ONライバル論に関するコラム


 長嶋と王―。20世紀の項羽と劉邦、いや日本の歴史に例えた方がいいから武蔵と小次郎とでも…。ちょっと違う。金田、村山、江夏などのように、相手がピッチャーで直接対決する訳ではないから。ライバルに漢字を当てはめたら好敵手? これも平凡だけど、まさにどこかでお互いを認めていて争う典型的な美学の、競争相手である。いろんな人が2人の関係を書いている。それぞれがテレビや雑誌の対談で過去、何百回かお互いのことをしゃべっている。だから、あまり知られていないざっくばらんな部分を書いてみよう。 

 まず、長嶋さん。「ガンコ、とにかく王は基本的にガンコだなあ。みんなの話を聞いてるだろう。いつまでも熱心に聞いているし、自分と話したい人は相手が誰でもほとんど断らないだろ。でも、自分の行動が人に左右されることのない男だね。基本的には何も聞いていないんだ。それが、あの一本足打法に生きたんだなあ。イチローのあの、振り子打法、みんなはじめは変だ、理論に合わないって大騒ぎしたでしょ。でもワンちゃんの一本足は当時の常識からしたら、もっと理屈に合わなかったぞ。そりゃそうでしょ、今だって、どっちが基本からはずれてる感じがするかっていったら、振り子より一本足ですよ。インパクトは一緒でもタイミングの取り方の問題でね。ワンちゃんはそれをやり抜いちゃうからなあ。人が何言おうと、ニコニコしながら聞いていて絶対自分が決めた通りにしかしない。いろんな部門で記録を作るって決めたらもう、すごい執念だろ。そのしつこさには到底かなわないって思ったなあ。だから、オレは記録より記憶の男になっていったんだ…」。 

 王さんの長嶋評もはさんでおこう。やはりストレートな部分で…。「何やってもミスターが絵になってしまうだろ。そりゃ人間誰だって面白くないときはありますよ。また、その気持ちがなきゃ『よし、それを超える何かを…』という風に思わないだろ。ファンへのインパクトでは勝てない。オレはそれをはるかな記録で追い越そうと頑張った…。それが結果的にお互い、極限の力を出させたんだ」。 

 長嶋さんも王さんもお互いの中に、どうしても勝てない部分を発見した。それからライバル意識がスタートしたのである。裏返せば、認め合ってのライバルだから、王さんが言うように、より高いレベルに磨かれていったということになる。お互い、陰で足の引っ張り合いをするような性格ではないから陰惨ではなく、まともなグラウンドの部分だけでワザをぶつけあう形になったのだ。同じチームにいて、最終的にチームのためという大義名分もあったから、より理想的なライバルになっていった。 

 「でもどうだろな?オレはマイペースだったからなあ。いろんな意味でワンチャンの方が大変だったんじゃないかな。全体をまとめると言う意味では、はるかに王の方がよくやってくれたから」と長嶋さん。最近になって、いろんな王さんとのテレビ対談ビデオを見る機会があった。びっくりしたのは、ほとんど自分がしゃべりまくって王さんが静かに聞いて、うなずいていることだという。「あれは対談じゃないな。オレの独演会で。もっとオレのマイペースにワンチャンが耐えていてくれた部分があるんじゃないか…」ニガ笑いでそんなふうに話していた。趣味、嗜好、人生観など基本的にかなり違うから、私生活の部分では当然異なる。ONの話はやはり1回では終わらない。来週もう少し書き込んでみよう…。

 「まだまだ…。首の皮一枚つながっていますよ」長嶋さんはこういって最後の気力を振り絞っている。ヤクルトのVがますます濃厚となったが、自らのセリフでナインがもう1度“ミラクル・アゲイン”に立ち向かうことを期待しているようだ。王さんの方も近鉄に少し水をあけられた。「ワンちゃんには勝って欲しいなあ…」ポロリと出た本音がいかにも“尊敬する”ライバルへ向けたものらしかった。ONの存在感はまだまだ…。ファンも日本シリーズにはどちらかがからんで思うことだろう。

 前回、長嶋さんと王さんには趣味嗜好では面白いほど、対照的なことが多い、と書いた。その一部を披露するとまず、食べ物。長嶋さんのフルーツ好きは有名で、朝食は果物とヨーグルトだけだ。王さんはフルーツがあまり好きではない。ヨーグルトも…。納豆にタマゴ…といった感じのごくオーソドックスな日本人的な朝食でスタートする。共通して好きなのは中華料理だが、面白いことに王さんの方は庶民的な、雑踏の中にある大衆の中華料理店に“行きつけ”を持っている。「ワンちゃんは実家が中華料理店だろ。だから店が高級でも庶民的でも関係ないんだろう。味にうるさいんだ」と長嶋さん。アルコールは長嶋さんは昔から、ほんとにたしなむ程度。宴会でも皆の間をまわって、ちょこっとグラスを傾ける。雑談が終わるとサッと引き上げてしまうのだ。華やかな役者が風のように去ったあと、王さんはゆっくりとみんなと飲み明かす、と言った感じ。酒も強く、簡単には酔わない。自分の周りに大きな輪ができると、ひとりずつのグチに耳を傾けながら、いつまでも相手にあわせて飲み続けているといった感じだ。「オレはそういうの、ダメなんだ。どちらかというとマイペースの方だからな。その点、王は昔から偉かったなあ」断わるまでもなく、長嶋さんのマイペースは世間の熟知するところ…。「オレの欠点は内臓、とくに消化器系統」と公言している長嶋さんに比べると、王さんは内臓がかなり強い。ケガでの欠場があっても、カゼなどでダウンというのは監督になってからもほとんどない。

