「りん……」

 賢い子だと、楓は思う。ちゃんとその想いをくみ取ることが出来る、判る事が出来る。しかし、それと心が納得するのは難しい事。大人びた風にそう言いながらも、りんの瞳からは涙が溢れ続けていた。楓はりんを、殺生丸に劣らぬ慈しみ深い瞳で見つめていた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「せ、殺生丸様っっ!! どちらへっっ!」

 阿吽の背にしがみつきながら邪見が叫ぶ。もう振り返ってもその姿を見ることは出来ないが、りんの悲痛な声と泣き顔が耳と瞼の裏から離れない。

「こ、このまま、人間と関わらぬところまで行かれるのですか!?」

 先を行く主から、一切の返事は無い。邪見の脳裏にふと、二つの選択肢が浮かぶ。
 今までどおりこの主の従者を務め日々を過ごすか、それともあの村に戻りなんだかんだ周りの者に言われながらも、りんの成長を見守るか。

( ……いやいや、殺生丸様がまたあそこへ戻られる、という事もないではないだろう )

 一番そうなって欲しい予想を胸に、今はただ殺生丸の後を追う邪見であった。

 空を行くこと、数刻。やがて紫光閃く雷雲を見つけ、その中へ入ってゆく殺生丸。物凄い勢いで上昇を続け、その雷雲を突き抜けるとそこは一点の曇りも無い蒼穹の青。その空に浮かぶ、白亜の妖城。一度だけ邪見も訪れた、あのご母堂の天空城。

 長い階段を一気に翔け抜け、ご母堂が鎮座まします玉座の前に降り立つ。邪見は恐る恐るその玉座に続く階段の下の広場で阿吽から下り、深々と頭を下げて額づいた。
 わが子の来訪を察知していたのか、相も変わらずどことなく気だるげな様のご母堂。しかし、その眸の金の色が爛々と光を増していることに、殺生丸は軽く舌打ちをしたい気分になった。

「ほぅ、珍しい事もあるものじゃ。ちっともここへは立ち寄らぬ放蕩息子が、この母に何用じゃ」

 優雅に鳳凰の尾羽根で作った扇で口元を隠し、眸の光だけは強めながらそう言葉をかける。

「……用があるのは、冥道石のみ。冥界への入り口を開く為に」
「冥界へ…? なんじゃ、あの娘はもう死におったのか。それで、お前はもう一度冥界へと?」
「違う。あれは関係はない。私が冥界へ下りるのは、この眸で確かめたいことが有るゆえ」

 ご母堂が手にした鳳凰の扇が小刻みに震え、隠した口元から堪えきれぬ笑いが漏れてくる。

「ふふ、もっと素直に言えば良いものを。冥道を開いて消えた犬夜叉の安否を確かめたいと。お前のような者が、あんな半妖風情を気にかけるなどどういう風の吹き回しであろうな」
「………………………」
「妙なところが似てしまったものよ。あんな人間の小娘を拾って連れ歩いてなぞいたから、『情』を覚えてしまったようじゃ」
「言葉を返すが、冥界行きは犬夜叉の為ならず。本当にこの私を虚仮にしてくれた奈落が消滅したか、それを確かめんがため。現界では太刀打ちならぬとわざと死しめて冥界に逃げ込んだやもしれぬ」

 ふぁさっと扇が揺らめき、それはご母堂の手の中で閉じられる。それを殺生丸に突きつけ、ご母堂は問う。

「……出来ぬ話よ。確かにこの冥道石は冥界と繋がってはおる。しかし、道を開く事は出来ぬ。ただ、見ているのみ」
「冥界の犬は呼び寄せる事は出来てもか?」
「あの時とて、お前も己で開いた冥道で冥界に下りたではないか」
「……何百年も生きてこられて耄碌されたか、母上。お忘れか? 冥界から私を呼び戻す為に冥道石で道を開いた事を」

 その言葉に、まわりの者どもが一瞬凍りつく。

「……ほんに可愛げのない奴よ。確かに道を開いてお前を冥界に叩き込むことは出来よう。だが、その中でお前がその目的を確実に達せられる事が出来るのか? 冥界のどこに消えたか判らぬ犬夜叉と、その奈落とやらを見つけることが」
「行かねば判らぬ」
「冥界は一様ではない。時と空間が捻じ曲がり、過去と未来が交差するような場じゃ。果てはどこまでも果てで、終わりが無い。その中で迷い、本当に命果て冥界の住人になるがオチじゃろう」
「それも承知。だが、そうはならぬ」

 その言葉を聞いて邪見は、何も言わずにりんを村に残してきた訳を知った。そう、無事戻るまでは、決して言えないその訳を。

「なんという変わりぶりじゃ。お前がそこまで半妖に心をかけるようになったとは!」
「なんとでも言うが良い。私の行く道は私が決める。早く冥界への道を開け!」

 親と子としての意識が薄いのは前回の接見の折に感じてはいたが、そこまでご母堂に言い放つ殺生丸も殺生丸。気持ちの変わらぬ殺生丸に、ご母堂の方が折れたのはそれから少ししての事。

