6月3日、福岡ドームでのゲーム前、王監督と話した。実は、私事で恐縮だが、それまで数日間、風邪をこじらせていた。選手たちに万が一うつすようなことがあってはならないので球場へは行かずにいた。やっと熱も下がり、久々にドームで足を運んだ私は、王監督にどうしても聞きたいことがあった。今シーズン、何度も続く審判の微妙な裁定に対してである。事前のアポイントもなく、ましてやゲーム前の貴重な
練習時間だったにも関わらず、監督は10分以上にわたって思いを吐露してくれた。
「ハッキリ言って信頼も何もない気分だよ。長いことこの世界で生きてきた人間として、今年のジャッジはあまりにお粗末としか言いようがないね」。
練習中、これほど語気を強めて話す監督は初めてだった。知っての通り、この前夜、延長11回裏に1死二塁から村松がセンター前ヒットを放ち、二塁にいた荒金がホームに滑り込んだ。荒金の足が一瞬早く入ったかに思われたが判定はアウトだった。試合後、激怒した監督は、「審判のジャッジに左右されない10点や20点差のゲームをしないと」。と語っていた。
「昨日のジャッジにしても、一体どの位置で見てるんだってことだよ。その都度、代わってるし一定じゃない。我々が現役の頃はあんなジャッジは許されなかった。言い方は悪いけど、昔の審判は石のような存在だった。地味だけど相撲と一緒で行司が差し違えたら切腹するくらいの覚悟でやっていたのが当たり前だったんだ」。自分のジャッジに対する確固たる姿勢のなさを厳しく指摘しているように思えた。ならば、何故、強行に抗議されないのか訊ねた。すると、監督は一層強い語気でこう答えた。
「抗議して、次の日に何と言ってくるか?『昨日のシーンはビデオで再度チェックしました。』それだけだよ。何の責任も問われないんだろな。まあ、でも監督という立場の俺がどんなに騒いだところで、片方の言い分にしか過ぎないからな。それで流れが変わって負けてる間は、まだまだ弱いチームだってことだよ。だけど、こんなことやってたら日本の球界はさぁ・・・」。そこまで聞いて、以前、監督から聞いた話を思い出した。今年の3月、ある省庁からの依頼で、私が日本球界の今後の課題と展望についてインタビューを代行した時の話だった。
「ワールドスポーツという点から見たら、野球は非常に遅れていますね。それは、日本に於いてもです。まず第一に、選手を育成する組織が完全に出来ていない。例えば、子供たちを育成するコーチにしても国が指定したライセンス制度が確立されていません。サッカーなどと比較すれば、よく判ると思います。これはリトルリーグをはじめ各地で野球チームを指導している人々への批判じゃないですよ。ただ、折角メジャーに通用するような選手が日本から生まれてきたにも関わらず、そうした選手を生み出した指導法や、我々プロで何年も経験してきている人間の知恵と経験が、この国で野球をやりたい子供たちには、平等に生かされていないということです」。
昨年、サッカーW杯を体感しているだけに、私には非常に判りやすい話だった。国を挙げて一流選手を生み出し、育てていくためのシステムという点では、100年構想を掲げたJリーグの方がはるかに進んでいると思った。私が、毎年春先に取材している九州少年サッカー大会でも、ここ6年間で、アビスパ福岡や、大分トリニータなどの下部組織であるU−12の選手たちが大会に出場するようになってきた。九州にあるもうひとつのJ・サガン鳥栖においても、周辺地域にあったクラブチームが合併統合しているそうだ。福岡ドームに年間300万人の観客が集まるからといって、安穏としていられる状況ではない。早急に国を挙げての組織作りを訴える王監督の話は、この時、審判にも及んだ。
「次回のワールドカップにしても、或いは将来的に、日本がアジアで一番強いチームとなって、ワールドシリーズに出場する夢においても、選手育成とともに審判の育成も必要になってくるでしょう。今はメジャーとはストライクゾーンなどの違いがあっても、本当に世界の舞台で通用するジャッジメントが必ず求められますから、そういう将来への意識を強く持って日本の審判たちもやってもらいたいですよね」。壮大な夢を実現するために、まずは、日本の審判たちがアジアでお手本にならなければならない。今年の開幕前、そんな監督の話を聞いていただけに、私にとっても今回の出来事は見過ごせない問題だった。
「ヨーロッパのサッカーリーグなんかだったら、(ここ数試合の判定は)暴動騒ぎだろうな!だからといって選手たちに怒れ!とか焚きつける気はないよ。それが俺のやり方だしね。乗り越えて行くしかないんだ。審判のせいで優勝できなかったなんて、勝負事に生きる人間として、そんな考えは失格だからさ」。