 「そういうのは時間をかけないなあ。せっかちなせいもあるよなあ」と長嶋さんがいう年賀状、挨拶状も対照的である。長嶋さんはあらかじめ、挨拶状が印刷してあって、贈り物などを受けたときは空欄のカッコ内に品物を書き入れるようになっている。この“アイデア”はけっこう長嶋さんらしい合理的思考と話題になり、巨人のOBでも同じ手法を取り入れた人がいる。王さんは律儀そのもの。どんな若手にも、きっちりと自筆のはがきが届くのだ。こういう言い方をすると、長嶋さんの方がかなり、いいかげんのような印象を与えるがけしてそうではない。同じように、長嶋さんもかなり相手に気を遣う性格なのだが、王さんの方が一般的で伝わりやすい方法をとるということである。

 「オレは王派」「オレは長嶋派」という記者がいて、だから、どちらかのそばにはいかない、というむきが取材する側にもある。ひどいのはどちらかに言ったとき、一方の中傷的な言い回しをする人もいる。自分の仕事量が足りないのを、反省しない。ONがすばらしいのは決して、“中傷記者”にのらないこと。むしろ、「王を悪くいうやつは…」「ミスターを悪くいうやつは…」と遠ざける。すばらしいハイレベル、理想のライバルなのだ。

[2001/9/21 スポーツ報知コラム「背広の長嶋茂雄」より]



長嶋は自らをバット・マンと称する。センスはもちろん練習も自分が一番であると誇っていたと思う。しかしその眼前に王が登場した。1962年変則的なフォームから本塁打を量産し始めるとあっという間にトップへと踊り出した。いきなり2冠。本塁打を量産すれば打点も上がる。王が塁上のランナーをクリーンアップしたあと登場する長嶋は打点に関しては不利である。1963年は長嶋は3冠のチャンスだった。打率と打点を制する。しかしデッドボールでの欠場が響き本塁打は3本差で2位に終る。翌1964年になると王は打点王になり本塁打は日本記録の55本。ただ打率は江藤(ドラゴンズ)に3厘差で惜しくも逃す。1965年は同じく江藤が首位打者であるが差は1分以上開く。この頃になると本塁打と打点はもう王の指定席という感が強くなる。ただ四球が120以上。きわどい球も多くしっかり選球しなければフォームを崩すことになり、打率にも影響がでる。ベストテンの上位ではあるがトップとの差は開く。一方長嶋は入団10年目の1967年は打率でも柴田や土井に越され不調に終る。

王派、長嶋派などいう呼び方も出てくる。確かに二人は心休まる仲良しではない。連れ立って飲みにいく事も滅多に無い。相手の事を貶しながら近づいて取り巻きになろうとするものもある。がどれだけ厳しい練習をしているかはお互いが一番良く知っている。色々な分析はあるだろうが、互いに切磋琢磨し高めた打撃こそがチームの連覇の中心である事は間違いない。相手が1000回スウィングするならオレは1001回する。

1968年円熟期を迎えた王はいよいよ打者としての最高の称号3冠王へと近づく。精神的にも落ち着き際どい球を選び、四球攻めにも耐え、遂に首位打者に輝く。しかも68、69、70年と3年連続の首位打者である。最早遮るものはないはずである。しかし4年連続してきた打点王を阻止したのは長嶋だった。当時のジャイアンツは1番に柴田が座り塁に出れば盗塁。出来ない場合は2番がチームバッティングでスコアリング・ポジションへと進める。(ただし犠打−バンドはそれほど多くない。実動年数もあるのだが土井の通算の犠打は242。ちなみに川相は450以上の犠打がある)王は3番を打つ事が多く、しばしばクリーン・アップしてしまう。長嶋には王が敬遠されるかランナーを残した場合で無ければ打点にならない。しかも王は首位打者である。この環境での打点王。チャンスに強いくらいでは取れるものではないだろう。塁に居るランナーは全て一人残らず徹底的に帰す。失敗は許されない。