「……仕方がない。冥道石で冥界への道を開くには、冥界の中に起点が必要じゃ。この前は殺生丸、お前がそうであった」

 そう言いながらご母堂は冥道石を自分の胸から外し、殺生丸に投げ寄越す。

「その石の中から、犬夜叉の気配を探せ。それが出来たら、冥道への道は開いてやる」

 多少気分を害したのか、それともそう演じているのかわからぬ様子のご母堂。殺生丸は手にした冥道石に意識を集中させる。腰に刺した天生牙から、細いきららかな光が一筋零れていた。

「 ――― !! ――― 」

 殺生丸の眸が、すっと細められる。天生牙の光が針のように冥道石の一点を指す。犬夜叉に伝授した冥道残月破を育んだ天生牙だから出来る事。鉄砕牙に宿るその技を、天生牙が感知し殺生丸に伝える。

 眸を凝らし、その針の一点を見つめる。見つめるほどに闇を閉じ込めたような冥道石の闇が薄れ、黒水晶の縁のように少しずつ物の形が浮かび上がって来る

 犬夜叉のまわりには、妖怪どもの怨念が渦巻く異様な空間。

「……まずいな。あれは、四魂の玉の中と冥界が重なっておる。むやみに冥道を開けば、あのものどもが溢れ出そうじゃ」
「溢れ出るのならば、この爆砕牙の餌食にするだけのこと」

 ぐい、と腰の爆砕牙を握る手に力を込め、冥道石をご母堂の前に突き出した。

「見や! 犬夜叉が冥道を開くぞ!!」

 ご母堂の声に、殺生丸も視線を冥道石へ向ける。確かに犬夜叉は妖怪の怨念や亡骸が溢れている四魂の玉の内部からある一点に向けて冥道残月破を振り払った。

 その先に ――――

「あの娘、時の巫女か……」

 井戸に消えたかごめの姿がそこにあった。叡智に満ちたご母堂の眸が険しく強い光を放つ。

「……手出し無用じゃ、殺生丸。あれを見よ、あの場にお前の出る幕は無い。代々の巫女がなし得なかった事を時を越えたあの者が今、それを果たそうとしておる。犬夜叉は、あの者をあの場に配した何かに選ばれて、あそこにおるのだ」
「…………………」
「時にはこうして見守る事しか出来ぬ事もある。お前もあの不肖な義母弟を信じて、今は待つが良い。下手に介入すれば、大きな歪を生じようぞ」

 
 異なる次元の壁の向こう側から、人でない偉大な者たちが見つめる前で時の巫女が『正しき願い』を口にする ――――

 やがて、全てが終わった。

 無は無へと、戻らなければならぬものは戻るべき場所へと。
 犬夜叉は戦国の世へ、かごめは現代に。
 消えた井戸は元あった場所に再び現れ、りんも人の輪に戻った。



 そして殺生丸の足取りはその後、ふっつりと消えた。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 井戸が消えて三日目、消えた時と同じように光と共に井戸は現れ犬夜叉だけが戻ってきた。
 犬夜叉の口から奈落と四魂の玉の完全消滅の顛末を聞き、かごめも元気に現代に帰ったと知らされた。

 それから、半年ほど後 ――――

 井戸の側で空を見上げるりんと、井戸の底を覗き込む犬夜叉の姿。時には井戸の底に下りる事もある。かつてその井戸は『骨喰いの井戸』と怖れられ、退治した妖怪の骨や残骸を投げ込むとどこともしれぬ所に運び去ってくれた。
 ふっとりんが視線を地に戻し、自分の側の井戸の底に声をかけた。

「犬夜叉様、そんなところにいたらどこかに連れて行かれます。楓様がそう仰ってました」

 りんの声に、犬夜叉が井戸の底から上がってくる。

「ふん、もしそうなら望みはある。またあいつの所へと繋がる望みがな」
「あいつの所…、かごめ様の住むお国ですか? そんなに遠くのお国なんですか?」
「ああ、あいつは今のこの日の本の国中どこを探してもいない。明日の、そのまた明日の、そのずっと先の明日に生きているからな」

 そう言いながら井戸の底の土を払い、どことなく翳りを帯びた深い金のの眸でりんを見る。白銀の髪と黄金の眸、その色彩はりんの胸を締め付ける。

「りん、お前はいつまでこの村にいるんだ?」
「……わかりません。ついてくるな、と言われてしまったから。楓様はりんの為を思ってのことだって……」
「ふ…ん」
「犬夜叉様やかごめ様が消えたことに関係しているかもしれないって。殺生丸様は大妖怪だから何か思案があったんじゃないかって楓様はあの時仰ったのですが……」
「大妖怪……」

 ぽつりとその言葉を口にする。

 思えば犬夜叉が四魂の玉を手に入れたいと思ったのも、半妖である自分を嫌い完全な妖怪になる為だった。冥加の話でしか聞いたことの無い父・闘牙の事、その父に良く似ていると言われ戦国一の大妖怪と呼ばれている殺生丸のように自分もと。

 人でもなく妖怪でもない、どこにも居場所の無い自分が大っ嫌いで。

 母以外で犬夜叉を受け入れてくれたのは、四魂の玉を守護し浄化する破魔の巫女。その高い霊力ゆえにただの人としての生き方を許されず、常に孤独であった桔梗。良く似た魂が出会い惹かれ、巫女はただの女になりたいと『望み』半妖は人間になることで、互いの居場所になりたいと『願って』しまった。

 ささやかな『幸せ』と言う欲 ―――――

 そうして呼び寄せてしまった悲劇。
 それも今は全て昇華された。
 かごめが居てくれたから、桔梗は後を託し昇天してゆく事が出来たのだと思う。最初に戻る事は出来ないけれど、それでも傷付き怨念に塗れ邪悪な存在にまで堕ちていた桔梗を少しずつ癒し清めてきたのは他の誰でもない、桔梗の未来でもあるかごめ自身。

 だからこそかごめ、お前に側に居て欲しい。
 俺がこの先を、生きてゆく為に。
 俺が俺らしく、真っ直ぐに歩いてゆく為に!