どんな状況にも言い訳をせず、どんな試練であろうとも乗り越えていこうとする姿勢。現役時代から一貫している王監督の生き様を再確認する思いだった。「乗り越えてこその一流ですね?」。私の問いに、監督はようやく笑顔で答えてくれた。「デッドボール受けたって、アウトにされたって一緒だよ!我々に夢を感じて観てくれるファンを裏切ることは出来ないからな。だって、それは俺の時代から代わらないはずだろ?(笑)」。思わず、胸が熱くなった。そして、ジャッジメントの問題など、もうどうでもいい気分になってしまった。取材する人間としては失格だ。だが、この先どこかで微妙な判定を見る機会があっても、シーズンが終わるまで問題にすることは止めることにした。それ以上に、あらゆる試練を乗り越えようとする選手たちを見守り続ける方が、何倍も価値があると思ったからだ。
6月7日、東京ドームで最高に価値のある光景を見た。8対2とリードしていた8回、ファイターズ芝草が城島にデッドボールを与えた。3球続けて内角を、否、城島を狙い続けた末の死球に見えた。帽子も取らない芝草の態度に怒りをあらわにした城島。たちまち両軍ナインがグラウンドへなだれ込んだ。「やられたらやり返すべき」解説者も声を荒げるほどの投球だった。だが、城島は一切、やり返さなかった。ゲームセットまで冷静に投手をリードしていた。「あれでやり返したら監督さんの教えに背くでしょ。監督は現役時代、何度ぶつけられても決して文句言われなかったじゃないですか。僕は、王監督から教えてもらった人間として、そんなプレーは出来ないですから。」ゲーム直後の談話を、3塁ベンチでリポートを担当していた田上アナが教えてくれた。彼からの電話を切った後、私は涙が溢れてしまった。
結果的には、この死球を機に流れが変わった。6点差を守れず延長サヨナラ負けを喫した。初回以降、ファイターズ打線を完璧に抑えていた寺原は、あの後から内角に投げられなかった。よもやの降板後、登場した中継ぎ陣も明らかに準備不足と言わざるを得ない内容だった。多くの評論家たちは、今夜の敗戦を、あれこれ糾弾するだろう。今シーズン、逃してはならなかった痛恨の一敗と豪語する輩もいるはずだ。だが、私には最高に価値あるゲームだった。類まれなる不動心を持って、世界のホームラン王に輝いた王貞治を、若鷹たちが継承しはじめたからだ。
野球人、王貞治を継承するとはホームランの数ではない。現役時代、度重なる死球に苦しんだ。ある時は、前の打者に危険球を投じたことを諌めようと、マウンドへ歩み寄り冷静に諭した直後に、その投手から頭部に死球を受け担架で運ばれたこともあった。だが、一度たりとも文句をつけたり、仕返しをするようなことはしなかった。それだけ厳しい状況に追い込まれながら世界記録を打ち立てた。だから偉大なのだ。城島が言う監督の教えとは、どんな目に遭おうとも、常にフェアプレーを貫き通すことなのだ。
危険球を投げられたら投げ返す。乱闘になれば相手を潰す。もし、それが真の野球道だとするならば、城島健司は、日本球界でも一、二を争うベストプレーヤーになるだろう。それほど気性の荒い男が、今夜見せてくれたフェアプレーに私は、大きな成長を感じた。敗れても拍手を贈りたい気分になった。何より、危険球で負けたのではない。弱いから負けたのだ。負けたなら次に勝てば良い。強くなるための最高の武器は、弱さを知ることなのだから。
そして、このゲームは審判団にもひとつの宿題を与えた。芝草の危険球により、次に危険球を投げた場合、退場とする警告を出した。結局、それによってファイターズ金子の肩に死球を投げた吉武が退場になった。だが、吉武は帽子を取り謝罪した。では、謝罪しなかった芝草の態度は不問となるのか?「ルールに則り」では済まない問題だと思う。自らの招いた汚名と、事なかれ主義から脱却するチャンスと捉えて欲しいものだ。野球に夢を抱くファンに対して…。
思えば、小久保の怪我に始まり、連勝中の球団売却騒動、そして、審判の相次ぐ微妙な判定と、今年は予期せぬ試練が福岡ダイエーホークスに襲い掛かっている。考えようによっては、だから優勝できなかったという試練ばかりといえるだろう。だが、そんな厳しい試練を乗り越えたなら、自分たちだけでなく、応援した人々にどれほどの力を与えることだろう。紛れもなくそれは、日本一不遇なシーズンだったチームにしか出来ない奇跡と感動だ。その瞬間に向けて、前向きに戦ってもらいたい。失うものは何もないのだ。そして、その戦いの中で見せるフェアプレーにこそ、球界の未来はあるのだ。
それにしても、これほどの逆転負けを見ながら、涙するほど感動したゲームはなかった。私の中で奇跡は、もう始まっているのかもしれない。
追 記
しばらく風邪による体調不良のため、コラムを休載してしまいました。心からお詫びします。今後も諸事情により遅れる可能性があるかもしれませんが、ご理解の程、よろしくお願いします。また頑張ります。
コラム担当 月刊!ホークス ディレクター 村中一郎
[KBC ホークスコラムより 2003年6月8日]