圧巻は1970年である。この年入団以来の不調であった長島は2692で終っている。そのために3番を打つ事があったとは言え首位打者の王に12点の差を付けての打点王。

王が再び打点王を取り返すのは1971年である。以降引退の前々年1978年まで打点王が続く。が、今度は打率を大幅に落とす。一方前年2692でピークを過ぎたと言われた男が320を打ち首位打者に輝く。王が3冠を手にするのは1973年。長嶋引退の前年である。そして翌長嶋引退の74年に2年続けてのそして王にとっては最後の3冠に輝く。

[2000/10/18 晴交雨獨より]



良きライバルに恵まれた 素晴らしきかな我が野球人生 

 8月1日に東京・新宿にある「新宿パークタワー」で、巨人OBの金田正一さんとフリーアナウンサーの福留功男さんとの3人で、トークショー「THE BASEBALL HISTORY」に出演し、これまでの野球界の足跡や、将来のあるべき球界像について語りました。
 このトークショーは、東京、神奈川、千葉、埼玉の4都県で行われる音楽、スポーツ、映画などの統合イベント「GTF」(Greater Tokyo Festival)の一環として開催されたものです。多様なイベントで首都圏の夏を盛り上げ、そこから日本を元気づけようという意図もあるとうかがい、金田さんとハッスルしてきました。
 会場では金田さんの輝かしい記録の数々が紹介されていました。通算400勝、4490奪三振、14年連続20勝…などです。投手の分業制、先発投手の中6日登板が当たり前になった現代では、どの記録も2度と破られることはないでしょう。
 私が現役時代に対戦した投手の中で、もっとも打ち崩すのが難しい投手の一人でした。当時、スピードガンなどありませんでしたが、ストレートは間違いなく150キロは優に超えていたでしょう。
 しかも切れ味鋭いカーブは3種類ありました。横に曲がる標準的なカーブのほかに、落差のある縦割れのカーブ、そして今で言うところのカットファストボールです。これらのボールを内外角へ投げ分けてくるのですから、簡単に打てるはずなどないのです。

 オールドファンならご存知でしょうが、昭和33年、巨人に入団した私が公式戦ではじめて対戦した相手が、国鉄(現ヤクルト)の大エース金田さんでした。それなりに自信をもって試合に臨んだのですが、4打席4三振でバットに当てることすらできませんでした。
 それからです。金田さんをどう攻略するかを、寝ても覚めても考え出したのは。いや、考えるだけではありません。日々の打撃練習や試合後の素振りでも、金田さんのストレートやカーブをイメージしながら繰り返し、技術を磨く努力を続けたのです。
 それだけに、金田さんから決勝タイムリーを打って試合に勝った夜は格別でした。まだ手に残る打った瞬間の感触を楽しみながら、打った瞬間を思い出すと、うれしさと興奮で眠れないほどでした。この快感を味わうために、さらに練習をしたのです。
 その結果として、入団1年目に本塁打と打点の2冠を達成することができたのです。プロとして最初からある程度の数字を残せたのは、いささか逆説的になりますが、やはり金田さんのような偉大な投手が目の前に立ちはだかっていたからだともいえます。

 その金田さんが昭和40年から、今でいうフリーエージェント制のような移籍の自由を手にして巨人へ入団してきたのです。普通に考えれば敵の大投手が味方になったのですから、それは頼もしい限りですが、私としては喜びより戸惑いの方が大きかったのです。攻略すべきライバルが目の前から消えたような感じがしたからです。

 それ以降、野球人が成功するかどうかの一つのカギは、いいライバルにめぐり合えるかどうかではないかと考えるようになったのです。私は、この金田さん、そして阪神のエースだった故村山実さんといった素晴らしいライバルが現れ、彼らの存在が私の闘志を燃やしてくれたのです。

 そして素晴らしいライバルはチーム内にもいました。言わずと知れた王現ダイエー監督です。王監督は左のホームラン打者、私は右のアベレージヒッターとタイプは違いましたが、ともに巨人の3、4番を任されていましたから、王さんに負けないようしようと常に意識していました。
 その当時はやはりスポーツ新聞の一面を王さんと二人で奪い合っているような状況でした。だからたとえば試合の序盤に王さんがホームランを打った後、終盤に一打逆転の場面で私に打順が回ってくると燃えました。
 「ここで自分が打てば、一面の見出しは各紙『長嶋』になるだろう」――そんなことを考えながら、結果を出すことに必死になれました。王さんもそんなところがあったように思います。そうして二人で切磋琢磨したことが、結果になって現れたに違いありません。それだからこそ、王さんには今もある意味、肉親以上の強い絆を感じるのです。

 目の前で熱弁をふるっている金田さん、そして今もダイエーのユニホームを着て指揮をとる王さん。現役時代に素晴らしいライバルにめぐり合って、自らの技術に磨きがかかり、そして今もそんな人たちと温かい友情で結ばれているというのは、なんと幸せな野球人生でしょうか。そんなことを再認識させられた一日でした。

[2002/8/4 読売ジャイアンツWebサイト「ミスター日記」より]