 お前に見ていて欲しいと、そう思う。
 半妖である俺の生き様を!

「琥珀が殺生丸様はご母堂様のところかもしれないって。りんも一度だけそのお城に行ったことがあります。空の上の大きなお城でした」
「……………………」

 りんの言葉に犬夜叉も空を見上げる。その昔、あの空を翔る殺生丸の姿と比べ、自分の『半妖』という身があまりにも劣っていると感じていた。、だからこそ完全な妖怪になりたいと願ったのも知れない。今ならどこか遠くの景色を眺めるように、その記憶を思い起こす。

「犬夜叉様はこれからどうされるおつもりなのですか?」
「どう、って…?」
「はい、どこか遠くを見ているようで……。犬夜叉様も遠くに行ってしまいそうで」

 りんは幼いが、感覚は鋭いほうなのだろう。

「遠くに、ああそうかもしれねぇ。俺はここで『時』を越えようと思ってる」
「時、を? かごめ様に会われるために?」
「俺は信じているから。どんなに離れた所にいようとも、俺の側にいるのはかごめだってな」

 時の観念など理解の埒外なりんではあったが、それがどんなに大変な事か蜘蛛の糸ほどの見通しすら危ういことなのだと感じていた。犬夜叉は話題を変えようと、途切れてしまったりんへの問い掛けを違う言葉で続けた。

「なぁ、りん。あいつ、殺生丸は変わったな」
「りんには判りません。りんにとってはいつも変わる事無い殺生丸様です。りんの命を救ってくださった時も、ご母堂様のお城で息を吹き返したりんを心配そうに見つめてくださっていた眸も、いつも同じ優しい光でした」

 ほんの少し頬を染め、嬉しそうにそう話す。どこまでも盲信的に殺生丸を慕うりんを、不思議な生き物を見るような心地で犬夜叉は言葉を続けた。

「……俺があいつの本性を捉え損なっていたのかもな。まぁ、いいや。変わろうが変わるまいが楓婆の言葉は的を射てるだろうしさ」
「楓様の言葉?」
「そう、お前の為を思ってと言うその言葉。人間がいつまでも妖怪と一緒じゃ良くはない。まだ小さいお前なら、人の中に戻り人らしい暮らしをする方が理ってもんだってな」
「犬夜叉様……」
「あいつは俺や俺のお袋のせいで親父が焼け死んだ事も加わって、物凄く人間を嫌っていた。嫌うというよりも、塵芥のような意味の無いものとして見ていたくらいだ」
「あの……」
「それがお前とであって命を助け、連れ歩くようになった。奈落の謀略に使われても、お前を手放す事無くな。俺はあのままあいつがりん、お前を連れ歩くものだと思ってた」
「………………………」
「それがどういう意味を持つ? 人としてのお前の幸せはどうなる? あのわがままな野郎が、そう思ってお前をここに残したとしたら、俺には天地がひっくり返るくらいの仰天事だな」

 りんの小さな手がぶるぶると震えていた。出来る事なら考えたくない事を、犬夜叉は口にしているとりんはりんなりに理解した。

「……犬夜叉様は、もうここに殺生丸様が訪れる事はないとお考えですか?」
「ああ、そうだ」
「そんな、でも……」
「俺のお袋は親父と出会う前は、それなりに邸や都の若様あたりから大事にされていたらしい。だけど俺が生まれてからは、それは冷たい仕打ちをされたものさ」
「………………」
「妖怪と一緒にいるってだけで、多くの人間から石を投げつけられ罵られる。だから――」

 誰よりも殺生丸に近しい犬夜叉の言葉に、りんの瞳に堪えきれない涙が滲む。

「……お前が大事だから、俺のお袋のような目には遭わせたくないと考えたんだろう。ここならお前に取ってもあいつのそばに居るくらいに安全な場所。お前が邪魔になったのなら、どこかに放り出せばそれで済む話だから」

 りんの大きな瞳からぽろりと涙が零れる。今にも大泣きしそうなその様子に、少し鈍い犬夜叉が気づきおろおろとかける言葉を捜そうとする。

「り、りん。それだけお前はあいつに大事に思われているってことだから、泣くような事じゃなくて……」

 犬夜叉にしても殺生丸とりんとの関係は、どういう意味を持つものか良く判ってはいない。なぜか殺生丸がりんを大事に思い、りんが一点の疑いもなく殺生丸を信じ慕っているということだけしか判っていないのだ。
 よくよく考えればさきほどの自分の発言は、雛から親鳥を引き離すようなものだろうか?

