和船伝承13代目−船番匠 伊勢

毎日新聞2003/05/27 「詩と絵でつづる天職一芸」



     需要減 最後の"舵取り"

 「家の先祖は、海賊船造っとったんやさ。孫爺さんからよう聞きよったでな。」三重県伊勢市、兵作ひょうさく屋こと出口造船所・13代目の出口元夫さん(78)は、潮焼けした赤ら顔で笑った。

 創業は、1685(貞享2)年に62歳で没した始祖「兵作」が、船造りを始めた1650年代ごろ。

 元夫さんは、1924(大正13)年に生まれ、東京工学院造船科に学んだ。44(昭和19)年12月、伊勢に戻ると招集令状が届いた。出征祝いの宴の最中、空襲警報が鳴り響き、電灯を笠で覆い酒宴は続いた。「明日の朝早うに出たらええ。一日でも家で寝て行け」。父は元夫さんとの別れを惜しんだ。

 1年半後の復員を、誰よりも待ち続けた祖父は言った。「お前の顔見たで、何時逝ってもええわ」。3カ月後、その言葉通り安らかに息を引き取った。戦時中、多くの漁船は徴用に取られ、人々は空腹を満たす漁の再開を求めた。兵作屋は漁船の建造に沸き、棟梁の下、和船造りの厳しい修業が始まった。元夫さんは材を求め、自転車を4時間も走らせ、宮川上流へと通っては、山を学び木を学んだ。

 「細かい年輪の赤みがった朝熊杉は、曲げても折れやんでな。強風に晒される所の木は『揉め』いうてな、中が痛んどるんやさ。それを知らんとつこたると、あかが出る(浸水する)んやさ」。樹齢150年、太さ20aほどの丸太を宮川に落とし、筏を組んで勢田川河口の船蔵へと運び、木挽きで引き上げる。棟梁が夜に10分の1の大きさの設計図を描き、それを頼りに船大工たちは鋸を引いた。戦後の狂乱物価は、1隻25万円の漁船を、わずか1年足らずで160万円に跳ね上げた。「契約した時の金額は、材木代で終いやさ」。漁船需要が一段落した50(昭和25)年からは、最後の和船時代を築いた団平船と呼ばれる伊勢特有の運搬船造りが始まった。しかしそれも昭和40年に入ると、需要が激減し本格的な洋型船時代が到来した。

 「和船の伝統を残したいと、博物館の展示用に造らんか言う話もあるけど、船を陸に揚げてなとする。金捨てるだけやで。船は海原駆けてこそ船やでな」。伊勢和船、最後の船番匠は350年前と、何一つ変わらず潮を打ち寄せる、伊勢の海廉を見つめた。

 (文と詩・岡田稔、絵・茶畑和也)



 勢田川口の 船溜(だ)まり

 村の童(わらべ)が 声上げて

 船蔵目掛け 掛け出した

 今日は直会(なおらい)、船卸(ふなおろし)



 船大将の 掛け声で

 水主(かこ)が船手に 御神酒撒(ま)き

 伊勢の港に 漕ぎ出せば

 朝日も映える 船標(ふなじるし)


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