 大泣きをするかと思ったりんは、ぐっと握り締めた拳で自分の涙をぐいと拭くと強い光を瞳に浮かべて犬夜叉に言った。

「りんも信じてます。りんがお側にいたいのは他の誰でもない、殺生丸様ただお一人だって。だから、お迎えに来てくれなくてもいいです。りんはまだ子どもで知らないこともいっぱいある。だから色々覚えて、体も鍛えて、珊瑚様や琥珀のように他の妖怪とも十分闘えるようになって、自分の力で殺生丸様を探しに行きます!」
「りんっ…!?」
「犬夜叉様がかごめ様を信じて『時』を越えるおつもりなら、りんだって殺生丸様を信じて強くなります」

 りんの瞳の色に、思わず魅せられそうになる。この瞳の強さはかごめと同じ、真っ直ぐに信じるものに向かい合うその光。

 ああ、と犬夜叉は思う。
 この『強さ』なのだ、殺生丸を変えたものは。
 りんは殺生丸と共に歩む道を、すでに歩み始めている。

 強い絆の主従なのか、肉親に近い感情なのか、それとも――――
 名前の無いまだ形にならない、その熱い想いを胸に秘めて。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 悲願成就。四魂の玉が消え去ったその時、殺生丸の手にした冥道石は内から溢れる白光でその場にあるものの色も形も消し去った。強い光に焼かれた視界が元に戻る頃、冥道石はまた冷ややかで底知れぬ闇の色の中に静まり返っていた。
 冥道の中の犬夜叉、いや残月破に共鳴していた天生牙もちりっとも鳴らず、殺生丸の腰に納まっている。ご母堂が手にした鳳凰の扇をあおぐ。殺生丸の知らぬ間に張られていたご母堂の結界が解けた。

「結界…?」
「……後先考えぬお前が迂闊にも、冥界に飛び込んだ時の余波を案じてな。その必要はなかったようじゃが」

 面白い見世物は終わったと言う風な怠惰さを見せて、扇で顔を半分隠す。

「お前、気付いてはおらなんだな。天生牙と冥道の中の犬夜叉とが結ばった時に、この場の時の流れも同調しておったことを」
「同調……」
「ああ、お前がここに来てから三日ばかり経った。冥道石を使うと、そのような不可思議なことがよくおこる。何かあっては面倒じゃから結界を張っておった」

「冥道石をこちらへ」

 ご母堂の言葉に、人形のように殺生丸は冥道石をご母堂の手に返す。

「もう何も残ってはおらぬ。お前が追おうとした奈落なるものも四魂の玉の気配さえ消えうせたようじゃ。犬夜叉も巫女も冥界はどうやら抜けたようじゃのぅ。あの二人がどこへ行ったかは、その『時』の運であろうがな」
「……あの二人がどうなろうと、私には関係ない」

 そう言い捨てながら、踵を返す殺生丸。

「これからお前はどうするのじゃ?」

 図らずもその問い掛けは、りんが犬夜叉にするものと同じもの。

「己の牙を手に入れたうえは、頂点を極めるのもありかと」
「ほぅ、頂点とな。そは何のための強さであるか?」
「何の為…? より強く、では理由にならぬか」

 思惑深気にご母堂が眸を眇める。

「今更、痴れた事を…。もう、あの馬鹿の様に鉄砕牙を求め血腥い風を吹かせていた頃のお前には戻れぬであろうが」
「……………………」
「ああ、妾は何も言わぬぞ。お前がその心のままに行く先を決めればよい。そこの小妖怪と旅を続けるのも良かろう。強い相手を叩きのめすだけの虚しい旅でもな」
「……何が言いたい」
「それでお前の心が満たされるのであれば、それに越した事はない」

 側で二人の会話を聞いていた邪見は、その互いに白刃を閃かせるようなやりとりに生きた心地がしなかった。と、それと同時にりんの事は本当にどうするのだろうと不安になる。

( ……いやいや、本当にりんの事を考えればあのまま人の村で暮らす方がずっと幸せではなかろうか? あの村ならば、そうやすやすと外敵に襲われることもなかろうし、りんの事も受け入れてくれそうじゃ )

 ぶつぶつと、自分の胸の中を納得させるように邪見は『りんにとって良いと思えること』を数えあげていた。

( そうじゃ、このままワシらとともに旅の日々では、人間の身であるりんにどれだけの負担を強いることか。だからこそ、殺生丸様も ―――― )

 自分の気持ちを誤魔化そうとして誤魔化しきれず、素直に邪見は寂しいと感じた。最初はあんなにも煩わしい、足手まといだとさえ思っていたりんの存在。それが今、あるべき場所に帰っただけなのに、なぜこんなにもと。

 これが『情』というものか。
 ならば、憎悪していた半妖の為に冥界へ行こうともまで思わせた『情』を持つようになった主の、りんへの思いはどれほどであろうか。その思いを断ち切ってまで、自分の主はどこへ行こうとしているのか ――――

 最後に一睨み鋭い視線を投げつけただけで、殺生丸はご母堂の前から姿を消した。慌てて後を追おうとした邪見に、意外な一言をご母堂がかける。

「小妖怪。あれはほっておいても構わぬが、お前が『そうした方が良い』と思ったことは、あれに成り代わりやっておいてくれ。過ぎた時はどれ程の妖力の持ち主でも、もとに戻せぬからな」
「は、はい。ご母堂様」

 頭を擦り付けるようにしてその言葉を戴く。その言葉が何を意味しているか、その時の邪見には良く判ってはいなかった。

 遅れて追いついた邪見を冷たい眸で見下ろし、殺生丸は何も言わず邪見が連れて来た阿吽に跨った。阿吽は主の手綱捌きで目的地を察し、空を風のように翔ける。その目的地がどこか判った時に、邪見は内心今まで考えていたあれこれが杞憂であったと安堵した。足元には小さくあの村の影が見える。これでまた元のように三人揃って旅が出来るというもの。確かに村暮らしよりは負担をかけさせるが、その分自分が気遣い頑張れば良いだけの事。

 いつまでも三人一緒に、変わることのない日々を過ごして ――――

( ああ、なるほど。きっとご母堂様が仰ったことは、この事だったんじゃな。よ〜し! ならば不肖この邪見、力の限りがんばりますぞ!! )

 阿吽の尻尾をそうぐっと力を込めて握り締めた。

( あれ? こんな村はずれに下りられて、どうなさるおつもりじゃろう? )

 あの骨喰いの井戸があった村はずれとは反対側の森の中、少し開けたその空き地のような所に。邪見がよくよく目を凝らしてみると一人の人影。

 驚いたように顔を上げたのは、あの村の老巫女であった。

「……お前も無事、戻ってきたのじゃな。犬夜叉も井戸も元に戻ったゆえ、そろそろかとは思っておった」
「……………………」

 薬草を摘んでいたのか、辺りには青臭い香りが満ちている。

「そこの婆、殺生丸様に対し『お前』とは、なんたる言い草ぞ! さぁ、早くりんをここに呼んで参れ!!」

 胸糞悪い人間の村に立ち入る事無くりんを連れて帰る事が出来れば、その方が都合が良い。きっとりんも心細い思いで迎えを待っていることだろう。

「りんを、連れてゆかれるのか? あれは人間の娘じゃ。なんの力も無い本当にただの人の子。とても大妖怪の連れに相応しいとも思わぬが」
「こりゃ、そこの婆! 相応しいか相応しくないかは殺生丸様の決めること!! お前如き人間の婆の言葉なぞお聞き入れにはならぬわっ!」

 邪見の言葉に、楓の隻眼がきらりと光る。

「……ならば『決めた』のか、殺生丸。りんを連れてゆく、と言う事がどんな意味を持つのかを!」

 ひゅうと、殺生丸と楓の間に恐ろしいほど冷たい気が流れた。卑小な人間の分際で、戦国一と言われる大妖怪のである殺生丸に臆することなく意見する。殺生丸の眸の金の虹彩が僅かに大きくなり、それからすっと眇められた。

「曖昧な気持ちならば今は引け。己の気持ちの有りどころをしかと据えるまで、お互い距離はあったが為と思う。りんが求めるものとお前が求めるものが同じでなければ、共にあっても不幸なことじゃ」

 強気で言い切る楓の目の前に、殺生丸は袂から何か小さな包みを取り出し放り投げた。

「……りんは、気紛れで拾った娘。今までは自分から離すことでより状況が悪くなる事を想定し連れ歩いていた」
「これは?」

 楓が目の前に落ちた包みを開くと、そこには大粒の金の粒と明らかに良質の物と判る翡翠や水晶・玉などの、仏師や神器を作る者たちに高価で捌けそうなものが入っていた。

「……借りは作りたくない。必要なものがあればこれで賄え」

 楓はそれを元のように包みなおすと、薬草を摘んでいた笊の中に入れた。

「では、お言葉に甘えるとしようかのぅ。お前はこのままここを立ち去るのじゃろう? 離れている間、なにが一番良い方法かじっくりと考えて下され」
「……………………」
「じゃが、一言忠告しておく。あれの持ちえる『時』は妖怪のお前に比べれば、はるかに短いじゃろう」

 ぴくりと殺生丸の肩が揺れたような気がした。邪見も緊張した面持ちで楓を見ている。老巫女が口にした『時』と、ご母堂が口にした『時』は同じもの。けっして同じ歩調にはならぬ殺生丸とりんとの時の刻みを憂える慈しみの言葉。

「……じゃからあまり長い間、蛇の生殺しのような真似はしてくれるな。お前から引導を渡される事で、『人としての幸せ』も得られる事があるという事を、頭に置いていて欲しい」

 それだけ言うと楓はその場を後にした。殺生丸のような妖怪に自分の背を向けるなどと、それはとても無防備なこと。返して言えば、楓は殺生丸を信頼したとも言えるだろう。

 殺生丸も、何も言わずその場を立ち去る。残されたのは邪見だけ。予想してなかった事の成り行きに、少し前にここを離れた時に思った事柄が胸に再来する。

 ―――― 主の後に付き従うか。
 ―――― それともりんの様子を見守るか。

 おろおろと離れてゆく両名を見つつ、邪見は動けずに居た。殺生丸が森に入る手前で浮遊術により空に浮かび上がるのを見た。阿吽は残っているから、後を追うことは出来る。しかしあまり遅参しては、機嫌の保証は無い。どうしようかと哀れなくらいな様の邪見に、ふっと楓が振り返り声をかけた。

「そこの下っ端、ちょっとこっちに来い」
「し、下っ端っ!? ワシには邪見と言う立派な名があるわい!!」

 それでもその声に救われた、と邪見は楓の側に走りよる。

「のぅ、邪見とやら。実はりんはもう心を決めておるようじゃ。迎えなど必要ない、自分の足で追いかけると。自分が側に居たいのは殺生丸ただ一人とな」
「な、なんと! りんが、そんなことを ―――― 」
「ああ、そうじゃ。りんは殺生丸を心から慕っておる。その思いはまだ年頃の娘が持つような色恋とは違うだろうが、それにも負けぬくらい強いもの。ワシは今は『それ』を大事にしたいと思っておる」
「あのりんが……」
「だから、殺生丸にもそのあたりを判って欲しいのじゃ。りんにはりんの生き方がある、その行く道で殺生丸の歩む道と交わればよいとな。そして殺生丸にも、それだけの覚悟を持って欲しい」
「お婆よ……」
「でなければ、今度は残されるであろう殺生丸が哀れであろう」

 誰よりも深い思いで二人を見守ってくれている、この老巫女。
 自分の単純な考えが恥ずかしくなってくる。

「お前はこれからこの二人を結ぶ糸になれ」
「はぁ、糸じゃと?」
「たまに、りんの所に顔を出すだけで良い。そしてりんの様子を殺生丸に伝えるだけでな。後は、互いの『時』まかせじゃ」

 それだけ言うと楓は手にした収穫を抱え込んで、森の中へ姿を消した。はっと我に返ると慌てて阿吽に跨り、邪見も空に消えて行く。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 りんは犬夜叉に言ったように、自分の知らない事は貪欲なまでに学ぶ姿勢を見せた。薬草の知識から傷や病気の手当ての方法、裁縫や料理や日々の暮らしに必要な技術。弥勒からは書を学び、身重になった珊瑚からは退治屋の基礎の体術などの指導を受ける。

 その合間に空を見上げ、高みにかの大妖の面影を描いては自分への励みとする。犬夜叉も三日と空けず井戸の底に下りては、どうにかして時の壁を打ち破る方法を見つけようと頑張っている。


 そして、殺生丸は ――――


「お館様、丑寅の地で暴れていた妖怪どもが粛されたようにございます」

 天空のご母堂付の女官が瑠璃の杯に美酒を注ぎながら世間話を耳に入れる。

「ほう、この前は丙の方角だったな。爆砕牙を手にした事で、あちらこちらで暴れまわっているようじゃのぅ」
「はい。おかげで地上の妖怪どもの数がめっきり減ってしまったようでございます」

 つつつ、といつの間にか空になっていた杯にさらに注ぐ。

「……それが、あやつの『強さを極める』、と言うことであろうかのぅ?」
「さぁ、どうでしょうか。そうそうわたくしが小耳に挟んだ噂ですと、ここにも紛れ込んだ事があるあの娘が、なにやら妖怪退治屋の真似事を始めているとか。徒労に終わりそうですわ。あの娘が使い物になる前に、若が全て粛清してしまうでしょうから」

 小さく忍び笑いながら、ご母堂は杯を重ねる。かつてのように妖怪や魑魅魍魎が闊歩する時代は終わったのだろう。ますます地には人間が満ち、『人で無いモノ』たちは消え行くのみ。それに拍車をかけているのが我が息子であるならば、そこで終わってしまえと思う。

「……新しい者達の時代、か。古のモノたちはそろそろ舞台から消える頃じゃな」
「お館様?」
「いやいや、まだもう少しこの余興を楽しませてもらおうか」

 陽気に微笑みながら、どこか陰を飲み干し侍女にも杯を回した。



「あっ、邪見様!」

 村はずれの井戸の側で日課の足捌きの練習をしていたりんが、騒がしい上空を見上げ声をかける。

「り〜ん! こんな所で何をしておる!! 物騒ではないか!!」
「そんなことないよ! ちゃんと練習して、少しずつ強くなってるもん!」
「お前が強く!? そんな必要は無い! この前も丑寅の地で殺生丸様が極悪な妖怪を倒されたばかりだ。お前の退治屋の真似事はまったく無駄じゃ!」

 そんな邪見の言葉にかちんと来たのか、りんは練習用の小柄に見立てた竹の柄を邪見に向かって投げつけた。

「わっ、何をするんじゃ! りん!! あぶないじゃろうがっっ!!」

 筋が良いのかその竹柄は邪見の烏帽子を掠めて空に消えた。

「これでも無駄? 邪見様。りん、これで木の実を取る事も出来るようになったんだよ」
「り、りん、お前……」
「狙えば、ちゃんと邪見様の顔に当てることもできるからね。今のはわざと外してるから」

 ……逞しくなったと邪見は思う。一緒に旅をしていた時よりも、この村で暮らし始めてからのほうが逞しさが増したように思う。

「う、腕が上がって慢心していると、性格ががさつになる。殺生丸様に嫌われるぞ!」
「えっ〜! がさつになってなんかないよ、りん。お裁縫だって料理だって上手になったって楓様がほめてくださるよ」

 殺生丸の名を出した時のりんの表情に、娘らしい恥じらいと花が咲いたような艶やかさが仄見えるようになってきた。その様子を楓同様、孫を見守る心地で邪見は見ていた。

「ほれ、りん。そのはねっ返りな性格は仕方がないが、せめて髪だけはちゃんと梳いて手入れをしておけ」

 くせっ毛はりんの愛らしさを強調するが、同時に幼さも感じさせる。そろそろ娘らしい身だしなみをさせても良かろうと、邪見は旅の空で見つけた漆塗りの櫛をりんに渡した。

「ありがとう、邪見様! これ、邪見様が手に入れられたの?」
「……そう、いや、まぁ。はっきりは言われぬが、な」
「殺生丸様から!? そうなんだね、邪見様!!」

 嬉しそうな、その表情。そして大事そうに自分の髪を少し梳り、それから胸元へと仕舞いこむ。
 思わず言葉を濁すのは自分からと言うよりも、殺生丸からと言ったほうが何倍もりんが喜ぶ事を知っているから。いま髪を結っている飾り紐の時もそうだった。錦織の匂い袋や小さな鈴なども。
 あの時、楓にはそれなりの金の粒を渡したからりんの身支度に困る事はないのだが、それでも『想い』を伝えるモノはあったに越した事はない。

 殺生丸自身はこの村を訪れる事はないが、邪見が通うことは黙認している。土産話でりんが喜んだ様を無表情なままで聞き、そのあとなぜかつれない仕打ちをされる。どんな心境での仕打ちか判っているだけに、邪見としても腹の中では自分で贈りたいものを贈るなり届けるなりすればいいものを、と思っていた。自覚の無いヤキモチで、自分がひどい目に合うのは計算に合わない。

「只今戻りました、殺生丸様。りんのやつは相変わらずですなぁ。今もって退治屋の真似事を続けております。今日などは竹の小柄をワシに投げつけよって…。まま、腕はそれなりに上がっているようです」

 こうしてりんの様子を語るのもすっかり習慣になってしまった。

「……無駄な事を」

 聞いていないようで、聞いている。ぽつりとそう、言葉を零す。

「あんなじゃじゃ馬でも、髪を梳って整えましたら、まぁ多少は娘らしく見えるから不思議ですなぁ。ああ、でもあの婆の見立てじゃ、いま着ている着物はいまいちでしたな」

 その言葉に何か思い至ったのか、殺生丸は邪見を残し空に舞い上がって行った。


「お館様、若様が城内に入られました」
「ほほ、すぐに忘れる奴よの。この前来た時には、ここへは二度と足を向けぬ勢いであったのにのぅ」

 殺生丸来城の報を受け、ご母堂は玉座に座ったまま微笑んだ。

「あ、でも、もうお帰りになられたようです。手になにやら衣を持っておられたとか」

 自分付の下級女官の知らせを受け、ご母堂の侍従である女官がそう伝える。

「何用ゆえに、この城に参ったのであろうな。これも余興の彩りじゃ」

 この女妖には息子の手の内が透けて見えるようで、いまひと時この様を楽しむつもり。口元を扇で隠しながら、気分の良い笑い声を美しく転がす。

「……妾の好みで作った着物。女柄すぎてあれは見向きも袖も通さなかったが、日の目を見る事が出来そうじゃ」


 とっととご母堂のもとから帰ってきた殺生丸の手には一枚の衣。それを目にした邪見がここぞとばかりに褒め称える。

「さすがは、殺生丸様! なんとも品の良い逸品ですな。りんに着せるには惜しいぐらいですが、馬子にも衣装という言葉もあります。娘振りがぐんと上がる事でしょう。あれの喜ぶ顔が目に浮かぶようで、ちょっとひとっ走り届けに ―――― 」

 手を差し出しそう言いながら着物を殺生丸から受け取ろうとした邪見はぎゅむと殺生丸に踏み付けられ、殺生丸はそしてそのまま邪見を踏み台にしてふわっと空に舞い上がった。空に消えてゆく我が主を地面に這い蹲りながら目だけで見上げ、ぶつぶつと愚痴を零す邪見。

「そんなにりんの笑顔を独り占めになさりたいなら、これからはご自分でりんのもとに届けられたらいいとワシは思いますぞ〜〜!!」

 自分でだって判っている、それが自分の役回り。なにしろ人界妖界屈指の海千山千の猛女二人から仰せつかったこの役目。どうにか無事、果たせそうなそんな気がしていた。

 邪見が帰ったその日の午後、りんは楓に教えてもらいながら薬草を摘んでいた。薬草を摘む合間合間にりんが貰ったばかりの櫛で髪を梳る。梳くたびに艶が増すようで、りんのそんな仕草に娘らしさが滲み出す。

「ほぅ、なかなか良い櫛じゃな。また、もらったのか?」
「はい、先ほど邪見様が殺生丸様から預かって持ってきてくださいました」
「殺生丸、がな……」

 りんは今までの届け物が全て殺生丸の指示だと疑っても無い。だがそれは、邪見の心遣いなのだ。それを確かめたのは犬夜叉の何気ない一言であった。

( ……りんの奴、邪見から貰ったものは殺生丸から預かったものだと思ってるみたいだけど、ありゃ違うな。あいつの匂いが少しもしねぇ )
( ああ、わかっとる。そうそうそんな真似が出来るような男ではなかろう、殺生丸は。邪見のりんへの心配りじゃ。いつか本物になるまで黙っていてやってくれ )

 楓にすればりんとの事に答えを出すまで距離を取れと言った手前、本人がのこのこりんの前に現れるようではまだ考えが浅いと思わざるを得ない。

( さぁて、どんな答えを持ってくるやら。今、この時にりんを連れてゆくようなうつけならば、邪見に聞いた天空の母君の力を借りてでも阻止してやろうぞ! )

 どこか使命感に燃えた瞳でぎらりと空を睨む。その楓の視界に映る、一点の白銀。

「あ、あれはっっ!」

 りんの声が喜びでいっぱいになる。楓は思いかけないあまりにも早い殺生丸の訪れに、少し苦々しいものを感じていた。殺生丸は二人の少し先で着地し、りんが駆け寄ってくるのを待ち受ける。

「……存外に早い迎えじゃな、殺生丸」

 その言葉に、全ての思いを込める楓。

「迎えに来た訳ではない。お前の見立てが良くないと邪見に聞いたゆえ」

 そう素っ気なく言いながら、手にした着物をりんに渡す。ただの村の娘が着るにはあまりにも雅な文様と楓は初見眉をひそめたが、嬉しそうに着物を自分の体にあてるりんを見て、意外やその着物がりんに良く似合っている事を認めざるを得なかった。

「ありがとうございます、殺生丸様! このお着物、大事に着ますね」
「必要であれば替わりを届ける。気にするな」

 素っ気無さの中に、どこかあたたかいものがひそんでいる。

「楓様が仰った通り。殺生丸様はいつもりんの為を思っていてくださるって。楓様の村に残された時は、泣いて追いかけようと思ったけど、おいてゆかれた訳を考えよと言われた。それでりん、気が付いたんだ。りんは知らない事がいっぱいあるって。だから今のままじゃ駄目なんだって判ったんだ」
「りん……」
「知らない事が判るようになるのは嬉しい。出来なかった事が出来るようになるのは楽しい。りんがもっともっと『りん』になっていくみたいで!」

 そう長い間はなれていた訳ではないのに、この成長振りはどうだろう。きっと手元においていたら気付かなかったかも、いやなかったかもしれないその成長。
 この老巫女がりんの『時』を考えよと、進言したのはこのことか。

「……巫女よ、あの折の答えはりんに任せる。ここでりんが『人として生きてゆく力』を培い、二つの世界を見据えてなお、心を寄せてくるものであれば私も覚悟を決めよう」
「殺生丸……」
「今は待つ。それが答えだ」

 この世に生を受けてより今まで、『待つ』などした事のない殺生丸が初めて自分以外の者の為に自分の時を使う。互いの『時』を重ね合わせる、その一歩だった。

 待つと言ったその言葉通り、また必要ならいつでも届けるといったその言葉を裏切る事無く、四季折々にりんに新しい着物を届けにこそ来るが、長居することなく村を去ってゆく。りんもそれを当たり前と受け入れて、村の生活にすっかり馴染んでいた。

 変化はそれから三年後。

 いつもりんに届ける着物が四つ身から本身裁ちの物に変わった時に、殺生丸のりんに向けるまなざしが変ったと楓は受け止めた。それから更に三年。この三年は殺生丸から音沙汰の無い三年であった。それでもりんの殺生丸を信じる心に変わりは無い。決して己だけしか見せぬ訳ではなく、りんを束縛する事無く、りんに未来を委ねたこの三年。

 やがてその着物と対になるべく帯を携えて、殺生丸がりんの前に立つ。

 選ぶのは、りん。
 受け入れたのも、りん。

 嬉しさと喜びにあふれた笑顔を返事として。

 言葉は、なかった。
 この時互いに言葉は無かったがりんの、そして殺生丸の今までにとった行動がたった一つの言葉を叫び続けていた。


 ―――― 共にありたいと! 求めるべき、たった一つの存在はお前だと。


 老巫女の瞳に映った妖と人間の娘の姿は、あまりにも輝かしくてそれが全ての答えのように思えた。
 きっと先に逝くのはりんだろう。共にある事の出来る時など、瞬く間の事。
 その後が残された者に不幸しか与えぬなら、この出会いはあってはならないもの。

 でもそれすら越える『想い』を育むことが出来るなら、共にある時の長短で幸せが量れるものでもないとそう思う。亡くなりてのちにも、残された者を幸せにできるだけの想いと思い出をこの少女なら残す事が出来るだろうと。

 幸せなのだと、この二人にはこの出会いは運命だったのだと老巫女は確信したのだった。


【完】
2008.7.11



= あとがき =

予定外に長くなりました。最終回の「あれ?」と思った事を自分なりに解釈して書いてみたら、こんな結果に^_^;
他にもちらちらと最終回を軸にして珊瑚ちゃんとりんちゃんの話など浮かんできています。
もうしばらくはこの最終回に振り回されそうです。


TOPへ  作品目次へ


誤字などの報告や拍手の代りにv 励みになります(^^♪


Powered by FormMailer.